カテゴリー:9.その他

魯山人

9月28日
魯山人
天才といわれる芸術家、美食家、料理人、篆刻家、そして陶芸家でもある魯山人と長浜との関係は、大正2年に居住を始めたことにより濃密になった。紙問屋河路豊吉がその篆刻に惚れ込んだのを機に、長浜の豪商たちが次々に作品を所望した。北大路魯山人はその時30才。福田大観と名乗って篆刻作品を創作した。豊臣秀吉時代に長浜の町衆の中から「十人衆」を選ばせて自治をまかせた。江戸期に入っても「三年寄」が中心となり、まちの自治発展に寄与したがその一家、安藤家の安藤輿惣次郎が明治38年に建てた安藤家の家屋が残っている。その離れが小蘭亭と名付けられた魯山人の作品である。蘭亭は王義之が「蘭亭曲水の序」を書いたという「蘭亭」にあやかったもので、魯山人の中国趣味の極地である。小蘭亭の前庭として作られた「古翠園」は池泉回遊式の庭で、布施宇吉(槇宇)の作。10年をかけたという。「古翠」は「湖水」に通じるという。この安藤家が公開されており、「まちづくり長浜」の事務所を兼ねている。一族の方々が県内にて今でも活躍されている。横2.7mの一枚板に「呉服」と彫られた見事な力強い作品が展示されている。庭に向かって坐っていると魯山人がやあと言って出てくるような気がする。そんな雰囲気を感じさせる。長浜は味のある町である。豪商たちの旧家には魯山人の作品がまだ数多く眠っているのだ。

鉄道発祥の地

9月18日
鉄道発祥の地
明治2年明治天皇の御前会議で国有鉄道建設が決議され、選ばれたのは東京(新橋)―横浜間、京都―神戸間、そして長浜−敦賀間。長浜は大津−長浜間のびわ湖上の鉄道連絡船の駅としての役目も付与されていた。その為長浜港の目の前に駅が作られたのである。着工は難工事が予想されたこともあり、1880年(明治13)と一番遅くなり2年の歳月をかけて完成。最近の新幹線工事と比較するとその決断の速さと共に工事のスピードの早さにも驚かされる。最初の長浜駅舎は20年間に亘り使われていたが現存する日本最古の駅舎として「鉄道記念館」に指定。イギリス人技師ホルサムの設計による。鹿鳴館の意匠があちこちに施されている。また長浜−関ヶ原間は1882年6月着工翌年5月に開通。長浜はまさに交通の要衝であった。汽船は1882年5月に就航。500総トン350人乗り14ノットの高速船で社名は太湖滊船会社といった。私の同級生の家がすぐ前にあり、彼の父親が船長だったのでよく遊びに行った。行先は竹生島、湖西の今津、湖南の大津であった。大津まで1時間半の猛スピードで運んでくれる。今では琵琶湖汽船として経営中。ミシガン丸が有名。長浜は国鉄の路線発祥の地の一つ。先進地域であった。

北海道

7月22日
北海道
私の会社の札幌支店と数年前にM&Aで引き受けた子会社を合併させて一年が過ぎた。北海道は可能性が国内ではダントツの地域である。まず土地が広い。四国の4倍、九州の倍に近い。そして人口密度は全国で最少。1k屬70人しか住んでいない。世界で同じ規模のよく似た国を探すとアイルランドが面積、人口密度ともよく似ている。北海道の方が少しずつ大きく、多い。観光資源の豊かさ、雄大な自然のすばらしさは群を抜いている。未開拓の土地は広大。主産業は農業であるが、一人当たりの県民所得は全国中位と、東北や四国九州、離島よりもずっと多い。農業は全国平均よりもはるかに大規模で、日本農業の未来の姿を示してくれているのかも知れない。観光客は世界中から来ているが、その規模はまだまだ小さく、逆に可能性はとてつもなく大きい。私は北海道を第二の創業というほどに力を入れていくつもりで、若手の役員を社長として送り込んだ。楽しみにしている。

対応力

6月24日
対応力
どんな困難に直面しても解決方法は必ずあるものだ。それを必死に探す努力を放棄しなければ道は自ら開ける。何度ももう駄目だと思った瞬間があった。特に若い頃は多かった。そんな時、頼ったのは何だったのか思い返してみる。「天」であったり、「神」「仏」そして「家族」「友人」などが思い浮かぶ。日常の努力の積み重ねも重要なファクターだ。そして思い至るのが「自信」である。他力本願、自立本願と宗教家は自説を曲げないが、私達凡人にはどちらも大切である。あらゆるものに助けられ、支えられている人生の貴さを思い、自分に出来ることを続けていきたい。

墨染桜

6月2日
墨染桜
久しぶりに京都の観世会館の第19回片山九郎右衛門後援会能を楽しんだ。早いもので幽雪氏一周忌追善能である。いつも席は「は列38番」に座る。この席から幽雪先生の能を楽しませていただいた年月を憶う。面を透して師の眼光を身近に感じた日々をなつかしんでいたが、今日の墨染桜は馴染みのない演目だ。調べてみると今回で僅かに3度目の上演。九郎右衛門の演技は故幽雪の若い頃を思わせるものが出てきてたのもしい限り。復曲能を見事に演じ終え、芸域に広がりを感ずる。また観世銕之丞による善界白頭も囃子方との裂帛の気合いのやりとりが誠に絶妙。楽しい。これまた観る機会の少ない演目であり、今日は楽しい一日となった。外は折からの雨、近くのティーハウスでしばしダージリンティと甘いケーキをいただき余韻を味わった。

高野マキ

5月25日
高野マキ
早朝より風が強い。先日ブータン王国より京都ブータン交流協会が預託された国樹イトスギを高野山奥の院に植樹されるにつき、植樹祭にお招きをいただき出席した。無事植樹を終え、帰福の折り、折角植樹をさせていただいた記念に高野山の高野マキを2本購入した。マンションのベランダに植えて毎日眺めている。今日は強風にゆすぶられているので心配になり、覗き込んでみた。既に若芽があちこち顔を覗かせており安心した。隣のライラックの鉢は満開で薄紫の花を咲かせている。常緑の高野マキは繁栄のしるし、ライラックの薄紫は幸福の印であろうか。小さな庭にも小さな幸せがある。今夜は家族11人が全員集まる夕食会。高野マキの苗木を眺めながら一家団欒を楽しみたい。

収蔵品

5月22日
収蔵品
第6次のブータン訪問の時を迎えて新しく追加する収蔵品を検討している。仏事に舞う踊手が付ける仮面数点とテーブルの制作を依頼しているがいまだに完成していない。あとは漆器と竹製品の追加そしてシルク布地の新しい柄の作品を捜すつもりだ。先日ブータンの有名な画家(故人)の作品を預託したいと相談があった。素晴らしい作品で早速検討しお引き受けすることとした。年々収蔵品が増えていくので収納庫も増やしている。小学生から老人、そして素人から研究者の方々にも満足してもらえるように日々努力し研鑽を積んでいる。

京都より

5月18日
京都より
今日もまた遠来の友が訪ねてきた。糸杉の植樹の打合せである。ブータンから糸杉の苗木が日本各地のブータンゆかりの地、そして災難に苦しむ人への慰問、慰霊のためにブータン国王から送られてきた。既に京都、二条城、高野山奥の院、兵庫県、そして福井県へと植樹はつづいている。次は福島県をはじめ東北地方、熊本県大分県へと続くことと思われる。ブータンの人々の祈りが日本各地の人々を元気づけることを信じたい。

朗読

5月14日
朗読
音楽は人の心を解き放つ。原始の昔から人が人となる根源を形作ってきたものである。そして言葉が生まれ、文字が出来てきた。今、私は「朗読」や「声明」、或いは「御詠歌」に興味を抱いている。目から入る読書でなく、耳から入る朗読は音楽的な要素をも兼ね備えて私の心の琴線に響く。読書とは二味も三味も違う感動を呼び起こしてくれる。大学のOB会で下条英子さんの「朗読はこんなに楽しい」を聞いた。人前で話す機会が多いにかかわらず、その話し方に十分の工夫が不足していたのを気付かされた。少し声に出して本を読み、「朗読」の訓練を始めてみようかと考えている、そういえば祖父は毎朝、新聞を声に出して読んでいた。米寿まで元気に生きた姿がダブってくる。

触覚

5月8日
触覚
五感、六感というが一番最初に発達するのは触覚だとのこと。先日耳が聞こえない音楽家の演奏を聞いた。目と目で合図し、合奏するので驚いた。尋ねてみると音楽とは聴覚だけでなく、全身で聞くもので触覚の芸術なのだと教えられた。味覚も味蕾で感じる触覚となり、香りも鼻の粘膜で微分子を感ずる触覚だという。母の体内にいる間も触覚は最も早く発達するので、触覚が人間にとっては非常に重要なものだという。私は木のぬくもりを愛しているが、机の木肌や椅子の肘掛をなでると気持ちが落ち着く。香も好きでハーブを家族みんなで栽培しハーブ料理に舌鼓を打ったこともある。女性が着物を着て袂に香袋を入れているとその人柄がしのばれる。聞香も触覚のうちとは驚いたが人間の根っこのところで感じているのかもしれない。

三惚れ

5月6日
三惚れ
私の座右の銘の一つがこの「三惚れ」である。人生で最も身近で、わかり易く真理をついている言葉だと思う。まず第一は、「仕事に惚れよ」である。男は仕事が好きでなければダメ。男女同権の現代では女も一緒である。次が「土地に惚れよ」である。地域といってもよい。自分のまちといってもよい。とに角、今住んでいる所に惚れなければ人生はつまらなくなってしまう。そして最後は、「女房に惚れよ」である。結婚して年が経過するとついつい若い頃のことを忘れてしまって女房をないがしろにする傾向がある。人生の伴侶は唯一人、女房である。女房に惚れずしてなんの人生かというべきである。女性にとっては「女房のところが夫」にかわる。「夫に惚れよ」である。偕老同穴が素晴らしい人生を送る秘訣である。

ブータン文化と樹木

5月4日
ブータン文化と樹木
ブータン王国の国土を覆う緑はマツ、ヒノキ、モミ、カシ、クルミ、カバなどが密生している太古の森である。ブータン人は緑の森と共生し森の恵みを享受している。儀式やしきたりにも木が使われるケースが多い。例えば賓客を迎えるときは松葉を敷き詰めその周りに松の若木を立てる。子どもが生まれたときも門松のように玄関先に若木を立てる。家の敷地の入り口近くサンタブと呼ぶ屋外香炉で燃やすのも松葉やヒノキの葉。牛や豚舎の敷ワラにも枯松葉等を使う。また大きな松笠はかまどやストーブの火付けにもってこいだ。とても便利で火付きも火持ちもよい。火葬の薪にもこだわりがある。ビャクダン(サンダルウッド)やヒノキ(ジェニバー)を使う。経文の版木にも松が使われ、経文旗ダルシンの支柱も皮をむいた松を使う。そして古い旗を燃やすのも香りのよい松の葉を使う。ブータン国王から京都ブータン交流協会を通して「糸スギ」の苗が送られてきた。「糸スギ」は国樹で「ツェンデン」という。成長すると幹まわり約2〜3m高さ30mにもなる巨木。福井県あわら青年の家の北方湖畔の小高い丘の上で植樹祭を行った。清浄の気が周りを満たすように、そして日本とブータンの交流が今まで以上にすすむことを祈った。幸福を求める両国民の祈りの証である、多くの若者が将来この巨木の下で世界平和実現をめざして集うことを夢見ている。

地価の下げ止まり

4月20日
地価の下げ止まり
北陸新幹線の影響もあり、金沢、富山の地価は反転し、上昇機運が高まっている。観光客数は金沢では2〜3倍、福井では2〜3割増となった。福井駅前の大手ビルの基準地価が13年ぶりに上昇となった。福井県下では最初の快事であった。私の会社の所有ビルだけになお印象が強い。長年に亘る地価の下落は地方都市の駅前商店街の活力を奪ってきたが、いよいよ底を打つ時が来たようだ。どん底からの復活を期待したい。大学連携センター「Fスクエア」がいよいよオープンする。郊外に散在している各大学が「Fスクエア」で一つになり駅前に若者達が帰ってくる。そしてさらに目前に迫ったハピリンのオープンが新しい風をもたらしてくれるであろう。

沖縄の風

4月17日
沖縄の風
石垣島へ移住した越田さんご夫妻から小包が届いた。包装紙の地は黄色、そして守礼門、シーサー、蝶、パイナップル、ハイビスカス、沖縄本島等が赤、緑、黒色でデザインされている。一目見ただけで沖縄からの風を感じる。中には西表島、波照間島への日帰り旅行のスナップをはじめ数々の思い出の詰まったCDが同封され、琉球ガラスのコップ2ヶが入っている。ミンサー柄でこれまた沖縄そのもののプレゼント。春先の彼岸すぎの私達に暖かい南の風が吹いてきた。そして最後に、地方創生のすばらしいアイデアの詰まった文章、また子や孫への切々たる思いのたけを聞いた。矢もたてもたまらず石垣島へ電話し、お二人の元気な声を聞き、安心した。日本橋の三越百貨店の本部長時代から二十年あまりのお付き合いで私達の会社の役員もお勤めいただいた有縁の友である。

フクビ化学工業

4月16日
フクビ化学工業
福井の産業界を代表する名門企業である。建設資材と車関係の合成樹脂製品の製造加工の大手である。親会社の八木熊は創業120年の老舗で、福井県の繊維産業を底辺から支えた優良会社。社長の八木誠一郎氏は現在福井経済同友会の代表幹事を務めており、一夕、「フクビ化学工業」の沿革や今後の未来像につき話を聞いた。真新しいところでは、長年培ってきた「エアサイクルシステムの実験棟」を本社工場内に建てるとのこと。私は単なるショールーム的なものよりも「まちなか」に作って多くの人に実感してもらえる施設にしたらと提案。「環境を科学する会社」「黒字の中で、先行投資型、未来創造開発型の赤字を育てる会社」「設計までは自分でやるがブランド開発、ソフト開発などは他社と組んでやる」「コアの異形押出技術は負けない」「環境との共生をはかる」などのユニークな経営方針を聞かせていただいた。日本の住宅は住宅メーカー主導で、世界一省エネ効果のよくないもの、耐用年数20年の短命なものになってしまっている。私はプレハブ住宅の数種類にしばらく住んでみて感じたのは、外国産のものに比較すると省エネ効果を高める必要があることだ。その点「エアサイクルシステム」は大いに期待が持てる。また断熱材との共用により世界トップレベルの新しい住宅が誕生することを期待したい。一部上場へ向けて前進し、福井県を代表するだけでなく、日本の超一流企業への発展を祈りたい。

ベストセラー

4月13日
ベストセラー
本屋大賞が人気だ。芥川賞や直木賞は長い歴史を持っているが、この本屋大賞の人気はそれ以上かもしれない。日本人の感性が如実にあらわれている。そこで、ブータンミュージアムで昨年売れた本を調査し、ベストセラーを選定した。
次の通り
1.今枝由郎著  ダンマパダ<ブッダの真理の言葉> (トランスビュー)
2.木村順子著  幸せの国ブータン 智恵と言葉(朝日出版社)
3.ペマ・ギャルポ著  ワンチュク国王から教わったこと (PHP研究所)
4.今枝由郎著  スッタニパータ<ブッダの知恵と言葉> (トランスビュー)
5.高橋 洋著  ブータン雲の国の子供たち (大東出版社)
6.今枝由郎著  ブータン−変貌するヒマラヤの仏教王国− (大東出版社)

ベストシックスの中に今枝由郎先生の本が3冊も入っている。ブータンミュージアムへ何度も来られて、講演会や座談会を開いていただいたおかげであろうか。また、ブータンミュージアム通信への寄稿もお願いしている。人の縁が深まるにつけ、より密接な関係が構築され、お互いが認め合うのである。先生は相変わらず日本とブータン王国を行き来しながら両国のためにご尽力いただいている。まさに貴重な存在である。私達にとっても先生以上の存在はない。

日本きもの学会

4月6日
日本きもの学会
京都で日本きもの学会が開催され出席した。「正倉院御物についての考察。染織文様の世界性」「健康によい着物と日本人女性の体格変化」「和服改良」「第21次西陣機業調査」などの発表があった。参加者は男女とも着物姿が多く、和装崇拝者の私には素晴らしい雰囲気であった。近くの京都産業会館では桜井よし子氏の講演会が開かれており、こちらの方も着物姿がチラホラ、京都市長も例のごとく着物姿である。学会は3時間を要し、各発表者とも長年の研究成果をデータに基づいて分析されており感心した。昭和30年(1955)にはじまった「西陣機業」に関する分析の結果は象徴的で、就業人員、企業数、織機台数とも毎年確実に減少しつづけている。そして今や最盛期の12%以下に落ち込んでいる。西陣の伝統を受け継ぐ若手が入ってこなければならないが、難しい。特に図案、衣装紋紙の分野が深刻だ。日本の着物の復活に力を注ぎたい。何をすればよいかを長浜のみなさんと相談したい。

足羽山茶屋

4月3日
足羽山茶屋
桜の開花を前にして足羽山の茶屋を久し振りに訪れた。しつらえが花見の席に模様替えされている。開花と同時に花見客が押し寄せることであろう。足羽山、足羽川は福井市の宝物である。市の中心部に位置し、市民の憩いの場を提供してくれている。足羽山周辺には有名なお寺や神社も多く、博物館美術館も多い。JR福井からの観光コースをつくると人気は更に高まると思う。茶屋も年々充実して「おろしそば」も「でんがく」も健在である。私の楽しみは月に何回か足羽山で昼食をとることと、月一回は足羽山で一献傾けることである。特に春はよい。

認定NPO

3月30日
認定NPO
NPO設立構想から4年、設立後3年半、認定NPOの資格を取ろうと決めてから2年。3月18日に県から仮認定の通知をもらった。認定、仮認定を受けたのは県内NPO248のうち4しかない。その後設立後3年半の私たちのNPO「幸福の国」が認定を受けた。誠にお目出度い。これもBMを支持してくれている県民の皆さんのおかげである。心からありがとうと申し上げたい。また役員の諸君にも感謝している。思えば3年半前に声をかけて集まってくれたのは東京大学博士の奥村先生をはじめ現役の福大教授月原先生、そして栗原、阿部、松田、安田さんのそうそうたる人物たちである。みんなの衆知を集め、数々の文献をひもとき今では幸福学についての研究、ブータンのGNH研究そしてブータン王国との交流拠点として、日本でも指折りの施設に育ちつつある。またJICAとの密接なコラボを通してアジアへの窓口としての活用をはかっていきたい。

ブータン人

3月23日
ブータン人
ブータン王国の人々と親しくお付き合いをはじめて、早や3年余りが経過した。日本人とそっくりの人々である。私の幼少時代の日本にとてもよく似ている。昭和のはじめは、殆どの日本人は着物を着ていた。ブータン人は、男はゴ、女はキラという独特の着物を着ている。面白いのは、ゴは北方民族系の着物と分類され、キラは南方系のものといわれる。ブータンがチベット文化圏の一部であったことの名残がゴになり、インド更に南アジア全域に広がるサリー風の女性衣裳がキラにつながったのであろうか。ブータンは伝統文化の保全に特別に力を入れている。すぐ目につくのが着物とそして建物だ。ブータンのものと一目でわかる。日本の着物も独特であるが、常用する風習がなくなり、着物姿を見る機会が減ってしまった。ブータン人の誇り高いのはその明確なアイデンティティのおかげであろうか。3月20日の世界ハッピーデーにはブータンミュージアムのスタッフが「キラを着ようか」と話し合っている。ブータン理解の一助になればと思っている。

地酒応援

3月17日
地酒応援
福井の地酒のおいしさに気付いたのは、生まれて初めて福井を訪れた頃、昭和34年(1959年)である。大学を卒業して、福井に本社がある商社に就職し、大阪支店勤務を命ぜられた。ところが数か月経過し、社長が急逝され、東京と大阪とに配属された新入社員は本社へ勤務となった。私の生まれた長浜、学生時代を過ごした京都そしてしばらく務めた大阪とは全く違ったタイプのまち、それが福井であった。駅前通りには大手商社の支店が建ち並び、その裏通りやデパートの裏にはバー、クラブそして居酒屋が活況を呈していた。指折り数えてみると、それ以来、57年になる。その素晴らしい地酒が消えようとしていると噂されたのがほぼ10年前。調べてみると年々消費量が減少し、酒蔵の廃業が続いていた。一念発起、熟慮の後、応援団をつくった。それを「5百万石大名会」と名付けた。年4回福井の有名な酒蔵の蔵元を招いて、自慢の地酒を持参していただく。その場所は美味しい日本料理の有名店で行う。今回の例会で20回目になる。最近日本酒が人気となり、再び元気を取り戻しつつある。日本の食文化を支える「地酒」が世界遺産の指定を受けた日本食と並んで脚光を浴びているのを見ると、10年前とは隔世の感がある。地産地消運動の盛り上がりの中で、福井の皆さんから地酒礼賛の声が出るのは誠に有難い。今回は今庄宿の白駒酒蔵の女将京藤さんとその孫(23代目予定者)が、出席していただいた。元禄時代から続く、福井県下指折りの老舗である。料亭は足羽山公園中腹の「離世」。前菜からデザートまで、10品に及ぶ日本料理の粋を楽しむことが出来た。

名物市長来福

3月16日
名物市長来福
群馬県太田市の名物市長清水聖義さんを迎えた。全国市長会の副議長を務められた方で、福井市の東村新一市長も同じく副議長を務められたが新田義貞公をまつる藤島神社とのご縁、新劇俳優の宇野重吉氏を通してのご縁もあり福井市へは何度も来られている。清水市長の特徴は自分で言われている通り、「反対派」である。但し「正義の味方」の意味である。そして4つの特別学校を新設されている。文科省にとっては一番手強い相手といえよう。養護学校、芸術学校、スポーツ学校そして「群馬国際アカデミー」という名のインターナショナルスクール(バカロレア校)である。この学校は生徒数1,000人、教師日本人50人、外国人50人の規模の私立の学校法人である。市長と2人の3年生、教育委員会の先生、秘書の5人を迎え、福井市側は設立予定のエンカレッジ代表とその設立メンバーそして高志高校の1年生男女、北陸高校の1年生男女とのディスカッションを開催したのである。日本の高等教育特に自ら考える能力、意見をまとめて発表する能力それも英語(国際語)を縦横に使ってディベートできる能力の欠如を憂いている私にとって今日の討論会は非常に参考になった。清水市長の言によれば、ぐんま国際アカデミーを設立し、将来これを全国に次々と開校していきたいとの夢を持っていたという。私は福井にインターナショナルスクールを作りたいという若者達に賛同し、支援を続けているが、清水市長にこの福井の地で二番目の国際アカデミー設立に同意してくれるように依頼した。三番目以降は両者相協力し次々とその勢いを増していきたいと願っている。日本は4月が新学期、外国は9月が多いが、福井のエンカレッジはいよいよ4月オープンの予定。私立の学校法人になれるのはいつのことか。講演会の収録はいつもの通り、genjapan(インターナショナルネットバイリンガル放送)により、数日中にオンされる。また4月開講後もネットでの聴講も無料でスタートする予定。200年後の世界のトップクラスのスーパースクールめざして発進した。南米、韓国、スウェーデンそして日本人の教師陣を揃えて発進。ぐんまではブータン人の教師もいるという。私達も今年中に数人のブータンの先生を雇用したいと考えている。

地酒 梵ゴールド

3月12日
地酒 梵ゴールド
冷した福井の地酒が冬でもおいしい。大ぶりのワイングラスに注いで見る。黄金色に輝く「梵ゴールド」純米大吟醸だ。フルーティでほんの少し辛口。私の愛用酒の一つ。ワイングラスの中のゴールドは、その名の通り神秘的な色調を漂わせている。薄いグラスのふちに唇をつけると上品な吟醸香が漂う。和食の世界遺産への登録を契機に日本酒が見直されるようになった。福井県の地酒のすばらしさに気付いていた私は10年前から福井県の地酒の酒蔵をまわり、もっと県外、国外にアピールしようと声かけをはじめた。37蔵の蔵元を一軒ずつまわり直談判を始めた。そして5年前に福井駅前に「九頭龍・地酒百蔵」という小売店舗(試飲あり)を出店。ビールも焼酎も売らない酒屋。県外の日本酒も一切売らない酒屋。福井県の地酒だけを売る酒屋をオープンした。未だに月販100万円がピークで1000万円の年商の弱小店舗であるが士気は高い。日本酒文化の隆盛と酒蔵の皆さん(百年企業以上の老舗ぞろい)の次世代への伝統の継承のお手伝いができて幸せである。今夜もまた大ぶりのワイングラスに梵ゴールドを注ぎ一夕を楽しみたい。

リベラルアーツ

2月24日
リベラルアーツ
西洋では「リベラルアーツ」というと人格を陶冶する学問のことである。日本語でいうと「人文」であろうか。専門分野のことよりも一般教養的な道徳・倫理を示す言葉である。この「リベラルアーツビル」を、今回私塾を開きたいという若者達に貸すことにした。本当は福井県下にある五大学をはじめ短大、高専などの「大学連携(コンソーシアム)」に貸したいと考えていたが、条件の折り合いがつかず、残念ながら次善の策で新しい私塾「ボヌムエデュケーション及びエンカレッジ」に貸すことにした。3月12日に群馬県太田市から太田市長の清水聖義氏(太田国際学園 理事長)と学生達が来福し、講演会と討論会を開く予定。更に開講式は3月25日に開催する予定。目下生徒募集中で幼児向け、小中高生向き、一般高齢者向きとあり、英語、中国語、日本語での講義を予定しているという。今後道徳・倫理を共に学習し、日本での儒教や四書五経の教育に精力的に取り入れていくことになるであろう。思えば時宜を得た試みといえよう。

付加価値の最大化

2月21日
付加価値の最大化
59歳で創業して初めに設定した目標は、「付加価値の最大化」である。勿論企業であるから「事業の存続」が何よりではあるが、社会的に存在価値を認められるかどうかは社会に有益か否かで決まる。その為に自らが生み出す付加価値を最大化することを目標とした。苦節20年近くになるが、グループ全体を併せても、年間20億円に未だ到達せず、力不足を嘆ずるばかりである。
ボランティア活動に注力をしているが、ここでの「付加価値」としての指標をどこに求めるかが判然としない。経済活動と異なってその効果の量をどこで測定するかが問題である。ボランティア活動をGDPで測定することは難しいのである。日々の業務はお客様との明るい会話に始まり、啓蒙活動、地域や外国との交渉など経済効果が殆どない事に全精力を注ぎこんでいる。先日もブータン王国からセラビィツェ大学の学長ら3名と放送大学の河合明宣教授を迎えて、3日間に及ぶ福井県内での対応を行ったが、その効果を「付加価値」に換算することは難しい。ただ4名の友人達は心から福井での滞在を喜び、再会を約して別れた。東京での放送大学主催の講演会にも、私達の「ブータンミュージアム イン 福井」が共催者として加わることが出来た。これ等の多くの成果は私のすすめる「付加価値の最大化」をめざす経営、生き方にどのように評価すればよいのか考えさせられる今日この頃である。

藩校

2月17日
藩校
江戸時代をふり返り、称賛する声と鎖国状態を反省する声がある。秀吉時代を含めて300年に亘り国内の戦乱がおきなかったのはやはり珍しい。同時に寺子屋や藩校による教育が全国に広がり、日本全体の道徳心の涵養、知力の向上に貢献した。寺子屋は識字率を向上させ、藩校は儒学を中心として全国に普及し、今日までの日本人の精神構造に多大の影響を与えた。しかるに戦後日本の道徳教育の不在は社会の混乱を招く遠因を作ってしまった。正規の学校教育に求めたいのは山々であるが、かつての藩校を復活させたら手っ取り早い。そこで藩校明道館の復活を目論む若者を見つけた。孔子を中心に儒教を教えたいという。日本語でなく中国語でやりたいというのである。正に新しい福井藩の明道館の復活である。私は日本人の英語のディベート力の向上と日本語の世界への普及を目論んで、genjapanというネット放送局を開局し、福井県の観光を手はじめに世界へ発信をはじめている。それにプラスして、インターナショナルスクール(英語による教育)と、中国語による道徳教育を併せもったスーパースクールに進化させたいと考えた。幸いJR福井駅前は今後5年間で大きく変わることが考えられる。その折に、150年以上眠っていた藩校明道館を蘇らせる手助けをすることとした。Education’s firstというノーベル平和賞を受賞した少女、マララユスフザイさんの力強い声は今もなお私の心をとらえてはなさない。教育県日本一の福井から藩校復活を日本中、世界中に呼びかけていきたい。

国王に男子第一子誕生

2月13日
国王に男子第一子誕生
永平寺へブータンのセラビィツェ大学学長達を案内した時、永平寺の副監院(奈良、三輪の平等寺住職)丸子孝法さんから第5代国王に男子誕生おめでとうございますとの歓迎の言葉。生まれる予定とは聞いていたが、東京から福井への移動や応接に忙しく、吉報は永平寺から私達に知らされた。一同大感激。通常では入れない所へも導き入れていただき、3人のブータン人は五体投地風のブータン式礼拝を行い、丁重にお参りして互いにそれぞれの信仰の深さに感動を覚えた一日となった。
そしてその夜、会員制の晩さん会に禅僧3名も参加下さった。丸子孝法さんは仏教界ではとても有名な方で、薬師寺の前管長故高田好胤さんとも親しかったとのことで、思い出話に花が咲いた。好胤さんの百万巻写経の全国行脚は有名だったが、丸子孝法さんは奈良県を中心に近畿一円を托鉢され、奉加帳だけで 堂宇の再建を果たされたと聞いた。現代稀な禅の老師である。
ブータンでの誕生祝の式典は世界を駆け廻り、早速4代国王の膝に抱かれた王子を挟んで5代国王とその王妃の仲睦ましい写真がネット上にアップされ、ブータンミュージアムにも掲示させていただいている。4代国王のお喜びはいかばかりかと拝察し、また今年五月のブータン訪問団(第6次)のことを思っている。

福井は初の積雪

1月27日
福井は初の積雪
積雪の記録をとり出したのは、1961年からとのこと。その間55年の間、今年のような雪のない日が長く続いた年はない。約55年間というより100年200年を溯ってもこんなに雪の少ない年はないのかもしれない。史上初の珍事。そんな気がする。最近の異常気象の多さに気付く人も多いが、史上初の遅い雪はもっと注意すべきことだ。異常な地球からの信号としか思えない。一日も早く省エネ生活を始めようではないか。そして、全知全能をあげて新エネルギー研究に邁進する必要がある。

芋平

1月20日
芋平
長浜の町の中心部に芋を加工した六方焼の店がある。よく流行っている。2号店ができたがここも人気店である。芋は庶民の珍味である。焼き芋屋が京都の住宅街を流してくると学生や主婦が呼びとめていた。寒い時のホカホカの芋はまた格別だ。この芋は食物繊維が多く、特に便秘に悩む女性に人気がある。子供の頃、落ち葉を燃やした焚火の中へ薩摩芋を放り込んで、焼ける匂いを確かめつつ取り出しふうふういいながら食べたのを思い出す。品種によって栗のような高級感のあるもの、少しねばり気のあるもの、表皮の色の濃淡、特にそれが紅いものなどいろいろだ。この薩摩芋が目によい。ブルーベリーと同等以上の効果があり、アントシアニンの含有量が多いという。大野にこの芋平の六方焼を更に珍味として磨き上げ売っている老舗がある。ここも毎日午前中に売り切れてしまう繁盛店であるが、福井駅前に出店をぜひお願いしたい大野の超一流の銘菓店である。

豊田三郎画伯

12月20日
豊田三郎画伯
画伯の訃報を聞いた。107歳の大往生。先生が100歳の時から親しくお付き合いをし、何度も長い時間お話を伺った。いつもエネルギッシュな話し方で、120歳までは大丈夫と思える程にお元気であった。ただ、先般お会いした時、初めて弱気な発言を聞き心配していたが、その勘が当たってしまった。「この年になると身体の前で重いものを抱いているようで辛い。」と別れ際に言われたのだ。その言葉を何度も思い出しながら心配していたが、それが最後の言葉となった。しかし、私の脳裏には、「107歳の現役洋画家」の雄姿がある。そしてインターネット放送局genjapanには24時間、365日その雄姿を見ることが出来るのだ。

由利公正

12月16日
由利公正
NHK大河ドラマに決定するとそれに関係する土地には大きな観光客増のメリットがある。そこで全国からのラブコールがおきてくる。福井県は由利公正を押すとのことである。明治維新を陰から支えた男、福井藩を救い、明治新政府を救い、東京府を救った男、由利公正は財政家である。財務省や日銀を味方につけてアピールをつづければ決定に至る可能性が高い。それと味方を増やす意味で、幕末四賢候の愛媛県、高知県、鹿児島県や春嶽公や横井小楠につながる熊本県、東京都も仲間に引き入れたいものだ。「敵をつくるな、味方をふやせ」の作戦で是非確定してほしいと願っている。

幼少の頃

12月12日
幼少の頃
生まれ育った街を歩くのは、まことに懐かしい。瞬時に幼い頃にタイムスリップが出来てしまう。長浜の町はあまり変わっていない。特に八幡宮の森や小川、そして露地ウラを歩くとその感が強い。住宅地図を開くと幼少の頃の自分の世界があまりに小さく、狭いのに驚く。そしてその小さく狭い地域の中で育った数多くの友の顔が浮かんでくる。既に鬼籍に入った友もあるが、記憶の中では今もともに生きつづけている。そんな故郷であるが昔日の面影を追い求めつつ、今地域おこしに一役買うことになりそうだ。月に数回出かけている。長浜でも福井と同じように地方創生のお手伝いをさせていただいている。

アメリカの比較文化

12月9日
アメリカの比較文化
アメリカに社費で短期留学をさせていただいたときに、何を学んで帰ろうかと考えた。そして美術館博物館図書館を歴訪し、日本とアメリカでは文化の質の差が大きいことにすぐ気がついた。歴史を勉強するとよくわかるが、アメリカ文化の特長は「比較すること」に力点を置く。アメリカの歴史の異常さは、かつて新大陸と呼ばれたように、僅か数百年という短いものである。その為、ヨーロッパをはじめ他の国々の比較を行うことにより、学問も文化も独自の発展をしてきたようだ。日本では比較をすることを慎む文化がある。日本文化の特長は「極めること」にあり、「比較すること」とは異質であった。現代の世界の潮流は文化も経済も政治もマスコミも学問ですらアメリカ流の「比較すること」により人は欲求不満に陥る。欲望を際限なく広げてしまう。それが争いを生み泥沼となる。「比較しない」「比較を慎む」と心の平安は保たれるのである。

下呂温泉

12月6日
下呂温泉
久しぶりに下呂へ出かけた。初冬の厳しい寒さを思い厚着をして出発した。水明館の能舞台で「みなもと会50周年記念第100回素謡会」が開かれたからだ。岐阜RCと岐阜JCの観世流の勉強会で、素人同士が教えあう会である。おそらく全国でも唯一無二のものと思われる。発会は50年前、私の28歳の時。その頃会の名前はまだなくて、若いものが相談して3人の先生、杉山先生、三品先生、岡本先生の了承を得て「みなもと会」と命名した。当初は杉山先生の経営する岐阜女子大学の前身の校舎の一室で開かれた。春秋の発表会はホテルパークみなと館で行ったので「みなと」と女面の褌にちなんで「みなもと会」と名付けた。水明館の能舞台、よしのや依緑苑の能舞台と遠方での素謡会も企画した。その後発会10年程で私はミシガン大学へ短期留学し、会を卒業させていただいた。みなもと会も海外遠征が続いたそうであるが、残念ながら私は参加のチャンスはなかった。山岡常男先輩、野村貞彦先輩が今年秋に相次いで逝去されたことを聞き、青春時代の思い出に浸る一夕となった。
岐阜の金華山のふもと稲葉神社に献額を奉納するとの報に接し、その額に私の名前も加えていただく名誉を与えられた。そして今回50周年の会である。演目は番組表外「江口」にはじまり、菊慈童、橋弁慶、吉野天人、小督、土蜘蛛、高砂、班女、邯鄲、景清、猩々と11曲に及んだ。延々5時間以上に亘る大発表会であった。メンバー30名に加えて、私達夫婦ともう一人の元会員、それに岐阜から芸妓3人が参加した。40年ぶりにみんなの素謡を聞いて、そのあまりの上達ぶりに驚いた。岡本先生の「あなたもやりあ」とのお誘いに、「聞くだけで満足です」とお断りをした。ついつい本を見ながら聞いていると拍子をとりたくなる程の熱演であった。今回限りで引退される三品喜嗣先生と40年ぶりにお会い出来たのもうれしかった。
みなもと会の益々の発展と共に、RCとJCの合同による世代を引き継いでゆく集いに心から賛辞を送りたい。

ワイン会

12月2日
ワイン会
久々にワインの会に出席。奥さん方の参加が多くなっていることに驚く。私の家内は痛風でワインも濃厚な料理もダメで欠席。ボジョレーヌーボーの話から入り、クリュ・ボジョレーの十地区の話となる。乾杯はラングドックのジ・ロレンスのクレマンドリムー・グレムス。赤は長熟タイプのムーラン・ナ・ヴァンのヴィエイユ・ヴィーニュの100年以上の樹会のブドウを使用した2008年もの。深みのある味わいである。同じく長期熟成タイプのモルゴンのコートドピイ2012を飲む。手摘みガメイ種100%を木樽発酵とオーク樽で12ヶ月熟成させた逸品。個性的な赤紫色調の赤ワイン。2025年ころまで保存がきくとのことでワインセラーの主となれそうだ。今回はメンバー提供の貴重なワイン、そして地元の白山ワインも提供され、飲み比べて楽しんだ。今夜の会場は私達の本社ビル一階のココット。本社の裏に完成したばかりのグリフィス記念館があり、私達夫婦で植樹した桜の記念樹を仰ぎながら歓談が続いた。toccoのオーナーがソムリエ試験に通り近々中にその披露のワイン会を開くとのこと。誠におめでたい。

ペマ・ギャルポ博士を呼ぶ

11月25日
ペマ・ギャルポ博士を呼ぶ
ダライラマと一緒にチベットからインドへ亡命。その後日本へ留学。ブータン王国のGNH研究の権威。ブータン首相顧問を二代に亘って勤め、ブータン国王や、首相等の来日の折には通訳として同道している。「幸福のかたち」という企画展を開いているブータンミュージアムへ、開館3周年記念行事の講師として招聘した。博士とは旧知の仲で、その著書「ワンチュク国王から教わったこと」を読んで感動した私は、この本を福島県下の全小学校・中学校の図書館へ寄贈させていただいた。来年度もしっかり働いて福井県下の中学校へ寄贈しようと計画している。

カニ解禁

11月20日
カニ解禁
待ちに待ったカニが解禁された。11月6日であり。私はブータンへ行っていたので、帰国早々家内と今年の初のカニ丼を食べに行った。福井の丼は有名で福ドンという名でいろんな丼を紹介し、丼文化を盛り上げようとしているが、今年のカニ丼は美味しい。特に日本料理を渇望している身には酢飯がことさらおいしい。福井のカニはとくに有名で黄色のタグをつけた「越前ガニ」は高価である。一杯のカニで満腹する程身がぎっしりつまっている。地酒とともに味わうとまさに至福の一時が過ごせる。「福井で一夜を」と心からおすすめしたい。

BSジャパンの取材

11月18日
BSジャパンの取材
東京からの来館者があり、熱心に見ているのでスタッフが質問をしたところ、BSジャパンから取材に来たとのこと。早速面談した。来年2月に1時間番組で空撮により、空から福井を見て、そして地上で選ばれた数カ所を取材するとのこと。今迄であれば定番は東尋坊と永平寺であるが、福井の中心部というので養浩館庭園、一乗谷朝倉氏遺跡やブータンミュージアムを選んだとのこと。光栄であり、熱心に説明をした。福井を全国へ紹介してもらえる絶好の機会だと力が入った。福井にはすばらしい宝がありすぎて絞りきれずに損をしているが、私達は自信を持って「福井は日本のブータン」を主張しつづけたい。

英語と日本語

11月11日
英語と日本語
日本人の英会話能力を高めたい。特にディベートという討論する能力を高めたいと思った。また日本語を世界に広めたい。日本語を理解できる外国人を増やしたいと思った。二つの私の夢の実現のため、今genjapanというインターネット放送をはじめている。バイリンガルで発信したいと考えている。そしてその放送を通じて教育を受ける機会の少ない人たちに学ぶ機会を提供したいと考えている。ノーベル平和賞を受賞した少女マララユスフザイさんの言葉通り「教育こそ第一」だと思うからである。その私の夢を実現するためにインターネットによるインターナショナルスクールを開く準備をしている。小さな小さな芽ではあるが、時代の変化の中ですくすく育つことを願っている。来年の4月開校の予定。先生方、スタッフたちを交えて準備の日々が続いている。

尊縁

11月6日
尊縁
人と人との結びつきほど不思議なものはない。今日もその縁の強さに気づかされた。横浜からのお客様である。本田宗一郎の側近であった由。ホンダと本田さんについて話が弾んだ後、定年前にBMWへの転出に話が及んだ。BMWの最高級グレード車を購入してくれたお客様は、家族全員を食事に招待する制度があったとのこと。その時、当社の出縄顧問が買ってくれたので会食を楽しんだ話を聞いた。出縄顧問は公認会計士であり、グリーンシート創設者である。私は彼の非凡さに刮目し、旧東京タワー下の事務所を訪れた時のことを思い出した。意気投合し、その後全国の不動産業者を集めた講演会で共に講師を務め、ますます関係を深め、今は当社の顧問をお願いしている。またBMWも私にとって思い出のある車である。スイスの子会社の役員がその最上級車に乗っており、その性能の良さに驚いた。帰国後トヨタの第5チャネル「ビスタ店」の募集があり、福井県のビスタ店に名乗りをあげ、その代表者になってクレスタを売ることになったのはまた奇縁である。今日のお客様は二重三重のご縁を認識させてくれた。現在はそのお客様の土地をお預かりして、駐車場として活用させていただいている。感謝。

第19回五百万石大名会

11月4日
第19回五百万石大名会
おいしい料理で有名な福井のいわし屋で大名会を開いた。今年最後の会合で肌寒くなりだした時期なので熱燗用の酒を用意していただいた。今回の蔵元は福井県鯖江市の銘酒「華燭」の豊酒造の佐々木宗則社長だ。大量生産の方向に背を向けて、独自の工夫を重ねて作り上げた薫酒の数々を杜氏を兼ねる蔵元の説明を聞きながら味わった。乾杯の酒は平成21年度袋吊り大吟醸の氷温長期熟成酒(したたり)。次に純米大吟醸蔵内秘蔵酒50これが私の最も好きな酒。地域限定特別栽培五百万石仕込みなので私達のこの会の名にピッタリのもの。アルコール16度、日本酒度+2、酸度1.6と口当たりものどごしもすべて最高。くせのないよい仕上がりである。あと蔵内秘蔵酒40や非売品の24年もの大吟醸酒や五穀豊穣(辛口吟醸)や熱燗本醸などの銘酒に酔った。熱燗本醸は時節柄多くのファンを作ることと思われる。本当にあきのこないよい酒だと思う、冬の間の熱燗としようと思っている。今回のもう一つの目玉。それは食べる甘酒である。アルコール度0%でブドウ糖やビタミン、必須アミノ酸が豊富に含まれている。私達の家庭で長く使っている。温めてよし、冷してよし、凍らせてよし、そのまま塗ってよしの絶品だ。長く愛用している。

ブータンの国樹 糸杉

11月1日
ブータンの国樹 糸杉
ブータンの森林カバー率は約70%、北はヒマラヤ山脈が連なり、南はインド平原に国境を接する亜熱帯ジャングルが広がっている。そして森林資源は厳しく守られており、ブータン国内には数多くの公園や保有林が存在する。その緑の国から、糸杉の苗が届けられた。臨済宗相国寺派管長(金閣寺・銀閣寺の住職を兼任)の有馬頼底猊下がブータン国王より拝受された糸杉の一本を私共ブータンミュージアムへおすそわけ下さったのである。糸杉は国樹として大切に育てられており、百年もたてば数十メートルの大木に育つ。汚れをはらう神聖な樹木である。ブータン国王のお言葉には「日本は国難とも言うべき大災害にあい未だに数多くの人々が苦難の生活下におられる。その慰安のために糸杉の苗を送り、遥かブータンの地より日本の人々の復興そして平安と発展を祈っています」とのこと。この苗木とこのお言葉を有馬猊下の意を受けてお届けくださったのは京都ブータン王国交流協会の左藤師である。前日に二条城での植樹祭を行われたその足で私共へ自らご恵送下さった。ブータンから遠路はるばる数千キロを飛んでお届け下さったそのご盡力に厚く御礼を申し上げたい。さてこの貴重な苗木をどこに植えるかを考える必要があり早速市や県に相談することとした。この小さな苗木が育ち、日本ブータン友好の証となることを信じて疑わない。

小さな柔道家

10月28日
小さな柔道家
ブータンに私立学校がある。ペルキルスクールといい、3年越しにNPOとしてささやかな支援活動を続けている。年4回発行のブータンミュージアム通信という小冊子(A5版36ページ)を送っている。JICAの日本人達と同じように、日本人の父兄に手渡してもらっている。そのペルキルスクールとは別にJICAの支援で、ブータン柔道協会として組織し、小中学生の小さな柔道家を育てている。現在首都ティンプーの15の学校から約70名の子供達がペルキルスクールの道場へ通ってくる。
2020年の東京オリンピックの正式競技に「柔道」が選ばれたのを機に、ブータンオリンピック委員会の傘下で「ブータン柔道協会」として正式に認可された。その子供達が今や高校生となり、来春講道館の招きで日本遠征を行う。そのカンパの要請が私達のところへ来たので、情報を共有したい。ブータンミュージアムに募金箱を設置することとした。期限は2016年3月末日まで。目標額は$2,000(約25万円)とすることに決定したい。

ハピネスコンサート

10月25日
ハピネスコンサート
毎月第1土曜日の12時30分からブータンミュージアムの2階ホールで、素人やプロが集まってコンサートを開いている。開館以来続けているが、年何回か大人数のコンサートに規模が大きくなることがある。10月10日がそうなった。集まった人数およそ50人、12時30分に開演となり、中間のお茶タイムをとって、最後は4時30分まで続いた。年配の人、女性が多かったが、プロはだしのすばらしい舞、演奏、歌そして2回にわたる大合唱が続いた。家にいても楽しくない、ここは楽しいと正直な声が多かった。無料で参加が出来る。菓子、飲み物の差入れがあり、とても有難い一日となった。

グリフィス記念館オープン

10月21日
グリフィス記念館オープン
アメリカラトガース大学在学中に福井藩の留学生日下部太郎と出会ったグリフィスは、1871年(明治4年)に福井藩校「明新館」の理化学教師として来福した。その時住んでいた福井初の洋館のグリフィス邸の復元を福井市が計画し、それが10月10日に完成し、オープンセレモニーが開かれた。薄いグリーンの洋風の建物が明治の香りを運んでくれる。この土地は以前私達のコインパーキング場として使用していたが、福井市からグリフィス記念館設立の計画を聞き同意した。そして、庭園一式を無償で提供した。私の植えた染井吉野が来春すばらしい花を咲かせてくれることを祈っている。観光の目玉として多くの方々の目を楽しませることであろう。

曳山祭

10月18日
曳山祭
祭は人の心をとらえて放さない。高知のよさこい、徳島の阿波おどり、北海道のソーランと各地に独特の哀調をおびた歌がある。長浜の曳山祭のシャギリ(囃子)を聞くと、春の訪れを感じ、思わず体が動き出す。長浜の曳山祭は山車(ダシ)の上の舞台で子供歌舞伎が上演される。祭の行事は春の1ヶ月だけでなく、前年の秋口から長浜八幡宮に氏子総代以下役員が参集して翌年の祭の打合せがはじまる。毎年4つの山車が出番となり、歌舞伎の演目選定、出演者選定そして全員の訓練と多忙な毎日がはじまる。ほとんど1年を通してまちは曳山祭の準備とその実行、そしてその反省また次年度への準備と休む暇もなく続いていく。この連続性とまち全体が一致団結して祭を盛り上げていく風土が、長浜曳山祭を育て上げてきた。来年秋にはこの曳山祭がユネスコの文化遺産登録になる可能性があるとのことで、まちでは期待感が高まっている。世界遺産とは何よりの朗報である。泉下のご先祖様もお喜びであろう。

今枝由郎さん

10月11日
フランスの今枝由郎さんから便りが届いた。

「旅立ちの 朝に摘みたる 白桃の 香りほのかに 甘酸っぱし」
桃.jpg

「朝露に 真紅に映える 大輪の ダリア健気に 我を見送る」
ダリア.jpg

株主総会

10月1日
株主総会
6月決算なので9月に株主総会を開いた。5年ぶりの復配であったが、引当金の積増しが予想より1億円を超え、税引き後利益は私の予想の半分以下になった。株主から厳しい質問が相次いだが、今年こそ好決算をという空気が強く、最後は和やかな内に閉会となった。創立20周年を迎えんとしている今期は成長発展のための基盤強化をはかって記念配当を含め、堅実経営の証としたい。
今期、来期は楽しみだ。

デザイナー

9月30日
デザイナー
ブータン王国との出会いから、ブータンの男性用衣装ゴが日本のドテラそっくりなのに驚いた。女性用のキラは生地が日本の高級キモノにそっくり。その華麗さには目を見張る。そして日本のキモノに対する私達のあまりの関心の低さに気がついた。ブータンの正装はゴとキラ。日本の正装の紋付羽織袴はどこに行ってしまったのか。それにハタと気付いて私は悩んだ。外務省の外郭団体で世界へのキモノの普及に注力していたのを思い出した。あれはどうなってしまったのか。あまり話を聞かない。伝統文化の維持に真剣に取り組んでいるブータンと比べて、キモノの現状は誠に心細い。そこで長浜のデザイナー野崎文子さんと組んで、長浜のまちおこしの一環としてキモノ更生を行うこととした。まちなかにキモノを復活させるのである。キモノを支える裾野は広い。かつての精彩をとり戻すのは至難の業ではあるが、新しいステージ作りは不可能ではない。その思いを胸にキモノによるまちおこしの大事業に力を貸していきたい。デザイナーの力量とその復活へのシステム作りが求められる。毎日その構想を練っている。

9月26日

夢を追い求める人生を送ってきた。気がつくといつまでたっても夢をつかむことができない。そこで「押しても駄目なら引いてみな」という諺を思い出し、夢中で夢を追いかけることを止めてみた。不思議なことに、今度は夢のほうから私に近付いてくるではないか。誠に人生は面白い。

ブータン定例会

9月20日
ブータン定例会
毎月定例の会議を行っている。今日はその日だ。企画展「幸福のかたち」のオープンを来月にひかえて、その最終段階での会議である。併せて第5次訪ブ団の結成が近い。「幸福のかたち」については、福井県下の博物館とのコラボに期待し、準備をすすめてきた。「日本一短い手紙プロジェクト」を長年に亘り行っている丸岡町の博物館、橘曙覧記念文学館、そしてすぐ近くの福井市郷土歴史博物館である。福井県の幸福についてのいろいろな事例の収集と福井県人、日本人としての幸福論を展開したい。ブータン人の幸福論との比較までもっていければ成功だ。予算の乏しいNPOのこと。またまた手作りの企画展で、中心メンバーの皆さんの協力には頭がさがる。しかし、内容のレベルの高さには我ながらいつも感心させられている。

朝日新聞

9月13日
朝日新聞
若い新聞記者の突然の取材を受けた。ブータンミュージアム設立以来のいきさつや、3年間の実績についての取材である。オープン直後に同じ朝日新聞のベテラン記者の取材を受けたことを思い出して、ついその話に移っていった。彼は社からブータン行きを命ぜられ、その事前勉強をかねてミュージアムを訪れ、記事をかいてくれた。それから数カ月10回にもわたるブータンからの紹介記事が紙面を飾った。内容が特によかった。先輩記者をほめることに終始したが、若い彼は今一度の取材を依頼して帰社した。若い人には未来がある。未来を大切に生きてほしい。

軽井沢新聞社

9月9日
軽井沢新聞社
吉村祐美著「文学者たちの軽井沢」を手にして読んだ。軽井沢に住んだ文学者が、小説やエッセイでとりあげた『軽井沢』を集めたものでなかなか面白い。有島武郎「信濃日記」、川端康成「軽井沢だより」、堀辰雄「美しい村」、芥川龍之介「軽井沢日記」などを紹介している。出版社が軽井沢新聞社となっていたので、吉村さんが編集委員かと思い訪ねてみた。ところが出てきたのが雑誌「軽井沢ヴィネット」の編集長広川美愛さん。著者の吉村さんは部外の方とのこと。広川さんによれば「母が36年前に雑誌をはじめたのがスタート」とのことで新聞は15年前からはじめ、別の編集長がいる由。印刷を外注する以外すべて内部で編集、レイアウト、製作、広告営業(アドエイド)を行っているとのことで、そのタフネスぶりに驚く。話がボランティア活動に及ぶと、母上が「軽井沢ベセア」という名でNPOの軽井沢の緑や森を守る運動をされており、弟さんが株式会社軽井沢総合研究所を通して、1900年ウィリアム宣教師の父と来日したエロイーズ・カニングハムの別荘を管理している。彼女は毎夏を軽井沢で過ごし、戦後は子供達のために毎月コンサートを開いていたそうだ。その弟さんをハーモニーハウスに訪ねた。エロイーズ・カニングハムさんが所有し101才で西麻布の自宅で亡くなられたので、ハーモニーハウスの横の建物を改装し、エロイーズカフェとしてオープン。若い感性と積極的な行動で、カフェも付属の貸別荘もオープン1年で見事に軌道に乗っている。弟さんからは多くの示唆を逆にいただいた。すべての建物(敷地は谷川沿いの深い森の中にあり1000坪)はレイモンドの弟子の吉村順三が1983年に設計。元の型がほぼ原型通り残されており、レイモンドの思想が残る貴重な別荘である。建築家の友人と再び訪れて、じっくりと細部を学びとりたい欲求を覚えながら再会を約した。エロイーズカフェで食べた三笠ホテル風ブラックカレーは絶品であった。

創立140周年の同志社

9月6日
創立140周年の同志社
同志社は今年創立140年を迎えた。創立者新島襄の生家のある安中市の新島学園で140周年のお祝いの会が開催された。新島襄は日本人としてはじめて大学を正式に卒業した人物であった。国禁を犯して函館から脱国し、艱難辛苦を乗り越えて、アモースト大学を卒業、アメリカンボードの支援を受けて仏教王国の京都の地で官許英学校を創立した。日本で最初である。設立の目的は「良心」と「自由」の精神を尊ぶ若人を育てること。キリスト教が未だ邪教として排斥されている中での開学は勇気のいる行為で、新島襄の使命感の強さが偲ばれる。世界の私学が大学のトップレベルを独占しているのに比して、日本では未だに後進国並みに国立大学が巾をきかせている。文科省の方針も問題であるが、今少し私学の奮起を期待したい。

日本の踊り「よさこい」

8月23日
日本の踊り「よさこい」
福井には「よさこいイッチョライ」というすばらしい踊りがある。原形は高知の「よさこい」から始まった。そして当時大学生だった札幌の若者が「よさこいソーラン」を創作し「見せる踊り」に変身させ、一気に人気をあつめた。27年前のことである。福井の若者がその熱気に共感して始めたのが17年前の「よさこいイッチョライ」である。独特のものにする為「イッチョライ」と名付け、北陸トンネル竣工の歌をアレンジした。2003年が数の上ではピーク。100チーム、5000人の踊り手が福井のまちの中心街で踊った。今年はしっかりとした組織運営と情熱あふれるリーダーそして支援する企業・団体と総合力を発揮できるようなシステムづくりが求められる。福井テレビチームとNPOチームとの二グループが現存しているがその一体化も含めて体制の強化が望まれる。日本人はお祭りが大好きである。福井県の県都福井市にふさわしいお祭りはこの「よさこいイッチョライ」だけである。この隆盛を願う者の一人として、福井いきいき元気国体や東京オリンピックでの「よさこいイッチョライ」チームの活躍を心から願っている。福井の「よさこいイッチョライ」を盛り上げるためには招待チームを5チームから50チームに増して、活性化をはかることも考えられる。NHKをはじめ報道機関の協力も重要なファクターである。年間を通しての地道な内外へのPR活動が17年続いている伝統を守ることにつながると確信している。子供たちが「福井の踊り」としてこの「よさこいイッチョライ」を子々孫々にまで引き継いでくれることを願っている。2015年度第84回キラリ会スピーカーに「よさこいイッチョライ」生みの親である出田建築事務所の出田吏市さんを招いて心躍る熱弁を聞き、参加者一同胸を熱くした。無償のお祭りに、17年もの長い年月に亘り情熱を傾けるとは、並大抵のことではない。その夢がますますふくらんでいくことを祈る。彼は私が尊敬する友人の一人である。

否定から入る人

8月9日
否定から入る人
ブレンストーミングというグループディスカッションの手法がある。参加した各人がテーマについて自分の意見をのべる。それを次々続けていく。他の人の意見について言及してもよい。但し否定することは禁じられている。そんな会話のルールを決めているにかかわらず、他の人の意見を否定することからスタートする人がいる。いろんな意見が自由に出ることにより、奇抜なアイデアや新しい発見がある。否定から入る人はそのチャンスをつぶす。そして困ったことに、それが常態化し、いつも他人の意見を素直に受け入れず、否定がいつも最初にくる。リーダーとして最もまずい資質である。心したいのはまず肯定から入ることだ。その上でお互いの意見を徐々に育てながら次のステップへ入ってほしい。否定から入ることは議論を拒否しかねない愚行である。

猛暑つづく

8月5日
猛暑つづく
連日猛暑日がつづき、夏本番を迎えた。若い頃は夏は楽しい季節であったが、傘寿を迎えようとする今日、あまりうれしくはない。いやつい冷房を入れたくなる。熱中症で何人もの死者が出るとなると油断ができない。街路樹や建物の陰を選んで歩きたくなる。早足になる。一刻も早く目的のビルに入りたい。うだるような暑さの中、街を歩く人々の表情は汗にまみれて暗い。生活が早朝型か深夜型になりそうだ。せめてもの猛暑に対する防衛策であろうか。早朝4時から2時間の読書と昼食後少しのうたた寝を楽しんでいる。

天からのメッセージ

7月29日
天からのメッセージ
病気になって喜ぶ人はいない。事故にあって喜ぶ人もいない。不幸や貧乏を悲しむ人はいても、喜ぶ人はいない。でもそれは本当に悲しむべき事なのだろうか。私はそれを「天が与えてくれた試練」と考える。それこそ「喜ぶべきことであり、感謝するべきこと」なのである。試練が与えられたとき、それが天からのメッセージと気付き、そのために何を、どうすればよいのかを真剣に考える。くよくよ悩んでいる暇などまったくない。必死に一歩を踏み出す道を考え出すのだ。試練が与えられた時は「それきた、待っていたぞ」と喜ぶぐらいでありたいものだ。

人は人を呼ぶ

7月22日
人は人を呼ぶ
願い事を持っている人は幸せだ。希望のない人生は闇である。夢を夢見ることを軽蔑する人がいるが、私はそうは思わない。夢は夢を呼び、人は人を呼ぶ。理想を高く掲げた人の元にはその理想に共鳴する人が集まる。
フリースクールを経営している若者が訪ねてきた。不登校の子供達の指導をしているという。イギリスの大学院を出て、現在翻訳の仕事をしているという。ブータンミュージアムを活用して、不登校の子供達を指導することに強くひかれたようで、私も大賛成。心の傷は癒し難い。心を解き放つところが必要だ。このミュージアムにはその雰囲気がある。手作りではあるが、それなりの静寂さと気配りを用意しているつもりだ。それに気付いてくれた若者達に感謝。そして夕刻に彼から早速メールをもらい、喜びは倍加した。

長浜の創世記

7月12日
長浜の創世記
日本の都市のルーツは近世の城下町づくりにある。約450年以前から全国各地で作られた数多くの城は町づくりの基本的な思考を十分に検討された計画的なものであった。その為現在の日本の都市は第2次世界大戦の爆撃などで破壊されたがその城下町の空間構成を基本的に生かしながら再建されていった。現代の日本の都市は近世の城下町の連続性の上に成り立っている。その根本思想を平城といい羽柴秀吉の長浜城、明智光秀の坂本城、そして織田信長の安土城にその源を求めることが出来る。そしてその完成型が豊臣秀吉の大阪城、徳川家康の江戸城へと連なっていく。天正元年(1573.9.1)小谷城落城。羽柴秀吉に浅井家の所領湖北3郡が与えられ、一国一城の主となり、小谷城入城。お市と3姉妹は信長の居城岐阜へ。天正2年(1574年)秀吉長浜城築城開始。まず城域の中心にあった長浜八幡宮(当時坂田郡八幡別宮)を東側に強制移転させた(1666年の江卅湖東八幡並びに祭礼の由来による)。現在の大手町小山仁(仁右衛門と称した)の場所である。この小山仁が広大な神域の中心にあり、それを秀吉の一声で東へ移転させることで旧権威の否定と新しい時代を告げることとなった。長浜城は多重の堀で防御すると同時に、交通、通商の水路として町の中心部まで物資を運送することが出来た。長浜の町は、船町、加治屋町、魚屋町、呉服町、紺屋町、金屋町、鉄砲町、鞴町、田町等職業別の町民や農民の住む町としてつくられた。また小谷城下の町民も町ごとにまとめて移住させた。そしてその町屋の形が間口が狭く奥行きの長いものに統一されていた。この形はその後日本の城下町大阪・京都・伏見等の秀吉の町づくりの基本をなしていく。即ち城に向かって縦型に並ぶ街並みを形成していったのである。

日本の大学を世界のトップレベルへ

7月5日
日本の大学を世界のトップレベルへ
世界の大学のランキングの中で日本の大学はベスト100に入るところが皆無に等しい。特に問題なのは各大学の年間予算の低さである。そしてその問題の根底にあるのは大学経営の基礎となる自己資本(基金)のぜい弱性にある。最近の大学経営の最大の問題点は日本の若年労働者の貧困と同様に、大学での授業の中で大きな部分を占めている講師陣の薄給にある。給与制度と雇用形態にある。この改善は直ちに手を打たなければ日本の将来は危うい。どうすればよいのか。打つ手はないのか。それにはまず文科省の桎梏から大学(国公立も私立もすべて)をとき放つ必要がある。文科省よりの助成金によって大学の経営が左右されている現状は誠に肌寒い。大学は自主自立でなければならない。私立大学においておやである。その解決方法はある。それは大学で基金を創設することである。例えば同志社大学は2025年創立150周年を迎える。大学の中でも最古の一つに入る長い歴史と伝統を持ち、アメリカの大学を日本人として最初に正式に卒業した新島襄という校祖を持つ。この150周年を記念する基金(1000億円)を積立てることにより、学校経営を盤石のものとする。そして新島襄が200年かかると言った50年後にこの基金を増加させ1兆円を永久基金として世界一の経営基盤を確立させる。同志社が率先して行えば、東大も京大も慶応も早稲田もなだれをうって同じ路線を走り出すであろう。そこで初めて日本の大学はハーバードやイエール、スタンフォード、ケンブリッジに伍して世界的な人材を輩出することが出来るようになる。新しい日本の時代の幕開けである。その為にOBOGの衆知をあつめ、150周年基金開設と日本の税制改革(寄付行為、免税措置、個人法人を問わず)の実現に全力を集中しようではないか。

福井県は海の国?

6月28日
福井県は海の国?
福井県は海に面しているが、海のない岐阜県や滋賀県に接している山の国でもある。京都、滋賀、岐阜、石川の四県と境を接している。接するところは山脈で分けられており、その山脈沿いに数々の山の珍味を味わえる。恐竜博物館のある勝山から金沢への山越えは恐竜の発見現場が連なっている。その県境近くの北谷にいわな山菜料理で有名な「いわなや」がある。私は20年以上も前からこの店へかよっている。いわな(岩魚)は清流に生きる。この塩焼きと「小魚のからあげ」が好物で、年に数回必ず訪れる。おみやげも「小魚のからあげ」が定番。あとは季節によって山菜や果物そして今日は「ふきのとうみそ」を買った。私はこだわりがきついせいか好んで訪れる店が限られている。この「いわなや」は私にとってなくてはならぬ山の宿である。「おいしい」を連発するとよく家内に笑われる。地元の久保本店の地酒一本義の冷酒をいただき、家内の運転でうつらうつらしながら帰るのも楽しい一時である。

植物工場

6月21日
植物工場
農業への企業の参入を求める声が高まってきた。先日も大林組(建設大手5社の一角)が6,000屬旅場を建設し、日産3万株の野菜の生産を始めるとの新聞記事を読んだ。福井県に問合せたところ、県内各地に既に20工場近くが稼働中とのことである。輸入関税に関する各国間の交渉が難航しているが、日本の農業の力が過小評価されている面と、弱点への対策の不足が問題であろう。グローバル時代である。世界は一つへの道は確実に実現へ向かう。その為の対応を急がねばならない。食糧自給率の引き上げであり、農業の競争力強化であり、就労者年齢の引き下げ(若年層の就農)である。同時に生産性向上が求められる。県内各地の植物工場の見学を行いながら、明日の植物工場の姿をイメージする日々が続く。

五百万石大名会

6月14日
五百万石大名会
今年度最初の会合をいわし屋で開いた。いわし屋は大名町通りから繁華街長者町通りを西へ少し入った料理屋で福井では最古の歴史を誇っている。今回の担当の蔵元は福井市小稲津の美川酒造場の美川社長。「舞美人」の銘柄の小づくり、木ぶねしぼりの特徴を持つ。社長みずから杜氏をつとめる。初夏に入る時期であり、純米大吟醸生酒にはじまり、地元の五百万石や山田錦の酒米を使い、すべて福井にこだわった地酒。山廃純米無濾過生原酒は口当たりがよく現代風の香りに好感がもてる。ついつい杯がすすむ。特別純米山田錦85とつづき最後のしめは吟醸2000古酒の逸品をいただいた。いつものことながら福井の料理のしめはおろしそばである。今回は4人の新入会員を迎えて大いに話に花が咲いた。福井の地酒の評価がどんどん高まっていくのを実感し、この会の発展を更に祈りたい。栗田幸雄会長は老いてますますお盛んである。 

片山幽雪を偲んで

6月3日
片山幽雪を偲んで
片山幽雪師が御子息の現片山九郎右衛門の後援会能をはじめられて今年で18年が経つ。その幽雪師はこの1月他界され、京都観世会館で行われた第18回には、直面の舞の写真が置かれていた。私の席はいつもの「は列38番」正面である。今回は御子息の清愛君の鷺と九郎右衛門の葛城、そして野村万作の見物左衛門であった。清愛君の清々しい舞、九郎右衛門の円熟味を増した流れるような演技に熱中できた。かつて幽雪師の薫陶を受けたわが身にとって、今回はまさに特別な会となった。演能の一部始終を撮影していたのが立命館大学の学生達とのこと。声をかけたが記録を主目的としているとのこと。ネットで能を世界に紹介したいと考えている私にとって、能の世界の扉を開けるにはまだ時間が必要である。日本文化の中心、能楽や茶道のネットでの発表には予想以上の抵抗があり、クールジャパン、ビジットジャパンのために活動している私にとっては大きな障害となっている。その為の知恵を絞り出したいものだ。

福井はニッポンのブータン

5月31日
福井はニッポンのブータン
福井にブータンミュージアム(NPO幸福の国)を設立して3年目を迎え、最近では遠隔地からの来館者が増えている。先日タイ在住の寺島得司氏の「世界で出会った幸せな人々」の講演会には遠く北海道や下関などから友人、知人がご夫婦で来館され、あたかもJICAのOB会のような活況を呈した。夜の歓迎会(会費制)では歓談そして快食、痛飲が続き、夜の更けるのも忘れたほど。「世界は広く、そしてブータンはあくまでも懐かしいところ」で全員一致。再開を約してわかれた。「福井はニッポンのブータン」と主張する私に全員賛同をいただいた思い出に残る日となった。

第6次産業

5月24日
第6次産業
TPPや農協改革が進むなか、常に方向が示されているのが第一次産業の代表、農業の第6次産業化である。日本の農業は世界的に見ると、世界第10位の巨大な国内マーケットを持ち、その市場の完熟度は抜群であり、可能性に満ちている。ただ、国家による保護が十分すぎたことによる弊害が出てきている。特に農業従事者の高齢化と専業農家の減少は深刻だ。長野県の小布施の「栗」の取組みに興味を持ち、種々調査をしたことがあったが、今回は福井県中央部にある南越前町の野菜工場を見学した。福井大学の教授、講師、院生、大学生とともに8名で訪問した。全国各地の野菜工場に何度か足を運んだ経験があるが今回の菱熱工業のビタミンファーム福井工場は完成度が高い。約3,000坪(10,000屐砲良瀉呂北460坪(1,400屐砲1階2層建の鉄骨工場が建ち、現在3種類の新鮮野菜(グリーンリーフ)4,400株/1日を生産(発芽率90%近い)している。売先はコンビニのサンドウィッチなどが中心で訪問した今日が工場開設丸一年目である。採算がほぼとれるようになったという岡安専務取締役営業本部長の説明を聞き、その早さに驚いた。工場誘致時に福井県、南越前町からの助成制度による補助金があり、7年間の電気代補助制度に助けられているとのこと。見学は2時間余りに及び、出荷前の野菜の試食をさせていただき、その甘さと鮮度、シャキシャキ感に全員感激。この見学会は福井の中心街にミニ野菜工場(都市型)を建てたらという福井大学の若者達の提案によったもの。道路面へのショーケースや看板等の工夫により通行客にアピールする方法や販売方法、そして新鮮で清潔で健康的な食を提案できるレストランとのコラボの可能性などを討論した。総投資額が約4億円との説明に、新しい農業の可能性を実感した。福井の駅前ビルの野菜工場開設に対するコラボの可能性についてお互いに研究していきたいものだ。

ブータンミュージアム月例会議

5月20日
ブータンミュージアム月例会議
毎月1回定例会議を行っている。今月は5月23日に開催する寺島得司さんの講演会の最終打ち合わせと第5次ブータン訪問団の募集に関する件が中心となる。講演会には遠方から数人の知己が夫人同伴で参加するとのこと。お会いするのが楽しみだ。みんな国際人として豊富な経験を積まれた方々なのでどんな話が聞けるかと期待は高まるばかり。ネット時代といいながら、やはり実体験は貴重である。

子供達

5月17日
子供達
開館以来、入場者の内訳は子ども達が一番多い。保育園、幼稚園、小中高の生徒達である。先日は、昨年に引き続き地元ガールスカウト福井県連盟第9団の入団式・フライアップ式に大ホールを提供した。日本全国そして世界に仲間を持つガールスカウトの組織の下にその育成に真剣に取り組んでいるリーダー達、そして協力を惜しまない親御さん達を親しく見せていただいた。私にも一言祝辞をといわれ、両親への感謝、リーダーや先生の指導に素直に従う心、弟妹や幼い子弱い者に対する慈しみの心、そして夢に向かって踏み出す勇気を持ってほしいと伝えた。セレモニーでは、献灯、献花等幼い子等が、国歌斉唱に続いて世界連盟歌、約束唱和のけなげな姿に心をうたれた。約束の歌などみんなが規則正しく合唱し、真剣に取り組んでいたのが印象に残った。約50名が参加した感動的な集いであった。

鯖江の西山公園

5月10日
鯖江の西山公園
5万株のツツジが満開だ。ゴールデンウィーク明けの一日、訪れてみた。全山見事に咲き揃っている。昼食をとろうとしても超満員、駐車場も一杯。人気というものは恐ろしい。集中だ。少し離れた8番らーめんへ入る。ここも一杯。でも待っていてやっとお昼にありつけた。ツツジもよいが西山公園には有名なレッサーパンダがいる。そして西山公園の上の山には百地蔵ならぬ幾百ものお地蔵さんが並んでいる。両側に表情の豊かなお地蔵さんの顔を拝みながら山道を歩いてみるのも一興だ。数えたことはないが千体近くは並んでいるのではなかろうか。鯖江市は県内17市町のうちで唯一の人口が増加している市である。

桜を見る会

4月26日
桜を見る会
安倍首相からの招待状をいただき、春の新宿御苑へ出かけた。桜はとうに散っていると思ったのは間違いで、桜は染井吉野だけではない。御苑には50種類の桜が植えられていた。まさに春爛漫の花見が楽しめた。特に一葉という八重桜の約200本が満開である。招待客は、紅白のリボンと緑のリボンがあり、私達夫婦の紅白のリボンは数が多く、安倍首相や各大臣との面接の機会はなかった。マイクを通して声を聞き、遠方より歩く姿を垣間見ただけであった。マス酒がふるまわれたのと日本庭園でのおうす、お弁当(すべて自前)をゆっくりいただけたのがせめてものなぐさめ。広い苑内(58万嵳召蝓砲鬚阿襪阿詈發まわって春を、桜を満喫できた。久しぶりの東京は、超高層ビルが林立し、工事中の建物や道路が多く、活気に満ちていたが、苑内にまで交通騒音が届いて、神経が休まることがない。ストレス社会の見本のようだ。もう少しゆっくりとした人生を送れるための根本的な都会生活の見直しが必要だ。

物語づくり

4月22日
物語づくり
時代はどんどん移り変わっていく。北陸新幹線の開業で金沢の一人勝ちが報じられる。富山が苦戦、福井は予想通りの無風状態。しかしよく考えてみたい。今はじまったばかり。そんなに悲観する必要はない。福井の駅前も日に日に変わりつつある。私は逆にここ2・3年がチャンスだと考えている。今福井の土地の価格は底である。福井をリードする企業にも次々と難題がふりかかっている。この難局をどう乗り切るか、それは福井物語の創作が必要である。ここまで落ち込んだ福井県都の再生は「海図なき航路」では駄目である。戦後の焦土からの復興、大震災からの復活、そしてさらに大水害からの三度に亘る大災害を乗りこえて不死鳥のようによみがえった福井市の姿をもう一度思い返してみよう。昭和33年に初めて福井を訪れた私は驚いた。福井の駅前は富山よりも金沢よりも、いや私の住んでいた京都の駅前よりもずっと整然と輝いていた。賑わっていた。美しかった。それから60年近くの歳月が流れ、福井の駅前はその当時の姿のまま、年老いた。固定資産税は高どまりし、市民は老齢化し、若者は郊外に移り住み、まちの活気は失われつつある。これを構成するのは福井再生物語を作り上げなければならない。福井市役所をどうするか。福井県庁をどうするか。駅前に建ち並ぶ古いビル群をどうするか。その間に立つ古い民家をどうするか真剣に考える必要がある。可能性は非常に高い。なぜなら現在が最低の日々であるからだ。これからは実行の時。再生物語のシナリオ通り、一歩ずつ、力強く踏み出したいものである。

遠方の客

4月15日
遠方の客
「友あり遠方より来る、また楽しからずや」と古文にある。遠来の客はいろんな情報をとどけてくれる。私はブータンミュージアムで、遠来の客には直接話しかけることにしている。3月1日北陸自動車道と中部縦貫道路が福井北ICで直結、開通した。永平寺までは5〜10分早く到着する。恐竜博物館へも近くなった。これからが楽しみである。北陸新幹線の金沢駅開通でまたまた遠来の客が増えそうである。アンテナを高くのばして待っていよう。外国の観光客のために英語の案内板をつくっている。館内の説明文も徐々に英訳をつける必要がある。

ヤクと牛の出あい

4月8日
ヤクと牛の出あい
ブータン王国は世界有数の生物多様性の国である。北方は7,000mをこえるブータンヒマラヤの連峰が連なり、南は海抜200m前後の低地の亜熱帯ジャングルにおおわれている。動植物、鳥昆虫からバクテリアにいたるまで珍種、奇種が共存している。ヤクはウシ科の動物で牛より大きく、オスのヤクは肩高は2m近くもある。長い毛が蹄にまで達するので寒さに強く、暑さに弱い。草食で3,000mから6,000mまでの草原やツンドラや岩場などで過ごす。極寒期には3,000mあたりの低地に下り、夏期には集団で高地へ移動。放牧したヤクが多いが、野生のものも散見される。先日MOH通信を長年に亘り発刊され、Mの勿体ない、Oのおかげさま、Hのほどほどにという持続可能社会実現のため活動されている森建司氏と、ブータンに通算16年間滞在されブータン国の発展に寄与されている津川智明氏が私達の主催する講演会に講師として参加された。そこでヤクと牛が出あったのである。MOHを主張する森さんの牛に対して、津川さんはYAKを主張された。YAK即ちYをゆるす(恕)、Aを与える(愛、利他の心)、Kを感謝、ヤクである。私達は長年MOH精神に強い共感をいだいてきたが、牛とヤクの出あいという思いがけないプレゼントをいただいて大いに盛り上がった。ブータンミュージアムでも、これからはYAK精神を大々的に発信していきたい。念のためYAKを使うことは津川さんのご了解をいただいている。彼はまた今秋3年間の予定でブータンへ奉仕の旅に出られる。活躍を切に祈っている。

福井大学

4月1日
福井大学
全国の国立大学の中で毎年就職率日本一を続けているのが、福井大学である。工学部、医学部、教育地域学部の三学部の大学であったが今度教育地域学部を二分割し、四学部制となる。更に総合大学へと発展させていこうとしている。福井県はゼネコン王国といわれ、建設業界で唯一財閥解体の指定を受けた飛鳥組(現在その系譜は飛鳥建設へ)をはじめ、5大ゼネコンに次ぐ第6位の実績を誇った熊谷組、そしてトンネルやダムに強い前田建設工業など有力ゼネコンが多い。その為福井大学には工学部建築学科があり、早くから人材を輩出してきた。また繊維王国ともいわれた。その為工学部に繊維工学科がある。産業の興るところ人材を育てる施設があることがうかがわれる。福井県は古くから有名な医師が多い。幕末の笠原白翁(種痘の父)、橋本左内(幕末の志士)、石塚左玄(食育の祖)、橋本綱常(日赤の祖)、榊原仟(心臓血圧センターの祖)など有名医師が多く出た。福井医科大学が創設され後に福井大学に合流し、医学部となり、地域医療だけでなく、医学全般への貢献も著しい。また教育地域学部も県内では特に強く、福井県下小、中学校の生徒の学力、体力日本一に大きく貢献している。ちなみに県下教員の福大出身者比率が非常に高く、安定しているのもその一因であろうか。以上よくよく考えてみると、福井大学が福井県民に与える影響の大きさに納得せざるを得ない。原子力発電に関する取組みでも、地元大学として種々の研究開発の先頭に立っている姿は頼もしい。また私が常に提唱している情報処理、ソフトウェアの研究開発の基地としての発展に大いに期待したい。シリコンバレーのスタンフォード大学の役割を、福井県の福井大学に荷なってもらいたいのである

朝5時

3月29日
朝5時
東の空の赤さに気付き、立ち上がって窓辺による。雲は茜色に染まり、大きく横にたなびいている。夜明けのスペクタクルのはじまりだ。5時30分頃の茜色が最も赤い。その後、赤味は少しずつ薄れていく。何という自然の輝きだ。不思議さだ。横に長く広がる雲は幾重にも重なり、巨大な鳥が大きく双翼を広げて山なみの上から飛び立とうとしている。嗚呼、なんという荘厳。茜色が少しずつ刻々と、時を刻むように薄れていく。日の出の時刻が近づくにつれ、東方の天空に描き出された神のスペクタクルは、静かに幕を閉じる。今日もまた、大切な一日が今はじまる。

同志社人の集い

3月25日
同志社人の集い
福井県のOB会を再構築した1980年のことである。同志社大学と同志社女子大学のOBOGが共に集う「同志社人の集い」を企画し実行した。女子大OGの代表は同級生の栗田英子さん(当時の福井県知事夫人)。奇しくも同じ滋賀県出身。女子大OGがともに集うというのでOB達の人気を集め毎回100人をこす盛会となった。それが全国に広がり最近の各地の同志社の集いには女子大との共催が増えてきた。男女同権の先進学校、同志社の伝統である。先日OBOG会の役員会に出席した。ところが役員名簿を見て驚いた。昭和の卒業者が9割、平成の卒業者が1割である。老人会ではあるまいに、せめて各年度毎に1人ずつの代表の役員を選出してほしい。個人情報保護法により、名簿の公表が難しいという。この法律は全くの悪法であるが、今これが一人歩きをして無責任社会を助長している。人から人への口コミで平成の卒業者を役員に迎えて同志社人の集いが盛大に発展していってほしい。昨年11月の京都洛北のリユニオンには1200名のOBOGが集った。今年の11月は何人の友にあえるのであろうか。

昆布

3月18日
昆布
江戸時代から明治にかけて北海道産の昆布は北前船の極上の荷であった。大阪から瀬戸内を通り、日本海を北上する北前船のコースはその途中にある港々に賑わいをもたらし、産業を育てた。まず産地は北海道のものに限る。現在も利尻昆布と羅臼昆布が有名である。利尻昆布は稚内と利尻島の間の利尻水道周辺でとれる。羅臼昆布は知床岬の羅臼と国後島内だの根室海峡周辺で取れる。この最果ての地で取れた昆布が北前船によって日本海各地で荷下ろしをされた。富山では薬種問屋や薬品メーカーを育て、敦賀では昆布商や昆布メーカーを育てた。京都へは敦賀で保存、加工した上撰昆布が陸路で運ばれた。日本食文化の源といわれる昆布は、だしの素であり、薬の素であり、鰹節と並ぶ加工食品の二大横綱である。ただ注意すべき点は昆布の漁獲量が激減しつつある。1970年の漁獲量は11万1千トンだったのが40年後の2010年には7万4千トンと3分の2に減った。自給率が100%から51%にほぼ半減した。輸入に頼っている。富山と敦賀という二大加工都市における昆布の地位もかつての栄光の輝きが薄くなりつつあるのは残念である。しかし消費量は1人当たりでは富山が健闘しており、1位をキープしている。かつて大消費地であった沖縄や京都も強い。また昆布は長く熟成させることが必要であり、そのノウハウを持っている産地は大切にされなければならない。根昆布が健康によいといわれて久しいが私は根昆布をとろろ昆布に加工したものを常食にしている。80才近い私が元気に働いておれる秘訣がこの昆布にあるのかも知れない。この昆布を広く世界に紹介するのも北前船文化の継承者である私達の仕事なのかも知れない。インターネット放送のポータルサイトGen(ゲン)で取材しようと思う。

東京一極集中

3月13日
東京一極集中
東京に若者が集まるようになり、東京は砂漠化しつつある。東京は結婚して子供をつくり、よい環境の中で子供を育てられる場所ではない。だが働く場が地方にはない。首都機能移転がいわれているが実現の見通しは全くたっていない。大阪に本社があった巨大企業のほとんどは東京に本社を移した。ところが東京は地価が高く、環境も悪い。これからは地方へ本社を移す企業が出てくるであろう。本社機能や研究施設、開発拠点、購買部門などから地方移転をはじめてはいかがだろうか。私はネットビジネスは環境の整った地方の方がよいと思う。デザイン部門も地方の方が優れたものが生まれそうだ。ソフト企業であれば1万人ぐらいの雇用を創生するのはそれほど困難ではない。私は40年前にキャデラックシティに本社がある企業を訪問し、1週間滞在し、ジョイントベンチャーを設立する準備に携わった経験がある。二つの小さな湖のまわりに全役員が住んでいて、役員会は湖上でやった。夜のパーティは各役員の家で持ち回りで行っていた。シカゴやデトロイトへは社用のジェット機で飛ぶ。誠に優雅な生活であった。今は福井に住んで福井の本社で全国の支店をみている。研修は主に福井で行う。交通費はかかるが、時間を有効に使える。仕事はネットですべてOK。もう日本もそんな時代なのだ。地方へ本社を移す政策が求められている。企業の地方移転は決して不可能ではない。

3Dプリンター

3月8日
3Dプリンター
福井県立工業技術センターに3Dプリンターがある。県内企業と協力してその応用によりいろんな可能性に挑戦できる。ブータン王国の地形が非常に複雑なので、その3Dプリンターを活用してブータンの地形を立体的に可視できるようにしたいと考え、データを準備して相談に行ってもらった。出来上がってきたものは誠に小さく、東西35.5僉南北16.5僂離潺縫廛虧老燭澄ただ狙った通り、トンネルの全くないブータンの国土がどんなものかがよく理解できる。これが完成するまでは平面図で色わけをしたり種々苦労してやってみたが今回の模型は3Dプリンターの偉力を即座に感じられるものとなった。願わくば県内の工業デザインや先端技術を指導する工業技術センターなので、せめてこの能力の5〜10倍のものを設置してもらえると有難い。今回はあまりに小さいので高低差と距離の関係を1対4に設置し、国土の高低差をより強調した。色わけも有効で、ブータンヒマラヤの山頂を白で表すことによりよく解る。また南方のインドとの国境に広がる亜熱帯ジャングルなどの大森林地帯も緑色で表現した。冬の王宮のプナカがブータンの中でもっとも標高が低い都市であることも一目でわかる。亜熱帯に繁茂するジャカランダやバナナが群生しているのも、うなずける。3Dプリンターの偉力を十分に感じさせる展示となった。

福井県の人口

3月4日
福井県の人口
昨年福井県の人口が80万人を割った。2040年には60万人台へ減少するとの予想が立てられた。県内の17市町のうち、9市町が消滅可能性地域として指定されたのである。あなたのまちが消滅する可能性があるといわれて驚かない人はいない。該当する首長はみな真剣に悩んでいる。地方はダメだという意見が確かに多い。都市をめざしたがるのは何も日本人だけではない。世界中の若者は都市をめざす。その考えが正しいかどうかは大きな問題である。反対に地方で人口増を実現している例も多い。その事例研究を徹底的に行えば解決策は見えてくる。都市へ流入したがる人々に、地方の良さを知らせる努力、地方の魅力を発信する努力が今こそ求められている。地方へIターン、Uターンをうながすことは難しそうと思えるが、分母が小さいだけに、成功の確率は非常に高い。ぜひ共成功させたいと念じている。解決策は雇用の受け皿づくりである。魅力のある職場があれば地方ほど住み易いところはない。健康で安全でクリーンなのは地方での生活である。そして何より安くつくのである。

ヒマラヤグーズベリーハーブティ

2月22日
ヒマラヤグーズベリーハーブティ
ブータン厚生省の大臣からヒマラヤグーズベリーハーブティと冬虫夏草のカプセル入りの錠剤の輸入を依頼された。グーズベリーティは少し酸味があり、砂糖を少量入れてのむとのみ易い。私は酸味が好きで砂糖ナシでのむ。ブータンでは日本円で約600円で売られているが、すぐ売り切れになる。日本へ輸入すると1200円で25袋入りで売ることになる。効用は滋養強壮。元気が出るとある。その理由はビタミンCが1.5%以上含まれる。西洋すぐりといわれるグーズベリーの実を使ったグーズベリー酒がある。このティはカフェインゼロで1日1〜3杯のむとよく効くとの説明あり。西洋すぐりはアジアの伝統医薬として広く使われている。このヒマラヤ山中の西洋すぐりは辺境に住むブータン人の貴重な収入源とのこと。ブータン政府直営の伝統医療院に隣接する医薬製造所で作られている。1日1袋ずつを愛飲しているが、毎日をとても元気で過ごせている。気のせいか若返った気分である。

時空を超えて

2月18日
時空を超えて
私の専門は「経済学」である。「マックスウェーバー研究」がゼミのテーマだった。その後世界を歩いているとよく質問されるのが「あなたの専門分野は何ですか」である。まず日本国内では、この質問に出会うことはない。第三者の目から私と私の専門分野を考えてみると、対象とする研究分野の期間の短さに気付く。例えば古代史を研究している歴史学者は数千年の期間で物事を判断している。考古学者はさらに万年単位となる。地球学者はもっと長い。今年の年始は久しぶりの大雪となり、初詣の後は外出を控えてテレビの番組を楽しむ余裕ができた。そこで宇宙の起源から宇宙の果てで起きている数々の鮮明な映像を見ることが出来た。何億光年もの先に広がる宇宙を研究している学者の生き生きとした表情を見ていると、「時空を超える研究」は私が想像していた以上に楽しそうであるのに驚いた。「霞を食って生きている仙人」との表現があるが、たかだか100年程度の寿命しかない人間が、時空を軽々と超えて数億光年の先まで研究の幅を広げていることを知った。物事を考える上で、大きな示唆を与えてくれたように思う。些事にとらわれることなく、時空を超えるぐらいの発想をしていきたいものである。

ブータンミュージアム通信

2月15日
ブータンミュージアム通信
第8号が2015年2月1日に発行。巻頭対談の相手は私の母校同志社総長大谷實さんにお願いした。京都御所に隣接する同志社大学には数々の重要建造物がある。チャペル、ハリス理科学館をはじめ赤レンガの重厚な建物が並び世界のどこの大学にも負けない重厚な雰囲気をかもし出している。特に新島襄の良心碑は私にとっては生涯を決めた思い出深いものである。その写真と共に総長と同志社について、新島襄について、そして青雲の志について対談する機会をいただいたのは誠に感無量である。ブータン王国の交流のかけ橋となった西岡京治の功績を讃える展覧会の開催中に対談を行った。ただ同志社を愛してやまぬ総長と私の対談はついつい話題が、同志社や、新島襄の方に及んでしまう。ブータンのGNH思想や西岡京治のこと、そして「幸福」を追求することによる「平和」の実現などに言及することが少なかった。反省点ではある。グローバル時代に、大活躍できる最高の場を与えられている同志社にエールを送りたい。日本文化の華、関西財界の雄を輩出し続けてきた同志社が国際舞台で活躍し、世界に平和ののろしを上げる絶好のチャンスの到来である。グローバル時代にグローバルで活躍する若者の誕生を切に祈っている。

観光客

2月11日
観光客
海外からの観光客は2013年にはじめて1000万人をこえた。そして2014年は1300万人をこえて急増している。2011年の東北大震災時の622万人を底に、2012年から大幅な増加が3年続いている。これは円安による効果と同時に、国を挙げての観光客誘致活動の成功といえよう。クールジャパン、ビジットジャパン等の政策が功を奏している。国別では韓国・台湾そして中国が多い。首脳同士の関係がよくなかった韓国や中国の場合でも一般市民は、数多く日本を訪れ大いに日本滞在をエンジョイしているのである。全般的にアジアからの観光客は大幅に伸長している。アメリカ・カナダからの観光客は伸びてはいるがアジア程ではない。2020年までに2000万人達成という政府の大目標は、今の調子でいくと、実現の可能性が出てきた。観光収入の大幅増加と海外への投資の見返りとしての収益増、そして国内企業業績の改善が順調に進めば日本経済は完全に立ち直るであろう。誠に明るいニュースである。ちなみに世界で一番多くの観光客を受け入れしている国はフランスで年間8300万以上。アメリカが6700万人。中国が5800万人。日本の1300万人達成ではまだまだ低く、2000万人でも日本の魅力を考えると低すぎる目標といえよう。近い将来には中国並みの6000万人の受け入れも十分可能である。人は何を求めて来るか。ワクワク・ドキドキ。エキサイティング。そして美しさ、優しさ、食べ物のおいしさ、買物の魅力なども上げられる。知恵を絞って観光客をひきつける魅力の発信をつづけたいものだ。

ブータンからのメール

2月10日
ブータンからのメール
ブータン研究所のカルマウラ所長からメールが入り、木製のブータン風テーブルを製作中との連絡が入った。先日来館してくれた今橋克寿さん所有のブータン大壁画(8m×1.5m×15面)はカルマウラ所長が画いたものではなく、また作者も知らないとの返事だった。今秋の開館3周年記念行事にその大壁画を使わせていただく予定なので、その展示場所、その説明資料そしてそのキャプション等を考えなければならない。ブータン王国は、信仰の国である。福井県も同様にどんな僻地の村へ行っても、必ずお寺と神社がある。村人は永年続く村の行事を先祖代々敬虔な信仰心にのっとって行っている。ブータンの大壁画はそんな信仰心を描き上げたものと確信する。今年の秋が待ち遠しい。

ブータンミュージアムで音楽会

2月4日
ブータンミュージアムで音楽会
(社)福井経済クラブの1月定例懇談会に、福井を代表するテナーサックス奏者の武田幸夫氏を招いて「YUKIO TAKEDA TORIO」のジャズコンサートを開催した。約40名の聴衆の前で1時間半の演奏を楽しんだ。ベースは森岡喜彦、ピアノは瀬戸れい子さんの息のあったトリオ。曲はみんながよく知っている「ムーンリバー」「黒いオルフェ」「ティフォーツー」「ロシア民謡黒い瞳」「アイルランド民謡 ロンドンデリーの歌」「ダニーボーイ」「ラブ」「フライミーツーザムーン」「ありのままを」「酒とバラの日々」「テネシーワルツ」「テイクザAトレイン」であった。長い演奏の間手拍子も入ったりして、一同感動の時間を過ごすことが出来た。参議院議員瀧波宏文先生、県議会議員大森哲男、畑孝幸氏も出席されて、挨拶をいただいた。新年はじめての定例会は昨年同様賑やかに和気あいあいのうちに散会した。円安、原油安の環境下、北陸新幹線金沢開業を控えて会員の表情も明るく、今年は大いに期待できるものと信じたい。

油断

2月1日
油断
心に隙が出来ると危険だ。常住坐臥いつも危険に身構えている必要がある。失敗の種は成功の時に蒔かれる。有頂天になって成功の美酒に酔っている時が一番危ない。利他の心を忘れず、利己の欲から解放されておれば間違いはおこらない。常にまわりを気遣い、他人の幸せを優先して行動すれば前途洋々である。人生の大道を歩こう。それを古人は白道といった。

JTBとブータン

1月28日
JTBとブータン
ブータン王国を訪問しだして数年になる。今度の訪問で5回目となる。ブータン観光はブータンの国が関与しているので、JTBがいつも世話をしてくれるが行き違いが多い。今日新しい担当者が挨拶に来て、今度のツアーの打合せをした。今度は11月にブータンで世界GNH会議が開かれるので、日本からも多くの参加が見込まれる。JTBにも協力を強く要請した。日本の観光事業はいよいよ本番開始の時を迎える。ヨーロッパの国々は、国民の人口以上の外国人観光客を毎年迎えている。日本は1.2億人の人口に対して、外国からの年間観光客数は僅か1300万人(2014年)である。政府の目標は2020年までに「2000万人」を目指しているが、まだまだ低い。ブータンも観光に注力しているが、入口がパロ国際空港だけということもあり、急増は難しい。現在、私達のブータンミュージアムでブータン政府観光局の後援でブータンの自然と観光の特別展を開いている。私達もブータンとの交流を深めて、双方にとって良い結果につながるよう努力を続けたい。

ファンづくり

1月18日
ファンづくり
伸びている店は「ファン」を持っている。定期的に買いに来るお客のことだ。ファンになった理由はいろいろある。おもてなしの心。商品やサービスの質。価格、品揃えなど店を選ぶ条件もいろいろだ。不思議なことに、ファンを持っている店は共通した特徴がある。それは不易流行である。変えるべき所を速やかに変え、守るべき所、変えてはならない所をしっかり守っている。そこに魅力を感じてファンが出来る。そしてファンはファンを呼ぶ。ファンづくりが店づくりにつながるのだ。お客の心理を徹底的に分析し、お客を家族のように尊敬し、愛し慈しむ心で接していくとファンになってもらえるのではなかろうか。仏教でいう「七施の心」が大切である。和顔、愛語、店員のまなざし、社員の身づくろい、真心、店の雰囲気、また訪れたくなるしかけ等々が求められている。

都市集中

1月14日
都市集中
毎年福井県下の高校などを卒業して、県外に進学する人数は3000人といわれた。その内大学等を卒業して福井へ帰ってくる人数は1000人。約2000人が毎年流出している。最近のデータでは、出るのが2800人、帰ってくるのが450人となっているという。流出人口は2000人から更に350人増えてしまっている。特に女性が帰ってこない傾向がある。地方再生が叫ばれているが、この問題を解決しなければ成果を上げるのは無理だ。福井人は福井の魅力を知っているか。この問いかけも必要であろう。そして現実問題として「働く場所」の提供が第一である。その為シリコンバレーに負けない、ICTのメッカ「福井バレー」の創設とともに、ハーバード大や京大に負けない「福井大」の育成をはからなければなるまい。道は遠いが、実行しなければ、第一歩を踏み出さなければ衰退を待つばかりである。

乾杯条例

1月9日
乾杯条例
日本酒の低迷が続き、地酒の隆盛を願って、JR福井駅構内と小松空港構内に福井県の地酒をすすめる看板を設置して早や数年が過ぎた。福井駅前に九頭龍地酒百蔵という福井県内の地酒だけを販売するPR拠点を設けて5年になる。京都市が日本酒での乾杯をすすめる「乾杯条例」を発表したのもその頃だった。日本酒の販売は、海外へのPRや女性の愛飲家がふえたのでその後底を打ち、回復基調にある。福井県内では4つの酒蔵をかかえる大野市が「乾杯条例」を発表して先陣を切ったが、私は福井県全体で県主導で「乾杯条例」をやるべきだと主張したい。年4回開催をつづけている五百万石大名会が15回目の会合を終わり、その席上満場一致で「福井県として「乾杯条例」を採決されたし」と決定した。日本一おいしい福井の地酒を未来のため、県内36蔵の酒蔵のために、残してほしいと切望している。

CSR活動

12月21日
CSR活動
創業19年目に入っている。創業時に私は59才を過ぎていたので、「仕事がCSR活動」のように、社会への恩返しの気持ちが強かった。しかし世間はそんなに甘はくない。前職で得た退職金や多少の貯えはあっという間に雲散霧消してしまった。3年間は必死の日々であった。4年目からは努力の甲斐があり「CSR活動」らしい仕事ぶりが定着してきた。仕事にあわせて若者や中高年、女性達を対象とする「創業塾」をはじめた。フェニックス研究会のスタートである。そして年1回大ホールを2日間借り切って大々的なフェニックス祭を3年間続けた。フェニックス研究会は毎月開催し、のちには「まちづくり塾」に衣替えし、全国から有名な講師を招いて50回までつづけた。更に福井県の伝統工芸作家の皆様を応援しようとふくい工芸舎を作った。これは長野の善光寺表参道に作った信州の工芸作家支援の工芸舎につづくものである。更に日本酒業界の苦境を見るにしのびず、九頭龍地酒百蔵を福井駅前に開設。酒蔵めぐりツアーや愛酒会「五百万石大名会」を支援している。JR福井駅構内と小松空港構内にPR看板を設置している。そして2年余り前から「ブータンミュージアム」を開設し福井中心市街地活性化に取り組むと同時にブータン王国との友好促進に努力をつづけている。企業もNPOも社会の公器である。全ての物事に利他の心、十方よしの考えで取り組んでいる日々である。感謝の毎日である。

宇沢弘文博士

12月17日
宇沢弘文博士
NHKテレビで故宇沢弘文経済学博士の紹介があった。寡聞にして先生のことを全く知らずに過ごしてしまった。経済学者でありながら、現場重視の理論を貫かれて、到達されたのが「世界を救う医者」である。「社会的共通資本主義」という名の新しい経済学理論を展開されている。資本主義が「市場」を優先しすべての機能をまかせているのに対して、それでは格差社会が出来てしまい、格差がとてつもなく広がってしまうと断定し、新理論を展開された。人間が人間らしく生きるための理論、利益をターゲットにしない経済社会のための理論、弱者によりそう理論、もう一度今は亡き宇沢弘文博士の弟子となって、その理論と生きざまを学びたい。東日本大震災の直後に亡くなられた先生の言葉は「絆をとり戻してあげたい」だったと未亡人のお話であった。

才能に光を、ベンチャーに資金を

12月10日
才能に光を、ベンチャーに資金を
自動運転の車が走り出した。水素で走る車が売り出される。GPSの精度が上がり、宇宙から人間の観察が可能になりつつある。青色LEDの発明は世界を変えつつある。これは日本人が発明した20世紀最大のものになった。日本にも素晴らしい才能が数多く存在する。日本の資金の蓄積量も世界トップクラスである。大企業は海外へのシフトを強めており、国内での投資が少ない。しかしベンチャーは育ちつつある。ベンチャーへの投資がどんどん行われる環境づくりが必要だ。先日ブータンミュージアムへ来た女性が「軽井沢へビルゲイツが来る」という情報をくれた。ビルゲイツやソフトバンクあるいはネット関連企業のオーナー達は、ベンチャーへの投資に熱心だ。しかし反面、公共も金融機関もベンチャーを見る目はさえない。いや冷たいといった方がよい。これでは日本のベンチャーは育たない。若者への温かい視線、そして支援が行われることに期待している。

賽銭箱

福井は信仰のまちである。どんな小さな村落に行ってもお寺とお宮が必ずある。鎮守の森がある。村はずれにお地蔵さんが立っている。そしてお賽銭箱が置かれていることが多い。先日ブータンミュージアムを訪れた方がここはお寺のような気がする。お賽銭を上げたいが賽銭箱はどこだといわれる。思わず募金箱の方へ案内させていただいたが、「お寺のようだ」といわれた一言に気付かされた。「ブータンは国全体がお寺なのだ」「人々が信仰深いのも、物質への執着心が薄いのも、そのためなのだ」私はその老夫婦の後ろ姿に、深々と心からのおじぎをしていた。

遠来の客

11月11日
遠来の客
朝電話が入りブータンの教育について話を聞きたいとのこと。ティンプーにある私立のペルキルスクール訪問から帰ったばかりなので喜んでお会いした。図画の先生を養成する大学の教授であり、ブータンの伝統工芸の十三科目についても十分に理解されており、ブータン小学校を訪問され研究されており、教えることは何もなかった。ただ私は数日前にブータンから帰国したばかりで、熱気が冷めておらず、つい長い時間語り合った。ブータンの教育の歴史は日本の戦後教育と比較しても短く、まだこれからである。特に小学校での図画、音楽は始まったばかりだ。底に仏教の情操教育が流れているが、独創性をのばすための教育はこれからである。画材を送ったり、楽器を贈ったりと草の根運動を始めたばかりである。先日王立ブータン大学総長におあいしてきたが、そこの大学の研究員とも面談されており、私の方が逆に刺激を受けた一日となった。クズザンポー。

五百万石大名会

11月8日
五百万石大名会
ホテルフジタで、先日第14回地酒と季節の料理を楽しむ会を開いた。今回の酒蔵は大野市の真名鶴酒造の代表泉恵介さんである。大野市は「乾杯条令」を出した県内初の市である。そして泉さんは地酒を世界に広めたいと次々と新たな挑戦を続けている。その1はトキノシズク2000という名の純米吟醸酒。中竜鉱山跡の地下坑内で11℃で14年間熟成させた銘酒。まことにまろやか。その2はシェリー樽熟成大吟醸樽出原酒。スペインで15年以上使用した古いシェリー酒の樽を使い、大吟醸を貯蔵熟成させたもの。色は山吹色、やわらかな酸味がありエキゾチックな味と香り。その3は大吟醸福一、香りのバランスが最高で、さすが東京農大出身の秀才の作ったもの。一口ずつがとても貴重な雰囲気、品評会の最高賞も納得がいく。その他数種類を和食と共に楽しみ久しぶりに酩酊した。大野盆地に4蔵あるが、大野は銘酒の産地。その人情の純朴さと共においしい地酒の生まれるところだ。

貧乏人の畚持ち

10月12日
貧乏人の畚持ち
古来よりの収税法は物納が中心であり、物を持っていない貧民は労役で税を払った。金納での税の支払いが制度化したのはごく最近のことである。畚(もっこ)という字を知っている人は多くはないと思うが、「もっこ」は縄を網状に編んだ土石運搬用のもので、今でも人海戦術の土木工事現場で使われているのをよく見かける。「貧乏人の畚持ち」はこの状態を表わしているが、真意は「貧しい人にかかわらずお金持ちに付け届けをする」ことである。転じて「自分は貧しいのに他人の窮状を見るにしのびず率先して救援する。」或いは「貧者の一灯」にも通じる言葉である。
NPO法人が正式に認可されて早3年目を迎えたが、善意の方々のご支援に感謝感激の毎日である。昨年に引き続き、今年もブータン政府に「ワンデュポダン」復興の一助に義損金をお届けする予定である。

不の連鎖

10月11日
不の連鎖
不安が世界を覆っている。報道されているニュースは常にテロや戦争或いは争いに関するものが多い。私はマスコミの方々にいつもお願いしているのは「明るいニュース」「有意義なニュース」を発信してもらいたいということである。なぜなら世の中を明るくする義務があり、人々を良い方向に導く使命をマスコミが持っていると信じているからである。先日精神病院の医師の卓話を聞く機会があった。精神病、特にウツの患者が急増しているとのことであった。そして精神的に追いつめられて自殺する人がふえているそうだ。GDP大国の日本で、世界トップクラスの繁栄を誇る日本で、戦争のない平和を愛する国日本で、なぜ自殺者がふえるのであろうか。マスコミの方々ともう一度この点について話しあいたいと思う。不安社会を作り上げているのは私達に責任があるのではないだろうか。

和ものを大切に

10月5日
和ものを大切に
聖徳太子が日本の憲法の嚆矢である「十七条憲法」の最初に「和を以て貴しと為す」とされた。これが日本精神を象徴する言葉である。それ以来常に和の心はいつの世も私達の心に生きつづけている。和服=着物をはじめ、和ものといわれる日本芸能、日本芸術など、あらゆる分野の底流には和の心がひそんでいる。日本文化を世界に発信し、国境や人種をこえた平和を望む私にとって「和もの」ほど頼りになるものはない。これからは隠れた和ものの発掘を心がけていきたい。 

なぜ

9月20日
なぜ
問題に直面した時、「なぜ」を5回繰り返せがトヨタ流。現場の力を意味している。「なぜ」は小さな子供の常套語である。「なぜ」を繰り返す幼児の質問に、辟易したことを経験した人は多い。「なぜ」を繰り返し考えることで人は成長する。「なぜ」を5回も繰り返して考えるクセをつけているトヨタは強いはずである。

ありがとうの言葉の力

9月14日
ありがとうの言葉の力
東京で暮らしていた頃、ありがとうという感謝の言葉を使う機会が少なかった。福井で生活していると1日何回もこのありがとうを使う。不思議な言葉である。心をこめてありがとうというと必ず笑顔が返ってくる。気分が明るくなる。私はありがとうを1日100回心して使うようにしている。だから毎日が楽しい。感謝の生活は人の心を豊かにする。明るく元気な毎日のために「ありがとう」を忘れずに。

戦後69年

9月13日
戦後69年
人生50年といわれた頃に生まれ、敗戦に泣き、戦後69年が過ぎた。「不戦、非戦の旗を下すな」は私達戦後派の合言葉である。中国の侵略に世界の耳目が集まっている。平和への希求が今ほど重要な時はない。私は高齢をも顧みず、平和への祈りを捧げたいと願い、ブータンの幸福の先進性を世界にアピールすることにした。同時に日本文化の基礎をなす「和の心」を世界中に伝えたいと熱望している。マッカーサー司令官はアメリカの議会証言で「日本が太平洋戦争に巻き込まれたのは、資源確保の自衛手段であった」と証言した。この事実を知る人があまりに少ないことに驚く。

冬虫夏草

8月13日
冬虫夏草
金と同じくらいに高価だといわれるものに冬虫夏草がある。ヒマラヤの高山の奥でしか採れない。ブータンで毎年市がたつ。漢方薬の白眉であるが、日本では薬品と食品の中間に位置している。ブータンの薬草研究所の隣に薬草博物館があり、そことの業務提携が目下進行中である。そこでも展示・販売されている。薬効はガンに効くとのことであるが定かではない。環境科学研究所の友人に鑑定を依頼したいと考えている。

西岡京治をしのんで

8月6日
西岡京治をしのんで
日本で初の西岡京治展をブータンミュージアムで開催中。ブータン政府諸機関の後援をいただき、資料の収集制作にスタッフ一同頑張った。今から50年前に、夫婦でブータン王国へ農業指導専門家として渡り、その地で生涯を終えた。ブータン農業の父。JICAボランティア活動の先駆者。調査すればする程、彼の魅力にひかれていく。日本人として真に誇れる人物だ。彼の情熱を学んで日本の農業再生に生かしてほしい。企画展は11月9日までつづく。

マイナスからの出発

8月3日
マイナスからの出発
日本酒業界の苦難の時代があった。バブル全盛期の頃の中小酒蔵は、バルク買いといわれる酒蔵の生産量を大手の酒蔵に丸ごと買上げられる状態が続いた。京都伏見や兵庫灘の酒蔵へタンクローリー車で販売していたのである。バブル崩壊後、この方式が中断し、自分が自分で売るという以前の販売方法に戻っていった。安易なバルク売りに浸っていた酒蔵は、お客様の日本酒ばなれの中で、厳しい経営を迫られた。日本酒の販売量が毎年前年を下回り、倒産廃業の嵐が吹き荒れたのである。永年親しんできた地元の酒蔵が苦しんでいるのを見るにしのびず、JR福井駅前に小売店舗(アンテナショップ)を開店し、福井の地酒だけを売ることにした。福井県のおいしい日本酒だけを販売する店である。同時に南青山291での福井県の地酒のPR会、そして福井の地元での愛酒会「五百万石大名会」を開催、福井での酒蔵めぐりツアー(京福バス協賛)もはじめた。あれから5年が経過。マイナスから出発した福井県の地酒の蔵元は次々とヒット商品を創り出し、地酒ブームとあいまって経営は軌道に乗りつつある。その中の酒蔵に伊藤酒蔵がある。福井市の西部で一人の杜氏がすべての酒造りを行っている。おそらく日本中でもこれほど零細な酒蔵は少ない。しかし味がよい。香りもまたよい。すべてが小作りという小さなタンク毎に作っていく全くの手作りである。初夏の一夕、福井市中心部の足羽山腹の御りょうり離世(はなせ)で、庭に松明をたいて、薫酒大吟醸酒と日本料理の粋を楽しんだ。至福の一時であった。伊藤酒造は限定販売しかしない(できない?)ので、すべてがまぼろしの酒である。日本酒は冷酒の時代を迎え今や世界が求める時代に入りつつある。チャンス到来だ。独身の杜氏に良縁がある事を祈りたい。

肖像権と著作権

7月30日
肖像権と著作権
ブータンミュージアムに365日ほとんど毎日勤務している。いろんな人が訪れてくれる。特に最近ケイタイやiPadで写真をとり、自分のフェイスブックにのせたいとの希望が多い。ブータンミュージアムはすべてボランティアで活動している。写真の提供も展示品の提供(ブータンよりの仕入は有料)もすべて無料、説明する私達も全員がボランティアで無給である。ところがテレビ局や新聞社、雑誌社から肖像権や著作権を云々されるケースがふえてきた。入館料もなしで、すべてボランティアで活動している私達ではあるが、肖像権、著作権についての紹介は多い。何故そんな事が重要視されるようになったのか明確ではないが、まともに話を聞いていると巨額の金額を要求されかねないことになってしまう。悪用は困るが、正しいことに利用するのは決してまちがってはいない。そう信じている。いたずらに権利を主張して巨額の報酬を要求する風潮には毅然たる態度でのぞみたい。

十年前

7月20日
十年前
机の引出しの奥を整理していたら、十年前の親書が出てきた。差出人はかつてご厄介になった方々ばかりである。セメント会社の社長会長からが多い。三菱の藤村正哉、秩父の諸井虔、大阪の濱田G圭、住友の今川彦二、全生連の石松義明、敦賀の栗原隆そして三谷商事の三谷宏治、多田順四郎、野坂伊八、それからトヨタの豊田章一郎、日本電気、日通工の江頭年男、恩師の小野高治などの、諸先輩の方々からの暖かい激励のお便りを発見した。三浦印刷の三浦剛治氏は今でも私達の主取引先である。十年前とは思えない程の臨場感をもって、一枚一枚再読させていただいた。既に鬼籍に入られたお方もあるが、そのお言葉に胸が熱くなった。十年前は創業8周年を迎えた年であった。それから十年、現在は眼前にまた幾多の峨峨たる山々がそびえ立っている。難関の連続である。一つの難関が「ブータン」である。ブータンミュージアムを運営するNPO法人を立ち上げて3年目に入る。ブータン王国への支援を通して、「幸福とは何ぞや」を再考し、幸福を通して世界平和の実現への一歩を踏み出そうとしている。二つ目の難関がその為のツールとなる「インターネット会社」の設立である。時は今と見て、「ゲン株式会社」を設立した。e−ラーニングに関する話題が多いが、この「ゲン」は日本を、日本文化を、日本企業を、日本の技術を世界に紹介するためのネット上の発信企業である。日本語と英語のバイリンガルで発信する。海外へ雄飛したい若者、女性、中高年の方々、日本を愛し、平和を愛し、環境を守り、子孫繁栄を心から願う方々の参画を求めたい。世界中の人々を雇用し、共に考え、共に行動するそんな新しいタイプのコーポレーションをめざしている。ゲン株式会社の英文名はグローバル、イングリッシュ、ニッポン、インターネット、コーポレーションと名付けた。日本人の英語でのディベート力、ネゴシエーション力の強化にも役立てたい。またビジットジャパン、日本観光へのガイド役をもつとめたい。そんな大きな夢に向かって歩き出している。

ロイター通信の訪問を受ける

7月19日
ロイター通信の訪問を受ける
先日外人記者2名がブータンミュージアムを訪れてくれた。あいにく私は外部で会議に出席中で会えなかったが、スタッフが応接してくれた。日本語がうまいとのこと。7月にブータンの首相一行が来日するので、その時東京で会う約束をした。ブータン訪問記の本(写真集)を出版した木村順子さんも東京の外人記者クラブのメンバーである。外人記者クラブの皆さんが私達の活動に興味を持ってくれているのにあらためて感謝。美人の木村記者の写真集はBMで販売中。評判がよい。

発信力

7月12日
発信力
どんなよい商品を開発しても、周知徹底ができなければ、それは情報の谷間に埋まってしまう。現在のように数多く情報がとびまわっている時には、効率的な情報発信を行うことが求められる。私がトヨタビスタ福井の代表者であった今から30年余り前に、パブリシティ活動に必死で取り組んだ。人口80万人の福井県のディーラーとして他のライバル(全国で360社以上あった)に負けないためにはユニークな発想が必要であった。今思い出しても面白いアイデアを次々と考え出したものである。参考までに列記してみると
1.他者のよい所を徹底的に調べて、少し工夫してその真似をした。
2.マスコミを味方につける努力をした。
3.マスコミに情報提供ができるリソースづくりに努力した(ミスインターナショナルの美女三人毎年招いた等)
4.ユニークなイベントを企画、定例化した。
5.ユニーク経営を推進し、店頭販売に注力、少ない営業マンで効率よく販売する為の工夫をした。(ショールームに資金投入、ビスタレディ採用、日曜営業、大型店舗での出張展示)県内に宣伝カーを走らせて交通安全、シートベルト着用、来場を呼びかけた。(営業マンが交代でその車に乗る)
そんな涙ぐましい努力を続けた結果、私の任期中5年間は全トヨタディーラーの中でトップのパブリシティ活動を認められ、業績向上に貢献できた。上記5つの項目は時代が変わっても、業種・業態が変わっても活用できる手法だと思う。ブータンミュージアムの周知徹底のためにこれを再利用するつもりである。

寄付文化

7月11日
寄付文化
日本には寄付文化が乏しいといわれている。西洋では富める者、地位の高いものは、貧者に施しをすることを義務と考えている。社会的奉仕と考えている。Noble Obligeと呼ばれて社会規範になっている。それに反して、日本では神社や寺院にお賽銭箱はあるが、一般向けに寄付をする人は極端に少ない。特にお金持ちといわれている人は、出したがらない。福井県は共働き世帯の比率が多く、一世帯当たりの貯蓄率が非常に高い。しかし毎月の出費は極度に質素である。ところが使うべき時には使う習慣があり、葬儀や結婚式は派手である。ところが寄付はなかなか集まらない。この理由は何だろうと考えてみて外国との差に気付いた。それは寄付に対する税制の差である。日本では寄付をしても税金は殆ど戻ってこない。NPOやNGOをどんどん作って民間の活力を上げようといわれているが、NPOに個人で寄付をしても税制上の優遇措置は全くない。企業の寄付についての税制優遇は微々たるもので無きに等しい。寄付文化を日本に定着させ、日本経済を下から盛り上げる意味でも、寄付に対する優遇税制を早急に整備する必要がある。学校法人、医療法人、財団法人、宗教法人等への優遇制度はあるが、肝心のNPO、NGOに対するものはない。これではNPO、NGO活動の活性化が望めない。

福井県国際交流関係団体連絡会に加入

6月29日
福井県国際交流関係団体連絡会に加入
6月14日の総会に出席し、正式加入のお礼を申し述べてきた。この団体は20年以上の歴史があり、福井県下に住む100ヶ国以上の外国人の方々と交流をはかっている。団体は出席されたものだけで30団体、欠席をあわせると55団体とのこと。私は大武市長の頃、福井市に福井市貿易振興協会を発足させ、外国からのバイヤーや観光客、留学生たちを支援する協力活動をやっていた。1974年頃から1988年頃までの15年間ほどであったが福井市長にお願いして「シティキー」(真鍮金メッキの立派なもの)を作成し、市長から渡していただいた。その頃と比較すると、福井県下での国際交流は格段にすすみ、多くの方が海外で事業をされている。まさに隔世の感がする。私達も新加入の一員として責任を果たしていきたい。また会員団体各位との交流をはかるよう地道な努力をつづけたい。

今枝良郎先生のメール

6月24日
今枝良郎先生のメール
先日メールが入った。神戸外大の三木記念館で先生の講演があるとのこと。更に龍谷大の大宮学舎清和館で先生の講演があるとのこと。ブータン定住をお考えの忙しいなかでのご奉仕に心から敬意を表したい。テーマは2回とも日本仏教に対する先生のご高説を拝聴できると同時に、ブータンへの想いをあらためて語られることであろう。私達は神戸での講演を拝聴する予定である。

車の国内市場

6月15日
車の国内市場
日本の自動車販売のピークは1990年の777万台であった。2013年は537万台とピークの水準から240万台も減少している。31%減である。軽自動車は逆に30万台増加しているので、登録車だけでは45%減となっている。今後の国内市場の大幅回復は難しいと思わねばならない。今迄は伸び続けてきた国内の自動車保有台数は約7500万台、すでにピークアウトしており、小康状態が続くと思われる。私達の車関連ビジネス業界は、この保有台数の維持によって、恵まれた経営環境にあった。自動車業界のすそ野が広いといわれるゆえんである。その中にあって最近の軽自動車比率の上昇は、これからの日本の車業界を大きく変えていくことになろう。軽自動車は日本独自の規格である。ガラパゴス化しかねない規格であるが、私はこの開発を進めていくことは地球温暖化対策にもなり、省エネ、省資源対策にもつながるものと考える。車はより軽く、より柔軟に、より安くなる必要がある。その為にも軽自動車という新しいイメージをもう一度再検討し直すと面白い。今太陽光発電付人力自動車はゼロエミッションに近づいている。世界一のエネルギー効率で走る車はほとんど燃料を必要としないのである。この可能性の追求には、交通システム、走行システム、高速道管理システム等の改善との合わせ技が必要となろう。
どの分野にも可能性は山ほどある。

リニア時代

6月11日
リニア時代
東京・名古屋間にリニア中央新幹線を走らせる計画がいよいよスタートする。2027年開業の予定だ。政府は大阪までの延伸を2045年開業でなく、名古屋開業の時期に近付けるようにするためにJR東海の単独事業から国家プロジェクトへの格上げを決定する。時速500kmで走り、東京・名古屋・大阪周辺はそれぞれメガロポリス化する。途中駅の山梨・長野・岐阜・三重・奈良はその恩恵を受ける。それ以外の都市は疲弊する可能性が高い。福井や京都、金沢、富山、新潟などは何らかの手を打っておかなければならない。福井は何をすればよいのだろうか。幸福の国福井県の本領を発揮し飛躍の時を迎えようとしている。

オープンエデュケーション

6月10日
オープンエデュケーション
ブータン王国との交流拠点として福井市の中心街地にブータンミュージアムを開設して、はや3年目を迎える。ブータンのGNH思想に共鳴し、日本ブータン幸福学会の設立をめざしているが、思うように進展しない。事務局はブータンミュージアム内においているが、外部への発信はブータンミュージアムに「おんぶにだっこ」となっている始末だ。そこで原点に帰って構想を練り直し、ツールとして考えていたインターネットを活用し一歩を踏み出すことにしたい。「オープンエデュケーション]である。そして「日本語と英語」によるバイリンガルの講義をネット上で、すべて無料で発信するつもりだ。目的は日本語を世界の人々に学んでいただく機会を与えることと、日本人の英語力の向上に資すること。そしてみんなが真の幸福とは何かに思いをめぐらし、ひいては世界平和の機運を盛り上げることを願いたい。

そば道場

6月3日
そば道場
福井県はそばが名物である。そばにけずりのかつお節と大根おろしをかけた手打ちそばである。福井県下どこへ行ってもおいしいおろしそばを楽しむことが出来る。福井市から約30分余り走ると池田町につく。人口3000人の小さな町であるが、この町に「そば道場」がある。そば打ち名人や有段者の名札が壁にずらりとかけられている。そば文化健在を示す光景である。家族連れが先生の指導で夢中でそば作りに精を出している。自分で作ったそばのおいしかったこと。やってみないとわからない。山菜のてんぷらもおいしかった。もちつきもやっていたので、食後にぜんざいもいただいた。ブータンからのお客様の話に花が咲いた。今年3月に大学生25名が来たとのことである。ブータン王国はそばで有名だが、ブータンのそばの花は白でなくピンク色である。

ハッピーデー

5月28日
ハッピーデー
GNHとはブータン政府が掲げる国家目標である。憲法にも記されている。国民全体が幸福に満ちみちて生活できることを目指しているのだ。日本の憲法にも唱えられている。日本国民は等しく幸福になる権利を有していると・・・。そのブータンが国連で提唱し、国連が制定したのが、「3月20日はハッピーデー」である。
世界中の人々が「3月20日」を「幸福の日」として、人類の幸福を考え、すべての人々の幸福のために行動することを求めたのである。この素晴らしい提言を受けて、ブータンは動き出した。同時に私達も動き出した。ブータンはこの日を国民祝祭日と決めた。私達はこの日を特別な日として、ブータンミュージアム イン 福井の年中行事に取り入れた。そしてこの日3月20日だけでなく、3月20日から1週間をハッピーウィーク、3月20日からの1カ月をハッピーマンスとして、この運動を展開することとした。3月20日はほぼ春分の日と合致する。万物が冬の眠りから覚めて、生命を大きく躍動させる時に当たる。日本でも桜前線が日本列島を北上しはじめる時である。ハッピーマンスの3月20日から4月20日迄は全国で春の祭典が各地で挙行される幸福な平和な時である。このハッピーデーを日本一幸福な県、福井県に住む私達が、全国に向けて、世界に向けて、アピールしようと決意したのである。主旨に賛同する方は是非声を上げてほしい。何をやるかはこれから考えよう。私達が昨年まで考えていた事は「自分の夢、自分の仕事を通して、幸福や平和を招来することを考えその第一歩を踏み出そう」である。何がやれるかは私達一人一人の心次第である。

けやき並木の新緑

5月17日
けやき並木の新緑
裸になっていたけやき並木が4月中旬から新芽を吹き出した。連休に入ると「新緑」という言葉の通り、「目に青葉、山ほととぎす、初ガツオ」の世界が開けてくる。新緑のけやき並木を歩くと、今迄寒さに凍えていた背がシャンと伸びる気がする。背のびしてみよう。けやき並木の上の空は晴れ上がって青い。
福井市の中心街はすべての通りが並木道となっている。そして通りごとに木の種類が異なる。桜通りあり、けやき通りあり、松の通りあり、すずかけの通り、イチョウといろいろである。春の花、夏の緑蔭、秋の紅葉、そして冬景色の黒い枝ぶりに降る雪景色。いつでも福井に住む幸せを満喫できるのである。

南アルプス市

5月14日
南アルプス市
日本で唯一のカタカナ名の南アルプス市は山梨県にある。私達の会社の提携先であるサニカの本社がそこにある。静岡からフジカワ線に乗り、富士駅から富士川に沿って北へ入る。途中には富士登山口の富士宮や創価学会ゆかりの身延山がある。甲府の少し手前で下車すると南アルプス赤石山脈が連なっている。3000mを超える山々の連壁である。サニカはかつて日本電産系列の三協精機の子会社であった。その工場は今パイオニア工場となっていたが、操業を停止している。企業の栄枯盛衰の激しさをしみじみ感じさせる。サニカは隆々と盛業中である。会長社長と面会し、ゴールデンウィークといいながら商談はスムーズに進んだ。NPOへの支援要請にも快諾をいただき、帰福の途中には夕映えの富士山がピンク色に輝いて私達の前途を祝福してくれた。道中の車窓から見る芽ばえの新緑の美しさに至福の時を過ごすことが出来たのである。

ブータンミュージアム通信の編集

5月11日
ブータンミュージアム通信の編集
第5号の編集が終盤にさしかかったが、ゴールデンウィークに入り、原稿が遅れがちである。どうすれば〆切日までに原稿が揃うのかと思っていたが、自分のブログの書き方に気が付いた。暇なときに数日分を書きためておくと緊急の時に使えるのだ。BM通信にも使えそうなアイデアだと思う。早速編集会議で提案しようと思う。シリーズ化も面白い。読者欄の充実も必要だ。考えればアイデアはいくらでもわいてくる。各方面から私への投稿の依頼が来るようになった。有難いことである。逆に私達の方からも、寄稿のご依頼をすることも考えていきたい。第4号の福井県知事西川一誠氏の寄稿は大好評であった。

駒ケ根市より珍客

5月4日
駒ケ根市より珍客
ブータン王国に3年間JICA所長として勤務されていた仁田知樹さんは現在、駒ケ根市にある研修センターの所長をされている。3月20日のハッピーデーの記念講演会に甲南大学の真崎克彦准教授とともに来福いただいた。その長野県の駒ケ根市から市議会副議長三原一高氏が来館された。全国市議会議長会に出席されてブータンミュージアムを知ったとのことである。私が説明に立ちあったが、仁田所長と市民との交流がすすみ、駒ケ根市にとってJICAの研究所がとても役に立っているとのことである。長野県は日本の中心であり、駒ケ根市は駒ヶ岳を背にした市でブータンによく似たところである。福井県もほぼ日本の中心にあり、JICA等の研修施設を誘致するのに最適のところと思われる。JICEの研修センターにも最適であろう。

ブータンヒマラヤ

4月30日
ブータンヒマラヤ
ブータン王国はヒマラヤの麓の国と言われているが、訪れてみるとだいぶ趣が違う。ヒマラヤの麓ではなく、ヒマラヤ山中の感がする。6000mを超える山々が14座ある。最高峰はガンカ・プンスム7564m。そしてチョモラリ7314m、カンプガン7210mと続く。マサガンは7194m、そしてジェジェカンプガンも7194m。マサガンは日本人が初登頂した山で、その一員が私達の友人である。今回福井県の山岳連盟の総会に招かれて、登頂者の月原敏博副理事長が講演することとなった。名誉なことである。ブータン王国の山々はまだ処女峰が残っているが、信仰の理由から登山を制限している。トレッキングコースは完備しているので、山歩きは奨励されているが、私はまだトライしていない。酸素の少ない所でアップダウンの激しいコースは私には難しい。ただ空気が澄んでおり、水がキレイで、山々の姿が神々しいので、ゆっくり歩くだけでも価値がありそうだ。一度はチャレンジしたいとは思っている。

文化交流

4月29日
文化交流
ブータンとの文化交流を始めて早や2年が過ぎた。音楽から入り、電子ピアノの贈呈から始めた。今春4台目のピアノをインドカシオで購入し、首都ティンプーで私立学校(PPという0年生から小、中、高の一貫教育を目指している)へ持参した。日本人の先生が3名ボランティア等で教えられており、喜んでいただけた。子供達が日本語で「幸せなら手をたたこう」を歌って踊ってくれたのには感激した。次はカスタネットやタンバリン、ピアニカ等、日本で押し入れの中で眠っている、使われていない楽器を集めて送りたいと思う。知人、友人に声をかけて集めはじめたい。またタラヤナ財団という慈善団体があり、そこへの電子ピアノの贈呈もつづけている。四代国王妃が総裁をされていて、活発な活動をされており、特に地方への目配りの暖かさに敬服している。

キラリ会

4月27日
キラリ会
今月のキラリ会は焼鳥のチェーン店の老舗、「秋吉」の片岡常男社長をスピーカーに迎えた。71回目の会合である。転勤族のメンバーにとっては、「秋吉」は全国各地にチェーン店があり、他人とは思えない店である。焼鳥という日本人にとっては身近な食材であり、決して高くない庶民的な料理であり、そして何よりも元気になれる。「社長いらっしゃい」のかけ声もユニーク。対面販売の見本といわれてきたが、今日も大繁盛である、キラリ会の出席者は、情報交換の機会に恵まれると同時に自社のPRも可能である。友人の獲得にも多大な効果がある。私にとっては福井県都再生について、豊富な他県での知識経験に基づく有益な意見を聴く貴重な場となっている。会のメンバーは転勤族が過半を占めているので、期せずして、会の活性化がはかられている。有難いことといわねばならない。

第4次ブータン訪問団

4月16日
第4次ブータン訪問団
今秋9月24日関空発でブータン王国への訪問団の参加募集をはじめることとした。10月1日関空着の8泊9日の旅である。メインイベントはブータンの首都の周辺でボランティア活動を行っている日本人の若者を激励し、同時にブータン政府の幹部達との交歓会を開催する予定。そして全焼してしまったワンデュポダンゾン(古い文化遺産でもある政治宗教の中心)の再建支援金の進呈。首都ティンプーの祭典(ブータン最大の祭)の見学を予定している。途中のタイのバンコックで1泊するので、買い物を楽しむことも可能だ。ブータンの幸福を体験し、これからの人生を考えるよい機会となることを願っている。主催はブータンミュージアムとJTBの予定。参加費用は福井発着ですべての食事代、パーティー費用、国内旅費等を含めて約40万円(円レートの変動により多少上下する)。申し込みはブータンミュージアムへ。

有利子負債

4月13日
有利子負債
経営改革を行う場合に3つの方策がある。一番効果が上がるのが人員削減の人員リストラである。アメリカではごくごく一般的に行われるが、日本では抵抗が強い。第二は資産リストラといわれる有利子負債の圧縮を資産売却によって行う方策で、これが最も多い。第三の方策は事業リストラでこれまた大きな困難をともなう。リーマンショック以後、上場企業は一貫して有利子負債の圧縮をすすめてきた。それがここ一年以上に亘り、反転して増加している。デフレ経営から積極経営にカジを切り、有利子負債を逆にふやしつつある。一年間で20兆円近くをふやしたのである。アベノミクスの第三の矢が放たれたと考えるべきだろうか。これからの展開が楽しみだ。

高梨沙羅

4月8日
高梨沙羅
女子スキージャンプで最高のスターが誕生。サラちゃんだ。152センチと小柄だが安定した前傾姿勢が美しい。スキーと一体化して、いつも最長不倒距離を出す。弱冠17歳の高校生。オリンピックでは悪コンディションの為か金メダルを逃したが、実力は世界一だ。最近日本女性の世界での活躍がふえているが、サラちゃんはその中でも光る存在だ。精進を続けて、世界のスキージャンプ界の女王として、私たちの希望の星の座を守ってほしい。

講演会依頼相次ぐ

4月6日
講演会依頼相次ぐ
ブータン王国やGNH、ブータンミュージアム等に関する講演の依頼が増えてきた。ブータンミュージアムの衆知を徹底し、「幸福」について多くの方々に考える機会を提供することを私たちの使命としている。同時に福井のまちなか活性化のために、ブータンミュージアムを知ってもらい、賑わいづくりに役立ってほしいと考えている。今回は福井県山岳連盟からと、北陸建築家協会からの要請である。喜んでお受けすることとした。講師は月原敏博副理事長と私が担当する。テーマの選定やレジメの作成に時間をとられるが、これもまた楽しい作業である。

建築界のノーベル賞

3月30日
建築界のノーベル賞
米のプリツカー賞を坂茂さん56才が受賞した。日本人としては安藤忠雄さん等につづき7人目である。今回は紙や紙管などを使い、特別に安価なもので施工できる工夫がすばらしいと認められた。エコの時代であることを痛切に感じる今回の受賞である。若い頃に私も建築家にあこがれた。最初に建てた岐阜の家は私自身の設計である。庭も車庫もバルコニーも階段もすべて夜なべ仕事で設計した。それ以来いくつもの建物をつくってきたが、設計の仕事は面白い。油絵と同じように、まっ白いキャンバスに、自由に自分の夢をつくり上げていくのだ。喜寿を過ぎて夢を語りつづける私に、まわりの者はソデを引く。死ぬまで夢を追いかけたい。建築家の友が多い。有難いことである。昨年安藤忠雄さんの講演を聞いた金沢で、北陸建築家協会の総会がある。私に講演をせよとの依頼が来た。荷が重すぎるが、何とか準備をはじめつつある昨日今日である。

特設コーナー

特設コーナー
県立図書館でブータンや幸福に関する本(貸出可)と西川知事がブータン王国訪問時の記念品等を展示するコーナーが開設される。3月11日(火)から4月13日(日)までの約1ヶ月間。写真やポスターの展示も行われるのでぜひ見ていただきたい。ブータンミュージアムにもブータンの本棚がある。内外のブータン関係本、幸福学に関する本、仏教関係の本などを揃えて、来館の方々への便宜をはかっており、説明、解説、相談に無料で応じている。

木漏れ日の小径を

3月23日
木漏れ日の小径を
彼岸をすぎ、春を思わせる陽気に誘われて、福井中央公園を散策した。紅梅の香りを楽しみ、木漏れ日の小径を歩く。心静かに今日のこの一日の幸せをかみしめる。顔を上げると福井城址の天守台が見える。江戸時代の初期に徳川宗家に次ぐ68万石の大々名として徳川一門の筆頭の地位を得ていた頃の天守閣の幻が浮かぶ。大火により炎上して後、再建されることなく今日を迎える天守台である。存在しない天守閣だけに思いが広がる。中央公園は、私のいるブータンミュージアムから歩いて5分とかからない。福井城のお濠に面して、戦災や震災の後に整備され、木々は大きく育っている。私にとっては大切な散歩道である。そぞろ歩くと次々と新しい夢が浮かんでくる。希望の小径である。

ブータン大学生

3月21日
ブータン大学生
ブータンの大学生等25名が過日ブータンミュージアムを訪問。約1時間のレクチャーの後、1階、2階の展示室を見学した。未だに英文の説明文、カタログが完成していないので、役員が総出で英会話で説明に当たった。ワンデュポダンゾンの大火災の復旧を願って募金活動をやっているのに感動し、ブータンのお金で3千ヌルタム(日本円に直すと約6千円)の寄付を全員の感謝の気持とのことでいただいた。ブータンの国家公務員の月給の5分の1に相当する大金である。有難く頂戴した。去年は2千USドルを寄付して感謝状をいただいたが、今年もまた9月の第4次訪ブ団の折ブータン政府へ寄付を予定している。今月末から10日間の予定で訪ブするが今回はタラヤナ財団へ電子ピアノを昨年に引き続き寄付する予定である。

ハッピーデー

3月19日
ハッピーデー
3月20日のハッピーデーにちなんで「幸福」を共有し、日本全体が現状に感謝しお互いが支えあう社会の実現を目指したいと願っている。そのため3月20日のハッピーデー、その後のハッピーウィーク、ハッピーマンスの普及浸透をはかる運動をはじめた。現在趣旨に賛同いただくお店、企業、施設が60を超えた。来年には1000ヶ所のご賛同をいただけるよう続けて努力していきたい。ハッピーデーはブータン王国が提唱し、国連が一昨年制定し、昨年の3月20日から実施されている。ブータンでは国民祝祭日になった。日本もそうなるよう働きかけていくつもりだ。世界全体で「幸福で平和な日」として手をつなぐ運動が広がることを望んでいる。

小松空港

3月15日
小松空港
北陸新幹線金沢駅開業があと1年後にせまってきた。金沢周辺の人は、今まで小松空港を利用して東京へ往復していた。それが来年度以降は新幹線利用にシフトする。その影響はもろに小松空港にくる。今までは金沢を向いていた小松空港の姿勢は、福井方面へ変更せざるを得ない。小松空港は、来年からは、福井県を中心に経営することになる。展示、販売用の商品も変わる。今までは石川県産品が8割、福井県産品はいくら強く依頼しても2割が上限であった。福井県の地酒の取扱いを見てもよくわかる。福井県の地酒38銘柄の内、展示販売しているのは僅かに梵、黒龍、一本義だけである。今後は福井県として小松空港側へ強力に働きかけて、福井県産品のウェイトを高めていく必要がある。羽田、小松便の減少が云々されている中で、「私達の小松空港」としての活用方法を徹底的に議論し、対応を急ぎたい。

長寿企業

3月12日
長寿企業
日本には世界一という宝物がいくつもあるが、ダントツの一位は長寿企業である。100年以上つづいてきた長寿企業は正確なデータによるものだけでも2.7万社ある。通説では4万社ともいわれている。最古の企業はAC578年創業の金剛組(建設業)で世界最古である。業種別に見ると第一位は酒造酒販業で2.7万社中約1800社ある。酒造業だけに絞ると全国で763社、福井県下酒造業は35社。約5%が福井県下にある。人口割では日本一であり、勿論世界一である。業種別長寿企業の第二位は建設業で約4.4%。福井県は土建王国といわれ、継体天皇の頃から治山治水が広く行われていたのでこれまた全国有数である。第三位はホテル、旅館、貸事務所等の貸家業で約4.3%。不動産の有効活用は長寿企業の安定経営に適していることがよく分かる。各県別の100年以上の長寿企業は、福井県が断トツの一位572社である。酒造業をはじめ各業種での生き残りが多い。その長寿の秘密は……検証するに値する重要な経済学の研究テーマである。

不動産投資

3月9日
不動産投資
中国経済の先行きを不安視する報道が多い。リーマンショック後の中国政府による4兆元の緊急投資が不動産に向かい、その不動産が未だに有効活用されていない。それにつけても思い出すのは1980年代の日本の高度成長とそれを支えた株式市場、不動産市場の活況である。そしてその後1990年をピークとしてはじまった「失われた20年」の悪夢のような思い出である。私もその時代の辛酸を身をもって経験した一人。過剰流動性は株式と不動産に流れ込んだのである。株式と不動産は、投資対象として、資金を最も安易に受け入れることが可能である。そしてバブルがはじけた。金融引き締めが急に行われ、総量規制という無謀な政策が突如としてあらわれ、株式や不動産投資に対する優遇策はすべて解消された。そして暴落現象が起きた。中国経済が日本の失敗に学び、軟着陸への配慮を行うことを他所事乍ら祈りたい。日本の株式市場と不動産市場は長い20年の眠りから覚醒し、徐々に上昇に転じつつあるのは好ましいことである。

相手を立てる

3月1日
相手を立てる
「尊縁」という言葉が好きだ。それは「一期一会」につながる。一生にたった一回しか会えない相手に、今会っていると考えれば、その出会いの尊さに気付くはずだ。そして会話の中でも、自分の意見だけを言いつのるのではなく、相手の意見を十分に聞いたうえで、相手を立てることが重要である。最近の日中、日韓の竹島・尖閣列島を巡る論争でも、最も重要な「相手を立てる」配慮に欠けることが多い。明治維新前後においても、国際法に準拠した論争がしっかりと行われていたことを忘れてはならない。国際間では意見の食い違いはしばしば生起する。それを次々解決していくのが外交である。「相手を立てる」ことを忘れなければ、解決の糸口を見つけることができよう。

ブランディング

2月25日
ブランディング
現代は差別化がすすんでいる。自社の商品にブランドをつけることで、付加価値を高めることが出来る。正しいブランドをつけるのをブランディングといい、いくつかの注意点がある。適当に名前を付けるのはなく、商品づくり以上の努力が必要である。まず第一は簡単なもの。シンプルなものにすること。次に企業の理念、商品のイメージに合致したもの。更に自社側からの視点でなく、お客様側からの視点で決めなければならない。「決定したブランド」の価値をアップさせる為の努力が当然必要になる。ブランドを国内だけでなく、グローバルに発信する。福井からだけでなく、東京からも、ネット上でも発信しつづけること。そして発信の方法、デザイン、キャッチコピーに工夫が求められる。変化にすばやく対応していけば必ず生き残れる。時代が求める企業であり続けるかどうかに将来がかかっている。

同志社大学

2月23日
同志社大学
同志社は1875年(明治8年)に京都で創立された。来年は創立140周年を迎える。日本の大学は約800校近く存在するが、その中でも屈指の歴史と伝統を誇っている。卒業生は32万人余り。ところがOBOG会の全国組織や世界各地の組織があり、各地域での会合は実施されてきたものの、校友会(OBOG会の名前)は「リユニオン」として学校法人主催で毎年行われてきたものを除けば、一度も開催されてこなかった。それが今年2月15日に京都洛北の京都国際会館で2000人以上が全国から集まってきた。校友会長はダイキン工業の井上礼之会長、副会長はセコムの木村昌平元会長以下数多くの有名企業のオーナー経営者が勤めてくれている。20年前井上会長がダイキン工業の元社長山田稔さんからから社長を引継いだ懇親会に招かれた私は井上さんが同志社卒と知って親近感を覚えた。その後幾多の困難を乗りこえられて、今日の世界企業に育てられた経営手腕には常日頃から敬服していたが、数年ぶりに親しく話をしてその元気さに驚いた。私の二級上の経済学部卒の先輩である。同志社大学は昨年のNHK大河ドラマ八重の桜で一躍脚光を浴びたが、その創立の精神はユニークである。自由主義、自主自立主義、キリスト教主義、良心主義、平和主義と他の大学とはかなり異なった理想を掲げている。特に「良心を手腕に運用する人物」を育てるという新島襄精神が色濃く残っているのは誠にたのもしい。全国800近い大学の中にあって常にトップに位置し、世界に貢献できる母校であって欲しいと切に願っている、ハーバード大やスタンフォード大が3兆円を超える基金に守られているとのことであるが、同志社大学もその仲間入りが出来るよう校友会も全面的に協力していく必要があろう。

東京よりのお客

2月22日
東京よりのお客
連日東京からの遠来のお客様を迎えて忙しい。今はエアーで小松空港経由で来る方と、JRで米原経由で来る方と2通りである。来年からは北陸新幹線が、金沢まで開通する。所要時間2時間半と早い。一気に首都圏よりの来福者を増やしたいと考えている。その為の秘策を練っているが、よいアイデアをお持ちの方はぜひご教授いただきたい。

ハッピーデー

2月19日
ハッピーデー
3月20日は「ハッピーデー」となった。ブータンが提唱し、国連が制定したのは一昨年で、去年から世界各地でイベントが行われている。昨年は東京と京都そして福井で取組みをはじめた。ブータンもこの日を記念日と制定したのはもちろんである。幸福な県日本一に一昨年輝いた福井県(坂本光司法政大教授クループ調査)の県民として、またブータン王国を愛し、平和を愛し、幸福の追求に生涯を捧げたい私達も、このハッピーデーの普及に注力している。大型ポスターを制作し、無料で配布しているので、希望の方はブータンミュージアムへお問合せ下さることを願っている。

150周年

2月18日
150周年
同志社は2025年に創立150年を迎える。あと11年である。私学であるから、助成金が国立大の数十分の一しか支給されていない。例えば東京大学の年間予算が2000億円に対して同志社大学は400億円である。この400億円を私学は殆ど自力で稼ぎ出す必要がある。勿論東大には医学部があり、同志社大にはそれがないので一概に比較は難しいが、資金的に不利であることに異論はない。しかし東京大学にはない地の利もある。京都の中心に位置しているので、京都は世界的に見ても知名度に遜色はない。逆に伝統文化で東京を遥かに凌駕している。また教師、学生の語学力では東京大学を超えている。東京に比較して京都は人口の一割が学生で町全体が大学の町である。そして京都には20年前から在京全大学が加入する大学連携が行われ、大きな成果を挙げている。この大学連携のリーダーとして、また関西私学のリーダーとして、グローバル時代に更なる成長を期待したい。基金の3兆円を集めようとの呼びかけは不可能に思う人が多いが、数十年間に亘って組織的に積立をしていけば出来る。全校友、OB企業、篤志家等の賛同を得られれば、日本初の巨大基金が出来上がるであろう。井上礼之校友会長の組織を運営する非凡な経営能力に大いに期待している。

喜びとしあわせ

2月16日
喜びとしあわせ
創業のとき、聖書の言葉であり、新島襄が好んで話した「種を蒔く人」に焦点をあてた。「一粒の麦もし地に落ちれば…」である。そこで社是の第一に「喜びの種、幸せの種を蒔こう」と掲げた。ブータン王国の第4代国王がブータンの国語であるゾンカ語にHappinessはない。「うれしい」や「楽しい」はあるとの言葉を聞き、私は身体がふるえる程感動した。私達の「喜びとしあわせ」の考え方に正にピッタリだと感じたのである。そしてブータン王国の勉強を始めた。今枝由郎博士と知りあい、それはゾンカ語の「ガ・トト、キ・トト」ですと教えていただいた。幸福とは日常の生活の中にあり、為政者は国民が毎日「たのしく、うれしく生きる」ことに真剣に注力せねばならないと国王みずから指針とされているとのこと。これは勿論第5代国王にもしっかり受け継がれており、私達日本も大いに学ぶ必要があろう。

大学生25名が来福

2月14日
大学生25名が来福
ブータン王国の大学生25名が3月に福井県を訪問することが決定した。福井県下で4泊5日の体験講習が行われる。私達はブータンと福井県の交流の歴史と、福井文化の特長についての講習会と討論会を予定している。ブータンと福井県との絆が更に強くなり、お互いが「世界平和と人類の繁栄」のため、協力しあっていくことを強く願っている。

アメリカ女性

2月12日
アメリカ女性
ソチ冬季オリンピックが始まって、ブータンミュージアムの来館者が急に少なくなった。今日は2人のアメリカ女性が来てくれた。福井県下で働いているとのこと。2人は久しぶりに出会ったようで、私と3人で雑談を楽しんだ。ブータンは英語が通じるというと大変驚いて、ぜひお金をためて行きたいと盛り上がる。来館者は遠方よりの方々が多いが、外国人は珍しい。特に若い女性は久しぶりだ。ていねいにブータンの自然、歴史、文化について説明をさせていただいた。二階の展示場にあるブータンの民族衣装の試着コーナーで「キラ(女性用)」を着て記念写真を撮ったり、大いに楽しんでいた。ブータンファンがまた増えてありがたい。

福井県を見よ

2月8日
福井県を見よ
福井県は小、中学生の体力、学力ともに日本のトップクラスを維持している。国の将来を担うのは子供達である。子供達に夢や希望を持ってもらうのは、私達にとって、最も大切な仕事である。西川一誠知事は早くから「希望学」「LHI」など、夢や希望についての研究を始められた。そして現在では福井県がリーダーとなって地方の13県が、これに取り組んでいる。47都道府県の中で、政令都市を持つところを除いた地方県が加盟する新しい地方の姿である。そこではまず「教育重視」の姿勢がある。教育現場の質を高めることが、地方再生の根本という認識である。続いて「子育て支援」がある。これは地方の人口の減少を補う大事な施策である。更に「地方経済の活性化」によって、都会で教育を受けた若者を呼び戻す雇用の受皿作りをすること。そして自然環境のすばらしい地方を、国民全体が認識できるような情報提供が必要だ。私の個人的見解では、「一票の格差をなくせ。憲法で言う国民すべて平等なり」という憲法解釈は明らかに間違いである。地方は都会に対してどれほどの貢献をしているか、考えてほしい。食料も水も空気もエネルギーもそして人材も、すべ地方が生産し、都会へ供給しつづけている。都会の人口は増減をくり返す。地方の人口は割合安定している。都会の所得が多く見えるのは大企業の本社所在地があるからだ。納税地を、生産を生み出す所に置きかえるだけで、日本は一変する。「ふるさと納税」の次の姿が、そこに見えてくる。都会の生活は、根なし草になる危険をはらんでいる。人間は孤独に耐えられない。家族で、地域で、支えあって生きてこそ本当の人間らしい生活が出来る。もう一度、福井県をよく見てほしい。そう考えて世界一幸福な国ブータンと福井県を比べるブータンミュージアムを作った。幸福について真剣に考えるためだ。

観光客ふえている

2月5日
観光客ふえている
ビジットジャパンの効果が顕著となってきた。私達のミュージアムへも時々外人客が訪れる。新聞発表によると、昨年の日本への観光客は1,000万人を超えたとのこと。大きな経済効果を上げた。同時に和の文化の紹介にも大いに役立ったことと思われる。
その内訳が面白い。第1位が韓国227万人、続いて台湾207万人と全体の43%を占めている。いかに両国の人々が日本に興味を持っているかを如実に表している。両国へのアピールが今後共重要。また同じ傾向がアジア全体に対しても同様である。アジア(オーストラリアの21万人を除く)からの観光客は730万人で全体の73%を占める。まさに日本はアジアの一員である。かつてトップの座を占めたアメリカからは73万人とほぼ香港よりの客と大差ないまでに相対的な重要度を下げてきた。英仏独のヨーロッパ勢も43万人と低い。
観光収入はGDPに大きく貢献する。外貨獲得にも大いにプラスとなる。東京オリンピックまでに観光客が昨年の1,000万人から3倍の3,000万人に急増すると仮定すると、その経済効果は10兆円を超えるであろう。波及効果を考えると更にその数倍もの効果がある。福井県が、その1%を獲得することができれば1,000億円/年以上のメリットを享受できる。観光資源開発がいかに重要かを、もう一度検証してみる必要があろう。

中間決算を終えて

2月1日
中間決算を終えて
2013年の年末で、私達の会社の第18期の中間決算の結果が出た。内容をチェックしてみて、アベノミクス効果が全国に広がっているのを実感した。全国の各支店がすべて前年比プラスになり、計画を達成している。都市だけよいとか、東京だけがよいとかひがんでいる様な発言をする人が多かったが、全体によくなっているという強い感触を得た。日銀短観にも表れている通り、景気は上場気流に乗りつつある。タクシー運転手の町の声も、年末年始の客が増えたと伝えている。更に景況感が高まれば給料のアップにもつながり、消費が上昇を始めるであろう。今年は強い年になりそうだ。

隣国中国の問題点

1月29日
隣国中国の問題点
西側の資本を導入し、「社会主義市場経済」を推進してきた中国は20年間の発展を経て今危機を迎えつつある。等身大の中国「中国最新事情」が各方面で特集になったり、講演会が開かれている。私の中国観とは多少差があるが、問題点として参考になることが多い。問題点をまとめてみると…。
1.法の未整備。民法、商法、会社法、証券取引法、破産法、金融制度の詳細な取決め等が乏しく、トラブルの原因となっている。報道規制が強化されている。
2.五大商業銀行は国有大企業中心にしか貸出しをしない。民間企業は資金を豊富に持つ大企業から借りている。陰の銀行と言われているもの。元本・利子の返済などを義務付けられているかどうか疑問。利率は30%/年と高い。
3.商道徳、企業間信用などは乏しい。知的財産権はないに等しい。サイバー攻撃等を平気で行う意識が強く残っている。弱者救済制度なし。
4.光と陰の明暗がはっきりしている。大格差社会が出来上がっている。生存競争に参加できる人はごく僅かである。少数民族チベット、ウイグル、モンゴル、朝鮮系、山岳民族等は、弱者として省みられることが少ない。殆どの農民もそれに近い差別に悩んでいる。大都会は高層ビルが林立し、郊外のマンションも立派であるが、共に空室が目立つ。
5.環境汚染問題が深刻。北京、上海、重慶、大都市、工場地帯など汚染が広がっている。目が痛い。PM2.5の影響だ。日本列島、韓半島にも影響が出ている。水質汚染も深刻で、飲料水が危機にひんしている。食の安全が云々されており、鳥インフルエンザには今後注意必要。ゴミ処理については制度が未整備である。
6.統計の不備。毎年軍事費が15%前後ふえつづけている。外貨準備高3.8兆ドルと発表されたが実際はずっと少ない。日本の1.2兆ドルより少ない?GDPの半分は外国資本が稼いでいる。国営放送や統計等の信ぴょう性が疑われるケースあり。要注意。
以上の通り、問題点を数多く抱えているが、平和的な友好の民間交流が長く続いており、更に交流を深めることにより両国間のわだかまりを解消したいものである。

人間

1月28日
人間
ETT創業支援機構の電子ニュースレター第62号の青木初夫氏(元日本製薬工業協会会長)のレポートを読んだ。
私達は60兆個の細胞から出来ているという。1個の細胞は23対の染色体を持っている。染色体は2万個以上の遺伝子情報を持つデオキシリボ核酸(200mの鎖状)である。1人の人間の血管の長さは80km、生体膜は200エーカーにも及ぶという。脳は140億個の神経細胞を持っている。頭の良い悪いで悩む人が多いが、個体差はあまりない。いやそれ以上に地上のすべての生命は「遺伝子」によって、設計情報が保全され、核酸、蛋白質等の生命プロセスを支え、生命の表現である体勢、身体の物質的構成が維持されている。この基本的なオペレーティングシステムが同じであるということは、地球上のすべての生物は親戚だといえよう。輪廻転生の仏教の教えが身近に感じられてくる。広大な宇宙の状況を思うと同時に、ミクロの世界もまだまだ謎が多いことに気付かされる。

幸福度日本一

1月26日
幸福度日本一
いろんな指標がある。ブータン王国のGNHの指数、福井県の希望学の指数、坂本光司教授の日本で一番幸せな県民の指数などが有名である。今回発表されたのは、シンクタンクの日本総研(寺島実郎理事長)の2014年版である。60の指標によって全国47都道府県の幸福度をランク付けした。その結果、福井県が前年の3位から1位に躍進した。区分は基本、健康、文化、仕事、生活、教育と追加にわかれており、福井は文化分野(38位)が下位になっているのと、基本(14位)健康分野(17位)が中位にいる以外は、昨年に引続いて仕事と教育で1位を獲得している。福井の人々が更に幸福を実感し、地域の絆を強くし、しっかりと家族を守っていってもらうことを期待したい。人類はみな家族であることを知らねばならない。私達のブータンミュージアムは世界一幸福を自覚するブータンの人々の生活や文化、宗教を紹介するとともに、交流をはかる事業を行っている。3月20日はブータンが提唱し、国連が制定した「世界ハッピーデー」である。3月21日に「幸福に関するシンポジウム」を計画している。ブータンファンや幸福に興味のある方々の参加を希望する。入場無料。

繊維産業

1月22日
繊維産業
かつて繊維王国といわれた湖国近江、そして福井県、石川県は今なお繊維産業に携わる者が多い。特に福井県は人口割で見ると日本一の産地である。私の友人も繊維業が多い。世界を見ると、最大の生産国は中国になってしまった。バングラデシュのジュート以外、綿花、綿糸、綿織物、化繊、再生、合繊等は中国が1位を独占している。最近「チャイナプラス」の言葉が取りざたされるようになり、インド等のアジア諸国への工場新設が始まっている。海外リスクには常に最新の注意が必要なことは当然である。繊維産業における貿易の世界シェアを見てみると、EUが約3割。中国・アメリカが約1割3分、日本、韓国、台湾、インド、パキスタンがそれに続いている。先進国は輸入が輸出を大きく上回って入超となっている。最近、頭打ちになっている韓国や台湾の産業にかわり、インドの成長が著しく、インドは中国のライバルになってきた。日本の産地の生き残り策はEUに学びたい。高級品やブランド化、オリジナル品の輸出にもっと力を入れなければならない。

ブータンの魅力

1月21日
ブータンの魅力
来館した方々の質問は二つある。ブータンの魅力は何ですか。なぜ福井に造ったのですか、である。簡単なようでこれ程答えにくい質問はない。アフリカ、アジア、南北アメリカ、太洋州の殆どの国々が植民地化された中で数百年もの間独立を守ってきたヒマラヤの小国、そこには幾多の困難を乗り越えてきた歴史がある。一言でいえば信仰心。それを固く守り育てた地域と家族の結束があった。一部の放牧民と多数の農耕民との堅固な関係も見えてくる。それ故に自然との濃密な関係が生まれ、育てられ、継承されてきた。外界との断絶も一つの条件だったかもしれない。訪れてみると自然界の生物多様性に驚く。未知の鳥、草花、昆虫等の発見が相次いでいる。北のヒマラヤ連峰の7,000m以上の山々から、南の標高200m以下の亜熱帯ジャングルまで、国土はタテジマをなす河川が、何億年もかけて作り出した山岳国家である。この魅力は自分で探すのが一番だ。自然の美しさも最高、私は人々の暮らしぶりに何ともいえないノスタルジィを感じる。癒されるのである。日本への帰国の日が近づくに従ってなお帰りたくない思いが膨らんでくる。不思議な国である。福井との関係は次の機会に譲ろう。これまたご縁があるのである。

東京の講演会

1月19日
東京の講演会
日本ブータン友好協会の年末講演会に参加した。先般の私達ブータンミュージアムの1周年記念イベントやJICAプロジェクトへの協力のお礼も兼ねて、妻と2人で出席した。地球の広場で朝10時から夜8時までの長丁場である。年に数回東京で行われるが、毎回必ず出席することにしている。ブータンというヒマラヤの小国と東京という世界最大の都市との相性の良し悪しは別として、日本とブータンの友好に果された多くの会員の諸先輩のご努力に心からの賛辞を送りたい。福井県では3年前の国王ご夫妻の来日に合わせて知事が親書を奉呈し、その返礼としてダショーカルマ・ウラ氏が来福、知事と友好交流の覚書を交わし、ブータンミュージアム設立を私からお願いして折返しブータン訪問、大臣以下のご了解をいただいてブータンミュージアムを福井でスタートした。以来1年有余、展示品も諸先輩からの預託が相次ぎ、みるみる充実してきた。来館者からは驚きの声が上がるようになってきた。交流も盛んで私達が2回の訪ブを行うと共に、カルマ・ウラ氏が2回来福、ブータンの少年グループ、ブータンのGAO11名の研修、またJICAのJOCV、SVのOBの皆さんが入れ代わり立ち代わりおいでになっている。ブータン研究家やブータンへ行きたいという観光客の来館も多い。今年は更に趣向を凝らして、ブータンの魅力、福井の魅力そして幸福や希望の追求を通して、世界平和を確かなものにしたいという私達の夢の実現に取り組んでいくことを誓いたい。福井県の西川一誠知事が昨年末にブータン王国を訪問したとの新聞記事が発表になった。ブータンと福井県の交流がますます深まることを強く望みたい。

家族の絆

1月18日
家族の絆
核家族化がすすみ、現在の日本は「お一人様」が最も多い世帯となった。私はマンション経営を行っている賃貸住宅経営者協会の役員を長年勤めさせていただいた。最近の入居者の方々とのトラブルが増えているのは、孤独による精神的不安の増大である。親類縁者がいないわけではない。しかし面倒を見たがらない。家族の絆は一体どこへ行ってしまったのだろう。地域で面倒を見たかつての良風はどこへ行ってしまったのだろう。今はまわりの人々も何とかしろと他人や国へ文句を言うだけで手を貸そうとしてくれない。私はブータン王国との交流を通じて、家族の絆の強さ、地域の絆の強さがいかに「幸福の実現」に大きな影響を与えるかを身をもって実感させられた。日本の現状は危うい。家族の絆をもう一度しっかり見つめなおす努力をしていきたい。

先行き不安

1月17日
先行き不安
社会をリードするはずのマスコミの論調がいつも気にかかる。社会の恥部にふれたり、悪いニュースの取り上げが多すぎる。私が特に問題視しているのは、「先行きに対する不安感」をあおる報道が多いことである。先のことは誰もわからない。神のみぞ知るというのが未来である。その先のことに、明るい希望を抱きつつ、日々を送るのと、反対に悪い結果を予測しつつ生きるのとでは、人々の心に大きな差を生む。不安社会を演出するのは、決していいことではない。政治にも問題がある。所得の再配分政策の失敗、雇用の不安定化をもたらした失敗の数々、困窮者への支援不足、セーフティネット不備等、先進国の多くの国で行われている政策が日本ではまだ実現していない。宗教家にも問題がある。戦後日本のインテリの間で無宗教が流行した。それを放置した宗教家に重大な責任がある。宗教心をなくした民族が繁栄した歴史はない。教育の根幹には道徳心や神仏・自然への信仰心や畏敬の心が必要である。医療関係者にも新しい病気や精神疾患への対応をしっかりやって頂きたい。健康維持への貢献がまだ不足しているように思う。不安を取り除くことへ最も近い位置にいる人々の発奮をうながしたい。

山崎参議院議長祝賀会

1月15日
山崎参議院議長祝賀会
福井から初の参議院議長が出た。私達の友人山崎正昭君である。彼は大野市議、福井県議から故熊谷太三郎先生の推薦で参議院に初当選以来20年余にわたり国政にたずさわり、今日の栄誉を受けられた。三権の長である。福井県下の三権の長は、杉田定一、岡田啓介、福田一諸先輩に続く4人目の快挙である。3000人の参会者の下、盛大に祝賀パーティが開催された。その日山谷えり子参議員が東京から来る途中、私の事務所を訪れてくれた。現在ODA委員長をしているので、先般ブータン王国を訪問したときの結果をお知らせいただいた。国王にも会えたとのことで写真を持参された。館内をつぶさに視察してもらい、ODAからの支援をお願いしたが、ブータンは他の国と全く違って、余分な支援は必要ないといわれたとのこと。ブータンは2020年には世界からの支援を卒業し、自立したいと五ヵ年計画に盛り込んでいる。先日の東京での講演会の話とぴったり一致し驚いた。農業機械の支援や農業技術の移転を希望しているとのこと。今後の交流に生かしていきたい。パーティ会場でもまた再会し、更なる指導をお願いした。森元総理を始め多数の要人が出席されての大祝賀パーティであった。

精神疾患

1月11日
精神疾患
DNA解析が進み、精神疾患に関する知識が新しい段階を迎えるとのことである。経済的に世界のトップクラスにまで駆け上ったけれど、精神面で問題を抱えている人が増えてきた。不安をあおる不安定な世相の中で、若者や老人など弱者に対する風当たりがきつい。ストレス社会の中で、明るく伸び伸びと生きることが大切である。毎日の生活の中で、難病患者や精神疾患の方をよく見かけるようになった。そういった方々への温かい支援の手を差し出せないかと思い、ブータンミュージアムの中に「難病支援の募金箱」を置いている。設置して早や1年近くが経過するが、まだ募金箱は一杯にならない。

貪るな

1月10日
貪るな
欲望に火がつくことがある。そうなると、その火を消すのは大変だ。
欲に目が眩んでしまう。ほどほどに自制することが大切だ。企業にとって、目標を立て、それに向かって全社一丸となって突き進むのは当然である。ただ、その途中で立ち止まって、進むべき方向が間違っていないかどうかを検討せねばならない。目標が時代の要請からずれていないか、社会正義に反していないか、周囲に大きな迷惑をかけていないか、資源の無駄遣いをしていないか、等々、チェックすべき項目はいくつもあろう。大切なことは、「貪るな」である。自分が強い立場に立ったとき、自分が成功したとき、自分が目標を達成したとき、自分が賞賛されたとき、そんなときこそ、心して己を戒める必要が出てくる。貪るな。ほどほどにせよ。

長浜のまち

1月9日
長浜のまち
師走に入り、長浜のまちを度々訪れることとなった。長浜の「まちづくり会社」が私の旧宅を借り上げて、若い家族に貸したいと言う。国の助成があるとのことで、まちのために多少でも役に立てれば御先祖様も怒るまいと思い、同意した。妹や弟も呼び、欲しい物を持ち帰るように言ったが、山のような家財の中から選ぶのは大変だ。何回も何回も選んで、僅かばかりの思い出の品々を持ち帰った。私は、若いころ描きためた油絵の数々を福井へ運んだ。仏壇の位牌と仏像仏具を移させていただいた。そして最後に、かつて、正月の15日間、玄関を入った表の間に立てかけていた六曲屏風春秋を、御先祖からの思い出の品として福井へ運んだ。荷積みを終えて、家の鍵を「まちづくり会社」に渡し、「残品は古物商に見せ、価値のあるものがあれば寄贈する」と伝言した。
そのまちづくり会社は、長浜、旧安藤家にある。そのすぐそばに、古物商の西川さんの店があり、ご厄介をかけると挨拶した。心も多少晴れて、まちを歩いた。駐車場は、県外ナンバーの車でほぼ一杯。まちも大勢のひとで賑わっている。旧宅の表の倉庫を撤去して、井戸を直し、車が駐められるようにコンクリート舗装をした。どんな家族が入ってくれるのか楽しみだ。振り返ると、亡父が吹き替えた青瓦が、きれいに光っているのが見えた。

訃報

12月26日
訃報
年末に向かって訃報が相次いだ。大学の先輩で、ロータリークラブの先輩であり、夜の酒席も共にしていた大先輩が逝去された。86歳の大往生であった。ご子息の挨拶の中で、仕事の面はもちろんのこと、家庭の中でも笑顔を絶やさず、温かく指導してもらったと述べられた。私も同じ気持ちである。笑顔の美しい人に悪い人はいないといわれているが、温顔が忘れられない。坪田昭大兄安らかにお眠りください。

福井クラシック音楽同好会

12月25日
福井クラシック音楽同好会
福井駅東口のアオッサ8階大ホールで、福井クラシック同好会による演 奏会が開催された。設立15周年記念とのことである。地元で活躍する4人の音楽家と、ピアニスト今川裕代さんを迎えての競演であった。地元のソプラノ勝木陽子さんとピアノ伴奏高橋薫さんは、ロッシーニやモーツァルト、ドヴォルザークの曲で楽しませてくれた。ヴァイオリンの松谷由美さんと伴奏の高山聖子さんは、シューベルトとクライスラーを演奏された。ピアニスト今川裕代さんのソロは、バッハの練習曲に始まり、ショパンの3曲で終わった。いずれも懐かしい旋律であった。クラシックを聴いていつも疑問に思うのは、そこで用いられる言語である。そのほとんどがドイツ語かイタリー語、もしくはフランス語で歌われる。私たち日本人はその意味を想像しながら聞いているのである。これは、能の場合とよく似ている。能における語りや地謡も、現代人には理解しにくいものである。こうした言葉の価値が、言葉としての意味から音としての意味へと転換を遂げているように思うのは、私だけではあるまい。その点、楽器の演奏者や指揮者は、世界共通である。世界がますますグローバル化する中で、音楽の世界でも、英語が幅を利かせてきている。我が道を行く日本も、世界へアピールする力を持たねばならない。福井の素晴らしい音楽堂やアオッサホール、文化会館、響のホールなどのハードに併せて、音楽家を育てる環境づくりも大切である。

大名会

12月22日
大名会
「五百万石大名会」の今年最後の会合を、福井片町のいわし屋で開いた。今回、地酒を提供してもらったのは、「梵」の加藤吉平商店である。ロシアへ訪問する蔵元に特にお願いして、「梵」の造りの特徴を説明してもらった。乾杯は、「梵ゴールド」で始まった。栗田幸雄会長のさわやかな音頭でスタート。「ゴールド」は、私の晩酌の定番で、夏は冷やして、冬はぬる燗でいただく。いわし屋の板前(オーナー)が腕を振るってくれた前菜とよく合う。焼き物ののど黒には、「梵絞りたて初雪五百万石」でいただく。これは生酒で、「シュワーシュワー」と表現する蔵元の言葉通り、スパークリングワインによく似た感じ。限定品である。次に、天然ぶり、平目、甘えび、バイ貝の造りには、「梵特撰純米大吟醸」(0℃で二年間熟成)がよく合う。「梵」は、他の酒蔵が新酒を中心に出荷するのに対して、その全ての酒が冷温での長期保存酒だ。そのため、酒蔵には大小様々の酒樽がずらりと並んでいる。壮観である。味はまろやかで、万人に向くから、愛好家がどんどん増えている。福井のお酒はいずれも本当に美味しいが、「梵」はまた格別である。ロシアへ出発する加藤吉平蔵元には、感謝、感謝の一夕となった。

観光 ― ディープでリアルな福井

12月21日
観光 ― ディープでリアルな福井
全国を歩いて仕事をしているが、福井県を知る人は少ない。永平寺や東尋坊へ行ったことがあるのに、福井は聞いたことがない、と言う。永平寺や東尋坊は福井県にあるのですよ、と言うと、信じられない、金沢ではなかったの、と言われる始末である。一乗谷朝倉遺跡が、国の名勝、史跡、重要文化財の三つの指定を受けている。これは全国的に見ても稀有のことで、他に三つの指定を受けているのは、わずかに、金閣寺、銀閣寺、醍醐寺、厳島神社だけに過ぎない。日本人なら、これらの4つはほとんどみなが一度ならず訪問したことがあるだろう。一乗谷こそ、穴場である。恐竜博物館や福井城趾、福井市郷土歴史博物館や福井の伝統工芸品の数々、そして、美味しい福井の水、米、酒、福井の食などを楽しんでもらうには、まず、一乗谷がもってこいの要となる。一乗谷をPRすることで、福井を訪れる観光客の数が倍増するのは間違いない。お隣滋賀の長浜市の黒壁を訪れる観光客は、年間200万人を超えている(ピーク時には280万人であった)。一乗谷は、それ以上の魅力を秘めた素材なのである。

ホームページの英語版

12月20日
ホームページの英語版
ブータンミュージアムのホームページの英語版を作ろうと言ってから、はや一年が過ぎた。やっと、その50頁ほどが完成し、先日アップした。これからは、毎週、メンテナンスに注力したい。私は、ブログを書き出して8年ほどになるが、当初は、英語版と中国語版を同時にアップしていた。海外からのアクセスが多く、楽しませてもらったが、その後、中国からの影響その他の理由で、日本語版だけで続けてきた。来年からは英語版をまた追加しようかと考えている。ブータンミュージアムを始めてから、英語でのやり取りが増えてきた。さびついた英語力をひっさげて、恥をかきながら、メール交換を行っている。県内の各大学に働きかけて、各校にブータンコーナーの開設をお願いした。来年は、ブータンミュージアムでの講演会や研修会への参加も呼びかけていくつもりだ。交換留学のお手伝いも検討していきたい。

デザインの力

12月18日
デザインの力
友人に、画家やデザイナーが多い。優れた才能を発揮している人、未だ開花できないでいる人等々、その評価に差はあるが、みな努力している。私は、デザイン力を信じている。物は、デザインひとつで売れたり売れなかったりする。デザインには、力、価値があるのだ。先日、ふくい産業支援センターのデザイン指南の会があった。本の装丁に関する会であったが、参加した。若い女性が、150人ほど集まって、なかなかの人気であった。私の会社にもデザイン部門があり、私の要求で、名刺やポスター、チラシ、新聞広告等、デザインを内製してもらっている。デザインに限らず、ものづくりは、営業と企画、開発との連係プレーである。しかし、特にデザインには力を入れる必要がある。福井の素晴らしい製品が、優れたデザイナーの力を得て、日本市場や世界市場を席巻することを願っている。デザインを変えることで、運命が変わるほどの成功を収めることすら可能なのである。

アルバートアインシュタイン

12月17日
アルバートアインシュタイン
1949年に相対性理論を発表したのは天才アルバートアインシュタインである。E=MC2という有名な公式で、運動と空間と時間の関係を解明した。私はミシガン大学に短期留学をしていた時、この相対性理論について日本人留学生と議論した経験がある。ワインを飲み乍らの楽しいシャベリ(英語しか使わない約束での議論)であったが、終わった後録音したものを再生して驚いた。ノーノーノーが半分近くを占めていたのである。会話力の乏しさ貧弱さをお互いに痛感して恥かしかったのを覚えている。アインシュタインの語録の中で憶えている言葉は、「心を自由に解き放て、精神の自由が大切だ」「人はみな同じではない。その違いを喜び、寛容の心で共生をめざせ」「人格の形成は実行の中でなされる」「経済競争からおきる道徳的退化をさけよ」「十年一日ではない」「水に住む魚は、水を知らない」どれも物理学者の言葉とは思えない。心に響く言葉の数々である。

人口密度

12月15日
人口密度
人口密度が世界で一番高い国といえば都市国家モナコ1.88万人/km2、マカオ1.86、シンガポール0.74、香港0.65。人口1千万人以上の国と地域では1位バングラデシュ1048人/km2、台湾644人、韓国490人、オランダ450人、5位アフリカのルワンダ435人、巨大人口国のインドは376人と多い。ちなみに日本は342人と先進国中ではオランダ、ベルギーに次いで多い。逆に人口密度の低い国は第軌魅皀鵐乾襭何/km2(280万人)、オーストラリア3人(2300万人)、カナダ3人(3500万人)、アフリカ諸国のナミビア、ボツワナ、リビアも3人と低い。特に注目すべきはオーストラリアとカナダである。この両国へは中国系の新富裕層がどんどん流れこんでいる。気候もよく、治安もよく、豊かな国でもある。世界中を眺めても日本以外でこれ程条件の整った国は少ない。

全国ホタル研究会

12月11日
全国ホタル研究会
ホタルのかすかな光に興味を持った子供の頃の記憶は貴い。研究会に入会をすすめられて数年がたつ。来年は全国大会を「かつやま」で開くことになった。役員の皆さんのはりきりようは大したもので、今から楽しみにしている。生物多様性が破壊される徴候が各所に見られるが、ホタルはその重要なインジケーターの役目を果たしてくれている。勝山市を舞台に全国大会が開かれることは、私達福井県民にとって、うれしいことである。成功を祈りたい。支援の輪が広がることを祈っている。

認知症

12月10日
認知症
加齢とともに記憶力の減衰に悩む人がふえてくる。現実に明日のスケジュールが頭に入りにくくなってくる。人の名前をすぐ忘れる。私の場合、父母も祖父母も死ぬまで頭脳明晰だったので、安心したいのだが、もの忘れが段々と激しくなるので脳のトレーニング、脳トレに興味がある。祖父の日課は毎朝の新聞を声に出して読んでいた。母は死ぬ数か月前まで裁縫教室をつづけていた。そこから認知症の対症療法のヒントを考えたい。まず声に出してものを読むこと。そして手足や身体をよく動かすことである。更に頭を使うために何度もくり返し記憶することだ。失敗も3度繰り返すと自信がつく。自信がつけば一歩前進である。認知症は成人病なので、あまりくよくよしない方がよい。繰り返し記憶したり、繰り返し実行することですべてがうまくいくようになる。失敗を恐れるなという至言もこんな時に生きてくる。

日本語

12月7日
日本語
日本語は膠着文字である。その独特の文字ゆえに、日本人の脳が刺激を受けてよく発達したという説を聞いて、日本語の起源を尋ねてみた。中国から漢字が輸入されたのは、古事記、日本書紀、万葉集の時代である。すべての漢字に、日本の読み方がつけられた。訓読である。漢字は輸入されると同時に、日本語読み、即ち訓読が出来るようにされたのである。それ以来、訓読法の知恵は和漢混交の方法に生かされていった。漢字は完全に日本語化していったのである。今日日本語を話す人類は1億3千万人しかいない。ここ数百年をふり返ってみると、最初に世界に覇権を確立したのはスペイン人で、かつてスペイン語は貿易用語として使われた。その次に現れたイギリス人が世界各地に植民地を作り大英帝国を築き上げた。英語が世界に普及した。その覇権は20世紀にアメリカに引き継がれていった。インターネットの普及により、英語圏はますます増加しつつある。一方アジア諸国においては、華僑の系譜につながる中国系の人が多く中国語を話す人が多い。日本文化を輸出しながら日本語の普及に力を入れていくことが、日本人の和の精神を世界に伝える最善の道だと考えている。

甲冑の美

12月6日
甲冑の美
福井市立郷土歴史博物館が近くにある。歩いて5分のところで、時々立ち寄る。私の好きな桜並木の通りをぶらぶら歩いていくのだ。甲冑の美という企画展が終わった。福井の伝統工芸の中に打刃物があるが、甲冑師がいたことを思い出させてくれた。越前明珍派、馬面(免)派や名刀工乕徹(こてつ)を生んだ長曽祢鍛冶(ながそねかじ)などが江戸時代を通じて活躍していたのである。甲冑展はこの前のタンカ展と同様に圧巻であった。開館60周年記念展として、まことにふさわしい。60周年といえば戦後の混乱の中、足羽山の愛宕坂の中腹に建てられた。この博物館の前身である。敦賀セメントを筆頭に、市民の浄財によった。今その跡地は駐車場になっている。貴い先人達の努力にいつも敬意をはらっている。

冬支度

12月1日
冬支度
今年の夏は猛暑だった。記録的な猛暑で世界中が異常気象に泣いた。秋になり、あっという間に冬を迎えた。舗道には落葉が舞っている。フランスからの珍客を迎え、私は久しぶりにパリの舗道を落葉を踏みしめて歩いた過去を思い起こしている。カサコソ、カサコソと表現するのが日本流であるが落葉の上を歩くのは気分がいい。福井は雪が降ると家の前を除雪する慣習がある。落葉を毎日掃き清めるのも、福井独特の日常である。私にとってはせめて数日間そのままにしておいて落葉を楽しみたいと思うが、ままならない。冬支度を急ぐ人々にとっては、私のことなど誰も理解してくれない。今日も地元の金融機関の若い社員たちが、揃いのユ二フォームを着て、落葉を掃き集めている。福井の風物詩なのである。

311を忘れるな

11月27日
311を忘れるな
レイテ島の名を知る人は少ない。多くの日本兵が激戦の中で戦死した島だ。そこに台風が直撃した。30号である。大潮と重なって、東北の大津波と同様の大被害をもたらした。日本の東北大震災の折、フィリピンの人々は、貧しい人々も日本への恩返しをしようと、貧者の一灯をとどけてくれた。今そのフィリピンの人々を大災害が襲った。私は311の折にいただいたフィリピンの人々、レイテ島の人々に恩返しをするべきだと考えた。しかしその声は未だ小さい。私は声を大にしてアピールしたい。「311の時のフィリピンの人々のご恩を忘れるな。今こそ支援に立ち上がる時だ」といいたいのである。支援の窓口が少ない。ブータンミュージアムにとりあえず「支援函」を設置して皆様のご好意の受け皿としたい。

今枝由郎博士を迎えて

11月26日
今枝由郎博士を迎えて
フランスに在住の今枝由郎博士を私達のブータンミュージアムにお迎えした。ダショー西岡京治さんの夫人里子さんのおかげである。福井で2日間に亘り、ダショーカルマ・ウラさんとブータンのGNHと仏教に関する講演をお願いした。そして今回は釈迦の真言といわれる数々の詩(日本語によるもの)を集めた本をご持参いただいた。読んで、目からウロコとは、この事かと驚いた。まさに真言集である。先生は世界的な仏教学者である。フランスからブータンへ研究者として派遣され、10年間国立図書館の顧問として活躍された。チベット語、サンスクリット語、ゾンカ語(ブータンの公用語)を理解され、私達にとってはこれ以上の学者はおられない。今後ともいろんな点でご指導いただきたいと願っている。東大寺、薬師寺や永平寺等、仏教関係の友人が多いけれど、「ダンマパダ」という名の小冊子は是非友人たちに読んでもらい、感想を聞かせてほしいと願うものである。

奇跡

11月24日
奇跡
思いは必ず遂げられる。そう信じて生きてきた。そして今でもそう信じている。ブータンミュージアムの開設一周年記念のイベントを無事終えてまた認識を新たにした。また奇跡が起きていたのである。ブータン王国から盟友ダショーカルマウラを迎え、フランスから今枝由郎博士を迎え、福井県、関西生産性本部、熊本ブータン友好協会、日本GNH学会そしてJICAの皆様の暖かい支援により、すばらしい雰囲気の中、記念イベントが終了した。ささやかに家族との祝杯を上げ、今、眠りにつこうとしている。半年前にブータン王国訪問の帰途、全く偶然に隣に座った貴婦人が前国王ご夫人(前王妃)であることを後で知った。その前王妃の膝に3才の幼児がおり、前国王のお孫さんとのこと。ブータン王国と不思議なご縁でつながっていることが何度も起きた。奇跡の連続である。これからも多くの方々の幸福を願いつつブータンとの更なる交流に微力を盡す覚悟である。

ブータンの輸出品

11月22日
ブータンの輸出品
ブータンは農業、牧畜の国である。輸出品はほとんどないに等しい。主として電気をインドに売っている。水力発電によるもので、水は豊富である。小規模のセメント工場があり、セメントの輸出、雑貨をはじめ農作物のジャガイモやリンゴ・ミカン・マッタケ等の輸出が少々ある。ただ国土の割に高地や人口が少ないので輸出に力を入れると、根こそぎ取り盡してしまうので、資源の枯渇につながりかねない。無限といっていい程あるのは、太陽光と風と水である。これ等のものを近代的な技術により開発をすすめると、輸出はケタチガイに伸びる。しかし一番美しい自然環境を破壊しないように、留意が必要である。観光業も有望である。しかしこれまた適度な抑制をともなうことが重要である。

肯定から入れ、否定から入るな

11月21日
肯定から入れ、否定から入るな
物事に対して、可能性を信じて真正面から取組んでいくことが大切である。否定的に取組んだり、懐疑的になる傾向のある人に、よい仕事は出来ない。いついかなる時でも可能性を信じることだ。私は何事においても、どうしたらこの命題を解決できるのかを考える。どんな問題でもやれる、やれる、やれると自分に言い聞かせ乍ら、あらゆる可能性をチェックしていく。失敗してもあきらめない。3回は全力で挑戦する。大切なのは、始める時のとりくみ方である。そして最後はあきらめないことである。

レイテ島救援作戦

11月19日
レイテ島救援作戦
レイテ島を巨大台風が襲った。風の被害と同時に、高潮の被害が深刻だ。フィリピンはかってスペインの植民地としての歴史を持っていたが、その後アメリカに占領された。そして第二次大戦と同時に日本が占領した。レイテ島は日米激戦地であった。フィリピンは1946年7月に独立を果した。そのレイテ島を大津波に匹敵する高潮が襲ったのである。被害は甚大だ。一日も早く救援の手が及ぶ必要がある。フィリピンの人々は3.11の時に日本への支援に多くの人が立ち上がった。東北へ、貧しい生活の中から支援の手をさしのべてくれたのである。今こそレイテ島をはじめ被災地への支援の手をさしのべる時が来た。日本でも伊豆大島で豪雨による大規模な地すべりが起きた。異常気象のせいである。その原因は私たち人類の無制限な欲望にある。自ら自分達の大切な地球を破壊する愚は何としてもさけねばならない。レイテ島への支援と共に直ちに手を打つ必要がある。

歓迎夕食会

11月17日
歓迎夕食会
ブータンミュージアムの開設の理由についての質問が多い。目的はインドと中国のはざまで、長い間独立を維持してきた、小国ブータンへの愛情と支援そして逆に多くの教訓や示唆を期待したのである。具体的にはまず交流を深めあうことである。ブータン王国から、ダショーカルマウラさんを福井に迎えた。今回2度目である。同時にフランスから、今枝由郎博士をお迎えした。そして歓迎の夕食会を開催し、20名の参加をいただいた。前回ブータンを訪問した6名を筆頭に、地元テレビ会社社長、ブータン友好協会のメンバー、JICASVご夫妻や南アジア研究者などブータンに関心のあるNPOメンバーが集まった。ウラさんも日本食がよいとのことで純粋の日本料理店を会場に選んだ。椅子席のパーティとなった。会話は日本語と英語が入りまじり、通訳も共に一夕を楽しんだ。1人づつ自己紹介をかねてブータン、福井、仏教そして幸福についての話がもり上がり、和気藹々のパーティとなった。結論は、幸福は一人一人の心の中にある。それを地域へ、国へそして世界へと広げていく努力をつづけようということになった。ブータン王国に対する尊敬の念をますます深める一日となったことは、誠に意義深い。

同志社大学リユニオン

11月15日
同志社大学リユニオン
OB、OGの集うリユニオンが今年も行われた。小雨の中を大勢の人が同志社の栄光館に全国から集まった。同志社英学校創立から丁度138年になる。日本初のキリスト教主義による学校で、英語による教育が行われた。校祖新島襄はその妻八重とその兄山本覚馬そして宣教師デービスと共に、古い因習が残る京都で、英学校を開校した。明治8年である。日本初の私立大学設立の夢を果せず病に倒れたが、同志社が立派な大学になるには二百年かかると、愛弟子徳富蘇峰にいい残している。百年といわず、二百年といった新島襄のスケールの大きさに驚かされる。国禁をおかして海外へ雄飛した彼は、日本人としてはじめて外国の大学を正式に卒業した。そして帰国後、明治の教育界に大きな影響を与えたのである。今も京都御所の北隣に赤レンガの校舎が林立し、明治の面影を感じることが出来る。総長室でしばし大谷實総長と談笑し、二百年に向けての夢を語りあった。大谷総長は私達の日本ブータン幸福学会の発起人のお一人である。事務局員は同志社大学院、南カリフォルニア大学院のマスターの野阪宣正が勤めている。

スイス

11月12日
スイス
スイスはブータン王国と同じく、山岳国家である。海なし国である。国中いたる所が景勝地で、観光スポットに事欠かない。スイスはその景勝地が数百年に亘るヨーロッパ各地からの観光客によって磨き上げられている。一方ブータン王国はその意味では研磨前の宝石のようにまだ光は鈍い。上手に磨いていけばスイスのように世界の指折りの観光地となる可能性を秘めている。ただ最も注意すべき所は、ブータン王国の人口が74万人と少ないことである。事を急ぎすぎると折角の独特の文化や景観や生物多様性が失われることになる。ゆめゆめ急がないよう努めてもらいたい。スイスとブータンの関係は、日本同様農業協力からスタートした。ダショー西岡京治さんと同じようにスイス人親子のチョルテンが建立されている。私はブータンを知るまではスイスにあこがれていた。「永世中立の思想」にあこがれた。そして度々スイスを訪れ、多くの友を持ち、スイスに惚れこんでいった。今、ブータンに魅せられ、はからずもブータンミュージアムを運営することとなった。スイス、ブータンそして福井をつなぐネットワーク構築にむけていよいよ始動の時期を迎えようとしている。

秋の叙勲

11月10日
秋の叙勲
叙勲の時期になった。何人かの友人知人が叙勲の栄に浴した。誠にめでたい。豊田佐吉翁が叙勲後ほどなく亡くなられたことを思い出す。日本人にとって天皇陛下から顕彰されることは特別のものであろう。ただいつもの事ながら、政官にかたよったもので、一般の人々の常識からは程遠い。今少し天下をしっかりと見極めた制度にしてもらいたいものである。

季節

11月9日
季節
福井の四季の移り変わりは、非常にはっきりしている。夏は暑く、冬は寒い。しかし冬の気温は、東京ほど冷え込まない。夏の気温も、東京ほど上がらない。
春や秋は快適で、自然の中での生活が謳歌できる。今年の夏は、全国的に猛暑となった。10月になってからも台風が次々と日本列島を襲った。その都度、豪雨に悩まされた。台風一過、秋が深まり、気がつけば街路樹は色づき、朝晩は肌寒い。早朝東の空を見ていると、太陽が山なみから顔を出す。6時半だ。日の出の時間は大分遅くなって、ずっと南の方角から出る。夏の盛りにははるか北方からの日の出だったが、季節の移ろいの早さに驚く。
四季を存分に楽しめる福井での暮らしは、日本一幸福な県の評価の通り、自然の変化を実感できる。ワクワク、ドキドキの毎日である。

季節

11月9日
季節
福井の四季の移り変わりは、非常にはっきりしている。夏は暑く、冬は寒い。しかし冬の気温は、東京ほど冷え込まない。夏の気温も、東京ほど上がらない。
春や秋は快適で、自然の中での生活が謳歌できる。今年の夏は、全国的に猛暑となった。10月になってからも台風が次々と日本列島を襲った。その都度、豪雨に悩まされた。台風一過、秋が深まり、気がつけば街路樹は色づき、朝晩は肌寒い。早朝東の空を見ていると、太陽が山なみから顔を出す。6時半だ。日の出の時間は大分遅くなって、ずっと南の方角から出る。夏の盛りにははるか北方からの日の出だったが、季節の移ろいの早さに驚く。
四季を存分に楽しめる福井での暮らしは、日本一幸福な県の評価の通り、自然の変化を実感できる。ワクワク、ドキドキの毎日である。

やりたい事

11月8日
やりたい事
長浜の森建司さんと対談の機会を持った。お互いに人生の終盤に入っていることを自覚し、「やりたい事」をやろうという点で完全に一致した。「やりたい事」とは当然「やるべき事」でもある。「やるべき事」は何かというのは、私達にとって、人生の命題である。「やりたい事」は好きな事でもある。好きな事やりたい事がやるべき事とつながれば、これは人生至上の喜びとなる。
森建司さんは環境問題という切り口から生甲斐を見つけられた。私は人間の幸福とは何かという切り口から、ブータン王国の幸福論を知り、現在ブータンミュージアムを開設し、「幸福とは何か」を自問自答している。毎日遠方からの来館者をお迎えし、充実した一日を過ごさせていただいている。外国からのメールが多くなり、対応する人間を増やさざるを得なくなり、ただでさえ火の車のNPO経営がますます苦しくなっている。しかし、それに反して仕事に対する充実感は強くなっていく。「幸福学」という学際学の新しい分野の学問の扉を開けるお手伝いが出来ればと念ずる日々である。

GNH学会

11月7日
GNH学会
ブータン王国を研究している内に日本GNH学会があることを知った。私がブータンの幸福と福井県の幸福そして普遍的な幸福論を現代的に研究する日本ブータン幸福学会を立上げようとした後である。全国の知人によびかけたところ、GNH学会を教えられ、緒方会長にあった。その後東京でメンバーの方々におあいしたが、先日ブータンミュージアムへ常任理事の松下和夫さんが訪ねて来てくれた。思いは同じである。日本縦断GNH講演会に賛同してくれた仲間である。丁重におもてなしをすべきところ、私の留守中の訪問だった。ぜひ交流を深めていきたいと心から願っている。「幸福」を研究することはあまりに抽象的で、あまりに広範囲に亘る分野で、あまりに大きすぎるので周囲の賛同を得るのが大変である。私は「幸福」を追求することにより「世界平和」をかちとりたいと願っている。ブータン王国のGNHと全く同じとはいわないが同種の発想であり、仏教の十方世界安寧の思想や、ガンジーの無抵抗主義にも一脈相通ずる幸福なのではなかろうか。

至誠天に通ず

11月6日
至誠天に通ず
開館一周年の記念イベントを企画しだしたのは、約半年余り前からだった。ブータン王国の農業の父といわれる西岡京治さんの夫人西岡里子さんがブータンミュージアムへ来てくれた。そこでブータンにつき、京治さんにつき語りあった。その時私は一周年記念日には開館の直接のキッカケとなったダジョーカルマウラをぜひ呼んで、福井県との絆を深めようと心に決めた。そして周囲の方々を口説いていった。福井での講演会の開催に賛同してくれたのは福井県、だが国は福井の為だけには支援できないとのこと。友人知人に語りかけ東京京都での同時開催を呼びかけた。最終的に決定したのは福井での3日間を中心に、東京、大阪そして熊本での開催となった。日本縦断のGNH講演会となった。ご協力いただいたJICA、辻名誉領事、西岡里子さん、GNH学会の方々そして福井県、経済同友会、福井経済クラブの皆様に心から感謝したい。西岡里子さんに講演をお願いしたところ辞退され今枝由郎さんを紹介された。NHKを通して今枝さんに連絡し、快諾いただいた。世界一のブータン研究家のお二人による豪華版の講演会となった。私達の日頃の思いが天に通じたように感じた。毎日その準備作業に追われているが、気がつくと、目の前にその日がせまっている。すべてに感謝。

仁愛大学

11月1日
仁愛大学
年に数回講演の依頼がブータンミュージアムに来るようになった。今回は仁愛大学から3回生を対象に「社会で求められる人物像について」の講演依頼である。対象学生300名とのことであったが、当日は150名が集まった。実は私は仁愛大学での講演は3回目である。テーマも同じ。場所も同じ。でも今年の学生が一番熱心に聞いてくれた。仁愛大学の正門を入るとオリンピックの聖火台によく似たメモリアルアートがある。聖徳太子像があり、六方世界を照らすという教えが刻まれている。私の創業の社是が、近江商人の三方よしと仏教の十方世界から借りてきた「十方よし」である。三方と六方と十方の差は大きく見えるが、言わんとする所は大差ない。仁愛大学の皆さんに言ったことは、「学校創立の志を忘れず、自分の大学に誇りを持て。」「アインシュタインとピカソ、ガンジーは世界一の能力を持っていたといわれているが、彼等と私達に大差はない。同じDNAを持った人間だ。やろうと思えば同じことができる。自分に自信を持とう。」「恩師を大切にしよう。私達を必死に育ててくれている。一生を通じて長いお付き合いが始まる。恩師に便りを欠かすな。」「私達を生んでくれた両親や祖父母に感謝しよう。今日の私達が生きているのはそのおかげである。親孝行は親が生きている間しか出来ない。」「友を大切にしよう。親友と呼べる友は人生の宝である。心を許しあえる友を作れ。」「その為にまわりの人に愛される人になれ。人に愛されるには人を愛することだ。ライバルでも敵でも嫌いな上司でも愛することだ。」「自分だけの人生と考えるな。まわりの人達と和気藹藹と暮らすのが人生であり。仕事である。」「失敗を恐れるな。失敗しなかった偉人は誰一人いない。みんな失敗し、その中から立ち上がってきた。私の人生も失敗の連続だった。失敗から学んだ事は多いが、成功から学んだ事は少ない。失敗を恐れず、まず動け。とに角実行するのだ。」・・・
こんな話をしているうちに時間が過ぎていった。仁愛大学の在校生は約1,200名、北陸自動車道の武生インターのすぐ近く、静かな山の麓に立ち並ぶ立派な校舎である。恵まれた教育環境で、訪れるたびに感心する。学校創業者の禿すみさんは同志社英学校が設立された頃、初期の女学校で学ばれていた。新島襄や八重から直々に薫陶を受けられた。私にとっても大先輩である。

リーダー

10月31日
リーダー
チームの成果を決定する要因は、チームリーダーの資質だといわれる。企業のリーダーは社長。県や市の場合は、知事や市長。燃える集団を作りあげられるかどうかが成果につながる。
福井県について考えてみたい。人口は43番目と少なく、都市へ若年層の人口流出が続いている。県内総生産は41番目とこれも低い。面積は34番目と人口の割に広い。自然が身近に感じられる快適な環境にある。1人当たりの所得は22番目と中位にあり、特殊要因を持たない県としてはかなり上位にあると考えられる。小・中学生の学力・体力はともに全国トップクラス。長寿の国でもある。古くから、越のくにの中心として繁栄し、伝統文化が県内各地に残っている。このすばらしい素材を生かして明日の福井県をどう作り上げていくのか。西川一誠知事の手腕にかかっている。現在の福井県の最大の特徴は「電力生産県」である。半世紀以上に亘って原子力発電のリーダーをつとめてきた。今、原子力発電は極めて難しい局面を迎えている。次世代型の自然エネルギーを求めるあまり、現状を無視した議論が横行している。国の方針が右往左往する中で、福井県は常に国の姿勢を問いただしてきた。電力消費地の知事が賛否の間を揺れ動いている中で、確固とした信念を持ち日々のエネルギー政策への批判をまげずに行ってきた西川知事のリーダーとしての資質を高く評価したい。東京オリンピックまであと7年、福井国体まであと5年、北陸新幹線は1年後に金沢駅まで開通する。そこから先が議論中だという。九州新幹線は鹿児島まで開通している。東北新幹線は青森まで開通。北陸だけなぜ金沢で区切るのか。私達の理解できない国の無策ぶりである。交通インフラは開通してはじめて、その効果を発揮する。西川知事の更なる活躍を期待したい。

よさこい祭

10月29日
よさこい祭
福井まつりが戦後の復興の中から生まれてきた。長い歴史の中で、福井の中心街を練り歩く戦国武将やその姫君(柴田勝家、お市の方、淀君、お江の方、お初の方の三姉妹)の行列から、最近では「よさこいイッチョライ」が祭りの中心を占めるようになった。市内を走る電車を停めての大イベントである。
先日ブータン王国から11名の若手、中堅の役人達が福井県を訪れて2週間の研修に参加した。そのウェルカムパーティーに「よさこいイッチョライ」のメンバー約25名の歌と踊りを披露した。大好評であった。僅か30分の短いショーであったが、ブータンの若者全員が最後の踊りに参加した。東京オリンピックの開会式のイベントに、この「よさこい祭」を再現したらいかがであろうか。現在福井県下で40チームがいる。全国では2,000チームはいるであろう。1チーム50人とすると、「よさこい」は10万人が歌い踊る一大イベントになる。北京オリンピックは多民族国家を象徴するマスゲームで幕をあけた。東京オリンピックは全国よさこい祭で開幕することを提案したい。

オリンピック

10月27日
オリンピック
東京オリンピック決定の報は、アベノミクスの第4の矢となった。思えば、前回の東京オリンピックは、戦後の復活をなし遂げた日本が世界に向けてその雄姿を見せる絶好の機会となった。1964年その時私は岐阜にいた。長男の誕生した年である。あの時、日本中が沸きに沸いた。それから半世紀経過した。今度の東京オリンピックまであと7年。私達は次のオリンピックに何を期待するのか、何を世界に向けて発信するのか。よく考えなければならない。世界のトップクラスの経済力、文化力、平和力、安定性を持つ日本である。世界のトップクラスの国民力(知力、体力、感性)を持ち、世界一の老人大国の日本である。トップクラスの緑化率、四季の美しさと共に、成熟した社会の安全、安心をぜひ伝えたいと思う。一風変わった異質な国と見られている日本が、人類の理想郷なのだと悟らせたい。
そんなオリンピックにしてほしい。平和を希求し、謙譲の美徳を失わず、いかなる困難に遭遇しても沈着冷静に、互いに助け合う日本の真の姿を世界に見せる絶好の機会である。前回は世界への発信という点ではマスメディアもネットワークも不備だった。今回は報道陣も選手達も観光客もすべての人々がリアルタイムに全世界に発信できる力を持っている。「世界一の観光大国日本」を築き上げる絶好の機会である。「世界一の平和大国日本」を世界の人々に見せる絶好の機会が、今到来しようとしている。世界中の優秀な人々が日本に来たくなるものを見せる必要がある。それは何か、カミオカンデか、小型ロケットのはやぶさやイプシロンか、それともIPS細胞か、地震研究か、私は水月湖の年縞研究所、世界唯一の縄文土器研究所、原発の廃炉研究所などいくらでも可能性があると考えている。これからの7年間を有効に使って日本から世界へ発信できるものを築き上げていきたいものだ。

キラリ会

10月26日
キラリ会
福井でキラリ会をスタートして早や7年が経過しようとしている。毎回スピーカーをお願いして、「福井の魅力」についてお話をいただく。思いのたけを開陳してもらうのである。福井県の勝山生まれ、東京からヨーロッパへ遊学され、そしてアメリカで10年のキャリアを積まれたケイテー株式会社の社長、勝山商工会議所会頭の荒井由泰さんにスピーカーをお願いした。羽二重から人絹そして合繊へ、繊維王国福井の変遷を聞いた。未だに繊維産出高日本一(人口割)の福井県のことはよく知っていたが、現代美術と福井県の関わりを知っている人は少ない。土岡秀太郎(北荘画会、北美文化協会)が前衛美術活動を旗揚げして、福井、勝山、大野等を舞台に活躍していた。全国からも、多くの芸術家が集い、福井に芸術の花が開いた時があったのである。岡本太郎、難波田龍起、橿尾正次(和紙)、北川民次、瑛九、池田満寿夫、靉嘔(アイオー)、元永定正など一流の人々であった。今から考えると信じられない程の有名作家達である。しかもその当時は、有名作家でも売れない時代だった。それを支援したのが、福井県のコレクター達だった。
版画をはじめ、数多くの名品が福井に残っているのは、間違いないところであろう。

役員会

10月25日
役員会
創業以来16年余りが経過した。初めて現役の取締役がガンで死亡した。名誉の戦死である。退職金の支給について取締役会で協議した。株式公開を果たす前の死亡であったがストックオプションの規定で相続できることになっており、上場が出来た時点で、使用可能となる。また古い社員は株式を持っており、これまた株式公開時にはひと財産となろう。霊前に株式公開への夢をひそかに誓いあった。その後の役員研修会で「創業の夢」を再度語りあい、決意を新たにした。幸い業績は上昇中であり、私達の夢への始動がいよいよ始まるのである。

人口爆発

10月24日
人口爆発
1972年の世界の人口は、35億人(ユネスコ発表)であった。2010年には倍の70億人になるとユネスコは予想した。実際は2012年に70億人を突破した。僅か40年で地球上に2倍の人間が住むことになった。人口問題が最も重要である。その事を正面から論じることがあまり少ない。2050年過には140億人に増える可能性がある。気候変動、資源枯渇、食料、水など多くの悩ましい問題の根本はこの人口問題である。ローマクラブ(1968年設立)の推計によると、世界人口のピークは2030年としていたが、少し怪しくなってきた。人口を抑制するものは、まず水と食料、そして環境である。人間は工夫をしたり、移動をするのでピークは少し遅れるであろう。いずれにしても2030年前後には、各国の人口問題を原因とする紛争が多発する。これを防ぐのは人間の英知である。人間の英知は「教育」を生み、教育は人口増に歯止めをかける。豊かさへの欲望が性欲への自制を生む。紛争を制止できるのは平和への希求の強さである。紛争の多発は同時に平和への希求を本能的に求めていく。人口減少社会の到来をなげく傾向が強いが、日本のあるべき姿は、先進国のあるべき姿は、人口減少社会をいかにキッチリと確立していくかである。人口爆発という人類滅亡の流れを止めるのは、それしかない。

幕末から明治へ

10月22日
幕末から明治へ
幕末の名君といわれた島津斉彬、山内容堂などと並んで福井藩主松平春嶽は大きな功績を残した。明治維新の最大の功労者である。ところが薩長の陰謀によって、明治2年以降徹底的に明治維新の再評価が行われ、明治中期以降は長州のみがかつての「平家」のように「長州」でなければ顕官なれないことになってしまった。もう一度幕末から明治への歴史の検証をしなければならない。福井市の郷土歴史博物館には、その資料がある。特に松平春嶽公やその周辺の人々の正式記録、日記等膨大な記録が残されている。この研究をすすめることで、明治維新の真の姿を明るみにすることができる。これは福井に住む私達の責務である。歴史は書き換えられなければならない。「地球日本史」の西尾幹二氏の意見とその行動に、絶賛を送っている私としては、正しい明治維新史の誕生を待ち望んでいる。そしてもう一つ、福井県には大野盆地がある。大野藩である。幕末に日本中に大野屋という藩直営の商店を展開した。今のチェーン店の元祖である。大型の帆を持った汽船を藩で購入し、樺太まで遠征し、幕府から樺太の海岸線を準領地として拝領している。更に大阪の適塾から校長を招き、蘭学塾を大野で開いた。幕末の蘭学の中心は福井県にあった。緒方洪庵の子も大野へ留学した。横井小楠、橋本佐内、由利公正など日本を変えた志士が福井にも数多く存在するのを忘れるわけにはいかない。

あと1店舗

10月19日
あと1店舗
福井市中心部の活性化と取組んで早や10年余りが経過した。フェニックス研究会に始まり、片町界隈の再開発の勉強会。そして3棟の分譲マンションの建設に着手した。3棟あわせて約70億円の投資である。その分譲住宅、店舗の戸数は住宅183戸、店舗7店他分譲車庫を含んでいるが、福井駅西口再開発の着工に合わせるようにここにきて、ほぼ全戸完売となった。逆風の中完売に努力した社員のおかげである。同時に、「時代の風」の影響がいかにビジネスに大きな影響を与えるかを改めて再認識した。構想時には完成迄に完売していたケースが多かったのである。今は残戸に対して見込客が何倍もおられる。正に日本の不動産市場が底を打ったのを実感せざるを得ない。金沢や富山の物件への引き合いが急に増えてきている。総資産100億円を超えていた私達の会社も、今月末で総資産が3分の2以下になった。資産リストラが進んで、あと2年余り先には実質無借金経営になりそうだ。

アントレプレナー表彰式

10月18日
アントレプレナー表彰式
名古屋でアントレプレナーの表彰式が行われた。福井県で2社が選ばれて出席した。アルペンの水野泰三社長を筆頭に、アクセレーティング部門6社、チャレンジング部門に6社、他1社の表彰が行われた。日本システムバンクはアクセレーティング部門で表彰された。表彰を受けたアントレプレナー諸氏の事業内容については、数多くの示唆に富んだところがあった。ユニークな発想が多かった。起業家としての特徴が随所に見られて参考になった。しかしそれ以上に感心したことがある。それは私が専売特許としている「利他の心」や「十方よし」を殆どの人が持っていたことだ。急激な成長を遂げるためには、「我田引水」では無理だ。「喜びの種、幸せの種を蒔こう」というように、「世の為、人の為に尽す」起業家が受け入れられる。起業家を受け入れる土壌は日本にないといわれていたが、困難を乗り越えて成功している人々を見て意を強くした。「利他の心」が起業家の基本姿勢でなくてはならない。起業家を待ち望んでいる人々も、多くはないがいることはいるのを知って安心した。またアクセルを踏む季節が来たようだ。

そよ風の中の私

10月17日
そよ風の中の私
若い頃ゴルフ場の脱衣所の窓際で、湯上りの身体のほてりを冷ますため立っていると、そよ風が吹いてきた。何と気持ちのよい風だろうとそれから何度も同じ場所に立ったことを思い出す。今年の夏は猛暑ということだが、風の弱い日が多い。いつもは少し窓を開けただけで勢いよく入ってくる風が、今年は無風状態に近い。そして蒸し暑い。お盆を過ぎても37℃と暑い。窓を開けてソファに横になってみた。肌着だけで寝てみたところ、そよ風が吹き出した。ゴルフ場の風を思い出した。そよ風の中の私は、気持ちのよい眠りに誘い込まれそうだ。無上の幸せを与えてくれる。こんな小さなことに、これ程の喜びや幸せを感じる。幸福は私の心の中にあるとしみじみ思う。感謝。

日本はなお世界のトップレベル

10月13日
日本はなお世界のトップレベル
エズラ・ボーゲル教授(ハーバード大学)が著したのが、1979年の「ジャパンアズNO.1」で大ヒットした。当時は世界NO.1のアメリカを1人当りで抜き、総GNIでも6割そこそこに肉薄していた。今は少しトーンダウンしているが、他国と比較しても大きく落ち込んだわけではない。犯罪も、汚職も少なく、平均寿命が長く、義務教育の水準は高い。製造業の品質管理のレベルは他の追随を許さない。米・ロ・中が競っている軍事面はさて置き、国力の点では、ヨーロッパの四強英仏独伊を全く寄せ付けない高みにいる。勿論ロシアはそれ以下である。中国がGNIの総額で日本を抜いたが気にする必要は全くない。1人当たりでは10分の1の低レベルである。
私達が注意しなければならないのは、まず正しい現状認識をすることだ。世界の三等国になり下ったようなマスコミ報道をうのみにしてはならない。世界トップクラスに未だにとどまっているのだ。注意すべき点はスピードの欠如である。意志決定の遅さ、インフラ整備の工程の遅さは一等国としては誠に恥かしい。若者の意欲の欠如も心配だ。JICAの海外青年研修者の応募が少ないとのこと。グローバル時代を迎えて世界をリードする若者を育てたい。優秀な若者をブータンミュージアムに集まってもらい研修をする場を作りたい。

どこへ行くニッポン

10月11日
どこへ行くニッポン
約40年前から、合計特殊出産率が2.1人以下で推移している。少子化が急速に進んでいるのだ。2010年の平均初婚年齢は、男性31歳、女性29歳と晩婚化が進んでいる。婚姻率は減少し、離婚率が上昇している。単独世帯が増加し、2006年以降トップになり、更に増加している。子なし夫婦の世帯も、確実に増え続けており、これ等はすべて少子化の原因である。
生涯未婚率は、ここ20年来増加しだした。特に男性がひどい。男性の2割以上、女性の1割以上が結婚しないのだ。
私達は「一人扶持は喰えなくても、二人扶持は喰える」といわれて、結婚すれば何とか生活できると教えられた。結婚すれば、助け合う心が芽生える。すぐ子供が生まれる。そして子育てに夢中になる。すべてがうまく回転していく。一人でいると孤独になる。社会への適合がうまく出来なくなる。不安が増す。ろくなことにならない。婚活がいわれ出しているが、結婚ビジネスも先行き厳しいようだ。しかし、今ここで婚活に真剣に取り組まなければ、日本の未来は誠に暗い。私は分譲マンションに住んでいるが、おひとり様が多い。お互いに声を掛け合って、挨拶をするよう心掛けている。まごころからの挨拶である。心のこもった挨拶である。

日本の存在感のピークは1990年

10月10日
日本の存在感のピークは1990年
1970〜1980年代は先進国の成長率が圧倒的に高かった。特に日本のGDPは1970年ドイツと肩を並べていたが、1990年には1.8倍と大きな差をつけた。対アメリカも1970年の5分の1から、1990年には半分以上に接近し、1人当りGDPではアメリカに並んだ。日本が「アズNO.1」といわれた黄金時代だった。その後日本はバブル崩壊という政策ミスによる低迷を強いられた。しかし、悲観する必要はさらさらない。現在でも実質GDPは先進国中、絶対の第2位を堅持している。中国が名目GDPでアメリカに次いで第2位になったが、日本が1970年から1990年にかけてバブルを経験したように、中国ではそれと同じことがおきている。今後の対応が注目されるところである。台湾、香港、韓国、シンガポールはかつて4タイガーズといわれ、日本と同じように急成長をした。そして今なお先進国を上回る成長が続いている。この努力には敬服せざるを得ない。アジアの明日をリードしていくのは、日本と中国、そして4タイガーズと、今後大きな成長が期待できるインドである。私はインドに注目している。

大きな計算

10月8日
大きな計算
ディズニーランドの近くに住んでいた。千葉県の企業局が三井不動産と取組んだ東京湾岸開発が進み、海浜幕張の駅前に第3セクターのビルが建った。分譲ビルの17Fの1室に陣取っていた頃だ。その過大とも思える土地投資を見ていて、ディズニーランドの成功を調べたくなった。何故これ程の大きな投資(1,000億円程度)が成功したのか。そこには大きな計算が隠されていたのである。千葉県も三井不動産も京成電鉄も誰も土地を所有していた訳ではない。勿論漁民もである。埋立地という海上の土地約260万坪の所有権を売買したのである。売ったのは千葉県と漁業組合、買ったのは三井不動産と京成電鉄の合弁オリエンタルランド。そして1975年にディズニーランドが完成した。その時私は社命によりアナーバーのミシガン大学に留学中であった。まだ京葉線が開通する前で、ディズニーランドへは浦安駅から直通のピストンバスが出ていた。大きな計算が行われたのである。ディズニーランドが成功した最大の理由は、購入した埋立地が260万坪。ディズニーランドの敷地が115万坪。漁業組合への補償18万坪(1,800人の漁業権/人100坪)。残った土地が127万坪。坪50万円としても6,350億円の評価の土地を手に入れたことになる。オリエンタルランドは、この土地へ少しずつホテル業者の進出を促して、仲間を増やしていったのである。
もう一つの成功要因は、ハードネゴシエーションだった。本場のディズニーランドとの交渉を最後まで粘り、条件面で一歩もひかなかった。そして大型駐車場を用意したり、第一生命等の協賛企業を取り込んだりと、優れた経営戦略に裏打ちされていた。毎週の花火も今では珍しくはないが、開園当時は夢のようなイベントであった。人々に夢を売る仕事を間近で見ていた私はそこから多くのことを学んでいたのである。

あきらめるな

10月6日
あきらめるな
スーパーヒット商品となった数々の有名商品の誕生秘話を調べてみると面白いことに気が付く。例えば、任天堂のファミコンである。最初は全然売れなかったそうだ。そこでソフトメーカーにファミコンを無料で配り、ゲームソフトを作ってもらう努力をしたとのことである。一つ間違えばヒット商品にはならなかったのである。あきらめずに種々と工夫し、努力をしたのでスーパーヒット商品となった。あきらめないことが、いかに大切かを思い知らされる。ソフトバンクや大塚製薬が、無料でサンプル商品を大量に配布したのも、販売戦略である。売れない商品を何としても売りたいとの執念が大ヒットにつながった。「あきらめない」ことが「スーパーヒット」につながる可能性が大きいことに気付かなければならない。私は途中であきらめてしまったことがあまりに多く誠に恥かしい。

自助努力

10月5日
自助努力
日本人はお上意識が強く、あらゆる事を国を始め地方公共団体に依存する傾向がある。物事がうまくいかないとつい不満が出る。愚痴が出る。責任の転嫁である。自分がやるべき事まで官や公に依存する体質は誠に困ったことといわねばならない。「神は自ら助ける者を助ける」との言葉があるが、自助努力が成功への近道である。自分の足で立ち、自分の足で歩く。これ程当たり前の話はない。自信を持って一歩前へ。失敗を恐れず一歩前へ。自分で一歩を踏み出さなければ、何の変化も生まれない。

1人当たりGDPの比較(人口500万人以上)

10月4日
1人当たりGDPの比較(人口500万人以上)
スイスが断トツの1位で1人当たり8.8万$/年(800万人)である。2位オーストラリア6.5万$/年(2,300万人)、3位デンマーク6.2万$/年(560万人)、スウエーデン6.2万$/年(950万人)、カナダ5万$/年(3,500万人)、オランダ5万$/年(1,700万人)、フィンランド4.9万$/年(540万人)、シンガポール4.9万$/年(530万人)、アメリカ4.9万$/年(3.2億人)、ベルギー4.8万$/年(1,100万人)、日本4.8万$/年(1.3億人)、ノルウェー4.5万$/年(500万人)、ドイツ4.5万$/年(8,300万人)、フランス4.4万$/年(6,400万人)、イギリス3.9万$/年(6,300万人)、イタリア3.6万$/年(6,100万人)と続く。日本は11位である。このランキングで特徴的なことが2つある。1つは世界中の資金(富)を集めている国のGDPが高いこと。それはスイス、オーストラリア、カナダ、アメリカ、シンガポール等富裕層が移民として入国したり、預貯金をプールして投資を受入れしているからである。2つ目の特徴は、北欧4ヶ国が共通して高いレベルを維持している。この理由は高税率により貧富の差をなくし、高負担高福祉社会を築き上げているからである。勿論少ない人口(平均640万人)によるところも影響しているのは事実である。

ジョーク

10月3日
ジョーク
日本人はシャイだとよくいわれる。私もシャイで、幼い頃から人見知りをし、人の後にかくれて、眺めていることが多かった。人前で話が出来るようになったのは中学生になった頃であろうか。大学に入り、親元を離れて、一人で暮らすことになり、やっと自主自立に目覚めた。新島襄先生のおかげである。国禁をおかして夜の海へ小舟で漕ぎ出した先生の勇気に励まされた。アメリカ人とつきあうようになってジョークをいわれてよく戸惑った。日本人同士では考えられないようなジョークを、アメリカ人は多用する。私はいまだにこのジョークを使うのが苦手である。よく観察していると、アメリカ人は事前にいくつかのジョークを準備している。場所とタイミングを見ながらジョークを上手に使う。何度も使うことで使い方もうまくなる。何事も経験を積まなければ上手くなれないということだ。

ホテル

9月28日
ホテル
世界を歩いても、日本を歩いても、商社マンにとってはホテルが自宅である。いかにホテルで快適に安楽に家庭にいるように過ごせるかが重要な健康維持の要素となる。3食が外食となるので、味付けが濃くなり、塩分のとり過ぎとなる。食養生が難しい。
福井市の駅前にはホテルが多い。私はここ7・8年の間、駅前ホテルを巡回している。ホテル業に進出しようというのではない。ホテルのフロントに、私の会社のパンフレットやチラシ、ハガキ等を置かせてもらうのである。イベントの案内が多い。大きなホテルだけでも10軒はある。面白いことに、ホテルによって対応が違う。人によっても違う。この年になって、更に学ぶことが多い。「経営は人なり」といわれているが、本当に「人次第」で結果は変わる。わかっているようで、ついつい安易に流れて、人を育てることを忘れがちである。

龍のねつけ

9月27日
龍のねつけ
私の生まれ故郷、近江の国長浜は、古くから栄えた商人の町である。北近江の中心として、豊臣秀吉が初めて城持ち大名になった土地で、かつては交通の要所でもあった。徳川時代には天領となり、諸国への移動が大名領と比較して自由だったこともあり、大いに栄えた。私の隣の町内には有名な古物商が2軒あり、よくのぞきに行った。そこで「龍のねつけ」を見つけた。13コある。精巧な彫刻で、木の質といい、彫の見事さといい、申し分がない。直ちに買いとることにした。今は私のマンションの木製の大テーブルの上に並んでいる。ブータンは雷龍の国といわれる。北のヒマラヤの大山脈の高地から、南のインドとの間の低地まで、正に山また山の山国である。南の低地には亜熱帯のジャングルが広がっている。天候の激変により、雷と竜巻がおき易い国である。その為か「龍」に関するものが多い。楽器の頭は龍頭である。和紙に描かれる絵は龍の絵が一番多い。龍のねつけを眺めながら、机に向う毎日。光の具合で、本物のような気がしてくるから不思議である。

珍客を迎えて

9月25日
珍客を迎えて
民俗学、博物館学の大家、神野善治さんが偶然訪ねてこられた。今は武蔵野美術大学の教授である。ブータンの魅力について歓談していたが、「ブータンミュージアム」に話題が移った。「なぜ福井にブータンミュージアムか」との問いである。私の17年間の「幸福への思い」、そして一昨年11月のブータン王国第5代国王ご夫妻の訪日、そして坂本光司教授(法政大学院)による福井県幸福日本一の研究発表と偶然とは思えない事柄が続いた。昨年3月にはGNH研究の第一人者、ダショー カルマウラを福井に迎えた。この瞬間、私は福井のブータンミュージアムの創設を決意した。そして翌月、ブータン王国へ、ブータンミュージアム設立の同意をとりに訪れた。神野教授はブータン王国に数多く残っている「橋」の研究に興味を持っているとのこと。私は工法については専門外なので、助言は出来なかった。長い時間、館内で調べられていた。話題が国宝に移った。隣の石川県と比較して、なぜ福井の工芸家の評価が低いのか、なぜ人間国宝が少ないのかと質問したのである。その答えは全く意外であった。福井は豊かすぎる。候補者が多すぎるという意見である。福井は継体天皇の頃から日本におけるものづくり大国であった。その系譜が脈々と県下各地に残っているとのご意見である。久しぶりにわが意を得た。この思いをどう生かしていくか、じっくり考えたい。

アントレプレナー世界大会へノミネート

9月24日
アントレプレナー世界大会へノミネート
21世紀の日本の旗手として、新しい価値の創造と変革をもたらすアントレプレナーを世界大会へ送り出すための選考が行われた。審査委員長はあのIBM日本の元社長椎名武雄さんである。1986年に創設された起業家表彰制度である。サンマイクロシステムズのスコット・マクニーリ、デルコンピュータのマイケル・デル、スターバックスのハワード・シュルツ、アマゾンドットコムのジェフ・ベゾス、グーグルのサーゲイ・ブリン、ラリー・ペイジ、エクイティ銀行のジェームス・ムワンギ等が選ばれている。日本人の受賞者は残念ながらまだいない。その北陸地区の代表の1社に選ばれた。9月26日に東海北陸地区の代表を選ぶ会合へ行くことになった。59歳で創業した私がそんな華やかな舞台に参加できるとは、まさに夢のような話である。僥倖を喜んでいる。そろそろ日本代表が世界一の座を射止める時代に来ているだけに、大会に参加する方々にエールを送りたい。

国宝丸岡城

9月22日
国宝丸岡城
明治維新後の廃藩置県、版籍奉還で日本中の大名が城を失い、国を失った。そして天皇の命ということで日本中の城が破壊された。残ったのは僅かに十二城。現在国宝として残っている四城(犬山城、彦根城、松本城、姫路城)と丸岡城を含む残り八城である。どうして破壊されなかったのか、理由はいろいろである。問題を提起したいのは丸岡城(霞城)である。丸岡城は福井大震災までは国宝であった。地震で倒壊し、その後修復されたが、文部省の査定で国宝の指定が取り消された。古材使用の比率が不足したのが原因のようだ。私は国宝の四城をよく知っている。何度も訪問した。丸岡城は近いので10回以上登っている。歴史といい、風格といい、その歴史的価値といい、丸岡城の国宝としての価値は十二分にある。国宝として、この五城を比較して何の遜色もない。旧文部省の誤認によって、国宝を取り消された丸岡城の国宝復帰運動を起こす必要がある。声を大にして云おう。丸岡城は国宝だ。

永平寺

9月21日
永平寺
禅の道場永平寺は有名だ。かつては除夜の鐘の永平寺として全国的に有名だったが、最近は他の寺の鐘に変ったようだ。世界中から集まってくる修行僧が永平寺の山中で数年間の修行をする。現在183人。それを指導する貫主様以下の役寮は20数人。現貫主福山諦法禅師は79世、歴代最年少である。私は不思議な仏縁を頂き、貫主様を存じ上げているが、その遥か以前、私の親族の納骨をお願いしている。そのため毎年何回かお参りをしている。先般は福井経済クラブの会員と共にお参りをして、久しぶりに精進料理を頂戴した。これ以上の美味はないという程の絶品である。生きている喜びを実感する一日を過すことが出来た。厳しい自然環境の中で、全山をあげて毎日厳しい気魄のこもった修行が続いている。

スイス

9月19日
スイス
レマン湖のほとり、ローザンヌにIOCの本部がある。その為、国際スポーツ競技団体が本部や事務局を置くようになった。今やローザンヌはオリンピックの首都と言われている。ジュネーブの国連欧州本部も有名である。今から40年近く前に、チバガイギのゼネラルマネージャーをやめたストラウブ博士とスイスのサッカーチームの有名選手だったスピンドラー氏と、ルツェルン市に本拠を定め、ヨーロッパ諸国へ営業活動を行った。スイス人はどの国へ行っても受け入れられるので、協力相手としては最高である。ドイツ語、フランス語、イタリア語を自由に話せる人が多い。北欧へ行っても、スイス風ドイツ語が、現地の言葉と近く意志疎通に困らなかった。永世中立国の表看板のおかげで、ヨーロッパでは一目おかれる存在である。スイスのプライベートバンクには世界各地から資金が流入する。スイス国籍をとるのは難しいが、スイスに預金口座を持つのはそんなに難しくないとのこと。スイスからフランスへぬけるのも、ドイツへ出るのも、イタリアへ行くのも、車で簡単に通行できる。日本の国内の高速や道路を使って動くのと差はない。EU結成前から国境らしい国境のある所は少なかった。チューリッヒが世界の金融市場で重要な地位を占めているのも、それが背景になっているからであろうか。とにかく、スイスは魅力にあふれた国である。何らかの繋がりを持ちたいと考えている。ブータンとスイスは仲がよい。スイスの牧師が日本の西岡京治さんと同じようにブータンの農業を指導されていた関係で、強い結びつきがある。私が今春ブータンを訪問した時、首相官邸で、時の首相代理とお会いしたその翌日、スイス大使が同じように首相代理に挨拶していた。テレビのニュースで知って驚いた。ブータンとスイスと日本がGNHや平和の理想を追求するネットワークができることを願っている。

生活保護世帯

9月15日
生活保護世帯
1995年に生活保護を受けている世帯は最少になった。日本が世界でトップレベルの世帯収入を得ていた頃である。ところがそれ以来、また減り続けていた生活保護の申請が増え出した。特に高齢者の受給が増えているという。国民年金を貰いながら厳しい生活を強いられている人がいる。生活保護を受けることはプライドが許さないという。しかし、国民年金だけでは最低生活も出来ず困っておられるのである。世界トップレベルの経済水準を維持している日本が、1995年以後にどうしてまた生活保護を受ける人々が増え出しているのか。高齢者の困窮、若者達の低収入を救う道が必ずある筈である。制度の不備と運営のまずさを指摘しておきたい。

地蔵まつり

9月14日
地蔵まつり
東京巣鴨のお地蔵様は有名だ。その近くにいくつかのコインパーキング場を経営しているが、そのいくつかは、私が自分の足で地主様や管理業者様と直接交渉してオープンした記憶がある。そこで巣鴨のとげぬき地蔵様の周辺を歩きまわり、状況を分析し、高齢者の銀座といわれるその根拠、その可能性、その将来をいろいろ考える機会を持つことが出来た。そこで福井に「いきいき地蔵尊」を招来し、毎月24日に3人のお坊様に、般若心経をはじめ読経とお説教をお願いしている。いわゆる辻説法である。8月の辻説法は「犬は文句をいわない。人間はすぐ文句をいう。犬の従順さ、素直さを私達人間も学びたい。」とのお説教であった。私は否定から入る人を信用しない。人の足を引っ張る人を信用しない。しかし、そんな人が世の中には一杯いることに気がついた。せめて今日のお説教のように犬に教えられ、まともな人間に変りたいと切望する。

食堂

9月13日
食堂
福井県庁にも、福井市役所にも内部に食堂がある。誰でも入って食事が出来る。西武百貨店の社員食堂は、一般に公開されていない。一般の人に「食べくらべ」が出来るツアーを企画したらいかがであろうか。もっと間口を広げて、「福井駅前レストランめぐり」のイベントを企画したらどうだろう。そして、例えば1店当り1,000円以下で10ヶ所のレストラン、食堂、すし、そば等の店を巡回し、スタンプラリーのように、まわって点数をつけてもらう。そんな企画である。エントリー店はおそらく105haの中だけでも100軒は下るまい。一大イベントとなり、大成功間違いないと思うがいかがであろうか。1等賞金1万円10名、優秀店5店を選び、5万円の賞金をさしあげるという考えも可能である。

2020東京オリンピック・パラリンピック決定

9月12日
2020東京オリンピック・パラリンピック決定
私は社命により、オイルショックの直後1975年ミシガン大学へ入学した。その後世界中を駆け回って、貿易の仕事に全身全霊を傾けた。当時私が行く先々に日本人の駐在員が働いていた。その数10万人。日本人の観光客は当時は男性ばかりであったが、その数も10万人といわれていた。即ち20万人の日本人が日本以外で働いたり、観光をしながら国外にいたのである。1964年東京オリンピックの後、僅か10年程後のことであった。2020年にまた東京での開催が決まったことは誠に嬉しい。日本の国際化がますます進むことを期待したい。日本はエキゾチックな国と思われている。異質の国と思われている。いい意味で世界が目標として目指してくれる国に是非していきたい。単なる興味本位の国ではなく、世界から愛され、尊敬される国にしたいものである。あと7年を大切にしよう。もう少し日本人が英語を話せるように、もう少し外国人がまち歩きが出来るように、諸々の準備を整えよう。おもてなしの心、日本人の勤勉で、真面目で、誠実で、謙虚な姿、平和を愛する心を是非世界に伝えようではないか。

猛暑新記録

9月10日
猛暑新記録
高知県の四万十市で国内観測史上最高の摂氏41度を記録した。8月12日のことだ。そしてそれが続いた。「残暑が厳しい」との言葉は、日本語の慣用語である。8月に入ると、日本は最も暑い日々を迎えるからだ。しかし、今年はお盆を過ぎてもまだ記録を更新するところが多かった。「熱中症に気をつけよ」「外出を控えよ」との呼びかけを奇異に感じたのは私だけであろうか。なぜなら、熱中症で死亡した人は殆ど家の中にいた。室温が上がって、風の吹かない室内が最も危険である。テレビも新聞も正しい報道を心がけてほしい。

ブログ

9月8日
ブログ
私がブログを書き出したのは、小泉元首相とほぼ同じ時期である。彼が激務の中、ブログを発表し続ける姿勢に打たれて、私も始めた。以来「年々歳々花あい似たり、歳々年々人同じからず」を地で行く時代を過ごしてきた。時は決して後戻りをさせてはくれない。常に先へ先へと進んでいく。ある人が私に言った。「後を振り返るな。過去のことを言うな。前だけを見つめて、前進を続けよ。」この言葉は至言である。私の座右の銘である。前へいかに進むか、その事だけに全精力をつぎ込んでいる。ツイッターが流行り出して、ブログの文章を短くカットしようと苦心したが、所詮ブログとツイッターは違う。今はブログを続けることに意識と努力を集中している。

隣人祭

9月7日
隣人祭
マンションの住人が、隣の人のことを知らない、知りたくない、教えたくないという奇妙な時代に入ってきた。私はこれに大反対である。マンションは共同住宅の名の通り、人間社会の理想的な住まいを実現する為のものである。隣の人の生死を知らないなどの事例を聞き、許し難い義憤を感じる。人間は共に生きてこそ人間である。隣人を愛し、家族同様に暮すのが理想の姿である。私の住むマンションは、年1回の隣人祭を欠かしたことがない。先般の隣人祭に出席して、とても嬉しかった。小さい子供達がたくさん参加してくれた。それともう一つ、感動の出会いがあった。先週入居された方に声をかけられた。ご夫婦共静岡生まれ静岡育ち、福井へ転勤して10年。終の棲家はまだ大分早いが、福井の教育、福井の食そして福井の人情にほだされてマンションを購入した由。本当に嬉しい話であった。

不毛の活断層議論

9月3日
不毛の活断層議論
10万年の間に動いたかどうかを確認し、原発を止めるか動かすか、これを判断しようというのが日本の常識であろうか? 私は現在の活断層議論をテレビ新聞で聞いていて耳を疑うことが多い。なぜ10万年なのか、なぜ活断層なのか、私達日本人は、火山列島の上に数千年住み続けている。しかし、10万年前はわからない。10万年というものさしはいつの間に作ったのか、誰が作ったのか、何の為に作ったのか。全くわからない。10万年のものさしは不要である。今の議論は、マグニチュード8〜9、場合によっては10を超す巨大地震に原発が耐えうるかどうかを判断すべきである。活断層か否かそんなことは不必要な議論である。もし、活断層かどうかわからないが、M9〜10の巨大地震が起きた時に私達はどう対応すべきかを議論し、その対策を直ちに打つべきである。「活断層かどうか」の議論ほど不毛のディベートはない。即刻止めて、やるべき対策の大きさを確定し、その実行を早めることである。「活断層の上に原発は作らない」という原則で作られたものを、今更それが間違いだったかどうかを判断する必要はない。前向きの対策が必要だ。起こる可能性のある震災津波を想定し、それに耐え得るものにしていただければ、何もいう必要はない。

GNHセミナー

9月1日
GNHセミナー
7月27日(土)第2回ブータンミュージアム講演会が開催された。講師は福井大学の月原敏博教授。彼の専門は地理学であるが、京大山岳会OBとして、永年ブータン、インド、ネパール、探険の経歴を持っている。そして今でも政府要人や大学関係者と密接なコンタクトがあり信頼できる情報源を持っている。最近のブータン政治情勢の分析も交えて、ブータン国内外で「GNH研究」がいかにすすめられたかを詳細に聞くことが出来た。新聞記者が取材に来たので、その後質疑応答も含めて、約時間に亘る貴重な講演を聞かせてもらった。次回の予定は9月28日(土)13:30〜となっている。

源平酒造

8月31日
源平酒造
福井県大野市には酒蔵が多かった。現在4蔵が営業中である。福井県酒造組合理事長の花垣酒造は、規模を追求するよりも地産地消の酒づくりの本道を歩んでおられる。大野は盆地で冬の気温が低い。まわりは県内最高の峰々にかこまれ、独特の気候、風土が出来上がっている。源平酒造はその大野の酒蔵の老舗である。私は源平酒造の3年古酒「万寿恵」が好きだ。冷やして飲むと格別。3年熟成なので大量生産はできないが、人気商品である。先日、源平酒造の新しいオーナー萩原さんの来訪を受けた。酒造りで最も大変な、独自の工程である「麹」づくりに立会った時の感激を聞いた。増資の引受依頼であった。源平酒造の未来を信じる私ではあるが、今は一番大事な苦労の時である。まず、正常な酒造りを一日も早く軌道に乗せるようアドバイスした。萩原新オーナーの手腕に大いに期待している。「麹」を生かす新商品やワイン造りへの投資を求められたが、私は「地酒」を育てたいの一念なので、右顧左眄は困るという主義。地酒一筋に堂々と経営の正常化を成し遂げた暁には、次の展開が開けてこよう。それを信じたい。今夜のマンションの集いに源平酒造の「万寿恵」2本を差し入れた。

地方都市再生

8月30日
地方都市再生
高齢社会の時代を迎え、国交省はまちづくり三法を1998〜2000年に施行したが、その後成功事例が少ない。これは実際にまちづくりを担当する窓口の市や県が、市会や県会の議員の賛成を得られず、都心部への資金の投入が出来ないことに原因がある。国を上げて総務省、国交省、経産省、厚労省、文科省すべての協力の下に都心部への重要施設集約化を実行していかなければ、郊外への無駄な投資が続いていく。日本の財政にムダは許されない筈だ。21世紀型の国土は地方都市再生のはずである。勇気ある決断と実行を期待する。

海外青年協力隊員(JV)来館

8月23日
海外青年協力隊員(JV)来館
先日、会員の時田修一郎ご夫妻とJV(ブータン)として活躍され今年3月に帰国された娘さんと、同じくJVとして活躍された友人が来館された。ブータン政府より贈られた「手編みのカラーの吉祥紋」や「手づくりのバック」「竹製のボンチュ」「白の長いショール」、英文の書籍などのご寄託をいただき、収蔵品リスト(写真付)に掲載させていただいた。福井市歴史博物館の収集方法について角鹿副館長にお聞きしたところ、収蔵物収集予算は開館以来数十年間ゼロとのこと。すべてを寄贈又は寄託に頼っている。特に松平家の本家、分家(松平春嶽公直系)から貴重な文物をお預かりしている由。ブータンミュージアムの今後の方向性について参考にする必要があると考えさせられた。

夏休み

8月22日
夏休み
お盆の墓参りに故郷へ帰った。義理の弟が今年逝去したので弔意を表して一族が長浜へ集まった。場所はエクシブ琵琶湖。妹一家と弟夫婦(子供2人は欠席)と私達一家併せて18人のパーティーとなった。エクシブの会員になり約10年程立ったが、なかなか希望日と希望場所がマッチせず、不満が多い。設備がよく社員の躾もよいので、リザーブシステムにもう一工夫すれば人気が出るであろう。オーナー重視の姿勢をより鮮明にする必要がある。最近は若い家族連れが多く、一般のリゾートホテルと何ら変わらない。しかし、これ程子供連れが多いということは「日本の人口問題の先行きは悲観する必要がない」との私の主張の正しいのを証明しているようだ。私は、現在の日本の人口1.28億人が先行き1億人を割る日が来ても全く問題ないと主張している。それより、1人1人の生活の質を高め、世界に貢献する人を育てなければならない。小さな国土、それも可住空間の少ない山国の日本に、世界第10位の人口が住んでいる。決して少なすぎることはない。長い日本の歴史の中で1.28億人が住んだのは2、3年前である。ピークをこえたと心配する必要など毛頭ない。視点を変えて、世界のために、どの分野で、どのような貢献をするのかを、もっと議論するべきだ。走りまわる孫達を見ながら考えた一日だった。

可能性

8月16日
可能性
福井県の繊維産業は出荷高で全国第3位である。これを人口割の基準で見直すと、第1位に躍り出る。物事の中身は同じでも、見方によって大きく変化する。福井県を評価する場合には、人口が少ないことを逆手にとって、「人口割」で全国都道府県と比較すると有利になる。国際的に見ても人口80万人の福井県は決して小国ではない。日本の人口1.2億人は世界第10位の大国である。福井県の人口より少ない国は、ブータン王国をはじめ27カ国もある。アジアで3カ国、アフリカで5カ国、ヨーロッパで8カ国、南北中アメリカで11カ国もある。最少国はバチカンの500人。サンマリノ32,000人、モナコ35,000人、リヒテンシュタイン36,000人、セントクリストファネービス53,000人、ドミニカ68,000人、アンドラ公国86,000人、セーシェル共和国87,000人と10万人以下の国が沢山ある。私は福井県を世界でも有名な観光地に育てる夢を持っている。それは国際都市として、福井を世界的にアピールするのである。例えばスイスのジュネーブは赤十字の本部があり、国連ヨーロッパ本部がある。スイスのローザンヌはオリンピック首都を名乗り、オリンピック競技の各本部がほとんどここにある。ニューヨークには国連本部がある。ニューヨーク、ロンドン、チューリッヒは国際金融の中心地である。福井県は国際都市として、どんな魅力的な顔を持っているのか、その可能性を毎日考え続けている。「幸福」や「信仰」、「自然」や「教育」が面白そうである。

まち歩き

8月11日
まち歩き
自動車の普及率が高いのは、地方の特長である。それだけ公共交通が発達せず、転勤で福井へ来た人はみな車を持たないので困っている。車での移動が多くなると足腰が弱くなる。そこで友人達はみな万歩計を持ち、一日何千歩を目標にしているようだ。何千歩かは人によって差があるが、歩くところはよく似ている。福井は町の中心に足羽山があり、そのほとりを足羽川が流れている。その周辺が散歩コースのようである。私は「まち歩き」が好きで、毎日中心街をぐるっとまわってくる。並木道の緑の変化、町ゆく人の表情の変化、新しく開店する人、閉店する人、建物を建てる人、壊す人、それぞれ変ってゆく。まち歩きの醍醐味は、その変化を感じ、その変化のもとを見極めるところにある。町角で親しい人と声をかけあい、はずんだ声で短い会話をするだけで楽しい。福井のまちを歩くことで、大いにリフレッシュさせてもらっている。

年縞

8月10日
年縞
水月湖の年縞が世界標準になった。7万年間の地球の歴史を刻みこんだ「ものさし」が水月湖底の堆積物から発見されたのである。今迄は南極大陸の氷が「ものさし」であったが、今後は水月湖の年縞(すいげつねんこう)が地球の歴史のものさしになる。これを機会にこの「水月年縞」を福井県の宝に指定し、県外持ち出しを禁止する必要がある。研究者達を若狭にひきつける為にも「持出厳禁」にすべきである。若狭に「7万年研究所」を開設し世界中の学者のメッカ、気候変動学、地理学、地震学などの研究者の集う所に育ててほしいものである。2900年毎に地震が起きていると計測ができたと聞いていたが、不毛の活断層論を議論するより、年縞による危険性の判定の方がより科学的で、より説得力がある。研究が進むことを期待したい。

世界一の水月湖

8月9日
世界一の水月湖
またまた世界一が福井県に出現した。奇跡の水月湖といわれる三方五湖の一つから年縞という堆積物が発見された。7万年前までの過去の気候変動や自身の歴史を抜群の精密度で見ることが出来る。年縞の長さ(深さ)は約45m、1年分の年縞は約0.7mm以下であるが、それは世界最古の「歴史のものさし」である。この近辺で巨大地震の発生は2900年毎に起きている。これが科学的に説明された。また縄文時代の壷の製作年が1億6千万年前といわれていたが、これは1億5千年前と双方の炭素分析から正確な答えを得ることが出来た。この年縞を人類の宝として、嶺南地区に研究開発拠点を作りたいものである。この研究施設へ世界中の各方面の学者が訪問してくることを期待したい。ゆめゆめ東京へ持っていかれることがないように、地元の注意を喚起しておきたい。

人の縁

8月7日
人の縁
転勤族の会合を企画して早や6年になる。名前をキラリ会とつけた。福井で過ごした数年間があとになって、「キラリ」と光ってみえる人生の一頁を作ってもらうとの趣旨である。そこで得た人と人との縁は貴重だ。2年から3年ごとに会員は入れ替わっていく。それぞれが高学歴で活動的で、転勤先が多いので、いろんな経験を積んでいる。そして半分くらいの人が単身赴任である。転勤してきた当時は土地不案内である。そんな会員に古い会員が声をかけて友情が芽生え、福井で生きる知恵を得ていくのである。福井を離れても、またどこかで会うチャンスがある。キラリ会という小さな組織が、福井という共通項の中で、あたかもAlma Mater(母校)のようななつかしさを醸し出してくれるのだ。転勤してきて4年目になる新聞記者がいる。私の息子達より若い。が福井をよく知っている。世間も広い。この若者をパートナーとして、私が常日頃思っていることを伝えたいと考えている。キラリ会のメンバーからの紹介で知り合った記者である。人との縁の不思議さにはいつも驚かされる。人の縁を尊び、人の縁に感謝する事しきりである。

レジリアンス(resilience)

8月6日
レジリアンス(resilience)
しなやかさが求められる時代が来た。それをレジリアンスという。辞書には弾力、はねかえり、回復力などとある。「レ」と発音するより「リ」と発音する方が正しいが「レ」の方が一般化している。要は「柔軟性を持て」ということか。私は失敗のたびに「ナニクソマケルモノカ」と常に反発し、成功するまで遮二無二努力した。しかし結局失敗に終わったことが多い。問題はそこにある。そこで意気消沈してしまうか、気を取り直して再出発するかである。再出発することをレジリアンスと呼ぶ。この考え方を敷衍して「生き方」にまで広げているのが最近流行のレジリアンスである。原発災害や自然災害が多発する中で、どん底から立ち上がる不撓不屈の精神もレジリアンスの仲間に入れたい。ブータン王国を訪れると、人々の明るさに驚く。くよくよしないのである。女性の笑いも「オホホ」でなく、「ガハハ」とおおらかに笑う。貧しさなど吹き飛ばすような自信なのだ。私達も世界にむけて、日本の良さを自信を持ってアピールしていこうではないか。

キャロライン ケネディ駐日大使

8月4日
キャロライン ケネディ駐日大使
女性の駐日大使は初めてである。オバマ大統領と親しいとのことである。今秋着任予定だが、私はこの時を絶好のチャンス到来と考えている。ケネディ駐日大使の着任時にオバマ大統領支援の勝手連、福井県小浜市の「オバマガールズ」にご出演願うのである。そこで小浜市PRをノリノリ調で行って、今世界から注目をあつめている大飯・高浜原発のある小浜市に対し、再びスポットライトを浴びさせたいとの思いである。これは先日、東京の友人と会って、ケネディ大使に話が及び、お互いに盛り上がった。ケネディ大使を小浜に招待する為に、「オバマガールズ」が大使到着時に成田空港やアメリカ大使館で「おめでとう」コールを繰り返してはどうだろうとのアイディアである。

子供の声

8月2日
子供の声
私が毎日通勤しているブータンミュージアムには、その裏側に駐車場がある。その駐車場の東側がキリスト教会で付属の栄冠幼稚園があり、車庫に入ると裏からは毎日子供達の元気な声が聞こえてくる。子供の声はいつも明るい。疲れた時にはとても癒される。特に仕事や人間関係で問題を抱えている時にはなお有難い。私は人間の幸福感は家族や友人との愛の絆から生まれると確信しているが、子供達の声が聞こえてくるだけでも楽しくなる事に気付いた。子供は子宝という。万葉の昔から黄金や玉よりも子供こそ最高の宝だと古人は歌っている。自分の子や孫だけでなく地域の子、世界の子も私達の大切な宝なのである。子供を社会全体で育てていくことが、みんなの幸福に直結する。今日もまた子供達の騒ぐ声が響いている。

ジャパン アズ ナンバーワン

7月30日
ジャパン アズ ナンバーワン
1970年代の終わりにハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲル教授はこの象徴的な名前の本を出版した。そこには社会学者としての確かな目が感じられる。日本を分析し経済、行政、科学技術などで、既にアメリカを追いこしていると主張した。当時の日本は、経済は一流、政治は二流と自画自賛していていたが、アメリカを抜いて世界一だと折紙をつけてくれたのである。1990年をピークに達した日本はバブル崩壊の対応のまずさから、「失われた20年」といわれる停滞を招いてしまった。1996年に59才で創業した私にとって、この「ジャパンアズ ナンバーワン」は悪環境の中に輝く力強い光であった。世界全体が成長を続ける中で、日本だけが成長が止まってしまったのである。私はよそはどうであれ、自分は「二ケタ成長」を続けることを決断した。まわりが不調の中で、自分を成長させることは至難の技であるが、成功すれば効果は抜群である。冷静になって、この20年の低成長を続けてきた日本の現状を、もう一度詳細に分析してみると、案外世界一の分野が数多く残っていることに驚く。日本はいまだに世界トップレベルの強国であり、トップレベルの幸福の国である。日本の良さを世界にアピールすることをより強く求めていきたい。

ワールドカフェ

7月26日
ワールドカフェ
福井県立大学にワールドカフェという教室がある。外国人留学生と日本人学生とを問わず、ここでは常に英語で会話することが義務づけられている。この広い教室にはネイティブスピーカーの先生が二人常駐しており、種々な相談にのっている。この教室の片隅に「ブータン王国」のコーナーを作ることをお願いした。世界の片隅にこんな小さな、こんな美しい、日本によく似た神秘の国がある事を知ってほしい。ブータンの公式言語は英語である。子供達も英語を流暢に話す。語学研修をかねて、外国を安全に体験するコースの設置を大学に提案している。国際化時代に大活躍できる若者を育てることのお手伝いを「ブータン」を通して実行していきたい。

五講四美

7月24日
五講四美
中国共産党のリーダーから1984年6月第二回日中民間人会議(北京市にて)で、これを重んじると国民に呼びかけていると発言。五講とは友情、相互の利益、信義、礼儀、規律をいい、四美とは行為、人品と徳性、言語、態度の美しさを尊ぶことをいう。国内だけでなく日本のような外国との付き合いに当ってもこれを基本原則にしたい。これは1984年6月28日付人民日報にも掲載されている。儒教を一時否定した中国共産党が孔子廟の扉を開けつつあるのを伊藤正義氏が感じると述べていた。現在の中国共産党の幹部に、ぜひこの一言を思い出してほしいものである。

ブータン王立歌舞踊団

7月23日
ブータン王立歌舞踊団
今春ブータン王国を訪問した際に、ブータンの歌や踊りを研究し、日本の音楽との交流を深める事が出来ないかと思い、「ブータン王立歌舞踊団」をホテルへ招き、演奏会を開いてもらった。この歌舞踊団(アカデミーと略称)は前国王がマスクダンスの公式養成所として、1954年に設立され、1970年からフォークソングを含む伝統的歌や踊りを学ぶ場となった。現在では伝統音楽の中心として、各地のツェチュ(祭り)で、伝統の歌や踊りを披露している。使用される伝統の衣装、仮面、楽器などブータン各地の伝統文化を取り入れており、多種多様で変化に富んでいる。踊りも動きの激しいものから、にこやかな笑顔でゆったり踊るもの、日本の盆踊りのように輪になって踊るものといろいろだ。楽器はベル、シンバル、大太鼓、小太鼓、巨大ホルン、小ホルン、ほら貝、二胡、七絃の三味線、しの笛(リマ)、独特の多絃琴(ヤンチェン)など、これも興味が尽きないほど多い。仏教音楽と各地の民謡などとが渾然一体となったのであろうか。一種独特の哀調をおびたものから、悪魔を退治するかのような、おどろおどろした大音響のものまで、次々と面白い曲が奏でられていった。思い出に残る一夕となった。早速日本で展示すると同時に、演奏できるように数種類の楽器を購入したが、先生を連れて帰ることは出来なかった。いつの日か、それが可能になる日を楽しみにしている。

手ざわり

7月19日
手ざわり
私の手はいろんなものを感じさせてくれる。目が少しづつ不自由になり、遠くのものも、近くのものも判然としない。それに比例するかのように手の触感がよみがえってくる。ものを手でなで、見ることがふえた。木の触感を楽しむことが多い。木の椅子やテーブルが大好きだ。森繁のチェアーやイギリスの古いウィンザーチェアを愛用しているが、そのチェアーの腕木の感触がよい。気に入っている。テーブルは厚めの生地そのままの大きいものが好きだ。気がつくと手のひらで木の感触を楽しんでいる。お薄をいただくときは両手で茶碗をつつみこむ。楽茶碗のやわらかさ、軽さも悪くない。越前の味も好きだ。陶器は磁器と違って欠け易いが、大切に使っていると愛着が増す。生活の中で楽しむ箸の手ざわりもまた格別である。着るものも見た目より、手ざわり、肌ざわりのよいものを好むようになってきた。

友情

7月17日
友情
池田仁嗣が死んだ。画家である。私の親友である。九州にずっと住んで、絵を描きつづけていた。私は画家同志として彼と向きあっていたというより、彼の絵のファンだった。会えば互いに絵を批判し合うが、心の底ではいつも感心していた。彼の絵からは、軽やかなハーモニーが流れ出ている。大作は少ないが、小品には優れたものが多い。佐賀の唐津の名門の呉服店の長男として生まれた。中里太郎右衛門家の中里隆さんとは義兄弟だ。その影響からか、池田の二人の男の子は芸術の道へ進んだ。その兄はバイオリン製作者として、弟は陶芸家として歩き出している。訃報を聞いて、すぐにでも駆けつけたかったが、残念乍ら、スケジュールに追われ、行けなかった。長文の弔辞をおくったが改めて佐賀へ行こうと思っている。友を失うことが多くなった。身辺整理をしておけと妻にせめられるが、走りつづけるのが私の夢である。

年金の危機

7月12日
年金の危機
私達が毎年支払ってきた厚生年金や国民年金の将来の支払いが、不安だという。若者達は、これから年金を支払っていっても自分たちが受給者になる頃には、年金基金は無くなってしまうと思い始めた。そのようなことを国もマスコミも「さもありなん」というように、発表することが多い。少子高齢化がすすみ、年金基金の運用はよほどの知恵者でないと難しいのは間違いない。しかし先日発表された2013年3月末日現在の年金積立金残高は120兆円をこえた。年間運用益が11兆円をこえ、過去最高となった。取り崩した4兆円余りを差引いても、7兆円近くの積増しとなったのである。ということは年金はなくなるのではなく、運用次第でどんどん増えていくのである。年金の将来が暗いことは決してない。年金基金はまだまだ増え続ける。若者達がバラ色の未来を信じられるような社会をつくろうではないか。現実を直視しよう。

油坂峠

7月9日
油坂峠
県境の油坂峠をこえてみようと思い立ったのは、勝山−大野間の中部縦貫道が開通し、福井−白鳥間が一時間半で結ばれたことで、福井−岐阜間が三時間と近くなったからだ。米原回りと比較してそんな大きな差がない。そして油坂峠の緑を大いに楽しむことが出来る。
九頭龍湖駅の恐竜達は相変わらず大きなホエ声を上げており、舞たけ入り弁当やおはぎは安くておいしい。
岐阜は私の二人の息子の誕生の地である。二人が小学生の時まで岐阜にいた。丁度十年間駐在したことになる。その頃の岐阜−福井間は、岐阜から大垣へ入り、伊吹山麓を抜けて木ノ本から365号線で武生へ抜ける道であった。車で5〜6時間かかった。今はその半分以下、油坂峠越えでも3時間余りで行ける。完全開通すると2時間のドライブだ。その日が一日も早く来ることを祈っている。善き政治を期待したい。

駅前マンション

7月2日
駅前マンション
サブプライムローン破綻、リーマンショック、EU財政問題の荒波が世界を襲っていたこの5年間、私は福井の中心市街地活性化のお先棒をかついで、約70億円の思い切った投資をした。新築分譲マンション建設3棟、賃貸ビル・マンションのリフォームを含めた投資である。今、やっと分譲マンション完成の目途が立ってきた。183戸の住戸、5店舗のうち、あと僅かを残して完売となった。「千里の道も一歩から」というが、このプロジェクトをスタートする前は、私の会社は最高益を出した。この数字は5年たった今もまだ抜けないでいる。この5年間で赤字決算を創業以来はじめて出した。思いがけない建築基準法の大改正や、世界的な不況の影響もあったが、苦労の最大の原因は、過大な集中投資にあったと反省している。しかしこの投資の影響で福井の街の明日が少しづつ変りつつあるのを実感している。残り住戸の完成に向けて、駅前の皆さんと共に、バラ色の夢を展げつつ、地道な努力をつづけていきたいと願っている。

友の訃報

6月30日
友の訃報
絵の友、詩の友そして人生の友であった親友が亡くなった。同志社大学へ入学し、クラマ画会へ入会して以来58年の長い間、友情を温めあってきたが、その友人の御子息からの電話と聞いて、悪い予感がした。心臓発作で突然倒れ、心肺停止に近い状態で救急車で運ばれたが、蘇生できなかったとのこと。遠い九州佐賀市でのことである。葬儀に間に合わず、他の友人達と語りあって、弔電を打ち、後日、香典をとどけることとした。今後のことで友人の電話連絡簿をしらべてみたが、半数ほどが既に鬼籍の人となっている。明日は我が身と思うと、のんびりとしてはいられない。まだまだやり残していることが多い。弔辞を電報で打ったあと、しみじみこれからの日々を思い描いている。

ブータン連絡会議

6月29日
ブータン連絡会議
毎月第4木曜日の夜、NPO法人幸福の国の会員の例会を行うことに決めた。ブータンミュージアムでの連絡会議である。正会員だけでなく、外部の方々の出席も可とすることにした。当面のテーマは.屐璽織鵐潺紂璽献▲狡命Vol.2の校正作業、7/15発刊予定。7/17 300年経営塾の塾生20名を迎えてブータンミュージアム見学と講演会開催準備。7/27市民講座「ブータンの総幸福量(GNH)」講師 月原敏博の準備。8/1展示品の入替、パネル大5枚発注、パネル小入替、ブータンの書棚充実。MOH通信への「ブータンのレジリアンス」についての寄稿文作成。9/11〜9/26ブータン政府派遣の研修生11名と通訳1名の受入研修(JICAプロジェクト)の準備作業。と盛り沢山である。
5人のいつものメンバーで熱心に討論し、気がついたら夜の8時のビルの門限をとうに過ぎていた。今夜もまた外食だ。

アフリカとアジアとオセアニア

6月26日
アフリカとアジアとオセアニア
1945年8月15日に第2次世界大戦が終った。その時のアフリカ大陸の独立国は4ヶ国、現在は53ヶ国に増加した。オセアニアは2ヶ国、現在は14ヶ国になった。アジアの独立国は12ヶ国、現在は47ヶ国となっている。その当時のアフリカ・オセアニア・アジアはヨーロッパの列強といわれた覇権国家の属国であった。植民地という名の属領であった。アフリカを闇黒大陸と呼んだことでも、その意味がよくわかる。1945年8月15日以前に建国されていた独立国は、世界全体で、70ヶ国にすぎない。現在は194ヶ国(国連加盟)。18世紀からはじまった西洋列強の世界戦略の激しさが理解できよう。同時に1945年以来、世界中をおそった自主独立、民族自決運動のたかまりもよくわかる。世界は1945年8月に新しい誕生の時を迎えたのである。闇大陸であったアジアの中でも、中華民国は西洋列強のさん奪を受けて、ひん死の状態にあった。そして内乱にあけくれていたのが事実である。

26年かかった26.4km

6月23日
26年かかった26.4km
国交省は福井北ICから大野ICまでの26.4kmが、2016年度に全通と発表した。事業化がスタートしてから26年の歳月がたとうとしている。道路や鉄道は完成してはじめて効果があらわれる。この26年の歳月が無駄に使われた罪と罰は、誰の責任であろうか。いやまだある。この高規格道路は中部縦貫道で、福井北から松本までを結ぶ計画だ。まだ大野から先が未着工区間が多い。とはいえ大野市と県庁所在地の福井市が車で20分で結ばれる効果は大きい。現在は1時間、ラッシュのときはそれ以上かかっている。松本まで結ばれると、長野、岐阜、愛知、三重との交流が期待できる。特に長野県、岐阜県とは町間距離が大中に短縮され、大きな経済効果が期待できる。

大学への寄付金

6月22日
大学への寄付金
アメリカの大学は伝統的に寄付金によって運営されているケースが多い。卒業生のOB、OGよりの寄付、企業の寄付をあわせるとその総額は莫大だ。アメリカの大学の中で、最も多く寄付を受けているのは、ハーバード、イエール、スタンフォードである。
ボストン周辺には歴史と伝統のある数多くの大学がある。その中でもハーバード大学はその筆頭格である。イエール大学は私の恩師故小野高治先生の母校であるが、寄付金総額220.5億ドルの内、3分の1以上を学生の支援と研究者への支援に使うと発表した。シリコンバレーの中の有名大学スタンフォード大学は1989年に日本生産性本部のメンバーとしてコンピューター部門の教育現場を視察したことがある。これは170億ドルの寄付金を集めているが、更に学生への支援のために2億ドルの寄付を募るとしている。ひるがえって日本の大学を考えてみるとそのギャップの大きさに言葉を失う。その原因は寄付税制の未整備にある。個人金融資産1500兆円を動かす知恵が出せない日本の政治行政の現状は誠に哀しいといわざるを得ない。
大学側も努力が必要だ。必要は発明の母といわれる。年間予算が縮小するこれからは、何らかの新しい手を打たなければ生き残れない。そんな厳しい時代を迎えつつある。

人口減少社会

6月19日
人口減少社会
先進国は人口減少に悩んでいる。先進国の悩みは少子高齢化という世代間問題である。先進国では総人口は減少をつづけているが、高齢者はふえつづけ、若年層の増加はほとんどなく、若年層の比率は下がりつづけている。この傾向は先進国の固有のものではなく、新興国でも同じことを心配しだしている。新興国の悩みは人口爆発と呼ばれる急激な人口増加である。しかし同時に人口増への対処と高齢人口急増への対処を要求される新興国はなお更大変だ。新興国は食糧問題も抱えている。
ボーダレス時代といわれるこれからは、高齢化を一番最初に迎える日本が率先して世界に対応のお手本を示すべきである。日本の役割は重要だ。しっかりと責任が果たせるよう、対応策を真剣に考えたいものだ。

可処分所得と可処分時間

6月18日
可処分所得と可処分時間
75才以上を後期高齢者という。何故かわからないが、JRの切符が安くなったり、バスが無料になる。殆どの美術館博物館の入館料も無料になる。昼間の図書館へ行くと、受験勉強をする高校生の数倍の高齢者で一杯になっている。街のレストランへ行くと女性の高齢者で一杯だ。高級レストランほど女性比率が高くなる。男性はうどんや、そばやへ行くと多い。単価の安い店、早く食べられる店である。
最近の高齢者は若者や中年の者と比較すると、所得も時間も十分にあるようだ。
ところが私の友人や私の会社の社員に聞いてみるとみんな先行きに不安を感じている。65才を過ぎても、年金の受給を受け乍ら、給与をもらう人も多い。更に年金の中から貯金にまわす人もいるという。その心は、先々何が起こるか判らないから、万一の時の為に貯金をしているとのことだ。不安社会なのだ。この「不安」をとり除く道はないかと考えに考えを重ねて、たどりついたのがGNHというブータン王国がとっている国策である。ブータンは可処分所得は相対的(国際比較)では少ないが、物々交換や家族、村落の共助精神が旺盛で不安はない。また可処分時間は十二分に持っている。だから幸福を実感する人々が多い。私達、日本の高齢者もブータン流に考えれば所得も時間も十分とは言えないが、他国と比べると十二分にある。もう少しゆとりのある生活を送り、毎日を感謝し次世代を育てる大切な仕事をしようではないか。

繊維産地

6月15日
繊維産地
福井県は今も昔も繊維の産地である。総出荷高は現在全国3位。人口割で計算するとダントツの1位である。高度成長期に日本で繊維摩擦が起き、日本からの輸出を削減するようにとのアメリカからの圧力がかかった。当時の担当大臣が地元選出の福田一さんだったこともあり、矢面に立って、粘り強い交渉をしていただいた。余剰織機の買取り等の施策を打ち乍ら、強腰の交渉のおかげで終止符を打つことが出来た。現在は発展途上国の追上げが急であるが、海外進出や多品種少量生産、高付加価値商品への移行など適確な対応がなされている。異業種への進出も盛んである。やはり全国トップの産地としての誇りが、この厳しい環境下でも、隆盛をもたらしているのだ。繊維業界とそれを取りまく関連業界の層の厚さと、リーダーの方々の優れた資質も特筆すべきものが多い。

絵ごころ

6月12日
絵ごころ
若い頃画家を夢見たことがある。商社マンになった時、二者択一を自分に問い、断念した。しかし絵ごころを捨てたわけではない。その頃の画壇は抽象が主流であったが、どうもなじめなかった。マチエールにこだわる友、コンポジション重視の友、二科、新制作、独立などへの入選にこだわる友も多かった。絵で生活していくのは厳しい。多くの先輩や友人が夭折した。その絵を見る機会はほとんどないが、目をつぶると浮かんでくる。美しい絵だ。生命を感じさせる絵だ。そんな日に、ブータンミュージアムのある歩道を歩いていた。右手にケヤキの並木が並んでいる。右手にツツジの花の生垣がつづいている。この枠の中を光をあびて女子高生たちが歩いていく。平和そのもの、一枚の絵がかけたようなそんな気になった。6月初旬の初夏の夢だろうか。

幸福について

6月11日
幸福について
いろんなところで「幸福」について話題が出るようになってきた。政治家の話にまで幸福論が顔を出すようになった。出版物にも「幸福」という文字があちこちに散見される。
私は幸福の青い鳥を捜し歩いて、早や70有余年が過ぎた。「喜びの種、幸せの種を蒔こう」と心に決めてからも既に17年を経過した。みんなが真剣になってお互の幸福を希んでくれれば世界が平和になる。自分のこと、自国のことにこだわると争いがおきる。昔から隣りとは仲が良くないが、隣のその隣りとは仲がよいといわれる。隣りと仲良くするには、自分のことを考えず、隣のことを優先して考えることである。この世から争いをなくすにはみんなが「幸福になる」ために努力をする必要がある。幸福は遠くにあるものではなく、目の前にある。心のありようが大切だ。それを知る為に精進している毎日である。

里山について

6月9日
里山について
ブータン王国は全土が山岳におおわれた国である。海抜180mの亜熱帯ジャングルに始まり、北へ向かうにつれて、標高はどんどん高くなる。ブータンヒマラヤの頂点はガンガプンスムの7500mをこえるピークに達する。チベット自治区に面する北側はすべてヒマラヤ山脈で、人跡未踏の聖山である。ブータンの人々はヤクを追って標高4000m余りまで上り、そこでヤクと共に夏を過す。夏が過ぎるとヤクと共に山を下りる。標高3000m以下ではヤクの生育に支障を来すので、3000m級のところに冬の家を創っている。ブータン人の7割以上が農林牧畜業に従事している。農業は米、ソバ等が中心で、日本人の指導で野菜の栽培がふえてきている。
ブータンは北方のヒマラヤ連峰を除くと、ほぼ全土が里山となる。人々の住むのは里山の中である。そこは世界の奇種珍種の動植物の宝庫である。生物多様性の社会、理想的な里山文化が、国土全体にひろがっているのである。里山を語るにはブータン王国を見るのが一番だと確信する由縁である。

家族について

6月8日
家族について
「産めよふやせよ」と国策による子沢山が奨励された私の幼少時代は、子供の数が多かった。10人の子供の家族が町内に1〜2はあった。その頃私の家族は祖父母、父母、子供3人の7人、そして女中さんがいたり、親戚の居候がいたりして、大世帯であった。自宅の2階が母の和裁塾だったので、毎日数多くの人々が、私達のまわりに押しよせてきた。学生時代を過ぎると標準世帯は父母と子供2人の4人となり、これが常識となり「家族とは4人」が定着。そして最近の世帯数最大のものは、「お一人様」の1人世帯となってしまった。1人世帯には家族愛がない。祖先からの知恵の絆も切れてしまう。そして個は孤を生む。精神的に追いつめられていくのである。私の調査によると家族の人数が多ければ多いほど幸福度は増す。すべての人間はお互いに助けあって生きていく。助けたり助けられ生きるのが人生である。家族から地域が生まれていく。人間は群れをつくって生きていく社会的な動物なのである。大家族への回帰をうながすよい方法は何だろうか。

新しい福井大学

6月5日
新しい福井大学
4月から福井大学の学長が真弓光文氏となり、一夕話を聞かせていただいた。福井大学は師範学校と高等工業専門学校が戦後新制大学となった。その後福井医科大学が設立され、福井大学と合併。現在の福井大学である。福井県の教育県、医学界そして地域社会全体への優秀な人材を供給。知の中心として、原子力の平和利用にも大きな貢献を続けてきた。真弓学長となってかつての国立大学は、民営化への道をますます強くしていかざるを得ない状態がつづいている。国からの助成金は年々縮小され、大学も民間と研究開発の協力など、自立を求められる傾向が強い。真弓学長の経営手腕が問われることになろう。先日ブータン王国の王立ティンプー中央病院の西沢和子小児科医師とあった時、真弓光文先生の弟子ですと告げられ驚いた。福井大学で6年間を過したので、福井は第二の故郷だと告げられたことを、伝えた。弟子達が世界中で活躍しているというのは、教師冥利に尽きる。うらやましい限りである。

駅前に撮影スタジオを

6月4日
駅前に撮影スタジオを
福井のまちに賑いを実現する為に、今迄いろんな試行錯誤をくり返してきた。続けているのは伝統工芸作家を応援する「ふくい工芸社」オープンして7年になる。福井県の酒造りを応援する「九頭龍地酒百蔵」も3年になる。ブータンミュージアムは丸1年が過ぎようとしている。福井駅前商店街の総会の席上で「撮影スタジオ」をつくれという講話を聞いた。若い友人の阿部俊二君の提案である。検討する価値があると直感した。
私は今回、ブータン王国を6人のNPOメンバーと訪問した。副団長は写真家の松田宗一氏。重い撮影機器を担いで、縦横無尽に取りまくるプロの姿を見て、流石と思った。8日間の旅行中撮った写真は3000枚をこすと聞いてまたびっくり。貴重な写真が多い。
「撮影スタジオ」は機械を揃えることよりも、プロがアマを指導する環境をつくることを重視すべきだ。即ちプロのための施設でなく、アマに対するノウハウ提供の場だ。活用方法は映画づくり、WEB用撮影、セミナー・講習会スペース、交流スペースなど。これを使って自分の作品を作り、発信することが可能となる。新しい時代の交流スペースとなるかも知れない。何はともあれみんなの知恵をあつめて検討し、熟慮し、そしてみんなで実行していくことが大切である。実行のスピードアップを忘れないでいただきたい。

緑あふれる福井県

6月2日
緑あふれる福井県
日本列島には6000をこえる島々があり、海洋国家という名がふさわしい。しかし国土は美しい緑におおわれ、緑の国家という名もよく似合う。ブータン王国の緑のカバー率70%以上と比較しても、現代国家日本のカバー率70%は立派である。国有財や山岳が多いのも一因であるが、里山を大切にする先祖からの生き方の伝統のおかげである。その福井県で9月に世界里山イニシアチブという会合が開かれる。福井県を世界にアピールする絶好の機会である。会議は9月11日(水)から14日(土)までの僅か4日間であるが、このイベントに、私達は何が出来るだろうかと今必死で考えている。ブータン王国は国全体が里山のようなものである。ヒマラヤ山脈の4000m以上の山々はヤクを放牧する人々が夏場は住んでいる。「里山イニシアチブ」にブータン政府からの研修生の受入時期をあわせることにした。さてこれから何をどうするか。思案中である。

別荘さがし

6月1日
別荘さがし
北鎌倉に住んだことがある。福井出身の高見順や福井ゆかりの平山郁夫など文豪や画家が数多く住んでいた。バブル絶頂期を迎えつつある1980年代だ。母が「四季つつじ」という歌集を出版した頃で、その巻末に、応接間のシャガールの絵の前で私がとった写真が残っている。
そして関東で別荘を建てようということになりリゾート地を土日の休日ごとに捜し歩いた。軽井沢・熱海・伊豆・大磯・箱根と歩きまわり、房総半島に絞りこむのに1年ほどかかった。三井不動産の別荘地100万屬琉豎僂鮃愼、北鎌倉の家と同じ建設会社に建ててもらった。設計は自分。特に広いベランダと、目の前の照葉樹林の山を臨む眺望を第一に考えた。目の前の谷を猿の群が、次々と渡っていくのを見たいと考えたのだ。隣地をハーブ園にし、駐車場にバラ園を中心として花で囲まれた空間を創り上げた。「地上の楽園を創る」という私の夢の一環である。広大な別荘地に住む人達が散歩コースに私の庭を通っていく。大いに楽しんでほしい。

京都

5月31日
京都
福井を根拠地と定めてから54年になる。故郷の長浜には高校卒業までの18年間住んでいた。福井での生活は丁度長浜の3倍になる。京都に親戚が多い。祖父母や両親が信心深く、幼少の頃より年に何回か家族旅行をした。行先は京都。お参りするのは本山の知恩院と、北野天満宮、天津神社、平野神社の衣笠周辺であった。母は大丸百貨店へ寄りたがった。理由は和服の展示である。流行のえり型を見たいという。京都の町は刺戟がいっぱいあった。そしてそれ以上に興味があったのは鈍行で行く汽車の旅だ。
車窓から見える世界は、いろんな事を教えてくれた。大きい家、小さい家、広い庭、小さい畑、人々の生活が手にとるように判る。京都へ行くよといわれるたびにその日が待ち遠しく、前日の夜は興奮してなかなか眠れなかった。青春時代の大学も京都を選んだ。後期高齢者となった今でも、月に1回は、サンダーバード特急で、京都へ行く。先日も鞍馬画会という同窓のグループ展を見るために、木屋町のギャラリーを訪れた。十何年ぶりだという女性の同級生にあい、しばし歓談した。マチエールが美しいよい絵をかいている。小さなグループであるが、プロの画家を数多く輩出している。鞍馬画会は私の心の故郷である。

地上の楽園

5月29日
地上の楽園
世界を歩き、日本を歩いて4分の3世紀を過ぎた。地上の楽園を探す旅だ。ユートピア、シャングリラ、桃源郷といろいろ呼び名はある。ブータン王国もその一つ。
59才で起業し、会社を設立したのも、この地上の楽園を創りたい一心からである。社是に「喜びの種、幸せの種を蒔こう」を掲げた。ブータン王国の「GNH」を知ったのはその後であった。「国民総幸福」の追求を国是に掲げるブータン王国は、私にとって、理想の国に思えた。
ブータンの研究をしていく中で、その農業発展に生命を捧げた人がいた。西岡京治氏である。その夫人とお会いして、西岡京治氏の業績を語りつぎたいと切に思う。伝記をかくように、彼を知る人々に声をかけている。NHKが彼をとり上げるというので、期待して待っている。
「ブータンは、訪れる季節、訪れる場所によって全くの別世界を見せてくれる幸福の国ですよ」この言葉は西岡里子夫人に教えられた。ブータンミュージアムを訪れる人々に伝えている至言である。

京都観世会館

5月28日
京都観世会館
京都の岡崎に「京観世」と呼ばれる京都観世会館がある。ブータン王国訪問から帰国したばかりの私は、久しぶりに観能を楽しむこととした。第16回片山九郎右衛門後援会能である。福井から京都まで、1時間余りのJR湖西線の車窓から、新緑の豊かさを楽しむことが出来る。
今回は片山幽雪師の舞囃子、野宮と、片山九郎右衛門の能、実盛、そして片山清愛の能、吉野天人、野村萬斎の狂言、鐘の音である。幽雪師の野宮は晩秋の野宮の森の静寂さをあらわし、幽玄の舞が見られた。清愛の能は、初めて見る。父が私にしてくれたと同じ経験、道すじをつけてやりたいとの九郎右衛門の親心である。伝統文化の継承という意味で、「能」は「茶道」と共に、日本を代表するものである。私は30才を過ぎた頃に、岐阜青年会議所のメンバーに入会し、同時に岐阜ロータリークラブと岐阜青年会議所と合同で「みなもと会」という観世流の地謡会に入会した。その後片山幽雪師(当時は片山博太郎先生)のご指導を受けたが、海外出張が多く、不肖の弟子で終っている。現九郎右衛門のための後援会が結成された16年前から、入会させていただいて、観能を楽しむ側から片山御一家の精進を拝見している。芸の道の厳しさと共に、伝統文化の継承の厳しさを思い、自らの生き方を律している。

サッカーの経済効果

5月26日
サッカーの経済効果
サウルコスが福井で誕生し、サッカー人気が少しづつ盛り上ってきた。今年は昨年のJFL最優秀監督に選ばれた佐野達(とおる)氏をゼネラルマネージャー兼監督に迎えて、サウルコスは開幕以来無敗の快進撃をつづけている。NPO法人福井にJリーグチームをつくる会の梶本理事長から頼まれて、スタート時から微々たる力しかないが、協力をさせていただいてきた。理由は三つある。
彼が大学の後輩であること。そしてトヨタの県内ディーラーの代表者として古い新しいの差はあるが同志であること。
そして三つ目の理由は、今から30年余り前にヨーロッパで子会社を設立した時の相棒がスイスのサッカーチームの名選手だったこと。その時はサッカー選手と言わず「ソッカー、ソッカー」というのでよくわからず、確認したところ「サッカーだ、フットボールだ」とわかった。当時日本ではサッカーは知名度が低かった。1993年に10チームでJリーグがスタートして以来、日本のサッカーは徐々にランクを上げ、今ではヨーロッパ、アジアのチームでも日本人が名選手として大活躍している。
経済効果については最大のものが、放映権である。次に入場料収入、そしてブランド使用権等の副産物がある。福井にはテクノポートに、日本では20ケしかない2万人収容のサッカー専用のグランドがある。このホームスタジアムを常に満員にすることが出来れば、サウルコス福井が、福井経済界に大きな貢献をすることが出来よう。サッカーのビジネスが地域を活性化させ、次世代の子供達に大きな夢を与えることになる。サッカーのチームワークが明朗さ、元気、そして強い絆を生んでくれることを期待しているのは私だけではないはずだ。

世界を見よ

5月25日
世界を見よ
世界地図を見ると、数多くのことがわかる。五大陸があり、それぞれアジアとヨーロッパ、アフリカ、北中アメリカ、南アメリカ、オセアニアとわかれている。全人口の6割を占めるアジアは31.7億人が住んでいる。18世紀以来ヨーロッパ勢による簒奪がつづき、人口の割に発言力の弱い国々となってしまっている。国や地域の数は50と多い。もっとひどいのがアフリカである。国の数は53と最大であり、人口も12%とヨーロッパの13.7%に匹敵するにかかわらず、暗黒大陸といわれ、過去の殆どをヨーロッパ勢の侵略にさらされてきた。経済力の小さいこと、政権が不安定なこと、国の数が多いことから、中国の支配の可能性が増している。数による国連統治のシステムのあり方を考えると、アフリカへの投資は非常に有効であり、中国の外交力はあなどれないものがある。ヨーロッパの国の数は44と約23%を占めており発言力は強い。北中アメリカと組んで、この200年余り、世界を席捲したが今は斜陽の日を迎えようとしている。
私はいつも不思議に思うのは、国連の分担金をはじめ、世界のために拠出する日本のウェィトの高さである。例えば国連分担金を調べてみると1位アメリカ22%「2位日本約17%」3位ドイツ約9%、4位イギリス7%、5位フランス約6%、6位イタリー約5%と、日本が突出して多い。アメリカの22%は多そうに見えるがアメリカは気に入らないことがあるとすぐ延滞して支払わない。未だに多額の延滞金がある。一番問題なのは中国の僅か3%未満の分担金である。スペインやカナダより少い。そして拒否権といういわれのない不当な権利をふりかざしている。その中国への支援は未だに続いている。世界第2経済力だといっている国、どんどん軍事力を増強している国、そこへ日本は未だに毎年巨額の支援をしている。その支援額は、中国のアフリカ諸国への支援を上回るということである。
世界を見る目を、私達ももう一度とり戻して、為すべきことを為さねばならない。それが軍国主義への道であってはならないのは勿論である。目標とするべきものは、世界平和への道であり、支援するべき国は中国や韓国でなく、アフリカやアジアの国々であると私は信じている。21世紀はアジアの時代だとは世界の常識である。巨大人口と比較して国の数がアフリカより少ないというのは異常である。今後アジアの独立運動が激しくなると思われるが、その温床は中国とロシアであろう。

駅前立地

5月24日
駅前立地
郊外の物件の値下りがつづいている。売るに売れない物件が多い。郊外の団地を歩くとゴーストタウンに近いものも散見される。不動産を購入する場合に、一番注意しなければならないのは「立地」である。立地とは判り易くいうと、「駅前」とか「駅近」である。これは東京でも、京都、名古屋、大阪、福岡、福井でも同じである。郊外の団地や駅やショッピングセンターから遠い所に住む中高年の方々が、土地や住宅の選定を誤ったとよく相談に来られる。しかし遠隔地の土地や住宅を下取りして駅近のマンションを売ってくれる業者はいない。逆の場合なら、すぐ契約が出来るが、遠隔地の物件の売却は非常に難しい。住宅や土地の購入の時、一番に気をつける条件は「立地」であることを銘記すべきである。

足るを知れ

5月22日
足るを知れ
人の欲望は限りがない。食欲、性欲、金銭欲、名誉欲どれを取り上げても、欲しがれば、欲しがる程、満足は遠くに逃げていってしまう。例えば100万円ためたいと思って努力し、始末して100万円たまったとしよう。100万円で満足する人はまずいない。殆どの人は200万、300万欲しいと思うはずだ。そしてまた走り出す。欲望のとりこになっていくのだ。欲望のとりこにならない秘訣はたった一つ。「足るを知ること」あらゆる欲望は腹7分目に押えて、それで満足し達成を感謝する事で心の平安を得ることが出来る。身体の健康を保つ秘訣でもある。私は60才の時、一悟した。自分だけの欲望を満たすのでなく、周りの人々すべての人々の満足の為に働きたいと考えた。艱難辛苦の日々もあったが、心の休まらない日々は少かった。利他の心で動くと同時に「足るを知る」ことを最大の願いとしたからである。自分流に生きる。それを日々実行することで、心の平安を与えられたのである。

地価上昇

5月21日
地価上昇
デフレスパイラルから抜け出して、物価はここ半年大きく値上がりをはじめた。円も同じように突然の円安となった。USドルに対しても、ユーロに対しても同じように円安が進んだのだ。インフレが進むと物価が高くなる。物や不動産が大きく値上がりしだすことになる。大手不動産会社の株価が上昇に転じた。自己資本の数倍の借入金を持つ大手の株価が上がり出した。住友不動産の負債資本倍率は約4.5倍、東急不動産は3.7倍、東京建物2.5倍、野村不動産2.2倍、三井不動産や三菱地所でも2倍近い有利子負債がある。その対象は保有不動産である。これが値上がりしだすと見た投資家が株を買いすすんでいる。20年来ずっと下がりつづけてきた地価が、今年は上昇しそうである。株が上がり、地価が上がれば日本経済にエンジンがかかる。いよいよエンジン始動の時が来たようだ。

国際交流

5月19日
国際交流
先日見知らぬ夫妻から声をかけられた。例によってブータンミュージアムへ来館いただいた方々と会話していた時のことである。名刺交換をして驚いた。JICAの前職員で、退職したばかりだという。三国港の出身なので、福井へ帰ってきて、金沢市の北陸JICA事務所で3年間市民参加活動に従事する。お二人とも海外のJICA事務所勤務の経験が豊富で、JICA内の人脈にも精通されている。是非共私達のブータンミュージアムに協力していただきたいとお願いした。早速今年9月にブータンから来福するブータン政府の研修生を迎えるプログラムについて相談できると喜んだ次第である。名は十郎正義さんという。十郎という苗字は珍しい。三国港には数軒あるとのこと。三国はかつて北前船の港として殷賑を極めた。今なお外国航路の船乗りを数多く出している国際交流の模範のような町である。

ドナルド・キーンさん

5月18日
ドナルド・キーンさん
一昨年の3月11日の大震災、津波、そして原発事故は大変な被害をもたらした。しかしその反面、全世界から集ってきた義捐金やはげましの言葉、数多くの若者のボランティア、そして私にとって大きな感激を覚えたのが、国賓として来日されたブータン国王ご夫妻と日本帰化にふみ切ったドナルドキーンさんのお姿である。ブータンへの興味は以前から持っていたので、いちはやくブータンを訪問し、ブータンとの交流に私の残りの人生をかけようと決心をかためた。またドナルドキーンさんには是非おあいしたいと考えていた。今回福井へおいでになると聞き早速、講演を聞く為に家内共々申込をした。日本文化や日本文学に対する造詣が深く、彼のどの本を読んでも感心させられることが多かった。日本を愛するあまり「日本人になりたい」とまでいえる人物を、他に私は知らない。幸福についてじっくり話しあってみたい人物である。

遠来の客

5月17日
遠来の客
藤沢市に在住の元JICAシニアボランティアの若林誠さんの水彩画展を、ブータンミュージアムの2階で開催中である。NPO幸福の国の副理事長 奥村彰二さんの友人で、その縁で講演をお引き受けいただいた。テーマは「ブータンの文化と暮らし」である。2年間に亘り、ブータン西部のプナカ県の、自動車整備の学校で、整備の指導教員を勤められた。その経験と2年間のブータンでのスケッチ旅行の成果も発表していただいた。
ブータンに滞在しての生活でこそ味わえた話など、興味はつきず、あっという間の2時間半の講話となった。その後活発な質疑応答があった。夕食会はミュージアムの役員との親睦を深める会合となった。水彩画の絵ハガキセットの発行とHPでの紹介の了承をいただき、また新たな遠来の友人のブータンミュージアム活動への参加に一同大いに喜んだ。

新緑の足羽山

5月16日
新緑の足羽山
大型連休に遠くへドライブに出かける人が多い。私は福井市の中心部にある足羽山へのドライブを楽しんでいる。毎週2日は出かけていく。新緑の魅力は、桜の花にもましてすばらしい。色とりどりで、樹形も違い、逆光をあびると、言葉を失うほどに美しい。陽をあびてその下を歩くと、幸福になった心地がする。
いつも昼食をいただく茶店がある。友人が経営する「はれひより」と、古くから続いている大久保茶屋、そして愛宕坂の「離世」へ入ることが多い。それぞれのメニュが異なり、味も違うが、私達の気分次第で入る店を選んでいる。花よりダンゴとはいい古された言葉ではあるが、新緑も食事も大いに楽しめる有難いシーズンである。

立夏

5月14日
立夏
ゴールデンウィークに入ってブータンミュージアムの来館者の方々の服装が変ってきた。荷物を持った方、リユックを背負った方がふえてきた。観光旅行でこられた方が多いのだ。
自宅のマンションから見る山の風景も大きく変ってきた。山々の緑が一斉に芽ばえてはっとするような新緑になった。目の前の円山が一まわりふくらんで大きくなったように見える。立夏を迎えて今年もまた忙しくてなりそうだ。連日報道を賑わす株高、円安のニュースに私達の生活も幾分影響される。少しの持株の値上りに何か得をしたような気分になる。円安に泣いている人がいるのを忘れてはなるまい。

健康長寿の福井県

5月12日
健康長寿の福井県
男女とも長野県が日本一となった。平成22年の長寿番付である。長年1位を独占しつづけてきた沖縄県の女性が3位に転落した。注目してほしいのは男女平均1位が長野県、2位は福井県である。福井県は前回も上位であったが、前々回はやはり2位であった。福井県は健康長寿県としてのブランドを長野県と共に獲得しつつある。私は長野を訪れることが多かった。私の会社を立ち上げた時、全国をまわって各支店設立に自らたづさわったからだ。その地に住んで(時には滞在して)地域の調査を行い、全国綱を築いていった。長野県の特徴はそばとキノコにある。どちらかというと粗食に近い。福井県はそばと魚介類が多い。両県共、米、そば等の穀物の摂取量が多い。イトコの元東大教授が沖縄県と長野県の長寿のことで男性は高地に住む人が長寿で、女性はそうではないようだと教えてくれたことを思い出す。琉球大と信州大の共同研究の成果で、気圧が男性の寿命に影響を与える調査結果が出たとのことである。長寿には食物、運動量、ストレス等の影響を考える必要があるが、宗教心も大きなファクターだと思う。青森県が男女最低をづっと続けているのも気になるところである。福井県の人口減少は深刻であるが「健康長寿の里」「幸福の里」を全国にむけてPRしていけば人口増にもつながり、観光立県に貢献するものと確信している。

傾向線を信じるな

5月11日
傾向線を信じるな
マスコミの報道で多いのが「傾向線」の分析である。ところが傾向だけを議論するあまり肝心の実数を忘れていることが多い。例えば人口問題を考えてみよう。現在の日本の人口は約1億2千万人である。世界60位の国土面積の中に、世界10位の人口がある。そして1億2千万人という人口は、日本の歴史はじまって以来の巨大なものである。その人口が今後減りつづけると予想し、悲観する論調は少しおかしいと思う。人口が減りつづけて問題が大きくなれば対応策はいくらでもある。いたずらに人口減少社会を悲観する必要はない。私達は経済面でも史上最高の栄華を誇っている。GDPで中国に総トータルで抜かれたと騒いでいるのが、中国のGDPは世界一の巨大人口(日本の約10倍)で稼いでいる。1人当りでは日本の10分の1にすぎない。しかも外国の資金によって稼いでいる。国連、世銀、OECD、アジア開発銀行への出資、拠出金も、中国は非常に少ない。しかも日本やアジア開発銀行の支援を未だに受けつづけている。物事を表面の傾向線でとらえるのでなく、現実の姿で把握することが大切である。ちなみに日本人の個人の金融資産1500兆円や日本の対外資産は世界のトップクラスである。これを築き上げてくれた先輩諸氏の努力に感謝すると同時に、世界における日本人の果すべき責任の重さを痛感してもらいたいものである。

相続税

5月10日
相続税
インフレターゲット2%の達成が少しづつ確実視されつつある。その中で相続税の増税消費税の増税に対する話題が増えるだろうと考えた。福井県下唯一の信託銀行の財務コンサルタント伊藤昌之氏を招いた。そこで(社)福井経済クラブの4月定例懇談会に、相続税が、富裕層を対象にしていた時代から、平成27年1月1日より私達一般市民にも支払義務が生じそうになってきたからだ。
本年4月1日より「可愛いい孫の為の教育資金の贈与」が認められるようになった。1人当り上限1500万円づつ無税で贈与が可能とのこと。私の場合孫が5人いるので1人当り1500万円×5人=7500万円が無税で贈与できる。とてもそんな現金はないが、真剣に検討する人が多く、店頭は賑わいだしているとのことである。

6次産業化

5月9日
6次産業化
農業がGDPに占める割合がどんどん減少している。そこで打ち出された政策が株式会社に農業を開放する案と、1次産業である農業の6次産業化である。6次産業化とは1次産業の農業を、2次産業である工業のように工業化し、3次産業であるサービス産業のように、流通をも支配することをいう。1×2×3=6であり、1+2+3=6であることで6次産業化と表現している。この考え方は最近あらゆる分野で浸透しつつある。輸出産業の下請に甘んじていた中小企業が、下請の域を少しづつはみ出してきている。いわれるままに部品の一工程を分担していたメーカーから、前後の工程を取り込み完成部品メーカーに格上げになるものがふえた。そして特定メーカーの下請から、数社の元請メーカーとの取引が可能になっていくのである。
私は商社に在席していた頃、商社無用論が世を席捲したことがあつた。メーカーと消費者の間にある流通を荷負う商社はいらないというのである。メーカーは自社の中に商社機能をとりこんだ。消費者は多段階の流通業者にNo.をつきつけた。極端にいうとメーカー直販である。私は商社の生き残り策は、限りなく川上のメーカーに近付く川上作戦と、限りなく消費者に近付く川下作戦だとしてこの両面作戦を指揮した。商品毎、分野毎に二つの作戦に分類して大きな流通革命の嵐を乗り切ったのである。
今またその流れが、より広く各分野に求められるようになってきた。生き残り戦略にとって、欠くべからざる作戦である。農業をはじめ林業、水産業などの1次産業の高付加価値化はこの作戦を成功させることによって達成されるのだ。

岐阜市のKKコンティグ・アイ

5月2日
岐阜市のKKコンティグ・アイ
バイオエタノールの精製を発明したベンチャー企業がある。岐阜市の会社で1ℓ当りの精製コストが60円と同業者の半額だ。立教大学の山口義行教授は中小企業の可能性に注目している。その高い技術力と低コストの開発能力についてである。その山口教授がコンティグ・アイの技術力を高く買っている。私はグリーンエネルギーに早くから注目し、太陽光発電や太陽熱利用、風力発電等に興味を持ち、その事業化にとりくんできた。残念乍ら資金が枯渇し、道半ばにも到達できず、中途半端で終っている。コンティグ・アイでは芝や木材から、エタノールの精製を発明したとの報道を大分以前に聞き興味を持っていた。今回5月の連休中に鈴木社長とあうことになった。岐阜は私の青春時代の思い出の土地である。そこでまた、新しい事業の芽が、力強く萌芽しているのを見せてもらえるのは、何と有難いことかと、今からワクワクドキドキしている。

インフレターゲット

4月28日
インフレターゲット
2%のインフレターゲットを日銀の黒田総裁が掲げた。先行指標の株価は昨年以来急速に値上りしだした。株式を保有している富裕層が日本経済の先行きに心理的な安心感を強く抱くようになった。株式のデートレーダーは小口の数多くの売買をくり返し、かなりの利益を上げつつある。長い間デフレ経済の中で萎縮していた投資マインドが、まず株式市場で開花しつつある。そして注目すべきはリート市場である。不動産を組込んだリート市場が様変わりとなった。これは近い将来の土地をはじめ不動産の値上りを確実に予言する動きである。京都や金沢という地方の中心部や駅前の物件が大きく値上りしている。東京都心、令会都市の地価は完全に下降から上昇に転じている。インフレターゲット2%の実現の可能性はもう間違いない。大切なことは、その後に思いを致すことであり、早急な対応の必要性がある。

マリンカの会

4月27日
マリンカの会
今年に入って、各団体から「ブータン王国」についての講演依頼や寄稿依頼が来るようになった。「ブータンミュージアム」という日本唯一のブータン王国に特化したミュージアムが珍しいからであろうか。オープンしてまだ半年も経過していないが、人々の注目を集めているようだ。小浜市に本拠がある「マリンカの会」から講演依頼を受けた。この会は「公費を使って海外研修をした女性の会」だ。海外研修で受けた貴重な体験を生かし、国際交流活動を深め、相互の親睦と地域活動を推進することを目的としている。設立35年になり、活発に活動している様子を見て、見事な女性パワーに感心した。僅か1時間半ほどであったが逆に私の方が大きな感動をいただいた。95才になる男性は(傍聴された男性の3人の内のお1人)大岸さんは昨年6月ブータンを訪問され、今回ブータンがなつかしく、私の話を聞きたくておいでになっていた。小雨の中を自転車にのって帰られる姿にまた感動した。
会員48名の中で、20名余りが出席とのことであった。小浜のNPOの竹内君が手伝いに来てくれて、大いに助かった。往復共にJR小浜線を利用したが、春の花々が美しい中、沿線の家々を眺め、乗降客の多さにも感慨ひとしおのものがあった。ささやかな奉仕活動の中での醍醐味であろうか。のどかな若狭路を満喫した一日となった。北陸新幹線の若狭ルートの候補地とはとても思えない、生活感を色濃く残している沿線の景色であった。

日本文化

4月26日
日本文化
古来より日本人には清貧に甘んじる心があった。欧米人にとって「貧困」は屈辱的で惨めで一日も早く脱出したい状態をいう。日本を訪れた明治維新前後の欧米人は、日本各地を旅して「日本は貧しい寒村もあるが、日本人はみな幸せそうだ」と驚いている。戦争のない300年の江戸時代を通して「幸福とは何か」を体験した日本人の表情から欧米人が気付いたのは「幸福」と「日本人」の関係であろう。日本には自然の美しさと共に、世界一のレベルにある富の蓄積、築き上げてきた技術力、1.2億人の均質で高度で優秀な人的パワー、そして世界有数のソフト開発力がある。日本語を軽視する傾向にあるが、この言語を使うことにより、常に脳を刺激し、脳を活性化することが出来る。日本語を使う日本人の知力が世界的レベルを遥かに超えているのは、日本語で生活してきたことにも大きな影響を受けてきた。この分野は自然環境や清貧の思想と共にもっと研究される必要がある。日本や日本人、あるいは日本語や日本文化を知らない人々があまりに多い。「もののあわれ」という人情の細やかさを感じる繊細な心や、「以和為貴」という道徳心などは、なお更知られていない。これは単純に「日本語」という言語の壁のせいである。英語や北京語、関東語を使って「日本の幸福」を世界に発信すれば、日本を見たい、知りたいという人々が多くなり、日本を訪れる人々が増えてくる。そうなれば平和を愛する日本人の本当の心を知るであろう。幸福を求めつづければ、戦争のない平和な世界を手にすることが出来る。そんな世界の到来を私は願っている。

日銀総裁

4月25日
日銀総裁
黒田東彦氏が日銀総裁に就任かというニュースが流れ出してから日本経済の流れが大きく変り出した。アベノミクスといわれる現象である。株の急騰と円安の実現がすすんでいる。20年来日本だけがバブル崩壊後の泥沼から抜け出せず、長い低滞感の中に沈潜してきた。そこへ黒田氏の日銀総裁起用のニュースが流れ、「インフレターゲット2%の設定」と「金融の量的緩和」と「滞留する資金の流動化」への動きがはじまった。過去20年間何度も提案され乍ら日銀も政府も真剣に検討しなかった政策を勇気を持って打ち出した炯眼に感服した。私だけではない。FRBのパーナンキ議長やIMFのラガルド専務理事、そしてイングランド銀行のカーニー頭取までもが賛意を示しているとのこと。今度ほど世界から日本の金融政策が注目されたことはない。グローバル時代の日本の指揮者として心からの賛辞を送りたい。

観光の魅力

4月23日
観光の魅力
福井県にブランド営業課がある。県内の有志に「ブランド大使」の称号をおくり、県産品の伝道士として協力を要請している。個人でも企業でも希望すれば大使に任命してもらえるので、私も数多くの友人に協力を依頼した。その趣旨は「福井県内の魅力的な観光資源の発見、開発そしてそのPR」である。協力を希望する方は、県庁のブランド営業課へ、コンタクトされることをおすすめする。
2015年に北陸3県でJRが実施を予定している「北陸ディスティネーションキャンペーン」に、ブランド営業課長は「観光の魅力」となる施設や素材を集めているようだ。2年後の北陸新幹線の開通にむけて、水面下で準備がすすんでいる。金沢駅が終着駅となるので、福井は無関係だと思っている人は、大きな間違いを起こすことになる。金沢駅を降りたお客様はどこを目指すのだろう。この大量のお客様をとりこむことが出来るのは「観光の魅力」である。金沢駅から1時間程度のところが有利といわれている。福井駅周辺の観光施設の整備や、魅力ある県産品の発掘が早急に望まれる。
私達は近隣の大名町商店街、駅前商店街、ホテル、百貨店とコラボレーションを行い乍ら「ブータンミュージアム」「ふくい工芸舎」「九頭龍地酒百蔵」などのPRに力を入れている。福井市中心市街活性化をめざしているのだ。

越前打刃物

4月21日
越前打刃物
冬物をかたづけようとして物置を整理していたところ、まだ使っていない包丁を見つけた。早速使うことにした。700年の伝統を持つ越前打刃物は、福井の数多くの伝統工芸品の中でも、異彩を放っており、1814年京都粟田口の御用鍛冶の名門千代鶴岡安の来福に遡る。そこで刀剣を作ると同時に農民の為に鎌を作り、それが越前鎌として全国に鳴り響いた。越前打刃物の祖として千代鶴神社が作られている。
越前府中藩の政策により、奨励された越前鎌は漆かき職人と共に全国を歩きまわりその切れ味が宣伝されていった。今でも越前市の中心部には越前打刃物の旧家が残っており、手づくり打刃物として料理人から好評を得ている。新しいデザインを採用した新商品も評判で、一度使うと手ばなせないとの声が多い。包丁の刃の刃紋は丸刈の輝きがあり、料理名人が愛好するというのも納得できるすばらしさだ。

インフレターゲット

4月20日
インフレターゲット
インフレターゲットという言葉が数多くとりあげられ、2%が高すぎるとか、不可能だとか言われていることに反論したい。そもそもインフレターゲットとは、政策的にデフレを解消し、デフレスパイラルを止めて正しい経済状況に戻そうとして、その経済成長のレベルを+2%にするよう目標を設定したのである。必達目標である。2%が高いというのは2014年4月から消費税が5%から8%に上ることを考えればおかしい議論である。まして70円を切るかといわれた円高が現在90円をこえて円安がすすむ現状を考えれば「2%」が高すぎるなどという議論は成りたたない。輸入品の値上げが相次ぐのは目に見えており、金融緩和により資金はまず株式に流れている。次いで不動産へ流入するのは理の当然である。2%はおろか、更にインフレが進む環境が整っているのに気付く必要がある。

幸福学

4月19日
幸福学
イギリスの法学者ベンサムは人類社会は「最大多数の最大幸福」をめざすべきだと提唱した。幸福学は心理学者、哲学者が人類史上はじまってからずっと論じてきた。宗教家にとっても最大のテーゼである。日本の憲法第17条にも「日本国民は等しく幸福になる権利を有する」と明示されている。ブータン王国のGNH政策にも色濃く反映された思想である。21世紀に入ってこの「幸福」についての言及が各分野においてふえてきている。学校法人同志社の総長大谷實氏は私の尊敬する先輩である。彼が同志社大学学長の時、私は福井県のOB会の会長を勤めており、何度も歓談する機会があった。更に近年総長に就任された後は益々会う機会がふえ、「幸福について」話がはずんだ。日本ブータン幸福学会を発足するに当たり、発起人をお願いした次第である。幸福学は今後法学の分野でも大いに取り上げていただきたいことである。同時に医学の分野ではクリオティオブラィフとしての視点から幸福学への参入を期待している。これからの医学にとっての大きな課題だと考えているからだ。

超高令社会

4月18日
超高令社会
日本は世界ではじめて超高令社会に突入する国となった。年金支給年令はアメリカが65才となっているが、日本も順次支給年令を上げていくことになった。数年で65才支給となる。更に支給年令を上げて2020年頃には70才支給開始となるであろう。となると現在60才定年を65才に引上げた日本は、更に70才定年に引上げる必要にせまられる。そして末就労働女性を労働市場へ引き入れて、厚生年金制度を支える側にすることになろう。
それ丈では年金制度を守ることは難しい。支給額の引下げも論議されると思われる。私が一番重要視するのは、70才以上の高令者の経験や知恵そして勤労を、どのように社会に活用してもらうかである。今そこでの議論は殆どなされておらない。70才から80才迄の人生は、かってのように「老人」として扱うには元気すぎる。決して老人ではない。知恵も人格も体力ですら若い連中に比べて大きな遜色はない。この人達を社会に有効に活用する道を工夫することで、日本の将来は明るくなる。

「ウェアラブルコンピュータ」

4月16日
「ウェアラブルコンピュータ」
中学生の頃、父が腕時計を買ってくれた。夜光塗料が塗ってあってとても興味を持った。その頃4球スーパーラジオの組立キッドが売り出されており、それが欲しかったが、父は既に立派なラジオがあるのに必要ないと買ってくれない。自分の小遣いで買える砿石ラジオのキットを買って楽しんだ。「腕時計」も「砿石ラジオ」もよく考えてみると最新の「ウェアラブル機器」の一種である。砿石ラジオを腕時計に組みこめないか真剣に考えた。時計の文学板を開けてトランシーバーのように使えると面白いとも考えた。すべて無線方式の機器を「ウェアラブル」にすることだった。
パソコンが携帯に近付き、いよいよウェアラブルになりつつある。アップルが「新型腕時計」を開発中である。私の中学時代夢みたことが既に現実のものになりつつある。電池の発達と広域バンドの活用により、コンピュータは小型化し、高性能化、多機能化し、身体の一部となりつつある。ソニーは20年以上も前にアイパットとよく似たパームコンピュータを開発したことがある。手のひらサイズのパソコンであった。あれが世界に受入れられていたら、アップルの今日はなかったかも知れない。可能性はまだまだ無限に広がっているのだ。

感動を求めて

4月14日
感動を求めて
4月1日全国で新社会人を迎えて入社式が行われた。私達の会社も例年通り新卒5名を採用し、入社式の冒頭に訓示を行った。社是社訓の根本精神を伝えたのである。私達の会社は他の会社と全く異った社是社訓を持った会社であり、ユニーク経営を必死に追求していることを伝えたかった。それは会社の利益を追求するのではなく、まずお客様の利益を先に考えることである。そしてお客様の次に下請さん、仕入先、取引先のことを考えなければならない。金融機関、市・県・国その他地域社会のことも大切である。そして最後に社員のこと家族のことを考えてほしいと話した。
私は発想を変えることにより、会社も人も変ると信じている。地域や国も変えることが出来る。人は感動を求めている。自分を変え、会社を変え地域をよりよい方向に変えていくことで世の中はよくなっていく。大きなエネルギーが必要であるがその為の小さな第一歩を踏み出すことが大切だ。その緻密な経営計画を立て、3〜5年の中期計画を持ち、10年20年の長期計画を描きつつ感動ができる仕事人生を送ってほしいと切に願っている。

社会関係資本

4月13日
社会関係資本
私が「ブータンミュージアム」をNPO法人幸福の国という母体の上に作ったのは、「株式会社」の制度を超えて、「社会関係資本」という新しいグループを創立したいからである。「株式会社」は社会的に認められた公共のものである。個人のものではない。しかし「株主のためのものだ」という視点でとらえる傾向が強い。特にアメリカではそれが明瞭だ。私は「NPO」は「利益を追求しない組織」としては貴重であると思うが、それ以上の理想を求めたい。即ち「ブータンミュージアム」は社会全体の幸福のための組織にしたいと考えている。誰のものでもない、みんなのものだという組織にしたい。しかし誰かが「ブータンミュージアム」を支えなければ永遠の存在は不可能となる。そこで「社会関係資本」という概念が出てくる、数多くの人々の浄財や、無償の協力によって支えられる組織である。寄付もOK、無料奉仕もOK、小額の維持賛助会員(フレンドシップ)もOK、更に株主ではないが一定の基金の提供もOKという新しい組織である。私達は今、ネット時代にいる。この環境を生かして広く私達の理想社会の実現をはかりたい。「何事もユニークであれ」が私のやり方である。誰もやっていないやり方でやりたいと思う。そして「ブータンミュージアム」を通して世界一幸せなブータン王国と日本一幸せといわれる福井県との交流を深め、幸福の追求を通して「世界平和の実現」をめざしたい。21世紀という「心の時代」の先駈けとなれるようブータン王国の皆様そして志を同じくする「ブータンミュージアム」をご支援下さる方々と共に、すばらしい夢を見つづけたいと強く念じている。

山水画の祖、王維

4月12日
山水画の祖、王維
王維即ち王摩詰は政治家であると同時に、画家であり詩人であった。その発想の原点は、輞川の山中の荘園での生活にあるといわれている。荘園の山水の風景が理想郷であると感じ、その自然の中に住み、詩をつくり、絵を描くことに最高の幸せを感じていた。これはあたかもブータン王国の山中にいるようだ。ブータンは国全体が理想郷で、人々は高山の谷あいの川の畔に住んでいる。夏は放牧のヤクを追って山へ登り、冬は標高の低い農地に降りてくる。自然は厳しいけれど、豊かな恵みと、清楚な心の豊かさを与えてくれる。王維は南画の祖といわれ、その絵は日本の茶道会から最高の賞賛で迎えられている。王維の描く山中に住む仙人の姿は、老いてなお陋屋で瞑想する理想的な人生を表わしているのだろうか。

金は天下のまわりもの

4月11日
金は天下のまわりもの
個人金融資産1500兆円は世界一の規模である。企業や銀行に滞留している約200兆円も世界トップクラスの規模である。金は天下の回りものといわれてきたが、日本経済の問題は、この莫大な金融資産が動く状態になっていないことである。これを動かす必要がある。安倍首相の三本の矢政策はこれを狙ったものであろうが、株が上昇をはじめ、円安にふれ、消費マインドも上り出した。東京上野の花見弁当がよく売れている。2,000円がベストセラーで、昨年のベストセラーの1,000円弁当の倍の値段が人気だという。株価が上昇し、地価が上昇に転ずると先行きに希望を持つことが出来る。やっとお金が天下をまわりそうな気配である。

孫とのパーティ

4月9日
孫とのパーティ
3月30日に孫が5人私のマンションに集まって、パーティを開くことになった。私が祖父母からもらった知恵を、私の孫達に伝える機会にしたいと考えたのだ。歴史的にみて、現在の日本は最高の状態にある。寿命がのびて高令者が多くなり、経済が豊かになり、国富が世界トップクラスのレベル。人口減少が盛んに心配されているが、実は現実は過去最多の人口1.2億人、これは世界第10位の堂々の大国である。考えようによっては、現在の日本はパラダイスである。しかし私達の持っている知恵やスキルが生かされる機会が減っている。そこで「孫とのパーティ」を今後しばしば開きたいと考えた。スキンシップと会話の機会が減っていることを憂慮してのパーティだ。祖父母からの伝言を孫達に伝えるのが私の役目と考える。

ブータン国王ご夫妻の来日

4月7日
ブータン国王ご夫妻の来日
今年の5月にブータンミュージアムの定期イベントとしてブータン王国への訪問を予定している。2011年11月にブータン国王ご夫妻が国賓として来日され、天皇、皇后両殿下とブータン国王ご夫妻との間で「御贈進品」が取り交わされた。ブータンの仏教画、銀製品と日本の奥田元宋の日本画、竹製の角花生が取り交されたとのことである。私達は今回、福井県特産の越前焼陶芸家五島哲先生に依頼した、茶道の「茶器一式」を、岡倉天心が書いた英語本「茶の本」を添えて贈呈する予定である。茶道はいうまでもなく日本の伝統文化の華である。茶道には建築、造園、華道、書道、日本画、陶芸、漆芸、竹工芸、釜などの鉄工芸。懐席料理、和菓子、和服、和装小物などすそ野の広い一大芸術が含まれている。その茶の湯の道具を国王ご夫妻に贈呈することで、文化交流の私達の意志をお伝えしたいと考えている。ブータン国王ご夫妻の訪日は、東日本大震災で大きな衝撃を受けていた私達に、勇気と希望を与えていただいた。すばらしいブータン王国の思いやりの心、利他の心を、私は忘れてはならないと考え、ブータンと日本の文化交流の道を一歩づつ歩きはじめようとしている。

株主優待

4月6日
株主優待
私達の会社では、創業以来、株主優待の制度をつづけさせていただいている。今年は「越前和紙」をお届けした。中身は「お福わけのテーブル」という名の和紙製品セットの詰合せである。「舞妓カード5枚」これは舞妓が名刺として使っていた小さな手漉き和紙。「コースター用紙5枚」半分に折ってコースターとして使う。「箸さき入5ケ」若狭塗箸の先をさしこむ箸おき。懐紙サイズの「御菓子敷紙6色各5枚入」。A4サイズの「御茶敷紙5枚」はテーブルマットに最適。そして「お福わけ袋5ケ」。最後に「八ケ目敷紙5枚」は何でも使える便利な和紙。これ等7種類の和紙セットを包み紙に入れた心憎い演出のプレゼントである。幸福度ナンバーワンの福井から、「福」が一杯つまった日本一の和紙、越前和紙を、全国の株主様におくらせていただくことが出来た幸せに感謝している。「福」はまた「福」を呼んでくれるのである。ちなみにこの「お福わけのテーブル」は、福井駅前の西武通り、エコライフプラザ2階奥の「ふくい工芸舎」の、ベストセラーの一品である。半年前の株主優待は「金津創作の森のガラス工芸白ヘビ」その前は「森八大名閣洋菓子セットと越前焼茶碗セット」と福井県の名産品の中から珍品を捜し出して年2回送付させていただいている。

内閣府


内閣府
国際幸福デーが制定されその第1回目が、東京、京都で開催された。福井でもブータンミュージアムを拠点に「幸福について考えるイベント」を開催した。これは内閣府が中心になり、ブータン王国よりGNH研究の第一人者ダショーカルマウラ氏を招聘し、東京と京都でのイベントを企画してもらったおかげである。国連が制定した、世界的に「幸福」や「GNH」への関心が高まっている中でブータン王国が提唱し、第一回目の「幸福デー」が成功裡に終れたことの意義は大きい。来年は十分に事前協議を行い、福井でも更に有意義な会合となるよう内閣府をはじめ、県・市・大学関係・経済界との調整を行っていきたい。

ブータンの言語

4月4日
ブータンの言語
公用語は英語とゾンカ語である。英語は子供から大人まで理解がすすんでいるようだ。もう一つの公用語のゾンカ語の修得はかなり年月がかかる。片言のゾンカ語を四苦八苦して覚えていたら、旧知の西田文信先生(岩手大学准教授)より新刊の会話帳を送付していただいた。指さし会話帳ブータン編である。ページをめくってみるととても使い易そうだ。5月13日からのブータン王国への旅の友として、すぐ使いこなせそうで有難い。西田教授はアジア諸民族の言語研究を専門とし、特にブータン国内にある諸言語に興味を持っておられ、私は数回ブータン研究会で御説を聞く機会があった。「ブータン」をキーワードに、人脈がどんどん広がっていくので、高揚感を覚えると同時に、人の縁の有難さをしみじみ味わっている。

国際幸福デー

4月2日
国際幸福デー
1972年ブータン王国の第4代国王ジグメ・センゲ・ワンチュクが「ブータンはGNPでなく、GNHを国の目標の指数にする」と公言された。その後先進国では幸福のパラドックスにおちいる傾向が強くなり、「GNH」が世界から注目を集め出し、イギリスやフランスなどでは首相や大統領が「GNH」を国の目標にとの考えを打ち出した。そして昨年ブータン王国が提唱し、国連が毎年3月20日を「国際幸福デー」と制定した。「幸福の実現」が世界の目標となったのだ。
日本では東京、京都、福井で、第1回「国際幸福デー」を祝う集いが開催された。私は福井での会合の主催者として、東京と京都からの参加要請を断っていた。ところがブータンからダショーカルマウラ氏が京都であいたいと連絡が入った。早朝福井を出て、彼のホテルで逢うことが出来、約1時間の綿密な打合せを行った。
京都の「国際幸福デー」はオールスターの華やかな集いとなった。主催が京都府・市・京都経済同友会、共催が大学コンソーシアム、京大こころの未来研究センター、同志社大学、立命館大学、京都産業大学、龍谷大学、京都学園大学、後援協賛は多数。約300名で終日熱心な討論が行われた。内閣府の招待で来日したダショーカルマウラ氏を中心に東大島薗 進教授、京大吉川左紀子センター長の対談にはじまり、知事、市長、同友会田辺禎男代表幹事によるセッション「幸福が実感できる京都づくり」そして「新たな幸福への挑戦」特別セッション、堀場雅夫特別幹事の挨拶、歓迎パーティとつづいた。来年の第2回国際幸福デーの開催にむけて更に綿密な準備の必要性を痛感した。今年の福井は参加者70名余となったが、来年はより広くより大きい盛り上りを期待しよう。

桜並木

3月31日
桜並木
福井の国際交流会館からNHK前を通り、ブータンミュージアムへのさくら通りの桜が、いよいよ満開を迎えようとしている。福井の桜の開花の順番は、まず初めが桜通り、次が足羽川の堤防、そして最後が足羽山の桜が咲く。最近の傾向はその差が縮まってきている。一時に咲くことが多い。同じように電車通りのケヤキ並木も新芽がふき出す。春の到来を告げる日々である。春になればやりたいことがいろいろある。永平寺の住いを整理整頓しはじめた。借り手を捜そうという意見もある。庭の桜も4月の中旬には美しい花を咲かせてくれることであろう。四季のうつろいを楽しむのが福井流の住み方の醍醐味である。

喫煙は悪

3月30日
喫煙は悪
がんは1981年以後ずっと死因の第1位を占めている。死んだ人の2人の内1人ががんを患っている。そこでタバコの害悪をとり除く為に、喫煙率の引下げの数値目標が決定した。2022年度までに成人喫煙率を12%以下にするというのである。受動喫煙は行政機関・医療機関内は0%、家庭で3%、飲食店で15%の目標となった。更に2020年には全職場での喫煙が禁止となる。私はJT株の少数株主であるが、単純に考えるとJTの未来は暗い。食品業界への更なる進出を望みたい。

新島襄と福井県

3月29日
新島襄と福井県
幕末に函館から脱国した新島襄はアメリカのアーモスト大学を卒業後、岩倉使節団の通訳兼案内人として、アメリカを本格的に理解する為の支援を行った。脱国してから一転新政府の最重要官僚達の指南役になったのである。1873年キリシタン禁制高札撤去、1874年帰国後、明治8年(1875年)同志社英学校、同志社女学校設立。
その7年後の1882年同志社大学設立運動を開始している。第2次の大学設立運動を再開したのは1887年で、同志社病院と看護学院を設立したがまたも病に倒れ1890年日本初の私立大学設立の夢かなわず逝去。同志社と福井ゆかりの横井小楠との関係は深い。横井小楠と森有礼の二人は、キリスト教徒と目されて暗殺された。日本近代史上稀な人物となった。その後明治時代を通じて、キリスト教は、文明開化のかけ声と共に盛んになった。日本の上流階級の子女達が、アメリカ留学を果している。
同志社英学校設立の立役者は新島襄と妻の八重そしてその兄山本覚馬、アメリカンボードのディビスであるが、会津藩、熊本藩、福井藩などの果した役割も重い。特に熊本は熊本バンドといわれる熊本英学校の生徒35名が入学。横井小楠ゆかりの人々でありその後同志社の総長を何人もがつとめている。小楠の長男の時雄が3代目、長女の夫海老名弾正が
8代目総長をつとめている。小楠の高弟徳富一敬の子、徳富蘇峰と徳富蘆花は同志社に入学、その後東京開成学校(後の東京大学)へ転校したが横井時雄等3名が復学している。東京開成学校の知育偏重を嫌ったとのことである。小楠は甥2人(横井左平太、太平)をアメリカに留学させている。会津藩との関係は山本覚馬、八重兄妹の縁である。明治維新後に薩長から朝敵とされた会津藩は、新島襄と共に宮城英学校を創立。1887年開校、校長新島襄、副校長を同志社より出した。富田鉄之助日銀副総裁(新島の生涯の友、後に総裁)と知事、理事長松平正直が東華学校と改称したが、5年後廃校となった。富田は杉田玄白の子孫杉田成郷の娘縫と結婚。これまた福井人である。

井深大さんの思い出

3月28日
井深大さんの思い出
小さかったソニーを世界の大舞台に引き上げたのは井深大(まさる)さんである。私は岐阜に住んでいた頃親しく話をする機会をいただいた。そして今でもしっかりと覚えているのは二つの忠告である。その1つは「人は少数になれば、精鋭になる」という言葉だ。必要にせまられたら、人は何倍もの能力を発揮する。大切な会議は大勢でやるな、多いと必ず失敗する。少い方が真剣になる。この教訓がその後どれ程私を助けてくれたか判らない。次の1つが「リーダーは朝令暮改を恐れるな」だった。この言葉は私の直属の部長からも、言葉を替えていわれたので更に印象深い。部長は「情況の変化にいつでも即応できるように。手の平をかえしてもよい」と教えてくれた。人はつい自分の言葉に自分が縛られるケースが多いが、そんな事にとらわれる必要はない。「臨機応変」は戦場の常だとの教訓である。
井深大さんは90才まで生きられた。晩年に全国を歩かれての指導であったが、その言葉は未だに含蓄が深く、私の胸を去来してやまない。

まち歩きの楽しみ

3月26日
まち歩きの楽しみ
銀座を歩くのを銀ブラといった。心斎橋は心ブラである。まちをブラブラ歩くのは楽しい。商店街を単に商業の場とするだけでなく賑いを楽しむところに育てていく事が大切である。着飾って歩くまち、少し胸をはって歩くまち、日曜日や祭日に歩いてみたいまち、夜のまちなど、それぞれが顔を持っている。ヨーロッパの広場にあたるものが、日本の商店街である。駅前商店街は駅前プラザなのだ。一体化すると同時に、そのつながりを楽しめる工夫が必要になってくる。日本の商店街が苦しんでいるが、考えようによっては、可能性がドンドン広がっているともいえる。日本唯一のブータンミュージアムを作ったのが、この通りを歩くとケヤキ並木の美しさに気付く。熱による融雪装置がついているので冬の雪の日も楽しく歩けた。歩いてみるといろんな新しい発見があり、近所の方々と挨拶をする楽しみもまた格別である。まち歩きの魅力の一つとして「ブータンミュージアム」を活用してほしいと切に願っている。

中国の環境汚染

3月24日
中国の環境汚染
PM2.5という微小粒子状物質が中国の国土の4分の1を汚染中とのことである。この原因は暖房用石炭の使用増加と車の排気ガス、工場の煤煙だという。特に上海や北京の汚染がひどい。これは肺ガンやぜんそくの原因になるので注意が必要だ。私は花粉症ではなかったが、今年は杉花粉とPM2.5の二重苦で、目がショボショボ、鼻水が多い。日本各地でPM2.5の測定器が設置され出した。日本の対応は早いので被害は少ないが、肝心の中国はどうだろうかと心配だ。軍事力の増強よりも、環境問題に力を入れなければ、中国大陸は人の住めない国になりかねない。浙江省の幹部でもあった習近平氏の国家首席就任を祝うと同時に、日中友好を長い間つづけてきた両国民が大勢いることを忘れないでほしい。

議会軽視

3月23日
議会軽視
日本は行政が議会に対して、可也り神経を使うことが多い。軽視しては困るが、それ以上に大切な事がある。それは双方共、自分達の職責をしっかり果すことである。特に国会議員からの質問に答えるために、重要な外交が犠牲になっている場合が多い。国交を第一と考えれば、国会の質問に答えるのは本人以外でも十分対応可能である。日本の民主主義は最近成熟度を増してきた。国会の質疑応答が、国民の眼前で行われ変な質問や野次が激減した。議員は余程勉強をしておらないと、国民にすぐ見破られてしまう。議員定数大巾減がいわれ出しているが、国民の声を正しく伝えるには、数ではない、質が問われなければならないはずだ。

ブータンよりの研修生

3月22日
ブータンよりの研修生
国際協力機構より、今年度のブータン王国の青年研修(地方行政)受入れ先に、ブータンミュージアムNPO法人幸福の国が決定したと正式通知をいただいた。地方行政にたづさわっているブータン王国の青年達に、「地方行政視察研修」を行う為の受け皿を私達が引受けることになったのだ。今秋13日間に亘って、11名の団員の研修を行う。今後の研修プログラムを早急に詰めると共に、提携を打診し了解を事前にいただいている各方面との打合せに入る必要がある。
ブータン王国とは、双方向の交流を、毎年数回づつ行うことにより、相互理解を深め、ブータン王国の発展の支援をさせていただきたいと考えている。
日本唯一の「ブータンミュージアム」の中身の充実について、内務文化省をはじめ、ブータン研究所のアドバイスを受けながら、徐々に拡充していきたい。この5月中旬からの訪問団を皮切りに、交流がますます進むことを期待している。

カルマウラさんへのメール

3月19日
カルマウラさんへのメール
ブータン王国のダショーカルマウラさんへメールを出した。ブータンへの団体旅行を企画しているのでその質疑応答のメールである。ブータンへの連絡は仲々難しい。お互に忙しいこともその理由ではあろうが、根本的には「ブータン時間」は私達の時間より可成りゆっくり流れているようだ。3月20日の「世界幸福デー」にあわせて、日本政府の招きで来日してくれることとなった。その折に是非面談したいと考えている。
彼はブータン研究所の所長であると同時に国王や政府の要人のアドバイザー的存在で、ダショーという貴族の称号をもらっている。若いけれど国王をはじめ王族の皆様の信頼が篤いと聞いている。私達にとってはかけがえのない友人である。

新島襄の本

3月17日
新島襄の本
NHK「八重の桜」を毎週楽しみに見ている。私は同志社大学を卒業して早や五十数年となった。青春時代を過した京都の地への想いと同時に同志社で学んだ四年間を忘れることは出来ない。本井康博氏著の維新の元勲・先覚者たちとの交遊を描いた本は誠にすばらしい内容だ。私の知らない事実を次々と教えられた。福井藩で多くの弟子を育てた横井小楠(明治新政府の参事)と近い親族縁者が数多く同志社に入学したり、旧会津藩士、旧熊本藩士たちが入学していることを知った。また新島襄の留学先のアーモスト大学や姉妹校のマサチューセッツ農業大学関係の後輩達、アメリカ・ヨーロッパ視察に同道した維新の元勲たちとの濃密な交遊を知り驚いた。正に一期一会を地でいく出会いであった。
「新島襄」と書いた本を持ち歩いていた時、声をかけられた。「何故その本を持っているのか」との問に、思わず私は同志社出身だと答えた。質問してきた人も当然私の後輩であることがわかり、しばし「八重の桜」について話がはずんだ。縁は尊ぶべきである。人に助けられるのが人生の醍醐味だということをしみじみ自覚した一日となった。

ブータンハウス

3月16日
ブータンハウス
ブータンミュージアムを福井でオープンして早や4ケ月が経過しようとしている。ブータン王国と日本との交流について、多くの方々を訪問しご意見を聞き、多くの示唆を頂いた。また数多くの文献を調査して同じく研究させていただいた。そして西岡京治・里子ご夫妻の長年に亘るブータン王国への貢献を知った。西岡京治さんはブータンにて客死され、ブータンで誠に盛大なご葬儀が、前国王はじめ関係者によってとり行われたと聞いていた。里子さんが西宮市に元気にお住いとのことであったので先日訪ねて参り、貴重な体験談をお聞かせいただいた。当時の外務省におられた東郷文彦・いせご夫妻に大変厄介になったとの懐旧談を時のたつのも忘れてお聞きした。インドの旅から帰国されたばかりの日であったがご親切に指導いただき、深い感動を覚えつつ感謝し、福井のブータンミュージアムでの再会を約して辞去した次第である。

アメリカ株式市場

3月15日
アメリカ株式市場
史上最高値を更新したダウ平均。世界的な金融緩和を背景に世界各地の株式市場はすべてが上昇局面を迎えている。その中でもニューヨーク市場は史上最高値をつけた。日本の日経平均は1989年末の最高値約3.9万円に遠く及ばない乍ら、1.2万円突破した。株式市場は、有力な景気判断材料であり、先行指標として重要な役割を果している。その株式市場が遅ればせ乍ら上り出したのである。景気の先行きに明るい兆しが見えてきた。幸い私達のコインパーキング業界もリーマンショックや東京電力の輪番停電という大きなショックを乗りこえて順調に拡大をつづけている。付加価値の向上が続いているのは誠に心強い。金融緩和が末端にまで浸透してくれば日本経済が安定的な成長路線に戻るのは間違いない。

日本ブータン友好協会

3月12日
日本ブータン友好協会
東京、市ケ谷のJICA地球ひろばでブータン友好協会の第33回通常総会が開催され、出席した。現在会員数247名、出席者40名委任状117名。昨年は24名の新入会員を迎えて、久しぶりの黒字決算とのこと。
1. ワンデュ・ポダン・ゾン再建募金は77名の方から78.25万円が集まったがまだ送っていない。期限はないが今年中に送りたい由。
2. 国王ご夫妻の訪日のおかげで、協会へのマスコミ取材多く、協力行事も各地で行われた。11月17日には福井市で「ブータンミュージアム」開会式に栗田靖之前副会長が協会を代表して挨拶した。
ブータンでお世話になった仁田知樹ブータンJICA所長が今年早々より駒ヶ根青年海外協力隊訓練所の所長をされていて、総会後の講師をつとめるとの案内をいただいていて、面会できた。テーマは「民主制移行から変貌するブータン」で任期3年半の激動のブータン王国の魅力的な講話を聞いた。榎会長、森副会長、渡辺事務局長、山本けいこさん、若林郁子さん、元インド大使夫人野田さん等の方々とお会いできた。また藤原整、平山雄大の新幹事、HP作成中の高橋洋幹事にも面談。
今年度は外部への情報発信、会員同志のコミュニケーション(HP一新)、若い幹事登用による活性化(シンポ等他団体への協力)に協力する方針を確認した。活発な意見交換が出来た。中でも野田、若林両夫人から協力のお話しを聞けたこと、大変うれしかった。

これからは「K」の時代

3月10日
これからは「K」の時代
これからの有望市場は何だろうという話になった。ある人が、それは頭文字の「K」だというのである。「K」とは何かを皆んなで話しあった。「K」の第一番目は高令者、後期高令者マーケットのK。次は健康市場の「K」更に観光の「K」、その次は海外市場の「K」、子育ての「K」、介護の「K」、家族の絆の「K」そして感動の「K」、そして外国語の言葉の「K」改修解体の「K」、そして幸福の「K」。考えてみると不思議に「K」が多い。ブータン王国も福井県も私の会社も、すべてが「幸福」をまわりの方々に実感していただけるよう祈ってこの言葉「K」を追求しているのである。

銀行はどこへ貸しているのか

3月9日
銀行はどこへ貸しているのか
2011年末の国内銀行貸出し先をチェックしてみた。貸出総額416兆円GDPの1年分を少し下まわった金額である。誰に貸しているのかを聞いてみるとまず個人向が28%でダントツの多さである。2位が不動産業の14%と個人向の半分。3位が製造業の13%。ものづくり大国といわれて久しいが、今や製造業は海外工場への投資にシフトしてしまっていることがよくわかる。アベノミクスの金看板超金融緩和と、成長戦略による新しい投資の喚起をどうして達成するのか注視する必要がある。

航空機の便数

3月8日
航空機の便数
日本の航空機の中心は羽田空港である。羽田からどこへ一番多く飛んでいるのかを調べて見た。乗客数で比較すると、年間利用客数の一位は札幌883万人、次が福岡737万人、三位が大阪と那覇513万人、鹿児島212万人、広島193万人と続く。近い所の名古屋や仙台が少いのが気になるが、大阪は別として遠くの札幌、福岡、那覇、鹿児島が上位に入っているのは、日本経済の均一化という点からも喜ばしいことである。

失われた20年は本当か?

3月7日
失われた20年は本当か?
データを分析すると巷間いわれている常識が怪しいことに気付く。例えば日本から外国へ出入国する人数は、経済状況ピークといわれた1990年が1447万人、2010年が2622万人と20年で1.8倍以上に増加している。貨物(海と空)の数量も832万tから20年後は1047万tと1.3倍近くも伸びている。私達はいつも物事をひかえ目に見たり、慎重を期しすぎる傾向があるようだ。失われた20年といわれた間に私達の金融資産はどんどん積み上ってしまった。個人金融資産の1500兆円は世界のどの国も手のとどかない巨額の資産である。そして毎年ふえつづけている。この使い道を考えるのが政治でなければなるまい。

311被災者復興支援の遅れ

3月5日
311被災者復興支援の遅れ
誰が見ても、311災害の被災地復興が進んでいないことに不信感を抱いている。世界中、日本中から支援が即座に集まり、民主党も直ちに予算措置をとったにかかわらず現状は誠に心細い状態がつづいている。一日も早く対策を実行してほしいと切望する。
福井気象台の鬼頭博尚気象台の台長の講話を聞いた。近頃不思議に思う低温と少雪の因果関係に話が及ぶかと考えていたら、経済人に聞かせるには311大震災の経済への影響の方がテーマとしてふさわしかろうというので、311の話になった。今回の311の死者は約2万人で殆ど津波による犠牲者である。阪神大震災は約7千人、倒壊家屋の下敷による犠牲者が多かった。関東大震災は10.5万人の死者が出た。この原因は火災によるものであった。
今後は南海トラフが危険との予測。また火山噴火がここ3年の間に起きる確率が非常に高いと教えられた。もし首都圏直下型の東京湾北部でM7.3以上の地震がおきると経済被害の想定112億円、700万人が被災するとの予測と聞いた。前から私が予測しているように日本海側の地震の確率は可也り低いとのことで、しかも津波の被害は、日本海の構造から考えて、それ程大きなものは想定しにくいとの予測であった。

中国の課題

3月2日
中国の課題
新しい国家元首が選ばれた中国で大きな問題が次々と起こっている。内容を検討してみると、政治面での問題が一番多く、しかも深刻である。
まず年間10万件といわれる暴動の多さ。ワイロ、汚職が常態化している。増えつづける軍事予算による国家財政不安。外国との紛争が多い。少数民族対策の遅れ。人口急減リスク大。そして軍依存路線は内部崩壊の危険あり。経済面では、まず不動産価格の暴落の可能性高まる。賃上げ圧力大、スト多発。高度な技術力の蓄積乏しい。資源のムダ使いがとまらない。生活面では、まず貧富の差の拡大つづく。CO2排出世界一で生活環境悪化。種々の環境汚染がすすむ。隣国である中国の動向には十分注意をはらう必要があることを忘れてはならない。

節電

3月1日
節電
原発事故以来自発的に電気の節約を心がけている。人がよいと云うことは殆ど実行した。節電の目標を過去1年間の実績の半分とした。そして確実に達成することが出来た。
まずカーテンがレースだけだったものを内側に完全な遮光性といわれるぶ厚いカーテンをつけた。そしてコタツ(イス式)を購入し愛用している。じゅうたんの上にアルミの薄紙を敷きその上に2帖大のマットを敷き、その上にコタツを置いている。これが主暖房具である。エアコンはあまり使わず、もっぱら赤外線式電気ヒーター(700W+800W)を使う。シャンデリアは一切使わず蛍光灯とLED照明を使う。湯タンポを試したが温度を低くした足温式電気毛布でもよい結果が出た。夜間電力を使って風呂、洗濯を行っている。衣服は部屋着も寝間着もアクリルポリエステルの起毛したものを愛用している。貫頭衣の部屋着があたたかで手ばなせない。靴下も同材料の厚手がよい。スリッパを愛用し頭寒足熱を心がけている。夫婦が同じ部屋で過すので暖房は常に1部屋だけになるようにしている。足元灯を家の中の各所につけているので照明をつけなくても家の中で簡単に移動ができて便利だ。夜に本を読む時も寝室の蛍光灯やLED灯で読むようにしている。夜間電力契約をしているので半分以下にするのにあまり長くはかからなかった。冬の電気代が半分になったのでその効果がとても大きかった。やろうと思えば半滅は可能だ。しかし8割減のためには個人的な節電ではムリ。社会全体での節約システム化が必要になる。

電力のコストダウン

2月28日
電力のコストダウン
電力需給のバランスが原発の長期停止によって崩れつつある。電力会社は供給責任を果すため、天然ガスの輸入を増し、コストアップの原因となっている。日本は不用意な原発停止により、日本経済の危機を自ら作り出してしまったのだ。日本が奇跡の成長をとげたのは、安い中近東の原油を欧米の石油マフィアを通さず、日本へ輸入した勇気ある先輩達のおかげであった。その後世界初の巨大な石油タンカーの建造を行い、着々とコスト引下げの施策を打っていった。日本が世界に冠たる経済大国になった原因である。先輩達はエネルギーのコストダウンに懸命の、努力を続けてくれたことを、私達は忘れてはならない。

創部百周年

2月26日
創部百周年
同志社英学校が明治8年創立され、明治45年に同志社大学と改称された。新島襄の命がけの全世界の行脚の募金活動と啓蒙運動が、その死後報われたのである。その直後の大正3年私達の同志社大学絵画部(現クラマ画会)が誕生した。時あたかも梅原龍三郎・有馬生馬が文展を脱会、二科展を設立した年である。クラマ画会に入会した当時は、先輩に二科や新制作に作品を出している方が多く、同時にアバンギャルド的な新画風も時流に乗っていた。純粋抽象画がよいとか、実存主義がよいとか、学生同志の激論でもり上っていた。私はクラマ画会とSCA(スチューデント、クリスチャン、アソシェーション)に入部し、経済学のゼミ「マックスウェーバー研究」とキリスト教研究、油絵の研鑽という全く異質のサークルの中で多くの生涯の友を得た。
その油絵のクラマ画会が、今年数え年で百周年を迎えるという。卒業して50数年が経過し、案内状をもらって、感無量のものがある。百周年の記念展を京都で開くので出品依頼があり、久しぶりに絵筆をにぎることにした。小品をというので、15号(私にとっては決して小品ではない)の油絵をかく。ブータン王国にちなんだ作品になればと今、想を練っている。

2050年の福井城跡公園

2月24日
2050年の福井城跡公園
県都福井市の中心部の未来設計図がおぼろ気ながら描かれた計画が、先日発表された。2050年までに完成させるという福井城跡公園である。県庁も県会議事堂も県警本部もすべて外部へ移転し、旧福井城周辺は城跡公園として再開発しょうとするもので、これに反対する意見は少いと予想される。観光客の十人が十人「なぜ県庁がここちにあるの?」と不審がられている。
県庁等の移転については、どこへ移転するかで種々と問題が出てきそうである。私は2050年には110才をかるく超えてしまう。2050年を見ることは不可能だが、それを想像することは出来る。37年先のことである。よく考えてみると、そんな先まで待つ必要があるのだろうか。実行できることからどんどん手掛けていけばよい。地下の文化遺産を掘り出し、それを復元し、それを天下にPRすればよい、金沢城跡公園を見学に行けばそれが可能だとすぐ気付く。まわりの空地や空家の活用も併せて検討してほしい。3年もたてば見違えるようなすばらしい中心地が出来る。10年もたてば、旧福井城の天守閣が数百年ぶりに英姿をよみがえらせることが出来る。夢を見ることで実現の可能性が高まる。大いに夢を拡げていって、新しい福井のまちをみんなで創り上げていこうではないか。

八重の桜

2月23日
八重の桜
NHKの大河ドラマ「八重の桜」がはじまっている。会津藩主松平容保が京都守護職に任命されて悲劇の幕が切って落された。孝明天皇に最も信頼され、公武合体を福井藩主松平春嶽等とすすめていたが、孝明天皇のご逝去により、動乱の中に巻きこまれていった。会津藩朝敵の汚名である。明治維新の歴史をもう一度正しく認識しなおす必要がある。朝敵と決めつけた薩長の誤りを正すべきだと私は信じている。福井藩も明治2年の政変で明治維新の功労者から、はづされてしまっている。新しい「明治維新」をもう一度考え直す必要がある。
とに角、新島八重がドラマで活躍をはじめた。動乱のまっただ中を会津魂を胸に生きていく八重の姿は頼もしい。「勇気を持ち、未来を信じ、どんな苦境にあっても諦めない」という八重の姿に、私は人間の理想像を見る思いがする。アメリカ帰りの新島襄と結婚後、兄山本覚馬と共に夫の夢である「同志社大学をつくる」ことに延身した。京都という日本の中心地にあって、旧弊に対抗し、反キリスト教に抵抗し、西洋文化の流入の先頭に立つ八重の姿は美しい。日本初の篤志看護婦として日本赤十字社の創立の時代に活躍し事や、茶道の裏千家の発展にも大きく貢献したことなど、思いがけない発見に驚いた。早速「淡交」の1月号を購入し、そのすばらしい足跡をたどった。ますます新島八重の魅力にせまることが出来た。

2年後の春

2月22日
2年後の春
長野新幹線の延長、北陸新幹線が金沢駅まで延伸されている。その竣工が2015年の春である。2年後である。福井から丹南、敦賀までは更に遅い竣工となる。私がいつも主張しているように、道路や鉄道は完成してこそはじめて大きな経済効果が出るのだ。途中まででは投資効果が極端に悪くなる。敦賀まで早期に完成し、米原へのアクセス、京都へのアクセス、そして最終には新大阪へのアクセスが出来上ることを期待したい。
福田一衆議院議長がご生前に「野坂君新幹線は私が生きている内は絶対にこないよ」といっておられたのを昨日のように思い出す。あれから20年が過ぎようとしている。愚痴ばかりいっていても駄目だと自分にいい聞かせてはいるが本当に残念だ。せめて金沢駅まで来たお客に、福井まで足を運ばせる妙案を真剣に考える毎日である。

お祭り

2月21日
お祭り
幸福学会という新しい学際学会を、福井という地方から発信しようと考えている。その理由は、GNHを標榜するブータン王国に魅せられたことと、福井県が幸福度日本一の評価を得たことである。その前に私達の会社の社訓に、それをうたっていることがある。他者の幸福を願って仕事をすることを私達はめざしているのだ。ブータン王国は人口70万余りの小さな国であるが、各地に多くの地方色豊かなお祭りがある。主なお祭りだけでも24ケ所もある。日程は占星術によって決められるので変更になる事もあるが、主として9月と11月に数多く催される。5月と8月と12月はない。ブムタンでのお祭りが最も多く年8回もある。全国の祭の3分の1がブムタンで開かれるのである。かって文化の中心であったことの証左である。日本人もお祭り大好きという人が多い。日銀の福井事務所の前所長松原さんは任期中に福井県下のお祭りを研究された。福井の各地に残る伝統ある祭りを取材してくれた。お祭りは人を陽気にする。一体感をつくり出してくれる。身体を使い、大声を出したり、拍子や笛、カネ太鼓などでにぎやかにはやすので、ついつい身体が動き心が浮き立つ。お祭りは人を幸福にするのである。祭りが盛んなところ、音曲が生活に密着しているところには人を幸福にする何かがあるのは間違いない。

世界の大金持

2月19日
世界の大金持
ミリオネアといわれた大富豪がかってアメリカにいた。現在では世界中に2864万人のミリオネアがいる。「ミリオネア」とは100万米ドル以上の純資産を持っている人をいう。日本人の2012年のミリオネアは約358万人。世界中のミリオネアの内の日本人の比率は12.5%だ。アメリカの38.5%に次いで世界第2位となっている。3位はフランスの8%、4位はイギリス5.5%、以下ドイツ、イタリアとつづく。中国は3.4%で第7位である。韓国は0.7%の第17位。日本人は自信喪失している者が多いけれど、人口割でいくとアメリカと日本の差はあまりない。日本は世界有数のお金持ちの国である。日本の個人金融資産は1500兆円という莫大な金額となっている。そして毎年どんどん増加しつづけている。株式市場が活気を取戻しつつある現在を考えるとまたまた増加することと思われる。政治も行政も企業も、この世界一の個人資産を流動化させる道を見つけなければならない。高齢者が死蔵する資産を有効に使ってもらうことが急がれる。そうすれば景気はすぐによくなり、公共の負債は、順調に減少に向うであろう。

金は天下のまわりもの

2月17日
金は天下のまわりもの
「死蔵するな」と小さい頃からよくいわれてきた。金銭哲学である。近江商人の家訓に「仕末する」という言葉がある。これは「無駄使いをするな」との意味で、「死蔵するな」の反対語のように思えるが、実は同じ意味である。お金は「生かして使え」という意味で、「死蔵してもダメ」「ムダ使いもダメ」なのである。お金を生かして使うということは簡単ではない。一番よい使い道を常に考えている必要があるからだ。
「仕末は始末に通ず」即ち「けじめとおわり」が大切なのである。「入るを量りて、出るを制す」とも同意語であり、金銭の出入りはまず収入の多寡を勘案した上で、支出の用途を吟味せよということになる。いづれにせよ、金銭は大切なものであり、これをスムーズに流用させることに意義がある。日本銀行の発行する紙幣がまた日銀の金庫に戻るような現状ではいくら金融緩和といっても景気はよくならない。購買意欲を高める努力、投資意欲を高める努力が必要だ。株価や地価の上昇は景気回復にとって最も重要なポイントである。円安も製造業輸出関連のビジネスにとって何よりの朗報となった。

CO2問題

2月16日
CO2問題
建築士の友人から電話をもらった。CO2の増加が心配で相談に来たいという。早速データを捜して見て、その変化の激しさに驚いた。約20年前の世界の1990年のCO2排出量は約210億t、それが20年後の現在で約290億tとなっている。4割近く増えている。そして国別の排出量を調べてみて驚いた。中国が世界一のCO2排出国になっている。しかも全世界のCO2排出量の4分の1近くになっている。
   中国 11.0%→24% ロシア10%→5%
アメリカ23% →18%    日本 5%→4%
EU 19% →12%     その他29%→31%
インド 3% →6%
インドも増えているが、中国の4分の1に過ぎない。最近の中国の各地で、環境汚染が問題になっている。特に都市部や工場地帯での空気の異臭、視界の悪さは異常である。直ちに環境対策に乗り出し、美しい地球を守る運動の先頭に立ってもらいたいものだ。

森林

2月15日
森林
日本の森林は国土の約2/3である。福井県は70%を超えている。幸福の国といわれるブータン王国も70%を超えて、森の中の生活を楽しんでいるように見える。森林は水を保つので水源涵養能力がある。そして大気の浄化能力が、海洋と同様非常に強い。更に土砂流出を防ぐ力を持っており、私達の生活を根底から支えてくれている有難い存在だ。ところが世界的な森林伐採がすすみ、それが原因で温暖化ガス排出量が増えてしまっているという。増加分の約2割が森林の減少による浄化能力の劣化だとのこと。日本の森林は逆に成長を続けている。年間約1億㎥づつ増加している(林野庁発表)。しかし私達が外材を輸入することにより、外国での森林が激減しているのだ。森林は重要な資源である。しかも再生可能な資源である。世界的な視野で林業の活性化をはかる必要がある。それと同時に高齢化に悩む日本の林業にも、もっともっと光を当る必要を痛感している。森林は私達に活力を与え、癒しを与えてくれると同時に、地球上に住むすべての生命の生命維持装置であることを忘れてはならぬ。

ブータンミュージアム便り

2月14日
ブータンミュージアム便り
カタログを作れ、HPを作れ、ブータンミュージアム便りを作れと入館者の方々からうれしいご提案を毎日いただいている。予算が乏しくすべての要望にはお応えできないが、まずカタログらしき会員募集のパンフを完成。続いてメンバーの手作りのホームページを立ち上げた。次は定期的な発行の必要な会報の制作が残っている。本を発行したらとか写真集を発行しようよとのお誘いもある。一つ一つやり遂げていきたい。完全を期していたら何も出来ない。まず実行しようを相言葉に、半歩づつ歩き出す毎日である。

ブータンミュージアムの卓話

2月10日
ブータンミュージアムの卓話
ロータリークラブは毎週1回の定例会を開き、そこで卓話を行う。講師はほとんどクラブの外部から招くことが多い。今回福井あじさいRCから卓話の講師に招かれた。日本で唯一のブータンミュージアムを紹介するには余りに短かい時間ではあったが、無事につとめを果すことが出来た。ブータン王国は立憲君主制の国であり、仏教国である。GNHというユニークな国是を掲げており、今世界の注目を集めている。周辺国と数々のトラブルを起している中国(チベット自治区)とインドに面した小国である。武力でも経済力でもかなわない。月とスッポンである。しかしブータン国民は幸福を謳歌している。なぜなんだ。そこにブータンミュージアム開設の秘密がある。一度来館し「幸福とは」について再考する時間を持つことをおすすめしたい。小さなミュージアムであり、手作りのミュージアムであるが来館者は遠方から来られる方が多い。当然滞館時間は長くなる。私も遠方からの方々には、出来る丈直接お相手させていただいている。それが私のミッションであり、喜びである。

渋沢栄一翁

2月9日
渋沢栄一翁
公益財団法人渋沢栄一記念財団から毎月発行されている「青渕」という月刊誌がある。その編集局から「ブータンへの旅」という題名の寄稿文を依頼された。たまたま同名の小文を書こうと考えて準備を始めていたので、引受けることにした。既刊誌をとりよせて中身を見せていただいて驚いた。理事長渋沢雅英様をはじめ、執筆者の方々の専門性と識見と比較すると、私の文章が散文的に過ぎる。早速書き直し、写真2葉を選んで送る準備が終ったところだ。渋沢栄一氏は徳川慶喜公の身近にあり、福井藩主松平春嶽公とも深いかかわりがあり、幕末から明治にかけて陰に陽に大活躍をされた経済人である。今年は徳川慶喜公没後100年になる。この機会に寄稿を依頼され感無量といわざるを得ない。

2月8日

2月8日
太平洋ベルト地帯の安全性
南海トラフ沿いに発生が予想されている巨大地震とそれによる大津波の被害を避けるため、工場や重要施設の避難の検討がはじまった。海岸線から遠い奥地への移動や、高台への移設の計画についてである。更に心配する必要があるのが高速道路や新幹線である。そこで思い切って、日本海側国土軸の建設と新しい用地の提供である。日本海側は土地も十分余裕があり地代も安く、エネルギーの供給余力も十分あり、優秀で安価な労働力の提供も出来る。新国土軸への投資は太平洋側の補修や改修時のリスク回避にもなり、正に一石二鳥である。災い転じて福となるの言葉通り、変化をチャンスと把え、果敢に挑戦する必要がある。

大局観

2月7日
大局観
囲碁の世界で特に重視されるのが、盤上での全体の状況の把握である。これを大局観という。明治維新の前夜イギリス、フランス、ロシア、アメリカ、スペイン、ポルトガル、オランダ等がアジアを植民地化しつつアジア全域を植民地化し、清や日本をターゲットとして侵略の勢いを増していた。その時福井藩の橋本左内、横井小楠が世界のすう勢を正しく把握し、日本を破滅から救ったといっても過言ではない。私が主張する「明治維新」を完成させたのは福井藩を中心とする佐幕派だったという理論の根拠である。大局観を持つことで行動は正しくなる。キモに銘じておく必要がある。現今の混乱した情勢の中で、私達に求められるのはこの大局観を持つということだ。

株価上昇

2月5日
株価上昇
日経平均が12週連続で上昇中である。アベノミクスによるものといわれているが、12週連続での上昇は岩戸景気以来の大事件である。54年ぶりの上昇相場である。54年前とは私が大学を出て就職をした年である。買っているのは外資と個人投資家といわれているが、「マネーの供給量をふやす」と政府も日銀も足並みを揃えている。2%のインフレターゲットを決めたことによりインフレを期待して、物価は上昇に転ずることと思われる。マネーの流入先は株式と不動産に向うであろう。東証で1部上場企業の時価総額は320兆円を突破した。参議院議員選挙までは上昇するという意見もあるが、政府と日銀の合意によると、2014年1月から更に「資産買入れ等基金」の積増しが、無期限に継続して行われるとのことである。千載一遇のチャンス到来と考えることも十分可能である。

岡倉天心

2月3日
岡倉天心
岡倉天心の生誕150周年、没後100年の節目の年を迎えた。天心はボストン美術館の東洋美術部門の顧問として活躍し、日本の美術史上に光り輝く功績を残してくれた。横浜の地で英語を学び、漢籍を学び、東京大学開校(1877年)と時を同じくして入学した。当時の東大の授業はすべて英語で行われ、教師はすべてお雇い外国人だったので、天心はしばしば通訳をたのまれたとのこと。1878年アメリカよりフェノロサが来日、東大教師となり、生涯を決めた出会いとなった。東京芸術学校(後の東京芸大)の学長をつとめ、日本美術院を開設するなど大きな足跡を残している。その岡倉天心が英文による「茶の本」を出版したのは1906年である。茶の湯は日本文化の粋といってもいい過ぎではない。独特の建築、庭園、書道、華道、香道、日本画(南画も含む)、伝統工芸の数々を網羅し、日本食、菓子類を含めて一大系統をなすものである。このことに天心は気付き、西洋の科学、芸術に流されることのないよう「茶の本」に、インドに興り、シルクロードを通って大陸半島を渡り日本に至った「茶」について語っている。それは東洋美術が、西洋に負けるどころか数段上だといいたかったものと思う。フェノロサに心酔した天心は、二人の共通認識の上に「茶道」の完成を心から喜んでいる。岡倉天心の節目の年を迎えて英文の「茶の本」をブータン王国に送って、日本文化理解を深めてもらいたいと考えている。

アベノミクスの快進撃

2月2日
アベノミクスの快進撃
アベノミクスがもてはやされている。安倍首相の歯切れのよい政策が次々と打ち出され、それが株の上昇をもたらし、円安がすすみ、日本経済の先行きに希望が見えてきた。早速日銀の福井事務所の中嶋所長をロータリークラブの卓話に招き、前週の日銀の総裁のインフレターゲット2%の目標設定や、政府との緊密な連絡をとり乍らの超金融緩和策などについてのホットな解説を開いた。今のところ、全く文句のつけようがない程、順調にいっていると私は思う。日銀の独立性の危機をいう人がいるが、そもそも経済の安定的発展の役割りを担っているのが政府であり、日銀である。経済の安定なくして日銀の独立性など何の意義もない。大胆で有効な財政出動も同時に期待しているところである。

緑の回廊づくり

2月1日
緑の回廊づくり
福井市の中心部の地図を開いてみると、緑のところは、足羽三山と左内公園、県庁のお堀とそれに続く中央公園、小さな錦公園、お泉水だけだ。東京23区と比較しても、恥かしい程少い。戦争で荒廃した国土の再建のために植樹祭が行われるようになって60年をこえた。昭和天皇の平和への祈りと、都市再生、国土復興への強靭なご遺志を感じて深い感動を覚えるのは私だけであろうか。
福井市の街路樹、そして各町内会にあるポケットパークは私達に憩いをもたらす宝ものだ。各町内にある空地を活用して、そこに花壇を作ったり、木を植えると面白い。真珠の首飾りのように、空地と空地が緑化され、街路樹がその緑地をつなぐ並木道で結ばれていく。考えただけでも面白い。空地で成功したら、次は空家を考えていきたい。夢は無限である。

緑の回廊づくり

2月1日
緑の回廊づくり
福井市の中心部の地図を開いてみると、緑のところは、足羽三山と左内公園、県庁のお堀とそれに続く中央公園、小さな錦公園、お泉水だけだ。東京23区と比較しても、恥かしい程少い。戦争で荒廃した国土の再建のために植樹祭が行われるようになって60年をこえた。昭和天皇の平和への祈りと、都市再生、国土復興への強靭なご遺志を感じて深い感動を覚えるのは私だけであろうか。
福井市の街路樹、そして各町内会にあるポケットパークは私達に憩いをもたらす宝ものだ。各町内にある空地を活用して、そこに花壇を作ったり、木を植えると面白い。真珠の首飾りのように、空地と空地が緑化され、街路樹がその緑地をつなぐ並木道で結ばれていく。考えただけでも面白い。空地で成功したら、次は空家を考えていきたい。夢は無限である。

感動を下さい

1月31日
感動を下さい
ブータンミュージアムを訪れる方は、憩いを求めたり、癒しを求める方が多い。長い方は1時間も2時間も見てまわっている。私は「語り部」の役目をひきうけて、説明をさせてもらっている。私以上にブータン王国をよく知っている方もいる。説明をしていて恥かしい事があったり、逆に大きな感動をいただくことがある。「ぜひブータンへ行きたい」「もう一度ブータンへ行きたい」「連れていって下さい」といわれる方々が多い。5月の連休明けに、8日間の「ブータンへの旅」を企画している。もう一度「感動を下さい」という方々のために、ない知恵を絞って「ブータンへの旅」のベストプランを練っている。

なぜなぜなぜ

1月29日
なぜなぜなぜ
「なぜだ」という追求を何回もくり返して行うのがトヨタ流である。これを5回くり返せといわれた。1980年のことだ。今から33年前。私の頭の中で、近江商人流の思考方法とトヨタ流のそれとが激しく化学反応をしていた頃のことである。問題の解決方法を見つけるには、その原因を追究するのが手っとり早い。トヨタ流はそれを5回くり返せば、問題の本質が見え、正しい解決方法が見つかるという。当然すぎることで何も新しいことと気がつかない人が多い。ところが実行する段になるとこの「5回」が効いてくる。4回目位いから、トヨタのこわさに気がつき出す。「5回目」のなぜにいく前に、問題が殆ど解決してしまっているのに気づかされる。それ以来私はトヨタ流の「なぜ、なぜ、なぜ」を5回くり返す問題解決方法を忠実に実施している。ありがたいことだ。

福井経済クラブ

1月27日
福井経済クラブ
上部団体のない社団法人「福井経済クラブ」がある。創立以来40数年が経過し、活動をつづけている。私で8代目の理事長である。今年の新年会は久しぶりに明るかった。メンバーの各氏の祝事が重なった。まず山崎正昭氏の参議院副議長就任が決まり、稲田朋美さんの行革担当大臣就任、そして畑孝幸氏の県議会議員の補選トップ当選の朗報がつづいた。クラブの会員から一挙にこれ程の慶事が次々と続くことはめったにない。更にアベノミクスによる円高、株高、金融緩和の実現である。今迄は何も決断しない政治、何も決定できない政治が続いていた。これを安倍総理の就任により、明るい未来が期待できそうである。
私は今年は「一年遅れで来た昇龍の年」と位置づけている。次回の参議院議員選挙までのお祭り騒ぎだという皮肉な意見もあるが、現実に株が動き、円が動き出している。低滞の長かったことを思えば、今年に期待する人々が多いのは当然である。福井経済クラブも号外の便りが出せる程新メンバーの加入をすすめていきたい。

ブータン王国からの便り

1月26日
ブータン王国からの便り
ブータンミュージアムをオープンして以来、全国各地から福井のブータンミュージアムを訪れるお客様がふえている。しかも目的地として訪れてくれている。休館日は毎週月曜日と表示しているが、目的地として遠方から来訪してくれるお客様を休館日だといって帰すわけにはいかぬ。中で仕事をしているとついつい扉を開けてしまう。聞いてみると遠方より来られたとのこと。先週も京都から僧形のお客様を迎えた。ブータン王国は仏教を国の宗教とする世界唯一の国である。その為、仏教関係者の来館が多い。幸福と信仰心の強い関連性を認識し、心が安らぐのを覚える。イスラム教やユダヤ教の信者が、自分達の宗教を信じるあまり、他の宗教の信者を排除するのを、毎日ニュースで見ていると、仏教の教えの深さ、愛情の広さを感じずにはいられない。今週もまたブータン王国の友人、向井純子さんから、世界仏教大会(インドAG県にて開催予定)に関する便りがあった。

ブータン王国への旅

1月26日
ブータン王国への旅
昨年4月から5月にかけて、生まれて初めてブータン王国を訪れた。行く前から予備知識を十二分に仕込んでいった。なにしろ訪問先がすべて標高2000m以上の高地なのだ。峠といわれる所でも3000mをこえる。白山や立山、富士山の日本三名山の項のあたりを毎日走りまわる旅だった。訪問した先はパロ博物館へ2回、ブータン研究所長ダショーカルマウラ宅、内務文化大臣ミンジュ・ドルジ宅、プナカゾン、ティプーゾン、パロゾン、そして伝統工芸学校、音楽学校、JICA事務所、和紙工房などを訪問した。ブータンミュージアムの展示品の収集についてはアマンコラホテル、ティンプーの骨とう店、洋装店をまわった。民族楽器(4種類)については音楽学校の校長に依頼。ダショーカルマウラにも協力依頼。
半年経ってから今一度ブータン王国への旅を反省してみると、ブータンは何と美しい国か、何とすがすがしい国かがよくわかる。快晴の日の空は青く澄みわたり、森林の緑の色が美しい。風は爽やかでどこへ行っても柔和な人々とあえる。子供も老人もニコヤカで、こちらもつい引きこまれて笑ってしまう。ブータンミュージアムをオープンして以来、来場の方々から是非行きたいと要望があり、今年の5月にツアーを組むことにした。今、JTBやブータン観光局と打合せをはじめている。
問合せはブータンミュージアム(tel、0776―22―0011)へどうぞ。 

新年会

1月25日
新年会
福井県の特徴なのか、それとも全国的なものかわからないが、かって各町内に町内会という地域の組織があった。今は自治会という。その自治会が新年会を行う。地域の人々が顔を揃え、年頭の挨拶をする。そして事業報告と会計報告を行う。私の会社は各自治会にコインパーキングがあるので福井市内の中心部の自治会にはすべて加入している。現在は加入が自由意思となっているので、参加してみると出席者は予想よりも少い。しかし地域の絆を強くすることで、「幸福」を実感できると信じている私は、この新年会に出来る丈顔を出す。先週は大名町の自治会と足羽山の愛宕自治会、今週は大手町の自治会に出席。久しぶりに顔をあわせる知人と楽しい一時を持てた。確かに絆を強めることで幸福を実感できる。ありがたい。

新しい時代

1月24日
新しい時代
グーグルは無料で商品を配付して、莫大な利益を稼いでいる。商品を特別割引してお客をひきつけさせる企業がある。また商品をサンプルとして無料で提供し、お客をファンとして囲いこむ企業もある。今迄の商品の常識では考えられない方法が、実行され、成功している。よく調べてみるとコンピュターのネットワークを活用した新ビジネスであるケースが多い。サービス業が第1次産業や第2次産業を大きく引きはなし、今ではサービス業の比率はどんどん上昇中だ。しかもコンピュター化がすすんでいる。昨年末には世界一のニューヨーク証券取引所(NYSE)が、創業12年の新興のネット企業、アメリカのインターコンチネンタル取引所へ身売りした。世界一の企業でも200年近い歴史と伝統を持った企業でも、時代の変革の大波には勝てないのだ。新しい時代をしっかり認識し、変化に、速やかに対応していく必要がある。どんな優良企業でも油断は出来ない。

世界の潮流

1月22日
世界の潮流
円高から一気に円安の方向に進み出した。しかしポルトガル、アイスランド、イタリア、ギリシャ、スペインの財政危機はつづいている。そしてアメリカの金融コングロマリットに対する放任主義、財政拡大路線も同様につづいている。かってイギリスポンドが世界の主軸通貨の座をドルにゆづったように、アメリカドルは約30〜50年かけて、主役の座を明けわたすのであろう。その時期が来ている。しかしあと10〜30年が残されている。ドルの次の主軸通貨として期待されてきたEUのユーロは、世界の金融危機の震源地として、その不安定さを露呈して期待に答られそうにない。日本円はここ20年間に逆に低迷期に入り、信頼がゆらいでいる。そして中国元は、共産党の一党独裁の幣が残り、共産主義とは似ても似つかぬ格差社会が出来上っていて、世界の不安の源となっている。元の交換比率がフロートしていないところにも大きな問題が残る。金はもはや巨大化がとどまらない世界経済の基軸通貨としての役割はムリだ。いくら考えても、かってのイギリスポンドやアメリカドルのような強力な通貨が見えてこない。現今の不透明さや、不安の元がそこにあるように思えてならない。現物経済の数十倍、数百倍にも巨大化させてしまった金融世界への反省がまず必要である。アベノミクスにより、円高が是正され、株価は久しぶりに1万円の大台にのった。自民党復活への期待は高まっている。

オバマ大統領が掲げた「変化」

1月20日
オバマ大統領が掲げた「変化」
挑戦を私達の会社は創業以来掲げている。「変化はチャンスだ。チャンスに挑戦しよう」とその言葉の頭の部分である「CHA」をとって、この「CHA」を社是、社訓としている。昨年福井県の西川一誠知事が連日のようにテレビニュースにとり上げられ、大飯町の時岡忍町長ともども注目されていた。迷走をつづける民主党政権の下、立地県の行政の責任者として、ぶれない発言とその主張は、今となっても信頼に足るものであった。
昨年7月末の知事の発言をもう一度思い起した私は、二度ビックリした。その時は6月29日に新幹線県内着工が決定し、大飯3号機は7月9日、大飯4号機は7月25日にフル稼働した直後である。原発の発電能力は118万KW時2基で236万KW時であるがその電力を活用して揚水し、水力発電を行うので実力は446万KW時となる。この能力を動かすことにより、日本経済の壌滅を避けることが出来たのを知っている日本人は少い。その直後の7月末日に西川知事は「転換期を飛躍の好機に」というテーマで「チャレンジ」の必要性とその中身に言及された。正に「CHA」そのものであり、深く感銘をした。その時の発言の重さ、正確さに二度ビックリしている今日この頃である。

過剰債務

1月19日
過剰債務
バブル時代の金融機関による過剰融資により、日本経済には大きく過剰債務が広がった。
国や県・市・町や第3センターの過剰債務の大きさは国際的に見ても異状に大きい。企業や個人の過剰債務はこの失われた20年の間にほぼ健全なラインまで戻ったようである。
特に個人の住宅ローンはアメリカのサブプライムローンのような緩い審査でなく、誠に厳しいもので、過剰感はなくなった。逆に毎年個人の金融資産はますます増えつづけている。デフレ時代といわれる中で、リスクをとる企業が求められる。資金を積極的に使う企業が必要なのである。デフレ脱出を安倍政権がすすめているが、リスクテーク出来る環境をつくらなければ、実現は危い。

あなた幸せですか

1月17日
あなた幸せですか
ブータン王国の人々は、貧しそうに見えるけれど、自給自足に近い生活をおくっている。だから精神の安定度が高く、悪いストレスがない。大らかな自然の中で生活しているので、皆さんが明るい。「こんな生活があったのか」と胸が熱くなった。
ないものは物々交換で手に入れる生活だ。面白いと思ったのは、標高3000mの所に住んでいる家族がいる。ヤクの放牧で生計を立てている。2000m以下の下界で農業を営んでいる農家がある。そのヤクの放牧の畜産家と米の栽培に力を入れている農家は何世代にも亘って、親戚以上のおつきあいをしているという。ヤクの油脂やほし肉を他の野菜や米と交換するのだ。正に生活の知恵である。家族以上のおつきあいだという。
ヒマラヤから吹く風が人間の心を清めてくれるのであろうか。
風の国という言葉がピッタリの国である。

社長になりたい人

1月12日
社長になりたい人
金もないが、就職もしたくない若者がふえている。聞いてみると社長になりたいという。福井市はそんな若者に独立開業のチャンスを与えている。そんな夢を持っている人の相談に乗っている。JR福井駅前の私達のエコライフプラザで私達は独立開業のスペースを提供している。市の補助もあり、独立のチャンスをつかむにはよい機会だと思っている。自営業は本人の努力次第で経営も安定し、立派な企業に育てると子孫への事業継承も可能だ。チャレンジする人に応援したいと思っている。

女性の活躍

女性の活躍
日本女性の活躍が目立ってきた。緒方貞子さんの国際的な活躍につづいて、世界銀行の副総裁を勤められた西山美恵子さんの活躍がきわだっている。先日国交省の観光庁を訪問した際に、元JALのCAをされていて現在ワインや日本酒のソムリエやコーディネーターをつとめている平出淑見さんの「SAKEから観光立国を夢見て」という小論文を渡された。日本酒を世界の檜舞台に押し上げようという趣旨。私の日頃考えていることとあまりにウリ二つで驚くと同時に、一緒に何かやれないかなと愚考を重ねている。最近特にそんな女性の活躍が目につき、喜んでいる。ブータンミュージアムを訪れてくる方々の中に高学歴の優秀な女性が多い。これからの日本をひっぱっていく最前線に立ってほしいものだ。
今回の衆院選で福井一区当選した稲田朋美さんが大臣に就任した。将来初の女性首相候補として県民の期待をあつめている。

ブータン政府観光局

1月10日
ブータン政府観光局
ブータン王国への興味がふくらんでいる。昨年ブータン国王ご夫妻が国賓として日本を訪問し、東日本大震災の被災地を慰問された。その爽やかな笑顔と暖かい優しい心にふれた私達日本人は、ブータンへの親愛の情を益々深めることとなった。その為か今年に入ってブータンへの日本人観光客が増加し、今年はアメリカからの観光客を追いこした。
ブータンの産業の第一は水力発電の電気をインドへ売っている。その次の産業が観光業である。世界でも珍しいほど自然環境に恵まれている。更に景観は独特であり、仏教を国教としているので、国民生活に宗教が深くかかわっている事に気付く。観光資源には事欠かない。
今迄ブータン王国にしかなかった「ブータン政府観光局」を本年早々より東京へ出すとの連絡をブータン政府から受けたのは1ケ月程前のことである。早速、ツジ・ドルジ・ナディツさん(日本の責任者)に逢い情報交換を密にすることとした。ブータンには前JTBの菅茜(すがあかね)さんがおり、いろいろ連絡をいただいていたが、ブータン人が東京に常駐するとのこと、心強い限りである。
ブータン王国が観光立国をめざして国づくりに精を出すのは当然のことではあるが、ブータンファンの私にとってはあまり急激な変化は、環境を破壊したり、文化遺産の維持に困難をきたさないかと心配している。賢明なリーダー達を思えば私の心配などは、取越苦労であろうと自らなぐさめている。

朝倉三代

1月8日
朝倉三代
日本の中世のまちがそのまま残っているのが朝倉家の本拠地一乗谷である。まん中を清流が流れ、その両側に山が狭っている。川上に土塁を築き上城戸、川下を下城戸と呼び、一見頑固な要塞に見える。この一乗谷が脚光を浴びている。加賀百万石の前田家がめざした文化国家は朝倉三代が築き上げた一乗谷、この小京都と呼ばれる朝倉遺跡である。一乗谷へは戦火で焼け出された遊芸の人々、公卿、僧侶など、数多くの文化人が、京都をはじめ全国から集ってきた。地中深く眠っていた数々の物証が、今掘りおこされつつある。文化国家をめざしていると、武力により征服されるというのは、歴史が証明する事実である。しかし武力は必ずまた他の武力によって滅亡させられるのも歴史が教えている。
私が興味を持っているのは、一乗谷で行われた茶の湯。後の茶道の原型である。千利休の佗び茶の隆盛の前の時代の「大名茶」、「書院での茶文化」である。朝倉三代(私は五代と呼び換えてもよいと考えている)がつくった一乗谷文化をひもとくことによって、新しい福井のめざす文化都市、文化県が見えてくる。人々が集う所、人を魅きつける所、それは文化である。

珍客万来

1月6日
珍客万来
ブータンミュージアムを11月17日オープン以来、殆ど毎日思いがけない珍客をお迎えすることが多い。
先日は、前インドブータン大使の堂道JICA副理事長をお迎えした。何の前ぶれもなく突然のご訪問であったが、オープン時に来賓として参列していただいて以来、約1ケ月ぶりにおあい出来た。
この他に、金沢大学の学生が卒論にブータンを選びたいと研究に来館した。栗原事務局長を交えて、種々な質問に応えた。
その日はインドのデリー大学の大学院を出た女性が、北インドの僧院で世界仏教会議が来年開催されるので日本からも招待したいとの伝言を持ってきた。永平寺と薬師寺の知人に問合せてまた連絡すると返事した。
渋沢栄一記念会からもブータンの紹介文を書いてほしいとのお申出をいただいた。
地元の新聞テレビ雑誌よりの問合せも多い。東京出張を除くと、私は毎日ブータンミュージアムにいることにしている。
刺激的な出会いが多く、楽しい時間を過すことが出来て有難い。

人間国宝

1月5日
人間国宝
国の宝は人間だ。しかも光り輝く人間よりも、この道一筋に研鑚を積み、一芸を極めた人を国の宝と呼びたい。この人間国宝が福井県は少ない。伝統工芸の永い伝統を持つ福井県としては誠に歯がゆいところである。
業界一名とかいうルールがあるとしても、業界の線引きの仕方でどうにでも変る。私は人間国宝の数を倍増することにより伝統産業は活気づき、若手作家は明るい未来を信じることが出来ると考えている。
そして近隣の石川、滋賀、岐阜の伝統工芸をめざしている人々を吸引する力にも成りうるであろう。
人間国宝を倍増すると同時に、伝統工芸士も大幅に増してほしい。福井県を日本トップクラスの文化県にするにはそれが早道である。
自民党代議士4名、参議院議員3名(山谷えり子さん)の方々が力を合わせれば事は成ると信じたい。

美意識

1月4日
美意識
江戸時代までに日本人の美意識が完成されていたという説がある。仏教は鎌倉時代に日本化がすすみ、芸能は安土桃山時代に独自の発展をした。源氏物語や枕草子は遥かに古く、日本家屋も平安時代に日本の風土にしっかりとなじんでいった。そして現代でも続いている「床の間」という一帖ほどのスペースの中に凝縮しているのが日本の美意識である。日本人の持つ繊細で、清潔で、質素な中に気品を感じるこの小宇宙には、掛軸がかかり、花が生けられ、時に香がたかれたり、置物が飾られている。それが最近では日本家屋からタタミや障子が消えていくと同時に、床の間や違い棚がなくなり、日本の美意識の象徴であり伝統文化の精華である掛軸や床飾りがない。明治に日本を訪れたフェノロサやブルーノタウトが絶賛した日本人の美意識を、もう一度思い起し、子々孫々とまで伝えることを、私達は忘れてはなるまい。

自分の物語を紡ぐ

12月27日
自分の物語を紡ぐ
私達は毎日何かにせかされているかのように、あくせくと働いている。特に都会で働く人達はそうだ。海辺の人達はあくせくしない。山間部の人達は逆にアリ型が多い。海洋型の人達の食べものは魚類で、これはいつでもとれる。山間地の人達の食べものは年1回の収穫が多く、運がわるいとよい話がこない。そんな時はこつこつ貯めたものを提供してくれる人は少なく、自分の貯えがないと大変だ。だから蟻のように貯めることに力を入れる。日本人は蟻型人間の方が多いように思う。
いずれにしても一人一人が自分で自分の物語を紡いでいくことにより、新しい未来が開けてくる。希望や夢が生まれてくる。自分流でいいのだ。そこから自分の幸せだけでなく、まわりの人々の希望や夢に大きくつながっていく。そして社会全体が幸せになれるのである。天才といわれてきた人々の生き方はユニークである。まわりの人達と違う。独自の生き方、やり方をとっている。アフリカの父といわれたシュバイツアー博士を見よ、身近な人ではアインシュタイン博士、あるいは白川静博士を見よ。IPS細胞の山中伸弥博士は臨床医をあきらめて研究者の道を、ベコボコ道を、多くの人の助力を得てノーベル賞を受ける程の高みに登った。自分の物語を紡いだ結果であると賞賛したい。

変化の哲学

12月26日
変化の哲学
すべての物事は未完成である。あらゆる事象は常に現在進行型で変化しつづける。私は急成長型を最初から求めることはしない。自分にやれると思われる事から着手する。やり易いか、やり難いかどちらを選ぶかは決めていない。だが後で気付くと、やり難い道を歩みはじめていることが多い。
自分が変る。私が変ることによってまわりは変る。目に入る世界が動き出すことによって大きく変化するのだ。
昨年にブータンミュージアムを創設しようと思った。最初は「ブータン博物館構想」を作り上げた。そして日本各地をまわって「ブータン王国」に関する展示会、研究会、研究所、ミュージアム、領事館そしてコレクターの方々におあいして勉強をさせていただいた。
その中で「ブータンミュージアム」の構想に変化が出だした。博物館学を学び学芸員と知巳になり、博物館の法律に合致する博物館を知るにつれて、考えが変りだした。最初から完全な博物館を作るのではなく、もっと自由で展示や収蔵にあまり力点を置かずに、入館者にブータン王国の幸福と福井県の幸福を比較し、癒される空間を作りたいと思うようになった。ミュージアムで幸福を実感してもらい、感謝の生活が送れるように心のもちようを変えてもらいたいのである。
長い時間をかけてバージョンアップをしつづけるミュージアムにしていきたいのである。幸福を追求することが人生究極の目的である。それも自分の幸福でなく他の人の幸福、世界の人々の幸福を追求することで世界平和が実現すると信じている。

キャリアデザイン

12月25日
キャリアデザイン
指定管理者制度がある。官公から民への流れの中で、今広がりつつある。全国の美術館や博物館をまわってきて、最近気づくのが、民営の施設がふえていることだ。経営が完全に民営というのではなく、一定期間(3〜5年契約)で管理を請負うのである。予算をしっかり確保する必要があるがそこで働く人達が生き生きと動きまわっているのに驚いた。
ミッションは地域の文化遺産を掘り起し、それを活用して人々が楽しく交流する場を創造することである。新しい職場の創造である。活性化した職場を創り出し、人々のキャリアデザインの為の場の提供だ。多くの人達の人生を支援し、キャリアデザインをするそんな仕事が美しいと思う。

アナウンサー・キャスター

12月21日
アナウンサー・キャスター
テレビを見ていると、アナウンサーやキャスターによって番組の魅力が大きく変ることに気付く。騒々しい人だとついチャンネルを変えたくなるのは、年令のせいだけだろうか。NHKを見る時間がふえている。私は国谷裕子さんが次々と外国の要人を相手に英語で話してインタビューをこなしていく姿を見ていると頼もしい。女性の時代が来ると平和になるといわれているが、彼女の話によると、日本の現状はまだまだだという。女性の半分以上が非正規雇用だという。福井県でもそうだ。そして女性管理職は1割以下だという。
これも福井県でも同じだ。共稼ぎの率の高い福井県では女性の職場は少なくないが、女性の職場の仕事の質を高めることが求められよう。最近マスコミの人達からインタービューを受けることが増えているが、その殆どは女性である。知性あふれる彼女達は魅力的だ。社会の変化のスピードが早くなっていくようだ。国谷さんの活躍につづく若い女性達の出現を期待しょう。

ふくい工芸舎

12月20日
ふくい工芸舎
越の国はかって匠の国であった。そしてその中心は府中。現在の越前市周辺である。1500年〜2000年の歴史を持っている。歴史をくだって室町時代から江戸時代初期においても、加賀(現在の金沢市周辺)とは比較にならない程の、高度な伝統工芸の技街を保持していた。その後加賀前田家の伝統工芸など伝統文化の育成政策により、周辺は勿論、京や江戸からの人々を集めて、金沢は一大伝統工芸の拠点を形成してきたのである。今や金沢は天下にその名を高め、日本全体から娘をつれた母親達が喜々として集うまちになっている。
その裏には、まちの景観をつくり変える努力、旧蹟を守る努力など行政面の手厚い保護があった。同時に人間国宝や伝統工芸士を数多く輩出する為の、目に見えない努力を忘れることは出来ない。
8年前に、私は福井県の伝統工芸を、その長い眠りから蘇生させようと、「ふくい工芸舎」をオープンした。和紙、陶芸、漆器、打刃物、染色、織、木工芸などの作家を守り、若手を育成するという、壮大な夢を掲げての、小さな第一歩であった。以来8年、今日はふくい工芸舎誕生の日を迎えた。感慨無量である。多くの愛好家を集めることが、出来た。若手の作家達に発表の場を提供することも出来た。しかし500年前、1500年前の伝統工芸王国の復活をめざすという、私の夢の実現にはほど遠い。
これからは、市、県、国への働きかけを強めて、伝統工芸士や人間国宝の数を十倍にする為のお手伝いをしょうと考えている。また再びスタート台にもどって、「ふくい工芸舎」の土台づくりに着手したい。

幸福の国づくり

12月19日
幸福の国づくり
18世紀イギリスのベンサムは「国民の最大多数の最大幸福」が民主主義の法理であると主張している。ブータン王国の第4代国王は、ブータンはGNPの最大化を求めるというよりも、GNHの最大化即ちブータン国民の総幸福量を最大化することを国家の目標としていると主張された。
現在世界中の約200ケ国の元首の内、この様に進んだ国家目標を掲げている人がいるとは私には思えない。しかし歴史上の哲学者、宗教家、科学者でこのような考えを持った人はベンサムやブータン前国王だけではない。
幸福指数で上位を占めたのは、福井県だけでなく、かって「越のくに」といわれた福井、石川、富山、新潟のランキングが突出して高い。1500年前の継体天皇以前から長くつづくDNAのようなものが影響しているのだろうか。
幸福のキーワードを強いて上げると「共生の時代」に必要なものの姿が浮んで来る。まずノーベル平和賞の対象になった言葉「もったいない」である。次に、「感謝の気持」が大切である。昔風にいうと「おかげさま」である。最後は「ほどほどに」という言葉が有効だ。「足るを知る」ことは神佛でないとなかなか実行が難しいフレーズである。
幸福の国づくりをまず地元福井で完成させて、後は若い後継者に引継いでもらいたいと考えている。

感動を下さい

12月18日
感動を下さい
先日テレビニュースで愛知県豊川市の信用金庫で立てこもり事件があった。その数日前のことだった。豊川市の今井貢さんが一年かけて制作したブータン王国の国旗にかかれている龍の鏡の彫刻をブータンミュージアムに寄贈したいとの申出をいただいた。そしてその大きな鏡を6ツ折のびょう風仕立てにしていただいた。そしてその重い鏡の作品をご自分が車に乗せて、運転をして届けていただいた。到着した鏡は6ツに分解されていた。元通りに組立るのに半日かけて完成した。それを聞き知った中日新聞が取材に来た。女性記者だった。彼女の話によると、「自分の上司が最近豊川支局から転勤してきた」とのこと。今井さんは「彼は私の所へ何度も取材に来てよく知っている」何という奇遇であろうか。
無私の心で寄贈していただいた今井さん。取材に来た女性記者とその上司。何の脈絡もなかった私達が「鏡の龍」でしつかりつながった。これは「ブータン王国」が私達を一本の糸でつないでくれた瞬間だった。

夢への挑戦

12月17日
夢への挑戦
人はみな夢を持っている。夢などないという人がいるが、心の奥底には何かがあるはずだ。夢への強い思いこみがあれば夢は達成できる。夢の実現に対する欲望が強ければ強いほど夢へ近づくことが出来る。
夢への思いの強弱は、人によって大差がある。この差が人それぞれの能力の差になってしまう。それが判ればどんな事でもなしとげることが可能になる。私は夢が大きければ大きい程その人の人生は大きくなると信じている。

ファンロンEU大統領

12月14日
ファンロンEU大統領
「平和来て夢は実現ノーベル賞」という俳句を作ったのはEU大統領のファンロン氏である。今年のノーベル平和賞がEUに与えられることとなった。その喜びを俳句にこめたという。ノーベル賞の中で平和賞は少し他の賞と違って、時々大きな反響が出る。受賞に反対する意見が出たり、受賞の根拠に対する疑問が投げかけられるのである。今回もそんな意見が多い。私も同じ意見である。ただなぜ俳句で喜びを表わしたいのか。それが知りたかった。俳句は世界一短かい日本独特の詩の形式である。なぜ俳句(英文)で喜びを表わしたのか。この根拠を追求する方が面白い。日本文化が世界の各方面で深く浸透していくのは楽しみである。

酒蔵めぐり

12月13日
酒蔵めぐり
観光バスをチャーターし、酒蔵めぐりの旅に出た。総勢12名大雪の中を一路奥越の源平酒造をめざした。大野盆地は山紫水明の地だ。白山山系の山々が、石川県、岐阜県、福井県の県境に立ち並んでいる。そこから溶け出す万年雪の白山伏流水を天の恵みとして、この大野盆地には今でも老舗の酒蔵がある。
その一つ源平酒造を訪れた。昨年会社更生法を申請して一時休業をしていたが、東京のIT企業の若い経営者が引受けたと聞いていた。その社長萩原敦士さんに逢った。丁度NHKのテレビ局が取材中で、私達のメンバーも撮影に協力。私は休業中の間も、在庫の地酒「萬寿恵」という三年古酒を中心に、ずっと愛飲していたので、源平酒造の再出発を知り、今日の蔵めぐりで、また訪れたのである。萩原社長は予想していたより遥かに若かった。
私のことをよく知っているとのこと。その理由は、私が小松空港の出口に「福井県の地酒」をPRする大きな看板を掲げているのを見て、興味を持ち、投資したとのこと。本当にうれしかった。尊縁とか一期一会とかいうが、すばらしい出会いに恵まれた一日となった。

(社)福井経済クラブ

12月12日
(社)福井経済クラブ
福井には40年余り前に地元の経済人が集まってつくった経済団体がある。その理事長をお引受けして既に1年以上が経過した。会員各位のご協力により、厳しい経済情勢の中、会員数は少しづつ増加中である。他の団体と根本的に違っているのは上部団体のない完全な自主自立の団体である。それだけに油断すると崩壊の危機に直面する。いつも気をはっている必要がある。今回正会員の畑孝幸さんが、県議会議員として立候補された。長年の友として、善戦を祈っている。

年賀状

12月11日
年賀状
師走となり、年賀状を出す候となった。今年をふり返り、何を書こうか、また来年の展望について、何を書こうかと考えている。ブータンミュージアムの開設と日本ブータン幸福学会の設立が私にとっては生涯の最大関心事である。ブータンミュージアム開設のため、今春ブータン王国を訪問した件と、運営母体としてNPO法人幸福の国を設立したこと、そして学会設立のためブータン研究者やブータン王国ゆかりの人々、そして「幸福学」「GNH」「希望学」「QualityofLife」の研究者達を訪ね歩いてほぼ1年が過ぎた。13人の発起人の方々のご賛同をいただき、いよいよ来春にスタートをしたいと考えている。それを年賀状にふさわしい文章にまとめたい。

ブータン王立研究所

12月10日
ブータン王立研究所
昨日ブータン王立研究所から「幸福を描いた絵」がとどいた。首都のティンプ−市内の小学校、中学校の5校から全部で61枚を送ってくれた。送付依頼してから既に半年近くが経過しているので心配していたが無事到着して安心した。
ブータン時間の流れはゆっくりと進んでいるようで、私達との差にいつも驚かされる。
絵の出来はとてもすばらしい。よく見ると、伝統工芸美術学校の生徒達のものも含まれている。早速展示会の企画委員会を開いて、イベントの概要を決めたいと思う。「幸福」についての解釈は日本もブータンも大差がないと思うが、福井のみなさん、日本のみなさんはどう感じてくれるだろうか、楽しみだ。

新島八重

12月7日
新島八重
来年のNHKテレビの大河ドラマは「八重の桜」と決まった。新島八重は、同志社の創立者新島裏の妻であり、山本覚馬の妹であり、JDディブィスはキリスト教入信時の司祭、結婚式時の司祭であった。新島八重は同志社創立者の3名すべてと深い縁で結ばれていた。正に4人目の創立者と呼んでもよい。
その新島八重の生涯が大河ドラマになるというので、私達同志社人はOB、OG共に大きな期待で胸をふくらませている。
会津城落城の戦に敗れてとらわれて後、キリスト教弾圧の中の京都で、洗礼を受けて新島裏と共に同志社英学校で進取の気象を持つ子女の教育に延身した新島八重の姿を想像しながら、年の明けるのを待っている。困難に果敢に立ち向う姿から、私達は、多くのことを学べるのではなかろうか。

発電する繊維

12月6日
発電する繊維
繊維王国フクイを忘れていない人は少くなった。かって福井は繊維王国といわれ、日本唯一の人絹取引所があり、その周囲には大手商社の支店が軒をつらねていた。戦後の所得番付には機屋といわれた織布会社やその関連業界の企業の経営者が名前を並べていた。
今や大手商社の支店はゼロとなり福井での繊維産業の火は消えたと思っている人が多い。ところが現在でもなお繊維製品の年間出荷高は人口割では日本一を維持している。そして今回「発電する繊維」の誕生のニュースが流れた。直径1.2mmの球状太陽電池を数珠状につないだ糸を開発しこれを横糸にして織物にしたものを新たに開発したとのこと。正に可能性抜群の考え方である。発電の出来る布とは、その用途は多い。暖房カーテン、災害用テント、寒冷地の外とうなどすぐ思いつくものがいくらでもある。炭素系の粉末を肌着に縫いこんだものを開発され、今や世界中でブームになっているものがある。丁度15年程前にNASAから帰国された故酒井弥博士からアイデアをもらったことを思い出す。私達は石けんとか、テレビの電磁波防止用のものとか、部屋の消臭剤とかに、活用しようとしたが、実用化にいく前に、酒井博士が死亡されて開発の中止をやむなくされた。その後温かい肌着のブームが到来したのである。今回はそのテツを踏まずスピーディに実用化されることを祈りたい。

泰澄大師

12月5日
泰澄大師
福井県の歴史上の人物の中で最も興味をひくのが継体天皇と並んで泰澄大師である。
泰澄(682〜767年)は山岳信仰の祖とされ、86才の長寿を全うしたが、その生涯を通じて数々の造寺、造佛の伝説を持っている。最も有名なのは727年元正天皇の病気平癒を加持(40才の時)し、翌年「神融禅師位」をいただいた。56才の時には都を中心にホウソウが流行しこれ鎮めて「大和尚位」と「泰證名」をいただいたが、特に乞って「泰澄」に直してもらったという。
私が興味を持ったのは、「行基」との関係である。泰澄と行基が白山で出会っていたとの記述である。35才の時以来白山に参籠していた泰澄が44才になった時に、行基が白山の泰澄を訪ねて来たのである。賢人相まみえるというが今考えてみても劇的な出会いであったことと思われる。
更に55才の時には泰澄が玄靴鯔ねて「十一面経」を特授されたとのこと。泰澄と十一面観音の出会いを裏付ける重大事と思われる。
その翌年にホウソウの流行を鎮めたのは「十一面経」の法力であった
泰澄生誕1330年を迎えて、「越のくに」の諸方から、若狭、山城、大和、近江と広範な地域に点々と残る山岳信仰、観音信仰、特に十一面観音信仰の始祖ともいうべき泰澄像の再評価が高まることを願っている。

小さなお客様

12月3日
小さなお客様
ブータンミュージアムがオープンして早や半月近くが過ぎ去った。
毎日来館者の方々と挨拶を交していると、いろんな気付きがあり、有難いことだ。先日宝永小学校の5年生だという男子生徒が3人で来てくれた。ブータン王国と福井県の違いを知りたいので説明してほしいという。このミュージアムはそれをみんなで考えるための施設だから自分で考えてほしいといって一応断った。よく観察していると館内をあちこち歩きまわって勉強しているようなので「1つづつの質問に答えよう」といって順次写真やビスコテックスやビデオの説明をはじめた。3人共真面目で、メモをとり、適確な質問をしてくるのには驚いた。教育委員会と連携してブータン王国の小学校との交流が実現すると私の夢がまた一つかなえられることになる。

日銀の金融緩和

11月30日
日銀の金融緩和
日銀も政府も金融緩和政策をとり続けると主張しているが実体はどうか。かつて1980年代都銀等の大手銀行の予貸率は100%をこえていた。地銀や信金も70〜80%であった。
それがバブル崩壊を経て、大手銀行の集約、貸しはがし貸し渋りがはじまり、企業や個人の投資意欲、消費意欲を急速に冷えこませてしまった。1990年からはじまった金融引締めと不動産投資規制のすさまじさは狂気とも思える程の激変をもたらした。その間金融を支えたのは国の金融機関と信用金庫だけであった。
現在はどうか。日銀の3月末の調査によれば全国都道府県の金融機関の預貸率が半分を割っているところが半分以上あるという。福井県は44%と非常に低い。このような状態で金融緩和といって見ても全くの空念仏である。空理空論である。必要とされる資金すら、現在供給できていないことを日銀や金融庁は本当に知らないのであろうか。
投資や消費が行われるか否かはまず先行不安のふっしょくでなくてはならない。そしてその次は融資緩和のシステムを稼働させなくてはならない。それを無視しては、何の変化もおきない。いたずらに1515兆円の個人金融資産は、今迄と同じように毎年積み上っていくばかりである。日本国民のために使われるべき1515兆円を有効に使わせる政治家や金融マンの出現を祈っている。

女性の社会進出

11月29日
女性の社会進出
福井の女性の共稼ぎ率は、常に全国のトップクラスに位置している。
この原因は環境整備が出来ているからだ。まず三世代同居が多く祖父母が幼児の面倒をみてくれる。保育所が手近かにあることも有難い。そして働こうと思えば雇用の受皿がととのっている。中小企業・零細企業が数多くあり、欲をいわなければ仕事はどこにでもある。
車の普及率もトップクラスなので、一家に数台の車を持っている。共稼ぎの女性は殆ど自分用の軽自動車を所有しており、職場が多少遠くてもドアツードアで通勤ができる。
職場でも共稼ぎの女性が多いので、お互いにあうんの呼吸でかばいあっている。だから「女性天国」は福井だと思っていた。
幸福の原点は「平和」と「相互扶助社会」と「三世代同居」である。
福井県は海、山、川に恵まれ、四季の織りなす美しい自然が満ちあふれている。そこに生き生きと働らく女性達がいる。まさに桃源郷である。理想郷である。
ところが北欧の事例を聞いて驚いた。日本の女性は働き者だと思っていた私は、北欧の就労率の高さとダイバーシティ指数の高さに驚いたのである。働く意欲のある女性の80%近くが働いている。そして役職についている女性比率が非常に高い。育児休暇は47週間とってよい、それも男女共に認められている。その間の給与は100%支給されるとのこと。男女差別が殆ど無いことを教えられた。
福井の女性はまだまだ幸福になる可能性が高い。

「福井しあわせ元気国体」

11月28日
「福井しあわせ元気国体」
2018年に国体が福井県で開催される予定だ。あと5年程しかない。準備を着実にすすめていく必要がある。国体名は公募で決定した。応募者数7441件の内から「しあわせ」と「元気」の提案をつないで最終決定となった。「福井しあわせ元気国体」である。あと「5年」を長いと思うか短いと思うかは、人それぞれとり方は異る。しかし準備をはじめなければならないのはハッキリしている。要は何を準備すべきかである。と角ハードにかたよりがちな準備だけでなく、名付けた「しあわせ元気」の名に恥じない内容の濃い中身の充実した国体にしていただきたい。
その為にはソフトにより注力してもらいたい。
全国から集まってくる若者達のスポーツの祭典にふさわしい福井の魅力づくりの準備を今から始めようではないか。

教えられること

11月27日
教えられること
ブータンミュージアムは資金面がぜい弱なので、人を採用することが不可能である。私の会長室の全員が移動して、ブータンミュージアムに毎日出勤している。会議もお客様の応接もすべてこちらでやっている。そのため友人知人を含めて、多くの方々とおあいできる。
昨日は80才前後のご婦人が十数名でおいでになった。よくわからないので説明してほしいとのこと、約30分程であったが、館内を歩きながら説明していくと、ブータンミュージアムには説明パネルは数多くあるが、説明員は1人もいないのに気がついた。ボランティアを募集しているので、その人達に「ブータン王国の魅力を説明するガイド役」になってもらうことにしたらどうだろうと気付かされた。
早速次回の内部のミーティング(第21回目)で提案をしてみようと思う。

寄付第1号千円

11月26日
寄付第1号千円
オープンして数日の後、1人の女性が入館された。ブータンミュージアムは入館料を無料としているが、しばらく館内を見てまわられた。「ブータンの本棚」から本をとり読んでおられるようであった。帰りぎわに千円札をとり出し、「寄付します」とおっしゃった。名前を聞いたが何もいわずに笑って帰っていかれたとのこと。この話を聞いて思い出したのは、新島襄がアメリカから日本へ帰国する際の教会でのエピソードである。ある農夫が2ドル寄付をしてくれた。帰りの汽車賃を寄付した農夫は「私は歩いて帰れるから、この2ドルを日本の若者の教育のために使ってほしい」と申し出たそうである。
この2ドルが発端となって同志社の設立につながった。その後札幌農学校を開校したクラーク博士は、アメリカへ帰国する前に同志社に立ちより、新島襄に日本での収入のすべてを寄付したとのことである。何事も、すべては小よりはじまる。友人が数万円の寄付を申し出てくれたのも心強い支えになったが、私にとっては老夫人の無名の千円の寄付ほどうれしかったことはない。

大学が多すぎる

11月22日
大学が多すぎる
日本に大学がいくつあるのだろうか。規制緩和によって大学が急増し国立大80校余、公立大80校余、私立大600校余と現在800校近くになってきた。私が入学した頃は、同年齢の友人で大学へ入ったのは1割もいなかった。最近では大学へ行きたい人の殆んど全員が入学している。そこで問題になるのは大学の質、学生の質、学力等であろう。文科省の指導では大学はコミュニティの中心になれ、地方に根ざした大学になれとのことのようだ。私は大学が、入学してくる学生にとっても、その地域の人々にとっても必要とされる大学、誇りに思える大学になることを願っている。福井県立大学の下谷政弘学長(経済学博士)と懇談する機会があり、そのことを痛切に感じたのである。世はボーダレスの時代である。社会は国際的に活躍できる人材を求めている。単なる成長のためだけでなく、経済発展のためだけでなく、新しい価値観を求めて使命感を持って努力してほしい。競争を是とするのでなく、ブータン王国のように「みんなの幸せ」の為にみんなが協力しあえる国づくりをすすめる新しいリーダーとなれる教育を望みたい。

福井市中央卸売市場

11月21日
福井市中央卸売市場
金沢に近江町市場がある。市民の食を支える市場である。京都に錦市場が同じようにある。両方とも市民を対象とした食の市場であるが、観光客にとっても魅力があり人気が高い。福井の市場は卸市場で一般客の入場は制限されており、しかも郊外にある。この市場をロータリークラブの職場例会で利用し、その活動の詳細を聞いた。年商200億円と聞いて驚いた。おもな取扱品目は魚、野菜、果物、花などで、魚は鮮魚7千t余り、冷凍魚千t近くと大きな比重を占めている。地元への卸売りと同時に首都圏などへの卸売りを積極的に行っている。福井の魚は日本一おいしいとの評判を得ているとのことである。何故福井の魚の味が日本一なのか、不思議に思う人があろうが、その秘密を教えてもらった。暖流と寒流が交差する所であり魚種が多いが、味のよさは魚の鮮度によるとのこと。福井の漁業は海岸線から15km以内の浅瀬での定置網漁が多い。捕獲と同時に水揚げし、市場へ直ちにとどけるのである。朝とれ市場を日本で最初に作り成功しているのも、この一時間でも早くお客様の口へ入れたいという強い思いによっている。今夜の晩酌は日本海の幸と共に楽しみたい。もう越前ガニのシーズンだ。カニを待っている友人が多い。

ブータンの河川

11月20日
ブータンの河川
ブータンの河川の特長はすべてブータンヒマラヤと呼ばれる山脈、山塊に源を発している。チベットから流れてくるものもあるが、ほとんどはブータン北域の山岳地帯の氷河・氷河湖に源がある。
西のアモ・チュウはブータンとシッキム(現在はインド)の間のチュンビ谷の奥のチベットより流れてくる。その東方の川はウォン・チュウ。ハ・チュウやパロ・チュウを合し下流でライダク川と呼ばれる。その東側にモ・チュウがある。下流へいくとスンコシ川となる。更にその東方にトンサ・チュウ。次にブムタン・チュウ。そして更にクル・チュウがある。このクル・チュウの上流がチベットでありヒマヤラを抜けてくる。この大河に東ブータンの各川が合流してきている。ブータンの河川は国土の標高差が示すとおり、北が高く、南が低い。その為、川(チュウという)は主として北から南へ流れ下ると考えるとわかり易い。数億年にわたる造山活動と河川の浸食により、峠(ラという)は高く、谷は深い。その為に町を結ぶ東西の交通は難しく、各町や村は孤立して存在せざるを得なかったと考えられる。現在ブータンには20の県(ゾンダ)があり、県庁はゾンの中にある。そして高僧と裁判官(ティンペン)と知事がいる。ゾンは川の流れの幾分ゆるやかな平地や丘の上に建っている。その周辺には農地がよく耕されており美しい風景をかたちづくっている。その風景の中に浮かんでいるのが、各地にあるゾンとそれを取りかこんでいる民家の数々である。重要なゾンはハ、パロ、ティンプー、プナカ、ウォンデポタン、トンサ、ブムタン(ジャガゾン)、クルテ、シェミガン、ヤンチー、モンガル、タシガン等である。
ブータンは美しい山と清らかな川がおりなす桃源郷である。日本と同じように四季があり、人々は生活をエンジョイしている。
自給自足経済を長く保ってきたので自立心が強く、また他人を思いやる暖かい心の持主が多い。私達が昔に持っていた家族愛、地域への愛着心が残っており、なんともいえない懐しさを感じることが出来る。

円高基調

11月19日
円高基調
輸出企業を中心に円高対策が声高に主張されている。私の幼少の頃は日本は貿易立国だった。世界の工場だった。輸出が花形だった。だから当時は円安誘導が必要で、それは国策でもあった。しかし今は違う。世界第3位のGDPの日本は、輸出で第4位、輸入でも第4位だが、輸出入のバランスは赤字になりつつある。2011年は2兆64億円の赤字。これは1980年以来31年ぶりの赤字である。そして大事な点は日本は世界有数の内需国になってきたのである。G20の中で内需第4位となった。第1位のアメリカの輸出依存度は約9%、次はブラジルの約10%第3位はインドの13%そして日本は14%である。16位の中国27%、19位韓国46%最高のサウジアラビア約58%。日本の安定度は抜群である。
円高に右往左往する必要は全くない。輸入品の円高益を直ちに国民に還元することを望みたい。それが輸出品のコストを引下げ、国民生活にも大きなプラスをもたらすのである。円高を恐れるな。これが常識中の常識、歴史が証明している事実である。

Something great

11月16日
Something great
世界中の科学者が集まっても1ケの細胞の命の解明ができないという。人間の身体を構成する細胞は60兆個ある。そして1個の細胞の中には、百科辞典3000冊分の遺伝子情報が書きこまれている。そしてその中には死もすべてプロミングされている。人間の生命の誕生の確率はどのくらいあるのだろうか。私はかって卵子と精子の出会う確率というので数億分の1ぐらいの確率と計算したが、科学者の説によると遥かに小さい確率だという。そうなると私達の生命の貴重さに気付かざるを得ない。自分の生命をより大切に思うようになる。同時に、隣の人、仲間達或いは地上の生命すべてを愛するようになる。そこにサムスィンググレートの存在を信じたくなる。
「人知を超える」という言葉がある。1人の人間の身体の細胞は60兆個だが、これが互いに協力し、見事に調和しながら機能している。
生きているという事は奇跡に近い。いや奇跡だ。そう考える時は、他人の命を尊いと心から思えるようになる。

日本ブータン幸福学会設立について

11月15日
日本ブータン幸福学会設立について
2011年11月のワンチュク現国王(第5代)夫妻来日を契機に、広く日本国民に注目されたブータン王国は、ヒマラヤの秘境、世界のシャングリラ(桃源郷)としてつとに名高い。中国のチベツト自治区とインドとの間にある小国である。前国王(第4代)以降、国民が等しく幸福になる国をめざすという国家目標を立て、GNPでなくGNH(Gross National Happiness)を目指している。
一方、福井県は平成21年から今年度までの予定で、東京大学社会科学研究所と共同で夢や希望の調査研究を進めている。そうした折、昨年11月、法政大学大学院の坂本光司教授等は都道府県別の幸福度の調査結果として、日本一の幸福な県は福井県であると公表した。多くの県民は大変驚くと同時に、半信半疑ながらも大変嬉しく思っています。
そこで、世界一の幸福の実現をめざすブータン王国と日本一幸福だといわれてもなお実感の伴わない福井県に注目し、「真の幸福とは何か。また真の幸福を実現するにはどうすべきか」を研究するため、ここに「日本ブータン幸福学会」を発足することとした。幸い、県内には、ブータン王国での国際協力活動経験者、ブータンに関心を寄せる研究者や一般県民などもおられ、また、ふるさと希望指数(LHI:Local Happiness Index)の向上を目指す行政(福井県)の取り組みなども見られる。
20世紀は経済力や軍事力を前面に押し立てた覇権を競う時代であったが、21世紀は環境保護、省資源・省エネ、自然との共生、対話と協調などを優先した、真の平和と幸福を追求する時代になるべきであると強く確信し、幸福学会の設立を準備中である。

老人とは

11月14日
老人とは
百寿者という言葉がある。百才以上の超高齢者を呼ぶ名である。その百寿者が日本全国で5万人を突破した。日本の総人口の0.4%である。1912年以前に誕生した方々である。1923年の関東大震災の時は11才以上、第一次第二次の世界大戦争を経験し日本各都市が焼土と化したアメリカのB29による空爆を体験された。1956年の南極越冬隊の時は44才以上で、貧しいけれども、世界の一流国に負けない気概を持っておられた。1964年の東京オリンピックの時は52才以上、この時新幹線は東京、新大阪間が開通している。
2012年現在の65才以上の人口は3000万人を突破し、日本の総人口の4分の1に近付いている。75才以上の人口は1500万人をこえて12%以上となっている。高齢社会である。生涯現役を願っている私にとって高齢社会での生き方に、大きな興味を持っている。後期高齢者といわれる我が身にひきかえて、百寿者(sentenarian)の方々は心強い味方である。その百寿者の特徴は、家族に囲まれている、地域に貢献している、自分の役割を持っている、オシャレである、ストレスを大らかに受け流している、などなど。私達も参考にして元気に生きていきたいものである。

ブータンミュージアム

11月13日
ブータンミュージアム
オープンまでのカウントダウンがはじまっている。1日1日が大切だということが実感できる。今日も何人かの友人が、準備に忙殺されている私をたづねて来てくれた。ミュージアムの前を通りがかり「11月17日オープン」とかいてあるのを見て、訪れてくれたのだ。今日から招待状の発送をはじめた。そしてポスターの掲示は一昨日からすでにはじめられている。2日間オープンセレモニーを挙行するのは、福井県民の「初もの好き」を思ってのことだ。珍しいものに興味を持ち、必ず見にきてくれる。セレモニーを1日でなく、2日間に引き延したのは来館のチャンスを倍にしたかったからでもある。その為に経費も倍になり、準備のエネルギーも倍増する必要がある。それもこれも「ブータン王国の魅力」を知ってもらいたいからである。「ブータン王国」には、私達日本人が失いつつある家族愛がある。地域の絆がある。強い信仰心がある。そして明るい笑顔が満ちあふれている。
友人達やマスコミの皆さんは私に問いかける。「なぜブータンか」「なぜお前がやるのか」「いつまで続けるのか」「その目的は」質問に対する私の答はいつも同じである。「とに角、オープン時に来て下さい。答はすぐわかります」プレオープンイベントの「みんなで幸福をかこう」というテーマで来館された数多くの方々が、口々に残された言葉は、「癒されますね」「ホットします」「ぜひブータンへ行きたい」「ツアーをくんでくれませんか」「なつかしい感じがします」「昔の子供の頃を思い出します」などなどあった。オープンセレモニーでは、もっともっとそれを感じてもらえるようにと努力している。

ブータンの首都

11月12日
ブータンの首都
ブータン王国の最初の首都は、トンサ出身の初代国王が創ったブムタンである。二代目国王が首都をトンサに戻し、三代国王は23才で即位し首都をティンプーへ移し、夏の宮殿とした。冬の宮殿は低地にあるプナカゾンである。この王妃ケサンワンチュクは英国で教育を受け、日本へも何度も訪れている。桑原武夫や京都大学との関係をとり結んだのはこの元王妃、パロ谷の盟主と呼ばれる。ケニアのナイロビで夫君三代国王ジグミドルジワンチュクが急死、3日後子息のジグミシンワンチュクが王位を継承。2人の姉と2人の妹がある。
ブータンは女性が財産を継承する風習が残っており、女性が大らかでいきいきとしているのはそれが原因であろうか。男性の民族衣裳ゴの地味さに比較して、女性の衣裳キラの華やかさは格別だ。この点は日本の和服の男女と非常によく似ている点である。今月オープンするブータンミュージアムの展示品の中で、この女性衣裳、数点のキラは圧巻である。天蚕の繭から織られた絹のキラを最高とするが、毛のキラも十分美しい。綿のキラは、首都の各地で見られ、ブータン独特の雰囲気を醸し出している。

ブータンヒマラヤ

11月9日
ブータンヒマラヤ
ブータン王国はヒマラヤの東南に展開する山岳国家である。丁度中央部にトンサの町がある。その東北にインナーヒマラヤと呼ばれるガンケルブンツク(7541m)がそびえている。その南はブラックマウンテンと呼ばれる大山塊がある。
山は高く、谷は深いので東西の交流を阻害している。
このトンサのペンロップ(知事)のウダン、ワンチュクが地方を統一して首都を東ブータンのブムタンとした。ブータン王国の誕生である。この時期イギリスの侵略は、インドからチベットまで及んだ。その後ブータンは中国の圧力を排除する為に、イギリスの支援を受けて、統一国家を樹立したのである。
中央部のトンサの西は標高2000m〜4000m山岳地帯が続いている。ブラックマウンテンの東は、高度が低くなり、東ブータンと呼ぶインドのアッサムとの交流があり、西ブータンとは異る言語や文化がある。 
ブータンヒマラヤで最も有名なのが、盟主といわれるチョモラリ(7314m)である。ブータンへ入る観光客が必ず賛美する山容は正に絵にかいたように美しい。私と同乗していたアメリカ婦人がエヤバスの窓から雲海の中に浮かぶチョモラリを見て「ピクチャーラテイク」と呼んだ声が今も耳に残っている。
ブータンは三つの文化を持つヒマラヤの国である。三つの文化とはインドのアッサム亜熱帯文化と、チベットの高地文化・遊牧文化と、東方よりもたらされた照葉樹林文化・稲作農耕である。この三大文化の融合が現在のブータン王国を築き上げてきた。
私達日本人がブータン王国に親近感を持つ理由は、人種的な同根だけでなく、融合文化を持っていることと、自然宗教や仏教が人々の生活に深く浸透しているからである

陰徳、積善、節倹

11月8日
陰徳、積善、節倹
二宮尊徳(1787〜1856)を知っている若者は少い。終戦までは小学校(当時は国民学校)の校門の脇にその石像があった。薪を背に、本を読み乍ら歩く姿が印象的だ。孫が通っている啓蒙小学校の校門に今もその石像が残っているのはうれしい。
尊徳は数多くの至言を残しているが、「陰徳、積善、節倹」という言葉ほど現代に必要なものはない。三つとも消えかけていたものだが、最近省エネで「節倹」がよみがえりつつある。「積善」は言うのは易く、行うのは難しい生活態度である。
子孫に美田を残すなといわれているが、最高の遺産は陰徳や積善の生活をしている、親の姿を子や孫に見せておくことであろう。
特に「陰徳」ほどすばらしい行為はない。尊徳の生涯を貫く偉大さは、他人の為に心血を注いで難事に立ち向い、信念を貫きとおして、「実行」しつづけたことである。
「実行」なくして成果なしを証明した人生であった。村を窮乏から助たのが605回もあったと記されている。

福井城跡

11月7日
福井城跡
福井城跡の真中に県庁舎・県会議事堂・県警本部のビルがどんと建っているのに驚く人が多い。そんな例はあまりない。佐賀県庁がこれに近い。そして「残っているのは城の石垣だけだ」という人も多い。私にいわせると余りに否定的な意見に聞こえる。立派な石垣と見事なお堀が残っており、堂々とした天守台の石垣も残っている。貴重な国民の資産である。金沢城跡の中で毎朝散歩していたのは7、8年前であった。金沢城跡にはそれ以降莫大な投資が続いている。次々と古い城郭が復元されつつある。しかも創建当時の純粋な木造りである。福井城の場合も周辺の整備を併せて行えば、日本でも数少い貴重な旧城下町を再現できるであろう。

経営破綻

11月6日
経営破綻
福井県内オリジンの企業としては最大の倒産で、負債総額370億円との発表。メインの福井銀行約180億円、北陸銀行約120億円と地元金融機関の受けるダメージも大きい。代表の小野光太郎氏は会議所の副会頭を勤められ、面識があっただけに大変驚き、その心中を思う時誠に残念至極である。同じ商社出身の経営者として、ヨーロッパ市場でおあいしたり、ドイツのメッセで同じグループになった過去の事を思い出している。
かってはアルミホイールの製造からスタートされワシマイヤーがアルミから軽合金鍜造ホイールへ転換され、高級車やスポーツタイプの車の愛好家の支持を得て、発展されていったのを、好感をもって眺めていた。
また眼鏡レンズの製造販売は、私が以前勤務していた会社で取扱っていたCRレンズから、スタートされ品質管理が非常に難しい製品だけに、その成功を喜んでいた。
福井県という小さな世界の中での大型倒産だけに、周囲に及ぼす影響が心配だ。従業員300名を是非守ってやってほしい。そして中核の日本マイヤー以下の企業の生き残りを祈りたい。

ブータンの音楽

11月5日
ブータンの音楽
芸術大学のような伎芸学校を訪問した。その中で大きな歌声が聞こえてきた。そちらに行って見ると、キラを着た女性達が手をつないでから歌をうたい、踊りをおどっている。日本の盆踊りのような素朴な踊りと歌だが力強い。フォークダンス調である。
ヤンチェンという4本の弦が7段ありそれが左右にある独得の楽器がある。それを竹箸か茶杓のような竹の先にゴムのようなものがついているので、叩くのである。胴が空洞になっているので可恋な音色がする。三味線のような七絃のものを、ダムニェンと呼ぶ。頭の部分に龍頭を飾りにつけている。中国の二胡そっくりのピュアンは二胡奏者の方々がよく似ているという。日本のしの笛そっくりのリマは日本のしの笛と比べると手作りの笛に近い。
マスクタダンスは特別のお客をもてなす為のものである。普通は年に2回の国家的な行事が行われる際に、ゾンの中で多勢の市民の前で繰り広げられる。明るい色調のハカマをはいて、仮面をつけて踊る。手には刀や金棒や太鼓を持って、ドラと太鼓のリズムにあわせて踊る。太鼓は大小あるがこれをたたくのは曲った金のバチだ。スイスのホルンのような長い笛がなると踊りがはじまる。テンポは緩急に豊み、勇壮である。空気の薄い高地であり乍ら飛んだりはねたり大変だ。ゆっくりと重々しく踊る時と、はげしく早く動きまわる時とがある。
みんなで歌う民謡のような曲は、松林の中に静かに消えていく。哀調を帯びた曲が多い。また求愛や挨拶代りの明るい曲もあり、かけあいの歌い方もあり、大らかな自然児同志の豊かな感情の高ぶりを感じさせる場面も多かった。

ブータンミュージアム

11月2日
ブータンミュージアム
桜通りとフエニックス通りの交差点、福井裁判所すじ向い、森八大名閣の隣りに「ブータンミュージアム」をオープンする。11月17日(土)と18日(日)の二日間に亘って、ブータン楽器を使った演奏会や、ブータン王国の幸福についてGNHの研究や福井県の希望学や幸福についての講演会を開催する。すべて入館料、会館使用料は無料とし、広く福井県内外の方々に解放したいと考えている。「ホッとするところ」「とっても癒される空間」「本当の幸福って何だろうと考えちゃう」「好きなものが一杯」「楽しめるところ」そんな場所を作り上げていこうと、沢山の友人の協力のおかげでオープンする。ボランティアの方々の支援もうれしい。みんなで支えあえる場所にしたいと念じている。

福井駅前

11月1日
福井駅前
福井駅前は、ピアやベル等の郊外立地のショッピングセンターが出来る迄は、唯一の商業集積地として県内随一の賑わいを呈していた。そして居住人口も多く、街は活気にあふれていた。飲み屋街が、駅西南から、片町通りへ徐々に移っていったのは、郊外型の町への移行と時を同じくして起きた。駅前商店主達の子や孫が郊外へ居住していったのも同時である。かくして駅前はシャッター街と変じ、駅前の商店だけを死守してきた商店主は、苦しい経営に追い込まれていった。
問題はどこにあったのか。日本一の郊外立地を許した行政の責任は大きいが、駅前商店主が郊外立地のスーパーマーケット内への出店を加速したのも一因である。駅前よりも郊外店舗を優先せざるを得なかったのである。そして今、コンパクトシティ推進の時代に入り、駅前再投資のチャンスがやってきた。どこで、誰が、何をするのか。皆が注目している。県都福井市の駅前をどのようなデザインで改造していくのか、その姿が求められている。

黄金の国ジパング

10月31日
黄金の国ジパング
15世紀以降東南アジア海域に世界中の商人が集まった。マルコポーロは日本へは来なかったが東方見聞録で日本を「黄金の国ジパング」と紹介している。当時の日本は金や銀の産出量が多く、海外との取引の中心は金、銀と世界中の珍しい文物との交換が行われた。
珍しい記録がある。ドイツ人のケンベル(1651―1716)が1690年から92年の間の日本に来て「日本誌」を書いている。江戸時代であるが引用する。
日本人は習俗、道徳、技芸、立居振舞の点で、世界のどこの民よりも優れている。国内の交易も盛んで、田畑は肥沃。頑健な体と豪胆な精神を持っている。生活必需品は豊富で、国内は永い平和が続いている。世界でも稀に見る「幸福な民」である。鎖国をし、一切の交流を断ち乍ら、国民が幸福を満喫する時代は他に例を見ない。
また明治初期に世界中を歴訪したイギリスの女流探検家イザベラバード(1831―1904)の「日本奥地紀行」も面白いので引用する。
南方に繁栄する米沢の町がある。北方には湯治客の多い赤湯があり、全くのエデンの園である。田畑は鍬で耕したというより、鉛筆で描いたように美しい。米・綿・とうもろこし・煙草・麻・藍・大豆・茄子・くるみ・水瓜・きゅうり・柿・杏・ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディアである。自力で栄えるこの豊かな大地は、これを耕作している人々が所有する。
美しさ、勤勉さ、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても美しい。豊かな農村である。

海洋国日本

10月30日
海洋国日本
地球の7割以上が海である。陸地は3割もない。そして最大のユーラシア大陸の周辺にも数多くの島々が存在する。大陸といわれる土地も、地球全体から見ると大きな島にすぎない。特に日本は6800ケ以上の島々から成立っている島国である。有史以来日本から世界へ雄飛していった数多くの私達の祖先は、現在地球の各地に定着し、活躍をしている。
日本人はどこから来たかという論争が古くから行われてきた。北方から来た、或いは南方から来た、朝鮮半島からきた、季節風に乗り、大陸から直接来たと各論がある。ところが日本から世界の海へ乗り出していった研究は少ない。
北方民族が漢民族を征服し、元を建国し、ヨーロッパにまで覇権を広げていた時代がある。その頃東南アジアの島々は東西交流の拠点として栄えていた。その後ヨーロッパ勢が競いあって世界中の国々を奪いあう植民地時代を迎えた。東インド会社を設立した彼等は、中国各地を占拠し日本にまでやってきた。インド以東で独立国として残った国は日本とタイそして清だけである。
日本は二度に及ぶ元の大軍を迎えうち、二度共元を全滅させるという幸運に恵まれた。日本海の荒波のおかげである。その後のヨーロッパ勢の進出に対しは鎖国で応じ、独立を守った。
現在の戦争のパターンは戦略核弾頭によるおどしと、通常兵器による局地戦、そしてテロによる反攻である。この戦争が世界各地でおきている。戦争を地上から失くすことが可能だと思った時期がある。第2次世界大戦が終った時だ。その時点での独立国家は世界中で僅か70ケ国であった。その後アジア諸国が宋主国より独立し、更にアフリカ各国がそれに続いた。
現在では194ケ国(国連未加入2ケ国を含む)をこえつつある。
日本は有史以前より海へ出た。更に隋や唐との交流があり、南方貿易は盛んで中国南部からの華僑に互して、東南アジア各地に日本人村が建設されていった。江戸時代の鎖国とヨーロッパ勢の進出により、そのまかれた種は大きく失われたが、東南アジア諸国は日本と同じ海洋国家であり、海に生きる人々である。戦前戦後の交流の歴史をふまえて、更にそのパイプを太くしていく努力が必要である。
21世紀はアジアの時代である。アジアの民と仲良くしていくことが最も重要である。アジア47ケ国のほとんどは日本と同じ島しょ国家、海洋国家であることを忘れてはならぬ。

Shan-gri-La

10月29日
Shan-gri-La
理想郷、桃源郷を表わす言葉はいろいろあるが、Shan-gri-Laはヒルトンの小説の中の仮空の理想郷である。同様の意味のArca-diaがある。これは古代ギリシア奥地の景勝地、理想郷・桃源郷をさす。もっと古くはEdenがある。人類の祖アダムとイブが住んだエデンの園をさす。私はヒマラヤの秘境ブータン王国が古くから理想郷・桃源郷と呼ばれていることに興味を持っていた。それは私達の会社を設立する時に企業理念として「喜びの種、幸せの種を蒔こう」を決定したからである。小さくてもいい、ささやかでもよい理想郷・桃源郷を創ることを目標にしたのである。
企業の存続には、成長と利益が必要である。そしてそれを可能にするのが、社会からの支持である。また近江商人道の三方よしの思想を更に敷衍し、「十方よし」を企業理念に明記した。これまた同じ目標である。東日本大震災がおき、大津波や東京電力の福島原発事故に日本中が深い悲しみと苦しみの渊に沈んでいる時、第5代ブータン国王ご夫妻が日本を訪れ、しかも東北を慰問していただいた。アメリカをはじめほとんどの外国人が東京から逃げ出し、訪日予定をすべてキャンセルした後に、ブータン国王ご夫妻の暖かい慰問に日本中が感謝した。私はその姿を見て、ブータン王国が真の理想郷・桃源郷であろうと確信した。行動なくして人生の意義はない。早速妻と二人でブータン王国を訪れた。そして私の確信が正しかったことを知った。時を同じくして福井県が幸福度日本一との評価を受けた。そこで真の幸福とは何かを追求する施設「ブータンミュージアム」を創り、それを更に学問的に分析して、世界中に平和と幸福の種を蒔く「幸福学会」を設立する運動をはじめた。地方発の学会であり、学際学的な学会であり、行動する学会である。多くの方々の参加を待っている。

寺院における能楽の夕べ

10月26日
寺院における能楽の夕べ
今年もまた京都、大徳寺、瑞峯院で「寺院における能楽公演」が施行された。久しぶりにすぐ目の前で片山九郎右衛門の演ずる「井筒」を鑑賞した。能舞台と違って1mと離れない至近距離である。朗々と響くシテ、ワキ、アイそして地謡はやし方が揮然一体となって目の前にある。正に室町時代の能がはじまった観阿弥世阿弥の頃へと溯ったおもむきである。文化庁の地域伝統文化活性化事業と京都府の支援を受けて既に三年目、三回目の開催となった。キリシタン大名の大友宗麟が大徳寺の中に建立した瑞峯院の方丈で行われたが、この方丈は、477年前に建てられた由緒あるもので枯山水の庭と共に私の好きな空間である。福井にも先人達の努力によって福井市に能舞台がある。そこで観世流や加賀の宝生流の演能を見る機会が少くない。朝倉遺跡での薪能も悪くないが、文化庁や県の支援を受けて、寺院での観能会の開催を提案したい。福井は人口割では神社仏閣の数では日本一であり、演能の可能な古寺古社にことかかない。福井県版「社寺における能楽公演」を観世流・宝生流の竟演で毎年開催することにしてはいかがであろうか。十年・百年と続く福井県の伝統文化遺産を守る事業として、大切に育てていくことが期待できよう。

うつ病

10月25日
うつ病
最近の風潮は世界中が不安にゆれている。問題の根は相互不信と我欲の追求、貧富差の拡大、失業問題、財政破綻など巾広い。宗教の違いや宗派の違いにからんで問題の解決が難しくなっているケースも多い。うつ病の原因はいろいろあり、自信喪失、失恋、目標や夢の消滅などが考えられる。私は「不安」を最大の原因と考えている。
では不安を解消する方法は何だろう。すぐに気付くのは家族の連帯であり、仲間の支援である。これ等連帯や支援があると、不安はひとりでに消えていく。そしてもう一つ、解消する方法がある。それは祈りである。神社やお寺へ参った経験は、すべての日本人が持っている。そして幼少の頃は神棚や仏壇の前で祖父母や両親、或いは神主や僧と共に手を合わせて神仏を拝んだ記憶がある筈だ。現代は「私は無宗教です」という日本のインテリ層が多いが、そんなことを外国でいうと馬鹿にされてしまう、無宗教者は人間として信じてもらえないのである。
「祈り」は不安解消に大いに役に立つ。私達が今日存在しているのは先祖のおかげである。目には見えないけれど先祖からのDNAは、私達の心身の中で生きている。その先祖あるいはその先の神仏への祈りが私達の不安を解消してくれる。うつ病は現代病である。個や孤の環境が生んだ現代病である。この解決策、治療法は「絆」を自覚させることに盡きる。

東嶋和子さん

10月24日
東嶋和子さん
ジャーナリストの肩書の名刺をもらった。才色兼備の和子さんの新養生訓の講話を聞いた。1時間半が長く感じられない。そして驚いたのは楚楚とした令人の博識とさわやかな弁説である。文芸春秋に新養生訓を連載していたとのことである。最近女性上位の時代が来たと感じることが多い。
IMF・世界銀行の総会が日本で先週開かれた。その世銀の元副総裁に西水三重子さんがいた。今も世界を舞台に大活躍中である。IMF専務理事のラガルドさんは白髪ではあるが年令を感じさせないパワーで諸問題の解決に努力している。女性の活躍が社会を変えていくのを予感させられる。
新養生訓では、人生を楽しくすごす7ケ条を教えられた。
禁煙、節酒、減塩、果物野菜の摂取、運動、適正体重保持、性交渉とのことである。貝原益軒の養生訓や、原始仏典のダンマパダの仏陀の教え「何事もほどほどに」、アランの「幸福論」まで言及された。最後は健康長寿の秘訣として、笑い、リラックス、温泉、身体を動かすことなどを教えられた。食物のよしあしの中で、日野原先生(100才現役)の主張と同様に、オリーブオイルの摂取をすすめられた。私も実は毎朝小さじ一杯のバージンオリーブオイルをカフェオーレに入れて飲んでいる。効用があると聞き、わが意を得たりと喜んだ。

中学生サミット

10月23日
中学生サミット
福井市内の公立中学校は全部で23校ある。大きい中学校は800人程の生徒がおり、小さいところは50人未満であり、その規模の落差の大きさにまず驚いた。朝9時半からはじまり、夕方の4時まで6時間半に及ぶ大イベントを私達のロータリークラブがサポートした。
参加中学生は各校の生徒会代表2名づつ、46名、そしてロータリアン20名、先生及市教育委員会30名など合計約100名が集まった。サミットのテーマはリニューアル中の「福井中央公園周辺の未来図」を描くことである。リーダーの心構えについてロータリアン3名から指導し、8グループにわかれて中央公園で弁当をとった。
みんなが成人した時に、この中央公園周辺がどのように変っていてほしいのかを頭におき乍ら現地を調査した。気持ちのよい秋の日ざしの中を6名の生徒と共に歩いてみて、その鋭い感性に驚いた。将来は人口減、少子高令社会の到来、北陸新幹線完成という背景を考え、種々なアイデアの提供があった。中心市街地活性化にとり組んでいる私にとって、このサミットは他人事ではない。中央公園周辺は旧福井城の遺構の中心部分である。出来る限りの復元を望んでいる。お堀と公園の間の道路の廃止、(同時に路上駐車場も廃止)、公園内の諸施設の充実、緑化の強化、市役所旧館の撤去などの意見も出た。理想パターンは県庁、市役所のよそへの移転と福井城跡公園の建設であろう。
今回のテーマの範囲に含まれなかった広大な順化小学校、旧日本専売公社敷地、福井城周辺の県、市関係の諸建物すべてを考慮に入れた新しい城跡公園を中心とした魅力あふれる県都デザインが望まれる。今回のイベントに参加し、自分の足で中学生と共に歩きまわり、多くの新しい発見があった。若い生徒達のすばらしい発想にも刺戦を受け、疲れを忘れる程の楽しい一日となった。

旧暦

10月19日
旧暦
日本の暦は、明治5年までは、太陽暦と太陰暦を組みあわせ、太陰太陽暦が使われていた。現在の太陽暦が太陽のまわりを地球がまわる時間を1年とするのに対し、月が新月から次の新月になるまでを1ケ月とするのが太陰暦である。旧暦による日本人の生活は、季節の移ろいと共に濃密な自然とのかかわりの中にあった。そして一年を通して春夏秋冬の四季だけでなく、24の気がある。これを24節気という。そして更に72の候があり、これを72候という。
春には6つの節気があり、立春にはじまり穀雨におわる。夏も秋も冬も同じように立夏、立秋、立冬ではじまり、それぞれが6つの節気に分かれている。
72候は、24節気のそれぞれを3つの候にわけて作られている。初、次、末の3候に分かれている。そして72候は漢字でなく、文章で表されているのだ。春のはじめの立春の初候は「東風凍を解く」という。そして72候の最後、冬の大寒の末候は「鶏始めて乳す」でおわる。
この旧暦の72候と共に、季節の移ろいを楽しみ乍ら生活すると、今迄の何倍も楽しく、心がはずむ人生が待っている。人間の力で自然を克服するのではなく、自然の恩恵に感謝しながら、月との対話を通して花鳥風月との生活を謳歌したい。

ノーベル賞

10月18日
ノーベル賞
IPS細胞の研究により、京都大学の山中伸弥教授のノーベル賞受賞が決まった。前評判の高かった博士の受賞は、当然のことと誰もが祝福した。しかし医学も進歩したものだ。おそらく近未来に、IPS細胞から生まれるコピー人間の誕生が期待できるかも知れない。私は「幸福学」として、このIPS細胞を活用してほしいと熱望している。QOL(クオリティオブライフ)への医学的見地からのアプローチに大きな期待をかけているのだ。IPS細胞を活用して、人体の諸機能の欠落や減衰の補填を期待しているのである。補填による機能の回復は、測り知れない「幸福」の復活を生むと予測し、更なる期待をふくらませている。
湯川秀樹博士の受賞は、1949年私の中学入学の年であった。ノーベル賞の何たるかを知らずに、日本中がその受賞に沸いた。戦後復興の契機となった大事件であった。今回の受賞は社会を変革する意味で、更に大きな影響を私達にもたらしてくれることであろう。

無縁社会

10月17日
無縁社会
家族や友人や地域から孤立してしまう人がふえている。「地縁、血縁社会」だった日本は、今や単身家族が標準家族となってしまった。夫婦に子供二人が標準家族といわれていた十年前、二十年前でも、私の頭の中の家族像は、祖父母、父母、そして弟妹と私との七人家族だった。それが急に単身家族が最も多くなったというのである。何かが間違っている。どこで間違えてしまったのか。間違えたのは確かだ。人は支えあうことで人となる。共同で生きるから人間なのだ。孤の生活はストレスの魂をつくる。自分を生かすのではなく、自分を否定し、自信を失くさせ、殺してしまうことになりかねない。
無縁社会を作らないよう、小さなことを積み上げている。
作っては壊し、積んでは壊れる小さな行為に過ぎないが、出来る限りのことはやっておきたい。私の身のまわりの小さなことに過ぎないが、支えあう心だけは大切にしたい。

借家住い

10月16日
借家住い
私の幼年時代、借家住いをしている老婆がいた。1人暮しである。小さな石臼で残米をすりつぶし、のりを作っていた。当時の女性はすべて和服(着物)を着ていたので、汚れると糸を切り、元の布地にして、洗い、それをのりで上塗りして、乾すのである。そののりを1人で作って売っていた。そののりづくりを見ていて、よく生きていけるなと感じたものだ。上品な女性で、近所の観音堂や八幡神社へよくお参りをしていた。何をおがんでいるのか、長く時間をかけて祈る姿が、不思議に印象深かった。
終戦で外地から帰国した人達が借家に住んでいた。結核にかかり寝たきりになった帰還兵もいた。みんな貧しかったが向う三軒両隣りの仲間意識が強く、お互いに連帯感をしっかり持っていた。
拍子木をたたき金棒を引いて「火の用心、戸締り用心」と連呼して町内を夜8時頃に一巡するのである。その後「空の用心」がつけ加えられ、「火の用心、戸締り用心、空の用心」と呼ぶようになった。
今考えると、貧しかった頃の方が、みんなが連帯感を持ち、笑い声のたえない世の中だったような気がする。病気に苦しむ人の家へ、夕食を運ぶ隣人の姿が、決して少くはなかった時代であった。

悪しき個人主義

10月15日
悪しき個人主義
「我利我利亡者になるな」といったのは私の祖父だった。食糧難の戦後、畑から野菜を収穫し、それを自宅の前の川でよく洗わせられた。その野菜を近所の家々へ持っていけというのである。あの家は子だくさんだから倍の数をもらってもらへ。あそこは年寄り1人だから少しでよい。とれたての野菜を近所に一軒づつ配って歩いた。勿論タダである。いや「あげるのではなく、もらってもらえ」と教えられた。その数少い野菜が、どれ程の効果があったのかは、私は知らない。しかし祖父から学んだのは「世の為、人の為に生きよ」という素朴な教えである。町内のみんなが家族という思いである。乏しい物を共に分けあう麗しい隣人愛である。豊かになった今、私達に残っている礼節や慈愛の乏しさに悲しくなる。「くれくれもっとくれ」と叫ぶ人々を見ると悲しくなる。権利を主張する前に、まず義務を果しているの?とついつぶやいてしまう昨今である。

うつ病

10月12日
うつ病
うつ病の特徴を分析してみよう。
1. すべてのことが悲観的に見えてくる。
2. 過去にとらわれすぎる。
3. 視野が狭くなり、正しい認知が出来ない。
4. イエスかノーかのいずれかをはっきりしたがり、その中間の選択が出来ない。
5. 被害妄想のとりこになっていく。
6. 他人を信じられなくなる。
7. 自分のことだけを考える傾向が強くなる。
8. 広い視野の中での自分の相対化が困難になる。
現代病のうつ病が日本の社会で広がっているという。学校でも、職場でも、政治の世界でも、行政の世界でも、うつ病がまんえんしつつある。
うつ病は個人レベルでも広がると同時に、うつ病は国家レベルで広がっている。この特効薬を発見しなければ日本人も日本の国家も亡びてしまう。
特効薬は人と人とのつながりを信じること。直接対話を通して、暖かい人間関係を築き上げること。三世代同居の知恵を生かすこと。父性、母性を鮮明にし、家族愛を基礎とすること。世界は一つという理想の実現に努力すること。特効薬は目の前にある。その特効薬をみつけて、それを広く衆知徹底するために、NPO幸福の国を設立した。

国家財政危機

10月11日
国家財政危機
個人の家計も企業の会計も国家財政も基本は同じである。「入るをはかりて、出るを制する」である。日本の財政は一般会計を見ると、国債費(償還・利払を含む)は37%、社会保障費(医療・年金を含む)は34%と非常に大きいウエイトを占める。残りは僅かに29%しかない。特に問題が大きいのが高齢者関係費は一般会計の24%を占めている。そして年々これが急増していくのである。
この対策は早急に必要だ。まず出血(赤字国債)を止めること。その為の増税はやむを得まい。消費税の段階的な引上げは当然である。また巷間いわれている議員定数削減、参議院改革、公務員給与の引下げも当然行われるべきであろう。聖域などある筈はない。特定の人々に特例を認めるべきではない。江戸時代の武士や大名は率先して給与カットに甘んじ民の生命を守っていた事に気付いてもらいたい。
また年金をもらう人を少くし、年金負担金を払う人を多くする必要がある。65才支給を70才支給まで引上げていくのは無理だろうか。また年金負担金を払う人を多くするには、若者や女性の正規雇用促進だ。これは直ちに実現可能である。
また高齢者医療費をふやさない為の施設即ち病人を減らし、安価な薬品使用奨励である。また高齢者の生甲斐づくりが求められよう。
更に70才まで勤務できる職場を作る必要がある。これは正規雇用でなくともよい。たとえ僅かづつでも高齢者自身の努力が収入の道をつくり、社会貢献をつづけることで、自らの生甲斐を感じる道を歩いてもらいたい。要求する高齢者でなく、足るを知り、世の為人の為に役立つ人生を歩きたいと願っている高齢者を私は数多く知っている。
そんな高齢者を活用する日本社会を築き上げ、ジャパンモデルとして、今後先進国で次々と進む高齢化時代の範となりたいものである。危機がふくらんでいるEUの財政危機への範を示すことにもなろう。

表彰式を終えて

10月10日
表彰式を終えて
「みんなで幸福をかこう」というイベントをブータンミュージアムのプレイベントとして8月1日より開催した。そして応募者は400名以上の出展となり、9月30日に審査の結果、団体賞9組、個人賞は24人となり、表彰式を行った。台風前の雨の中を多数の入賞者の方々の出席をいただき賑やかに挙行できた。入賞者の方々には賞状と共に、福井駅前の有名店より協賛のお食事券を出していただいた。大変好評で新聞社の取材にも皆さんニコニコ顔で応待されていた。
書や絵をはじめ幅広い作品が集まり、「幸福」そのものの字や楽しい友達の顔をかいた絵など入賞作品はユニークなものが多かった。
日本墨書会西山隆産先生と、大本山永平寺宋清志先生との特別出品が会場に花を添えていただいたことは誠に有難かった。集まった人々に「幸福をつかむ秘訣」をご参考に配布させていただいたが、ブータンミュージアムへの来場者に幸福の切符としてさし上げたいと考えている。
ブータン王国へ入賞作品の一部を送ることに同意した方は「国際交流にお役立ち」いただくことになり、重ねて感謝したい。
11/17(土)18(日)に正式にオープンするまでは準備期間に入ることになる。このイベントは夏休みの好例行事として来年以降も継続していきたい。

3.11の日本人の為に祈るブータン人

10月4日
3.11の日本人の為に祈るブータン人
神社やお寺で私達は何を祈っているのか。ほとんどの人は自分に関することを祈るのが多い。合格祈願や健康長寿、事業の成功などが多い。家族のこと、自分の会社のこともあるであろう。しかし国家のこと、或いは全くの他人の為に祈る人は少ない。
ブータンを訪れて驚いたのは、自分の為に祈る人はいないと教えられた。そして昨年の3.11の日本の災害の復興の為に、ブータンの人々が東方の日本の方向に向かって被災者のために祈るというのである。そのことをさりげなくいったブータン人が私には神か仏に見えた。
ブータンの人々は信仰深い。仏教が国教として定着し、生活に深く入りこんでいる。観光スポットは山と川、森を除くとすべてが仏教施設である。仏と共に生きていると信じられている。来世を信じ、転回輪廻を信じて明るく生きているブータンの人々が、幸福だと考えているのに何の不思議があろうか。

文化遺産でまちおこし

10月3日
文化遺産でまちおこし
小浜市長と懇談した時ハッと気がついた。小浜は海の奈良といわれ、日本海に面した小さな市であり乍ら古い歴史と豊富な文化財をコンパクトに守り続けてきた。これ程魅力がギッシリつまった町は珍しい。しかも手あかのつかない状態で残っている。若狭自動車がいよいよ来年に完成すると、京都、大阪、神戸がますます近くなる。長浜、福井、金沢も近くなる。まちおこしのチャンスがやって来た。私は昨年から小浜の中心市街地で空地になっている「椿回廊跡」の再開発を提案している。まちなかに何を造ればよいのか。ニーズは何なのか。100年先は勿論のこと、1000年先までを見据えたプランが必要だ。

ブータンの森

10月2日
ブータンの森
ブータンはインド側の南の方は海抜200mの低い所から1000〜2000mの割合低い所までいろいろな地形であるが王立国営公園の他にワイルドライフサンクチュアウの指定を受けている熱帯ジャングル地帯が4ケ所ある。この植生は見ていないが、想像しただけで多くの樹種におおわれていることと思われる。
チベット側の北の方は標高6000m級のブータンヒマラヤ連邦がそびえ立ち、4000m以上のところは樹木はない。ヤクを主とする放牧地帯が広がっている。
私は首都ティンプーから、古都プナカまで急峻な曲りくねった山道を車で走った時、山一面の松林が山火事で焼けてしまっているのを見た。少年達のキャンプの火の不始末だろうという。
ブータンは松林が多い。松ポックリのとても大きい独特の松だ。特大の松ボックリは薪木になるので、昔から落ちた松ボックリ拾いが生活の一風景として定着しているようだ。この全山もえてしまった松林の再生のメドは立っているのかと質問してみたが確たる答はかえってこない。
今年の6月に古都プナカに近いワンデュポタン・ゾンが焼失した。ヤフーのニュースでその燃えている現場が全世界に流れ、非力な私ではあるが再建の手助けをせねばと思っている。そして同時に地震で大きなひびわれを起して立入禁止となっているパロ博物館の改修が気になっている。
国土の70%以上の森林率を維持することを国是としたブータンではあるが、急速に進む都市化、車両の激増、都市廃水の処理問題など難問をかかえているだけに森の維持がとても気になっている。
日本では植林に生命をかけている宮脇昭氏(国際生態学センター長、植物生態学者)は84才の今日までに、世界中で44万本以上の木を植えてきたとのことである。
常緑広葉樹のカシやクスノキが火災に強く根が深い。これ等の樹種がブータンの風土にあうかどうか自信はないが、新しい森の再生にぜひ取り組んでほしいと願っている。

次世代に残す

10月1日
次世代に残す
満70才を迎えた時、59才で創業した事業を、長男と次男に譲ることにした。その時私の胸に去来したのは、亡き祖父や父の姿であった。祖父から孫へ、親から子へと伝えてくれた血のつながりを次の世代へ渡せることの喜びと同時に、言葉にならぬ一抹の悲哀をも感じなかったといえばウソになる。今から5年前、その時の業続は絶好調、税引後の純利益も、目標の5億円に近付いていた。
翌年8月のサブプライムローン問題の予兆を感じ、早目のバトンタッチを決断したのだ。息子達の試練は続いた。サブプライムローンから更に1年後リーマンショックが襲い、円高とあいまって日本経済は残念乍ら沈滞してしまった。更に今はヨーロッパの全融危機が世界を暗くしている。
私は次世代に残すものは何が最も大切なのかをずっと考えつづけてきた。結論は金でなく、土地でなく、株券や証券でないことに気がついた。私が引継いだ財産は、三世代同居がもたらした信念であり、自信であり、自主自立の精神である。
「世の為、人の為」と口ぐせのように言われつづけた人間としての心の持ちようである。そして創業以来の私達の社是の第一は、「喜びの種、幸せの種を蒔こう」となった。ブータン王国の為政者たちが掲げている理想に非常に近いのを感じている。
幸福の追求が心の豊かさ、ゆとりを生み、世界平和につらなっていくことを信じている。地球環境の保全と諸民族融和をうながす「心の時代」を作り上げることを生涯の仕事と覚悟を決めている。

日本ブータン幸福学会

9月28日
日本ブータン幸福学会
理想を追求しようとすると、まず身内を固める必要がある。日本ブータン幸福学会を設立しようと覚悟を決めた時、まず身内を説得にかかった。ブータンミュージアムの開設には賛成者が多かったのに対して、本学会の設立には反対意見が圧倒的に多かった。
反対の理由は、まず学者でもない者がなぜ学会開設にこだわるのか、またなぜお前なのか、そして幸福学会が継続して存続可能なのか、ブータンとの関係が濃密でなくて成立するのか等々であった。聞いてみると至極もっともな質問、疑問である。
十分反省材料を提供していただいた。そして出た結論はやはりやるという決意である。意志はますます強固になりつつある。なぜなら現在の世界情勢を見ればその理由がおのずとよくわかる。力のある者はやりたい放題、弱い者はいじめられ、殺されていく。力と力のぶつかりあいで、平和な生活を奪われている人が何と多いことか。このように地獄のような世界を変える為に、誰かが共通の意志や理想を持った者に呼びかけて行動を起す必要がある。まさにchangeである。福井県という一地方から、それも日本という非常任理事団の片田舎から、世界へ向けて発信しつづけるのは至難の技である。それを承知で声を上げていく。願わくば一人でも多くの理解者を得られるよう、そして共に立ち上がる人々の来らんことを念じている。

小浜の魅力

9月27日
小浜の魅力
小浜と奈良は姉妹都市である。奈良は大きいまちだ。京都は更に大きい。鎌倉はこじんまりとしたまちだ。小浜はもっとコンパクトだ。歩いてどこへでも行ける。行く先々で奈良より古い仏像や建物に出あえる。文化財260点が小さな海辺の都市に密集している。学生時代に古美術研究会に席をおいていた私にとって小浜は、京都、奈良、鎌倉以上に親しみを感じるまちだ。小浜はシルクロードの終点といわれている。そして大和朝廷以来小浜は海の幸、山の幸を料理する御食国(みけつくに)だった。
ふぐ、ぐじ、醤油干の小魚、小鯛のささ漬、さばのへしこ(ぬか漬)、くずまんじゅう、丁稚ようかんと名物も豊富である。
9月15日からはじまっている「てんはま行こか」というロングランの町ぐるみのイベントは「てんこもりおばま」の略称で10月28日まで行われている。アメリカのオバマ大統領を応援する勝手連は健在で、大統領再選時には小浜へ呼ぼうと熱が上りつつある。
八百比丘尼の伝統の本家で入定洞の前には、当時を偲ぶ椿の花が今も咲き誇っており、多くの善男善女を集めている。健康長寿時代の花形観光スポットになるかも知れない。近くの町並み保存地区と合わせて、私の大好きな場所でもある。

小浜の魅力

9月26日
小浜の魅力
若狭は、小浜藩酒井家が長く藩主をつとめた譜代の大名家で、歴代の当主は京都所司代になるケースが多かった。その関係で京都との縁が深く、「京は遠ても十八里、福井は遠い遠い二十四里」と、福井より京都、奈良との親近感を持つ人が多かった。東大寺二月堂のお水取りは有名だが、その十日前に、若狭の鵜の瀬から、二月堂の若狭井へ水を送る「お水送り」の行事が行われているのを知る人は少ない。
小浜は北前船のおかげで、早くから開けた港を持ち、まちは豊かで文化が花開き、美しい自然とあいまって魅力のある、しっとりとしたまちが残っている。
先日小浜市長松崎晃治氏から、小浜の魅力についてレクチャーを受けた。小浜では古寺、古仏が数多く完全な状態で残っており、京都や奈良が戦乱や火災で文化財が失われたのと異り、小さな城下町に、村人に大切に守られてきた260もの文化財がある。日本でも稀にみる魅力を秘めたまちである。
私は故郷長浜と言葉がよく似ており、親近感を持っている。年に何度か訪れるたびに、ホツトする癒しの時間を楽しんでいる。

世界経済

9月25日
世界経済
日経新聞の署名記事の「経済の戦に敗れ島々も」を読んだ。1995年から2010年への15年間のGDPの伸びと世界でのGDPのシェアを一覧表にした論評である。
       GDP伸長倍数  1995年シェア  2010年シェア
  日本     1倍      18% 9%
アメリカ   2        25       24
中国     8        3 10
ロシア    5        1       3
  韓国     2        2       2
全体     2       100      100
この表を見て、何を感じるか、これを、日本経済の低迷、影響力の低下と見る人が多いことだろう。日本経済の輸出入のデータを比べてみると、
              輸出      輸入  合計 億ドル
1990年    2870      2348  5218
2000年    4793 3797  8590
2008年 7864 2.7倍 7626 3.2倍  15490 3.0倍(対1990年比)
輸出入では可成り伸びていることがよくわかる。
更に1990年頃から、世界のボーダレス化が進み、日本から海外への進出が積極的にはかられ、日本の企業もグローバル化していった。日本の本国に直接関係なく、海外での取引が急速にふくらんだのである。その点でも配慮が必要であろう。
もっと大事なのは、グロスの数字の把握である。現在でも日本はアメリカの世界シェア
1/4に続いて、中国とほぼ同じグローバルテンの位置を確保しており、その実力は世界2・3位の高い地位にいる。決して経済戦争に破れたわけではないし、国土の島々をとられたわけではない。あまり枝葉末葉にとらわれすぎるのはいかがかと心配している。

1000万分の1のサイズの地球

9月24日
1000万分の1のサイズの地球
福井の駅前のビルで、キッズグローブという名の子供向の環境教育とデジタル地球大学という名の大人向のものをスタートしたのは6年前のことである。当時の福井県の山本副知事のテープカットでオープンし、最初の講師は竹村健一氏のご長男竹村真一氏にお願いした。目玉はアメリカのナサより提供してもらうデジタル情報や、世界各国の過去数百年のデータそして気候変動の気温の変化、未来のシュミレーションを目の前で表現してくれるシステムだ。毎月1回開催する講演会に、私は皆出席をして、多くの環境問題のヒントを知ることが出来た。
その一つが東北地区で発生する巨大津波情報である。これは明らかに予想可能なものであったが、指摘した科学者は少く、マスコミも何一つ報じなかった。
その二つ目は日本列島が黄金の国ジパングといわれたように、日本列島周辺には、金の大鉱脈があるということだ。これは未だ完全に証明されていないが、金の鉱脈が出来る課程を考えれば日本周辺の海底に眠る金の存在を容易に想像することが出来る。金鉱脈はマグマが地上に噴出する瞬間に組成される。その深度は僅か1km以内である。
レアーアースも世界各地に存在する。これも地球のなりたちから考えれば当然のことなのだ。
地球は太陽のまわりを回り、月は地球のまわりを回っている。デジタル地球儀を見続けていた私は、そこから多くのことを学んだ。世界は一つ運命共同体ということだ。

お燗

9月21日
お燗
日本酒はかっては燗をしてのんだ。私の父は熱燗が好きだった。私は常温の酒が飲みやすかったが、当時は燗をしてのむことが殆どだった。常温は神前でいただくお酒、結婚式の三々九度の酒、樽からのマス酒など限られていた。高級料亭などではぬる燗、上燗、熱燗など、区別してくれたが、人肌や日向などの言葉も教えられた。先日酒蔵の蔵元とおかみを囲む会でぬる燗を久々に飲んだ。感激した。そのぬる燗以外のお酒がすべて冷やしたものだったからだろうか。秋の明月を九頭竜川の鮎の塩焼と地酒のぬる燗でいただくことにしょう。ああ甘露甘露。幸せの一時である。

パート社員9割にアップ

9月20日
パート社員9割にアップ
日本の雇用が心配だ。スーパー業界の雄ヨーカ堂はかって日本のスーパー業界をダイエーと二分していた。パート社員の比率は当時から高かったが、2015年度を目標に現在社員約8600人を半分に減らすという。4300人の正規雇用がなくなることになる。かって私達は終身雇用制の上にあぐらをかいていた。それが今では若者のニートやフリーターの増加、パート社員、派遣社員の急増という雇用不安の中にいる。日本独特といわれた終身雇用は社会の安定に大きな効果があった。努力すれば報われるという安心感があった。
ヨーカ堂の人事戦略は、正社員を4300人減らし、パート社員を6800人増やして、サービス向上、販売力の強化をめざすという。減らされる側に立てば、これ程人間の能力や意欲を無視した話はない。そしてパート社員の急増やニート・フリーターの増加は年金制度を破壊するだけでなく、経済を低成長に追込み、社会不安を増大させてしまう。
経営者の英知と博愛精神を信じたい。人を人として扱う愛にあふれた経営を切望する。

日本の家電

9月19日
日本の家電
テレビを中心に日本の家電がここ数年の間に、韓国や台湾の家電メーカーに、追い抜かれ、3月末の決算で各社共大きな赤字を計上した。シャープは急激な株価の下落が経営を大きく揺さぶっている。単なる一企業の経営危機にとどまらず、その影響は日本経済全体に及びつつある。雇用問題である。パナソニックは世界全体で13,000人の社員を既に削減、ソニーは10,000人削減を発表、シャープも世界で5,000人国内で2,000人を減らすという。これは下請や孫請への発注を減らすことになり、それぞれ雇用不安が起きてしまう。
シャープの亀山工場が完成した時は「亀山モデル」ともてはやされて、賞賛をあびたのを忘れることは出来ない。栄枯盛衰というが、変化のスピードの早さに適確に対応することが大切だ。サムスンの低価格、中品質、韓国ウォン安、韓国政府と一心同体の世界販売体制など、日本勢が敗れた原因は明確である。そして最も大きな敗因は、日本メーカーの内向思考である。この5年間の日本政治の空白もその一つであるといえよう。

節電の次は節水

9月18日
節電の次は節水
首都圏の水ガメはカラに近づいているという。平成8年以来16年ぶりの渇水状態となった。首都圏の各地で取水制限がはじまっている。東北地方でも同じように水不足が深刻だ。果物や作物の出来にも大きなマイナスの影響が出ている。昨年春以来節電の要請により、企業も官公庁も家庭も節電に多くの知恵を絞り出した。電力会社の予想を上回る節電が実行され、昨年も今年も電力危機は回避できた。そこへ水不足が問題になってきた。節電の次は節水だ。世界的に見ると、水不足や電力不足の問題は日本では異状事態だが、外国ではひんぱんに起きている。日本ほど恵まれている国は世界では珍しいといわねばならない。今年の水不足も日本人の知恵とみんなの努力で乗り切っていきたいものである。

日本の家電

9月19日
日本の家電
テレビを中心に日本の家電がここ数年の間に、韓国や台湾の家電メーカーに、追い抜かれ、3月末の決算で各社共大きな赤字を計上した。シャープは急激な株価の下落が経営を大きく揺さぶっている。単なる一企業の経営危機にとどまらず、その影響は日本経済全体に及びつつある。雇用問題である。パナソニックは世界全体で13,000人の社員を既に削減、ソニーは10,000人削減を発表、シャープも世界で5,000人国内で2,000人を減らすという。これは下請や孫請への発注を減らすことになり、それぞれ雇用不安が起きてしまう。
シャープの亀山工場が完成した時は「亀山モデル」ともてはやされて、賞賛をあびたのを忘れることは出来ない。栄枯盛衰というが、変化のスピードの早さに適確に対応することが大切だ。サムスンの低価格、中品質、韓国ウォン安、韓国政府と一心同体の世界販売体制など、日本勢が敗れた原因は明確である。そして最も大きな敗因は、日本メーカーの内向思考である。この5年間の日本政治の空白もその一つであるといえよう。

節電の次は節水

9月18日
節電の次は節水
首都圏の水ガメはカラに近づいているという。平成8年以来16年ぶりの渇水状態となった。首都圏の各地で取水制限がはじまっている。東北地方でも同じように水不足が深刻だ。果物や作物の出来にも大きなマイナスの影響が出ている。昨年春以来節電の要請により、企業も官公庁も家庭も節電に多くの知恵を絞り出した。電力会社の予想を上回る節電が実行され、昨年も今年も電力危機は回避できた。そこへ水不足が問題になってきた。節電の次は節水だ。世界的に見ると、水不足や電力不足の問題は日本では異状事態だが、外国ではひんぱんに起きている。日本ほど恵まれている国は世界では珍しいといわねばならない。今年の水不足も日本人の知恵とみんなの努力で乗り切っていきたいものである。

日本酒の魅力

9月14日
日本酒の魅力
日本酒造組合中央会が発表した2011年度の日本酒の出荷量は、16年ぶりに前年を上回ったという。前年を1.2%上回った。長い間続いた減少傾向に歯止めがかかったのだろうか。今年の7月の出荷量は、前年比6%アップとなった。東日本大震災で東北の酒蔵が大打撃を受け、これを支援する活動が成功して、東北の酒蔵の出荷が大きくのびたとのことである。私は日本酒が「日本の宝」だとの信念を持っており、それを守る為の運動を、福井を中心に、約3年前に開始した。地酒を愛する会「五百万石大名会」の結成を呼びかけたり、酒蔵めぐりのバス旅行を企画した。そして結局、福井駅前に小売店舗を開設した。観光客へのPRを兼ねてJR福井駅構内と小松空港内に、福井県産の地酒36蔵の大看板を自前で掲げている。昨年に引続き、東京南青山291で、9月16日・17日の連休に「福井の酒とそばを楽しむ会」を開催する。日本酒の盡きない魅力、ワインやウイスキー、ビール等とは比較にならない深い味、伝統の成果をぜひ味わってほしいと願っている。

三世代同居

9月13日
三世代同居
福井県は三世代同居が多い。そして別居の場合も近くに住むケースが多い。孫の教育は、父母でなく、祖父母が受持つ。祖父母はまた祖父母に育てられた。即ち一世代25年とすると、約100年を遡っての知識と経験を共有することが出来るのが、三世代同居の最大のメリットである。そしてそこには死と生の折りなす連綿と続く家族の絆が、目に見える形で残されている。個人として、小単位で生活する不安、孤立する不安は全くない。福井県が幸福度日本一に輝いた最大の要因は、三世代同居の慣習とそれを求める厳しい自然環境、そしてそれを許す大きな家の存在である。米作りを中心とする兼業農家が多いことも影響を与えている。幸福は経済的な側面よりも精神面での安定が重要な鍵を握っている。家族の絆、三世代にわたる長い絆がもたらすもの、それが幸福だ。


ロンドンオリンピック

9月12日
ロンドンオリンピック
オリンピックがおわり。日本はメダル獲得数で、史上最高となった。合計38個のメダルだ。特に女性の活躍がきわだった。最近の日本はいろんな分析で、自信喪失のケースが目立っていたが、これを契機に、自信を回復してほしいものだ。元気な女性にひっぱられて、男性も発奮しようではないか。オリンピックでは、大きな感動をいただいた。選手と応援する人々が一心同体になって、強敵に挑戦する姿に勇気づけられた人は多い。
共に力を合わせて戦った団体競技手は、いくつものメダルを獲得できた。日本人はチームワークがよいとよくいわれるが、今回はそれを証明することが出来た。
残念という場面もいろいろあったが、日本女性の強さとチームワークのよさが目立つ大会となった。史上最高のオリンピツクを共に祝いたい。

友情

9月11日
友情
男は、喧嘩したり、言い争った後、急に親しくなることが多い。男の友情の特徴であろうか。私の会社は創業16年を過ぎたが、私の同級生が社外監査役を勤めてくれている。竹馬の友だ。多い時には、竹馬の友の総勢5人が役員を勤めてくれた。おそらく他に類を見ないと思う。それは私が59才で創業したことが理由の一つである。みなが心配して、集まってくれたのだ。今は安定してきたので、私を含めて3人が残り、あとの2人は相談役となっている。有難いことと日々感謝している。男の友情は無口でも意志は通じる。何もいわなくてもわかる。
イジメの問題が嘩しいが、男は仲間の中で切磋琢磨して強くなっていく。過保護になりすぎたり、ブレーキをかけすぎたりすると男性が男性らしく育たない。男は強そうに見えるが、実は弱い人間が多い。男性の自殺者は、女性の倍以上なのだ。男を男らしく育てているには群させることが重要だ。先生をせめすぎると、今度は先生の腰がひけてしまう。自責の心を持たず、何事も他人のせいにする現代の風潮は誠に困ったことだ。先生は先生らしく、親は親らしく、まわりの人々も協力して責任ある行動をとり、大切な子供達を育てようではないか。

桜守

9月10日
桜守
桜は日本人が最も好む花木である。だが桜のことをよく知っている人は案外少ない。桜は祖先はヒマラヤ桜である。桜は数多くの種類があるが、ソメイヨシノが全国で最もポピュラーである。一番早く成長するので、花を見るまでそんな年数はいらない。欠点は寿命が短かいこと。花の風情がどの木も同じなので、プロは好まない。名木といわれる桜は男性的な太い幹の山桜か、しだれる彼岸桜が名木として有名だ。ソメイヨシノは殆んどない。でも私は好きだ。ソメイヨシノは並木として植えられたり記念樹として植えられたりしたので、群生しているので一斉に開花すると見事だ。私は毎年桜を植えることにしているが、ソメイヨシノも多く含まれている。桜は嫌地性があり、同じ種類の桜が何代も続くことは出来ない。同じ種類の桜の子供を同じ場所に育てるには土をすべて入れ替えなければならない。実生の桜はヤマザクラ、ヒガンザクラ、大島桜の三種類だけで、あとの桜はみな接木で育てる。接木は私にはムリだが、名人は日に数百本の接木を夫婦でするという。実生の桜は、嫌地性のせいで、鳥に種を他の所へ運んでもらう必要がある。鳥は虫をたべて生きている。木の実だけでは十分ではないので、虫が必要だ。即ち実生の桜は鳥や虫の力を借りて移動して歩くのだ。数百年をかけて移動して歩く。植物は動けないと思っていると間違ってしまう。桜は千年単位で見てみると、大移動しつづけているのだ。全国各地に桜の愛好家が多い。桜を愛でるだけでなく、桜の命を守る桜守と呼ばれる方々だ。桜は弱い。雪や風に弱い。折れたり切ったりすると、そこから腐りはじめる。直ちに手当が必要だ。適切な手当でないと命とりになる。だから見守ってくれる桜守が求められている。桜は花が散った時から、ほゞ一年近くをかけて、次の年の花芽の準備をはじめる。だから夏の気候が不順だと来年の桜が心配だ。今年の夏の猛暑を、私の桜達はどう乗り切っていくのか。桜を通して地球を心配している。

うれしいこと

9月7日
うれしいこと
仕事がうまく進まない時がある。努力しているつもりだが何故かうまくいかない。打つ手打つ手がダメになる。そんな時がある。
そこでチェンジだ。自分で自分の心のスイッチを切りかえるのだ。変化を待つのでなく、自分の意志で、自分の心の状態を切りかえる。そうすると新しい天地が目の前に広がってくる。必ずそこにはうれしいことが待っている。今迄どんなに努力してもうまくいかなかった状態を脱して、うれしいことがおきる。天の配剤であろうか。負のスパイラルにおちこみそうな時、私はいつも自分で自分の心のスイッチを切りかえる。今日もまた、うれしいことが起きることを信じている。

第55回キラリ会

9月6日
第55回キラリ会
5年間続いているキラリ会(県外出身者で福井で活躍中のオピニオンリーダーの会)のスピーカーに、久しぶりに学者を招いて開催。テーマは「ブータン王国と福井県の幸福について」福井大学教育地域科学部の月原敏博教授にお願いした。先生は1985年ブータンのマサコン(マサガン峰)初登頂者の1人で、ブータン研究者としても有名。私が理事長を勤めるNPOの副理事長をお願いしている。ブータンのGNH(国民総幸福)は、1976年第4代国王が提言。しかし国際的に注目され出したのは1990年代半ばよりとなり、王立ブータン研究所が設立されて、内容が充実していった。ブータンミュージアムを福井県に開設する意味は、ブータン王国が福井県と非常に良く似たところがある反面、国民のほとんどが幸福を実感している理由をよく考えてみたいからである。経済的に豊かになっていくと逆に幸福を実感しづらくなっていく。その理由を考えたい。小さな国や福井県のような地方から、幸福や平和優先の思想を内外に発信し、不条理な大国支配の世界を変えていきたいと念じている。

チケット販売スタート

9月5日
チケット販売スタート
例年東京南青山で行う秋の地酒祭が近付いてきた。8月25日そのチケット販売が福井県のアンテナショップではじまった。2日間で500人近くの日本酒愛好家が集う。今年の趣好は「越前おろしそば」と「へしこ」を酒の肴に選んだ。へしこ博士の小坂康之さんときき酒師の友田晶子さんの講釈を交えて、福井県産自慢の銘酒の数々を楽しむことが出来る。ブース出展は十蔵。その他に特別出品もある。2日間にわたって、各2時間づつ、4回のステージで楽しむことが出来る設定とした。チケットは南青山291(福井県アンテナショップ)と九頭龍地酒百蔵と各蔵元で販売を開始した。

五百万石大名会

9月4日
五百万石大名会
加賀百万石の前田家の向うをはるわけではないが、五百万石大名会をはじめて早や2年が経過する。福井県産の酒造好適米の五百万石にちなんで、福井のすばらしい地酒を内外に宣伝する為に、オピニオンリーダーにお願いして作った会である。会長は前知事、ロータリークラブパストガバナーの栗田幸雄様である。今度の例会場は福井の料亭の雄浜町の開花亭で開く。酒蔵は吉田酒造白龍。蔵元とおかみが、200年以上の長い歴史と伝統を維持し、発展をつづける酒談義を期待したい。貴釀酒と銘打った昨年新しく誕生した銘酒で乾杯できることと思う。生貯という300ml入の小瓶が私の愛用の夏の定番の地酒である。

太子党

9月3日
太子党
中国のトップを占めているのは、かっての大物の子弟達が多い。これを太子党と呼んでいる。太子党は中国だけの現象ではない。伸び盛りの国々でも同様である。日本でも政治・行政面で太子党が非常に多い。太子党は人々にある程度の安心感を与える要素がある。またその人を取りまく利権の継承にもつながっており、油断すると腐敗につながってしまう危険がある。日本では検察を含む司法の独立性や権威が弱く、行政をチェックする監査委員の数が不足しており問題である。オンブズマン制度が少しづつ機能しだしているのは心強い。私達は人物本位で政治家や行政のトップを選ぶ見識を持つ必要がある。
親の七光りに目がくらんでしまっては、最良の人物を選ぶことが不可能になってしまう。心しなければならない。

行うこと

8月31日
行うこと
知ることと行うことは全く違う。異次元の世界ほど違う。私達は知る為に生まれてきたのではない。何か世の為人の為になることを為すために生まれてきたのだ。人生のどの段階においても、私達が追い求めるのは「幸福」である。私はそれを「喜びと幸せ」と表現してきた。幸福の青い鳥はどこにいるのだろう。山の彼方か、海の向うか、大河の向岸か、人は遠くにそれを求めるものである。ところが賢者の意見では、それは目の前にある、自分の身近かにあると教えている。幸福を追求するのは、平和を追求することに重なる。私はこの幸福を平和をしっかりととらえる鍵を作ろうと考えた。そしてブータンミュージアムを創ることにした。数多くの友人達に相談したところ、殆んど全員が賛成してくれた。そこで私は立ち止った。「みんなが賛成する仕事は危い」と古来よりいわれている。おそらく多くの困難が待ち受けていることであろう。慎重に一歩づつ踏み出していかざるを得ない。慎重に、ゆっくりと、しかし志は高く、夢は大きく持ち乍ら努力していきたい。「行うことに意義がある」と、自らを奮いたたせている毎日だ。

子ども人口時計

8月30日
子ども人口時計
東北大学の吉田浩教授が今年のこどもの日から、ネット上に子ども人口時計を表示している。日本の人口の内、100秒に1人の速さで子供が減る現状から計算すると、1000年後には日本の人口はゼロとなるというのだ。1000年を迎える前に日本は地球上から消える運命にあるということを主張したいのであろう。
勿論、現実には各種の対策が打たれて、日本消滅とはならないだろうが、油断は禁物である。
子供の人口をふやすには、結婚する男女をふやすことだと婚活が盛んになってきた。晩婚化の傾向を、前だおしすることも必要となる。子供のいる家族の幸せをもう一度思いおこして、若い人達に、家族の大切さを説きつづける毎日である。

足羽川ダム

8月29日
足羽川ダム
足羽川は福井市の中心部を流れる一級河川だ。信じられない人も多いと思うが、堤防が決壊し福井商工会館の地下が水没し、10億円を超える被害が出た。またJR越美北線の鉄橋が流失したり、堤防を越えて氾濫したり、流域の広範囲にわたって甚大な被害を出した。ずっと以前(1967年度)から上流にダム建設の案が出され、徐々に建設の機運が高まっていた後の大被害だった。直ちに着工と誰もが思っていた時、政権が変り、必要性の再検証がはじまり、すべての動きがストップした。今月になって再スタートに合意、年度内に環境アセスと住民補償を終えることとなった。この間失われた時間は3年半、まさに政治の停滞、先送り体質そのものといわねばなるまい。一事が万事、こんなことが、東日本の各地で、起きていないことを祈りたい。

女性起業家

8月28日
女性起業家
福井県の夫婦共稼ぎ率は58%強と全国一。社長輩出率はダントツの一位。そして女性就労率も一位である。この背景には3世代同居率の高さが女性の職場進出をうながし、家族の絆の強さを証明している。また地域での女性の活躍も、当然ふえていく。それが豊かで暖かい社会を築き上げている。農家の女性達も元気だ。集落営農組織化の進展に励まされ、農産物の加工・販売へ進出しだしている。
2002年度末107グループだった福井県下の営農グループは、11年度末は132グループと増加した。ピークの08年度末は147に増加、その後統合により数は減少したが活動は活性化しているという。
商品のブランド化、惣菜店の出店、レストラン開店など生産から加工・販売まで農業の6次産業化の旗手として活躍をはじめている。織田の剣神社前の惣菜レストランは古くからの私のなじみの店であり、新保の店も時々利用する。農協系の喜ね舎は大人気であり、福井の農業の明日を狙う女性起業家達の活躍に期待している。そのような活発な女性起業家達の福井駅前への進出を熱望する一人である。

隣人祭

8月27日
隣人祭
少子高齢化がすすんでいる。人口の将来予測によれば75才以上の高齢者比率はどんどん上るようである。そこで問題になるのが、年金と医療そして住宅問題だ。75世帯が住んでいる私のマンションは年に2回の隣人祭を行っている。孤独死や孤立感が高まるのを防ぐと同時に、地域の絆のはじまりの意味で、管理組合主導で行っていただいている。評判は上々で今回も大人50人余、子供20人余が参加した。子供達がお互いに役割を決めて、スイカ割、そうめん流し、かき氷、わた菓子を作ってくれた。大人達はもっぱらバーベキューの火の番を交代でつとめてくれている。数多くの差し入れがあり、そうめん、ビール、ジュース、地酒、お菓子、ツマミと盛り沢山だ。回を重ねるごとに賑やかになり、住民同志が親しくなるのがうれしい。ピアノをかこんで子供達の明るいコーラスを聞いていると隣人祭のありがたさがよくわかる。

ボランティア募集

8月24日
ボランティア募集
先日、ブータン王国に関する展示会が、埼玉県北本市で開かれているので、見学に出かけた。群馬県境あたりでは36°Cの猛暑であったが、館長の堂本泰章さんは福井出身とのことで担当の佐々木隆馬さんと共に親切に案内していただいた。展示品は山本けい子さん所蔵品と写真家の関口さんの写真パネルとセーレンのビスコテックス、そしてブータンでの学校風景や授業内容などのJICAから派遣された百瀬圭子さん提供の資料などが展示されていた。昆虫、植物の標本も並べられており手作りの展示会としての暖か味を感じさせるすばらしいものであった。圧巻はセーレンのビスコテックスで示された人物像や踊り、建物などだった。迫力があった。私達もセーレンと交渉中で一日も早くテーマを決めて制作に入りたいと考えている。驚いたのは、ボランティア登録者の数だ。約120名の方々が登録されており、清掃や手仕事などで協力されている。
私達は10名のボランティアを募集しており、早速受付をはじめている。広報の得意な人、カタログをつくれる人、英語のできる人、好奇心旺盛な人、いい企画がつくれる人などご協力下さる方を求めている。身近かにおられたら、ぜひ紹介してほしいのでご一報を。

福井発の可能性

8月23日
福井発の可能性
地方の時代といわれて久しいが、福井から発信する機会が急に増えた。大飯原発3号、4号についての報道である。西川地知事の顔がテレビで再々拝見できた。沈着な理づめの対応に安堵感を持った日本人は多かったものと思う。特に滋賀、京都、大阪の知事や一部の市長の稼働反対のもの言いは驚くと同時に、受益者としての自覚のなさに義憤すら覚えた。ところが急転直下反対に稼働を受入れるとの発言には更に驚かされた。北米大陸の7月の気温が平均より1.2度上昇しという史上最高となった。しかも史上最高は4ケ月連続と報道されている。温暖化ガス削減という世界全体の目標を安易に下すわけにはいかない。英知を絞って変化に対応しなければならないが、右往左往では困る。西川知事の発言のように、沈着冷静な判断を、中長期展望の中で、しっかりと把握してほしいものだ。
福井発で今ナウイのは恐竜博物館と一乗谷朝倉遺跡のニュースである。そこにもう一つ福井中心市街地の中に「ブータンミュージアム」を開設し、全国に向けて発信をつづけていきたいと考えている。オープン予定は11月17日(土曜日)と決めて、目下連日の急ピッチの準備をすすめている。「幸福の国ブータン王国」と「日本一幸福な県、福井」とを比較しながら「真の幸福とは」について考察していきたい。楽しいところ、面白いところ、喜びと幸せを感じるところを目指していきたい。

高田好胤師

8月2 2日
高田好胤師
ブータン王国のGNHという国家目標に同感し、「幸福」という面から人生を見直すことをはじめている。そして般若心経の「空の心」を表現した高田好胤師の言葉を思い出した。
   かたよらない心
   こだわらない心
   とらわれない心
   広く広くもっと広く
講演の前に合掌して、大きな声で、これをいわれた好胤さんは若かった。私も若かった。
岐阜青年会議所の会員の頃だった。その時からもう40年が過ぎて、今「幸福」について考え出している。
今日91歳の女性から便りをいただいた。「幸福」についてである。少し引用させていただきたい。
   喜びは共に喜び、悲しみは慰め合い
   互にやさしい真心で相手を守る
   家族の絆こそ大切なり。
   健康で趣味に生き、夢と希望を高く持ち
   忍耐、我慢、努力して成就する時
   ひしひしと幸福舞い来る美しさ。
   核兵器無くして、平和祈るなり。       久我君代
高田好胤さんから学んだ筈の私は、今日また久我さんから大切なことを教えていただいた。感謝。

ブータン王国ロケ

8月21日
ブータン王国ロケ
笑福亭鶴瓶の家族に乾杯のロケがブータン王国で行われるとのこと、誠にすばらしいと喜んでいる。鶴瓶さんは、かってのNHKの「のど自慢コンクール」の宮田輝アナウンサーと同じように、今や日本の新しいアイドルである。その鶴瓶さんが話題沸騰中のブータン王国へ行くという。「家族に乾杯」というテーマで、三世代の家族が住むブータンの家庭を訪れることと思う。
ブータンの民家は大きい。そしてあまり密集していない。家族の絆はとても強い。広い仏間があり、そこは祖先を拝む神聖な場所であり、客人が泊ることもある。家族は次の居間等で、スキンシップを十分満喫できる環境で暮している。役所に残業はない。ブータン政府が家族との触れあいの時間を増すよう国民に求めているのだ。
幸福の源は「家族」である。そこにスポットをあてるNHKのロケは、私達の狙いにピッタリだ。人々の眼が家族の絆、地域の絆に向うことを願っている。

山の彼方の空遠く

8月20日
山の彼方の空遠く
ポーランド領の詩人カール・ブッセが作り、上田敏が訳したこの詩は多くの日本人の共感を呼んでいる。日本は古来より山国で国境は峻険な山で隔てられていた。山の向うは別世界である。その山を越えることは至難の技であった。他国へ出ると国を捨てることになる。農民も武士も町人も、山をこえると常に命の危険にさらされた。自由に往来できたのは一部の商人、それも天領に根拠を置く商人は有利であった。束縛されると人は想念の世界でその限界を飛びこえていく。そこに山国特有の、山の向う側には幸福の国があるという話が生まれる下地を感ずる。私は子供の頃に汽車の旅をすると、トンネルの向うにまた同じような風景が広がっているのに驚いた。同じような家があり、畠があり、森があり人々が住んでいた。今でも目をとじるとその時の感動がよみがえってくる。ヒマラヤ山脈の北側の人々は南へ行くと幸福の国があると信じていたように思う。この考え方は世界各地に残っている。山の彼方が、海の彼方になったり、大河の向う側であったりすることはあっても、現状からの脱出が、心の紐帯を解き放ったのである。

8月17日

マンション生活をはじめて気付くことはお互いの絆が弱くなることだ。カギ1本で自分のプライバシーを守ることは出来るが、それが逆に絆を弱め、孤立感を高める。人は1人では生きられない。地域社会と共にある。隣人愛が必要なのだ。ところがマンションライフでは努力しなければそれが実現しない。私のマンションでは敷地内の花壇を開放してガーデニングクラブを作ってもらった。月何回かメンバーが花壇のお世話をしながら植栽やガーデニングを楽しんでいる。
「隣人祭」もやっている。孤独死を絶対なくそうという固い決意で声をかけあってお年寄りのミーティング、茶話会をやっている。その他ワイン会やジャズの集いも人気がある。子供達に人気があるのはやっぱり隣人祭だ。それぞれに役割分担を決めて責任を持って手助けをしてくれる。3世帯同居が崩れつつある現在、そのよい点を残す代替手段を実行することが求められている。
小学生達は朝早くマンション入口に集まって、集団登校を行っている。新しい形のコミュニティが出来つつあるのを感ずる。その根底を流れるのは、共生の心であり笑顔である。声かけ運動を大切にしていきたい。

創立20周年県立大学

8月16日
創立20周年県立大学
福井県立大学が今年創立20周年を迎えた。1992年4月開校時の入学志願者は、全都道府県から男女あわせて10,344名にのぼった。約37倍の競争率である。特に生物資源学科は75倍をこえ、花形学部となった。現在4学部、3研究科がある。経済学部は日本海側県立大学では珍しい。遅く開学したのは、先に誕生した大学のよい点をとり入れ、よくない点は避けて通ればよい。小規模な大学は、マンモス大学の弊害をとり除けばよい。地方の大学こそが自然環境に恵まれている。国際化時代を迎えて、どんどん海外との交流を深め、真の国際人を育ててほしいと念願している。下谷政弘学長と久しぶりに約1時間程意見を交したが、国際化の推進に一層の努力をすることで合意した。学長には日本ブータン幸福学会設立発起人に加わっていただくことになり、「幸福」「GNH」を学問にまで高め、世界の学究がこの福井に集う日をお互いに夢見たい。全在学生にTOEICを受験させたり、ESSルーム(英会話だけの部屋)の開設、海外語学研修制度の拡充など意欲的な具体化の取組みは誠にすばらしい。広大なキャンパス、緑一ぱいのキャンパスが、若さではちきれる程発展されるよう祈っている。

幸福の国

8月10日
幸福の国
18世紀から20世紀にかけてヨーロッパ諸国は世界中を植民地化していった。特にアジアは殆んどの国々が侵略された。日本はその流れを断ち切らんとして、英米に戦いをいどんだ。
石油を封鎖され、やむにやまれず誘い出されたとの説もある。
その時、中国は列強によって各地が浸しょくされていた。ロシア、アメリカ、イギリス、フランス、オランダそして日本が各地に権益を確保していたのであろう。それが第2次世界大戦の終結と共に、各国の独立運動に火がつき、アジアは僅かな間に民族自決が進んでいった。米ソ冷戦の時を得て米中対抗の構図が見えてきた。
かって中国での日本の権益拡大に反対したアメリカは、最近では中国の武力拡張に神経質である。折角独立を果したアジア諸国に対して、中国の圧力は強い。21世紀を平和の時代にしたいという願いは、等しくみんなが願っている。その中で私は「幸福」という目標を掲げて、武力を排し、特権階段を排し、利他の心でつなぎあえる世界を夢見ている。その為にささやかではあるが私の住む福井で、幸福度日本一といわれる福井で、GNHを掲げるブータン王国の幸福を研究し、世界の英知が集まる所を創りたいと考えている。

YOSAKOIイッチョライ

8月9日
YOSAKOIイッチョライ
県都の福井市中心部で第59回フェニックスまつりが開かれている。炎天下に若者の明るいエネルギーが爆発。しかしよく見ていると、子供達や男女の老人も無心に踊っている。
よく揃った踊りと同じ衣装なのでみんなが若々しく見える。今年は過去最多の69団体が参加した。約3400人の踊り手が、私達のいるブータンミュージアムの前の電車通りを通行止にして、躍動感あふれる踊りを披露した。石川県、滋賀県からも7チームが参加してくれた。民謡「イッチョライ節」は1962年(S.37)北陸トンネル開通にあわせて作られた。それを1999年「北海道のYOSAKOIソーラン」を参考に、「YOSAKAIイッチョライ」が作られ、今日の隆盛を迎えたのである。その陰には出田夷市さんをはじめ多くの若者達の協力があった。すばらしい事業の裏にはチームワークと情熱とすばらしいリーダーの存在がある。福井らしい夏祭りが長く定着し、発展することを祈りたい。

水俣病

8月7日
水俣病
水俣病が確認されてから早や56年が経過した。私の学生時代だった。皇族に関係する企業ということで、対応は慎重を極めていた。その後事実認定がすすみ、救済策が次々と打ち出されていった。しかし56年はあまりに長い。多くの方々の悲しみ、苦しみ、なげきは筆舌に盡し難いものがある。少しでも早く、少しでも多くの方々の救済を祈りたい。日本の過去の公害問題で最大の不祥事である。手厚い医療や福祉を実行すると共に、地域振興策も当然行わねばなるまい。幸いにも被害者手帳が交付されると聞き、その運用にたっぷりと愛情をこめていただきたい。

地下埋蔵物

8月6日
地下埋蔵物
日本の宝は地下に埋まっている。エジプトだけではない。特に福井は、若狭も越前も古代から先進文化圏だった。今回は日本六古窯の一つといわれる越前焼の窯跡が25基も発見された。越前町織田地区平等に21基が中世のもの、残る4基が近世のものという。連房式の登窯跡を発見したとのこと。おそらくより広い地域で古窯が埋まっていると思われる。
日本は木造建築の文化である。自然崇拝の文化である。大規模な大洪水が何回も何十回も何百回も発生している。大噴火も多かったと思われる。その為地下に埋まっている遺跡の数々は眠ったままになっている。発掘された地下埋蔵物をデータベース化することにより眠っている古代文化の真の姿が見えてくる。眠れる古代国家「越のくに」の発見を夢見ている。

日本海国土軸

8月3日
日本海国土軸
東日本大震災の復興が遅々として進まないのは誠に悲しい。財政出動が行われ、日本中、世界中からの救援資金が送られているにもかかわらず、その予算執行が遅れ、その配分が進んでいない。私は津波におそわれた危険地区、原発被害を受けた地区はすべて国が買上げて国有地にするのが一番復興が早いと考えている。買上げ価格は首長と国交省のネゴで決めればよい。売買事例、固定資産税評価、相続税評価の高い方を基準とし、その1.5倍〜2.0倍などのラインを決めてどんどん実行していくのだ。直ちに資金が国民にゆきわたり、新しい投資が次々と生まれてくる。日本海国土軸が再び三たび脚光を浴びてきているが、国有地として買上げた資金はその為にも有効である。太平洋側での巨大地震発生の確率の高さは、日本海国土軸建設の必要性を示している。これを決断できない政治は誠に危いといわなければなるまい。今回全国知事会が国土軸の複線化に真剣に取組む姿勢を示したことは何よりの快挙である。

銀行融資の怪

8月2日
銀行融資の怪
1991年度の銀行貸出し残は約500兆円、そしてピークは1996年5月の536兆円だった。それが現在395兆円に減少、ピークより26%強の141兆円も減っている。資金が金融市場から141兆円もなくなってしまったのである。そしてここ数年一向に回復していない。しかも中小企業向けの信用保証付融資が35兆円程も含まれている。いかに融資態度の腰がひけているか、誰にでもわかる。銀行の役割は市中の余剰資金を吸収し、資金を必要とする企業や個人に貸出すことである。その役割が十分果せていないようだ。20年の失われた時間を作ってしまったのは政治だけではない。金融機関も大いに反省してもらいたいものだ。
東日本大震災の復興資金は約20兆円といわれている。とても莫大な資金が用意されたのだ。その反面この16年間に141兆円もの貸出しが消えてしまっている。いかに大きな資金が市場から引上げられたかを知って驚いている。

海洋国家日本

8月1日
海洋国家日本
1万年以上前から日本は海洋国であった。まだ国という観念が定着する以前から海との関わりが深かった。第一次世界大戦前はイギリス・ロシアが世界最強の海軍力を持っていた。そして日露戦争がおき、日本はイギリスの目に見えない支援の下、ロシア海軍にうちかった。第二次世界大戦前の軍縮会議では日本海軍の軍事力を下げる国連会議の決定を受けて日本は国連を脱退し戦争への道を歩きはじめたのであった。
現在は日本は海軍はない。しかし艦船の保有は世界一のアメリカにつづく第二位である。約44万トン。約160隻を保有している。アメリカの最強の第七艦隊の約2倍の戦力があるのは駆逐艦隊である。海洋資源の保護のための防衛力ではあろうが、国民の知らない一面である。

共稼ぎ社会

7月31日
共稼ぎ社会
 福井県が幸福度日本一になったというニュースほどうれしいものはない。なぜ福井県がと思う人は多い。福井県は共稼ぎ社会なのだ。ダブルインカムどころかトリプル以上のインカム家庭が多い。三世帯同居が多いのでそうなる。長寿社会になって祖父母、夫婦、さらに子供達まで働いているケースが多いのだ。こんな友人がいる。祖父母は二人とも元教師、現在は二人共多額の年金を受けとり豊かな生活を送っており、夫婦はまた二人共役所勤め。景気の心配はない。長男は大学を出て東京で働いているが生活が苦しいので毎月生活支援の送金をつづけている。長女は結婚して福井に住んでいるが勤務帰りに実家へ立ち寄ってくれる。これまた働いている。1人当りの給与は決して多くないが、家族すべてが働くということで家族当りの総収入額は予想以上に多い。経済的に安定していることが幸福の必要条件の一つになっている。

教育、医療を考えた住宅投資

7月30日
教育、医療を考えた住宅投資
日本の都会の住宅は貧弱である。所得の低い国々へ行っても、東京の住宅事情よりはるかにレベルが高い。ブータン王国の平均的住宅は日本トップクラスの富山県に近い広さとレベルを保っている。日本の住宅投資は、20年経過したらスクラップという伊勢神宮の遷宮制度と同様の短期的なものになっているところに問題がある。富の蓄積につながらないのである。この蒙は啓く必要がある。ここから住宅投資を再開しなければならない。
それ以上に可能性のある住宅投資は、少子高齢社会の到来にふさわしい新住宅建設である。子供の成長を促す住宅、老人向リフォーム住宅からスタートし、次の段階へ進むのだ。
次の段階とは、教育のための集合住宅の建設と老人達のための集合住宅の建設である。
この二つのニーズは大きな新しい可能性を秘めている。住宅と教育、住宅と医療という組合せは大きな投資のチャンスを生み出すであろう。

世界一のお金持

7月27日
世界一のお金持
日本の政治、経済、一般社会の各層における停滞感は一体どうしたことだろうか。自信喪失の極みである。実情をもう一度見直す必要がある。日本経済のピークは、1980年代だといわれている。そして株価も地価も1990年を境に下降局面に入り、「失われた20年」を迎えている。1988年タイム誌よりのデータと現状を比較するとそのパワーは大きく成長している。
国連分担金日本は世界の11%だったが2010年は12.5%に上昇。
海外援助10億ドルだったが      〃   47億ドル〃
国防予算300億ドル 〃        〃 422億ドル〃
対外純資産2400億ドル〃       〃   3兆ドル〃
対外資産は約600兆円と第2位のドイツを大幅に上回ってダントツの世界一。
国内の個人金融資産は約1500兆円でこれまた     〃
〃 不動産資産は約2200兆円   〃       〃
日本は小さな国であるが(国土の広さは世界では60番目)ご先祖様の努力、先輩の努力で僅か100年程の短期間に世界有数のお金持になったのである。その自覚をうながす為に自虐史観を止めると共に正しい現状認識をし、新しい世界観を確立したいものである。

もったいない哲学

7月26日
もったいない哲学
16年前の創業時に「駐車場革命」を大きく掲げて、月極駐車場のムダを有効活用するシステムを全国に広めていった。月毎に土地を貸す方法を改めて、時間毎に土地を貸す時間貸駐車場システムの採用である。その根底にあるのは、すばらしい立地にある土地のムダ使いを排し、より有効な活用へのグレードアップをすすめたのである。そして大風をまきおこし、急成長をとげた。
 今またそのチャンスがめぐってきた。エネルギー革命である。石油、ガス、石炭などの炭素エネルギーからの脱却がはじまろうとしている。そしてもう一つ、集中型エネルギー供給から、分散型エネルギー供給への変化である。これは大変なビジネスチャンスであると同時に地球温暖化防止の切り札でもある。
 今遊んでいるのはコインパーキング場の上空であり、ビル・マンションや住宅の上空である。この有効活用は世の中を変える力がある。当社のお客様のコインパーキングは全国に約4000ケ所近くある。約36万坪の更地である。この土地の上空の有効活用が私達の第一の使命である。更にビル・マンションの屋上の活用が求められている。もったいない哲学を極めていけばその可能性は無限である。

静岡の感動経営

7月25日
静岡の感動経営
7月24日に静岡駅前で坂本光司先生の感動経営のセミナーが開催された。先般坂本先生等の調査分析の結果福井県が幸福度日本一だとの発表があり、福井県民の一人として一言感謝したくて参加した。
そしてブータン学会の発起人に名を連ねていただくよう要請することも併せてお願いしに行った。開口一番喜んで参加しようとの熱い言葉をいただいた。感謝。
 当日は長野の中央タクシー宇都宮恒久会長の発表と、香川の靴メーカー徳武産業十河孝男社長の発表があつた。企業の成長発展の原動力は人である。社員であり、社員の家族である。みんながお客様を感動させる程の奉仕を行うことにより、社員も喜び仕事が楽しくなる。感動は感動を呼び大きな流れをつくってくれる。
 伝説をつくるのは社員の努力であり、社員がその気になればすばらしい伝説が毎日いくらでも生まれる。社長は信念を常に口にし、いい続けることによって会社は変る。具体的な事例を述べられて会場は感動と涙につつまれた。人の心を動かすのは信念であり、利他の心であることを気付かされた。

ギネスブック

7月24日
ギネスブック
104才の現役画家、豊田三郎画伯の個展が福井県鯖江市の「まなべの館」にて開催されている。104才の現役画家新作展である。
30号の大作、杉百態シリーズが9点、20号が3点、その他12号、10号、8号、6号と、合計31点が展示され、しかもすべてがこの半年以内の104才になってからの新作である。               
まさにギネスブックに登録したい大画伯の力作揃いである。先生の油絵は少しはなれて見ていると不思議な光を帯てくる。輝き出すのである。絵に命を感ずるのだ。
 最近足が少し弱られて車椅子で来場客の挨拶を受けておられるが、相変らず104才とはとても思えぬ迫力だ。いつも元気をいただいている。
 今回の個展は福井新聞、FBC福井放送、福井テレビの後援で開催された。ギネスブツクに登録せよとアドバイスした。
 展覧会の後、娘さんご夫妻の住む長野県へ避暑に行くとのこと。更に記録の更新を期待し、大版のスケッチブックを先生に進呈した。福井の宝、日本を代表する現代画家104才の豊田三郎先生のご健康、更なる活躍を祈っている。

支店長会議

7月23日
支店長会議
創立以来社内会議はテレビ会議が中心である。年に数回スキンシップをする機会をつくる為、全国の支店長会議を福井本社で行っている。今回は子会社の代表を含め約50名があつまった。16期業績は売上、利益共、前年を上回ることが出来た。役員、社員の努力とお客様お取引共に感謝したい。
先般メインバンクの三菱東京UFJ銀行の本店の幹部社員が福井へ来てくれた。地方に本社がある取引先の企業は多いが、三菱がメインバンクなのはおたくだけですといわれ、驚いた。そして分譲中のマンションを案内したところ「ロケーションも、品質も、最高レベルだ。会長何も心配いりませんよ」といってくれた。東京の専門家の目から見て、よい物件だといってもらえたのは有難かった。油断は出来ないが自信がついた。マンション完売が今年のテーマである丈に、心強い言葉であった。
支店長会議では、未来型商品開発ともったいない哲学について話をした。未来型商品はハイブリッド発電機やノンフラップ型コインパーキングや課金可能充電システムなどである。駐輪システムなども早く完成してもらいたいものだ。
大企業は生産設備をどんどん海外に移しつつある。自ら墓穴を掘らなければよいがと心配している。私達はない知恵を必死に絞り出して、新しい未来型商品の開発に注力していきたい。

地酒百蔵

7月20日
地酒百蔵
「福井の地酒讃歌」の第2弾は「五百万石大名会」の開催である。メンバーは50名限定で現在40名余りの会員であと10名ほど入会可能。毎回福井を代表する酒蔵の蔵元(社長)が直々に自慢の酒を紹介していただいている。日本料理と日本酒のマッチングがすばらしく、メンバー全員が必ず満足してくれる会である。
福井の地酒ファンの伝道士をふやす為でもあるが、福井の地酒文化を味わい尽す会でもある。年間4回開催し、年会費制格安会費なので、蔵元よりの寄贈に助けられている。福井の料亭文化の振興をも視野に入れ乍ら、地酒ファンをふやしていきたい。

地酒百蔵

7月19日
地酒百蔵
福井駅前の西口再開発にゴーサインが出た。私達が福井県の名産品の代表的存在である地酒を紹介する販売コーナーをつくって一年半が経過した。
主なテーマは「福井の地酒は日本一、世界一」だった。一年半前に36蔵あった地酒蔵はかろうじてまだ健在である。あと十年たてば日本酒文化が世界を席捲することを信じて努力している。まず地元福井県民に地元の宝物を再認識してもらう為に「酒蔵めぐり」をはじめた。1回に3〜4蔵をまわり、蔵元直々に案内していただき試飲する。1軒で4〜5種類のおいしい酒を試し、昼食には福井の料理と共に地酒を楽しみ、観光バスの旅を満喫する。正に天国に遊ぶ旅である。JR福井駅で別れる時は千鳥足の人もいるほどだ。2人1万円でおみやげ付のおねうちツアーである。知らない人が多いので、口コミで宣伝して歩いている。次回は10月に奥越から福井へのコースで、一及谷、真名鶴、北ノ庄の三蔵をたづねる旅を予定している。

幸福をかこう

7月18日
幸福をかこう
自分の幸福を表現するということは可成り難しい。その難しいことを、全県下の幼児から老人まで自由に発表してもらおうと始めたのである。「みんなで幸福をかこう」というイベントだ。絵に描いてもよい。書で表してもいい。詩の好きな人は詩で表現してもよい。俳句、和歌何でもいい。好きなように自由に「幸福」を創るのだ。自分流の幸福を思い通りにかいてほしい。そしてよい作品を表彰したい。福井駅前のおいしいレストランや和食の店、そばやさんのお食事券ペア分が副賞である。1000人位いの人に描いてもらいたい。
1万人位いの人達に見ていただきたいと考えているのだが…。幸福についてトコトン考える機会を創っていきたい。

小浜市

7月17日
小浜市
「夢、無限大、感動、おばま」を打ち出して二期目。無投票で再選した小浜市長の松崎晃治氏に期待している。これからつばき回廊跡の再開発が求められることと思う。中心市街地の活性化は全国各市の緊急の課題であるが、この解決策はなかなか見えてこない。コンパクトシティへの方向性ははっきりしているが、郊外へのシフトが進行してきたここ50年来の行政感覚の中での急反転は、至難の技である。
小浜市は福井県の西端にあり、市内に原発はないが、至近距離にあり、原発の歴史と共に歩んできた町である。それだけになお中心市街地活性化の思いが強く、私は再開発プロジェクト「オバマワールド」の建設をアドバイスしている。高齢時代を迎えて高齢者が楽しく暮せる街、オバマワールドである。
オバマ大統領の応援団勝手連と同じように、私も小浜市応援の勝手連をつくっているのである。敦舞道路が完成すると、福井・小浜間は現在の2時間半から、1時間余りに短縮される。その日を一日千秋の思いで待っている。

窓を開ければ

7月13日
窓を開ければ
私は時々窓を開けるクセがある。真冬の吹風の日でも気が向くと窓を開ける。嵐の日でも気が向けば窓を開ける。窓は心の窓でもある。重苦しい空気を変えるキツカケになることもある。窓を開けるという単純な動作が、自分の思索の方向を変えたり、心境を変える。それが自分の人生につながる場合もある。窓を開けるという小さな動作によって心が大きく変化することが多い。目を開けよ、もっと大きく目を開けよと誰かにいわれているような気がする。
ブレークスルーという英語をオイルショックの後で会社の年間の標語にしたことがある。日本全体が閉塞状態に陥っている時代に、最もふさわしい言葉であった。私はこのブレークスルーをその後しばしば経営の根本精神の一手法として重宝させてもらっている。閉塞状態を突破するブレークスルーは「窓を開ければ…」の心とウリ二つである。

マスコミの罪

7月12日
マスコミの罪
日本のマスコミ、特にバブル前後から低俗化が激しいマスコミの罪について私見をまとめてみる。マスコミは世の光である。人々を先導し正しい方向をさし示すべき大切な役目を与えられている。私の友人は、出版社をはじめ通信社 新聞社 雑誌社そしてテレビ局 最近ではネット通信まで幅広い。その友人達に批判めいた事はいいたくないが、最近の傾向があまりにひどいので一言いいたくなった。
まず意見を述べる報道が少ない。これはマスコミとしての使命を忘れつつあるようで最も悲しい。世を変えるのは少数の賢者である。
勇気ある勇者である。そしてそれに続くのは私達愚者である。賢者としてのマスコミ、勇者であるべきマスコミ、これを忘れてもらっては困る。
またその二は「よい報道」が少い。「悪い報道」ばかりとはいわないがあまりに多すぎる。世間には善い人達、平凡だけれど真の人間として立派に生きている人達が多い。その人達を捜し出し私達に教えてくれるマスコミであってほしい。よい報道を見聞した日は一日中何となく楽しい。そんなすばらしい一日を人々に与えてくれるすばらしいマスコミを期待する。

時間

7月11日
時間
時間はあらゆる人に同じように平等に与えられている。富者も貧者も名門の者も中流の者も全く同じである。アメリカ人も日本人も同様である。ただ時間には大きく分けて二種類あるようだ。その一つは生まれてから死ぬまで続く継続して動いていく時間である。この時間の概念が最初に述べた「時間」である。ところがもう一種類の時間があることを私達は知っている。それは繰り返される「時間」である。再生の時間、よみがえりの時間、日々新たなりの時間というと判り易い。朝目覚めると一日がはじまる。夜眠ると一日が終わる。一年の計は元旦にありというのも一年という区切りの中の限られた時間をいう。この全く違う二つの時間の概念を上手に使って生きるととても面白い。古人はこれを巧みに使いわけ、風流を生み、宗教を生み、文化を生んできた。日本人は一年を実に四季に分けただけで満足せず、これを二十四季節にわけて一年を楽しんでいる。一日一日をゆとりを持って、その変化を楽しみながら時間を上手に過していきたいものである。

書斎の生活

7月10日
書斎の生活
少年の頃、夢見たのは書斎のある生活であった。長浜の生家の二階の一室を改造して、父と二人で私の書斎を作った。本棚を作り、机と椅子を運びこんで、本を並べてみた。蔵書などという程のものはなく、父や年長のイトコから寄付してもらった。大学時代は下宿生活だった。その後商社に就職しても書斎らしきものはなかった。生まれてはじめて岐阜に自分の家を建てた時に応接間兼用の書斎を作ったが、完成して2年程で転勤となり、また借家生活となった。それ以来、福井、鎌倉、外房、永平寺と住宅を新築する度に書斎にこだわったが、気に入ったものが出来なかった。書斎は思索のためのスペース。同時に調べものをするのに快適で便利なスペースである。何となくホっとする空間でもある。最近では会長室の壁面全部を本棚として蔵書をつめこんでいる。書物を分類しようとは思うのだがなかなかその暇がない。先輩方の書斎を訪れて、我身を反省するが、あっという間に一日が過ぎてしまう。理想の書斎の生活とは程遠い毎日である。

平均余命

7月9日
平均余命
男性の平均寿命は79才。女性は85才である。これには若くして亡くなった人もいるので、あとどの位い生きるのかを考える場合は、平均寿命でなく平均余命で考える必要がある。
75才男性の平均余命は11.5年程である。すると86.5才までということになる。私の祖父は88才、母は86才の長寿であった。88才を自分の目標として、これからの人生を考えると、まだ十数年の可能性が開けてくる。団塊の世代の65才の人にとってはあとまだ23年の可能性が残されていることになる。23年という年月は逆算すると42才の時から65才までの間に等しい。これから大活躍の可能性があることに気付く筈だ。私は59才で創業した。これからも88才に向って夢への挑戦をつづけるつもりである。ロータリークラブの先輩達は88才をこえてなお矍鑠とされている方が多い。今なお第一線で働いておられる方々である。但し後継者にまかせ乍らであることを忘れてはなるまい。

幸福の108ケ条

7月6日
幸福の108ケ条
ブータン王国のGNH研究に刺激されて私なりに幸福論を書き出している。「幸福とは何ぞや」をテーマに世の幸福論を読みあさっている。そしてそれを108のぼんのうにたとえて、「幸福の108ケ条」にまとめようと努力している。日本ブータン学会を立ち上げて、多くの識者にお願いし、幸福研究のメッカを創りたいと考えているので、その下準備というか、私なりに幸福を勉強したいと思い立ったのである。8月1日から1ケ月間ブータンミュージアムの建物の県内認知度を高め、事前に興味を惹起する為に幼児から老人迄の幅広い方々を対象に「みんなで幸福をかこう」というイベントを行う。この催しは毎年開催したいと考えているが、同時に日本ブータン学会を毎年福井で開催し、ブータン研究家、幸福論を研究する学者をあつめて「みんなの幸福」を議論する場を提供したいと考えている。

天空を彩る大スペクタル

7月5日
天空を彩る大スペクタル
朝4時。東の空が白みはじめる。今日は梅雨の間の好天気か、これからの1時間はまたとない至福の時となる。天空をいろどる一大スペクタクルがはじまるのだ。私のマンションのリビングルームは東と北と西に窓が開いている。特に東と北は全面窓である。朝焼けは東方だけだろうと思っていた私の誤解を見事にといてくれたのがこの朝の日の出のショーである。東も北も西も南も天空一面にあかね色に染め上げられていく。自然のすばらしさ、人間の小ささに気付かされた一瞬である。刻々と移り変る空と雲の色と形は一瞬の油断も許さない。本当に変りつづける。今日もまた幸せな気分で一日をはじめることが出来る。梅雨の間にもこれ程すばらしい日もあるのだ。

四島返還は当然

7月4日
四島返還は当然
四島は日本の島々である。千島列島と樺太南半分も1945年8月までは日本の領土であった。それをソビエトはポツダム宣言受託の直前に、日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満豪国境をこえて南進し、樺太も千島列島も占領したのである。沖縄を占領したアメリカは、その後日本に返還しているが、ロシアは未だ日本の国土をわがものにしたままである。報道を見ていると「四島返還」が難しいように表現されている。1956年10月に「日ソ共同宣言」に調印し、国交が回復したが、それには齒舞群島と色丹島を引渡すと明記された。そして国交回復はしたが、未だに返還されていない。1993年には「四島帰属」に関する問題を解決し、平和条約を締結するという「東京宣言」に署名した。1997年には2000年までに平和条約を目指すことで合意、だがいまだに実行できていない。そもそも四島だけでなく、樺太南部や千島列島すべてを返還すべきものを、四島どころかニ島だけの返還では絶対に満足すべきではないはずだ。「引きわけ」は四島返還であり、残りの千島列島や樺太開発を日ロが協力して行うべきである。そういう提案をすべきである。弱腰外交では何の進展もないことを認識しなければならない。外交はパワーゲームである。日本の力は今のところ理論武装と経済力である。この点を十分考慮して今度こそ平和条約を結んでほしいものである。

観世流能楽

7月2日
観世流能楽
初夏のすばらしい一日、京都の観世会館で第15回片山九郎右衛門後援会能が開かれた。
近くを流れる白川では、小魚を釣る人、川の中で犬とたわむれる人、それを見物する人
など、強い日ざしをさけて、木かげの風を受け乍ら楽しい一時を過している人達がいる。
今日の演能は片山幽雪先生シテの楊貴妃(平調返)と片山九郎右衛門さんと片山清愛君の望月(古式)である。
片山幽雪先生は病後ということで大変心配して拝見していたが、楊貴妃の霊魂が幽冥から呼び戻されて舞う姿は誠に命のともしびがゆれ動くようで見事であった。共に鑑賞していた友人の「美しい能面でしたね」の一言は余韻の残るいい表現であった。九郎右衛門さんの望月はまた違った魅力にあふれていた。年々すばらしい味が深まっている感じで、後援者の端くれとしてもうれしい限りである。「発表の機会が多いという恵まれた環境にいるので有難い」と謙遜されているが、実力は大したものである。

夢の話をしょう

6月29日
夢の話をしょう
今年の私のテーマは「夢の話をしょう」と正月に決めていた。一年の半ばとなり、その進捗状態をチェックする必要があると思い、ここ数日間考えている。
かってお金は「力」に集まった。権力を持つことで多くのお金がひとりでに集まっていったのである。個人も企業も国家も、権力を持つことに最大の努力をした。20世紀は経済と権力が結びついた時代であった。21世紀を考えてみると、経済や権力では如何ともしがたい問題が次々と表面化してきている。地球環境の悪化と地球資源の枯渇問題が世界共通のテーマになってきた。私は21世紀は心の時代と位置づけている。20世紀のギスギスした経済力や軍事力、政治力に人々が群がった時は過ぎ今世紀は他人を幸せにする、市民を幸せにする、国民を幸せにする時代となる。絆や連携によって世界が結ばれていくのである。
そこで「夢の話をしょう」となったのである。夢は無限である。
半年が過ぎて福井市の中心部に「ブータンミュージアム」を開設することにして準備中である。有効展示スペース約450屬離灰鵐僖トなミュージアムであるが、世界唯一のものにするべく、ない知恵を絞っている。資金も無い、知識も無い、収集品も無い私達であるが、多くの人々のご支援をいただいて、少しづつ形を整えつつある。「幸福」をテーマにブータン王国の紹介と福井との比較をしながら、運営をしていきたい。ブータン政府には5年〜10年はかかると伝えたが、3年もかからずに出来るだろうと励まされ、走っている。
私の夢は「喜びの種、幸せの種を蒔こう」である。

第53回キラリ会

6月26日
第53回キラリ会
キラリ会は今回で第53回目となり、「たかがファッション、されどファッション」の題名で、朝日恵子さんにスピーチしていただいた。娘さんの竹沢史恵さんがイタリアのミラノから帰国されていたので一緒にイタリアのファッションの現状をお聞きしたくて特別招待をさしていただいた。現在はMIUMIUミラノ本店に勤務されている。戦後朝日恵子さんの母上が福井で文化服装学園を創立され、繊維王国といわれた福井県にあって、ファッション産業の基盤となる人材育成にたずさわってこられ、現在の朝日恵子さんに至っている。
いずれ三代目の史恵さんにバトンタッチされると思われるが、すばらしい地域貢献、産業貢献、社会貢献である。話題は歴史にはじまり、種々の文化活動に及び、最後はその仕事にかける情熱に、メンバー一同大いに力を与えていただいた。
いつもながらの多田伸会長の挨拶は暖かい気配りが感じられ、日銀の松原所長のウィットに富んだお礼の言葉もうれしかった。
今回参加の常山酒蔵の常山さんから、今年の全国酒蔵品評会で金賞を射止めたお話があった。息子さんが初めて共に醸した大吟醸酒だとの紹介に全員感謝の拍手。ご提供いただいたその金賞の大吟醸酒に一同大いに心地よい酔いにつつまれた。繊維王国福井県は今でも健在で、繊維製品産出額は1位の愛知県、2位大阪府、3位福井県である。人口割にすると福井県はダントツの第1位である。ファッションも世界一の座をめざして朝日恵子先生親子のご健闘を祈りたい。

歩くということ

6月25日
歩くということ
健康維持のために何かやっているかという質問を受けるようになった。ゴルフは10年前から止めている。登山もハードすぎると思い止めて久しい。ボートはもっと前に止めた。やっているのは単に歩きまわることぐらいだ。目的があって歩いているのではない。生活のために歩いているのだ。1日1万歩はとても歩けないが、出来る丈車を使わず歩くことにしている。注意しているのは歩き方である。大またで両手を大きく振って歩いている人を見ることがあるが、私は恥かしくてそれはやっていない。歩き方に緩急をつけている。急ぎ足で出来る丈早く歩いたり、急にゆっくり歩いたり、大またにしたりと自分で歩き方を変えている。姿勢がよくないので、足元に気を配りつつ、遠くを見て歩いたり、階段の上で、下も早く歩いたり、遅く歩いたり、リズミカルにと工夫している。歩くことを楽しんでいるのだ。しかし加令と共に歩くスピードは遅くなる。かっては2段づつかけ上った階段がムリになってきた。歩いている女性に追い抜かれることがある。これもまたよい刺戦として、まけないように追いこしている。

富の偏在

6月22日
富の偏在
経済学の常識から云えば、富の偏在は恐慌を生む。その富の偏在が世界的に進んでいる。中国やアメリカそしてEU諸国は勿論、日本においても豊かな人は豊かに、貧しい人は貧しくなっている。1992年から2011年までの約20年間の世界人口は1.27倍に激増した。その間の世界のGDPのトータルは1.75倍となった。スラム人口は1.26倍である。明らかに富の偏在が進行している。それは失業率や国家財政破綻となって表面化しつつある。
この対策は何か。これも経済学の常識である。富者から貧者への資産移動を促すことで解決する。日本でいえば、贈与税の徹底的な見直しと、寄附行為を激励する為の課税緩和であり、高額所得者に対する税率アップである。富の偏在は日に日に進んでいる。対応を誤まればまた世界大恐慌がおきかねない。今、私達はその入口に立っていることを悟らなければならない。

ドル抜きの円・元交換

6月21日
ドル抜きの円・元交換
USドルの将来はどうなるのか。心配する人は多い。円借款は大分以前から行われていたが、実質的には、間にドルを介して実施されている。ところが今回の、日本と中国がドルを介しないで、円と元の交換に同意した。21世紀はアジアの時代といわれているが、世界の通貨の中で円と元をトータルにするとその比重は大きい。ユーロよりも大きい。ドルとユーロと並んで、円や元が世界通貨の地位を占める日は、そう遠くないかも知れない。

日本をリードする報道機関

6月20日
日本をリードする報道機関
日本の国論をリードしてきたのは新聞テレビ雑誌を含む報道機関であった。最近ではインターネットの普及により、その影響力が弱くなりつつある。ライブドアによるフジテレビ買収が一時的に世間を賑わしたが、深く静かな流れが進行していると見るべきであろう。
日本は敗戦後67年ものと長い間、法律の改正があまり進んでいない。それと同時に報道機関の体系も固定化してしまっている。それが最近になって各分野で革新の動きが激しくなってきた。大変よいことであるが、もっと変革のスピードを上げてもらいたい。最近の失われた20年の停滞の原因は、法律や言論界、政界、官界の制度疲労の影響が強い。とりわけ日本の将来をリードする報道機関の英知に、私は期待している。

酒蔵めぐり

6月18日
酒蔵めぐり
JR福井駅から歩いて15分のところに福井を代表する地酒蔵がある。国道158号線大野街道沿いに酒蔵が並んでいる。蔵元は女主人、数年前に逝去された夫君の遺業を立派に継いでおられる名経営者である。ご子息も最近経営陣に加わり、まさに細腕繁昌記を地でいく名実共に福井の名門酒蔵の道を歩いておられる。いつも蔵元をはじめ杜氏、蔵人達の真心のこもった季節の便りをいただいている。読んだ人を地酒ファンにしてしまうすばらしい便りである。「常山(トコヤマ)酒造」の「常山(ジョウザン)」である。常山は女性経営者の繊細で美しい気配りがビンのデザイン、キャップのデザインにも施されており他の酒蔵とは一味違ったものになっている。酒蔵めぐりで訪れた私達の全員に、「常山御来蔵記念」と銘打った生貯蔵酒を頂戴した。蔵元は大阪出身なので「ヨソものや転勤族の英知や経験を福井で生かそう」という主旨の会「キラリ会」のメンバーで、いつも溌剌とした意見をのべられて会の活性化に貢献していただいている。酒蔵の特徴は四季おりおり数多くの品種の銘酒を次々と目先をかえて案内してもらうことである。そのたびについ飲みたくなる心づかいがうれしい。先代の蔵元は「地酒推進運動」のはしりの方で、福井県酒蔵業界の若手を代表する方であり、今でもそのファンは多い。常に身近かにある地酒としてぜひ愛飲したいすばらしい銘酒である。「ドレス」と名付けられた大吟醸酒の小瓶はその形といい、ビンの色といい、そして何よりもその地酒の香り、味、すべてが極上のものである。手にとってみると忘れられない感触である。試飲の酒に少々酩酊し蔵をあとにした。

史上最低の住宅ローン金利

6月15日
史上最低の住宅ローン金利
銀行の住宅ローン金利が史上最低を更新しつつある。住宅機構の住宅ローンの金利が、民業圧迫の可能性があるというので下げ止っている中、銀行が金利引下げに動き出している。長期調達金利が極端に安い水準にあることから、この傾向は当分続くものと思われる。
マンション販売を促進する上でも非常に有利と思われるので、当社の営業へのプッシュをはかりたい。最近では個人の投資家の方々から、コインパーキング事業への投資を打診されることが多くなってきた。いろんな投資先を求めて新しい資金が出先を求め出している予感がする。分譲マンション完売に向けて、絶好のチャンス到来と思い意気込んでいる。お客様をご紹介いただき、成約できると、すばらしいプレゼントを、双方に進呈することにしている。

酒蔵めぐり

6月13日
酒蔵めぐり
福井市の中心部に足羽三山がある。町の中心にあり乍ら雑木林がよく保存されていて、里山の景色としては最高である。春の桜をはじめ、あじさいなど四季折々に市民の目を楽しませてくれる。その足羽山のふもと、足羽川沿いに田嶋酒造「福千歳」がある。初夏の一日、酒蔵めぐりで訪問した。蔵元と女将の出迎えを受けて一同早速酒蔵へ招じられ、中へ入る。ひんやりとした空気の中で蔵元の説明の声がひびく。今日は跡継ぎのご子息と蔵元の二班に分かれて説明を聞いた。今は既に酒造りは完全に終っている時期に当るので、特別にこうじ室に入れていただき説明を受けた。部屋全体と机など、すべてが杉のぶ厚い木材で出来ている。木の香りが心地よい。私は「福千歳」という名が好きだ。福が千代に八千代に続くという予感がする。そしてこの蔵の特徴はみなさんが研究熱心であることだ。日本中で四つの酒蔵しかやっていないというワインの酵母を使った「ライスワイン」を醸している。味わってみるとまさにワインを思わせるフルーティな地酒。早速ワイン好きの妻は二本購入した。そして「カリン酒」というカリンの味のする地酒も絶品である。更に地酒から作った化粧水、化粧品まで揃っている。大メーカーとはひとあじもふたあじも違う、独特の経営を貫いておられる福千歳さんの弥栄を祈って酒蔵をあとにした。私は福千歳の山廃仕込大吟醸「福」を3本購入した。ロンドンでのシルバーメタル、ハワイでのゴールド、シルバーメタル受賞など数々の栄誉に輝く逸品で、当分晩酌が楽しみである。この酒米「越の雫」は福井県農業試験場が長年にわたって研究開発したものである。「コシヒカリ」もこの試験場が創り出したものであるのはつとに知られるようになっている。

準備委員会

6月12日
準備委員会
第4回のブータンミュージアム準備委員会を福井駅前のエコライフプラザで開催した。毎回熱心な討議が行われてきたが、今回は新たに市観光アドバイザーの仕事をやっている安野敏彦さんが出席し意見を述べてくれた。委員会の構成も徐々に充実し、それぞれが役割を分担しながら力を結集していこうと考えている。オープンの日程も10月初旬と内定。ブータン音楽会、ブータン学会を同時にスタートさせたいと考えている。購入してきたブータンの楽器類は輸送途中で事故にあい、現在はそれぞれの専門家の所で修復中だが、ブータン音楽家でなくとも福井の人達で十分演奏できることを発見した。それぞれ出演交渉中。福井県は音楽家を多く輩出している。そして音楽の発表の場も、他府県と比較して、決して劣っていない。200人収容の小ホールから500人、800人、1000人、2000人、10000人の大ホールまで揃っている。幸福と音楽の密接な関係はあらゆる学者、医師達の同意するところであり、今後ブータン王国との交流の中で民族音楽のコラボをさぐっていきたい。ブータン学会についての準備もすすんでいる。同類の日本GNH学会、GNH研究会等にも、福井のブータン学会への参加を呼びかけている。学会で大切なことは学会長の人選だ。長くブータン研究の経験を持っている方がよいと考えている。ダショーカルマウラさんにも顧問格で参加してほしいものだ。昨日「みんなで幸福をかこう」のオープニングプレイベントに参加してくれるブータンの子供達向に、墨汁やクレヨン、サインペン、紙等を空輸した。このプレイベントを8月1日から行うのでその事前PRを今月中に開始したい。

酒蔵めぐり

6月11日
酒蔵めぐり
初夏の陽光まぶしい中を、福井のおいしい地酒を醸している酒蔵をめぐる、バスツアーを企画した。今回が4回目である。しかし毎回新しい発見があり、興味は盡きない。それと各酒蔵の皆さんの酒造りにかける情熱にふれ、試飲する地酒の一献がますます味わい深くなる。まず福井市佐野町の吉田金右衛門商店「雲の井」を訪問すると、私道の両側に並ぶ白壁の酒蔵や工場、住宅の大きさに圧倒される。店の土間から上り、店のすぐ奥の間でしばらく休憩する間にその部屋の隅に立っている等身大の魚らん観音の木彫に驚いた。赤漆塗の見事な仏像である。大海亀の甲羅に揮毫してある。天井は高い。福井県内で唯一つ、自社内で精米機を設備し、酒造りはまず精米からと、大切な酒造りの第一歩から、自らの手で品質管理をされている。先代から既に導入されていたが、新式のものにとりかえられたという。先代とは私が福井北ロータリークラブ入会の頃、よくご指導いただいた。物静かな紳士で、さすが酒蔵のオーナーだと思わせる風格をおそなえになっていた。雲の井の名前の由来をお尋ねしたが古謡よりとったとのこと。残念乍ら古謡の名前は分からないとのこと。一度調べてみることとする。雲は天をあらわすと考えれば、天の井戸からの天水で醸し出した霊酒との意味であろうか。とに角おいしいお酒である。大吟醸をはじめ数々の銘酒を試飲して、一同多少酩酊し、よい心持にて蔵元以下蔵人の皆さんのお見送りを受けつつ、帰路についた。福井市内にこれ程の古式ゆかしい酒蔵が存在していることを知り、一同感激を新たにした。

文理融合の研究

6月8日
文理融合の研究
大学は象牙の塔といわれ、専門分野に特化して研究が進んでいたので、広い視界に立った判断が出来ない雰囲気が問題となった。そこで出てきたのが「学際」という考え方である。専門分野と専門分野の間を双方にまたがって研究をしようというのである。この考え方で日本の大学の研究は大きく体質を変えることとなった。今その効果は非常に大きなものに成長してきている。そしてまた「学際」よりも劇的な大変化が期待できそうなものが「文理融合」である。一つのテーマを文化系からの研究を行うと同時に理工系からの研究を行おうとするものである。例えば大震災の根跡を古い地層の解析から進めると同時に、日本の過去1000年以上に遡って文献・古文書から調査しょうとするものである。この方法による研究も各方面にわたって大きな成果が期待できよう。
福井大学は教育系の文科と医学科そして工学科と3つの全く異った学部があり、それぞれの分野で大変熱心な研究が行われている。この3学部が共同で研究するテーマを「幸福学」にしたらどうかと考えている。「幸福学」は人類最大のテーマであり乍ら、近来とみに忘れられてきた。過去の哲人達、ソクラテス、釈迦、孔子、キリスト等は遠い存在である。鎌倉時代前後の仏教の祖師達からも、すでに1千年近くが経過しょうとしている。
「ブータン王国」が幸福度の向上維持を国是とし、福井県が幸福度日本一の評価を受けた今こそ、福井県において文理融合による幸福学の研究を是非はじめたいものである。
福井大学、県立大学、福井工大、仁愛大学などを中心に福井県では大学連提が進みつつある。この機会に「幸福学」を共同で研究することを提案したいと考えている。

日本人の悪いクセ

6月7日
日本人の悪いクセ
「先送り」は日本人の悪いクセである。嫌なことはすべて先送りしたがるのだ。そして熱しやすくさめやすいのも悪いクセである。ギリシァ問題でヨーロッパが揺れている。国家財政が破綻しそうな中で金融マフィアの攻撃を受け、傷口がどんどん大きくなっているからだ。ユーロ圏全体に信用不安が拡大し、ギリシアの次はイタリーとスペインがターゲットになりそうである。
日本はどうかを考えてみたい。日本は財政赤字がGDPの2倍ある。世界一悪い。これは早急に解決しなければ世界の金融マフィアの次のターゲットになりかねない。円が暴落すればUS弗も同じ運命となり、世界大恐慌や資本主義の破壊につながっていく。これを避けるのは世界のリーダーの一人である私達の責務である。消費税を上げ、プライマリーバランスを一日も早く正常化するのは必然のことである。これに反対する者は日本を、ひいては世界を危くする者ということになる。日本の消費税は先進国の中で最低である。もっと早く上げるべきであった。先送りされすぎてきた。景気が悪いというので先送りされてきた。先送りは許されない。議論の余地はない。消費税の大幅アップは続けていかねばならない必然のことである。景気が悪いというので、先送りをいう人がいる。世界中を見て歩けば日本が本当に景気が悪いかどうかすぐわかる。一部の人々が困っているのはすぐ対応しなければならないが、日本人全体が今にも倒れそうな状態では全くない。困っている人々への対策を立てるのは政治や行政の仕事である。消費税アップを先送りする理由にはなりようがないのである。
年々財政赤字がふえていくのは異常だと私達が気付かなければならない。そして日本は、格付会社という金融マフィアの一角と見なされている連中により、引下げに次ぐ引下げが行われている。消費税がEU並に25%になれば(5→25%)GDP500兆円の20%の100兆円の財政赤字が年々、改善できる。勿論すべての物品への20%アップは不可能であろうから、その80%として約80兆円の実効がある。約12年で財政赤字はゼロとなる。
その対策と同時に国家財政の表示を民間企業並に透明化し、資産と負債のバランスを正確に公表すべきである。正確に表示すれば現在1000兆円の財政赤字は半滅するとの見方もあり、これは早急に実施するよう政治の決断が必要だ。
5%の消費税を数年のうちに25%に引上げるとの世界への発信が今こそ求められている。この公表により日本の国債はすぐ元の最上格に格上げされることになろう。

日本人の死の軽さ

6月6日
日本人の死の軽さ
自殺が多い。そして孤立死がふえている。尊族殺人やひ族殺人も急増している。また理不尽な交通事故死に怒りをかくせない人も多い。日本人の死生観はどうなってしまったのだろうか。あまりに「死」に対して軽々に扱いすぎてはいないか。私は大いに疑問を持っている。先日ブータン王国へ行ってきた。古い日本のよさがあちこちに生きていて、なつかしさで胸が一杯になった。たまたま知人のダショ−カルマウラ氏のご母堂が85才でなくなられた直後に訪問した。49日の法要中とのことで多勢の尼僧達の読経が延々と続けられる中、弔問客が絶えなかった。輪廻転生が信じられており、霊をおくるおまつりが49日間もつづくのである。ブータン人の死の質について、その重さについて思いを新たにした出来事であった。ブータンは家族の絆が強い。そして集落の絆も強い。信仰心も強く、日常生活の中に信心が生きている。それにひきかえ日本人は核家族化し、地域の絆も弱い。信仰心も形式だけになっているようだ。死を軽んじれば、ロクなことはない。生の質(クオリティオブライフ)が問われるようになっているが、日本人は「死の質を重んじること」を求められているように思う。

ワシントンの桜

6月5日
ワシントンの桜
日本がワシントンへ桜の木を贈って100周年になる。毎年桜まつりが開かれ、特に今年は期間を延長して開催され人気を集めたとのことである。そして100周年を記念して新たにハナミズキ3千本を日本へ贈るとのことである。100年前にワシントンへ贈った梅の返礼に、ハナミズキが1915年に40本贈られていた。そのハナミズキの子孫が福井の中央公園とお堀端の順化小学校前の緑地と坂井農業高校にある。そして今年も美しい友情の花を咲かせている。その間不幸な太平洋戦争という悲劇があったが、ハナミズキは無心に咲いている。日本は美しい花列島である。日本ほど花を愛する国民は少い。今年またアメリカから送られて来るというハナミズキも大切に育てたいものである。

ブータン学会

6月4日
ブータン学会
ここ一年程、私はブータンに夢中である。関係書籍を読みはじめ、ブータン関係者の皆さんを個別訪問し、そして遂に妻を説得してブータン王国を一緒に訪問した。目的は福井県の県都福井市の中心市街地の一画に「ブータンミュージアム」を開設するためである。
収蔵品の収集をはじめたがブータン王国は「これという品物」がなかなか見あたらない。
そこで収蔵品の収集は5年10年単位でとり組むこととし、日本で所蔵されている先輩方にお願いして寄託品、預託品を集めようと思う。そしてメインのテーマを「ブータン学会」の設置と「ブータン音楽会」の開催、「ブータン講演会」の開催、「留学生」の引受け、「ブータンとの技術交流」などソフト面の充実に力を入れることとした。まず「ブータン学会」の発足の準備をはじめたい。全国の関係者への呼びかけをはじめたい。

放置自転車

6月1日
放置自転車
日経ヴェリタスに記事がのっていた。放置自転車が都市公害化しているので、「自転車用コインパーキングのすすめ」の記事である。実は私の会社もこれに力を入れている。6年前に特許をとっているが高品質のものはそう簡単に売れない。しかし普及品はどんどん売れている。自動車専用システムは毎月50ケ所ほど納入しているが、自転専用及び兼用のものも毎月売れている。
先日千葉県新浦安のJR駅前の自転車専用パーキングを久しぶりに見た。生きた植物の壁面が美しい。完成してもう5年以上経っているがメンテナンスがよく行きとどいている。そしてよくはやっている。ダイエーの駅前店の自転車専用パーキングもはやっている。放置自転車に苦しめられた浦安市もダイエーも一安心であろう、ぜひすすめたいよい商品である。

ブータンで出あった人

5月31日
ブータンで出あった人
帰日の折、ブータンのパロ空港でバンコックへ帰る日本人のビジネスマンと知りあった。23才の時、日本をとび出してアメリカの西海岸で無一文からスタートし、その後東海岸でのビジネスを獲て、中国へわたったとのこと。その後タイのバンコック空港の近郊で工場を運営し、その後青島、大連にも工場を建設したとのこと。まことにエネルギッシュなビジネスマンで、本社工場をバンコックから徐々に青島や大連に比重を移すことを検討中とのことで、中国の将来に大きな可能性を感じていると明言されていた。ビジネスの中心は海外の工場で製造した製品を日本へ輸出しているが、将来のマーケットは日本だけとは思われない。いずれ日本へ帰り、日本中を旅して歩くのが夢だとのことで、今回は日本へ帰ったつもりでブータン旅行を楽しんだという。日本を旅する時には、まず幸福度日本一の福井県からスタートすることを約束してバンコック空港で別れた。好漢の活躍を念じ24時間眠らない広大なバンコック空港前のホテルでの仮眠に向った。

ブータン王国から帰って

5月30日
ブータン王国から帰って
8日間のブータンへの旅であったが、余韻がいまだに強く残っている。いや逆に日に日に強くなってくる。到着したその日は、空港のあるパロ市も、ホテルのあるティンプー市も標高2000mをこえる高地のため、空気が希薄で頭がふらついた。階段が多いので急いで上ると目まいがした程だ。2日目にはそれもウソのようによくなり、目に入るものがとても新鮮で感動につぐ感動の日々がはじまった。私が子供の頃のなつかしい光景が目の前にひろがっているのである。GNHを国の目標としているだけあって人々の表情は明るくにこやかである。人種的に日本人と非常に近いことがすぐわかる。つい日本語で話しかけたくなる人ばかりである。礼儀正しいことや、謙虚さが色濃く残っており、あちこちに仏教寺院や水車で動いているマニ車(経堂)がある。信仰心の厚さは、かつての私達の父母、祖父母の姿を思い起させてくれる。現在の私達の姿が恥かしい。そんな反省を感じさせてくれる旅であった。

酒蔵めぐりツアー

5月29日
酒蔵めぐりツアー
今回で第4回目となる地酒蔵を訪ねる旅である。たんせいこめて醸し出している蔵元の熱い思いをうかがって、おいしい地酒の試飲が出来る。今回はJR福井駅東口の観光バスターミナルを10時出発吉田金右衛門商店(雲の井)へ、そこで蔵元自慢の銘酒の数々を試飲することが出来る。そして足羽山の大久保茶屋での昼食も楽しみである。ここのおろしそば、でんがくは絶品。福井の選り抜きの地酒をのみ乍ら足羽山の春、人生の春を楽しんだ。その後田嶋酒造(福千歳)、常山酒造(常山)と福井市中心部の二蔵をまわって福井駅帰着4時。第4回目となる酒蔵ツアーは回をすすめるたびにファンが増加している。30名限度の人気ツアーである。貸切バス、試飲、昼食付で4,000円/人。

福井の経済

5月28日
福井の経済
「福井県はなぜ豊かなのか」というテーマで書かれた本が出版された。この問いに答えられる福井人は少い。この本はまさに目からウロコで、その答えがすぐわかる。福井の特徴は3世代同居が多く、女性も男性も働き者で、フルタイムの正規労働者が多い。ダブルインカム社会なのだ。そして大企業比率は0.6%と全国最下位近いが、福井県に本社がある上場企業は15社と地方県としては人口割で見るとトップである。社長輩出数は出身地人口1万人当り175人とこれも第1位、事業所数も592社と第1位である。歴史を遡ってみると福井は「ものづくりの国」であることがハツキリしてくる。今でもユニークな技術を築き上げて、国内シェアトップの企業が並んでいる。こんな中身の濃いすばらしい本が出た。著者は日本銀行福井事務所の松原淳一所長である。キラリ会の有力メンバーで毎月明るい声で、明るい話を聞かせてくれる貴重な友人である。

つり天井落下

5月24日
つり天井落下
原発より怖いつり天井かと思うが誰も指摘しない。3.11でつり天井の落下は約2000ケ所(毎日新聞調)で起きている。そして5人死亡し、72人が負傷している。被害は東北から関東地方に及び、ほとんどが公共施設で起きている。これは明らかに人災である。建築基準法で構造計算の必要性が決められていなかった為に、これ程大きな災害が発生した。国交省はあわてて対策を検討するとしているがこれ程対策が遅れるということは、行政の体質なのであろうか。死亡者はおろか負傷者が出ていない原発に対して定期点検後の再稼働に何一つ決断が出来ない政治も困ったものであるが、やるべき事が遅々として進まない国の行政も大問題である。政治も行政も、責任ある立場である。勇気を出して正しいと思う方向をさし示し、決断をすべき時である。

不安をあおる社会

5月25日
不安をあおる社会
老後の心配をする人が多い。年金がもらえなくなるかも知れないと心配するのだ。若者達は将来年金を受取れないのなら、厚生年金や国民年金に入らないという。私にいわせると両方共間違っている。日本の年金制度はよくない。抜本的な早急な見直しが必要ではあるが、老人達が老後の心配をしたり、若者達が何十年もの先のことを心配するのはどうかと思う。年金はもらう人を少くし、払う人をふやすことが求められる。その解決方法を見つければよろしい。その為に60才定年を65才定年にすることだ。更に70才、75才と延長すればよい。人間は本来死ぬまで働くことが道理である。老後は遊んで暮らすことを求めるなどは贅沢というより間違っている。払う人をふやす方法は、女性の社会進出を助けるシステムを整備することだ。そして若者達の正規の雇用を阻害する派遣会社を再改造する必要がある。就職を希望する若者に時給で対応したり、季節雇用で応じようとする現在の社会は間違っている。終身雇用の美風の復活を強く求めたい。せめて私の会社だけでもその美風を保ちつづけたいと念じている。

LNG輸入

5月23日
LNG輸入
第1次オイルショック(1973年)以来、日本は石油依存から脱却するため、菅民協力の下種々の対策を打ち懸命に努力してきた。そしてその結果が「LNG輸入」である。現在では世界最大の輸入国となった。特に2011年は震災と原発事故の為、輸入量は急上昇した。これを可能にしたのは、石油輸入国は多いが、LNG輸入国は少いからである。LNGを輸入するには、まず専用船が必要だ。そして港湾にはLNG専用のタンク群が必要である。火力発電所の中にも専用タンクがいる。日本と同じように石油よりもLNGでの発電量をふやす為には、それなりの事前の準備、投資が求められる。それを実行してきた日本の業界関係者の努力と先見性に、敬意を表したい。しかし休止中の原発の稼働は日本経済のコストダウンに資するだけではない。夜間電力を活用するエネルギー政策を推進する為には1日も早い再稼働が求められるのである。「あつものにこりてなますを吹く」ということわざがあるが、再稼働をちゅうちょしていてはなるまい。

今年は新酒の当り年

5月22日
今年は新酒の当り年
ワインには当り年がある。当り年のワインの価格は大きくはね上る。ところが日本酒の場合は公定価格のように、いつも同じ価格である。古酒の価格が、そのコストアップ分を上乗せする程度で、品質のよしあしはあまり価格に反映していない。果してそれでよいのかどうか。日本酒の将来のために問題提起をしておきたい。今年の日本酒(新酒)の品質はとてもよい。最高だ。なぜなら昨年とれた酒米の出来がよかった上に、今冬の気候が低温つづきで、醸造の課程がスムーズに進んだ。品質は抜群である。それを酒蔵も小売店もしっかりお客様に伝える努力をしなければなるまい。お客様が日本酒を見直す絶好のチャンス到来である。

マンションライフと虹

5月21日
マンションライフと虹
マンションに住んでみて、うれしい事、楽しい事が続く。ある小雨の降る日、ふと外を見ると、美しい虹がすぐ近くに見えるのだ。手のとどきそうな程近くに虹が出ている。戸建に住んでいると気づかないに違いない。日常生活の中に楽しい気づきが続くのがうれしい。ベランダの花壇の水やりもその一つ。日々花が咲くのが楽しみである。些事ではあるが、しみじみとした喜びを感じさせてくれる。

GDPランキングと国連

5月18日
GDPランキングと国連
GDPランキングを調べていて感じたことがある。十位以内に国連の常任理事国5ケ国が入っており、同時に第2次大戦の敗戦国3ケ国が入っていることだ。即ち戦勝国も敗戦国も全部ランクインしていることだ。例外は、ポルトガル領であったブラジルが6位、イギリスの準属領であったインドが10位となっている。そしてブリックスの5ケ国の内南アを除く4ケ国が入っている。しかもブラジルは近日中にフランスを抜いて5位に上り、インドはロシア、イタリアを抜いて8位に上ることが確実である。世界のパワーバランスは年々変化しているが国連の組織も早急に見直す必要がありそうだ。

南青山味わいの会2012

5月17日
南青山味わいの会2012
昨年の秋にひきつづき、今年の秋、南青山291で地酒を楽しむ「味わいの会」を開催することとした。酒造組合をはじめ県の観光営業部の期待に少しでも答えたいと覚悟を決めた。日本酒の低迷が続いていたが、いよいよ底を打って反転しそうである。輸出に力を入れている酒蔵が伸びている。それと同時に国内でも高級ブランドが人気を集めている。販売戦略さえ間違わなければ、新境地を切りひらくことが出来よう。今秋は9月16日(日)と17日(月)敬老の日の連休を利用して、それぞれ午前の部、午後の部と4つのグループにわけて福井の越前・若狭の地酒をたっぷり味わっていただく催としたい。酒のつまみも精ぞろいさせてお客様に喜んでもらえるよう工夫をこらしている。申込お問合せは東京南青山291又は日本システムバンク又は九頭龍地酒百蔵までどうぞ。純米酒、吟醸酒、幻の大吟醸を楽しんでいただく機会としたい。

GNPランキングとGNH

5月16日
GNPランキングとGNH
世界のGNPを調べてみた。2011年のランキングである。数字は概数でGNPでなく、GDPの表示で単位はアメリカ千億ドル。
アメリカ151.中国70.日本59.ドイツ36.フランス28.ブラジル25.イギリス25.イタリア22.ロシア19.インド19.これが世界の10位までの国々であるが、GNHのランキングに入る可能性のある国はあるのだろうか。残念なことにGNHの調査では北欧諸国を中心に中小の国々がランクインしており、国連を舞台にGNHを新しい指標にとり入れることを主張しつづけているブータン王国もベストテン入りしている。GNPは20世紀の目標であったが、21世紀は心の時代であり、世界が目指すべき目標はGNHが最適だと思う。日本も一日も早くこの新しい時代の潮流にのり国民全体の幸福をめざす国への脱皮をはかるべきである。日本人の、歴史、宗教、哲学、体質、思考方法などを考えると、日本のGNHのベストテン入りは案外早いのかも知れない。その為にブータン王国の人々との交流をはかり、お互いの幸福(ハッピネス)の度合いを高める努力をつづけていきたい。

キラリ会

5月11日
キラリ会
キラリ会を設立して早や5年になる。地元にシティホテルがないというので当時最大のビジネスホテルの「ワシントンホテル」を支援して、改装を提案し、「ホテルフジタ福井」に格上げとなり、天皇、皇后両殿下をお迎えし名実共に立派なシティホテルとなった。中心市街地の核である「西武百貨店」の撤退が噂され、もしそうなると福井の中心街地は壊滅するとの危機感から、会員企業に働きかけて業績回復に協力し、一定の成果を上げつつある。JR福井駅前での再開発が105haの区域で認定され、早や10年になる。その間県や市の協力と地元各商店街の努力により、客足は戻りつつあるものの、核となるべき優良建築物は、3棟の分譲マンションが建設され、アオッサという第3セクターの複合ビルが建設されただけで最大の駅西再開発ビルは未だに着工されていない。駅舎の建設をはじめ、駅の東口、西口広場の建設、商店街のアーケード整備の一部は終わったが、商店街の活性化は今一つといった状態である。キラリ会のメンバーが集中しているこのエリアを更に魅力的なものにしていく為に更なる努力をつづけたい。それは海外と福井の関係をもう一度考え直すことと思われる。

国連常任理事国への道

5月10日
国連常任理事国への道
今から40年近く以前のことである。世界をまわっていた私は、どの国を訪れても、商社マンをはじめJETRO、大使館、エヤーカーゴ、損保会社、銀行の出先があり、日本人が生々と働いているのを見ることが出来た。当時のソビエトも中国も軍事予算に資力を使いすぎて、一般市民は貧しい生活を余儀なくされていた。しかし国連の常任理事国は、第2次大戦の戦勝国という名の下に拒否権という非常識な差別を有する5ケ国であった。そして現在もこの状態は変らない。常任理事国入りをめざす日本は、何の戦略も持たず再三チャンスを逃している。まずやるべきことは拒否権のはく奪である。こんな非民主的なことが堂々と国際社会で通っているのが間違っている。国連の経費の分担でも、IMFへの資金拠出比率でもODAの援助比率でもよいが、あらゆる公平な指数を加味したものと各国が持つ1票とを合算したもので、あらゆる問題を討論し、表決すべきであろう。日本は世界各国に約150の大使館を持っている。国連加盟国をすべてカバーしていないのは何故だろう。今回ブータン王国の国王夫妻が国賓として日本を訪問され、大きな感銘をお与え下さった。そのブータン王国に日本の大使館がないことに気がついた。駐インド大使が兼務しているのである。そんな国が沢山ある。中国はどんどん大使館を作り、日本より多くの国々と直接対話をくり返している。遅れてきた中国に大使館の数で追いこされている現状は何としても早急に改善してもらいたい。世界の国々に日本を理解してもらってこそ、常任理事国への道は開ける。やるべきことをやっていれば道はひとりでに開くのである。

世界の電力流通網

5月9日
世界の電力流通網
東京電力(東北、北海道電力を含む)は50サイクル(Hz)関西電力(中部、北陸、中国、四国、九州電力を含む)は60サイクルにわかれている。同じ国であり乍ら2つの周波数の違う電力を使っているのだ。今回の3.11の大災害で電力間の融通が要求されたが、残念乍ら現状は120万kwの能力しかない。全発電量の0.8%である。これでは融通能力が殆ど0に等しいということだ。これを2.5倍にする案が出てきたという事であるがそれが完成しても2%にすぎない。この傾向は各国では大きく異る。EUは全部同じ。南北アメリカも同じである。日本が50 Hzと60Hzの境界線になっており一番不幸な国ということだ。私は以前から世界全体をカバーする電力供給網を作ることを主張している。50 Hzの東京電力と60Hzの関西電力を統合する道は、世界全体を55 Hzに統一してお互いに供給しあうシステムを作ることだ。これを実現すると、電力の発電能力は、夜間の余剰電力をはじめ種々の合理化、節約が可能になり、同じ発電量で2倍以上の供給能力を確保できることになる。今後急増するであろうBRICSの電力需要をまかなうベストな提案である。この電力供給ネットワークは、国際連合のシステムそのものを変質させ、世界は一つの理想社会の実現即ち私達が真に希望する平和で継続可能な地球を創り出すことになるであろう。

高令者問題

5月8日
高令者問題
高令者の総人口に占める比率が毎年増えている。年金や医療費負担が増えるのはそのせいである。平均寿命は男80才、女86才で毎年少しづつ延びつつある。65才定年を迎えたとしても、男15年、女21年の長い期間蓄えたもので生活していかねばならない。この人生設計が個人の場合も十分出来ていないのと同様に、国の制度としても不備なものになってしまっている。世の中はどんどん変化しているが人間の対応が遅すぎる。老人の孤独死や、介護づかれで心中するケースなどコミュニティでの救護システムの構築を急がねばならない。孤独死の内、男の比率は80%ということだ。独居老人を温かく守る社会の到来を望みたい。

EVの非接触充電スタンド

5月7日
EVの非接触充電スタンド
コインパーキングや駐車場に車をとめている間に充電をする「echa」という充電システムを次々と開発し、特許申請をしている。更に非接触型の充電システムのニーズが高まるとの考えからこの方式の開発を行ってきたが、日産自動車から同じ考えでの新システムを世界で初めて実用化すると発表した。2014年の新型車発売にあわせて行うようであるが、開発競争は誠にシビアである。更に気を引締めて可能性に向けてチャレンジをつづけたい。

幸福とは

5月2日
幸福とは
若い頃は、幸福はある程度の財産を貯えることで、手に入ると思っていた。勿論金色夜叉のことは十分承知しての話である。しかし加令と共に、いろいろな経験を積み、財をなすことと幸福とは、あまり相関関係がないのに気がついた。財産がありすぎると、逆に幸福を手に入れるのが難しいのである。結論はまだ出ていないが、幸福とは「まわりの人々を幸福にすること」と思うようになってきた。この5年間ボランティア活動を積極的に行ってきて、なおその感を強くした。ロータリークラブの活動や地味なボランティア活動をつづけつつ、幸福の国、ブータン王国との交流をすすめたいと思っている。最近はあう人ごとに「ブータン」「ブータン」と連呼し、ヒマラヤの小国ブータン王国への関心を高めようと必死である。

誕生祝

5月1日
誕生祝
ある銀行から誕生祝をいただいた。後期高令者に対するお祝であろうか。年令問題がかまびすしい中で、思わず自分の年令を考えてしまった。私は生涯現役を心がけている。これは私の祖父母から両親そして親戚の誰もが、死の直前まで働いてきたのを見ているからである。幸せと喜びはどこから得られるのだろうか。それは毎日の生活の中にある。具体的には心と体のバランスを常によい状態に保つことから得られる。快食、快便、快活、快眠をつづけ乍ら、精神の高揚を求めるところにある。すばらしい人生を大切にしながら他人の為、まわりの人達の為に自分に出来ることを死の間際までやりつづけていきたい。

グループセラピー

4月27日
グループセラピー
ガン治療や精神病の治療によく使われるのが、グループセラピーである。あるグループに所属していると、グループの中に共通認識が生まれ、グループに対する所属意識が育ってくる。これはグループ内での情報交換をくり返すことにより自然にかもし出されるものである。自己とグループとの違いを自覚すると同時にグループとしての共通の考え方や文化が生まれてくる。この文化を治療に生かすのである。その効果は予想以上のものがあり、医療の最前線で使われている。末期ガンや終末医療などでは倍以上の延命効果を認めるケースすらあることは、人間は孤でなく、個でもなく、絆の中で生きるものであることの証左である。企業や団体の中にあって、グループ全体を統合する文化、目標、哲学など共有するものが必要である。共通の夢や希望を持ったグループは無敵である。当然そのグループの急成長が期待できるのである。

変化はチャンス

4月26日
変化はチャンス
日本の高令化がどんどん進んでいる。それと同時にシルバーマーケットは急成長しつつある。私は老人市場に興味を持っている。今後の成長市場は新興国マーケットと同時に、先進国のシルバーマーケットである。どの分野を狙うか、それが問題だ。しかしどの分野にもチャンスは一杯ある。衣も食も住もOKだ。そして趣味の世界の可能性も大きい。自分の好きな分野、得意技を生かす道を捜せばよい。時代の流れを把むのも面白い。自分で新しい風をおこすのもすばらしい。団塊の世代の再挑戦がいよいよはじまろうとしている。平均寿命は女性86才男性80才といわれているが、実際の老人の死亡予想は、女性95才男性90才と思われる。この長い老後をいかに楽しく元気で生きていくか、その為の新しいマーケットはまさに黄金の輝きを持った新市場となろう。

大学の経営

4月25日
大学の経営
アメリカの大学では、在学中はもちろんのこと、卒業後も、卒業生をサポートするシステムが出来上っている。私が卒業した同志社大学は毎年11月の第1日曜日に、ホームカミングデーがあり、京都御所の北隣りの今出川校舎を開放して行われる。毎年総長をはじめ教授連中が校内の各所に立ち、久しぶりの面会を楽しんでいる。OB、OGの会合も各県毎に組織されており、そこを訪問すると兄弟のように親しく面倒を見てくれる。私達の福井県のOBOG会は「同志社人の集い」ということで、大学と女子大学の合同で毎年開催し、100名以上が集まり、とても仲が良い。大学や女子大学からは総長や校友会長等が参加し、理想的なスタイルを維持している。寄付金を集める時も、大いに力を発揮するのは、常日頃の努力の賜物である。愛校心を高めるには「ホームカミングデー」や「同志社人の集い」をつづけたり、各地でのOBOG会の組織化が重要である。

池田町の木の里工房

4月24日
池田町の木の里工房
ブータン王国とよく似たところというので池田町を訪れた。木の里工房とは長いおつきあいである。池田町一帯はまだ雪が残っている。山林が多く、木材に関係する人々が多い。久しぶりに小型の桐タンスを見付けて店用に購入した。工房の中は木の香りにつつまれている。つい手で触ってみたい誘惑にかられる。杉本博文町長にアポなしで面会を申込んだが外出中とのことでまたの機会を期待して帰路についた。福井から1時間もドライブすれば山間のなつかしい景色や優しい人情に出あうことが出来る。福井はよいところである。

サウルコス

4月23日
サウルコス
サッカー北信越一部リーグのサウルコス福井の新体制報告会と感謝の集いが先日ユアーズホテルで開かれ、招待されて出席した。4月8日開幕を前にして石田監督をはじめ選手28人からJFL昇格への抱負がのべられた。このサウルコス福井は、「NPO法人福井にJリーグチームをつくる会」の梶本知暉理事長の下、福井にサッカーを根付かせる運動を続けてきた。地元の方々の支援のお蔭と選手1人1人の情熱によってやっと今日を迎えたものである。私は石田監督が「今までは自分の為にサッカーをやってきた。これからは他人の為、福井の為にサッカーをやる」との力強い宣言に大いに感動した。今年はJFL昇格の夢が正夢となるよう祈っている。

NPO法人「幸福の国」

4月20日
NPO法人「幸福の国」
ボランティア活動が日本で定着してきた。今度の3.11の大災害において、特にその効果的な、スピーディな、心のこもった対応に注目が集まっている。福井県はNPO法人が150団体も登録されており、人口割でみると日本一活発かと思われる。今度の災害でも何組もの団体がボランティアに出動した。その献身的な努力に深く敬意を表したい。
4月からの新年度でNPO法が少し変更になる。それを機に、私達はNPO法人「幸福の国」を立上げることとした。役員・社員50名、会員300名以上をめざして活動を開始する。福井県が本当の意味の理想郷・桃源境になるよう盡力していきたい。

幸福と健康

4月19日
幸福と健康
国民の幸福度世界一をめざしているブータン王国へ行ってみようと思う。幸福とは何かを考えつづけている私は、健康長寿という人間の夢と、幸福とが非常に近い関係にあるように思える。いや幸福と健康は長寿に限らず、年令に関係なく、等しいものと思える。ブータン王国ではどうだろう。それを自分の目で確かめに行きたい。豊かになれば幸福になれると考え、遮二無二努力してきた私達日本人は、戦後の混乱の中で経験し、みんなが持っていた小さな幸福を失い、今、茫然自失の状態である。豊かになったけれど、小さな幸せをなくした人が多い。自殺する人が毎年3万人をこえる。こくな筈ではなかったと思う。健康についても問題が出てきた。老人がふえて病院はいつも一杯だ。しかも心の病いを持った人が急増している。何かがおかしい。私達はどこで間違ってしまったのか。何を間違ってしまったのか。それを捜しにブータンへの旅を思いついた。

東洋医学と西洋医学

4月18日
東洋医学と西洋医学
オランダ医学からスタートした日本の西洋医学は最近までドイツ医学の流れで、内科系、外科系とわかれて対症療法を中心に発展してきた。精神系は最近心療内科を施せ脳と心を中心に著しい発達をしている。その特徴は心と身体とを別々のものとしてお互に影響しあう研究を行っている。東洋医学(インドのアーユルヴェーダ・漢方)が最近急に見直されてきた。その理由は心と身体を一つのものと考えて病気や健康を診断し治療するからである。いや病気と健康も別々のものとせず、病気を健康な状態の一部分として見る。健康人から病人までを7段階にわけて診断治療するのである。人間の心身は一元的なものであり、細菌、ウイルス、ガン細胞、放射線、ストレス、ニコチン、過剰カロリー、過剰塩分、過剰脂肪などに自発的に反応し、それを撲滅し、正常な状態を保つ力がある。人間には自然治癒力があるので病気にかからない人を最右翼に位置づけ、病気にかかってしまった人を最左翼にして、健康状態の良否によってその間を5段階即ちすべての人間を7段階に分類する。そのレベルは固定したものではなく食事や運動、睡眠、ストレスなどの外的影響を受けて、常に上下に変動するといわれている。健康という概念をもう一度考え直すために、私はアーユルヴェーダを研究してみようと思う。

日本の伝統文化

4月17日
日本の伝統文化
白鳳天平時代と呼ばれているのは、仏教文化の花開く天武持統天皇から淳仁、祢徳天皇の頃である。今に残る法隆寺、薬師寺、東大寺が次々と建立された。特に薬師寺金堂の薬師三尊像、東院堂の聖観音像は彫刻史上最高のブロンズ像である。岡倉天心も激賞している。東日本大震災1周忌法要がその金堂で厳修された。山田法胤師をはじめ全山の僧、数多くの参拝者と共に金堂三尊像と約1時間に亘って対面し、感激にひたった。午前11時から明るい陽ざしの中で、1300年以上もの昔に鋳造されたとは信じられない程の、生き生きとした尊像との対面であつた。
日本の国宝はそのほとんどが、仏教に関する寺院や、彫像、ブロンズ像の仏像、寺院に残る絵画などである。換言すれば日本の伝統文化の流れは、日本古来の神道よりも、インド・中国・朝鮮などを経て伝えられた仏教に求めることが出来る。そしてこれ等の伝統文化は、もはやインドや中国・朝鮮にあるよりも、日本に残っているものが多い。日本のほとんどの都市はアメリカ軍の無差別攻撃によって廃墟に帰したが、貴重な寺宝などは被災をまぬがれて今日地球上に残された。命がけで守った祖先のおかげである。子孫の宝である。この伝統文化を守り、そのすばらしさを世界にアピールする方法を考えたい。現代はデジタル時代である。この伝統文化をデジタル化してこれを世界にアピールすることをライフワークにしたいと考えている。

農業の可能性

4月16日
農業の可能性
福井県の農業は米農家が多い。都市近郊の農業ではないので野菜類の出荷が少い。果物類の出荷も少い。米の生産は1500年以上歴史を遡ってみても、米中心の農業だったことが判る。日本の米は保護され、優遇されていたから今日があるという説がある。TPPに加入して関税が撤廃されたら、日本の米は壊滅してしまうというのである。日本の米はそんなに弱いのだろうか。一粒の米は一年で何倍になるのか、知っている人は少い。一粒の米は一年で百粒になると仮定すれば七年で一兆粒になる。実はそれ以上の生産性を持っている。これ程の成長するものは他にはない。米は日本の歴史上でも特別なものである。天皇家の行事はすべて米にまつわるものである。最近でこそ外交などの行事が増えてきているが、根幹をなくすものは農の本、米に関する行事である。TPPへの加入を恐れて逡巡するのでなく、日本の米に自信を持ち、この保護育成と更なる努力をするのが政治であり、行政である。そして農業団体である。私は「米」ほどの高い生産性を有するものを他には知らない。米の可能性は非常に高い。若者の農への参入、企業の農への進出、そして米の生産性を更に高める研究、省力化の研究などやるべき事は多い。

日本海沿岸

4月13日
日本海沿岸
歴史を遡ると日本海側は長い間日本の先進地帯であった。それが僅か100年程の短期間に太平洋側と大きな差が出来てしまった。その理由は何だろう。敗戦後の日本が大陸よりも、アメリカの方を向いて、経済活動に終始したことも一因である。そして大陸の中国がロシアが朝鮮韓国が日本が学ぶべきものを失っていたことも一因である。北前船が明治に入って突然その意義を失い、急速に没落していったことを考えあわせると、輸入、輸出する物資の向先が大陸から世界全体へと変わったことも原因している。輸送手段が小型・中型船舶から超大型の船舶へ変ったことにより、日本海側の港湾整備が遅れたこともある。また海路から空路への転換に、日本海側がついていけなかった。それ等の空港や港湾の後背地に産地が集積し、コンビナートが次々建設され、雇用が生まれ、人口が集中していったのである。それを決定的にしたのが太平洋ベルト地帯を完成させた「新幹線」と「高速道路」の建設である。この交通インフラの整備によって、日本海側は完全にかっての輝きを失い、先進地帯の地位を奪われてしまった。しかし残っているものは多い。それは私達の祖先が数千年に亘って蓄積してきた文化遺産である。生活習慣である。自然との共生である。太平洋側が失った精神の高揚、美しい水、米、食料、そしてお互いの絆が日本海沿岸にはそのままの状態で残っている。これは日本の宝、人類の宝である。私達はもっともっと自分達の持っている物、持っている心に自信を持つべきである。

精進料理

4月12日
精進料理
福井は浄土真宗が盛んである。県内各地に「報恩講料理」と称する精進料理が残されている。一度食べたら病みつきになるなつかしい味である。昔から法事などで出されるお膳は、県内の河和田地区でつくられる越前漆器(河和田塗)で、食事用の器としては全国一の実績を誇ってきた。その中心に「うるしの里会館」がある。漆器は英語で「ジャパンウェアー」と呼ばれ、世界中に愛好家がいる。精進料理の膳はすべて漆器で統一され、目に入るところは金縁の赤漆塗で側面や足部は黒漆塗、フタ等には蒔絵のものもある。総じて料理の色彩を引き立てる工夫がされている。懐石料理のようにあらゆる素材を使う器の使い方でなく、漆器で統一したお膳は懐石料理の華やかさと違った、独特の雰囲気をかもし出している。鯖江市西袋町の「うるしの里会館」へ行くと「椀椀」という喫茶店でこの精進料理を提供している。「うるしの里ご膳」と指定するとよい。忘れられない味を楽しむことが出来る。
前日迄に要予約10人程度以上@2,500〜3,000円、土・日曜10時〜4時

社会保険庁

4月11日
社会保険庁
AIJビジネスの破綻とそれをめぐる社会保険庁のOBの天下りの問題が報道され、多くの識者の批判が相次いでいる。2,000億円もの国民の年金がなくなったというのである。以前から厚生年金事業団の資金で、全国各地に施設が数多く作られてきたが、そのほとんどが赤字で閉鎖された。資産売却も不透明な背景の中であまり進んでいない。その矢先の出来事である。国民の財産を国が預かっているのは元郵政省の貯金と簡易保険、そして厚労省の厚生年金が大きい。その他にも各省庁でいくばくかの預かり資産を所有しているがこれ等資産の残高が、明確に国民の目にふれる機会がない。そして「このままでは年金は支払えなくなる」という狼少年めいた発言がしばしば無責任に報道される。年金とは少くとも一世代即ち30年単位で設計され、徴収され、運用され、支給されるべきものである。その運用責任者である国から、「このままでは…」という発言が出てくるのは信じられないことといわねばならない。ましてや今回のように天下りOBの関与した不祥事には厳罰でのぞむ必要がある。

21世紀のジャパニーズドリーム

4月10日
21世紀のジャパニーズドリーム
20世紀は戦争と破壊と復興の時代であった。そして何よりも経済重視の時代であった。1950年からはじまった経済成長によって日本は、1990年には世界のトップランナーにまで登りつめた。そこで私達が手にしたのは何だったのか。その後の20年以上にわたる低迷の中で私達は苦悩しつづけた。日本のGDPが世界一になっても、国民一人当りのGDPが世界一になっても、本当の満足は得られない。それに気づいたのだ。そこで世界を見渡すと、1970年代にブータン国王(第4代)が国際会議で主張した「GNPでなくGNHを目標にする」という画期的な目標である。私は59才で起業した。その時社是を作った。社是の中身は私が長年勤務した企業の社是(私が制作したもの)をベースにしたが、その最初に「喜びの種、幸せの種を蒔こう」という一言を挿入した。GNHの思想を社是にこめたのである。岩波書店の社章や、ミレーの種蒔く人、日本の童話の花咲爺や聖書の一粒の麦にも通じる一言だ。21世紀のテーゼは「人々の幸福」である。経済を追い求める国々や覇権をいまだに求める国々に対して、その誤りをただし、正しい国家目標に目ざさせるべきは「幸福」である。「平和」である。私は自信を持って主張したい。21世紀のジャパニーズドリームは、「身心安楽即ち幸福である」これをすべての人々が目標とし、それをかちとり享受することである。

大飯原発

4月9日
大飯原発
関西電力の大飯原発の再稼働について、原子力安全委員会は妥当との結論を出した。これは経産省原子力安全・保安院の妥当との判断を了承したという事である。但し、今後の対策を求めているのが27項目にも及んでおり、地元の同意の重要度が増した表現である。
また被害拡大防止対策を検証する次の評価方法を検討すべきとの表現もあり、責任ある表現かどうかに議論が集まりそうだ。大飯原発3・4号機は国のゴーサインの準備が整った最初のケースである。福井県は福島県と並ぶ原発県である。それだけに原発再稼働に対する重要な責任と義務を負っていることを忘れてはなるまい。国もそのことをもっともっと認識し福井県民への配慮を重ねなければならない。これは基地問題での沖縄県に対する国の配慮の足りなさによる混乱と同様に、同じことが福井県でも起きないように願っている。

ブータンとの交流

4月6日
ブータンとの交流
京都大学の山岳部がヒマラヤをめざしていたのは今から30年程前のことである。そしてネパールやブータン、チベットからヒマラヤの高い峰の登はんを試みた。そこでブータン王国を知った彼等はブータン王国との交流のために日本ブータン友好協会を設立。濃蜜な関係が今日まで続いている。私達はブータン王国にロータリークラブが未だに設立されていないのを知り、この設立の為の手助けをしたいと考えている。更に青少年の交換留学、米山奨学生の受入、各業界団体の交流を行い、お互いの目指すところ即ち、幸福と平和を世界に広める運動を行いたい。
夢は大きく、志は高くを意識しながら、小さな第一歩を新年度の2012年4月1日に踏み出す所存である。

幸福

4月5日
幸福
「幸福」という言葉が日本語として使われるようになったのは割合新しい。明治時代からである。仏教の言葉だと身心安楽という。英語ではハッピネスという。私の会社では「喜びと幸せ」という。ブータン王国では国が目標としているのが「幸福の追求」である。
これは私達の多くのものが、すっかり忘れてしまった大切なものである。20世紀は世界が「経済の発展」に全力でとり組んだ時代であった。貧富の差が広がり、世界の各地で紛争が起きている。物質的な競争からは何も生まれてこない。過当競争から生まれてくるのは醜い人間の欲望であり、もたらすのは幸福とは似てもにつかぬ不調和である。
反対に身も心も安らかに楽しい環境にいると真の幸福を実感できる、そんな幸福の国を作りたい。

仏教伝来

4月4日
仏教伝来
インドで生まれた仏教はヒマラヤの北を通り中国へと伝来した。ヒマラヤの南を東に向って伝来したのを小乗仏教という。ブータン王国の国教とされる仏教は、チベット仏教の系統である。大乗仏教系である。玄奘三蔵法師が中国から遠路インドへ渡り、数多くの経典を持ち帰ったのは約1300年程前のことである。そして驚くほど早く、日本へその教えがもたらされた。玄奘三蔵法師が往来したシルクロードを故平山画伯が30年という長年月をかけて描き、奉納された日本画が薬師寺にある。見る者に仏教伝来の神秘をひしひしと感じさせる名作である。タテ2.2m、ヨコ49m、天井もすべて画伯一人の筆で描かれている。
新しい日本国の宝「国宝」の名に値いする名作である。平和と幸福の象徴といっても過言ではない。私が幼少の頃、夢中になって読んだ孫悟空の物語を平山画伯は夫人と共になぞって歩きスケッチを重ね、画室に籠って描きあげられた稀に見る大作である。
これ程の大規模な芸術作品は世界中を捜しても類がない。私が「国宝」と呼ぶ理由である。

福井の上場企業

4月3日
福井の上場企業
期末に向って株価が大きく動き出している。福井県の全上場企業の株価の動向を調べてもらった。昨年9月末の株価に対して直近の株価は、約1.2倍に上昇している。昨年の株価より下っているのは16社中僅かに3社だけ。それもごく僅かの下げである。一番上ったのはH+Fの1.7倍、前田工繊の1.55倍、三谷セキサンの1.45倍である。しかも3社共連結PBRは0.7〜0.8近辺で解散価格を下回っている。最近サンケイビルが親会社によりM+Aされた時の株価はPBR1.0を下回っていたが、買上価格はPBR1.0と同額で決着したことを契機として、PBR1.0割れの銘柄の株価の見直しがすすんでいる。福井県の企業のほとんどはPBR1.0倍割れではあるが業績見通しが改善され、株価も上昇し、明るいきざしが見えてきた。この傾向は福井県だけに限ったことではないが、特に福井の企業の堅調が目立つ。

戦後を生きた幸福

4月2日
戦後を生きた幸福
朝三暮四という諺がある。猿に豆を与えるのに朝三つやって暮四つ与えたら猿がおこったが、朝四つやって暮三つやったらおこらなくなったという。これは目先のことにとらわれる猿が多いということにつながる。私は戦争中を国民学校生として過し、戦後に小学生として卒業した。激動の世代の人間であるが、とに角目先がくるくる入れ替り何を信じてよいのか判らない時代を過した。鬼畜米英から急転直下親米路線へ。義務教育が小学校6年から中学校3年まで延長。農地解放、預金封鎖、高インフレ、食料不足など戦後の5年間は全く混沌の中にあった。その中で育った私達ではあるが、今思うと隣近所とのおつきあいの濃さ、子供同志の遊びやゲームの工夫、そして何よりも助け合いの精神が生きつづけていた。着るものは乏しく、ワラ草履やゴム草履、ゲタが一番多かった。食べものは極端に不足し、栄養失調で死んだ人が多い。
そんな中でも人々は元気に明日の希望に向かって努力していたように思う。すべての人々が困難な状態にあり乍ら助けあい、はげましあって生きていた。同級生(小・中・高校)は竹馬の友として今でも私の会社の後見役をつとめてくれている。持つべきものは生涯の友、親友である。全く何もない物資不足の時代であったが、実は豊かな人情味あふれた時代なのであった。

犯人は誰だ

3月30日
犯人は誰だ
年金の先行きに若い人達の不安がつのっている。年金生活者もインフレ条項が適用されると年金の大巾カットが行われるので、不安がつのっている。年金とは将来の不安の解消のためのものである。それが逆に不安の原因になっている。何かが間違っているとしか思えない。AIJ問題が国会でとり上げられたり、警察が調査に入ったりしている。旧社会保険庁OBとの関係がとりざたされているが、困ったことだ。正しく運用することを取締る側が詐欺や犯罪に手を貸してはならない。
厚生年金基金の運用については、多くの基金で積み立て不足が生じている可能性が高い。年金は数十年にわたって、老後のために全国民が積立ててきたものである。それを軽々しく「損失を計上し、なくなりました」と云う人を私は信じられない。

消費税

3月29日
消費税
政府がすすめる「社会保障と税の一体改革」について、川端達夫総務相ら政府関係者ら3人と西川一誠知事を交えて、消費税増税の対話集会が開かれた。約130人の参加者で賛否両論が出たが、割合肯定的であった。現在国の借金が1,000兆円、GDPの2倍であり、増税論義をしている場合とはとても思えない。増税しなければ日本はやっていけない。政治が行政がこの20年間増税を先送りしてきただけである。やらなければならないことは断固やらなければならない。増税すると政権がもたないとか、次の選挙は戦えなくなるとかの理由で、無責任に先送りしてきたのは一体誰なのか。もしこれが民間の会社であればと考えると、政治の貧困を思わずにはおられない。増税を行うことは当然であり、景気云々は理屈である。すぐやるべきである。景気対策や災害対策は全く別のものである。それを同時に議論するからややこしくなる。景気などに関係なく、消費税を上げることが何より大切である。ふえつつある貧困層への対応、弱者への対応、生活必需品への対応などを念頭に置きながら、政治も行政もしっかりと責任を果してもらいたい。
私は民意を問う必要などないと思う。自信を持って日本のカジ取りをやってもらいたい。
世界中の視線が異状な財政赤字を何の反省もなく続けている日本に集まっていることを自覚しなければならない。

日銀総裁賞

3月28日
日銀総裁賞
日銀の福井事務所長 松原淳一氏と親しくしていただき毎月卓見を聞く機会を持っている。今度よそ者(県外出身者)で組織するキラリ会で卓話をしていただいた。キラリ会の第50回例会の講師である。「福井県はなぜ豊かなのか」というテーマで歯切れのよい松原節を聞かせてもらった。福井県は社長が一番多い。福井県は女性が一番働く。だから日本で一番幸福なんだ。この三つをつないだお話しとなった。私は物質的、金銭的に確かに余裕のある人が多いと思う。しかしそれ以上にストレスの少ない社会であり、県民がのびのび働いている人がとても多い。生涯現役であり、ボランティア活動に精を出す人も多い。小さな県ではあるが、ここでの生活が楽しかったとして転勤後にまた帰ってくる人もいる。松原淳一所長が今年日本銀行の白川総裁より総裁賞をいただかれる事となった。誠にめでたいとわが事のようにうれしく思う。

漢字の読み方

3月27日
漢字の読み方
利益をりえきと読む場合と、御利益をごりやくと読む場合がある。りえきは物質的な意味
があり、獲得の世界である。ごりやくは宗教的な意味があり、ありがたい、あたたかいものを感じる。仏典を読むと通常は呉音で読む場合が多い。しかし漢音読みもあれば唐音(宋音ともいう)読みもある。
例えば東京、京都の場合きょうと読むのは呉音、南京、北京ときんと読むのは唐音、京師のけいと読むのは漢音読みである。一つの漢字を読み方を変えて使うというのは、日本語の特徴である。読み方を変えることで、その意味を少し変えたり、中身をふくらませてきた。これが日本文化の特徴でもある。中国が時代の変還と共に王朝が変り、言葉が変ったのを反映しながら、その影響下にあった日本では、その時代と共にその変化を消化、吸収しながら、独自のものとしてきた。漢字の読み方の中にも、日本人の特質がうかがえて面白い。

幸福の国

3月26日
幸福の国
ロシアの文豪トルストイの作品に「懴悔」がある。そこには「我々が現在暮しているよう
な、あらゆる物資があり余る状態は、人生の意義を考える力を我々から奪うもとである」
と書かれている。トルストイの生きた時代と現在の私達の日本の現状を比較すれば、更に
その傾向は大きくなっている。私達の身のまわりは、物質的な豊かさが満ちあふれている。しかし孤独死があり、自殺があり、親族殺人、同族殺人が起きている。天国のような社会
のはずが、地獄の様相を呈しているのだ。この原因は止まることのない物質的な欲望が、精神の安定をおびやかし、人生の目的を誤った方向へ導いていっている。もっともっとと
欲しがる気持がわざわいしているのだ。幸福の国とは足るを知るところである。
少ないものを皆でわけあい、感謝しながらいただくところである。自然を冒とくするので
はなく、自然と共生するところである。人々がいがみあい、殺しあうところではなく、敬
いあい愛しあうところである。福井をそんな幸福の国にしたいと考えている。それが本当
の幸福度日本一の県のはずである。

首都直下型地震

3月23日
首都直下型地震
3年以内に発生する首都圏直下型地震の確率が、どんどん上昇してきている。国の防災会議の想定である。気象庁の予想もそれに近い。3.11以後に日本各地で起きている余震(M5以上)の数は733回。最近10年間の平均値約150回の5倍近い回数である。日本列島の地殻変動が活発化している証拠である。東大地震研究所はM7クラスの首都圏直下型の大地震発生の確率は「30年以内に83%で発生する」と算出した。首都圏には3,000万人以上の人々が住み、政治も経済も金融もすべて東京一極集中である。早急に手を打つべき決断の時である。私達の会社の首都圏比率は約63%である。その比率を下げる構想を考えてもらっている。東北への新会社設立もその一手段である。JR仙台駅前に事務所を開設し、第一歩を踏み出した。新しい可能性への挑戦である。

東証1万円回復

3月22日
東証1万円回復
昨年8月以来水面下に沈んでいた東証の日経平均が3月9日やっと1万円台を回復した。思えば小泉首相が就任した時が2万円だった日経平均は、その後低迷を続けた。リーマンショック後の2009年3月には、7,086円と底なし沼へ突入するかと思わせる低株価を記録した。それが3年経ってやっと1万円台を回復したのである。ピークの1989年12月の38,915円は夢のまた夢ではあるが、2万円ぐらいは期待したいところ。インフレターゲットが1%と示されたのを契機として円高が止まり、株価が回復している。金融政策がいかに大事かを経済指標が正直に教えてくれているようだ。

地震予知

3月21日
地震予知
地震予知の三要素とよくいわれる。「いつ」「どこで」「どのくらい」を予知しなければ予知とはいえない。科学的に地震予知は不可能なのであろうか。実は予知は既に可能なのである。可能であるが日本政府はそれを無視しているという。国は予算づけを行って研究を支援している。文科省の平成22年の地震防災研究課の予算は約120億円だった。予知については4億円だけであった。地下では常に地穀変動が起きている。これを地震の前兆をとらえる「臨界現象物理学」やPI手法を用いて定量化アルゴリズムの適用が有望である。更に宇宙よりの各種電磁気学的観測や、地下水や地球化学的観測など非地震学的手法が適しているという。わかり易くいうと「地震学者」に予知を期待しても無理だということで、予知は「地震予知学者」に期待すべきである。予算は4億円でなく、400億円つけてもつけすぎではない。私達は宇宙に莫大な研究費を費しているが、一番大事な地震の予知を忘れている。今回の地震も大津波もすべて観測され乍ら、その事実を広く、すばやく被災地のすべての人達に伝達することを忘れていたのである。阪神大震災でも神戸薬科大学が10年以上前からラドンの大気中の濃度が異常に大きくはね上がったことを観測していた。3.11では地震活動が震源地で2009年から急上昇を続け、反対に釧路港や紀伊半島沖では同じ頃から地震活動が極端に低下していたのである。地震予知源は、日本が率先して研究を発表することで、国際貢献できる分野であると確信する。地震の前には極低周波帯から超短波帯に渡る広い部分で電磁気の異常が前駆的に観測されているのである。超短波の強度が下り、電子密度急増が起き、衛星赤外線放射異常が起きるとのことである。それまで判っておれば、どこに力を入れるべきかはおのずからわかることである。首都圏直下型地震が近いという今日、一日も早い対応を願っている。→この項は東海大学の長尾年恭教授のレポートを参考にした、

薬師寺

3月19日
薬師寺
1月20日薬師寺管長山田法胤師が来福され、講話をしていただいた。岐阜JCに私が所属していた頃1968年頃に高田好胤師のお写経勧進を拝聴し、感激をして、両親と家族を合わせて6巻の般若心経の写経をしたことをなつかしく思い起こした。そして3月8日意を決して薬師寺に大谷徹奘執事を訪ねた。大谷執事は高田好胤師の愛弟子であり、福井県の担当でもあり、アポをとってうかがった。久しぶりの薬師寺だった。紅梅白梅が春の訪れをつげるようによい香りで迎えてくれた。早速東日本大震災の慰霊法要が全堂ではじまった。寺内殆どすべての僧が参加し、山田法胤管長自ら主宰されての厳かな法要が約1時間にわたって行われた。その後執事長村上太胤師と大谷執事に寺宝である平山郁夫画伯の仏教伝来の壁画の件で打合せを行った。執事長は岐阜の隣各務原JCの理事長をされたとのこと。共通の友人の岡本太右衛門氏や市川工務店の話題に花が咲いた。縁の深さに驚いた。尊縁は私の人生訓である。その後案内されて絵殿の中の壁画の一枚一枚をたんねんに拝見し、また新たな感動につつまれた。一代の英傑高田好胤師のご遺志が脈々と引きつがれ、寺内に満ち満ちているのを実感した。1300年もの長い年月を経て、今新たに再興されつつある古刹の薬師寺が目の前にある。あおによしの奈良である。3月17日に福井で再会することを約して、満ち足りた気分で寺をあとにした。

原電の明日

3月16日
原電の明日
私は原電の反対勢力ではない。逆に次世代型原発モデルを完成させたい希望を持っている。ビルゲイツが主張するように、小型のカプセル型の原発を作り、完成から廃炉までをすべてそのカプセル内で完結するものを想定している。先週関西電力の副社長豊松秀巳氏の講演を聞いた。明確な原発の状況把握と国の指針の早期確立を待つ姿勢に好感を持った。福井県は原発推進県である。多くの雇用や研究開発のチャンスを与えられている。今回の3.11の大災害では東日本が国難ともとれる程の影響を受けた。しかしこの原因は大津波への対応等がぬけていた事が原因である。現在の日本の原発を殆どすべて休止状態に追いこんで、無策の政治は全く困ったものである。事故後1年も経過していまだに明確な方針が打ち出せないのだ。日本の電気代は世界一高い。その原因はどこにあるのか。政治の貧困である。一日も早く原発を稼働させ、日本の製造業を守らねばならない。そしてアメリカの原発と同じように、原発への核ミサイル攻撃の防衛手段も同時進行型で考えてほしい。敵は大津波や地震などの自然災害だけではないのである。

ツバキ

3月15日
ツバキ
椿貞雄という名の洋画家の作品を少し所蔵することになった。それは椿夏子さんという貞雄の娘さんと知り合い、その縁で購入しだした。その後夏子さんの姉やその夫そして夏子さんの師芹沢げ陲気鵑箸留錣盻侏茲拭D慊舁困牢濺栂生の内弟子で、生涯その麗しい関係をつづけたが、国画会に所属し、慶応幼稚舎の教師も勤め、全国の美術館に作品が収蔵され、個人コレクターも多い。椿という名字にちなんで椿の絵が多く、油絵や絵皿になっている。ツバキはその字の如く、春の木である。日本で生まれ育ちその後世界に広がった。原産地は東南アジアから東アジアであろうが、日本原産の原種4つから派生し、現在世界に7,000種ほどあるがほとんどは日本のツバキの子孫である。日本は自生の北限で、原種は日本の4種を含め約250種ほどから枝分かれしている。万葉集にもツバキをよんだ和歌が多い。室町時代に入ると茶道の隆勢と共に茶花として珍重され、栽培種として発達し、江戸時代に一気に盛んになった。日本では色や耐寒性などに留意した品種改良が多いが、外国では香りを重視している。特に黄色や青い花を作ろうとの開発競争が進んでいる。福井でもサザンカの植込みは多い。椿の自生地も多い。古木や大木はどうであろうか。椿を植えて「新しい椿山」を作ったり「椿公園」を作ると面白い。ちなみに全国での有名な椿の名所第1位宮崎市の椿山森林公園の1,100の種48,000本、第2位舞鶴市自然公園30,000本、第3位萩市25,000本とつづいている。大島町には450種8,500本といわれているが、島全体では300万本と大島椿はダントツの第1位である。福井県内の椿の名所を訪ねて国際優秀ツバキ園の認定をとるお手伝いをさしていただきたいと考えている。日本ツバキ協会会長箱田直紀さんと今コンタクトをとってもらっている。

水源を守れ

3月14日
水源を守れ
ガソリン1ℓで130円である。自販機で売っている水は半分の量で120円である。20ℓ入の水でもガソリンの価格と比較すると驚く程高い。世界でも有数の水資源の豊富な国土を持つ日本の水の価格がこれ程高いのは異常である。しかし飲料水の確保は今世界的な課題となってきた。飲料水の水源は日本国民共有の財産である。北海道の羊蹄山の北面にある倶知安町の森林が中国・香港の企業によって57ha買収された。外資が最近買収した総面積は約620haその内北海道が97%を占める。倶知安町と隣のニセコ町での買収が目立つ。ここは日本でも有数の豊富な水源地である。私は洞爺湖サミットの前に、このあたりの水源地を調査して歩いたが、中国人の会計士の団体ツアーに遭遇した。驚いたことにホテルも数多く中国系の経営に変わっており、北海道や国の行政の無防備さに不安を覚えたことを思い出す。今度水源を守る議員立法が成立するとのこと、期待している。石油の地下資源の採掘権と同様に、地下水のくみ上げ権と土地の所有権との分離を早急に立法化すべきであろう。

農業立国

3月13日
農業立国
日本の農業のGDPに占める比率は僅かに1.5%になってしまった。TPP問題で農家や農協そして議員の一部でも、TPPに加入すると日本の農業は破滅すると主張し、TPP反対運動が広がっている。日本の農業は本当に滅亡してしまうのであろうか。GDP1.5%の農業を救う力は日本には十二分にあることになぜ気付かないのであろうか。TPPは世界の常識である。日本の米を守る盾は、TPPに加入してからでも必ず残されている。それ以上に日本の農業技術が世界へ飛躍するチャンスでもある。日本人は思考も行動も内向きの人々が多い、日本の商社マンをはじめ、世界をまたにかけて活躍している人達の話を聞いてほしい。日本の農業が60年前の姿をとり戻し、日本を背負って立つ気慨を持って、農業立国への道を踏み出してほしい。日本の製造業のGDPに占める比率は19%である。農業が1.5%からGDPの19%をめざして快進撃をすすめてほしいものである。それを可能にするのは企業の農業進出の自由化であり、若者の農業への就業の促進である。農業立国は世界の要望である。高い技術を持ち、勤勉で信仰心や友愛の精神を持った若者の帰農を大いに期待したい。

来場者数11.2万人

3月12日
来場者数11.2万人
福井の北ノ庄城跡にある柴田神社への昨年の参拝者の数である。私達は北ノ庄城即ち後の越前福井城の城中に事務所を構えているが、その北ノ庄城の本丸跡が柴田勝家、お市の方の最期の地である。お市の方の姫達、3姉妹の内まん中のお初の方の菩提寺は小浜市の常高寺で、ここも昨年賑わった。3万人の人が訪れている。NHKの大河ドラマの観光客への影響度は大きい。今年は平清盛が主人公であるが、彼の唯一ハッキリしている菩提寺は越前市の城福寺である。今年は越前市が注目されると思われる。平家一門には越前守を名乗る人が多い。これも必ず福井県と関係がある。福井にはまだまだ宝物がいっぱいある。発掘するのが楽しみである。

福井出身の社長

3月9日
福井出身の社長
人口10万人当りの福井出身の社長の数は昨年も1,754人と全国で第一位となった。調査開始以来30年間第一位をずっとつづけている。なぜ福井県出身者は社長になる確率が高いのか。福井県は東京、名古屋、大阪等への距離があり、都会の大企業への通勤は不可能である。だから地域の地場産業を自ら開業するケースが多い。メガネ枠や繊維業、建設業、不動産業の自営業者は人口割にするといずれも全国トップクラスである。その他の原因では、厳しい環境の中にあって、親子三代が同居しているケースが多く、家族の知恵や協力が得やすいこともある。地場産業が盛んであることは、その業界での独自な技術、知識、ノウハウが蓄積され、それを応用発展させることも可能である。また蓄積されたものを次世代に引継ぐことも容易なことにより、社長業の継続が容易になってくる。福井が厳しい中にも、豊かな生活を楽しんでいるのはこの辺りが原因かと思う。それともう一つ、社長同志が非常に仲がよく、殆ど三日にあげず顔をあわせて、情報交換をしている。これも長続きの原因だと思う。

戦後ファッション65年

3月8日
戦後ファッション65年
戦後の混乱の中で創立された福井文化服装学院が65周年を迎えて、ファツションショーを開いた。戦後の地方都市の文化服装学院の歴史を共有し、感動した。地元の繊維を使って。福井のデザインのファツションショーだ。ファッションショーの価値は無限である。1本1,000円のネクタイもあれば、同じ絹糸を使ったネクタイが10,000円のものも出来る。デザインは力である。デザインの力がいかに偉大かを実感させていただいた。朝日恵子学校長とその後継者達の今後の活躍に期待したい。

戦後ファッション65年

3月8日
戦後ファッション65年
戦後の混乱の中で創立された福井文化服装学院が65周年を迎えて、ファツションショーを開いた。戦後の地方都市の文化服装学院の歴史を共有し、感動した。地元の繊維を使って。福井のデザインのファツションショーだ。ファッションショーの価値は無限である。1本1,000円のネクタイもあれば、同じ絹糸を使ったネクタイが10,000円のものも出来る。デザインは力である。デザインの力がいかに偉大かを実感させていただいた。朝日恵子学校長とその後継者達の今後の活躍に期待したい。

「陶ネットワーク」スタート

3月7日
「陶ネットワーク」スタート
福井県の陶芸にたづさわつている人達の有志が集まって「陶ネットワーク」をつくった。越前陶芸村で総会が行われ参加した。80名余りの会員が参加を表明。新しい陶芸のためのパワーになってくれればと思う。越前陶芸村は今では約100名程がここを拠点に活動している。40年程の間に勅使河原氏が窯を築いたり、木村盛和氏が京都から居を移されたり全国から数多くの人々が来村した。窯業試験場を卒業、この地に残っている人も多い。伝統工芸の灯を守り続けるのは、並大抵のことではない。越前焼も、日本六古窯の一つに数えられる、長い歴史と伝統を持っている。福井県や越前町の厚い支援がなければ1500年以上続いた産地の発展はない。その鍵を握るのは次世代。次世代育成の為に、何をするべきか。今それが問われている。

ブータンミュージアム

3月6日
ブータンミュージアム
世界一幸福な国民が住んでいるというブータン王国へ行ってみたいと思い、JTBの荒木支店長を訪ねた。ツァー料金は1名138万円とのこと。夫婦で約300万円必要だ。エコノミーツァーでも夫婦で150万円はかかる。ブータン王国の国民の97%が「幸福です」と答えるという。実に夢のような話である。ブータン王国に興味を持ち、1年程友人知人に聞いたり各データーを拾いあつめて見たが、実像をとらえる所までまだつめきっていない。日本や世界のブータンミュ−ジアムの存在を調べてみたが、これまた見つからない。ブータンに関する書物は出版されている。それを読んでいくと、多少実感が沸いてくる。福井県が幸福度日本一という名誉な評価を受けたので、ブータン王国と福井県が友好条約に代わる友好協定を結んだらと県へ提案したところ、同意見だという。ブータン王国の名誉総領事の徳田ひとみさん、外務省の堂道経済外交大使や県関係者に「ブータンミュージアム」を福井に創設する話をすると、みんなすばらしいといっていただいた。ぜひおやりなさいといわれる。あまりに皆さんが賛成していただくと逆に心配になってくる。明日は友好協会員で勝山市のケーテー社長荒井さんの意見を、来週は大阪在住の辻名誉領事の意見を聞きたいと思っている。福井中心市街地の魅力づくりに貢献できたらこんなうれしい事はない。ブータンミュージァムの実現に向けて、一つづつハードルをこえていきたい。

エルピーダ破綻

3月5日
エルピーダ破綻
経営再建中の半導体大手エルピーダメモリーが破綻した。
負債総額4,480億円(2011年3月末時点)で製造業の破綻では過去最大となった。2009年に産活法を初適用して公的資金を投入したが救済しきれなかった。東京一部市場での上場は廃止になる。DRAMの世界シェア16.4%、世界第3位のメーカーである。破綻の原因は価格競争の激化(第一位韓国サムスン電子38.2%、と第2位韓国ハイニックス21.8%、第4位米国マイクロクンテクノロジー12.7%)である。また長引く円高と世界的な需要も響いたという。
理由はともあれ現実に日本唯一のDRAMメーカーで、世界第3位のDRAMメーカーのエルピ−ダメモリの破綻はショックである。企業の生命を維持することが、いかに困難かをまざまざと見せつけられた思いがする。経営者という者は重責を荷なっているが、更にエリを正して必死の覚悟でこの難局を乗り越えていかなければならない。

まず相手の事を考えよう

3月2日
まず相手の事を考えよう
物事の相談に行くと、どんな案件でも必ず断る人がいる。私は3回頼みに行って、それでもダメな場合は他をあたることに決めている。断る人は、その内容でなく、断ることがクセになっている。相手の立場になって物事を判断できる人は最高だ。
弁護士を介しての交渉案件やトラブル、クレーム処理の場合はまず相手のことを考えて、判断することにしている。一時的に多少の損が出たとしても、それを遥かに上回る満足感を手に入れることが出来るからだ。

ベンチャースピリット

3月1日
ベンチャースピリット
1 ・時代の先端を行くベンチャー魂を持ち続けよ
2 ・ユニーク経営を貫く独創的なアイデア、知恵と工夫が命
3 ・新たな市場開拓を忘れるな、深耕も同じことだ
4 ・商品の多様化とブランド化をすすめ、それを守り育てよ
5 ・強烈な事業欲を持ち続けよ
6 ・十方よしの哲学を遂行し、利益を十分に還元せよ
7 ・早朝から深夜まで精励する火の玉集団を作り上げよ
8 ・常にCHAを唱え自助努力をつづけよ
9 ・時代が要求する新商品開発を忘れるな
10・成長こそベンチャーの本領だ

福井は福居

2月29日
福井は福居
福井藩の初代藩主は徳川家康の次男の秀康である。秀康は豊臣秀吉に預けられ、名を秀吉の秀と家康の康をとり、秀康とされた。その後名門結城家へ秀吉の養子という形で入り婿し、結城秀康と名乗った。秀吉没後は徳川家康の側近として伏見城にあり、越前一国の大々名として当時の北ノ庄に入城した。禄高は前田家の百万石に次ぐ六八万石であった。そして柴田勝家が築いた北ノ庄城跡に家康ともども縄張りして加賀の前田家の押えとしての巨大な城を築き上げた。本丸跡や天守閣跡は今なお当時の面影を残している。古城図面によると、慶長19年、1614年松平2代忠直徳川2代秀忠の時には北ノ庄城と称しているが、万治2年1659年大火前の絵図面には、福居城と記されており松平4代光通徳川4代家綱の時となっている。更に貞享2年12月1685年の絵図面にも福居城松平6代綱昌徳川5代綱吉の時となっている。1713年正徳3年11月のものには福居でなく福井城となっているので1685年〜1713年の間に「福居」から「福井」に変ったものと思われる。いずれにしてもかって福井は福居と呼ばれていたのは確かである。今回幸福度日本一という評価をもらったが、福の居る城、福居城であったことを思えば、その名の偶然に驚かされる。私達の力で福の居るまち、幸福のまちにするよう力を合わせて努力していきたいものである。

仏教伝来

2月27日
仏教伝来
故平山郁夫画伯の作品の中で佛教伝来の道シルクロードを訪ねた旅でえがかれた数々の秀作がある。その中で私が特に注目しているのが、薬師寺玄奘三蔵院伽藍絵殿に奉納されている6点の壁画である。34年間にも亘ってシルクロードを踏破し、正に心血を注いで描かれたもの。平成12年12月31日の大晦日に始まった入魂の開眼法要は2001年1月1日21世紀のスタートと共に終わった。平山郁夫画伯が壁画を、薬師寺が写経勘進で伽藍を建てることとし、両者が施主となって発願したのがはじまりであった。
バーミアン石窟   220×522cm
高昌故城      220×522
嘉峪関を行く    220×522
明けゆく長安大雁塔 220×261
デカン高原の夕べ  220×582
ナーランダの月   220×261
以上の6作品が絵殿の壁画を飾っている。高さは2.2m幅は絵だけでも37mを超える大作である。天井は群青の天空に星がちりばめられており、床は砂漠を黄土色で表されている。別世界が薬師寺に出現した。この国宝級の壁画を世界中の人々に知ってもらうことは出来ないだろうかと、種々と考えを巡らせている昨今である。

橘曙覧の独楽吟

2月24日
橘曙覧の独楽吟
「たのしみは」ではじまり「、、、、、とき」で終わる曙覧の独楽吟は、貧しく、厳しい生活の中で、驚くほどの明るさと前向きの姿勢を歌い上げている和歌である。52首ある。
天皇陛下がアメリカを訪問された時、クリントン大統領が歓迎式典でこの曙覧の歌を詠んだ。「たのしみは、朝おきいでて、昨日まで無かりし花の咲ける見る時」
日本人も、アメリカ人も幸福や喜び、幸せは大差がないことを示している。花を愛でる気持ちも同じである。私は曙覧が福井の足羽山の中腹やその麓で赤貧の中で生涯を送り乍ら、このようにすばらしい人生賛歌を残してくれたことに感謝している。曙覧の歌は生活苦や貧しさを否定するのでなく、逆に大らかに、生活の喜びや笑い、家族の幸せそして学問を追求する積極性を前面に出した吟詠である。52首を一つ一つ詠んでいくうちに、人間の幸福とは何かを悟ることが出来る。福井を代表する歌人であり、福井の宝である。
足羽山の中腹に橘曙覧記念文学館が建っている。

喜びの種幸せの種を蒔こう

2月23日
喜びの種幸せの種を蒔こう
私達の会社の創業以来の社是の第一は、喜びや幸せの追求であり、それも次世代の為、まわりの人達の為のものであった。これは「世の為、人の為」という私の家の家訓から生まれた社是である。岩波書店の「種を蒔く人」の社章を眺めて、その相似と違いについてよく考えたものだ。
相似点は種を蒔いている点である。違っているのは、私達の視点である。頭を上げて、天高く、種を蒔こうとする姿勢にある。「夢は大きく、志は高く」という家訓を表している。この私達のスローガンと全く同じことを目指している国を発見した。国民総幸福度を追求すると国際会議で発言したブータン前国王の演説である。幸福度とは掴みどころのない抽象的なもの、主体的なものであるが、それを判り易く云うと、「喜び」や「幸せ」だというのだ。幸福の根源には平和がある。平和な社会を、汚泥の中から咲く蓮の花のような美しい社会を、私達も作り上げたいと切望している。

喜びの種幸せの種を蒔こう

2月23日
喜びの種幸せの種を蒔こう
私達の会社の創業以来の社是の第一は、喜びや幸せの追求であり、それも次世代の為、まわりの人達の為のものであった。これは「世の為、人の為」という私の家の家訓から生まれた社是である。岩波書店の「種を蒔く人」の社章を眺めて、その相似と違いについてよく考えたものだ。
相似点は種を蒔いている点である。違っているのは、私達の視点である。頭を上げて、天高く、種を蒔こうとする姿勢にある。「夢は大きく、志は高く」という家訓を表している。この私達のスローガンと全く同じことを目指している国を発見した。国民総幸福度を追求すると国際会議で発言したブータン前国王の演説である。幸福度とは掴みどころのない抽象的なもの、主体的なものであるが、それを判り易く云うと、「喜び」や「幸せ」だというのだ。幸福の根源には平和がある。平和な社会を、汚泥の中から咲く蓮の花のような美しい社会を、私達も作り上げたいと切望している。

家計資産残高

2月13日
家計資産残高
内閣府の発表によれば、2010年末時点の家計資産は4年連続で減少しているとのことである。前年比0.4%減の2587兆円だった。土地や建物等の不動産価格が地価下落の影響で減少したからだ。非金融資産の減少は1.3%、金融資産は0.4%増の1507兆円となった。
国富は正味資産が1.2%減となり、3036兆円と3年連続減少。外国債券等の対外純資産は円高の影響で減少した。ピークは1990年末の約86%の水準まで落ち込んだ。いずれにしても国富も家計資産も対外純資産も世界トップレベルを維持している。それにもかかわらず、日本の現状認識はなぜこんなに暗いのか。マスコミのせいか、政治のせいか、それとも私達の心の持ちようのせいであろうか。「幸福」というテーゼをもう一度考え直す必要がありそうだ。


聞き上手

2月10日
聞き上手
セールスマンに忠告したい。話しすぎるとお客様の機嫌を損なうと言うことを知るべきだ。人間の耳はお客様の声を聞くために、いつも開いている。人間の口は不必要なことをいわないように、いつも閉じている。話しすぎはダメ。お客様の声を十分理解するためには、聞き上手になる必要がある。お客様の必要な情報を正確に知るには聞き上手になることだ。
そしてお客様の立場に立って、考え、行動すれば商談は必ず成功する。
話しすぎると伝えたいことをお客様は気付かない。お客様の問いかけに適確に、すばやく、短い言葉で返答する為に閉じていた口を開くべきである。

行動

2月9日
行動
行動なくして成功はない。成功する為には行動することが何より大切なのだ。池の中に石を投げると水の輪が広がっていく。一つの行為が次々とまわりに伝播し、影響を大きく広げていくのである。
小さく見えるが、一つの正しい行為、無私の行動が世の中を変えていくのである。
さあ目標を定めて、今日も力一杯やってみようではないか。
「やってみる」と結果が出る。よい結果もあれば悪い結果もある。もし悪い結果であれば修正すればよい。そしてまた「やってみる」と次の段階へ進む。「やってみなければ」何の変化も起きない。やること、行動することがいかに大切か判るはずだ。

苦難の道を選ぶ

2月8日
苦難の道を選ぶ
人は平安を求める。苦難の道を選ぶ人は稀である。しかし本当の幸せは苦難の道、茨の道を歩ききった後に手に入れることが出来る。私は少年時代より偉人伝を読むのが好きだった。百人の偉人達の中で、苦難の道を乗り越えなかった人は殆どいなかった。想像を絶する苦労を克服して栄冠を勝ち取った人ばかりであった。生ぬるい湯につかっていても幸福を掴むことは不可能だ。荒海に漕ぎ出す志と勇気を持ち続けたいものだ。

さあ夢を語ろう

2月7日
さあ夢を語ろう
夢を語ることはすばらしい。夢を夢見るだけでなく、夢を人に語ることにより私達は確実に夢に近づけるのだ。夢を手に入れることは決して難しい事ではない。夢に向かって一歩づつ歩んでいけば、夢は必ず手に入る。さあ今日もまた夢を語ろうではないか。昨日は雨、今日は曇り、そして明日は晴れだ。

満室満車経営

2月6日
満室満車経営
私達の会社は駐車場やビル、マンションの管理、経営を行っている。
ビル、マンションの経営で最も大切な目標は常に満室にして、すべてのステークホルダーに満足していただくことだ。効率の追求でもある。常に満室にするには、賃料を安くし、メンテナンスを徹底して行い、入居者に喜んでいただく必要がある。駐車場も満車にするには常に周辺の競合先より安い料金で提供し、入り易く、出易く、明るい、清潔な駐車場にしておく必要がある。あたりまえのことをあたりまえに確実に実行しつづけることにより、利用客の満足を獲得できるのだ。経営の鉄則である。

幸福度世界一

2月3日
幸福度世界一
ヒマラヤのふもとの国ブータン王国は人口約80万人、福井県の人口とほぼ等しい。国土の面積は広い。九州とほゞ同じである。国民は国王を敬い、97%の人々が「自分は幸せだ」と自覚しているそうだ。国王ご夫妻が日本を訪問され東日本被災地を慰問されたときの報道をつぶさにテレビ、新聞等で拝見し、感激した日本人は多い事と思う。私もその一人である。福井県は幸福度日本一の折り紙を付けられており乍ら、それを喜んだり、感謝している人が多くはない。ブータン王国の現状を紹介し、日本とブータンの絆が強くなる方法はないかと考え、ブータンの総領事館へ問い合わせた。ブータン記念館を作ったらどうかと徳田名誉総領事に打診したのである。さっそく快諾をいただき設立趣意書と会館の規模等の資料を作成することとなった。会館内の展示品等の提供や説明資料等の協力を得られるとのことである。横浜に「シルク博物館」があり、その中にブータン室があるとのことで近々中に見学させていただく予定である。西川一誠福井県知事が徳田総領事と面談されたとのことで、このプロジェクトの可能性が高まったような気がする。県と国との幸福協定「Happiness agreement」の締結も夢ではない。ブータンの人々は「家族が大事」という考えが定着していると同時に「平和を愛する心」「思いやりの心」を持っているという、正に理想郷であり、私達が目指す幸福度世界一の桃源郷である。

主権在民

1月31日
主権在民
戦前には内務省があった。内務官僚は所管の業界を持たず、「護民意識」の強い傾向があり、警察、言論統制など民を護ることを天職とし、エリート意識が高かった。
アメリカ占領軍が内務省を反民主主義的な権力官庁として、解体をすすめたのは決して間違ってはいなかった。内務省は真に民の幸福を願って消費者サイドに立った行政を行っていたのではなかったのだ。戦後の自治省や総務省そして地方官公庁組織は一般大衆のための組織だろうか。環境省も弱小組織であると共にサプライサイドに近すぎるきらいがある。消費者庁も同様である。官公庁が特権意識を持つのでなく、真に市民サイド、消費者サイドに立った行政を進めてくれることを願いたい。

男のロマン

1月30日
男のロマン
孫悟空が筋斗雲に乗って世界中を飛びまわり、勧善懲悪の行動をするという漫画の世界に子供の頃からひたっていた。そしてその孫悟空が飛びまわる世界が仏様の手のひらの上だったという結末に、どうしても納得のいかなかったことを覚えている。逆に中国からインドへの旅をした三蔵法師の姿に仏を見ていたように思う。
とに角、小さな頃から「男のロマン」として世界を相手にビジネスをしたいという夢を抱き続けていた。そしてその夢は案外早く実現した。第一次オイルショックの直後に、商社の岐阜の責任者の立場から、本社へ呼び戻され「貿易部長」の肩書をもらった。5年間まさに世界中をとびまわった。孫悟空と同じように、私も先頭に立って世界中を歩いた。全くの未知の世界を無手勝流で飛びまわったのである。JETROの方々、東京マリンの方々、その他各エヤーカーゴの方々の支援をいただいたのはいまだに忘れられない思い出である。第二次オイルショックと共に中小企業としての直貿の限界を感じ、企画部長へ転じたが「男のロマン」はその後もずっと持ち続けている。
人間にとっても、企業にとっても、国家にとっても、成長は最大の目標のはずである。成長なくして幸福はないという思いは、今なお強く持っている。成長した後に何があるのかといわれると、まだ私にはその先は見えない。しかし未知の荒海へ乗り出す気概だけは失いたくない。勇気を持って可能性に挑戦するのが私の人生なのだ。


不動産は立地

1月23日
不動産は立地
「1000、三つ」といわれる不動産の成功の確率であるが、その成功の確率を1000分の1000にする法則がある。それは「立地」である。立地条件が成功か否かを決める何よりのファクターだということだ.「一に立地、二に立地そして三も立地」である。「立地」に価値があるということだ。例えば三菱地所は丸の内で巨万の富を築いた。森ビルは港区に特化して大成功を勝ち取った。三井不動産は東京湾岸開発で成功した。すべての成功者は、最高の立地を選び、その立地選定の判断が正しかったから、成功者たり得たのである。
私達はどうであろうか。首都圏の社内シェアは60%超である。都心3区での社内シェアが低いのは大いに気になるが、これは有力な同業者に負けているからである。しかし都心3区で対等な比率にまで上げていくことは危険度が上昇する。「立地」はすばらしいが、コストが高すぎるのである。常に「立地」を最重要課題とすると同時に、その立地が生み出す付加価値とのバランスを考えることを忘れてはならない。

一億総芸術家

1月19日
一億総芸術家
私達は戦後のアプレゲールといわれた。戦前に生まれていたが、戦前派でもなく、戦中派でもなく、戦後派だといわれたのである。都会の同級生達は焼け野原の中で子供時代を過ごした。食べることに精一杯の生活が日本人の日常であった。そんな時代に芸術、音楽は夢のまた夢の世界であったが、それだけになお芸術へのあこがれは強かった。
日本経済の急成長と共に、日本の土地ブームが長く続き、1990年頃までは一億総不動産屋の時代となった。企業も個人も土地取得に走ったのである。土地神話が生まれ、どんどん成長し、そしてバブル崩壊で終わったのであった。
今高齢社会を迎えて、あらゆる物質的な欲望が満たされた時代となった。人々は第2、第3の人生で何を為すべきかが、まだはっきりしていない。人生の終着駅に残すものは何だろうと思案中である。大学や大学院に入り直す人も出てきているが、私の予想では「一億総芸術家」の時代が来ると信じている。やり残した仕事はクリエイティブなものなのだ。物質的な豊かさではなく、精神的なゆとり、創造的な何かをやりたい人々で日本は溢れかえるであろう。

雪囲いの庭

1月17日
雪囲いの庭
毎日の通勤の道は意識するしないは別にして、ほぼ決まっているようだ、私の場合も決まっている。いつも通いなれた道だが、時としてハット驚くような新鮮な感動を受けることがある。今朝がそうだった。ある家の前庭を通った時、薄っすらと粉雪が降る中に、雪囲いの花木が見えた。冷えこんだ朝の空気の中に二つの雪囲いに守られた2本の花木が美しい。何ともいえない暖かな雰囲気を感じ、つい嬉しくなった。花木を愛するその家の方の人柄がしのばれる。
壮大な英国式の庭園や、枯山水の有名な寺の日本庭園も嫌いではないが、こんな小さな
家庭の前庭が大きな感動を呼んでくれることを知った。日本人の感性を見直した朝である。

訴求力を高めよ

1月16日
訴求力を高めよ
社員にいつも言っていたのは、「あなたの仕事は相手に感動を与えているか」という質問である。例えば営業の第一線で働いている社員にとっては「お客様」に対してであり、デザイナーにとっては「自分のデザイン」である。宣伝担当にとっては「キャッチコピー」であったり、「媒体が発する魅力」である。
相手を感動させるのは、その訴求力である。「訴えかける力」を示せるかどうかである。私は絵描きになりたいという夢を持っていた。クラマ画会に入会し、油絵を描いていた。すばらしい作品、物言わぬ油絵が「強烈な感動を呼び起す」そんな経験をした。
芥川賞を一緒にとろうと誘ってくれた友がいた。文字に書かれただけの小説が「現実よりも強く、深い感動を与えてくれる」ことを知った。
一日一日を大切に生きる私達にとって、自分の仕事に、自分の生き方に「訴求力を高め」「品質を高め」「完成度を高め」少しでもまわりの人々と共存共栄できる道を拓いていきたいものである。
「訴求力」があるかどうか、これを自問自答する毎日である。

岩手花巻大沢温泉

12月29日
岩手花巻大沢温泉
ネット予約で一番人気の「大沢温泉」で宿泊した。何がそんなに評判がよいのかを確かめたかったからだ。東北三県の災害地を慰問した時の宿泊地であった。
ナビで探していったが割合簡単に見つかった。渓流沿いの大規模な和風旅館である。
旧館と新館と自炊部の三つに分かれており、人目につかない静かな環境だ。
大沢温泉は福井県と石川県の県境にある山中温泉とよく似た立地であるが、よりひなびた雰囲気である。
ハード面の特長は三館に混浴を含めた湯がいくつもある。200年の歴史があるカヤブキ屋根の旧館が面白い。3食付か自炊付の自炊部があり、ユニークである。川の両岸を使って自然を満喫できる施設になっている。
ソフト面の特長は三館の浴室を自由に湯めぐりすることが出来る。夜間の渓谷のライトアップは幻想的だ。到着時の接待と説明は明るくハキハキとしており、好感を持てる。部屋での夕食も親切で気分よくさせてくれた。地産地消で地元の食材を使った料理に舌づつみを打った。
「誇るべきもの」がいろいろ工夫して作られていて、とても好感がもてる旅館である。大震災の直後は客が激減したが、その後持ち直しているとのこと。今後の健闘を期待したい。

漂泊の系譜

12月28日
漂泊の系譜
日本列島は南の沖縄から、北の北海道まで気候、風土が大きく異なっており、同じ国とは言い乍ら旅をすると、違う世界を経験できる。
そこから旅へのあこがれが生まれ、漂泊の詩人、歌人、俳諧師が誕生した。彼等は先人の足跡を尋ねて、先人を偲び、同じように詩や歌、俳句を残している。その旅は現代の豪華な旅や天皇の行幸などとは全くかけ離れたものであった。まさに「漂泊」の名にふさわしい旅である。
鴨長明の方丈記、吉田兼好の徒然草、そして西行法師や松尾芭蕉の吟詠をつづりあわせてみると、私達日本人の心の奥底に漂泊の旅へのあこがれが強くあることに気付かされる。私は商社マンとして日本中をまわり、世界中をかけまわったが、自分の心の中に常に詩心、歌心を強く感じていた。いつの日か詩をかきたいと思い乍ら、今日までまだそれを果たしていない。豊田三郎画伯が「私が納得のいく絵を描くようになったのは70歳、いや80歳くらいからだよ」と教えられたが、私も早やその年齢に達しつつある。

私心

12月27日
私心
人間にはいろんな欲望がある。欲望は人の心を惑わす事が多い。欲にとりつかれて物事を考えると、なかなかいい知恵が浮かんでこない。
「いい知恵」を思いつくには「私心を去る」ことだ。私心を去れば不思議なことに、思いもかけぬすばらしいアイデアが出てくる。よこしまな心で、欲望の命じるまゝに何かを考えても、ろくな事を思いつかない。そんな時は必ずといっていい程に大失敗する。
「私心を去れ」と古人は言っている。自分の為でなく他人の為に何が出来るかを考えることである。「私に何が出来るのか」をとことん考えていくと名案にたどり着く。
私達は「他人の為に働く」その為に生かされているのだ。その大切なところを忘れてはなるまい。

情報の発信

12月26日
情報の発信
福井は魅力が一杯である。福井の市街地は勿論、福井県下どこへ行ってもすばらしい。
人情は豊かで人々は優しく、自然は豊かで美しい。山海の珍味にあふれ、おいしいものでいっぱいだ。
これ程の良いところは日本広し、世界広しといえども、よそには見当たらない。だが観光客は少ない。福井の魅力を知る人も少ない。地元に住んでいる人々も自分の魅力、住んでいる所の魅力を自覚していないから情報発信が出来ていないのだろう。勿体ない話である。
例えばシンガポールという小さな都市国家がある。かってシンガポールの首相は「ルックイースト」と国民に呼びかけ、日本を教師として、「日本に追いつけ」とアピールし、国民のコンセンサスを得て、今やその理想を実現しつつある。観光客の数では日本全体と変らない実績を上げている。
最近では逆にシンガポールに学ぶべき事の方が多い。それは「情報発信力」である。福井の魅力を知っている日本人は何人いるのだろうか。世界中では何人いるのだろうか。考えれば考えるほど悲しい気分になる。情報発信力が欠けているからである。
「情報の発信」は誰でも出来るのである。かって「越の寒梅」という新潟の地酒が「幻の酒」として日本酒愛好家の間でもてはやされた事がある。未だに「越の寒梅」を贈られると嬉しいのは人情だ。新潟の人々はどこへ行くにも「越の寒梅」を持参した。また地酒のアテとして、魚の身の瓶詰めを持参した。新潟県人自らPRしているのである。福井の皆が地元の珍味をPRするようになれば福井の魅力はおのずと世間に知れ渡る。それが「情報の発信」である。私は時々新聞社に寄稿して「福井の魅力」を発信している。私のブログもその一手段である。魅力いっぱいの福井を一人でも多くの方々に知らせたくて書いているのである。

私の思い

12月16日
私の思い
人間思い込みが大切だ。「意志のある所、道あり」といわれる。
何をするにしても、まず激しく願う事が求められる。これをやり遂げるぞという固い決意である。やり遂げたい自分の目標を、朝に夕に確認し、その達成に夢中にならなければならない。思いが強ければ強いほど思いは遂げられる。思いが中途半端であれば、その達成は難しくなる。成功するかどうかは私達の心次第である。望みが大きすぎて思いが強くても、成功しない時もある。しかしそれでもあきらめず努力を続けると、道は開けるのである。小さな夢でもよい。命がけで他人の為に尽くせるような夢を持ちたいものである。
私は残された人生でそんな夢を追い続けたいと願っている。

スウエーデン

12月8日
スウエーデン
最近スウエーデンに興味を持つようになった。遠い北欧の国というイメージから、ひょっとしたら理想の国なのかなと思い出したのだ。北陸という暗いイメージを持っていた福井県を「理想境」に変えたいと願っている私にとってスウエーデンをもっと研究する必要がありそうだ。「ノーベル賞」で毎年必ず話題になる国がスウエーデンである。キングダムオブスウエーデン(英語表記正式国名)、スウエーデン王国はフランス人の先祖を持つ王様がいる。ノーベル賞授賞式には必ず登場し、直接授与される。王様は英国や日本と同じように国の象徴であり、外交の精華である。
またスウエーデンは世界一といわれる福祉国家である。税金は世界一高い。租税負担率は50%を超えている。日本は25%だ。勤労意欲は高い。最近の日本のように福祉を充実すると勤労意欲が減退してしまうようなことはない。勤勉である。働く事を楽しむ気風がある。政府への信頼度が高い。これは政府がスピードある政策を次々と実行しているからだ。企業の税金は安い。イケアやH&M、GAPなど世界トップクラスの優良企業がある。鉄鉱石や木材関係のように資源の力をフルに発揮できる企業も多いが、デザイン力やブランド力で世界を制覇した企業も多い。
福祉国家といわれるが、福祉の根幹である年金制度は常に軌道修正をしながら必死に守られている。今日のようにスウエーデンが理想の国に近づいてきた発端は第2次世界大戦終了からである。そこから新しい福祉国家への道は始まった。日本と同じ道である。

新島襄の写真

12月5日
新島襄の写真
東京駅の丸の内口に新島襄の写真を発見して思わず歩を止めた。同志社大学の入学志願者募集のポスターである。新島襄が理想とした教育理念がそのポスターの中に高らかに謳われている。「二三の英雄を生むのではない。国の良心ともいうべき多くの若人を生み出すのだ」大きな愛の心で学生達を優しく包み込んだ新島の精神を私達は見失ってはならない。そして同志社の「良心」をたとえ一刻たりとも忘れることは出来ない。新島の目が常に私達に注がれているのを感ずる今日この頃である。
京都という千年の古都の中心にあり、多感な青春時代を与えてくれた同志社大学という存在が私の人生にどれ程大きな影響を与えてくれたことか。目を閉じるとあの青春時代の同志社の校舎が蘇ってくる。母校への思いが胸にせまる瞬間である。

忘巳利他の心

12月1日
忘巳利他の心
「私に何が出来るのだろうか」と自問自答して、東北三県の慰問に出かけたのは沢山のボランティア達である。老若男女達である。私と妻も東北三県の旅に出かけた。同じようにNHKの特別番組で90歳近い瀬戸内寂聴さんが青空説法を行っている。被災地をまわって5人、10人の集いから100人規模の集いまで何回も辻説法をおやりである。その中で「忘巳利他の心」についての話が出た。私達の会社の社是の「利他の心」と同じである。
ボランティア活動は、自分を忘れ、自分の事は省みず、被災した方々の為に行う奉仕活動である。その最前線で働いている若い人との出会いの場で、寂聴さんはこの仏教の精神を話された。人は何の為に生きているのか、「食べるためか」という問いは敗戦後の食糧難の頃、食べるものがなく餓死する人、栄養失調で死ぬ人を見てきた私達にとっては、笑えないことだった。「働くため」という答えは多くの人が賛同してくれたそうである。寂聴さんはそれを「巳を忘れて、他人の為に働く」ことが生甲斐につながるという。私も同感である。ボランティア活動をしている間、また活動した後、いつもさわやかな小さな満足を経験させてもらっているからだ。


スウエーデン王国

11月14日
スウエーデン王国
北欧のノルウエーとフィンランドそしてデンマークの中間に位置する大変豊かな国がスウエーデンである。立憲君主制であるが、永い間中立国として存在を保っている。
国土は約45k屬汎本より大きいが、人口は約930万人と少ない。北方は北極圏の一部となっており何もない世界である。人々は首都ストックホルムなどの都市に住み、快適な生活をおくっている。言葉はスエーデン語、通貨は独自のクローナで私の経験では英語より、スイス語風ドイツ語の方が通じる。北欧を旅するとまず人にあうことが少ないのに驚く。北欧は白夜の国で夏には24時間太陽が沈まない。反対に冬は暗闇が薄明の日が長く続く。
東京で長く住んでいた友人のスウエーデン人が心機一転スウエーデンに帰るといって帰国したが、1年もたたない内に日本へ帰ってきた。スウエーデンは人が少なく、東京の混雑の中で暮らすのと比較すると、寂しくなり、人恋しくなるのだという。
しかし福祉はバッチリだ。都市に85%の人々が住んでいるが、田舎や海岸に別荘を持ち、生活を楽しんでいる。GNIは約44,000弗/人と高く、世界トップレベルの豊かさである。1950年代にダグハマーショルド外交官が国連平和維持軍を創設し、世界の平和に大きく貢献している。150年以上中立を守り、どこにも属さず交易は敵、味方の両方と行っている。豊かな資源に恵まれている。木材、鉄鉱石の輸出で国富を増やしている。
北欧諸国は人口密度が小さく、国土は広大で、経済は豊かであり、人口は少しづつ減少傾向にある。それを移民を受け入れることにより労働力を確保し、均衡を保っている。スウエーデンは今後の先進諸国のモデルとして研究するに値するすばらしい国である。21世紀型の理想国家という人もいるくらいだ。

ウツ病

11月10日
ウツ病
漢字検定など漢字ブームが盛り上がっているが、ウツ病のウツの字はとっても難しい。まず正確に書ける人は少ないだろう。字が難しいだけでなく、その治療法も難しいという。
最近では身近なところにもウツ病の患者が多くなってきた。
ウツ病には内因性真性ウツ病、反応性ウツ病、その他のものがあるというが、会社で重要な地位についた為に発症する部長ウツ病や失恋、破産などが引き金になる心因性のものが多い。特に最近では破産によるものが増えてきているという。
ウツ病は罪業念慮といって自分の存在が家族や周りの人に迷惑をかけ申し訳ない、死んだ方がましだと思いつめて自殺に走ることが多い。破産の例もこれである。
また分裂症患者の自殺もある。自らの妄想幻聴にうながされて自殺してしまうケースである。日本は健康長寿社会であり乍ら、自殺者が異常に多い。これは社会全体がお互いに支えあい、助け合うという美風が失われつつあるからであろうか。隣人を愛することは家族を愛することと同じであらねばならない。日本の古くからの美風を守り育てていこうと覚悟を決めている。私の住んでいる分譲マンションでの年2回の隣人祭、自治会や近隣商店街の人達への声かけも同じ意味であり、その励行を心がけている。

三安時代に突入

11月9日
三安時代に突入
原発事故による放射能アレルギーが異常に高まっている。全国各地にあるゲルマニウム温泉(天然)や人工のゲルマニウム温泉が大流行したことがある。最近各地で問題になっているゲルマニウムが土中から掘り出されているのはそのブームの時に売買されたものだろうと思われる。幼児の安全と健康を願う親の気持ちを考えると少しでも安全な所で育てたいというのも同感できる。
世は「安全」第一の時代である。少子ということで一人っ子を海外に留学させたり、海外勤務をさせることに反対する親が多い。トラブルに巻き込まれることを恐れるのである。しかし危険な目にあわせないことが若者にとって本当に将来の為になるのであろうか。「若い内の苦労は買ってでもせよ」と私は祖父から教えられた。
「安価」に対する指向は、世界的になってきた。少しでも安いものを求めて人は動く。かって日本は安くて良質のものづくりの国であった。今では台湾、韓国や中国が台頭してきて、日本の座を脅かしている。「売れない時代」や「売れない物」は「安くする」ことで売れることがある。この方法は試してみる価値はある。
「安心」は「三安時代」の最も大事な言葉である。先行きに不安を感ずるから、今の日本は不景気が続いている。不幸な事である。「安心」は「平安」であり、「平和」であれば手に入る。「個は孤なり」といわれている。二人になれば安心し、家族が集まったり、親しい友が集まると安心する。それは助け合い、思いやりの精神がおのずから発揮されるからである。母親の懐にいる時すべての生き物は安心する。
三つの「安」が強く求められる時代に私達は今住んでいることを忘れてはならない。

八重の桜

11月8日
八重の桜
2013年のNHK大河ドラマは「八重の桜」となりそうである。ヒロインは新島襄の妻となった新島八重を演じる綾瀬はるかが内定とのこと。今から楽しみにしている。
八重は東北の会津藩に生まれた。戊辰戦争では薩長に賊軍ときめつけられ心ならずも戦争に巻き込まれた会津藩であった。そして銃をとって戦ったがあえなく敗北。「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれた。日本初の看護婦として戦争に同行したのである。
明治維新の後、兄の山本覚馬の紹介で京都で同志社英学校を設立しようとする新島襄と出会い結婚。改宗してクリスチャンになった。明治という男子社会にあって職業を持つ女性の先頭に立ち、新しい女性達を育てていった功績は誠に大きい。
八重桜と新島八重をもじった「八重の桜」であるが、美しく、清らかに、質素にそして力強く明治の世を生き抜いた新島八重の生きざまに早く接したいものである。
死後八重は全財産を同志社に寄贈したと同志社史に記されている。

所有という概念

11月7日
所有という概念
私のマンションのテラスに小さな和風の庭をつくった。正式の日本庭園ではないので、ミニ庭園であるが、形ばかりの竹の樋の下に石造りの手洗いを置いた。その手洗いが「吾唯足るを知る」の石である。真中に正方形の口があり、その真上に吾、右に唯、下に足、左に知が彫られている。
日々この石を見ていると「所有」ということがいかにはかない事かを教えてくれる。本阿弥光悦の母、妙秀さんは90歳まで長生きしたそうであるが、死んだ時には僅かに着物一着、寝巻き一着、布団一式だけだったという。光悦をはじめ多くの子や孫を育て上げ乍ら、自分は何一つ所有せず人に与える事に喜びを見つけたからなのであろう。着物をもらっても、それをすぐ小さく裁断し、小物入れや敷物を作って人に差し上げて喜んでいたという。質素倹約の鏡のような人物である。所有欲から開放されていた聖人だったのであろう。腹八分とよくいうが最近では腹七分が健康長寿の秘訣だそうである。平均年齢50歳以下の江戸時代に90歳まで生きた本阿弥妙秀さんを私達も見習いたいものである。
所有しようとするところから争いがはじまる。お互いに所有せず、活用する事を考えていけば、人類の未来は明るい。

中川平太夫を語る

11月4日
中川平太夫を語る
福井経済クラブの月例会で、父「中川平太夫」を語っていただくよう福井県議会前議長中川平一氏に御願いした。中川平太夫氏は長く福井県知事を勤められ、福井県政に大きな功績を残された。伊藤忠商事の会長小林英三氏の母親と兄弟であった。福井師範を卒業、豊橋予備士官学校へ行き、陸軍に入隊、終戦少尉として帰還後、鯖江市の惜陰小学校の教師となって後進を育成された。中川平太夫氏の後に福井県知事となられた栗田幸雄氏も教え子であり、私の義兄、義姉も教えていただいたという。
戦後は官公庁や大企業のかっての幹部がみな公職追放となった時代である。平太夫氏は農協へ転じ、中央会副会長から会長へ、そして四連会長の後、知事に就任された。
ピンチの中にいても、グチ、泣き言を言わず、前向きに努力し、ピンチをチャンスに変える優れた能力を持っておられた。平一氏が父の功績として上げられたのは「テクノポートの完成」である。福井県はテクノポートの用地約90%を売却し、大きな雇用を生んでいる。また反対に失敗だったとして上がられたのは「福井空港のジェット化」である。これは定期便を飛ばしても採算にのらないというので中止となった。また功罪半ばするといわれたのが「原発立地」である。前任の北栄造知事の時に三国での設置が内定していたが、それを敦賀半島へ移し、結局全国一へのレールを敷かれたのである。私は中川平太夫氏は原子力平和利用の父と高く評価している。今後は原発の余熱エネルギーの活用の可能性が大きいことを忘れてはならない。
久しぶりに古いアルバムを拝見して、福井経済クラブの創設の頃からの長く太い絆を再確認した次第である。

ロータリークラブ栗田幸雄前ガバナーを囲む会

11月2日
ロータリークラブ栗田幸雄前ガバナーを囲む会
第2650地区の2010〜2011年度のガバナー栗田幸雄氏を囲む会がホテルフジタ福井で開催された。出席者は福井県下ロータリークラブの会長、幹事の有志とガバナー事務所の幹部メンバーである。
私達の福井北クラブにとっては、50周年の記念すべき年であり、また2人目のガバナーを勤めていただいたことに感謝して出席した。終始和気藹々の雰囲気の中、フェニックスRCの女性コーラスに栗田ガバナーが合流したり、田中ガバナー補佐のウイットに富んだ話など愉快に盛り上げていただいた。大野クラブの黒原会長の呼びかけで集まった私達であるが、当然私達が呼びかける必要があったのにと後悔したが後のまつり。黒原さん、幹事の中村さんの好意に感謝感謝と、なった次第である。そういえば私が会長をした時のガバナーは山田三郎氏で各県に78会を結成したのを思い出した。1997〜98年度の福井県下全ロータリークラブの会長、幹事の会を78会と命名、2、3年毎に1回開催していたのを思い出した。各県単位でこれからも栗田G年度の集いが続く事を祈っている。
振り返ってみると今年度は序盤、中盤の公式訪問や周年記念事業、RLI、ローターアクト、インターアクトへの参加など炎暑の中を順調にスケジュールをこなしていった。諮問委員会、ガバナー補佐会議も形骸化することなく談論風発、意義のある会合であった。そこへ3.11の大震災が発生した。祝賀行事のみならず、会合そのものを開催すべきかどうかを検討したり、救援支援活動の連絡にガバナーをはじめ幹事団、事務局は大多忙となった。また「ロータリー情報マニュアル」の改訂版第3版が発行できた事、ガバナー事務所の恒久化など新しい試みが次々と実現していくことが出来た。すべてが栗田ガバナー指導の下に地区のメンバーの協力のお陰である。
今年度の栗田Gの功績の第一は「拡大」である。しかも日本初のEクラブ創立という快挙である。幾多の反対を乗り越えて新しいロータリークラブの姿を創り出すことが出来た。大きな試金石となることを願っている。それを信じて私の長男をこのEクラブの創立メンバーの末尾に加えさせていただいた。

孤立する日本

11月1日
孤立する日本
貿易立国といわれた日本。世界の工場といわれていた日本。固定為替レートに守られていた日本。資源を何一つ持たず国民の勤勉性と負けじ魂だけで世界を相手に無手勝流でのし上がっていった日本。1945年の敗戦の無一文の時代から約50年間で世界のトップレベルに駆け上がっていったのは、正に先人達、私達の祖父母、両親そして先輩達の努力の結晶である。
その後に20年にも亘るブランクが生じ、停滞がずっと続いている。政治も行政も国民も積極策を何一つ取り得ず、暖衣飽食の中に眠っている。
私の尊敬する故「福田一」元衆議院議長は、日米繊維交渉の矢面てに立ち、関税撤廃に努力された。日本は現在世界中から資源も食料も製品も輸入しているのである。
その外国依存度はおそらく世界トップレベルの筈である。その日本が今、孤立しようとしている。TPPへの加入に諸団体が賛成、反対の声を上げている。どんな政策でも賛否両論あるのは当然で、その中で正論を通していくのが政治のはずである。
今世界はEU圏、旧ソビエト圏、そして中国の拡大政策と、第一次世界恐慌後の「かこいこみ」と同様の傾向が強まってきている。孤立は許されない。環太平洋圏はずっと日本が主張してきた構想であるが、それを思い起こせばTPP加入は当然である。議論の余地は全くない。要はTPP加入によって悪影響を受ける人々を支援する必要があるだけだ。その支援が政治の役割である。その前にすみやかな決断を行うことが求められている。

やる気、本気、根気

10月28日
やる気、本気、根気
仕事をする上で大切なこと。それは「やる気」があるかどうかである。「やる気」がすべての始まりである。
やる気の起きない時はあまりアクセクしない方がよい。やる気が出ない時はどうすればよいのだろうか。私は困った時は出来るだけ大きいメモ用紙を用意する。その白い紙に要因分析をしていくのである。メモだから何を書いてもよい。書いている内に考えがまとまってくる。少しづつ、やる気が出てくるのである。
物事を実行する時は「本気」を出す必要がある。「百獣の王ライオンはどんな獲物でも全力で当たる。」という。「簡単だ」と手抜きをすると後で大きな失敗につながっていく。正に真剣勝負の心構えを忘れないようにしたい。私はビジネスマンだ。背広は私の仕事着である。勝負時だと感じた時、脱いでいた背広を着て契約する。勝負をするのである。本気で取り組めばたとえ失敗に終わってもあまり気にならない。なぜなら全力投球をしたのだから悔いはないのだ。
私の人生で「根気」ほど大切な言葉はない。幼少の頃よく祖母に叱られた。「根気がない」と叱るのである。面白い事をしているといつまでも続けられる。好きな事も同じである。「根気がない」といわれたがその「根気」を人一倍持つことが出来たのは、仕事を好きになったからである。そうなると周りの人達が驚くほど根気が続くのである。

権力

10月26日
権力
権力を握った者は、それを他人の為に使わなければならない。自分や、自分をとりまくグループの為に使ってはならない。護送船団方式といわれた時代がある。権力にすり寄って、自分達の団体への優遇措置を要求し、その特権を擁護しようとしたのである。
金融機関や鉄鋼業界などがその典型といわれていたが、グローバル時代に突入して、護送船団方式では企業を護れないことが判明し、規制が次と緩和されていった。
権力は天からの預かり物である。常に自戒し、自省する必要がある。日本の最高権力者は首相である。それがコロコロ変るというのは正に異常である。最近裏の権力者がいるという話題が出てくるようになった。暴露記事である。いずれにしても権力を預けられた人間は、そのパワーを自分達の保身に使ってはならない。それを国民全体のため、人類全体の為に使う義務がある。権力を欲しいままにした者は歴史が裁いてくれる。最近では民衆が裁く例が出だしている。

通盛(能にみる平家物語)

10月18日
通盛(能にみる平家物語)
秋の一日京都大徳寺瑞峯院で演じられた能を見せていただいた。平通盛とその妻小宰相の局の最期の物語である。シテは今年はじめに片山九郎右衛門を襲名したばかりの片山清司さん。襲名後のシテ役を見るのは2回目であった。能舞台は通常正面席と舞台に向かって左側にある脇正面の席だけであるが、神社とか寺院で挙行される場合は三方に開けているケースが多い。大徳寺瑞峯院の主庭を望む舞台は畳敷きの両サイドだけで正面席は石庭への縁側である。私は通常では見られない角度である舞台に向かって右側の地謡の後方の席についた。目の前がワキ、ワキツレの席である。地謡方も手の届きそうな近さである。正式の能舞台と違ってより身近で、より迫力に富んだ能を楽しむことが出来た。薄暮に始まったので照明の暗さが幽玄の物語をなお更引き立ててくれた。特に九郎右衛門の熱演は頼もしく、父の幽雪師の風格にどんどん近付いてくるような気配を思わせてくれた。
私は30年余り前に幽雪師が片山博太郎と名乗っておられた頃、直接地謡の指導を受けたことがある。かって京都の三条河原町角の清水楽器店を経営していた母方の伯父から謡曲や能の面白さを聞かされた。私が岐阜青年会議所のメンバーの頃のことだ。岐阜ロータリークラブの先輩から観世流謡曲の指導を受けた。会の名を「みなもと会」と名付け、山中温泉のよしのや依緑園の能舞台を借りて楽しんだことがなつかしく思い出される。その後片山幽雪師の福井での出稽古の折、毎月手直しをして下さったが、仕事が忙しくなりもっぱら見物する側になってしまっている。岐阜の金華山の麓にある稲葉神社の社殿の中に「みなもと会」の奉納額がかかっておりそこに私の名も並べていただいている。
夜空にこだまする笛、小鼓、おおかわ、太鼓の響きと、地謡のリズムそしてシテの素晴らしい演技に酔いしれてしばし比世の憂さを忘れることが出来た。

同志社人の集い

10月17日
同志社人の集い
トヨタ自動車が、全国的に第5番目の販売チャンネルを募集すると発表したのは昭和53年、1978年のことだった。私は三谷商事の企画部長、商品本部長時代だった。そして福井県のトヨタビスタ店の候補となり新会社を設立、代表取締役専務となり、実質的な企業トップとして約5年間創業時の地盤作りを行った。車を売るのは人脈である。私は、岐阜時代(約10年間トップを勤めた)と同様に人脈を新しく築く為に同志社大学福井OB会の再興に努力した。再興後10年間は副支部長として先輩を支えた。当時福井県知事の夫人栗田英子さんが私と同年だったので大学と女子大学のOB,OGの合体を提案し、「同志社人の集い」を開催した。その時突然福井県の支部長になれと後輩達に押し上げられ、4年間の任期を勤め上げた。
「同志社人の集い」は好評で、大学からの総長、学長、女子大学長、校友会長等も驚かれる程活発な活動が出来た。その活動の頂点はオール同志社対オール明治のラグビー大会を福井で開催できたことだ。若いOB、OGの支援で1万5千人の観客を集め大成功であった。
トヨタ自動車販売の社長に豊田章一郎氏が就任され、製販合体があっという間に行われ、そして新会社トヨタ自動車の社長となられた。人脈作りに忙しかった私はトヨタディーラーの全国のオーナーを調べて、同志社卒を探した。そして多くの先輩がおられることを発見し、種々と指導をいただいた。今なおご指導を戴いている。
同志社英学校が京都の地に出来た時はまだ京都大学はなく卒業生は東京大学をめざした人もいる。早稲田の教授になった人もいる。1875年のことである。今年で創立136年となった。新島襄先生は福井へ何度も来られている。衆議院議長杉田定一(号鶉山)に大学設立の要旨を説いたり、募金への協力を依頼したり、信者宅での説教を行ったりと身体の休まる暇が無い程、精力的に歩き回っておられる。まだ汽車のない時代に全国を行脚された。その力の源泉を思うと、私は安逸な日々を送るわけにはいかなくなる。
同志社人の集いが全国に広がり、同志社グループの発展を見るにつけ、同志社に学んだことを誇りに思う。同志社大学の総合格付けは東京大学に続いて第2位で早稲田大学と同じだという。国際化、グローバル化の21世紀に最も発展する可能性を秘めているのが同志社人達である。世界を歩けば世界各地で活躍する同志社人達に会える。ブラボー同志社。創立200周年に向けて若い力の結集を期待したい。

同志社大学キャンパスフェスタ

10月14日
同志社大学キャンパスフェスタ
去る10月8日福井パレスホテルにおいて、同志社大学のキャンパスフェスタが開催された。八田英二学長をはじめ松岡敬副学長その他各学部長、主任教授など数多くの先生方を迎、盛大に挙行された。福井県など地元からは大学、女子大学OBや在学生、父母が出席し、入学希望者は北陸3県から集まった。地元企業のOBを代表して、私に講演をという話になり、「私の同志社」というテーマで講演をさせていただいた。
同志社大学での最高の思い出は、すばらしい「出会いの連続」である。入学してすぐ入会した「SCA」。キリスト教についてクリスチャンの友人達から多くのことを学ばしていただいた。その後「クラマ画会」に入会し、画家の卵達と芸術論、人生論を戦わせた。女子大学の「こぶし画会」の女性と結婚した友人が多い。そして最大の教えを受けたのは後に経済学部長や高崎市の新島学園長になられた小野高治教授である。卒業後も「おのが会」という先生と小野ゼミの先輩後輩をタテにつなぐ会を結成していただいた。この会は先生の死後も続いている。「おのが会は不滅です」という先生との約束を守って今でも残された
奥様や子供達との関係が続いている。
就職したのは福井市に本社がある三谷商事。貿易商社ということで入社したが、当時はバーター貿易の商社で国内セメント、石炭の販売が主力、社員100名余りの中小企業であった。小野高治先生がイエール大学へ留学される時いただいたのが「三通の就職用の推薦書と最初に就職した所を神が与えた天職と思って努力せよとの言葉、そして汽車は出て行く煙は残るの歌」であった。37年勤務して、三谷商事は売上、自己資本、社員数殆どすべての部門で福井県トップクラスの企業に成長した。同志社へ入る前に京都大学の魅力、また就職時に三菱商事への執着等があったが、それを乗り越えて自分の人生を歩んでこれたことに喜びを禁じ得ない。それは幕末に国禁を犯して脱国され、10年間アメリカで勉強し、帰国後は日本全国をまわって同志社大学設立運動を展開された校祖新島襄先生のおかげである。同志社の紳士的で、自由で、国際的な校風を全身に吸収し、「他人の為に生きることを無上の喜びとせよ」と教えていただき感謝は尽きない。

常套語

10月11日
常套語
自然災害が起きる度に繰り返される言葉に「二度とこの様な災害が起きないように、、、」がある。しかしその言葉が終わるか終わらない後に、また同じような事故が起きる。また「二度とこういう事のないように、、、、」という言葉である。どう善意に解釈しても一時逃れの弥縫索にしか思えない。そして今回の3.11の時には新しい表現が生まれた。今度は「想定外」という言葉である。私は営業の第一線で働いているが、「断り」を湾曲に云う時に「考えておきます」を使われる事が多い。政治家は「善処します」と言うそうだ。その言葉を真に受けていると大変な思い違いをする。「わかりました」と言われた時でさえ、その表現で了承し前進できるのかどうか確認が必要である。「日本語は難しい」と外人の友人はよくいう。イエスかノーかがはっきりしないのである。このあたりに日本外交の弱さがひそんでいるのかも知れない。外交も営業も本質的には人と人との交渉である。1対1の格闘である。そこではあらゆる駆け引きが行われるのは当然である。対米外交、対中外交、対ロ外交、対北朝鮮外交、どれをとってみても私達から見ても物足りない事が多い。事なかれ主義、問題の先送り主義が通る時代でないことをしっかり認識すべき時である。常套語を使って逃げるのでなく主張すべきを大いに主張し、主導権を握った交渉を望みたい。

東北の旅

10月6日
東北の旅
福島県は3.11の大震災と大津波そして原発事故に見舞われた。自分達のための電力だけでなく、他の地域の人々の為の発電所が福島の人々の住む家も、土地も、仕事も奪ってしまった。東北3県をまわって福島県の惨状が印象に残った。私達と同じ原発県であり、県名のはじめに「福」の字がつくので、以前から親近感を持っていたのである。
野口英世が生まれたのは明治9年、猪苗代町である。教科書にも載った医学者であり、世界的な細菌学者であった。アメリカやデンマークで学び、ロックフェラー研究所の所員としてアフリカへの赴任の途中で病死。ノーベル賞候補に3回もなった経歴をもっており命を長らえておれば確実に、日本人初のノーベル賞学者だった。いわき市生まれの星一(星グループの創業者)は野口の親友で、若い頃から交流があった。
高村光太郎の妻となった智恵子は明治19年福島市の清酒花霞をつくる長沼酒造の長女として生まれた。日本女子大を出て青鞜社に入り、雑誌青鞜の初刊号などの表紙絵を描いている。高村光太郎と大正3年相思相愛の結婚をした。入籍は昭和7年智恵子発病の後である。貧困、周囲の無理解、中傷の中を必死に生き抜いた二人の最後の作品群、それは切り絵であった。ほぼ3年に亘ってつくられている。そして昭和13年光太郎に看取られながら肺結核で52年の生涯を閉じた。「智恵子抄」という日本を代表する青春の愛の詩集が発表されたのはずっと後のことである。
山川惣治は郡山市出身の漫画家である。無学であるが、紙芝居から漫画家の道に入り、戦後の少年少女を魅了する漫画で一躍有名になった。少年ケニアなど現在のアニメ時代の幕を開けた人物で、東京横浜で生活し、波乱の人生を送っている。みずみずしい原画は今でも十分ヤング達を夢中にするであろう。東北人の気質を研究してきたが、調べた人々の大半が「反権力」の側にいたこと、そして東北の生地から飛び出して広い世界で孤独な戦いをしたこと、そして2,3の例外を除くと赤貧といえる程の貧しさを克服して日本の歴史に残る偉業をなし遂げたのに気づかされた。肺結核が多くの有為の人々の命を縮めたことに驚かされると共に、短命にしてなおこれ程の功績を残された東北の人々に心から敬意を表したい。

東北を訪ねて

23年10月5日(水)
東北を訪ねて

東北を旅して感じるのは、土着でなく、遠くの別世界への飛躍である。これは私のDNA近江商人の末裔の血と似ている。だから気になる。戦後も東京へ集団就職する生徒や出稼ぎの大人達の集団があふれ上野駅は東北弁が飛び交う所であった。そして陸続きの東京よりも更に遠い北海道、樺太、朝鮮、満州そして南方の沖縄、台湾、アメリカまで広範囲の別世界へ飛躍していった東北人が多い。千葉卓三郎は宮城県栗原市出身で自由民権運動に挺身した。ギリシア正教に入信、各地を歴訪、結核で31歳で死亡したが彼の残した「五日市憲法草案」は戦後の「日本国憲法」にあまりによく似ていると驚嘆させられる先見性を持っていた。仙台市出身の岩崎卓爾は天文学者として東北大に進んだが中退後北海道気象台技手、そして東京へ上京、中央気象台技手となった。沖縄の八重山諸島へ渡り石垣気象台長となり、台風研究に一生を捧げている。同じく仙台出身の相馬黒光は新宿中村屋の芸術家サロンを開いた女傑である。明治女学校を出てクリスチャンとなり、エロシェンコを支援したり、インドの亡命者ラスビハリ・ボースを匿い、娘と結婚させた。インド独立運動を支援したのである。彼女の周りには数多くの芸術家が集い特に彫刻家萩原守衛に崇拝された。彫像がいまだに人々の感動を呼んでいる。東北の女性の強さと優しさを、あらわしているようだ。石巻市の出身の弁護士布施辰治は一生を弱者救済に捧げた人権弁護士である。戦前多く発生した入会権裁判では常に弱い者の味方となり数多くの入会権裁判の弁護を引き受けている。朝鮮の裁判でも現地の人々の味方をして強権に立ち向かい、戦後韓国から勲章をもらった数少ない功績者である。戦後は三鷹、松川事件の弁護を引き受け国家権力と相対した。明治大を出た骨太の人権弁護士で、官憲に反抗して入獄の経歴を持った偉人である。

東北三県を行く

23年10月4日(火)
東北三県を行く

大震災により大きなダメージを受けた東北三県を車でまわり各地を見て歩いた。歴史的に見ると東北は古くは縄文時代の繁栄が続いたが、その後大和朝廷からは域外の地としての差別を受け、長い間の抑圧の歴史を持っている。そして幕末には無理矢理に薩長閥によって朝敵にされ、明治時代は反薩長閥の気運が強かった。キリスト教の布教が進んだのもそんな歴史上の差別に対する反発のせいであったのかも知れない。
福井市からまっすぐ車で約9時間余り岩手県の北部へ入った。岩手の奥州市出身の後藤新平は関東大震災の復興院総裁を勤めた人物である。
復興院は関東大震災の26日後に設置され、5ヶ月で役割を果たして廃止されている。この処置の早さは政治の活力の差なのであろうか。
東北大震災の今、その彼の生地を訪れているのに不思議な縁を感じた。彼は医師であり、政治家であり、台湾の民生長官として台湾の開発や南満州の国土建設に大きな足跡を残している。奥州市の後藤新平記念館には東京の「帝都復興計画の見取図」が展示されている。そのスケールの大きさそして殆ど現在の東京の姿を描き切っている見取図には大変驚いた。
彼の信念は「自治」と「公共」の精神だといわれている。
東北人としての金田一京助は東大を出る前からアイヌ民族の叙事詩ユーカラに興味を抱き、アイヌ文化研究の先駆者となった。東北人は蝦夷即ちアイヌであると説きつづけたのは金田一が初めてである。北海道から樺太のすみずみまでアイヌ文化を追い続け、東大教授になったのは退官一年前というから、国文学者としては割合不遇だったといえよう。詩人の石川啄木は盛岡中学の後輩である。二人はお互いを許しあった生涯の友であったが金田一の妻は啄木のことを好かなかったという。赤貧の中で詩歌の世界を生き、結核によって啄木の一家はすべての人が死んでいった。
その上での金田一京助と石川啄木の友情が美しい。啄木のローマ字日記は圧巻である。
宮沢賢治(詩人)もまた岩手県人である。クリスチャンで盛岡中学から現岩手大学農学部を出た。教師をしながら詩を作った。独自の世界を作ったが彼もまた結核により若い生涯を閉じた。新渡戸稲造も政治家であり教育者であり、クリスチャンである。アメリカで活躍し、日本の教育界に多大な功績を残している。東北を歩くと震災の爪跡の大きさに圧倒されるがその復興を支える偉人達の姿が浮かぶのである。

またまた日本一

23年10月3日(月)
またまた日本一

福井県の小学生、中学生の学力は、常に全国でも上位をキープし、最近は男女共1位が多い。そのせいであろうか、県立図書館へ行くと生徒達が熱心に勉強している。私は会長に就任して以来1日1冊の読書を心がけている。文学書というよりは仕事柄経済に関するものや、哲学に関するものが多い。時には物理や化学、農学に関するものも読んでいる。専門外のものは殆ど県立図書館や市立図書館の蔵書を読ませてもらっている。そんな初秋を迎えた日に県立図書館に関するデータが図書館協会から発表された。福井県立図書館の入館者が全国第1位だという。しかも2003年度以降ずっと1位を続けているというのである。貸し出し冊数は昨年度2位だったが今年度はこれまた第1位になったとの事である。本を読む若者が減ってきたとなげく人が多いが、福井県人は読書好きが多い。親や先輩が読書をしておれば、子や孫、後輩達は必ず読書好きになるであろう。よい習慣を続けたいものだ。

江戸時代の地方都市

23年9月16日(金)
江戸時代の地方都市

卑弥呼の昔から日本は集合国家であった。富者が治める国、強者が治める国、仁者が治める国、賢者が治める国、その成り立ちや中身はいろいろであったが、小国が群雄割拠していた時代が長い。朝廷が生まれ、幕府が生まれてもこの形は本質的にはあまり変っていない。そして江戸時代に入って、地方都市は繁栄のピークに達したのである。
300諸侯といわれる大、小名は、地方にあって、自治権を持っていた。その為為政者は領内の人々の生活を安定させる責任と義務を背負っていたのである。自然災害特に飢饉の時の対応を誤ると、一揆という反抗が起きた。江戸時代を通して一揆は各地で記録されているが、調べてみるとそれ程多くはない。土地柄、関東以北の東北地方に多い程度である。地方文化は住民の移動の制限によって、独特の発展を遂げていった。各地にユニークな祭礼があり、工芸があり、伝統文化が育っていったのである。
福井は江戸時代のはじめ、関ヶ原の戦いの直後、家康の次男結城秀康が入城し、68万石の越前を治めた。姓を旧に戻し、松平秀康としたのである。徳川幕府の第一の新藩の誕生である。この時68万石は加賀能登越中を治める前田利家100万石に次ぐ石高であった。家康と秀康は京都に居り、嫡子となった三男徳川秀忠は江戸にあってそれぞれ連携をとりながら徳川家による新しい国づくりを始めたのである。柴田勝家が築いた北ノ庄城の城跡を生かし家康、秀康は新しい福井城(当時は福居といった)の縄張りをして町づくりを始めたのである。金沢の前田利家は文化国家をPRして徳川家の機嫌をとり、越前の松平秀康は加賀に備えて武器を磨いたといわれている。
全国の大、小名は米という交換手段により、あらゆる経済活動を行った。地租、使役を提供することで士農工商社会が運営されていったのである。豊年の時は潤い、凶作の時は苦しんだ。しかし戦争のない時代がやっと訪れたと人々は喜び、地方経済の基盤は固まり、商工業者の勃興と共に豊かな生活ではなかったが、安全で安心できる社会が出現したのである。災難は自然災害といってもよい程で、全国各地に独特の文化や風習が育まれていったのである。

あれから半年

23年9月14日(水)
あれから半年

東日本大震災から早や半年が経過した。アメリカのテロから10年を迎える。福井震災から63年。そして関東大震災から88年が経過する。そして今関東、東海、東南海に亘っての巨大地震の発生が予告されている。もう一度88年前に起きた関東大地震の記録を見てみよう。今回の東日本大震災が千年に一度といわれ、2万人の死者行方不明者が出た。関東大震災の時は死者行方不明者が14万3千人であった。全半壊家屋25万余戸、焼失家屋44万7千戸余りにのぼった。地域は東京を含む関東6県と静岡、山梨に及び東京は死の町と化した。私が尊敬してやまなかった二人の先輩、セイノーの田口さんが運転手、福井貨物の藤尾さんが助手というコンビで東京でトラックを使った運送業をしていた時、関東大震災に遭い、すべてを失った。「故郷へ帰ろうや」の一言で、別れて帰郷したとのこと。私は昭和40年代以降お二人に知遇を得て、この話を聞かされた。人間の夢をこなごなに破壊してしまう天災だったとのこと。しかしお二人は運送業界では知る人ぞ知る偉大な業績を残された。天災は人々を強くする。天が私達に与える覚醒のための試練なのかも知れない。

西田天香の一燈園

23年9月6日(火)
西田天香の一燈園

西田天香が悟りを開いたという八幡神社の森は私の生家から50mと離れていない。また彼の生家とも100mと離れていない。天香のことを長浜では「てんこうはん」と呼ぶ。私の祖父の栄次郎と同年であり、私の子供の頃「てんこうはん」のことはよく聞かされた。「お掃除哲学」の元祖のような人で、長浜のまちなかを「便所のお掃除をさせて下さい」と歩いて修業をされていた。私も本人ではないと思うが、「てんこうはん達」が私の家の便所を掃除してくれるのを目のあたりにした。無私の奉仕である。下座の仕事をさせてもらうため家々をまわって托鉢をするのである。
都が京都から東京へ移って、京都のまち全体が重苦しい空気につつまれた時、琵琶湖疏水工事が行われた。その疎水縁の道に「光泉林」と書かれた「一燈園」がある。敷地10万坪の聖地である。天香66歳の時に、ヘレンケラーが訪ねてきたという。天香の足跡は日本国内はいうに及ばず、アメリカ、ハワイ、朝鮮、中国、満州、台湾の各地にある。
私は光友でもなく、とても崇高な精神を持っているわけでもないが、私の身近に「天香さん」との縁があり、「お掃除哲学」を出来るだけ実行するよう心掛けている。ところが「下座」というのがよくわからず気になっていた。長浜市のまちづくりを主導した「光友」の一人にその意味を聞いてみた。「下座とは誰よりも下におりて、つつましい生活をすること」だという。その他の奉仕は礼拝、慰撫、懺悔、乞食などがある。誰よりも下におりることは容易いことではない。つつましい生活をすることも為し難い。人はつい偉ぶりたいとか豊かな生活をしたいと望むものである。それを戒める言葉は誠に尊い。

日銀本店訪問

23年9月5日(月)
日銀本店訪問

日銀本店の地下金庫は有名であるが、もう一つ他には絶対にない宝物がある。その宝物を拝見するためではないが、日銀本店に旧友上川氏を訪ねた。前任地の福井において地域社会貢献の為、知恵を絞って健闘した間柄である。後任の松原氏の活躍に話が及び、松原氏が地域貢献のため数々の時事経済評論、経済金融事情などの講演会を開き、参加者の数1万人をこえる快挙を達成され、行内で表彰されたとのこと。近くにおりながら、気がつかず、誠に久々に聞く明るいニュースに感激。明るいニュースはうれしいが、日銀本店は省エネのため全行とても暗かった。宝物といわれる「松の廊下」の両側の壁に掲げている歴代総裁の肖像画をしっかりと見ることが出来ず残念。森永氏や三重野氏など印象に残っている方々の油絵をなつかしく拝見させていただいた。省エネ規制がなくなり明るくなってから、もう一度ゆっくり見学したいものである。
円高のすすむ中、その大本山の日銀を訪ねて、円ドルユーロの未来を考えると感無量のものがあった。川上氏の夫人は国会議員で夫君の川上氏が福井在勤中に大臣に就任され「キラリ会」で大いに話題を醸したことを昨日のことのように思い起こしている。

松平秀康

23年9月2日(金)
松平秀康

徳川家康の次男は、豊臣秀吉の養子となり、秀吉の一字と家康の一字をもらって、「羽柴秀康」と名付けられた。そして家康の関東入府と同時に、関東の名門結城家の名跡を継いで、「結城秀康」と改名した。秀吉の死後は家康と共に京におり、徳川政権の確立に尽力したとのことである。その後1600年(慶長5年)の関ヶ原の役の後、越前国福居の城主となり、68万石の太守となった。同時に松平姓に変えた。「松平秀康」の誕生である。
今でも福井城の遺構の中に、中国のから贈られた「結城秀康」の石像が建っている。これは正しくは「松平秀康像」と書かれるべきである。
松平秀康は越前松平家の祖である。徳川幕府の創立時の最大の功労者の一人であり、家康、秀忠、家光と続く徳川家の安泰についての貢献も大きい。
越前松平家は制外の家といわれる。秀康が参勤時に碓永峠の横川にて、持込禁止の鉄砲を見咎められた時、秀康は「天下(徳永)の関所で秀康に無礼をふるまうは、天下を軽蔑するものなり、打ち殺せ」(徳川実紀)といったとのこと。松平秀康は豊臣政権期において既に羽柴の名字を持ち、正四位下参議という高い官位を有する有力大名の一員であった。徳川政権下では、一門筆頭として極めて高い政治的地位を有したのは当然であり、越前福井68万石は前田家の加賀越中能登100万石の大大名の押えとして、第2位の石高を有していた。また秀忠の将軍職任官に伴い、秀康は権中納言に任官する。この権中納言は豊臣期の五大老以来の毛利輝元、上杉景勝、前田利長と並ぶ諸大名中の最高位である。
家康が駿府城へ移るまでは伏見城が天下の政庁であった。松平秀康は常に伏見城にあって家康を補佐した。秀康の死後家督、領国は長男忠直(13歳)が受け継いだ。忠直は家康、秀康の三河守を称している。幼少より将軍秀忠の下にあり、秀忠の一字をもらい、忠直とつけられ、秀忠の娘勝子(三女)を妻に迎えて、最有力一門として厚遇されたのである。

地球の引力

23年9月1日(木)
地球の引力

ニュートンのリンゴじゃないが、私達は地球の引力によって支えられ、生存を許されている。しかし若い頃にはそんなことは全く気にならない。若い頃どころか私はごくごく最近まで気にならなかった。先輩達からは、後期高齢者の75歳の頃からどんどん体力がなくなるよと忠告を受けていた。自分がその年齢になり、あまり見事にその予想が適中したので驚いた。足が重くなるのである。体力の衰えを実感するのだ。自分の体を、足をこんなに重く感じるということは体調が悪いせいだと思っていたが、どうもそうではなく、全体的な老いの影響だと自覚せざるを得なくなった。まさに地球の引力の存在を身を持って悟ったわけである。
そして歩く運動に精を出すようになった。携帯についている万歩計の表示が気になるのである。あまりに少ないと家の中を徘徊して少し歩数をかせぐことにしている。足首の運動だけでもかなり効果があるという。健康を気にするようになると地球の引力が思い出される。これはやはり年のせいなのであろう。

経験談

23年8月30日(火)
経験談

人生は失敗の積み重ねである。小さな失敗は毎日ある。大失敗も時に起きる。失敗の後に何が残るか、それが最も重要なポイントである。私はいつも自問自答してみる。自分に言い訳をしたり、失敗の原因を他人になすりつけたりもする。しかし大抵の場合、失敗の原因は自分にある。因果応報の言葉の通りである。そしてしぶしぶ自らをかえりみて深く反省し、次の対策を練る。そしてまた前へ出て、また失敗する。この繰り返しが人生だと思う。そう思うと失敗もこれまた楽しみに変る。同じ人生なら、失敗も楽しみたいものである。
私は経験談を聞くのが好きである。失敗談、成功談何でも好きだ。そこから学ぶことが多い。人の行動を「自分ならこうしただろうな」と考えながら謹聴する。偉人伝を読むのも好きだ。偉人伝も経験談を聞くことと大差はない。他人の人生の軌跡の上を、自分流の解釈をしながら自由自在に飛び回るのである。特に興味があるのは失敗談である。偉人といわれる人ほど多くの大失敗をしているケースが多い。そして苦心惨憺としてその苦境を乗り切っている。誠に痛快。その大失敗から私が学びとることは多い。測り知れない程多い。だから経験談特に失敗談を聞いて自戒とする。前へ出る為の勇気をいただくのである。

蜂屋良彦博士

23年8月26日(金)
蜂屋良彦博士

15周年を迎えた7月、社外取締役を長らく勤めていただいた文学博士の蜂屋良彦氏が退任された。小生とは竹馬の友の一人である。私達の会社は5人の同級生の社外取締役がいた。小、中、高校を一緒に過した親友達である。いつもトップテンに入っていて、京都大学を受験した仲間である。蜂屋良彦君と高野盛久君(前三菱化学の財務担当副社長)の二人が現役で合格、私を含め後の3人は他の大学へ進んだ。蜂屋君は大学に残りその後神戸大学の教授を長く勤めたのである。私が会社を興した時、みんなを口説いて役員を勤めていただいた。取引先の銀行の頭取から「頭のいい人が集まっているんだね」とほめていただいたことが忘れられない。
蜂屋博士の離任の言葉は、「私は幼少の頃から儲けてはいかんといわれ続けて育ってきた。その私に会長が会社の役員になれという。文学部のない大学は一流ではないといわれる。なぜなら文学部は批判勢力の巣である。常に鋭い批判の目にさらされているから一流になれる。そんな私に、それがいいんだ。そこがいいんだと言って口説かれた。役にたったかどうかわからないが、批判の目に対する配慮を失わないよう自戒してほしい」「産業心理学者として学生達に教えたのは、伸びる会社とは3つの特徴がある。その1は明確な目標を持っている。その2はその目標への道筋がはっきりしている。その3は会社全体がそれを共有している。この3つの特徴を備えた会社として生き続けてほしい」感謝の言葉と共に、今後も社会から数々の助言をいただきたいとお願いした。私達も次々と後期高齢者になっていく。お互いに健康に留意して暮したいものである。

隣人まつり

23年8月24日(水)
隣人まつり

マンションの住民が自主的に開いている隣人祭が先日開催された。参加者60名余りとなり大盛況であった。今回が第3回だが、いつも参加者の評判はよい。マンションへの入居は、近所付き合いが面倒くさいのでとの理由が多いけれど、まさかの時にはとても頼り甲斐のある仲間である。出来るだけお互いに「声掛け」をするようお願いをしている。朝晩の挨拶だけでも心を豊にしてくれる。
参加者からの差入れ、それも手作りの心のこもった差入れが多く、毎回満腹して帰ることができる。子供達もリーダーの下、自主的にソーメン流しやキンギョすくい(擬似金魚)や射的などをやってくれた。
またボランティアの手品師二名に来ていただき、見事なお手並を拝見した。バーベキューはお父さん達が火を起こすことからはじめて、カルビ、スペアリブ、ロースや野菜類をなれた手つきで焼き上げて給仕してくれた。
飲み物は日本酒、ワイン、ビール、ジュース、お茶、水など差入れの名品が多く、越乃、寒梅や白岳仙などを十分楽しませてもらった。管理組合の主催なので、入居者もその友人、家族も無料で大いに盛り上がった。60名を超える人々の大パーティでありながら、予算は1ケタと信じられない程にお安いけれど、中身の濃い素晴らしい会であった。お互いの友情を再確認した一夕となった。

夏の便り

23年8月9日(火)
夏の便り

盛夏となり、あちこちから夏の便りが到着する。今年は3.11大災害に関するものが多い。死者への鎮魂と被災者への慰問の言葉は、今更ながら政治や行政の矛盾を感じさせてくれる。それらの便りに混じって故小野高治先生の奥さん(小野鈴子)からのものがあった。生前先生は、ゼミの教え子に、各年代毎の交流会を作ることをすすめられ、それがすべての年代を網羅する大きな組織に発展した。それが「おのが会」である。先生のお忘れ会の席上、「おのが会は永遠に不滅です」と誓い合った言葉を思い出す。先輩の善田正雄さんは古董商の老舗の出身であったが、松下幸之助に可愛がられて自宅へ足繁く出入されていた。その後日本洋画商の理事長を務められ、私にも数々の教えをいただいた。私以外に善田先輩に教えられた者は、その後同志社大学経済学部卒業生の会「同経会」の会長、そして全同志社のOBOG会の校友会の会長を勤めた巽悟朗(私の一級先輩だったがおのが会員ではない)がいる。彼はその後大阪証券取引所の理事長を務めたが、惜しくも死去してしまった。同志社大学や恩師小野高治先生にまつわる思い出は尽きない。青春時代のほろ苦い思い出や若気のいたりの失敗、夢への挑戦、そして挫折など次々と昨日のことのように脳裏に浮かんでくる。気が付いたら恩師の奥さんからの便りを手に持ったままであった。恩師にいただいた数々の言葉を今更のように思い出しながら、今日一日をまた有意義なものとするべく、決意を新たにした。

なでしこジャパン

23年7月28日(木)
なでしこジャパン

まさかの金メダルにテレビのまわりも歓声につつまれた。サッカー女子W杯で起きた奇跡である。国際サッカー連盟が主催する大会での日本の世界制覇は男女を通じて史上初の快挙であり、女子W杯では欧米勢以外での優勝はこれまた初めてである。一戦一戦勝ち進むにしたがって、チームプレーに磨きがかかり、ボールが生き物のようにコートを駆け回った。体格でも身長でも劣っている日本チームがなぜ欧米の列強チームにせり勝ったのであろうか。
その理由の第一は、最後まであきらめない「気力」である。そしてその第二は、しばしば起きた「奇跡」である。特に最後の対アメリカ戦では、常に先攻されては追いつく状態が続き、もうだめかと思う場面も多かったが、PK戦では3−1で見事に勝利した。GKの海堀あゆみの足での防衛が光った。通算5ゴールを決めて大会得点王となった沢は、大会の最優秀選手に選ばれた。今回のなでしこジャパンの優勝は、大震災に泣く東北の人々に希望をもたらすと同時に、沈みがちだった私達日本人に自信と勇気を与えてくれた。ありがとう。

23年7月20日(水)

全身に爽やかな風をあびて、至福の時を感じたことがある。もう20年程前のことである。芦原ゴルフ場でプレーした後、ゴルフ場の大浴場に入った。そして身体の疲れをほぐした後、脱衣場の入口に立った時だ。少し強めの風が全身をつつんだ。ほんの一瞬のようでもあったが、とても長く感じた。私の身体を吹き抜けていくような風であった。あの時の印象は今なお鮮明に思い出す。
私の現在住んでいるマンションの中の廊下部分であの時の幸福の瞬間を最近経験し、「あっ、あの時と全く同じだ」と感じ、とても驚いた。丁度20年前と同じように仕事で疲れて帰宅し、一風呂あびて薄着で廊下を歩いていた時のことである。風が吹き抜けていく感じなのだ。しかも強さも長さもあの時と同じである。この発見に私はうれしくなった。毎日この至福の時を経験し続けることが可能だと気付いたのである。その後何度もやり直して、風呂上りでなくても薄着で廊下から居間に入る瞬間、又はベランダからの風を窓辺で身体全体に受けていると、同じ気分を味わえるのを見つけた。人間にとって風ほど心地よいものはない。自然を大切にして、緑風や爽風を子々孫々にまで伝えていきたいものである。

無駄を省く

23年6月28日(火) 
無駄を省く

企業においても、個人においても「無駄を省く」ことは必要不可欠のようにいわれている。よりよい仕事、よりよい生活をする上で、この「無駄を省く」ことは大変重要だというのである。
誰でも最初から無駄なことをしようとしている人はいない。やってみた後で、どうもそれが無駄だったのではなかろうかというので、反省をするのである。
よくよく考えてみると、人生において、無駄なことって本当にあるのだろうか。無駄だったように思われることはある。しかし後になって、無駄だと思ったことが大変重要なよい結果を生むことがある。最近になって思うのは「人生に無駄な事は何一つない」との考えに行き着いた。「人生で起きること、実行することは、すべてが有意義なのではなかろうか」。私は常に自問自答するクセをつけている。「否定語は使わない」「出来ないイメージは描かない」「温顔愛語で暮らしていこう」「失敗を糧としよう」。前向きの人生こそ私が望む人生である。


同志社人の集い

23年6月27日(月)
同志社人の集い

母校同志社大学はマンモス大学ではない。学生数は大学25,000人、大学院2,500人、女子大学6,500人と総合大学としては中規模といえよう。創立136周年を迎えようとしている。昨日学校法人同志社から大谷實総長以下8名の来賓を迎え、福井県下の大学、女子大学のOB、OGが集う「同志社人の集い」が開かれた。大学の総合評価のAAAを獲得したのは、同志社と慶応と東京大学の三校だけだとの発表に会場は沸いた。
新島襄が幕末に国禁を犯して函館からアメリカへ出国し、明治初期の日本へ帰国、最も封建的であった京都の地に明治8年(1875年)同志社英学校を創立、翌年同志社女子学校を創立。キリスト教主義に基づく自由教育、良心教育、国際教育の日本初の学校であった。爾来136年京都の地で育った学校の卒業生達は世界の各地で活躍中である。福井県内にも2,000名近くの卒業生がいるが、昨日は120名余が集い、旧交を温めた。
新島襄が創立時に、同志社が200年後には世界に役立つ学校として育っていくことを念じたのであるが、その日が近付きつつあることを実感し、同志社人としての自覚と誇りを再認識した一夕となった。

ライバルを持つ

23年6月24日(金)
ライバルを持つ

ライバルのいる人生はすばらしい。ライバルを持つことで私達の人生は変る。ライバルがいない時、自分でライバルにふさわしい相手を見付けるのだ。その瞬間から私達の人生は大きく変る。量的な変化だけでなく、質的な変化をももたらしてくれる。人には何らかの天から与えられた使命がある。それを成し遂げるために「ライバル」を作るのだ。
ライバルは身近な人でもよい。遠くの人でもよい。或いは歴史上の人物でもかまわない。常にその人の行動、思想を自分と比較しながら、人生を歩んでいけるような、ライバルの設定が望ましい。
学生時代を振り返ってみよう。あの時のライバルは誰だったのか。意識してその頃の自分の行動や思想とライバルのそれとを比較してみると、ライバルがいた事による有難味がよくわかる。そしてライバルに対する感謝の念が沸き上ってくるはずだ。
ライバルがいるおかげで人は数倍、数十倍の成長が可能になる。偉人といわれる人のまわりには、必ず切磋琢磨したライバルが存在する。
人だけでなく企業の場合も同じである。ライバルがいる企業、好敵手がいる企業は成長が早い。お互いが相手を見倣ってどんどんよい方向に進んでいくからだ。
私の場合も数多くのライバルに恵まれた。そしてそのライバル達への感謝を忘れたことはない。今でも秘かにライバルとして競争心を掻き立ててくれる人を持っている。生涯現役を提唱する私としては、それが当然のことなのである。

若者が帰ってきた

23年6月15日(水)
若者が帰ってきた

福井駅前は、数多くの若者で毎日一杯になってきた。若者が帰ってきたのである。サイゼリア(イタリーレストラン)やマクドナルドなどの安いスナックや食事に人気が集まっている。JR駅や福鉄駅から西武までの人通りが増えている。アオッサ効果や響のホール効果も無視できない。駅前商店街や西武百貨店の集客努力によるところも多いと思われる。特に西武は百貨店としての魅力を発信し続けており、誠に有難い。
3・11大災害により、日本中が萎縮している中で、福井の駅前が最悪期を脱し、V字型回復に向けて上昇する機運を見せているのは、誠に心強いかぎりである。日本中に元気を発信できるよう、これからも努力を続けていきたい。

片山幽雪

平成23年6月9日(木)
片山幽雪

京都観世会館で人間国宝片山幽雪の半能、半蔀を観た。久しぶりのことで片山氏の体調を心配しながら正面席で観賞させてもらった。流石に幽玄の能をしみじみ味わせていただき、感激した。「半蔀」は故片山慶次郎先生(弟さん)の最後の舞台だった。故人に捧げると共に、東日本大震災で亡くなられた人々に手向ける、夕顔の一輪だった。お孫さんの清愛君6歳は、猩々の祝言の舞を舞ってくれた。また今年3月19日に九郎右衛門を襲名された清司さんは、遊行柳を演じられた。九郎右衛門としての重厚さを思わせる。すばらしい舞台だった。観世小次郎信光の作で1514年3月19日初演を作者自身が舞ったといわれている。遊行上人を西行の朽木の柳の旧跡に導いた老人が、後半に法恩の序の舞。太鼓入り のリズム感と老人の舞がよく調和していた。
私は片山清司さんが「片山清司後援会」を結成されて以来何度か後援会能を観賞させていただいたが、これからは「片山九郎右衛門後援会」と名前が変る。次回は10月9日、夜、大徳寺瑞峯院にて開催される。今から開演が待ち遠しい。期待している。

おろしそば

23年6月8日(水)
おろしそば
福井のそばはおいしい。特に手打ちのおろしそばは最高だ。その理由はいくつかある。まず「タテ」が秘密。「タテ」とは、取れタテ、挽きタテ、打ちタテの三タテである。そばは旬のものである。新そばが喜ばれる由縁である。挽くのは石うすに限る。機械挽きは熱によりそばの香りや成分が損なわれてしまう。石うすでゆっくりと挽いていくと、香りが残る。そして打ちタテの名の通りお客の目の前で打ってくれる福井のそばがうまくないはずがない。
秘密の二つ目は、福井のそばは在来種なので小粒である。信州そばの半分程の小さいそば粒である。そして更科そばのように中身だけ使うのではなく、甘皮までを粉に挽くので、香りが高い。好みによって外皮をも使うところがある。そして色が美しい。緑色のそばである。緑色の原因はクロロフィルという葉緑体色素にある。これが外皮に近い甘皮部分にあるので、小粒であればある程よい緑色が出る。
秘密の三つ目は味である。これは食べてみないとよくわからない。「打ちタテ」の名の通り、お客の前で打ってくれて、ゆでて、おろし汁とダシと共に供される。大根おろしをすってからお客の口に入るまでの数分間の勝負だという。そばの水分、おろしの味の変化が刻々とおきる。これを見はからって供しているので、福井のおろしそばの味が絶品といわれるのである。
秘密の四つ目は栄養価である。そばの胚芽はそば粒全体にまきついているので、米の胚芽のようにもろくはない。しっかりとそばと共にある。それを丸ごと石うすで時間をかけて少量ずつ発熱を押えながら挽いていくので栄養価が高い。そばをゆがく時にお湯にとけ出す成分を必ず一緒に飲む習慣をつけることが大切だ。「そば湯を下さい」と言わなくても出てくるそば屋が一流である。そば湯に栄養分の半分がとけ出していると思えば、その味もまた格別である。

ハウスオブヤマナカ

23年6月3日(金)
ハウスオブヤマナカ

日本や中国・朝鮮・台湾の骨董品を取扱う店をNYCでオープンしたのは、山中商会即ちハウスオブヤマナカである。山中商会は大阪を中心に一族が商売をしており、特に骨董、茶道具をはじめ日本の古美術を取扱っていた。フェノロサや岡倉天心の知遇を得て、NYCの五番街のロックフェラー所有のすばらしいビルに東洋美術の店舗をオープンしたのである。爾来太平洋戦争が激しくなって、強制的に閉鎖となるまで、全米にボストン店、シカゴ店、フロリダ店と拠点を広げて、各地の美術館、博物館をはじめ有名なコレクターと親密な取引を続けていた。特にロックフェラーとの取引は、山中定次郎のアメリカでの信用形成に大いに役立った。ハウスオブヤマナカのアメリカでの歴史は、東洋古美術が大量にアメリカに流入する為の突破口の役目を果したのである。その美術品の質と量は、想像を絶するものである。
開戦と同時にアメリカ政府に接収されたハウスオブヤマナカの資産の詳細は不明であるが、同時に接収された三菱商事や横浜正金銀行などと一緒に戦後返還交渉を行ったが、時効により一円の返還もなかった。明治以来50年以上に亘って営々と築き上げられた商圏が雨散霧消してしまったのは残念である。戦後アメリカ各地に残った旧店員達の再開が相次いだが、今残っている所を知らない。

100年間の津波被害

23年5月30(月)
100年間の津波被害

過去百年間に亘り、大災害となった津波を引き起こした主な地震を調べてみた。1900年から現在まで
1.チリ 1960年M9.5 日本へも到達し3〜6mの津波を起こした。死者、行方不明者142人。
2.アメリカ アリューシャン海溝、プリンスウィリアム湾 1964年M9.2  アンカレッジなど3億ドル以上の被害が出た。
3.インドネシア スマトラ沖 2004年M9.1 死者28.3万人、この100年余りの間で津波による最大の死者を出した。インドネシア、インド、スリランカで大津波発生。
4.旧ソ連 カムチャッカ 1952年M9.0 死者2,300人。
5.エクアドル エクアドル沿岸 1906年M8.8。
6.アメリカ アリューシャン海溝、ラット諸島  1965年M8.7。
7.アメリカ アリューシャン海溝 アンドリアノフ諸島 1957年M8.6。
8.インドネシア スマトラ北部 2005年M8.6 僅か3ヶ月後に大地震 また死者1,313 人。
9.千島列島 1963年M8.5。
10.インドネシア バンダ海 1938年M8.5。
今回の東日本地震は2011年M9.0、死者行方不明者は2004年のスマトラ沖M9.1
の28.3万人に次ぐ2万数千人の方々である。
津波の発生のメカニズムの研究が進んでおり、今回の大災害は未然に防げるは
ずであったが、残念ながら想定外とのことである。今後は更に安全度を高めたものにしていく必要がある。100年間で最大のM9.5以上の大地震の発生を想定した対応策を早急に確立することが急務である。三陸沖の津波が日本では有名であるが、子孫の為に津波到達の石碑を建てておくことも望ましい。地震の巣があるのと同じ理屈で、津波も同じ地域をまた確実に襲ってくる。

遊行期

23年5月25日(水)
遊行期

古代のインドでは、人生を四期に分ける思想があった。この思想を現在の日本の年齢層に分けてみると次のようになる。そしてそれぞれの四期を中国風に呼び分けると、いかに人生を生きていくか、生き方が見えてくる。
 
古代インド 現在日本の年齢層 日本の呼び方 中国の呼び方 過し方
学生期  0歳〜25歳    青少年期    青春    身心を鍛え、学習する
家住期  25歳〜50歳    青年期     朱夏    一家を構え、子をつくる
林住期  50歳〜75歳    壮年期     白秋    社会に貢献、自分を見つめる
遊行期  75歳〜100歳    老年期     玄冬    死を悟り、幼に還る

この遊行期は五木寛之氏の本に詳細に論じられている。終戦の時朝鮮にいて困難な引揚げの中で母や妹を失くされたという悲惨な幼少年期をおくられている。私は少し年長であるが、共感を呼ぶ本が多い。遊行期に入る私達にとって、この本は一つの指針であり、多くの示唆をいただいた。
私の体験から考えると、75歳までは十分働ける体力も気力もある。定年を徐々に延長していけば老人医療問題も、年金問題も雨散霧消してしまう。共存共栄の社会とは、生涯現役であるべきだと確信している。温かい南の島で魚を釣ったり、ハンモックに寝そべっているのが理想の老後では決してない。遊行期までは現役を貫き、それ以後は「死を悟り、幼に還る日々」でありたい。

短歌と俳句

23年5月24日(火)
短歌と俳句

日本には短歌と俳句という極端に短い詩の伝統がある。韻はとても単調で、音の数あわせによる音数韻となっており、短歌は五七五七七の音の数から成っている。そして最後の七七を外して、五七五としたものが俳句である。大友家持によってまとめられた万葉集は、4500首の内、殆どが短歌である。
内容によって挽歌、相聞歌、雑歌に分類され更に問答、旅、四季、悲別、東歌などに分かれている。三十一文字(みそひともじ)という短い定形詩に、様々なものを表現しようとしたのである。万葉仮名という新しい文字を残してくれたこの短歌集は、表現のユニークさといい、内容のすばらしさといい、まさに世界に誇れる日本文化の華である。10世紀の初めから約500年の長い間に、天皇によって発行された勅撰和歌集が21集もある。20年毎に行われる伊勢神宮の遷宮式とよく似た間隔である。そして現代でも勅題によって、毎年宮中において歌会始が執り行われている。これは天皇が出される定題により、世界中の人々が三十一文字の定形詩を応募するもので、毎年選ばれた人々が、宮中に招かれ、古式にのっとって、歌会を行うのである。また天皇、皇后は折にふれて国民を慰問されるが、数多くの叙情詩を残されている。
短歌は日本国民と共にある、世界でも極めて稀な、持続性を持った文学である。私の母も「傘寿の祝い」として八十歳の時に、私や私の弟妹の寄金で短歌集を発行した。母の遺品であると同時にその生き様を伝えてくれる有難い私達への贈り物である。
俳句は更に短い。十七文字の五七五の短形詩である。短歌以上に日本人に広く親しまれている詩で、世界一短い詩として愛されている。

世界で一番清潔で安全で平和な町

23年5月23日(月)
世界で一番清潔で安全で平和な町

日本は同じ言語を話し、読み、書き、高い教育水準を保ち、みんなが基本的に平等だと感じ、同じ文化を共有してきたから、安全なまちとなった。日本は伝統の継承に注力し、本来の価値観を温存してきた。戦後急速に日本人に受け入れられてきた経済的合理性という考え方には、大きな問題点があるが、日本は日本の本質を見失ってはならない。世界は、それを期待しているのだ。
真面目で、静かで、礼儀正しく、威張らない日本人。自分のことよりチームワークを重視し、悪いことはしない。責任感が強い。自然とのすばらしい調和を作り上げ、勿体ない精神を色濃く残し、繊細な美を発見し、それを愛でる能力を持った日本人。自然との共生、自然エネルギーの利用を進める日本はきっと世界中にトップランナーとして受入れられていくだろう。歴史を紐解いてもう一度過去の日本を見直してみると、勇気が沸いてくる。
戦争の体験を語れる人がどんどん少なくなっていくのがとても心配だ。本や映像で戦争の悲惨さ、その復興の苦しみを残し、子孫が同じ過ちを犯さないことを祈りたい。
高見順(1907〜1965)の日記を読むと、東京大空襲の後、非難民でごった返す上野駅の情況と、中国で見た情況を比較して、彼は次のように言っている。「おとなしく、健気で、我慢強く、謙虚で沈着な日本人に、私の目に、いつか涙が沸いていた。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った」
NYCに住むドナルド・キーンは、福島第一原発の事故で、日本を離れる外国人が多いのを見て、「私は今回高見と同じ気持」と新聞記者に語っている。キーンが「日本への永住を決めた」とのニュースほど私達を喜ばせたことは近来ない。高見順を尊敬する私は、キーンの本をもっともっと読みたいと思っている。

タイムの花

23年5月18日
タイムの花

福井から大野に向うJR越美北線というローカル線がある。2005年の福井豪雨により、線路や鉄橋が流されて、堤防の決壊もあり、沿線に大きな被害を残した。その越美北線の復旧と地域の美化をかねて、地元の方々の協力により、線路の両側にハーブの一種である「タイム」が植えられた。そして毎年薄い紫系のピンクの花を咲かしている。
大野市の中荒井町と陽明町の間の約200mにわたって通行人の目を楽しませてくれる。ハーブは荒地に強い植物で、花は小さいがよくよく見るとそれぞれが美しい。花は小さいが群生しているので、全体としてとてもボリュームがあり、圧巻である。その花の上をわたる爽やかな風は、「タイム」の上品な香りをもたらし、春を十分に楽しませてくれる。
大野街道を走るとJRであれ、車であれ、必ず何かすばらしい発見がある。一度春の一日大野街道を走ることをおすすめしたい。

地酒 梵

23年5月13日(金)
地酒 梵

先日鯖江市の酒蔵加藤吉平商店の加藤吉平蔵元を訪ねた。五百万石大名会についての打ち合せのためである。そこで山田錦(酒造好適米)礼讃の話を聞いた。五百万石と山田錦との比較である。地酒の品質にこだわり続けているとやはり山田錦にいってしまうのだとのこと。地酒の世界一を目指す「梵」の蔵元加藤社長ならではの話だ。もう一つ、「醸造アルコール」についてである。梵では醸造アルコールを一切使用していないとのこと。この理由は今は言うまい。私も「醸造アルコール」については「地酒研究」を始めた時から、種々の疑問を持っていたが、未だに混入の正確な理由をお客様に説明できなくて困っている。
 もう一つ、加藤社長の夢は、現在の酒蔵周辺を一大観光地化し、「地酒の里」づくりをしたいとのこと。そしてつつじ祭の西山公園、越前陶芸村などを結ぶ観光ルートの中心点になるとのこと。まさにわが意を得たりと私も大賛成。日本酒を学び、味わい、買える酒蔵を中心に、日本酒文化の里となるよう祈りたい。
 更に今回の3.11大災害支援のため渡米し、サンフランシスコでのチャリティオークションに参加し、義援金8万5千ドルが集まったとのこと。日本ガンバレコールが沸き上がり感激したと加藤社長。その行動力には頭が下がる。

早起きは三文の得

23年5月10日(火)
早起きは三文の得

江戸時代に流行った言葉である。早起きをすることで三文を節約できるということで、あんどんの油代である。私は毎朝4時に起床し、読書をしたり、文章を書いたり、一日の予定を再確認したり約3時間を有効に使っている。前の夜の就寝が遅れると眠気を催し、中身の濃い時間にならない。
 毎日新聞の余録に「ベンジャミン・フランクリンが早寝早起きをパリ滞在中にパリ市民に推奨した」と紹介していた。その理由が江戸時代の油代と同じようにろうそく代の節約である。フランクリンは更に早起きが「健康、富、知恵」にプラスに働くと述べているそうである。一度彼の著書に確認してみよう。
 「健康」によいというのはすぐ肯定できる。夜遊びができなくなるからだ。夜の暴飲暴食は身体によくないのは誰でも知っている。「富」はどうだろう。一晩三文の得を一生続けるとかなりの金額になる。小銭をムダにしない人は大成するとよく言われている。私の会社は100円玉でビジネスを行っている。1日2,500万円の100円玉や1,000円札が集まってくる。年間100億円近い。100円を笑う人は100円に泣くはずである。社内では100円を笑う人間はいない。「知恵」はわかり難いが、実際に早起きをして昨日の難問題をもう一度考え直してみると、解決策が簡単に見つかることがある。朝は頭脳明晰というより、発想が前向きになる傾向があるのだ。
 首都圏の計画停電は困ったことではあるが、夜間電力料金は昼間の料金よりも遥かに安い。夜間料金の活用(早朝、深夜が安い)は真剣に議論する必要がある。

森の記憶

23年5月6日(金)
森の記憶

幼少時代鎮守の森が私の遊び場であった。幼稚園から小学校、中学校そして高校もこの森を中心にした所にあった。B29の飛びかう中を森に作った防空壕に逃げこんだことが何度もあった。しかし森の中を流れる小川は、我が家の庭のようなものであり、広場は草野球など私達の遊び場であった。小高い山から竹スキーで雪の斜面をすべったこともある。芭蕉の句碑や石碑のまわりで鬼ごっこをしたことも昨日のように思い出す。嵐の日は森の中は恐ろしい。ごうごうと木がうなり出す。森には独特の香りがあり、心を癒してくれる。遊具などはなかったが、グローバーの上で祖母と弁当箱を広げていた幼い頃の思い出がよみがえる。
 それが原因だろうか、私がその後自分で住んだ住居はすべて森の中や森のすぐそばである。初めて自分の力で建てた岐阜の家は前一色山の中腹にあり、2階の窓からは、斉藤道三や織田信長の住んだ岐阜城が見えた。夜間照明を受けて金華山上に建つ岐阜城は心の支えであり、困難を乗り越えるよすがとなった。
北鎌倉の台峰の最上部にある家はある芥川賞作家の母が建てたものを購入した。ここは当時山中と言った感じの別荘であった。風が吹くと家のまわりの草木が風に靡いて押し寄せてくる感じが面白かった。屋敷に桜が数本あり、昔から近所の方々が花見に来るほど見事な桜だった。
外房に建てた三井不動産の別荘地ミレーニアの家は視界のすべてが森と山である。海岸の近くにあるので、台風などでは塩害で花木を傷めつけられるが、森の家で暮している幹事であった。
永平寺町のケヤキ台の家はこれまた高台にあり、町有地の斜面に接しているので、染井吉野をはじめ十数本の樹木を追加して植林し、森の中の家という雰囲気にした。
今は市内のマンションの上層階に住んで遠くの山々を眺めながら毎日を楽しんでいる。ベランダがさびしいと、石組や手洗鉢を入れ大きな植木鉢をたくさん並べて森の雰囲気をと思うが、これは何年かかっても無理なようで、毎週足羽山の原生林や越前海岸そして周辺の林道をドライブして満足している次第である。すぐそばに大自然があり、森の生活が出来るのがとてもうれしく気に入っている。

ケヤキ通り

23年5月2日(月)
ケヤキ通り

桜通りや足羽川堤そして足羽山の桜の季節がすぎた。今年の桜の開花は例年より遅く、例年より早く散った。三寒四温の日々の間隔が二寒二温の感じとなり、桜を楽しむ余裕がないうちに散ってしまった。
 東日本の災害のニュースに間に知暗く思い気持が続き、日本中が元気を失くしてしまったようだ。そして気がつくと目前にゴールデンウィークが近付いている。
 福井の中心部にはフェニックス通りのケヤキ並木がある。新緑が目にうれしく、爽やかな清々しい雰囲気を醸し出している。
 またJR福井駅東口にも道路の中央分離帯にケヤキがある。熊本の道路に植えられているケヤキは大木揃いであるが、福井のケヤキはまだ若木なので、それ程大きくはないが、樹勢はケヤキ独特の力強さを持っており、見ているだけで楽しくなる。
 都市の緑は貴重である。公園の緑、街路樹、邸宅の庭、そして神社や寺院の森は私達に自然の恵み、癒しを与えてくれる。
 マンションの窓から遠方を見ると、山々の緑が美しい。そしてあちこちの公園や大邸宅の木々が美しい。マンションのガーデンニングも早速活動を開始したようで、マンション全体が花園に囲まれているようで、楽しい気分にしてくれる。シンボルツリーのケヤキの元気が今一つなのが心配である。今年の夏は早く、そして暑いとの長期予測である。大木に育ったケヤキの下の緑陰で、暑さを凌げるのはいつの日であろうか。

今庄宿

23年4月27日(水)
今庄宿

福井県では信仰篤い人々が多く暮している。小さな村には必ず神社があり、お寺がある。神社はいくつかの神社が必ずと言っていいほど合祀されており、お寺は浄土真宗のお寺が1つか2つ、曹洞宗その他のお寺が1つ2つある。人口割で言うと神社仏閣の数は滋賀県と並んで全国一の多い県である。
 そして信仰は今なお生きている。神社仏閣を中心とする行事が私達の生活の中に生きている。永平寺の道元禅師、吉崎の蓮如上人はともに宗教史上に輝く巨星である。今年は親鸞聖人の750回遠忌の年に当っている。京都の本願寺、東本願寺において盛大に遠忌法要が行われる。
 吉崎の別院と京都の本山を結ぶ蓮如上人を偲ぶ行事が毎年この時期に行われる。京都の本山を出た行列は大津、高島、マキノ、敦賀そして木ノ芽峠の今庄宿を通り、越前、福井そしてあわら市吉崎へ別院へ入る。そこで約10日間逗留の後再度京都へ向けて出発福井、越前、今庄宿を通り栃ノ木峠を通り、木ノ本、長浜曽根、愛庄、草津から京都本山に帰る。全行程23日に及ぶ一大宗教行事で、これを毎年繰返し行われている。このびわ湖の西岸と東岸を通る行程では数多くの信者の出迎え、見送り、その間の夜の読経、法話の時間がある。その旅程の往還に今庄宿を通っていく。
 木曽路の宿場町が有名であるが、今庄宿は木曽路よりも数倍古い町並みが残っており、本陣こそ今はないが、脇本本陣や旧跡が軒を連ねている。特に今なお酒造りが行われている四つの酒蔵は小さな今庄宿では奇跡である。手造りの地酒が造られており、かつては20以上の酒蔵があったとつたえられている。まさに日本酒文化が温存されている地域である。四つの酒蔵とも福井県内有数の歴史と伝統を持っている。味よし、香りよし、風味よしの銘酒ばかりである。これ程の酒をかもし出せるのは水(軟水系)と気候(山間部なので低温)と人の技の絶妙のバランスである。

ジャン・フーラスチェの4万時間

23年4月26日(火)
ジャン・フーラスチェの4万時間

1960年前後フランスにおいて発刊されたジャン・フーラスチェの「4万時間」は、多くの示唆に富んでいる。日本語訳は1965年に長塚隆二さんが出版した。「4万時間」とは近未来の実労働時間をいう。25歳から50歳までの25年を生涯の実労働時間として働くとすると
 365日−有休を含む休日135日=230日
 230日×7時間×25年≒4万時間
この4万時間労働が実現すると、世界の情況は激変すると思われる。
 人間の英知は止まるところがない。日進月歩、特にこの100年が急成長・急展開を遂げてきた。そして今後もこの影響は続くであろう。
 今から50年も前にフーラスチェは現在の地球の姿を正確に予測している。科学技術の進歩、レーザー技術・メーザー技術・光電池・人工衛星・人工心臓・原子力発電などの発明を予測していたのである。
 話を「4万時間」に戻そう。日本人の男女の平均寿命は約83歳である。その総時間数は83年×365日×24時間≒73万時間である。未来の労働時間「4万時間」の18倍が私達の時間である。働かなくてどうして生きていくのか。それを考えると楽しみでもあり、不可能でもある。
例えば、私の場合はあと自由になる時間は8万時間も残っていることになる。これには睡眠や食事時間もすべて含んだものであるが、「4万時間」の2倍も残っているというのは誠に心強い。まだやり残したことが山ほどあると思っているので、大層有難い。生涯現役を貫いて貴重な時間を周りの人々への感謝のために使いたい。
 

ハワイよりのお客様

23年4月18日
ハワイよりのお客様

3.11大震災以来、日本を訪れる観光客は、史上最大の落込みとなった。「ビジットジャパン」を掲げ、観光立国を謳いあげた政府の施策は、昨年大きく効果をあげたが、今年は逆に大幅減少が心配される。
ロータリークラブの福井県、滋賀県、京都府、奈良県のロータリアン全員が集う地区大会が、4月16日、17日の両日にわたり開催された。ハワイ州第5000地区のガバナー、ジョン・エー・スチールクイスト(ホノルル東RC)同夫人ローラさん、ガバナー補佐マーク・エー・ハービンソンの3名が参加され、登録者2650名、新世代130名を合わせた大会に錦上華を添えていただいた。なおスチールクイストガバナーより栗田幸雄当地区ガバナー(福井北RC)へ、大震災のための救援募金の委託があった。ハワイのロータリアンからの暖かい支援に感謝すると同時に、私達も地区大会決議を行い第2650地区としてカンパすることを決定した。
海外より日本を訪れる観光客の急激な減少は、観光業界に先行き不透明感を与えており、日本が安全な国であることを再度世界に向けて発信することが急務である。また国民の自粛ムードが強すぎることは逆に救援を待っている被災者の方々のためにもならない。私達はこの困難な時にこそ、経済活動を活発化し、自信を持って、一歩ずつ前進を続けようではないか。
ハワイよりのお客様は、私達に大きな勇気を与えてくれた。心から感謝したい。

五島哲先生

23年4月14日
五島哲先生

越前海岸から約10km内陸へ入ったところに越前陶芸村がある。越前焼の陶芸家達が窯を築いて創作活動、展示即売の生活をしている。また福井県立陶芸館や、福井県窯業試験場があり、技術者や研修生が新技術開発や古来の技術保存のための努力を続けている。日本六古窯の一つといわれる越前焼のメッカである。近辺の山々には古窯跡やカメ墓跡が数多くあり、今でも山路を歩いていると古窯のカケラを拾うことができる。
そんな陶芸の里の片隅に五島哲先生の陶房がある。「椿窯」という扁額が掲げられている。陶暦は瀬戸の加藤先生に師事、その後韓国の黄鐘禮先生に師事、椿窯を1972年に築かれた。日本伝統工芸士認定1989年。青磁釉を追求している昭和16年(1941年)生まれの70歳。小柄な身体に似合わず作品は幅広く力強い。私とは椿窯の築炉以来40年の長いお付き合いで、毎晩地酒をいただく時の酒器ぐい呑みセットや独特の湯のみ、おうすを飲む青磁釉の茶盌など先生作の陶器にかこまれて至福の日々を過している。全米横断の陶芸展を企画し実行されるなど陶磁器を世界に広める運動にも力を入れられている。その作品は天皇陛下お買上げ、靖国神社天皇陛下書院の間、中国浙江省、韓国梨花女子大学、国民大学、福井足羽神社等に永久保存されている。
福井には五島哲先生だけでなく日展作家、工芸作家も数多く活躍されている。魅力あふれる伝統工芸の里として、多くの好事家を引きつけてやまない。


4万時間

23年4月13日
4万時間

フランスの経済学者のジャン・フーラスティエが未来予測を発表したのはもう20年も以前のことである。彼は人間の労働時間がどんどん縮小を続けている事に注目し、「一生の間の労働時間は4万時間になるであろう」と予測した。1日8時間労働で週休3日とすると、現在の52週/年に換算すると52週×4日×8=1,664時間/年 40,000時間÷1,664=24年間となる。大卒22歳から働き出すと定年は22+24=46歳となる。
かつて日本が高度成長の時の定年は、50歳であった。現在では60歳定年が増えてきているが、私達の会社は65歳定年制を採用して、高齢者に活躍の場を用意している。役職定年を45歳や50歳としている会社は多いが、役職定年を定年と考えると、フーラスティエの言葉に信憑性が出てくる。私達は役職定年制はまだ採用していないので正確な未来予測は出来ないが、人間の加齢と共に能力が退化するとは一概にいえない。逆に判断力や分析力、比較能力は経験と共に成長すると考えている。だから65歳の定年後も、能力に応じて働く機会を準備したいものである。
フーラスティエが気になることを言っている。「4万時間となった時には、世の中は芸術家で満ち溢れるであろう」、そういえば、太古人間はすべて芸術家であった。これからのビジネスもそれを忘れるわけにはいかない。

男と女

23年4月7日(木)
男と女

最近男性が優しすぎるとよくいわれる。社員の採用試験に立ち会っていると、その傾向が強いのがわかる。本来は男性とじょせいは「陽と陰」とに分けられて、強いのが男、弱いのが女というのが通り相場であった。男の意識は、革新、拡大、攻撃、競争、分析などの方向に向うのに対して、女の意識は保守、縮小、防御、協調、直感などの方向に向かい、全く反対側にある。ところが最近はこの意識が大きく乱れ始めているようだ。生理学者はホルモンの異常が起きているといい、経済学者は雇用均等法のゆきすぎた解釈によるものだという。現実は女は強くなり、男が弱くなっている。男の意識を女が持つようになり、男が女の意識を持つようになった。男と女の間の壁が崩壊しつつある。まるでベルリンの壁のように次々と壊されてゆく。その跡は陰陽が交じり合った新しい社会の出現となろう。
福井県は、女性の職場進出が早くから日本一といわれてきた。福井の女性は働き者である。3世帯同居の傾向が強く、孫の子育てをする親が多く、1人当たりの収入は決して多くないが、世帯当り収入はトップクラスになる。そして重要な点はそれぞれが自分の財布を持っていることだ。女性が強いわけが、その辺りにあるのかもしれない。
男女の平均寿命の差も一因である。結婚年齢の常識が男30歳、女が25歳である。女性の平均寿命86歳、男性80歳である。そこに大きな差が生まれる。夫の死後、妻は約11年間、財産の管理を行うことになる。かつての先進国での「金持ちの未亡人」のように、わが国の富は、女性が支配しつつある。富を支配する女が強くなるのは、理の当然である。

驚きの商品

23年4月6日
驚きの商品

商品の魅力とは一体何だろうか。その第一の条件は、お客様がほしがっている商品である。しかしそれ以上の商品がある。それは潜在意識ではわかっていても、まだ欲望が顕在化していない商品である。消費者を驚かせる商品だ。私はこれを「驚きの商品」と名付ける。
かつて私達の過去を振り返ってみると、この「驚きの商品」は何であるかがよくわかる。まず「ラジオ」が初めて売り出された時、人々は遠くの音が箱から出てくるのに驚いた。「テレビ」も同じ。「カラーテレビ」にも驚いた。戦後の「自動車」ブームも全く同じように乗ってみて、その便利さ、快適さに驚いた。そして人々の生活をも変える力を持っていた。ソニーの「ウォークマン」にも驚いた。コンパクトなミュージックボックスだ。「携帯」も同じ、カメラがついて本当に驚いた。
これからは何が私達を驚かせてくれるのだろうか。その商品こそ次の大ヒット商品になるのである。
今までの延長線上で考えるとその「驚きの商品」は「プリウス」や「電気自動車」であろう。そしてその先の商品は???興味はつきない。
 
 

きもの文化

23年3月31日
きもの文化

春の色はピンクである。雪国の人の春を待ちわびる心は強い。ピンク色が一斉に町を彩るのはそのためであろう。日本の民族衣装は着物であるが、春になるとその着物の色や柄もめっきり春めいてくる。ピンク色が多くなる。
GDP(国民総生産)のかわりにGNH(国民総幸福)を追求することを国民の長期的な目標に掲げているブータンから、国王の娘、ケサン・チョゼン・ワンチュク王女が来日した。民族衣装を着ることを奨励し、伝統文化を守ることに大いに努力しているとのことである。
私の母は生涯を女子教育に捧げた。私の父母は「両もらい」という養子夫妻であった。私の母は生まれるとすぐ野坂家へ養女にもらわれてきた。縁続きである。祖父からいうと妹の娘をもらったのである。そして父を養子としてもらい母と結婚した。その時父は滋賀県で初めて設立された第二十三国立銀行の行員であった。母は結婚前から野坂和裁塾の塾頭として多くの子女を預かる身であった。
年に幾度となく京都へ出かけて、和裁の流行を研究していた。私も汽車に乗り、連れていってもらった。デパートをまわり流行を調べていた。何を見ているのかと聞くと、柄やデザインだとういう。デザインは「えり」の形、幅などが違うという。私が結婚した後は私の妻に口ぐせのように「着物をきなはれ」とうるさい程言っていた。母の死後妻の着物姿を見れるのは外国旅行の時や慶弔の時ぐらいである。着物文化が廃れていくのを見るのは真につらいけれど、私の妻でさえこうだから残念ながら他人様に要求できるはずはない。
ブータン王女の来日を機に、民族衣装が国民の精神的支柱となり、平和と幸福を与えているのを知り、改めて「着物文化」の復興と、日本文化の伝承の重要性を実感した。

脚下照顧

23年3月28日
脚下照顧

身近かなことにも気をつける必要がある。遠い目標、高い志が最も重要であるが、自分の足元にも注意を怠るなという言葉である。浮ついた心をいさめ、足元の安定を欠いてはダメだという注意である。足元をしっかり見つめて、次の前進を確かなものにせねばならない。自分のまわりを見ると、直ちにやらなければならないことがありながら、何か理由をつけて、手をつけていないことが多い。その理由たるや、単なるこじつけや意味のないことのほうが多い。やりたくないのである。そんなことは「直ちにやろうと」の精神で次々と片付けてしまうのが何よりである。
「脚下照顧」は禅寺のトイレには必ず書かれている。足元を汚すなという意味と、日ごろからトイレの中だけでなく、自分の足元によく注意をして仕事や生活をせよという意味である。
例えば今の自分の足元をみても、直ちに手をつけるべき緊急事が二、三あるのにすぐ気付く。この二、三の問題解決に努力するのが私のつとめである。使命である。与えられた使命を喜んで果たしていきたいと考えている。足下を見ても、まわりを見てもやる必要があることがなくなればそれは極楽往生の時が来たのであろう。いつも二つ、三つの与えられた仕事を必死に追いかけているのが私の生甲斐である。

職業に仕事に貴賎はない

3月24日
職業に仕事に貴賎はない

中学生の頃、職業という授業があった。「読み、書き、ソロバン」の過去の流れの中で、中学卒業と同時に就職する友人が多かった頃である。その授業の中で、先生が何度も教えられたのがこの言葉「職業に貴賎はない」であった。「末は博士か大臣か」といわれた戦前から思うと、この言葉は私には非常に魅力的であった。
私の家は八幡神社に近く、神社の森は私達の遊び場であり、通学路であり、地蔵盆の場所でもあった。そして西田天香という「お掃除哲学」を説いて世界中を歩いた「一燈園」の主催者の生まれ育った所である。今でも西田天香の遺跡が数多く残っている。天香は「天香はん」といわれ「太閣はん」という秀吉同様に長浜の人々に親しまれている。天香はんの哲学は西田幾太郎と違って実践哲学である。「人の為に生きる」「お掃除に徹する」「そこから生甲斐を見付けよう」としている。私の子供の頃に一灯園の方々がたびたび私の家を訪問され、トイレの掃除をさせてくれと頼まれる。喜んでどうぞどうぞという母に、私は何度かそのトイレ掃除のいわれを質問した。
そして職業に貴賎がないのと同じように、人のする仕事にも貴賎がないことに気付かされた。いやそれ以上にトイレ掃除などの仕事こそ貴い仕事であると確信をした。それ以来私はゴミを拾ったり、トイレの床の掃除を心がけるようにしている。それが終って手を洗っていると不思議に心が安らぎ、笑顔が戻ってくるのである。

日本はまた変る

3月23日
日本はまた変る

建築家安藤忠雄に会った。金沢で建築家協会の北陸支部の主催で「地方に明日はあるか」というテーマの講演会である。私より4歳年下であるが、その迫力はすごい。
彼の書いた本は何冊か読んでおり、強い興味を持っていたが、「地方に明日はあるか」というテーマになおそそられた。安藤氏のことだから「地方に明日はない」という結論を用意して、そこから話をはじめるのではないかなどと想像をしていたのだ。
しかし、10日前の東北関東大震災のため、そのスタートは「へこたれるな日本!もう一度作りなおそう」から始まった。「世界中が真剣に日本を応援している。大災害の中、日本人は秩序ある行動をとり、助け合って苦難を必死に乗り越えようとしている。日本中で被災者を助けよう」2時間に及ぶ講演の中で彼の言葉は私のいつもの主張と、あまりに「ウリふたつ」なので驚いた。
「地方に明日はあるか」というよりも「大阪は最も落ち込んでいる町だ、その大阪を変えようとして取り組んできた。その心は今自分がやれることはなんだ。自分にやれることをすぐやろう。勇気を出せ。夢に挑戦せよ」と全く同感の言葉が飛び出した。「言いたいことを言っておくと、その内に何か返事が返ってくる。意見はちゃんと言っておくべきだ。もっと人を使え、失敗は成功のもとだ。失敗を恐れることは無意味である」「文化勲章をもらい、日経新聞に「私の履歴書」を書くとそれで人生終わりとなるが、私は100歳まで闘い続ける」との熱い言葉を聞いた。『建築家安藤忠雄」という本に光の教会のイメージをサインしてもらって別れたが、よい1日であった。直接会って話してみると意外とやさしいところがある紳士で、本から想像していた安藤氏とは別人の感を受けた。100歳まで共に活躍をしたいと思わせる人である。

ひとりの思い

23年3月16日(水)
ひとりの思い

コロンブスの卵も、孔子も、釈迦も、キリストも、すべてはひとりの強い思いからはじまった。ケネディもオバマも同じである。他の人の想像を超えた時空から物事を判断し勇気をもって可能性に挑戦したから人類の歴史に残ったのである。
私達はそんな強い思い、自分だけの思い込みを持っているだろうか。それを持っていると、あらゆる物事が、その思いを中心にまわり出す。思いがけない支援や協力の申出が出てくるのである。方向を明確にし、内外に自分一人の思いを語る時、私達は一歩先人達に近づくことになる。困難な茨の道であることは最初から判っている。しかし自分ひとりの熱い思いを実現する為に自分の貴重な人生の一刻一刻を費やすことは夢の実現であり、使命でもある。他人の評判を気にする必要は全くない。ただ努力あるのみである。すべてはひとりの思いからはじまることを信じて、自分の思いを昇華させていきたいものである。私の思いは「喜びの種、幸せの種を蒔こう」の一言である。今その為の種蒔く人の原画を考案中である。

北陸の日本酒

23年3月11日(金)
北陸の日本酒

日本海側の県は平均して日本酒党が多い。成人1人当りの飲酒量の第1位は新潟県である。全国平均の2.5倍を飲んでいる。次が秋田、そして富山、石川と続き、福井県は第9位で1人当り8.4ℓ/年を飲んでいる。(金沢国税局.H.20年度)
ただ驚いたことに、日本酒の販売量は毎年減少をつづけている。北陸でも例外ではなく、H.11年からH.16年の間に約30%減少し、H.16年からH.21年の間に約20%減少している。10年間では45%の減少である。ただビールや発泡酒も同じような傾向にあり、過度の飲酒の自粛や、飲酒運転の禁止、若者のアルコール離れによると推測されている。酒造業界の監督官庁が財務省であることから、製造業のあるべき姿、特にマーケティングに対する指導育成が弱かったとも考えられる。
日本酒は神代の頃から日本人と共に歩んできた最古の製造業である。福井県では200年を超えるエノキアン(長寿200年以上の企業)が15社もある。全県下で37の酒造が、規模は大きくないが独自の工夫をこらしながら地域密着型の堅実経営をつづけている。
外国への売込みや、流通経路の短縮、高品質高価格政策への転換など、各蔵で独自の努力をつづける姿は誠に頼もしい。私達もこの尊い日本酒文化を次世代にしっかり引継いでいく為に種々の努力をつづけている。福井を訪れる観光客においしい地酒をPRし、ファンづくりに精を出したり、地域の方々に地酒の良さを友人知人に吹聴してもらうよう努めている。
日本料理と日本酒がペアになって世界中で愛される日が来ることを夢見ているのである。

人を生かす

23年3月7日
人を生かす

福井ゆかりの偉人岡倉天心の銅像が市の中心部中央公園にある。転進はお雇い外国人のフェノロサに学び、彼の日本各地歴訪の旅を共にし、東京芸大の全身、東京美術学校を創立、校長を務めた。その後日本美術院を創り、多くの日本画家を育てた。今なお「院展」として、日本画界の主流を形づくっている。
フェノロサがボストンに帰り、ボストン美術館の設立に携わるにつき、岡倉天心の類にまれな才能を、東洋美術部の部長として迎え、縦横に発揮させた。建国僅か200年のアメリカに、世界一を誇る東洋美術の殿堂が完成したのである。岡倉天心なくして絶対にできなかったことである。
もし仮にフェノロサと岡倉天心が東洋美術館を日本に、いや福井に作ってくれていたら世界に誇れる「東洋美術コレクション」が福井に残っていたであろう。ボストン美術館はウィリアムモースをはじめ数多くの民間人の寄付で完成した。ものごとを「為すか為さざるか」は人間の意志による。フェノロサが岡倉天心を生かし、数名のアメリカ人がフェノロサを生かしたのである。そして時代がボストン美術館設立という大事業を為さしめたのである。私は学生時代京都市美術館に出入りしグループ展をしたり、いろんな展覧会を観賞したりしていた。そしてボストン美術館へも何度も行っている。その規模の大きさと、福井県立美術館や福井市美術館を比較すると、落胆せざるを得ない。
福井は和紙、漆器、陶芸、鉄器、織物の産地として1500年の伝統を持っている。東洋美術館を福井に設立するために第2のフェノロサ、岡倉天心の出現を夢見ている。

五百万石大名会

23年2月14日
五百万石大名会

2月10日に福井県の地酒を応援する会の発会式をホテルフジタで開催した。発起人をはじめ30名が出席して盛大なパーティとなった。蔵元代表として南部酒造(花垣)の南部社長を招いて、福井県の地酒や花垣の酒についての講話をいただいた。日本料理のメニューにあわせて用意した花垣の酒は6種類、「究極の花垣」という通し番号入の限定大吟醸(鑑定品評会用)で乾杯し、宴会に入った。会の名前は五百万石は、日本で最も生産されている酒米の名前から選んだもの。徳川家400百万石、前田家100万石に対して、福井越前藩松平家は68万石であったが、酒米の五百万石の生産量が日本一(人口割・面積割)なのにちなんで「五百万石大名会」と命名し、互選により会長は福井県前知事の栗田幸雄氏を推戴した。任期は2年、重任を妨げないとなっている。
福井県の地酒の評判はよいが、PR不足のため、知名度は兵庫・京都・新潟をはじめ広島などと比較すると極端に低い。そこですばらしい福井の地酒を内外にアピールする為の運動をすすめていくことを会の目的とした。全国的に活躍をしている大企業の地元の幹部をはじめ、観光に興味のある会員の協力を得て、所期の目的を果たしたい。
地酒を食事と共に1合程度(180ml)いただくのは最高の贅沢であり健康長寿のもとである。
この大名会は年4回開催し、日本料理と日本酒のベストマッチングを楽しむと同時に福井県の地酒を内外に宣伝するものである。会員は50名を限度として募集中であり、10名程度の余裕があるので、同好の士の方は申出ていただくことをおすすめする。

自由気ままと凧の糸

23年2月9日
自由気ままと凧の糸

子供の頃歌った正月の歌に「お正月には凧あげて、コマをまわして遊びましょう」という文句があった。凧を上げるのは北風の吹く冬の風物詩であり、子供の遊びの中でも面白さでは上位にランクされていた。稲刈りの終った田圃で手作りの凧上げに夢中になったものである。風にのって凧がどんどん上っていって、その内強風のため糸が切れて八幡の森に消えていったのを必死に追いかけてこともあった。「糸の切れた凧」である。安定感を失って落ちていく姿は、何か大切なものを失くしたようで子供心に鮮明に焼きついている。
最近の子供達の凧は大分姿形の異なったものとなっている。手作りの凧は姿を消し、糸も強くなっているようだ。それでも電線にかかっているのをタマに目にすることがある。
最近の子供達は自己チューという傾向がある。どんな虫かと聞いたら「自己中心主義の自己中」だという。それは大変結構なことだというと、いや違う、大変困っているというのだ。自己チューというのは自主自立のことではなく、自由気まま、勝手気ままの事だという。糸の切れた凧と同じだというのである。
戦後の教育に問題がある。教育とは躾である。先生と生徒は対等ではない。母親と子の関係と同じように、時に厳しく指導しなければならない。ゆとり教育の弊害がいわれ、路線が修正されたが、子供の教育は凧の糸のようにしっかりと指導してやることが必要である。糸の切れた凧は自由気ままに大空を飛ぶのでなく、必ず地面にたたきつけられてしまうのである。自由に大空を泳ぐ凧には、しっかりとした糸によって操られ、導かれていることを忘れてはならない。
人は一生学ばねばならない。或いは先輩が「もう十分勉強したから、学ぶ必要はない」といった言葉が大そう気になった。しかし学ぶのを止めた先輩のその後は、それまでと見違える程、生気を失っていった。いくつになっても凧の糸を操ってくれる人を持つことは幸せである。それは人間、生きた人間だけでなく、過去の偉人達或いは書物でもよい。自分一人の力で大空を泳いでいるのではない。何ものかに泳がされ、生かされているのを感謝し、自分に与えられた使命をしっかり認識し、自らの行動を律していきたいものである。

一意専心

23年2月8
一意専心

一年の計は元旦にありというので、私達の会社では年末に全社員に色紙を配り、一年を通しての自分の決意を表す言葉を色紙に書いて、それを会社の事務所の壁に貼っている。各部門に貼り出すので比較してみると面白い。今年は「一意専心」と書いた課長がいる。この言葉は昨年の私の弟の会社のスローガンになっていたので、すぐ気がついた。「一意専心」とは一つのものごとに全身全霊を打ち込むことであり、「一心不乱」という言葉と同じ意味で、私は大好きなスローガンである。福井県の酒蔵の中にこの言葉を酒のブランドにしているところがある。毛利酒造という蔵の純米吟醸であり、山田錦という最高級の酒米を使い、丁寧に醸し出された銘酒である。「すっきりとしたのど越しの中に、しっかりと米の旨味を感じていただける一品です」と蔵元からの言葉が酒瓶にかかれている。
この「一意専心」という名文句を忘れないよう、そしてこの言葉をしっかり守って努力した弟の会社の全社員に、私はこの銘酒をプレゼントした。厳しい環境の下必死の努力を続けている零細企業の社員の姿は、ひとりでに頭が下る。
弟の会社は長浜の名門企業近江ベルベットの販売会社である。かつての長浜は「長浜ちりめん」「ビロード」「カヤ」が三大産業であった。弟はビロードの会社であったが、時代の変遷と共に植毛の壁紙等の取扱いが増えていった。今では安い中国製品に押されて、年々経営が苦しくなっている。その社員の努力を垣間見て、「一意専心」を贈ることにしたのである。ピンチはチャンスという。このピンチを乗り越えていくことにより大きく成長し、変身することが出来ると信じている。
地酒の業界も零細企業が多い。厳しい環境の中にあって努力されている酒造業界の方々に心から賛辞をおくりたい。

福井県の人口81.6万人

23年2月7日
福井県の人口81.6万人

福井県より大きい市は東京、横浜、大阪、名古屋、さいたま、千葉、札幌、仙台、川崎、京都、神戸、広島、福岡、北九州、堺である。新潟市がほぼ同じ80.4万人、浜松市が78.8万人、静岡市が71.2万人である。福井県の人口規模は、新潟市、浜松市、静岡市並である。また人口密度で比較してみると、全都道府県の中で16番目に低い。よく似た面積、人口は徳島県である。人口、面積ともほぼ同規模で、1世帯当り貯蓄率もお互いに高い。徳島県の特長は1次産業の比率が高く、全国1位はスダチ98%、白ウリ40%、洋蘭(切花)16%、生しいたけ10%とすべて農産物である。福井県の全国1位はメガネ、飲食用漆器、羽二重類、編レース生地などすべて工業生産物となっている。よく似ているようで中身は大分違う。
人口の都市への集中がどんどん進むのは、世界的な風潮といわれてきたが、都市の過密化による弊害の大きさを認識することで、過度の集中をストップさせることが可能ではなかろうか。
福井県や徳島県のよい所は、海や山、自然に恵まれた環境を上げることができる。アメリカの都市形成の過程を見ていくと都市に集中した人口は、ピークに達すると周辺の郊外へどんどん移動していくケースが多い。過密都市からの脱出である。首都圏や中部圏、関西圏からの移住をすすめるにはこの自然環境のすばらしさをアピールすることが大切となる。食べ物がおいしいというのは最大の「ウリ」になること間違いない。人はおいしいものを求めて右往左往している。また健康長寿も人類永遠のあこがれである。このPRも大いに効果があろう。


タイガーマスク 運動

23年2月3日
タイガーマスク 運動

昨年のクリスマスに初めて現われたタイガーマスク伊達直人は、施設の子供達に新しいランドセルをプレゼントした。そして正月にはまた伊達直人が出現し、あっという間にタイガーマスクを名乗る人々が、施設へ少額の寄付を次々と行った。その数、千人を突破したとのことである。暗い世相といわれる現在に、小さな親切運動の灯が灯ったようで、人々の感動を呼んでいる。
私達ロータリークラブでは、毎年全世界のロータリークラブメンバーが、寄付を続けている。ロータリー財団への寄付で、それが世界各地の援助が必要な人々に分配されていく。また奨学金制度もある。日本のロータリークラブが独自に続けている制度もある。米山梅吉氏の功績をたたえて米山記念奨学金と命名し、アジアから日本への留学生に支給されている。ロータリークラブの奉仕活動は五大奉仕部門に分かれており、クラブ奉仕、職業奉仕、社会奉仕、国際奉仕、新世代奉仕である。全世界で100万人を超えるロータリアンが奉仕活動に努力している。日本人は約10万人である。日本人の0.8%の人々がロータリークラブを通して、毎年タイガーマスク運動を行っているのである。この事実があまりにも知られていないことに驚く。これはタイガーマスク運動と同じように、名前を出さずに善根を積むという日本人の精神から来ているのである。
私はロータリークラブやライオンズクラブが社会奉仕団体として広く社会全般に認められる日が一日も早く来ることを願っている。それは趣旨を理解し、協力者を増やす為の大切な広報活動なのである。日本の税制を改革し、寄付行為をより優しいものにしてもらいたい。寄付社会への移行が急がれていることを忘れてはなるまい。アメリカの年間寄付総額は19兆円、イギリスは1.5兆円、日本は0.5兆円だ。この格差の大きさを穴埋めする為に、政治や行政は行動を起こすことが求められている。

清貧

23年2月2日
清貧

70歳を過ぎた時、まわりを見回してみて、友人達の中で現役で仕事をしている者が殆どいないことに驚いた。予定通り息子に社長を譲り、私も代表権のない会長に退いた。その後サブプライムローン破綻で世界は揺れに揺れ、遂にリーマンショックがおきて、世界大恐慌かと騒がれた。未だにヨーロッパもアメリカも深部に大きな不安をかかえている。日本円や中国元が強含みとなっているのは、その表れである。
会長に退いてから考えたのは、これからは「清貧」に生きようということである。「感謝」の生活をしようということでもある。指折り数えてみると、今迄の分不相応な生き方が多すぎだ。もっともっとシンプルに生きたいと切望するようになった。ところが現実は、その反対で、なかなかシンプルに生きるのは難しい。身辺整理をと思いながら、これすら思い通りにいかない。
会社も資産リストラをせよと息子に忠告し、100億円もあった総資産をやっと80億円まで引き下げてくれた。年内に60億円にせよとやかましく言っている。個人の方はこれまた資産リストラを実行せねばなるまいと思いつつ、こちらの方が何一つとして進んでいない。年内に半分くらいにしてしまいたいものだ。
私は聖賢の例のごとく、「林間に酒をあたためて紅葉をたく」の境地に達するのを理想としているが、酒をあたためて飲むのは毎晩実行しているが、悠然とした精神の悟りの境地に達するには程遠い生活である。
せめて形だけでもと思いつつ、「清貧」のレベルに近付くことができるのはいつのことであろうか。

木の芽峠

23年1月31日
木の芽峠
継体天皇も、紫式部も、道元も、お市や三姉妹のお江も、秀吉も家康も、蓮如も、松平春嶽も通った道、それが越前の入口に位置する「木の芽峠」である。越前側は今庄宿、そこに数百年もの伝統を持つ地酒蔵が四つある。近江側は木ノ本宿、ここにも日本有数の500年という歴史を持つ地酒蔵がある。山路酒蔵有限会社である。今を去る50年余年前、私は学生であったが、この山路酒造の奥座敷で床柱を背にして、蔵元の歓待を受けたことがある。有限会社にしたいということでアルバイト先の税理士とその下相談をした後のことであった。昨年50余年ぶりに「桑酒」を求めに訪問し、当時の蔵元の孫の奥さんに会い、思い出話に花が咲いた。越前側の今庄宿の堀口酒造も創業400年近い老舗で福井県では一番古い酒蔵である。特別純米酒鳴り瓢はすっきりとした少し辛口の銘酒だ。雪深い今庄の里にふさわしい味がある。鳴り瓢は豊臣秀吉の千鳴り瓢箪にちなんでつけられた酒名であろうか。今年はNHKの連続ドラマ「お江」の中でも、この街道は千成り瓢箪がカラカラと音を立てて往来していたに違いない。秀吉の非凡なのはこの旗印の際立った特徴でもわかる。彼は戦勝の度に一つずつ瓢箪を増やしていったのである。衆人がこの旗印を見れば、秀吉一人がどんどん戦果を上げているように見える。他の武士達はいくら戦勝を重ねても、それを吹聴する以外に衆人に知らせる術はない。秀吉はその吹聴なしで、瓢箪の数で戦果を誇示できたのである。秀吉の部下達にも大きな自信を与えたに違いない。また主人の織田信長の評価もおのずと高まったことであろう。次いで聖乃御世の北善、白駒の白駒酒造、そして畠山酒造の雪きらら大吟醸もすばらしい。ここの若い蔵元の奥さんはかつて私の秘書を勤めてくれた人であった。「雪きらら」を初めてつくった時も、わざわざ私に飲ませようと自宅へ届けてくれた。縁とは誠に不思議なものである。
今庄の春は少し遅いが、今年の四月、酒蔵ツアーを企画している。山桜や片栗の花が咲いている頃である。今から木の芽峠の山々を思い浮かべて、古の人々を遥かに偲んでいる。酒蔵ツアーの成功を願いながら・・・。

道元の禅

23年1月21日(金)
道元の禅

釈迦も孔子もキリストも自ら文章を書いて残してはいない。その思想や行動、業績を残したのは、すべて弟子達の功績である。ところが道元の場合は大分趣きが異なる。道元は中国から帰国後、次々と書を書き続けている。その量の多さ、そして質の高さは他の追随を許さない。そして他の宗祖、教祖といわれる高僧達が、権力の中枢である。奈良、京都、鎌倉にその本拠を構えていたのに対し、道元は遠い越前の山中に禅の道場を開いたのである。世俗の塵を離れて、静寂の中で「座禅一筋」に修行に励み、弟子の育成をはかったのである。権力の庇護を受けていないという特質から、道元の禅は典座の地位を重くしている。生活の中にすべての修行が存するとの考えから、日常の行為を詳しく規制し道を説いている。特に食事と関するものに私は注目している。「精進料理」といわれる健康食である。魚肉を排し、山野の野菜を中心としたものであり、その食べ方は勿論作り方まで論じている。「永平清規」といわれる膨大な法の中にそれがある。日本食が世界に広く健康長寿食として認められ、人気を集めているが、その根源は精進料理にある。永平寺でいただく精進料理は一流料亭の豪華な懐石料理をしのぐ味わいである。一度食すると何年も忘れられない味である。
私は今、日本酒の復権、地酒の推奨に力を入れているが、日本酒と日本料理の関係を歴史的に突き詰めていくと、そこに佛教の精進料理と般若湯の関係に行きつく。今年のテーマの一つにこの問題を紐解いてみたいと考えている。また近々中に永平寺へお参りし、精進料理をいただきながら、永平清規について更に学んでいく覚悟をせねばなるまい。

書をかく

23年1月19日
書をかく

もう数年前から、私は細字を書いてみたいと考えて、その機会を待っているが、なかなか書けない。そんな時に、福井市の橘曙覧記念文学館で「曙覧の書簡をよむ」企画展があった。曙覧の万葉仮名交りの書簡で、主に福井城大奥取締りの奥老女頭芳野菅子(よしのすげこ)(1837〜1915、正式名はくま)との間で取交されたものである。なかなかに判読が難しいと思っているが、学芸員の説明を聞いているうちに少しずつ自信らしきものがわいてくる。39通もの書を曙覧は送っている。解説を聞いているうちは、何となく判った気になるが、1人で書の前に立つと、また判読が難しくなってしまう。省略形の多い仮名文字は特に難しい。
茶道や香道に使う絵や書は、殆ど判読の難しいものばかりである。それが読めなければ教養を疑われることになるので、何としてもすらすらと読む必要がある。そこで草書の手習いを勉強しなければならなくなったのである。
先生は手習帳を見付けた。1年以内にどんな文章でもすらすら読んだり、さっと書き上げられるように研鑽したい。
上手、下手は別問題だと覚悟を決めて、今日からはじめることにする。

味覚は中小企業が極める

23年1月17日
味覚は中小企業が極める

ビールメーカーは巨大企業である。戦後の世界で酒造業界を席捲しているのは一握りのビールメーカーである。勿論地ビールメーカーが最近誕生したが、大規模なところほど苦戦している。味覚は大量生産によって、均一化されたものとは相性がよくない。個人差が激しいからだ。
フランスワインは世界中で珍重されているが、そのメーカーはいずれも大企業ではない。中小企業サイズのメーカーが忠実にぶどう畑を管理し、ワインを作り続けている。たとえばロマネ・コンティは狭い畑で栽培されている。ラ・ターシュやロマネサンビバンも同様である。それが小さければ小さい程高級ワインとして認められている。村になると少し安くなり、ブルゴーニュ産となると益々安くなる。これはブレンドによって品質が均一化するので、ワインの特長が押さえられてしまうからだ。
日本酒の場合も最近では同じ傾向にある。地方の酒蔵の限定酒に人気が集まりつつある。私は福井のえきまえで九頭龍・地酒百蔵という福井県内産の地酒に限って取り扱う酒類販売の小売店をオープンした。福井県の地酒のレベルの高さに気付き、このすばらしさを日本中はおろか、世界中にPRすべきだと考えて開店した。売上や利益が目的ではない。地元の人々に福井の地酒のすばらしさを自覚してもらうことを目的としている。福井を訪れる観光客に、福井の地酒のすばらしさ、福井の料理のおいしさ、そして福井の観光地をPRすることを目的としている。中小企業のままでよい。地酒をつくり続けて次世代へこの酒造りの伝統を引き継いでいってほしいのである。その為に微力を尽くしたい。

味覚は中小企業が極める

23年1月17日
味覚は中小企業が極める

ビールメーカーは巨大企業である。戦後の世界で酒造業界を席捲しているのは一握りのビールメーカーである。勿論地ビールメーカーが最近誕生したが、大規模なところほど苦戦している。味覚は大量生産によって、均一化されたものとは相性がよくない。個人差が激しいからだ。
フランスワインは世界中で珍重されているが、そのメーカーはいずれも大企業ではない。中小企業サイズのメーカーが忠実にぶどう畑を管理し、ワインを作り続けている。たとえばロマネ・コンティは狭い畑で栽培されている。ラ・ターシュやロマネサンビバンも同様である。それが小さければ小さい程高級ワインとして認められている。村になると少し安くなり、ブルゴーニュ産となると益々安くなる。これはブレンドによって品質が均一化するので、ワインの特長が押さえられてしまうからだ。
日本酒の場合も最近では同じ傾向にある。地方の酒蔵の限定酒に人気が集まりつつある。私は福井のえきまえで九頭龍・地酒百蔵という福井県内産の地酒に限って取り扱う酒類販売の小売店をオープンした。福井県の地酒のレベルの高さに気付き、このすばらしさを日本中はおろか、世界中にPRすべきだと考えて開店した。売上や利益が目的ではない。地元の人々に福井の地酒のすばらしさを自覚してもらうことを目的としている。福井を訪れる観光客に、福井の地酒のすばらしさ、福井の料理のおいしさ、そして福井の観光地をPRすることを目的としている。中小企業のままでよい。地酒をつくり続けて次世代へこの酒造りの伝統を引き継いでいってほしいのである。その為に微力を尽くしたい。

酔うために飲むのではない

23年1月14日
酔うために飲むのではない

私達の学生時代は、昭和30年から34年にかけての日本経済が敗戦後の混乱を経て、朝鮮戦争による特需景気を経験し、復興に立ち上がろうとしていた時代であった。米の配給はなお続き、外食券食堂が未だ幅をきかせていた。酒といえば、どぶろくや焼酎で、2級酒は貴重品であった。トリスバー、サントリーバーが各地にできつつあった頃である。ビールはまだ主流ではない時代であった。
その頃の飲酒は酔うためのもののようであった。人々は大いに飲み、大いに歌い、おおいに踊ったものである。酔うために飲んでいたような記憶が強い。飲酒運転は当然でありで泥酔運転の車を見つけても、警官は「気をつけていってください」というばかりであった。人々は酔った人に寛大であった。
最近では飲酒運転は、飲ませた人や一緒に飲んだ人にまで厳しい罰則が適用される。殺人罪に次ぐ重罪である。飲酒そのものも時代と共に変わってきたようだ。若い人があまり飲まなくなった。飲んでも酔う人が少ない。酒を楽しむ風潮が広がってきているのである。
日本酒とワインは食前酒、食中酒、食後酒として優れている。それを飲むことで、味覚を鋭くしく食感を高め、食欲を増してくれる。食べることが人生最大の喜びだという人がいる。美食にこるものもよいが、日本酒と日本料理の合性のよさ、その見事なハーモニーを楽しむことをすすめたい。ワインメーカーも、スコッチメーカーも中小企業である。日本酒も同じである。だからこそ永年に亘って老舗として地域に根ざして発展してきたのである。その歴史と伝統に支えられた天下逸品の地酒を是非すすめたい。酒は楽しむものである。嗜むものである。食と酒を楽しめる福井に生活できていることに心から感謝している。

日本酒文化をみんなで世界へ

23年1月11日
日本酒文化をみんなで世界へ

日本の健康長寿が有名になり、それは日本食が原因だということになり、すしブーム、和食ブームが広がってきた。ところがそこで飲まれているのは、ワインであったり、ビールであったりする。日本酒はまだマイナーのままである。
フランスワインには、赤ワイン、白ワイン、ロゼワイン、スパークリングワインがある。フランス料理とフランスワインは20世紀に世界中に広まっていった。そしてワインの産地もフランスからヨーロッパ周辺の国々へ、そしてUSA、チリなど世界中で栽培され、醸造されるようになった。
日本酒は、日本中に数多くの地酒の酒蔵があり、過去数百年に亘って地域の人々に守り育てられてきた。しかし敗戦後、一時期日本酒のブームがあり、各酒蔵は大いに繁栄した。その後が悪い。日本酒ブームは大手の酒蔵が地方の酒蔵の酒を買い占め、ブレンドで販売するという悪習を作り上げた。地方の酒蔵は自分の顧客を開拓する努力を怠り、安易にタンク売りに走ってしまった。酒税法の改正によって一気にタンク買いが休止したことにより酒造業界は大混乱に陥った。良心的な地酒ブームの始まる下地がその時から生まれてきたのである。
現在では日本食ブームに合わせて、日本酒が世界へ少しずつ紹介されるようになってきた。日本食も日本酒も代表的な日本文化である。このすばらしい日本文化を世界の人々に教えることは、原爆を体験し、戦争の永久廃止を世界に宣言した唯一の国、日本の姿を今一度世界に示すことになる。みんなで力を合わせて日本酒文化を世界に向けて発信しようではないか。

ニュートン時間とベルグソン時間

平成22年12月28日
ニュートン時間とベルグソン時間

あらゆるものに与えられるのは同じニュートン時間である。特に人間にとっては、金持ちも貧乏人も、老人も赤ん坊も同じ時間の中を生きている。この1日24時間をどのように過ごすのかで、個人差が出てくる。努力家は人より早く起きて働くか、人より遅くまで頑張るか、遊びや休息の時間を削って働くか、睡眠時間を削って頑張るか、そこに個人差の生まれる原因がある。二宮尊徳がマキを背に本を読みながら歩いている姿を、私は小学校の校門で毎日見ていた。しかし、このニュートン時間においては、個人差はどんなに努力しても大差は生まれない。せいぜい2倍程度に過ぎない。それに対してベルグソン時間による個人差は10倍、100倍、1,000倍、一説では10,000の可能性を秘めた概念である。新しい発想で、ニュートン時間での生き方から、ベルグソン時間での生き方に変えることによって、私達の人生の質は大きく変る。かつて偉人、聖人といわれた人々は、すべてこのベルグソン時間の中で活躍していたのである。
 では、ベルグソン時間とは何か。これはニュートン時間が物理的時間であるのに対し、質的時間と呼んだ方がよい。「火事場のバカ力」という信じられない力が出るのは、興奮状態にある人が異状な力を発揮できるからである。それは脳の中で分泌されるホルモンの力即ちアドレナリン、ノルアドレナリン、ドンパミンの内、興奮時に出るドンパミン(快楽ホルモンともいう)の力による。好きなことに夢中になっている時には、このドンパミンの分泌が多くなるとのことである。この方法を日常の生活に生かしていくとベルグソン時間での生き方を手に入れることができる。まずイメージをふくらませて、イメージの中へ入っていくのである。知的興奮状態に入ると同時にニュートン時間の束縛から逃れて、夢中になる。そして「火事場のバカ力」をわがものにすることができる。それは精神の高揚による処理能力の向上を伴う。それは可能性の肯定による、潜在能力を生かした力の発揮である。そこには数十倍、数百倍の能力が存在する。「イメージ」が大切である。絵画、音楽、図形など瞬間的に把握できるものを手がかりに、ベルグソン時間に入っていくのである。成功体験を積み重ねていくと、そのうちに自由自在にベルグソン時間への没入が可能になる。新しい人生への扉が開くのである。

あるがまま

22年12月27日(月)
あるがまま

現状を否定することはたやすい。ダメという人が多い。現状を否定するから改革ができる。ダメというから次が出てくる。この論理は間違いではないが、現実の世界ではひていが単なる否定だけで終わり、次への発展がない場合が多い。ダメダメと否定する人に限って、次の行動が伴わない。否定することで、変化を拒否しているのである。変化することから逃げ続けていけば、必ず衰退の運命となる。私達は変化し続けることで発展していけるのである。
「あるがまま」に受け入れることが大事である。否定の反対は肯定である。目の前の現実、現象、変化を肯定し、それを「あるがまま」に受け入れるのである。そしてすばやく対応対処しなければならない。
ある人は「福井の駅前はシャッター通りである。地元の人の自助努力が足りない」という。本当にそうなのか一度来てみてほしい。全国の地方都市の中心街と比較して、福井のえきまえがシャッター通りなのかどうか。私はそうは思わない。えきまえを歩く人は1役日約2万人いる。そして若者の比率が高い。老人も多いが、2割にも満ちない。観光客も多い。西部百貨店は西武そごうグループ26店舗中で、常に売上も利益もベストテンに入っている。人口僅か27万人の地方都市の百貨店がグループ内とはいえ、ベストテンに入っているのは、店長以下社員の方々の努力の賜物であると同時に、福井中心街での購買力が十分あるのである。えきまえを侮ってはならない。コンパクトシティ推進の施策が徐々に実を結びつつある。私は「あるがまま」を素直に受入れ、それをどう改善していこうかと常に考えている。利他の心に立ち返り、戦略を練り、勇気を持って挑戦していきたい。


福井の女性

平成22年12月24日
福井の女性

福井県の特長は「女性」にある。福井の女性は極だった特長を持っている。まず目鼻立ちのハッキリした美人が多い。肌がキレイであり、色白が多く、肌のツヤがよい。健康長寿で、働きものが多い。結婚するなら福井県へ来るとよい。結婚相手を捜すのなら福井の女性が一番だ。県も市も婚活に力を入れており、協力体制は整っている。
若者も老人も福井へ来て住んでみると福井のよさが一番よくわかる。その福井の特長は
住みやすさ日本一 
女性就労率日本一(社会進出)
社長輩出率日本一
救急告知病院日本一
1世帯平均人数日本一
貯蓄残高 3位    1位の東京と殆ど変らない
住居の広さ2位   1位の富山と殆ど変らない
ボランティア活動 4位  1〜3位と殆ど変らない
気候は四季がはっきりしており、季節の変化を楽しむことができる。平均気温15℃程度で、真冬でも0℃以下になることは稀である。雪や雨は降るが、地下に浸透し、伏流水となって田畑を潤し、水、米、酒、野菜、魚貝類がおいしくなり女性の肌の美しさの元になっている。JR福井駅から私の事務所(エコライフプラザ4F)まで歩いて約3分であるが、東京や名古屋、京阪神からのお客様がしばしば訪れてくる。開口一番、「女性がキレイですね」「美人が多いですね」とおっしゃる。
福井に住んでいると気付かないが、福井の女性は働き者で、美しい。働いている人がイキイキとしていて美しいのである。福井県は女性が活躍している県である。是非来て見てほしい。おみやげは福井の地酒が天下一品である。

インターネット時代

平成22年12月22日
インターネット時代

世界はインターネット時代に突入している。情報はインターネットを通じて一瞬の内に世界中に拡散していく。かつて情報をコントロールしていた通信社、新聞社、テレビ局、雑誌社はじりじりと苦境に立たされつつある。情報をめぐる覇権が奪われて、大衆化し、個人化し、20世紀とは大きな価値的変化を遂げているのだ。
日本でも2000年に政府は「IT基本戦略」を発表し、翌年「IT基本法」を制定した。そして「e‐Japan戦略」をすすめつつある。2010年には日本の全所帯に光ケーブルを敷設し、ブロードバンド化し、安価な情報通信網を完成させようというものであった。その目的は多少の遅れはあるがほぼ達成されつつある。
私の会社は1996年7月創業の時から、会社の定款に「電子商取引」をビジネスの中心に取り入れることを宣言し、創業時から営業マンに携帯用のパームコンピューター端末を持たせ、お客様の面前で本社のコンピューターと連動して、プレゼンができるような営業姿態をとってきた。現在ではパソコンになっているが、これも直ちに新型に変更せざるを得ない。モバイルについて私達はケイタイの大普及の前にPHSを全社員に持たせた戦略も、現在3,500ヵ所に設置している端末の中に、PHSボードを組みこむことスタートした。これまた業界初であった。
しかしインターネット社会となった現在では、半歩、一歩先へ出ても直ちに真似をされ、追いつかれる時代となった。ナンバーワンでなくオンリーワンの企業へ変身しるためには、独自のユニークな発想が求められると同時に、その発想を勇気を持って果敢に実行していくことが大切である。改革し続けることが大切なのである。
もう一度創業の原点に帰り、ブロードバンド時代の覇者の仲間入りを果たす為の、新しい戦略を練り直す必要がある。

陸橋

平成22年12月16日
陸橋

JR北陸線をまたぐ陸橋が、福井市にはまだいくつか残っている。この陸橋から見る景観は、東や西を見渡す絶好のビューポイントとなっている。東には東山、吉野ヶ岳があり右方に大仏寺山左手には冠岳、浄法寺山が並ぶ。西側には正面に大芝山そして右方に国見岳、左手には金比羅山が並んでいる。不思議なことに地元の人々も山の名を正確に言えないことが多い。それほど人々の生活と里山との関係が深いということなのだろうか。陸橋の上から見る山々の景色は圧巻である。春は新緑に萌え、夏は深緑、秋は紅葉、冬は冠雪と誠に見事な変化を見せてくれる。特に陸橋の上からは、山が近く見える。東へ行っても、西へ行っても里山の山麓までは車で15分余りである。毎日山が見えると、常に自然の中にいるようで、癒し効果は抜群である。
四季の移り変わりを毎日楽しみ乍ら、それぞれの人生を送ることができるのは、福井県民の何よりの幸せである。しかしそれを自覚している人の少ないのはどうしたことか。隣の芝生はキレイに見えるが、自分の庭の芝生は粗く見え不満が募るといわれる。私の友人も金沢のよい所を羨んでばかりいる人が多い。冷静になって金沢と福井を比較してみると、そんなに遜色はないことに気付く。
そのよさの最たるものの一つが陸橋から眺める山々の輝きである。是非一度福井へ来て味わってもらいたい眺望である。但し運転中を忘れては困る。よく注意して楽しんでほしい。

有機栽培米

平成22年12月15日
有機栽培米

日本人はお米を食べなくなった。特に若い人達のお米離れが顕著である。1965年頃までは、日本人は1人当たり年間1石(2俵半)150kgのお米を食べていた。ところが現在は1人当り年間50kgぐらいしか食べていないようである。お米を常食にしている民族は健康に恵まれ、感情が安定し、穏やかな人が多いといわれている。最近のパン食やインスタント食品の常食により、すぐキレる若者が増える傾向にある。
私はJR福井駅のえきまえで九頭龍という「地酒とお米とおいしい水」を販売する店舗をオープンした。福井の特産品のトップブランドの3点セットを販売し、観光客に福井県のよさを知ってもらいたいと考えたからである。おかげさまで来店客の約半数は、県外の方である。福井のおいしいお酒やお米や水が他県の人々に認めていただける日が一日も早く来ることを願っている。
お米は有機栽培米だけを取り扱っている。今はまだ大野の、日本百名山の一つ、荒島岳のふもと、九頭竜川の上流の棚田でとれた有機JAS認定米、「味じまん」だけを取り扱っている。この棚田は昼と夜の温度差の大きい中山間地域にあり、そこでとれる「こしひかり」の新米である。一度口にするとやめられない。子供や孫にぜひ食べさせたい化学肥料を使わないお米である。日本の有機栽培米はまだ全生産量の1%程度であるが、近い将来10倍ぐらいに増えると同時に減農薬米にすべて変ることを願っている。

インド哲学と佛教

平成22年12月8日
インド哲学と佛教
今から25年前の日経新聞私の履歴書欄に中村元氏の履歴が載った。その最初のページに、「東京大学インド哲学学科を卒業時に、宇井伯寿先生から、若いうちにインド思想の勉強をしておくようにとの指導を受けた」と記されていた。その恩師の一言が中村元氏を東洋思想学の巨人に育て上げたのである。東大で30年に亘り、さらに定年後は「東方学院」という私塾で、インド哲学思想の講義を続け、日本を代表する「インド哲学者(この言葉は日本にしかないとのこと)」になられた。仏教の源流から学べとの教えである。
私は長浜北高校の出身であるが、同級生にインド哲学をやりたいという親友がいた。浄土真宗のお寺の長男で、いずれ寺を継ぐ運命にあるが、いつもクラスでトップを中学から続けていた。希望通り京都大学の文学部へ入り、その後神戸大学の教授や大谷大学で大学院開設に尽力された。今は神戸大学名誉教授で文学博士、私の会社の取締役をお願いしている。
インド哲学は蜂屋良彦博士のご縁で、私も若い頃から興味を持ち、聞きかじり、読みかじりで学んだが、東洋思想の源流を垣間見る思いがする。蜂屋博士のお説教はしばしば聞くことができて至福の時を味わっているが、ゆっくり中村元氏の著書を読破したいと考えている。
蜂屋博士のお寺の庭でしばしば遊んだ中学生の頃の思い出は私にとって誠に貴い人生経験の一コマである。インド哲学や佛教の話題になるといつもその原点となるのは蜂屋博士である。彼の父君は私の町の観音堂にいつも月参りにおいで下さり、お経を聞かせていただいていた。更に昔の私の幼い頃の体験である。

図書館

平成22年12月7日
図書館

明治初年 全国に10ケ所の公立の図書館が設けられた。名を「書籍縦覧所(しょじゃくしょうらんじょ)」と呼んだ。半分の5ヵ所が武蔵国にあり、その他が全国に散在した。その1つ出雲国松江にある。越前松平家の流れである。福井でも大野でも、それ以前から書物に対する愛蔵の念が深かった。古文書を所蔵している旧家も多い。
福井県下に図書館は63館ある。人口82万人の福井としては数が多い。ところが2009年度の入場者数はなんと日本一多い。貸出冊数で第2位。蔵書の冊数で第3位である(日本図書館協会調べ)。
小学生、中学生ともに学力は日本一であり、常にトップクラスを維持している。福井県の子供や学生が図書館を利用することが多くなるのは当然である。私は毎日一冊ずつの読書を心がけているので図書館通いは習慣化している。特に県立図書館は蔵書の数も多く(約80万冊)私が最も多く利用する。展示方法もキメ細やかで福井ゆかりの作家とか、エコ関係書籍とか、蔵書を数多く集めると探し出すのに苦労するが、ここでは即座に探している本に到達する。司書の女性たちの訓練、教育には頭が下がる思いである。教育レベルの高い福井県の理由は、この図書館の魅力にあるのかもしれない。そういえば今日も、図書館のあちこちで、生徒や学生達が熱心に本とにらめっこをしている。美しい光景である。

北陸の農業

平成22年12月6日
北陸の農業
新潟、富山、石川、福井の4県を北陸と呼ぶ。かつての越のくにである。この地方の農業は異常なほどに「米づくり」への傾斜が激しい。農業産出額の64%が米である。越のくには太古の昔から稲作の先進国であった。第2位の東北地方の米の比率は37%、そして全国平均は23%もない。北陸だけが突出して多い。それは日本海と、海岸線近くに連なっている山脈の間の狭い耕地が、米作り、水稲栽培に適しているのだ。北陸は積雪地帯で、モンスーン帯の最東端の土地である。自然の恵みが世界一豊かな土地である。そこで作られる米が世界一おいしいのは当然なのである。魚沼産のこしひかりだけがおいしいのではない。水源地に近い山間部の僻地といわれる棚田でとれる米は、最高においしい。化学農業の汚染が少ない。生物多様性が残っている田園は栄養分が十分あり地力にあふれている。この自然の恵みが第一条件である。
第二には、大都会から遠く、野菜や果実の需要が乏しいことも原因している。第三には若者が大都会へ流出し、農業人口の高齢化により、手間ヒマのかかる農業への転換が進んでいないという理由もある。
時代が変わり、新しい農業、第6次産業の芽が各地に出てきた。米づくりを重視しながらも、米の自由化を含む農業全体の自由化が早晩来ると考えて、対策をうつ必要があろう。それが農産物の輸出であり、農業技術の輸出であり、高付加価値化への転換である。バイオ技術の先端にいる県農業試験場や、県立大学を含む「学」との連携が望まれる。世界一おいしい米は、世界中の人々にとっても、魅力的な貴重な珍品である。やるべきことは沢山ある。米のくに、北陸の農業の明日は誠に明るいことを知らねばならない。
 

地酒のアテ

平成22年12月2日
地酒のアテ

酒にあう「アテ」は何だろう。いわゆる「ツマミ」だ。かつては珍味ともいった。東京のそば屋へ入ってビックリしたことがある。そば屋の客の何割かがビールや地酒を注文するのである。福井の「おろしそば」(福井名物)と地酒があうかどうか試すことにした。勤務中はムリだから休日の昼間に試したのだ。やってみるとこれがまたうまい。これはいけると思い、いつも食べているそば屋へすすめてみたさてどうなることかこれから楽しみだ。観光客の多いそば屋では「地酒」が定着するかも知れない。福井の地酒を全国に広めたいと考えている私にとってこの試みは真剣そのものである。
福井を代表するものはそばの他に「越前ガニ」「越前ウニ」「甘えび」「若狭がれい」「若さグジ」「若狭フグ」「上庄里芋」「ゴマ豆腐」「厚アゲ」「精進料理」などなど枚挙にいとまがない程数が多い。これ等の名物との合性をたずね、探っていくことが大切である。源平酒造の宇野蔵元ご夫妻の手作りのおもてなし「上庄いもの煮ころがし」と地酒源平大吟醸の合性は抜群であった。珍味屋はかつて「乾きもの」であったが、保存方法(真空パック等)が発達した現代ではこの「酒のアテ」市場の可能性は大きい。福井の料理がおいしいという自慢もよいが、それを全国の人々に、世界の人々に食べさせる知恵を出そう。福井のおいしい水、おいしいお米、おいしい地酒、そしてとびっきりおいしい「酒のアテ」を第6次産業として育てる工夫がほしい。
福井県に駐在している大企業の工場長、支店長は今忙しい時を迎えている。それは「越前ガニ」を食べに来る上司、同僚が、かつての部下をはじめ、家族からの引き合いである。私達は「越前ガニ」という無二のブランドを持っている。「酒のアテ」として前に上げた珍品類をブランド化していくことは決して難しくはない。

納豆大好き

平成22年12月1日
納豆大好き

世界中で寿司人気が出てきている。日本食が健康長寿食として認められているからである。子供の頃父が持って帰ってくる箱寿司を弟や妹と一緒に食べたことが思い出される。母が祭礼や法事などの時、まぜご飯を作ってくれた。熱いご飯に、別に煮た野菜や油揚げを入れ、少しの砂糖と多目の酢をふりかけて、しゃもじでまぜるのである。入れものは木の大きな浅い桶である。私達はうちわで扇ぎながら手伝ったものである。就職して食べた握り寿司はおいしかった。大阪駅前のドヤ街の一皿50円の寿司である。それから福井や岐阜へ転勤して一人前の寿司好き人間になったようである。
マグロやトロ、ウニ等を好んで食べていたが、ある時納豆を食べてウニよりおいしく感じた。納豆は発酵食品の代表である。納豆1g中に約50億ヶの納豆菌がいる。1食分が45g入なので、1回の食事で225億ヶの納豆菌を食べることになる。地球の人口の3倍以上の数を1食で食べるのである。単細胞菌ではあるが、三つの主要な酵素を持っている。ナットウキナーゼとウロキナーゼとアンギオテンシン変換阻害酵素である。その機能は血液の凝固を防ぐ働きと血圧の上昇を抑える働きがある。
納豆菌の繁殖力は非常に大きいのも特長で、将来の食料危機には最有効食品の一つである。
私の納豆好きは家族内では有名であるが、その影響であろうか、孫達も納豆大好きが多い。有難いことである。

勲章

平成22年11月29日
勲章

勲章を辞引でひいてみると「国家が勲功ある人に与える記章」とある。福田一先生に親しくご指導いただいたが、晩年に勲章を授与された。福井県前知事の栗田幸雄先生は2650地区のガバナーをされており、殆ど毎月会議等で同行しているが、やはり知事退任後、勲章を授与されている。それぞれ立派な業績を残され、社会に大きく貢献されており深甚の敬意を表したい。
役人の最高位は事務次官だという。その中でも大蔵省の事務次官をトップに上げる人が多い。その元大蔵省事務次官の尾崎護さんから「由利公正」の話を聞いた。大阪在任中に暇を見て、大阪の経済史を勉強し、三岡八郎後の由利公正を知ったとのこと。そして由利公正の伝記ともいうべき名著を発行されている。坂本龍馬は商社を作り、その友人岩崎弥太郎は三菱商事の祖となった。その坂本龍馬が死ぬ数週間前に福井へ来ている。三岡八郎を新政府の要人とするべくリクルートに来たのである。このリクルートが龍馬の最終の仕事となった。その後岩倉具視が、由利公正、横井小楠、木戸孝允三名を明治政府の徴士参与として迎え入れた。龍馬の推薦であった。龍馬も横井小楠も凶刃に倒れたが、由利公正は手腕を発揮し、非力で貧弱であった明治政府の財政基盤を確立する最初の大仕事を成し遂げている。日本で最初に紙幣を発行したのは福井藩である。由利公正は太政官札を発行した。通用13年と限定している。現在の特別会計に相当する。初めて公務員給与を制定。高めに決めて汚職の発生を防いだ。「信なくば立たず」民衆の信用、政府への信頼の大切さを力説している。横井小楠や松平春嶽の思想も勘案し坂本龍馬と三岡八郎が福井で作ったという五箇条の御誓文(慶応4年3月14日)の案文は正に現在でいう新政府のマニフェストである。龍馬も横井小楠もその功績の大きさでは薩長の顕官たちを凌ぐ大勲章ものである。


平成22年11月25日

私の父は養子であった。曽祖父の太右衛門も養子であった。祖父の栄治郎は私の誕生を大層喜んだという。高校へ入学するまで、私は祖父と共に奥座敷に枕を並べて就寝した。父は最初ナンバー銀行行員であったが、祖父や母の意向で軍需産業である地元企業へ転職しそのまま60歳過ぎまで勤務していた。その企業の販売を、親戚筋が一手に引受けていたので、そこで再就職し、発病するまでそこにいた。私の弟が現在その会社の代表を勤めている。
父は銀行員時代に身につけた堅い性格をそのまま生涯続けた。勤務先から帰宅すると、すぐ着物に着替えてリラックスし、寝るのも和服を通した。外での洋服姿と、家での着物姿を完全に切り分けて習慣としていた。
日本酒とタバコをこよなく愛し、死因はタバコの喫いすぎの肺気腫であった。享年75歳。人に好かれるタチで陽気な酒だった。正月には時には家に芸妓を呼んで、親戚の若い連中を集めて歌合戦をやった。毎年必ず私の友人達や、妹の友人達も集められ賑やかな正月を迎えていた。師走になると友人が「来年も正月二日は空けてあるよ」と言ってくれた程である。
陽気な父と気配り満点の母による歓待の宴は、今でも語り草となっている。その長浜の生家は現在無住で、思い出す度に心が傷む。余裕が出来たら大掃除をし、大修理をして、昔の思い出を取り戻したいと念じているが、いつのことやら、自分のことはなかなか手がつけられないものである。
父の名は俊造といったが、野坂家へ養子に入った時、幸司と改名した。戸籍上は俊造のままであった。父の陽気を孫に引き継いでもらいたいと、孫の名を「幸司」とつけた。私が父からもらったものも陽気と日本酒好きそして歌である。私の会社のスローガンは「喜びの種、幸せの種を蒔こう」である。幸を司る意味だ。九頭龍・地酒百蔵という「地酒のバンク」を福井のえきまえにオープンしたのも、亡き父の影響かもしれない。とにかく人に好かれる父であった。

ロータリークラブ

平成22年10月28日
ロータリークラブ

ロータリークラブは世界一のボランティア団体である。世界に33,000のクラブがあり、124万のメンバーが今日も奉仕活動に従事している。私の所属している福井北ロータリークラブは2650地区で、今年度(2010年7月1日〜2011年6月30日)は地区ガバナーに、クラブの栗田幸雄氏が就任された。ガバナー事務所の幹事団として、私達も忙しい日々を迎えている。テリトリーは京都府、奈良県、滋賀県、福井県全域で、クラブ数96クラブ、メンバー数4,668名の世界でもトップクラスの実績を持つ地域である。
ガバナーに随行して各クラブを公式訪問しているが、各地でロータリアンが真摯な態度で奉仕活動に励んでおられる姿を見るにつけ、励まされることが多い。そして長い間あっていなかった旧友や知己、親戚の者に出会って驚くことが多い。私事であるが、私の義父や弟がロータリアンであった。私が就職した時の保証人(当時は立派な保証人を立てる必要があった)は岩崎義夫氏で終生ご指導をいただいたこと立派な方であったが、長浜ロータリークラブのチャーターメンバーだったことと記憶している。私の恩師鈴鹿隆男先生にお会いできたのもロータリーの地区大会や会長会での出来事である。その後の同級会で、先生にお会いした話に花が咲いた。
私達が1990年以来取り組んでいるポリオプラス撲滅運動にビルゲイツが賞賛して2億ドルを拠出するとの報に接した時は、本当に驚いた。この運動は世界中の子供達にポリオプラス(ポリオとは小児マヒのこと、プラスとはそれに類する小児疾患)の予防ワクチンを接種し、世界中からこの悲惨な病気を追放しようというもので、大きな成果を挙げている。各地で撲滅終了宣言が行われているので、後十年もすれば地上からこれ等の病気がなくなることを信じている。
国際連合が結成された時、その代表団の中にロータリーメンバーが49名いた。そして国際的な現在のロータリークラブ(RIという)の中に、模擬国連を作り、理想的な国際活動をするべきだという提案がなされている。核武装反対決議の提案は、私達のクラブから過去3回提出している。ロータリークラブ活動を単なる昼食会と批判する短慮な人達に対して、もう少し深くロータリークラブ活動を知らせる必要を痛感している。

海外で見直される日本の食文化

平成22年10月20日
海外で見直される日本の食文化

伝統的に日本は米文化圏に所属している。稲作漁撈文化圏と呼んでもよい。縄文時代の森と海の文化そして稲作が拡大していく中で生まれたのが日本文化である。急峻な山に降る雪や雨を利用する水稲栽培は、日本人の技術を高め、米の品位を上げてきた。そして自然の猛威と戦いながら暮す人々は、神や仏への信仰を深め、日本独特の米と麹による清酒文化を育んできた。麦をベースとするビールや、ぶどうから作るワインと違った文化圏だったのである。そして最近日本人の食生活が見直され、日本の食文化が海外で受入れられ、もてはやされている。低カロリー食でありながら「健康長寿食」なのである。
ところが肝心の日本酒の消費が年々低下している。日本酒は健康長寿酒であるにかかわらずその消費量は100万klであり、ビールの700万klに追い抜かれてしまっている。日本人が日本酒を大切にしなくて、誰が日本の食文化を支えるのだろうか。主食としての米、そして食前酒、食中酒、食後酒として世界一と折紙がつくられる日本酒、この日本の食文化の柱を、私達自身が大切に守り育てて、そのよさを海外に発信していく必要がある。その目的の為の小さな第一歩として福井えきまえのエコライフプラズ1Fに「九頭龍・地酒百蔵」をオープンする。心ある方々の御支援をお願い致したい。

有機栽培

平成22年10月7日
有機栽培
私の会社の取締役を長く勤められ、前期に引退していただいた高野盛久氏は私の竹馬の友であった。私の家の田と、彼の家の裏庭が地つなぎであった。そして何度も同じクラスになった。小、中、高と同じであった。大学は違ったが、同じ京都だったので、麻雀や囲碁でよく徹夜したものである。その彼が三菱化成に入社し、私は商社へ入った。三菱化成はその後三菱化学となり、三菱ケミカルホールティングになり、彼はどんどん出世し、副社長となった。そして退社した後私の会社の社外取締役として、主として経理面のアドバイスをしてくれていた。その彼の言葉の中で「環境問題は私は弱いよ、どちらかというと加害者側の人間だからね」というのが印象に残っている。肥料メーカーの役員を長く勤めた人の弁である。
今、有機栽培が注目され出した。私も福井えきまえの活性化に取組んでいるので、遅ればせながら、有機栽培米の販売に協力することにした。エコライフプラザの一階に店を開く。十月二十二日にオープンする予定で準備をすすめている。
日本の米の生産量は1千万t程度で世界中の2%以下である。そしてこしひかりがその内の3分の1以上を占めている。こしひかりは福井県農林試験場で誕生し、今や日本中で栽培されるようになった。その品種の孫・子を入れるとほぼ全量がこしひかり一族である。よくぞ育ってくれたものである。
ところが有機栽培の普及は、いまだに0.1%である。もてはやされていながら、普及していない。まだこれからである。この貴重な科学肥料が残留しない有機栽培米を作っている人々と交流を深めながら、子々孫々に人の命の貴さとお米のおいしさそして米作りに励む人々に対する感謝の心を伝えていきたいと考えている。

「姫」ドラマ

平成22年10月6日
「姫」ドラマ
NHKの大河ドラマの来年のテーマは「戦国の姫たち」となって、現在撮影が順調に進んでいる。織田信長の妹お市の方と浅井長政の娘たち三人をめぐる戦国悲話である。お市の方と「茶々、初、江」の三人娘は、長浜の小谷城落城の折救出されて、信長の指図で津の伊勢上野で生活した。そして信長死後柴田勝家の正室となった。が北ノ庄城は豊臣秀吉に攻められ落城。お市の方は勝家と共に自刃。三人の姫たちは救出され、茶々は秀吉の側室淀君となり、豊臣秀頼を生んだ。初は小浜藩主京極高次と結婚、姉(豊臣)と妹(徳川)の間に立って、種々斡旋を行った。江は徳川秀忠(二代将軍)の正妻となり、徳川家光(三代将軍)、千姫(豊臣秀頼正室)、和子(後水尾天皇中宮)を生んだ。戦国時代の最後を彩った女達を描く大河ドラマが待ち遠しい。
柴田勝家、お市が自刃した北ノ庄城の本丸跡に柴田神社が建っている。主神は柴田勝家、お市を配祀、境内には三姉妹神社がある。柴田神社に面して私達のコインパーキングが稼働中で、来年は大繁昌するかと秘かに期待しているが、如何であろうか。北ノ庄通り周辺に8ヶ所のコインパーキングがある。
それよりも来年注目しているのが姫ドラマの氾濫である。今は女性が強い女上位の時代である。女性を主人公とする大河ドラマの成功は疑いのないところである。それだけに姫ブランドが大活躍するものと期待している。私の予言がまた一つ当るように思うのだが・・・。

 

私の履歴書

平成22年10月5日
私の履歴書

日本酒造組合中央会の会長をつとめた大倉敬一氏(月桂冠相談役)が日本経済新聞の朝刊の文化欄に「私の履歴書」を連載するという。そして2010年10月1日から始まった。月桂冠は伏見の老舗、創業は寛永14年(1637年)である。大倉敬一氏は13代目の当主として、昭和2年3月に生まれ、私より丁度10歳の年長である。
戦中戦後の艱難辛苦をのりこえて、日本酒の発展と共に月桂冠を守り育ててこられたことは、誠に喜ばしい。
「私の履歴書」は各界の第一人者が、自らの人生を書き残す記録であり、人生訓でもある。過去何十年も続いて読者をひきつけている長寿企画である。人物伝としても十分活用できる便利な読物で、過去の「私の履歴書」は何十冊にもなって発行されている。その風格の高い企画に、日本酒造業界から選抜されたという事は、業界にとっても光栄であろう。願わくば次々と日本酒の業界からこのような名誉を受けられる逸物が誕生されることを祈りたい。
私は今、福井県下の酒蔵をまわっている。世代交替が実現中で、若手の経営者が新しい感覚で挑戦を続けている。販売戦略や酒米づくり、産地ブランドづくり、古酒・貯蔵方法の研究など誠に頼もしい限りである。明日の日本酒は面白い。これが私の実感である。


酒蔵の閉鎖

平成22年10月4日
酒蔵の閉鎖

先日もまた長い歴史を持つ有力な地方の酒蔵の閉鎖の報に接し、胸が痛んだ。需要の減少が最大の原因である。それと同時に大手酒造メーカーの紙パック入低価格酒が、地方の銘酒に大きな痛手を与えている。
福井県の酒造業の中でも老舗中の老舗、延宝元年(1673)創業の源平酒造さんである。大野市の4酒蔵が足並み揃えて地域ブランド育成に立ち上がろうとしていた矢先の悲報である。源平ブランドで各地の鑑評会で数々の受賞に輝いた名門の酒蔵である。
長年に亘って日本酒の売上は、減少傾向が続き、地方のオーナーは名門の家名を守るのに必死の努力を傾注しておられる。それを目のあたりにしている私にとって誠に悲しい報せとなった。
地方の酒蔵が「吟醸酒」や「純米酒」を掲げて、大手の酒蔵へ挑戦をはじめ、その成果が上り出していた。福井県でも「黒龍」や「梵」が独自のブランドの全国展開をはじめ、差別化の時代に入りつつある。堅実経営のお手本が目の前にありながらの無念のリタイヤである。幸い、後継の引受手を捜すとのことで、新しいオーナーの出現を待ち、共に日本酒の普及に注力していきたいと考えている。

4時起床で人生が変わる

平成22年9月30日
4時起床で人生が変わる

旺文社の深夜のラジオ放送を聞いて受験勉強をしていた。長浜北高に在学中のことである。深夜放送を聞くことに慣れてしまったのでそれ以後夜型人間となった。大学時代も、就職してからもそのクセは直らなかった。
59歳で起業して、朝の思索の時代の貴さに気がついた。高率が極端によいのである。夜に考えてよいと思っていたことが、早朝に起きてもう一度種々と検証をしてみると、欠点が次々とわかってくる。脳細胞の活性度が夜と朝では異なることに気付かされたのである。
もう一つ大きな差は、夜の考えは積極性に乏しいが、早朝の考え方は前向きだということ。そして決断も早くなる。前向きに決断をどんどんしていくと、事業はうまくいく。
創業以来早朝の起床を習慣づけることで、急成長をすることができた。妻は「年のせいで、朝早く目がさめるだけだ」という。それも間違いではなかろう。私の当初の考えは「人の寝ている間も惜しんで働こう」「早起きは三文の得」を地でいこうという単純な考えで早朝の4時起床を義務づけた。そしてそれを続けることでその効果のすばらしさに驚いている。まさに私の人生が変る程の効果である。毎日の日の出を満喫できるだけでもその喜びは大きい。日の出の約30分間の大スペクタクルを毎日無料で楽しめるのである。ぜひすすめたい習慣である。

貧者の一灯

平成22年9月22日
貧者の一灯
わが身はないもののように、思ってこそ、人は大きい「知恵」に達する。人はみな弱い。そして自分が最も弱い。これを自覚して初めて大きい「知恵」に達する。
貧しいことを恥じるな。貧者は富者よりも上である。恥じる必要はない。貧者の一灯こそ、最も価値のある行為である。以上は日本の古来からある思想である。原始キリスト教にもあった。
同志社大学の創立111周年記念募金が行われた20年余り前に、私は同志社OB会の福井県支部長を勤めていた。本部の役員が来て、「貧者の一灯」を頼むと力説された。新島襄がアメリカの教会で大学設立の為の演説を行った。その時一農夫が数ドルを寄付し、帰りの汽車賃だが自分は歩いて帰れる。この汽車賃を大学設立に使ってくれと言って新島に握手を求めた。これは同志社の伝説である。「自責の杖」と同じように、同志社の精神をあらわす重要な言葉である。
しかし「貧者の一灯」を本当に理解するために私はそれ以来20年以上かかった。その言葉の本当の意味をすぐには理解できなかったのである。冒頭に書いた文章の中に「貧者の一灯」の真の意味がある。そして自戒をこめて更に一言。
自慢するな、自分を自慢するほどみにくいものはない。自分の為に生きるな。他人の為に生きよ。

日本テルスター協会

平成22年9月21日
日本テルスター協会

赤ワインブームに火がついたのは、赤ワインの中に含まれるポリフェノールと心臓疾患の関係からである。心臓疾患にポリフェノールが有効であるとの発表があり、女性に人気が出てきた。
また男性には焼酎が好まれ出した。焼酎に含まれるウロキナーゼが血栓溶解酵素を活性化させるので、身体によいと評判になり、これまた売れ出した。糖尿病の患者にもよいとのことで、これまた人気のもととなった。
日本酒はどうだろうか。ここ数年の間、日本酒の需要は年々低下している。特に夏はビールや焼酎と比較すると劣勢である。日本酒業界全体を横断する対策が望まれるように思えてならない。
すべてのアルコール飲料が低アルコール化現象に巻き込まれている。ウィスキーも焼酎も水割り、オンザロックに人気がある。飲む人の好みに併せて薄くすることができる。日本酒はワインとほぼ同じアルコール度数なので、一番強い酒と思われがちである。そこに打つ手がありそうに思う。
日本酒の古酒が、今あちこちの心ある蔵元の手で作られだしている。古酒は、アルコールと水の分子が、熟成によってコンパクトになり、身体へ吸収され易くなっている。新酒はエタノールからアセトアルデビドへ変わり、更に酢酸になるが、古酒は長い年月の間、熟成中にその分解がすすむので、身体への浸透性がよくなるのである。
特に冷え性の女性にとってはこの古酒は有難い。少し飲むと身体が温まる。古酒の香りは癒しの効果が認められ、ふくよかでやさしく包み込んでくれる。飲み方、楽しみ方、選び方、食とのマッチング等、酒のソムリエ、酒のバーテンダーのような日本酒専門のアドバイザーがこれから必要になってくる。地酒の風土や文化的背景を知り蔵元の熱い想いを知り、それを自分の言葉で、お客様に語れる語り部を育てたい。それを「唎き酒師」などでなく、「テルスター」という固有名で登録をうけつけしようと考えている。日本テルスター協会を福井に創設し、全国規模の試験を行い、合格者に「テルスター」の称号を与え、日本酒の発展に寄与していきたい。この日本テルスター協会が日本酒復活のさきがけになることを期待している。


水不足、食料不足

平成22年9月17日
水不足、食料不足
気候不順により、穀物相場の動きが心配である。輸出国が次々と輸出制限を行いだした。21世紀の最大の課題といわれてきた「環境とエネルギー」から、最近では「水と食料」だと危機の内容がかわりつつある。
200海里による海洋資源の囲いこみが始まり、海洋養魚場から内陸養魚場の開発など次々と手が打たれつつあるが、日本のアキレス腱である食料の自給率向上がいまだに心配である。日本の農業の品質の高さが海外で認められるのかどうか、私は日本へ来るバイヤーに日本の水、日本の米、そして日本酒をみやげに持ち帰らせることにした。そしてその反響を待っている。
食の安全がうるさい。トレーサビリティが要求され、産地の表示はどんどん小さくなる。より詳細になる。この傾向はフランスワインの産地表示に酷似している。
ワインヤードが特定されたワインメーカーのワインが高級品として認知されている。それと同様に米も野菜も水も日本酒も生産者の顔が判明するものが選ばれるようになりつつある。
産地の偽装が大問題になっているが、これは消費者を侮った傲慢な経営者の姿である。厳しく罰せられるべき犯罪といえよう。
福井県は水がおいしい。だからお米がおいしい。山間部のお米が特においしい。日本酒もおいしい。水不足、食料不足は日本ではまだまだ先のことのように思われているが、果たしてそうであろうか。真剣に考えてみることが必要ではなかろうか。


平均余命

平成22年9月16日
平均余命
65歳の日本人男子の平均余命は18.89歳で前年より0.11歳伸長中とのことである。女子は24.04歳、0.15歳伸長中である。即ち男は83.89歳まで、女は89.04歳まで生きることになる。
私は現在73.5歳である。その余命は計算上86歳となっている。後12.5年の余命となる。生涯現役を標榜している私としては、あまり余命にこだわる必要はないが、次世代へのバトンタッチをスムーズに行う為の努力は必要である。3年前に代表権を返上し、仕事の主力を「社会への奉仕」の方向へ切りかえるよう努力してきた。そこへリーマンショックが襲い掛かり、少し軌道修正を迫られている昨今である。
現代は情報社会である。急激な情報社会の出現によって、社会の各方面で大混乱がおきている。かつての定年50歳になり、55歳になり、60歳になり、今や65歳定年が定着しつつある。肉体的な衰えによる定年よりも、ICT革命による端末の高性能化が高年齢での知的労働を可能にしたことより、定年の延長がたやすくなってきた。若年層の減少を心配する必要はないことはないが、中高年の能力を活用することこそ大切である。日本の人口は現在史上最高の頂点にある。人口減少を心配する必要は全くない。知価社会の到来は日本にとって絶好のチャンスである。松下幸之助は88歳でパナソニックの幹部会で次のように発言されたとのことである。「自分は生涯会社をやめない。後20年、30年はやる。死んでも見守り続ける」これ程の意欲と責任感を持ち続けることが経営者に求められていることを思い知らされる一言である。

宣伝下手

平成22年9月15日
宣伝下手

福井の人は宣伝がヘタだといわれている。日本一住み易い県といわれながら、それを知る日本の人は少ない。美しい風景、すばらしい歴史文化、そしておいしい食べ物、最高のものがたくさんある。しかしそれを知らせる術を私達は知らない。
戦争中は情報管理が徹底的で、一元化管理されていた。学校のスピーカーから軍歌が鳴り、大本営発表がしばしば行われた。新聞もラジオも同じであった。大本営発表の殆どが、ウソの報道であったことがあとでわかり、殆どの国民が怒りに燃えた。
マッカーサーの来日により、日本は進駐軍という名の占領軍の管理の下で再建、復興が始まった。一元された報道機関が分割されNHK、電通、共同通信、時事通信となった。戦後の報道体制はこの四つの体制からスタートしたのである。
いまマスメディアといわれる民放のテレビ局、ラジオ局、FM放送、CATV、そして最近急成長中のインターネット関連の企業群は、この四つの母体の中から情報を得て、その影響の下で成長を続けているのである。
宣伝ベタは福井県人に限らない。日本人も自己主張の基本的な訓練を受けていない為に、宣伝はヘタである。そこでどうすれば上手に宣伝下手を克服できるのか、それが現在の私が自らに課している課題である。

ワインと日本酒

平成22年9月14日
ワインと日本酒

ワインブームによって世界中のアルコールが大きな影響を受けている。かつては各国に独自の酒があった。イギリスのウィスキー、フランスのワイン、ドイツのビール、メキシコのテキーラ、中国の老酒・紹興酒、そして日本の日本酒、九州の焼酎、沖縄のあわ盛などである。
フランス料理と共に供されたワインは健康によいということで全世界に産地が広がり、愛飲家も増え続けている。
それに比較すると同じ醸造酒と言いながら、日本酒は、平成不況とワインブームの影響をまともに受けて、年々供給量を減らしている。そして主として九州でしか飲まれなかった焼酎が、これまた健康によいという理由で、全国に普及していった。
日本食は今世界中でもてはやされている。日本料理も寿司も大ブームである。しかし残念ながら日本酒だけがカヤの外である。本当の日本料理にふさわしいのは日本酒である。この日本酒のよさを、世界に広めるにはどうすればよいのであろうか。日本料理は健康食というのでブームになった。ワインもそうである。焼酎もそうだ。だったら日本酒も大昔から百薬の長といわれている。「百薬の長日本酒」をテーマにいろんな仕掛けを作っていけばいずれ近い内に日本酒ブームが起きることと思われる。日本料理の新鮮で多種多様な食材と、心のこもった醸造酒とのマッチングは、絶妙の味と最高の雰囲気を盛り上げてくれることと思われる。
日本酒の魅力は、ワインと同じように、蔵元によって味も香りもコクもキレもすべて違うところにある。百花繚乱といった楽しみ方が可能であり、酵母菌も違えば、米の砥ぎようも違い、特に大量に使う水の質も大きな影響を与える。同じ銘柄でも年によって多少の変化が起きる程センシティブなのが、日本酒である。米、水、人の折りなすハーモニーが日本酒を作り上げてきた。ワインの上を行って、世界を制覇する酒の出現を心待ちにしている。

台風一過

平成22年9月13日
台風一過
113年ぶりの酷暑である。113年前に観測が始まって以来の暑さということは、1,000年ぶりの酷暑、或いは史上最高の暑さであろうか。とに角寝苦しい夜が続いた。
福井地方は台風と同時に待ちに待った雨が降り、やっと「菊の茶」をいただける重陽の節句となった。暑さにはビタミンがよいので抹茶を愛用している。暑い日の一服は悪くない。
8月の平均気温は、全国154ヶ所の内、77ヶ所が過去最高となった。東京都心27.6℃(+2.5℃)、大阪30.0℃(+2.1℃)、福岡30.3℃(+2.7℃)と極端に高くなっており、気象庁は異常気象と判断、分析検討会を開いている。
高温の原因は1.偏西風の北への蛇行で、太平洋高気圧の勢力が最も強くなり、これが日本列島を覆った。2.オホーツク海高気圧の影響が殆どなかった。
台風一過やっと秋が迎えられそうで思わずホッとしている。

そばキチ

平成22年9月8日
そばキチ

1959年の年の暮れ、おおみそかのことである。会社の仕事納めというで、夕方に年越しそばが社員全員に振舞われた。何杯でもおかわり自由というので、入社早々の私はおかわりした。その時のおろしそばがおいしかった。それ以来昼食に「おろしそば」を食べるという習慣がついたように思う。
当時の昼食は、おろしそばが筆頭で、チャーハン、カツ丼、トンカツ、すし、ステーキ等で、懐具合によって店を選んでいた。すべての店が徒歩3分ぐらいの所にあり、外食に不自由はなかった。
営業職であったので、福井県下の担当エリアを巡回しているとついついおいしいそば屋を探し当ててしまう。営業マン同士で「○○そばがおいしい」という情報が伝わるのは早かった。
そばはクセになる。男性客が圧倒的に多い。若い男性よりも、中高年の男性客が多い。健康長寿食という伝説を信じている人が多いからであろうか。或いは身体が要求するのであろうか。そば好きの十人に一人はそばキチといわれる程にそばに入れこんである。私もその一人であるが、三日そばを食べないと落ち着かない。おいしいそば屋の話を聞くと、どんなに遠くても食べにいく。
ある時飲み屋でそば談義になった。その時初対面であったが、金沢大学の探蕎会会長の波多野基一さんにあった。あとで知ったのだが、福井県の衛生研究所長とのことで、「そば通」のはずである。福井県や福井大学とそばの共同研究が進められている頃の中心人物の一人である。その後数回探蕎会だよりをいただいた。そばキチの一人といえよう。
福井へ転勤してきて、まず驚くのは「越前おろしそば」のおいしさであるという人が多い。そして十人に一人は必ずそばキチになる。いつの間にか私以上にそばに詳しくなってしまう。そばはそれ程魅力的な食べ物である。

有機質肥料

平成22年9月6日
有機質肥料
天候不順の影響から今年は農薬散布があちこちで盛んに行われていた。農薬が県道にまで流れてきて、車に乗っていても思わず息をとめて走り抜けることが多かった。車の中の私達でさえそうだから、農薬を散布している方々の健康は大変に心配である。
化学肥料は燐酸、窒素、カリの三種が中心であるが、耕地1Ha当り肥料を最も多く消費している国は中国で、313kg、第2位日本276kg、3位ドイツ209、4位フランス191、5位ブラジル121、6位インド121、7位アメリカ109と続く。
日本の有機質肥料の生産は、2000年がピークであった。87万tの生産量となり、化学肥料の年々の減少と比較して、有機質肥料へのシフトが進んでいることをうかがわせた。ところがそれ以降はまた減少している。2000年のピークの主役は種油かすが60万t近く生産されたことになるが、これがその後減少気味である。
残留農薬の被害が注目を集めている。そのために最近の有機栽培米に対するニーズが高まっている。無農薬、無化学肥料で作られているのだ。完熟堆肥と土づくり肥料を併用して、地力増進を図り、適正な深耕と排水の改良によって、根の活力を強化している。
大野市の九頭竜川上流に無農薬、有機質肥料による「こしひかり」を栽培されている高見さんと知り合った。こしひかりのふるさと福井をPRしている私にとって、大野の棚田でとれる「こしひかり」は夢の米、理想の米である。福井のえきまえで観光客にPRするお店の「九頭竜米」を捜していたが、神の恵み、天の采配であろうか、巡り合えたのは何よりの幸運である。
早速いただいて帰り、梅干1ヶときざみのりで食べてみた。少し粘りを感じるすばらしい食感である。味も香りも最高。ただ有機米であるから価格は少し割高であるが、健康長寿のためと思えば逆に安いものだ。早速孫や義弟のところへおすそわけをした。10月から九頭竜米の委託販売をするつもりである。喜びの種幸せの種を蒔くのは私の勤めである。人生の目的である。

暑いね

平成22年9月2日
暑いね
あまりの暑さに道ゆく人々の足が早くなる。挨拶もすべて暑いね暑いですねが合言葉になっている。立秋を過ぎ、処暑を過ぎても、天気の長期予報によれば、後2週間は厚さが続くという。私は「暑いですね」というかわりに「もうすぐ秋ですよ」ということにしている。一年中で最高のシーズンである秋が近付いている。それを伝える意味で「もうすぐ秋ですよ」というのだ。常に一歩先を見る目を持つことを意識しているせいでもある。
地球温暖化の証拠は身のまわりにいくらでもある。それにもかかわらず私達は省エネ生活に対する認識が不足している。
省エネは焦眉の急である。
日本の住宅の中で最も遅れているのが、断熱工法である。技術は確立しているにかかわらず普及が遅れている。断熱材の採用、ペアガラス・二重サッシの採用である。断熱効果が最も上るのが「ハニカム構造体」である。建材のあらゆるものがこの「ハニカム構造体」に変ることによって住宅の断熱効果は飛躍的に伸びる。特に日本住宅の省エネ効果は大きく改善できる。
自動車の省エネ化もすすんできた。電気の活用は大きな効果を生むことであろう。カークーラーの改善が必要であるが、これも駐車中に稼動させる方式をとればかなり改善できる。勿論駐車する場所に充電システムがなければならない。私達の会社では、コインパーキングを全国に展開中であり、約3,000ヶ所以上の駐車場を管理中である。そのすべてに充電システム「e-cha」(ブランド名)を設置することにより、地球温暖化ストップの一助となると信じている。暑い夏ではあるが、希望をもって明るい未来に向って努力していきたい。

はやぶさ2号

平成 22年9月1日
はやぶさ2号

はやぶさの人気はすごい。あの小さな機体で、60億Kmの宇宙空間を7年がかりで飛行し、無事地球に帰還したのである。まさに奇跡である。航続距離、航続時間すべて新記録である。しかも開発費用の安さも新記録である。このはやぶさの次の活躍を期待する声が上るのは当然である。その期待に応えて、文科省、宇宙開発委員会は、はやぶさ2号の打ち上げを2014年とすることを決定した。2018年に小惑星に着陸、
2020年に帰還の計画である。トータル10年の長期計画の発表である。そしてうれしいことに、開発費用は僅かに164億円、JAXAが中心になり、ペンシルロケットH2Aでの打ち上げとなる。すべてが国産技術、しかも独自色の非常に強い技術が使われることになる。
宇宙開発が人類の夢と希望をのせてすすめられたのは20世紀後半であった。月面着陸の有人飛行は、誰もが信じられない程の驚きをもって迎えられた。それが今や次々と宇宙空間に人が飛び出していく。人工衛星が無数に飛び、地球上をくまなく観察することが出来る。
原子力の平和利用がすすむと同時に、原子爆弾の製造がいろんな国々にひろがっている。核保有国と非核保有国との確執が国際情勢を厳しいものとしている。しかしそんな呑気なことに拘泥している暇はない。世界全体であらゆる最新の最先端技術を駆使して、「地球温暖化防止」をやらなければならない。はやぶさ2号で培う新技術が、私達人類を救うことにつながることを期待している。それは「モッタイない思想」であり、「ミクロ技術」であり、「未知へ挑戦の勇気」である。

本当かな

成22年8月27日
本当かな

人のいうことや本に書いてあること、新聞、ラジオのニュースを信じ易いのは子供の頃であった。それが小学校3年の夏休み、8月15日の天皇陛下の玉音放送以来、信じてはいけない場合が多いという体験をすることになった。小学3年の1学期は連日の警戒警報の発令で直ちに下校となり、近所の観音堂に町内の小学生1〜6年と高等科の12年生が集まり、自習である。空襲警報が発令されると防空壕へ逃げていく。殆ど勉強はできなかった。それが夏休み中の8月15日に一変した。
小学4年からは男子は男子のクラス、女子は女子のクラスに分かれた。「男女10歳にして席を同じうせず」のルールである。ところがこのルールが進駐軍の意向で男女共学に戻された。そしてすべてはアメリカ流の考え方に、強制的に変えられていった。「道路はロード」になり、「神格天皇」は「人民天皇」になり、金持ちは財産税で落ちぶれ預金封鎖でいくら貯金があっても使えないことになった。そして急激なインフレが襲ってきた。物資特に食料不足は深刻で、旅行に行くのに米持参でないと食事はつかなかった。
常識が非常識になり、すべての価値観が反転した。信じやすい性格だった私は疑い深くならざるを得なかった。「本当かな」と自問自答する習慣がついてしまったのである。子供だった私達は適合していく柔軟性があったが、戦前派といわれる人々の精神的な苦悩は大きかった。戦中派といわれる人々の戦後の思想界、文学界での活躍をたどってみると、その混乱の様子が手にとるようにわかる。その嵐のような混乱の中から、私達の祖父母、両親そして近所の大人達、諸先生は戦後のマイナスからの出発を行ったのである。
その復興のスピードとその成果は、日本、ドイツ、イタリー共に目を見張るものとなった。戦勝国が停滞し、低迷する中、敗戦国が発展したのである。まさに奇跡が起きたといえよう。
ものごとは常に常識といわれることも、「本当かな」と疑ってみる態度が求められる。疑い深いことはよいとはいえないが、慎重さ、注意深さを失ってはならない。特にインターネット上で情報があふれている現代は、「本当かな」の一呼吸おいた冷静さが求められている。

阿呆と馬鹿

平成22年8月25日
阿呆と馬鹿

私は生まれも育ちも関西である。大学も京都、就職してからも任地は大阪と福井、30歳になるまでずっと関西で過した。
ところが高校まで一緒だった同級生で、東京の大学へ入った連中と、よく情報交換をした。一番印象に残っているのは言葉の壁である。関西人にとって「それでさあ、・・・でさあ」といわれるとなかなかついていくのは難しい。しかし私達は近江商人の末裔を自負しており、言葉の壁を乗り越えるのは早かった。
ただ一つ困ったことは「阿呆」と「馬鹿」の使い分けである。関西では「アホやなあ」とか「アホ」という言葉を連発する。それは相の手のようなもので「阿呆や馬鹿」とは無縁のものである。ところが関東では「バカ」という言葉が関西の「アホ」という言葉とほぼ同じ意味で使われるのである。
関西でアホの代りにバカを使うと完全なトラブルになる。同じように関東でバカの代りにアホを使うと大変だ。ニュアンスの違いは想像以上に大きい。私は「アホ」も「バカ」も意識して使わないことにしている。そのほうが無難である。
近江商人は言葉の壁を乗り越える天才といわれている。それは長い間、交通の要衝である琵琶湖の周辺で育ち、身内の殆どが、東京や京阪神で商売をしている環境の中にいると種々雑多な言葉を習得する機会があるのだ。
例えばスイスは小さな国であるが、テレビのチャンネルをまわすとフランス語、ドイツ語、イタリー語、ローマ語で話す放送局が出てくる。小さな国ではあるが、隣接するフランス、ドイツ、イタリーそして古いローマの言葉を、日常話しているのである。スイスなまりではあるが、完璧な会話ができる。だからスイス人は4ヶ国語を話せる人が多い。
音楽家の子供は、胎児の頃から、音楽を聞いているので、絶対音階を身につけて生まれてくるという。音楽家の子供は音楽家になる確率が高い。僧侶、能楽家などの場合も同様である。「言葉」とは、その意味で、誠に摩訶不思議なものであり、「言葉の力」の偉大さに驚くことが多い。

ワイン戦略に学べ

平成22年8月24日
ワイン戦略に学べ

最近まで、パリをはじめフランス国内の高級レストランでは、フランスワイン以外のワインを提供するのはタブーとされてきた。世界一を自負するフランス料理には、フランスワインが最もふさわしいという信念がそうさせていたのである。一種の「こだわり」がそうさせたのである。
ワインはぶどうから作る果実酒である。冷凍技術のなかった時代には、収穫と同時にワイン製造が始まり、その年のすべてのぶどうは需要動向に関係なく、即座にワインにされていった。熟成や貯蔵が必然的に研究され、年代ものの「ワイン市場」がひとりでに形成されていったのである。
ワインヤードは土地の地味、気候、日照など風土の大きな影響を受ける。「ワインの神バッカスは丘を好む」といわれ、高級ワインといわれるものは、日本流に置きかえてみると、福井県の大野市の真名峡近くの山田さんの1号田畑のブドウから作られるというように、限定する産地が小さい程、高級になっていく。
そして例えば2000年のぶどうの生育がよかったということで、2000年ものが珍重されるおまけまでついてくる。そしてワインジャーナルによってこのビンテージチャートは変る。また価格も大きな影響を受ける。
また政治面の影響も大きい。1995年シラク大統領が核実験再開を発表した年、日本へのボジョレヌーボーの輸入は激減した。フランスの高率な相続税や富裕税の導入は、家族経営を続けてきたワイナリーやぶどう畑の所有者に大きな打撃を与えた。ワインビジネスは、保険会社やコングロマリット、投資家のものとなりつつある。
日本酒も明治までは古酒が一般に好まれ流通していたが、明治時代に生産した酒に税が課せられること(造石税)になり、納税後の在庫負担に耐えられない蔵元は一斉に古酒を中止し、一年で売り切りが100年間定着してしまった。古酒もその市場も殆ど完全になくなったのである。それが戦後になり蔵出税が導入されるようになり、古酒、熟成酒が次々と作られるようになってきた。日本酒がワイン戦略を学ぶチャンスがやっと訪れてきたのである。失った歴史を探険するだけでなく、ワインの世界戦略を学ぶことにより、日本の国酒として長い間、君臨した日本酒が、再び日本国内でのシェアーを回復し、更に世界市場へ、寿司や和食と共に打って出ることが可能になる。
その戦略の第一は「ブランドの死守」である。そして地域色の明確化である。古酒、熟成酒ビンテージのマーケティングも大切である。アルコール度数の低下や酒ビジネスジャーナリズムの育成も必要である。健康長寿の日本酒をこれからの若い世代にしっかりと引継いでいきたいと切に願っている。
 

酒器

平成22年8月23日
酒器

日本の料理と世界の料理を比較してみると、その料理を盛る器の違いの大きさに驚くのは私だけであろうか。西洋ではどの国も同じように磁器一色である。そして図柄も同じである。飲み物用のガラスの器や銀食器が使われることがあるがそれとても同様のデザインのものが使われる。中華料理も大同小異で殆ど西洋風とかわらない。
ところが日本の食器の多種多様、多色多彩さはどうしたことであろうか。すべての器が意識的に変えて使われている。陶器、磁器、漆器、ガラス、竹製品、木製品と素材を変え、デザインを変え、大小のサイズを変え、色を変えて供されてくる。そしてそれ等の用途や配置には一種の暗黙の決めごとがある。何という繊細さ、何という奥ゆかしさであろうか。すべての物事をとことん追求して止まざる日本人の本能的な執着心を感じさせる。これは超一流の料理店だけでのことではない。私達の日常の生活の中で、普段着の生活の中で毎日体験することである。この日本人の感性のすごさは一体どこから来たのであろうか。
酒の器についても全く同様のことが言える。ワインもウィスキーもウォッカもジンもテキーラもブランデーも大差ない。数種類の形の違うグラスだけである。日本酒の場合を思い起こしてみてほしい。どれ程豪華絢爛たる酒器が揃っていることか。お正月や結婚式のお屠蘇の道具は漆器である。とっくりや盃は磁器が多い。最近は陶器もどんどん増えてきている。ぐい呑は陶器が主だ。ガラスも使われている。それぞれのコラボした作品もある。
福井県の金津創作の森主催で、毎年酒器展が開かれている。全国から思い思いの酒器(とっくりと盃のセット)が集まってくる。この1千人近くの応募者の中から、優秀作品が選ばれる。素材も、形も、色も、デザインもありとあらゆる可能性を求めてユニークである。すべての応募作を表彰してあげたいほどにユニークである。その感性のすばらしさに毎年驚いている。このすばらしい展覧会を継続し、日本の酒文化の高揚をはかる為のよい方法はないのであろうか。あわら市長、福井県そして福井県下の酒の愛好家達に是非協力を求めたい。
日本料理やすしがどんどん世界へ出ていっている。日本酒もそれに続かなければなるまい。その為の大切なデザインを生む日本唯一の公募展であるこの灯を消してはならない。その声が大きくなり、更に発展していくことを祈っている。

帰れふるさとへ

ブログ
平成22年8月17日
帰れふるさとへ

「ふるさとは遠きにありて思うもの、そして悲しくうたうもの、よしやうらぶれて異土のかたいとなるとても帰るところにあるまじや」という室生犀星の詩がある。心に残る詩である。
「男児 志を立てて郷関を出づ、学 若し成る無くんば復た還らず、骨を埋める 豈墳墓の地を期せんや、人間 到る処青山あり」という漢詩もある。覚悟のほどが痛いほど伝わってくる漢詩である。
現代の社会は病んでいる。前記の二編の詩にあるようなロマンチックな時代と異なり、今は社会全体が病んでいる。人間が本来大切にするべき親子、家族、親戚、地域社会との関係が希薄になり、個人個人が孤立する社会になってしまっている。
親と子の関係がまず深刻である。親が子を可愛がるのは本能といわれているが、親が子を殺したり、放置したり、監禁したり、折檻しすぎて死亡させるケースがどんどん出てきている。子供の育て方は、三家族同居であれば、おのずと伝授されていくものである。それが個や孤の時代となって、父親も母親も子育てのノウハウがない。まして子供がありながら離婚するケースになると途端に行き詰ってしまう。
老人の孤独死も悲惨である。兄弟や子供はいないのであろうか。近所の人達の無関心も許せない。健康長寿世界一といって世界中の国々から羨ましがられている日本で、老人の孤独死や行方不明が多いのは何としたことであろうか。
大学の卒業生の10万人が就職できないという。また留年組が更に10万人いるという。20万人もの学生が自分の進むべき方向が決まっていないとは信じられない事態である。私は1959年卒である。ナベ底景気のナベ底の頃に卒業したが、不景気でメーカーの求人は殆どなかった。しかし就職できない者、卒業を延ばした者はごくごく少数であった。どこかに自分の居場所を求めて、その場所を一生懸命の職業、一所懸命の地と決めて努力したものである。
私は子育てに悩む人、老親を心配する人、就職できない人に「ふるさとへ帰れ」と声を大にして言いたい。自分の原点に戻って、もう一度新しい人生を送る為のスタート台に立つのである。挫折でもいい。一度ふるさとへ帰ることをすすめたい。ふるさとには山や川や海がある。方言があり、友がいる。再生の道はそれ程難しくはない。

語り部「戦争体験」

平成22年8月16日
語り部「戦争体験」

1945年日本全土がアメリカ軍の大空襲にさらされた。日本の主要都市67市への夜間無差別攻撃である。B29の爆弾、焼夷弾の投下と、機銃掃射そして戦艦からの艦砲射撃であった。3月10日に東京大空襲があり、この夜の死者の数は8万3793人との警視庁発表である。それ以来東京は度々火の海となった。福井市は7月19日夜B29の127機の大編隊に襲われた。夜間無差別焼夷弾爆撃だ。軍隊も対空砲火も何一つない街に、降り注がれた災難である。多くのの婦女子を中心に、市民が焼け死んだ。全財産を失った人々は「焼け出された」といったものだ。やり場のない悲しい言葉である。
戦争の悲惨さ、恐ろしさは何としても次の世代に語りついでいかねばならない。何の罪もない人々が、いわれもなく、死んでいった戦争のことを、是非語り続いていかねばならない。それは戦争の怖ろしさ、理不尽さ、悲しさ、苦しさなどを語り伝える「語り部」を組織化することだ。
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線にも「語り部」達がいる。彼等は既に組織化に着手している。「ヨーロッパ戦線での生存者会議」や「爆撃体験を語り合う会」がヨーロッパ各地にあるという。
日本でもこのような「語り部」の会を生存者が元気なうちに作っておきたいものである。そしてそれを中国や台湾、韓国や東南アジア諸国に広げていけば、おのずから「戦争の悪を語る会」から「平和を願う語り部の会」へと変貌を遂げていくことであろう。それを信じて戦争体験を語る人を発掘していきたい。私の回りの人達はシベリア抑留帰りの人、南方帰りの人、戦病者(帰国したが病気が重かった人)、殆どの方々が戦争体験を語らなかった。質問しても何も返答が返ってこなかった。よほど苦しい思いをされたのだとしか想像できない。一度私記を読ましてもらったことがある。生々しいジャングルの中での戦争体験であった。食べものを捜して結局アメリカ軍に捕まえられて、既に戦争がとっくに終っていたことを知ったという。また満州からの引揚げ者のことがよく小説に書かれた。ロシア兵や現地人からの略奪暴行の話である。戦争の悲惨さを知るには、これ等の歴史を読み、語り部の人々の話を聞いて「ノーモア広島」「ノーモア長崎」そして「ノーモア植民地主義」を貫いていきたい。

原爆から65年

平成22年8月11日
原爆から65年

8月6日の広島原爆投下から65年が経過した。続いて長崎へも。私が小学校3年生の夏のことであった。私達は直接の被害はなかったが、「新型爆弾だ」という噂は風のように全国に広まっていた。今年初めて国連の潘基文事務総長とアメリカのルース駐日大使をはじめイギリス、フランスの大使も広島の原爆死没者慰霊「平和祈念式(記念式典)」に出席した。戦後65年ぶりのことである。何と長い年月がかかったことか。正に感無量である。「パールハーバーを忘れるな」というアメリカ市民がいるが、ハワイはアメリカが強奪した平和の島である。そしてアメリカの極秘文書の公開により、パールハーバーを日本に攻撃させるのはアメリカの作戦だったことが既に明らかになっている。日本はハワイの市民を攻撃したのではなくパールハーバーの艦船や飛行場を攻撃しただけであり、広島、長崎の無差別爆撃で市民20万人余を一瞬の内に焼き殺した残酷なやり方とは全く違っていたのである。
 第二次世界大戦の前に、日本の外交官は勿論のこと、民間人も日米開戦回避のためにアメリカを訪問し日米親善を説いて歩いたのである。日本のロータリアンも旧知の友人のメンバー達を通して親善が続くよう必死の努力をしたとの記録が残されている。
しかし開戦が仕組まれ、在米日本人は日系一世、二世に関係なく収容所に強制入居させられ、財産没収の憂き目にあったのである。私はアメリカに留学し、友人知人も少なくない。アメリカ人のフェアで明るい性格は好きであるが、戦争が人を変えるのであろうか。戦争中のアメリカ人のやり方は決して正しいこととは思えない。そして65年もの長期間「平和記念式典」に出席しなかった態度も正しくない。
今年は世界から74ヶ国の代表が出席したとのことである。私は来年から毎年国連加盟国すべての代表に、平和記念式典への招待状を出すべきだと思う。全加盟国の列席の下、世界平和を祈る式典が広島、長崎で開かれれば、核兵器廃絶の私達の願いも実現に一歩近付くことになる。「歯には歯を、目には目を」では地球は亡びてしまう。「戦死者の数」で、戦死者を相殺できないのだ。報復反対である。報復は憎しみを増幅するだけだ。平和を願う気持はすべての人の心に宿っている。その気持をひっぱり出す為の鎮魂式をやろうではないか。
日本の首相は中国、韓国をはじめアジアの激戦地をまわり、献花し、お詫びをして歩くことに意義がある。パールハーバーへも行くべきである。お互いに許しあう気持を、行動に表わすことにより、お金で買えない感動を与えてくれる。そんな政治を期待したい。

福井県の地酒

平成22年8月9日
福井県の地酒
地産地消の最たるものは地酒である。私は県内の市長を歴訪し、その市の特産品について意見交換を行い、その特産品の知名度を上げ、販売促進するための名案をさぐっている。そして各市長が、長い歴史と伝統と知名度の高い「地酒」を地域の特産品の第一に上げるのに気付いたのである。
そこで福井県の地酒について少し研究する必要を感じ、酒造組合や酒販組合、そして知り合いの酒造メーカーを訪問した。私は同志社大学を卒業し、そのOB会の役員を長く務めさせていただいていたので、数人の先輩がオーナー蔵元であるのを知っていた。蔵元は、トップクラスのお金持であった。
福井県の最近の酒造メーカーの変遷を調べて、その実体のすさまじさに息をのんだ。日本酒は焼酎やワイン、ビールや発泡酒そして新ビールなどに押されて、年々需要が減少しているのである。現在37蔵ある。そこで、この37の酒蔵を歴訪し、「福井県の地酒復活」の戦略を聞くこととした。日本料理が世界でもてはやされているように、日本酒も世界へ出ていく日が来ることを願っている。
地酒は日本の伝統文化である。地酒は工芸品である。独特のおいしい酒を作り、それを日本中の人に飲んでもらいたいという熱い思いを説く蔵元の声を聞いた。地酒は、米の食文化の華であり、世界に類例のない並行複発酵によって造られている。全身全霊をこめて造られているのは、蔵を訪問してみるとよくわかる。地酒は他のアルコールと異なり、日光や蛍光灯などの紫外線に弱い。特に温度変化に敏感で、味が劣化するおそれがある。蔵元で大切に造られ、保存されていても、販売時、運送中や展示中に粗野に扱われると品質が低下するほどセンシティブである。十二分の配慮が必要である。販売の第一線での管理スキルのアップが望まれる。
日本酒の杜氏には各流派がある。越前、能登、越後、丹波、丹後、但馬、山内、南部、志太、諏訪、柳川、芩屋などである。杜氏の技の継承は地酒を守る生命線である。販売の第一線と共に、杜氏の伝統は重要なポイントであることを忘れてはなるまい。

福沢博さんの本

平成22年7月29日
福沢博さんの本

古本屋をのぞくのが私の趣味である。子供の頃には本屋に新刊本は少なかった。古本屋にせっせと通い、岩波文庫や文学全集を手にとって拾い読みをしていた。新刊本を売る本屋で、立ち読みをしているとハタキを持った店員が、立ち読みお断りといわんばかりに、ハタキでパタパタとまわりをはたいてまわる。ところが古本屋はのんびりしており1時間ぐらいは黙ってくれる。最初に自分で買った本も古本であった。今でも故郷の私の生家の屋根裏部屋にあるはずだ。
古本屋をのぞくのがクセになっている。先日も古本屋で、大学の先輩、福沢博さんの本を発見した。私の6歳年長であり、数年前に逝去されている。同じロータリークラブのメンバーでもあった。
著名は「言葉心の花子らと共に生きて」である。読むうちに福沢さんの人柄が偲ばれてくる。愛情や心や教育について書かれたエッセー風の本で、昭和55年発刊された。丁度私が同じロータリークラブに入会する前に発刊されており、知らなかったのだろうと思う。
福沢さんは僧侶であり、教育者であり、幼稚園の経営者であり、ロータリアンであった。当時私は福沢さんの小鳩幼稚園の近くに家を建てたので、親しくしていただいた。長男の結婚式に土佐沖でとれた大鯛一匹を祝いに頂戴した。式場となったホテルの調理人が参加者全員に同じ種類の鯛を一匹ずつつけてくれ大層豪華な結婚式となった。今更ながら友情に感謝する気持がよみがえってくる。
福沢さんは文章も巧みであったが、話術も優れていた。講演も座談も人をそらさないよいお話しが聞けた。この本は短文を集めて、まとめたと記されているが、一編、一編が心にしみるすばらしい文章である。


福井県は安全、安心

平成22年7月28日
福井県は安全、安心

戦争やテロが地球上のあちこちで起きている。昭和20年8月15日の玉音放送(天皇みずから、終戦を国民に宣言)を聞いた時、私は小学校3年生であった。大人達が号泣する中で、私は子供心に安堵感につつまれていた。「ああ、これで今夜からグッスリ眠ることが出来るぞ」と思ったからだ。殆ど毎夜のように警戒警報や空襲警報のサイレンが鳴り響き、その都度身支度をして近くの八幡の森や橋の下へ逃げていたから睡眠不足と栄養失調でフラフラの状態であったからだ。平和の有難さ、戦争の恐ろしさ、悲惨さは、戦後5年間、私達の身の回りでヒシヒシと実感したものである。だから平和憲法を愛する気持は人一倍強い。
現代は安全、安心は刑法犯認知件数ではかられる。外国からの侵入ではなく、内部での凶悪犯をはじめとする犯罪者が犯す事件である。福井県は強盗殺人などの凶悪犯罪の発生件数が少ない。そして2002年をピークに犯罪認知件数が2010年の今日まで一貫して減少し続けている。福井県は安全である、安心して住める所であるという何よりの証拠といえよう。
戦争やテロも悲惨であるが、強盗や殺人も恐ろしい。特にお金持や高齢者ほど安全を求めるものである。私の住むマンションは、防犯マンション認定を受けている。今一番求められているのは生命や財産の安全を守り、安心して住める所ではなかろうか。

猿楽

平成22年7月26日
猿楽

能楽は室町時代に観阿弥、世阿弥父子により確立されたといわれている。文献や伝聞も多く残されており、その成立前後を推測することも可能である。観世流の「吉野天人」を福井県の能楽鑑賞会で観覧する機会があり、その解説の河村晴久さんから、吉野天人の天女の舞は、観世流の元の大和猿楽にはなかったので、近江猿楽の天女の舞を観阿弥がいただいたという説明を聞いた。能楽は世界的に分布している「面」をつける舞踊の一種とされている。仮面劇、仮面踊の一種である。
福井県下にも古い神社に独特の踊りが残されている。越前猿楽や田楽である。ある女性イラストレーターが、その踊りをとりあげて、十二ヶ月のカレンダーにしてくれたことがあった。県下の各市町村や神社にそのカラーのカレンダーを進呈したことを思い出す。今から25年前のことである。
日本の能楽は今や世界に流布し、熱心なファンが多い。明治時代までは女性の弟子は玄人や素人に関係なく不可能な「男の世界」であったが、白洲正子や私の京都の清水家の伯母などは特別に教えていただいたようである。現在はお弟子さんの半分以上が女性である。女性が活躍する時代は平和だという。戦争の苦しさ、悲惨さを身にしみて覚えている私は、「女性の時代」「平和の時代」を歓迎したい。男も女も関係なく、神や仏の前で、舞い踊った太古にかえり、能楽も大いに発展していってほしいものである。

朝日を拝す

平成22年7月21日
朝日を拝す
早朝4時に起床するようになってすでに数年が経過する。ブログを書き出す少し前ぐらいからであっただろうか。朝の3時間は、昼や夜の6時間に匹敵する。集中力を生むことに気付いたので、4時起床を習慣化したのである。朝起きの楽しみは、実はもう一つある。集中力が増すと同時に、早朝の日の出のドラマを、毎日約1時間程の間、楽しむことができるのである。このドラマは千変万化、天候によって大きく左右される。晴れた日、雲の日、雨の日、雪の日、そして雲の具合によっても大きく変ってくる。
この朝のドラマ、「日ので」というドラマは実は私達の祖先から幾十世代となく引継いできたもののはずである。私の祖父は早朝必ず朝日を拝むのを一日の始めとしていた。登山の楽しみの一つが頂上から拝む日の出である。この一時間近くの東天の輝きと、刻々と移り変わる下界の姿を見ていると、人間の小ささと、自然の力の大きさに驚嘆する。
私のマンションの部屋は、14階であるが、その窓から毎日この日の出のドラマ、一時間近くの大スペクタクルを楽しんでいる。生きていることの有難さ、自然の恵みの大きさを実感する貴重な体験である。早起きは「三文の得」というけれども、朝日を拝んでいると、「三文」どころか「三億円」以上の価値は十分ある。感謝、感謝の日々を送っている。

活字ばなれ

平成22年7月20日
活字ばなれ
新聞、雑誌が苦戦しているとのことである。若者の活字ばなれに原因がある。まず若者の家庭では新聞も雑誌も定期購読をしていない。ニュースは携帯やパソコン或いはテレビで入手している。本を読む人は少数派であるという。私達は活字に飢えていた。敗戦後かなりの間は、小学校の教科書も参考書も入手困難であった。貸本屋で岩波文庫や文学全集を借りてきてむさぼるように読んだ記憶がある。だから本を大切にする習慣が身についた。今では一日一冊を読むのを楽しんでいる。本を読むことにより、歴史を知り、故知に学び、偉人を尊敬し自らを鍛える縁としている。
 今回中国大使に就任される元伊藤忠商事の丹羽会長は「最近読書三昧の生活だ」と福井の支店長から聞いたことがある。世界を舞台に丁々発止と大活躍された方が、読書三昧の生活をされていたということに啓発されない人はいまい。私は感動し、自分の生き方に自信を持った。
 かつては「読み、書き、ソロバン」が教育の基本であった。活字ばなれはこの教育の基本からもはずれてしまう。困ったことである。脳の活性化をするには、本を声に出して読むことが大切だという。声を出すことで更によく記憶できるそうである。私の祖父は新聞をスミからミスまで声を出して読んでいた。世界のことは私などより遥かに詳しかった。祖父母も父母も幸いなことに死ぬまで頭脳明晰であった。本を読む習慣や和歌を謡曲の趣味そして音楽の趣味などのおかげだったように思う。それだけに若者の活字ばなれに危機感を禁じえない。

NHKの大河ドラマ「江」

平成22年7月13日
NHKの大河ドラマ「江」
戦国の世をかけぬけた信長の妹「お市の方」を母とする三人の姫たち茶々、初そして江の生涯は、誰知らぬ者がない程、有名である。来年のNHKの大河ドラマに、その末娘の「江」を中心とした物語が展開される。脚本は田渕久美子(一昨年の篤姫と同じ)主役は上野樹里だとのこと。江姫は滋賀県長浜市の小谷町の小谷山頂から山すそにかけて築かれた小谷城で1573年誕生。同年父浅井長政は江の伯父の織田信長に亡ぼされ母や姉達と共に落城の中を脱出、信長の庇護の下で暮す。1582年9歳の時信長死亡、母のお市は福井市の北ノ庄の柴田勝家に嫁いだ。そして僅か1年後北ノ庄城は秀吉の攻撃の前にもろくも落城、義父柴田勝家と母お市の方は自刃。3姉妹はまたもや落城の中、炎上する城を後にした。江は1年後佐治一成に嫁ぐが、短期間で離縁した。8年後の天正20年(1592年)秀吉の甥羽柴秀勝に嫁ぐが、秀勝朝鮮で病死、その娘は淀が養育することとなった。1595年江は徳川秀忠に嫁いだ。長女千姫は大阪城の豊臣秀頼に嫁いだ。娘和子は入内し後水尾天皇の中宮となる。1623年(元和9年)長男家光三代将軍となった。1626年(寛永3年)江は江戸城で没した。享年53歳。
江は近江の琵琶湖の雄大な姿そのままに、激変する数奇な運命の中を、穏やかさ、優しさを決して失うことなく、女性としての幸福を最終的につかみとった人生であった。戦乱の中に父母を次々と失くし、幾度もの結婚・離婚をのりこえ、将軍の妻となり、二男五女の子宝に恵まれ、伯父信長、父浅井長政、義父柴田勝家、義兄豊臣秀吉、義父徳川家康、夫徳川秀忠、子徳川家光と江のまわりは戦乱の世を彩った数々の歴史の主人公と共にいた。姉淀との姉妹同士が敵・味方に分かれて天下を争った関ヶ原、大坂冬の陣・夏の陣は正に悲劇の頂点であった。
お市と三人の姫たちの戦国という題名の通り、私の生地長浜市と私の住居地福井市で繰り広げられる来年の大河ドラマは、今から楽しみである。


夢のはやぶさ

平成22年6月30日
夢のはやぶさ

小惑星イトカワは、全長540mのピーナッツ型の小さな小さな惑星である。地球と火星の間を飛んでいるのを1998年アメリカチームが発見した。宇宙開発のパイオニア糸川英夫博士にちなんで日本が「イトカワ」と命名した。
糸川博士がペンシル型の小型ロケットの開発に精力的に取組んでおられた頃、一度親しくお話しをした思い出がある。アメリカやソ連が莫大な予算を使い、超大型ロケットを打ち上げている時に、ミニロケットの開発を行うという先見性に富んだ科学的な手法に共感を持ち、声をかけさせていただいたのである。その開発手法の結果が小惑星探査機はやぶさである。
私のような年配の人間は「隼」と書いた方がよくわかる。隼は60億kmの宇宙空間の旅を終えて、7年ぶりに帰還した。月より遠い天体に対し、到達するだけでなく、着陸し、離陸し、そして地球へ帰還したのは、日本の「隼」だけである。
至近距離からイトカワを撮影し、精緻な観測データを地球へ送ってきている。イトカワの砂の回収の可能性もあるとのことである。私は日本の宇宙技術に心からの賞賛の拍手を送りたい。そして糸川博士達先人の残された志を継いで努力しているJAXAの吉川真博士達の健闘を讃えたい。
イオンエンジンと宇宙での太陽光発電。地球からの支援なしで目標に近付いたり、姿勢の制御が可能という能力は、世界でもトップレベルの先端技術力である。しかし最先端技術開発は日進月歩である。世界トップと自慢している内に追いつき追いこされかねない。新たに次の隼2号に対して国家予算がつかないとのことであるが、国民からの寄付のシステム(無税扱い)を作ることにより200億円や300億円はたちどころに集まる筈である。寄付の受皿組織を作らず、JAXAに寄付の為の専用口座を作るシステムを制度化するだけでよい。


今を生きる

平成22年6月28日
今を生きる
人生で最も大切なものは何だろうか。友人の一人が、老年であるにかかわらず、いつ会っても常に先のことを話題にする。老人であるから、一般的には過去の栄光や過去の知識を話す人が多いなかで、彼は過去の話は絶対にしない。その理由を聞いたところ、「昨日はすでに遠い過去である。過去のことをくよくよ考えても何の益にもならない。今を生きるためには、どう生きるかを考えるべきだ。そのことだけを考えて会話を楽しんでいるのだ」という。彼は年齢を感じさせない。若さを保っている。
時はすべての生命体に等しく与えられたものである。富者も貧者も、老人も若者も、男も女も、アメリカ人も中国人も、すべての人々に平等に与えられている。1日24時間、その一瞬一瞬をどのように生きるかは、私達自身の問題である。
「青年老い易く、学なり難し」である。私達にできることは、今を大切に生きること以外に何もない。今をどう生きるかで大差ができてしまう。
時は流れている。その流れに安易に身をまかせていると一瞬の内に人生の終わりを迎えてしまう。折角この世に生を受けた以上、何かを残していきたいものである。何を残せるのか。それを決めるのが、「今をどう生きるか」である。
全力を上げて「今を生きる」、そんな日々を送ることを肝に銘じている。

聞く能力

平成22年6月25日
聞く能力

人が生まれてくる時に聞く力はすでに胎児の頃に備わっているとのことである。受精後170日以内に、羊水の中にいる胎児は、母親の声をはじめ、外部の音を聞き分ける能力を備える。胎教は決して迷信ではない。子育ては胎児の頃から始まるのである。
モーツァルトをはじめ、音楽家は幼児の頃に既に天才を発揮し、神童とうたわれる人が多い。両親や、祖父母ともに音楽家であったという家系とか、胎児の頃から音楽の中で生長した場合などに多く見られる。
モーツァルトは6歳で作曲をはじめた。35歳で他界するまでに、17のオペラ、41の交響曲、27のピアノ協奏曲、そして数10曲のピアノソナタなど、膨大な数の作曲をしている。彼の言葉によると、「私の頭の中にすでに全曲が完成している。私はそれを紙に書いていないだけだ」。
この天才の能力の根源は「聞く能力」から誕生してきたようである。ところが最近の教育では、この聞く能力を磨き、高めることが、おろそかになっているようである。見る、話す、歩く、食べることよりも、「聞く」のは最も早く私達が体得している能力なのである。この能力を高めることで、人は成長し、社会生活に順応していくことができる。聞くことは生きることの中で大きな部分を占めているのである。
人は聞くことによって成長する。聞き上手は世渡りのコツである。沈黙は金、雄弁は銀である。コミュニケーションにおける比率の調査によると、「聞く」が55%、「話す」が23%、「読む」が13%、「書く」が9%とのことで「聞く」比率の高さに驚く。
講義や講演会のノートを、他の人のものと見比べてみるとその違いの大きさに驚くことがある。人の話を聞き分ける力には大差があることに肝に銘じておく必要がある。聞く能力を高めるのは老人になっても可能である。そう信じて、いつも聞き耳を立て、相手の心を見つめている。

音楽

平成22年6月24日
音楽
幼少の頃から音楽に親しんでいる人には絶対音感が身につくという。私の記憶をたどってみると、私の幼少の頃は、音楽との関りはそんなに豊富ではなかった。音楽といえるかどうかわからないが、毎月の月参りに来てくれる神官の祝言、僧侶の読経。そしてすぐ近くの観音堂では、巡礼鈴を振りながら歌う御詠歌や読経、そして春秋の長浜祭の練習の鐘、太鼓、笛、三味線をともなった浄瑠璃や祭囃子、そして時々行われる神社の能舞台での能、狂言などの地謡、囃子などであった。
幼稚園や小学校にはオルガンがあった。講堂にはピアノもあった。しかしその音や曲をすんなり思い出すことはできない。小学校入学の頃から戦争が激しくなり、私達の生活は音楽どころではなくなった。敗戦後からの5年間は、物資不足、飢餓との戦いが続いた。中学校に入る頃から、人間らしい生活が送れるようになっていた。
近くの同級生の母親が音楽の先生だったので、合唱部へ誘われて2年間放課後に練習したのがなつかしい。それが本格的な音楽との初めての出会いであった。その頃から町には音楽があふれ出していた。音楽が人々の唇に上るにつれて世の中は明るくなっていった。「歌は世につれ、世は歌につれ」といわれ、世界中の音楽が入ってきた。合唱部に入った私達の夢はNHKの全国合唱コンクール中学の部に優勝することだった。そして自由曲が「美しき青きドナウ」。私達は滋賀県大会で混声合唱の部で優勝。ところが発表後しばらくして失格となった。制限時間オーバーとのことであった。前奏のピアノ伴奏が大分長すぎたとのこと。一生を通じていまだにその時の茫然自失は忘れられない。何十年か後に、結婚した妻は鹿児島の高等学校からNHKの合唱コンクールに出て、全国一になったとのこと。不思議な縁である。
それ以来音楽との縁は続いている。京都の大学時代、下宿した高校の数学教師宅の応接間には、竹針の蓄音機とクラシックのレコード盤が大切に残されていた。クラシック音楽との濃密な出会いであった。
長浜の自宅には、新しいもの好きの父の趣味で大型電蓄があった。正月には友人達や芸妓を呼んで新年の歌謡大会(歌合戦形式)をやったものである。音楽との関係は徐々に深まった。留学中には、ミシガン大学の音楽堂で、ボストン交響楽団を率いてきた小澤征爾の指揮を初めて見た。日本人の殆どいない音楽堂の中で、小さな身体を使い、髪をふり乱して指揮する彼に、全員が感動した。私は日本人としての誇りと自負心を教えられた日となった。
音楽が私の心と身体の中に、脈々と生きているのを感ずる。音楽と癒しの関係をもう少し極めてみたいと考えている。


福井美人

平成22年6月23日
福井美人

県外から私の事務所を訪ねてくる友人達が、異口同音に言う言葉がある。「福井は美人が多いね」「すごい美人にあったよ」などである。私の事務所は福井の駅前、西武百貨店の西武通りにある。JR福井駅から徒歩5分、西武からは1分である。この西武通りを「女通り」という福井県下で一番一通りが多いが、女性の比率が高い。8割が女性である。
女性は着飾って歩けるところがほしいという。その数少ない場所が福井のえきまえ通り即ち西武通りである。おしゃれなお店が並び、ショッピングやウィンドーショッピングが楽しめるところが多ければ街は発展する。芸術や文化、音楽、映画などを楽しむことが出来る街、それがえきまえ通り即ち西武通りである。女性が着飾って、子供達にもおしゃれをさして、歩きまわれる街をつくりたい。
福井の美人達も是非ご協力を願って、優雅に歩いていただきたいものである。
福井の子供達は、小学生も中学生も、学力も体力も全国でトップクラスである。福井に美人が多いこととも何か関係があるのであろうか。越の国の人々は体格がよく面高な人が多い。DNA的にそんなに差があるはずはないが、食物が多少違うようである。
福井人は「おろしそば」を愛好する。十割そばと辛味大根おろしのマッチングが絶妙である。粗食が脳を活性化し、雑穀が腸を整えてくれているのであろうか。とに角美人が多いことは大変結構なことである。


人間と環境

平成22年6月21日
人間と環境

人間は環境の動物である。銀のスプーンを銜えて生まれた人と貧民窟に生まれた人と、環境には大差がある。その貧富の差の中で生活経験が、人を育てるのである。厳しい環境の中で、自己を磨き、精神を鍛錬した人が、将来大きく成長するケースが多い。自分の置かれた環境を嘆いたり、不足を言っていては、成長はおぼつかない。夢を持ち、その夢に向って日々地道な努力を続けていけば新しい環境が生まれてくる。
また環境と人間の間にはもう少し大きな環境問題がある。個人の環境というよりは、社会的な環境である。それを少し考えてみよう。
オバマ大統領のグリーンニューディール政策が発表された。その時には、アメリカのウォール街では、創業159年の投資銀行リーマンブラザーズが倒産していた。また創業101年のビッグスリーのトップ、世界一の大企業GMが倒産した。世界中の富を集めて、20世紀の覇者となった自動車メーカーのトップと、金融業界の雄リーマンブラザーズが共に倒産というショックが起きたのである。オバマ大統領は、アメリカ経済を製造業や金融業或いは石油業、軍需産業から次の新しい産業へ移行させることを決意したのである。化石燃料社会から低炭素社会への転換である。新しいエネルギー、新しい環境ビジネスを育成するために大胆な布石を次々と打ってきた。そして日米共同メッセージの合意となった。再生可能エネルギー開発への投資、電気自動車、ハイブリッドカーへの投資、二酸化炭素の地下貯蔵、電力送電システム(スマートグリッド)の開発、原子力発電所建設再開等により、500万人の雇用をつくるという意気込みである。
21世紀の世界のリーダーの条件は、20世紀とは大きく変ってくるのではないだろうか。リーダーの第一条件は、「クリーンエネルギーの技術開発」の恩恵を、世界中にあまねく与えることが出来るかどうかにかかってくるであろう。
日本では失われた10年が、早や20年にもなろうとして低迷しているが、幸いなことに、私達には「勿体ない思想」が生来の伝統としてある。この「勿体ない哲学」を基礎に、日本の軽薄短小技術、省エネ技術、原子力発電ノウハウなどをバーターで、世界中に輸出していけば、日本の21世紀は明るい。中国も電気自動車、太陽光発電、LED、原子力、リチウムイオン電池等の開発に懸命である。共に力を併せて世界のため、地球のために努力していきたいものである。私は今、この文を、4年前に出版した『夢への始動』という私達の会社の姿を書いてくれた鶴蒔靖夫氏の小冊子を再読しながら書いている。

鎌倉に住む

平成22年6月17日
鎌倉に住む

鎌倉は古都である。細い道のあちこち、小さな寺院の石塔にも、いろんな歴史が残っている。同じ古都でも、京都や奈良と比べると、まずサイズが違う。鎌倉はミニである。中高年齢の私達でもぶらりぶらりと歩きまわることが出来る。定年退職者が好んで住みたがる理由は一体何だろう。それは住んでみるとよくわかる。私は平成の初めに約5年近く、北鎌倉に住んだ。鎌倉の特長はまず正月から師走まで年中行事が驚く程多い。そしてそれに誰でも気軽に参加できるのである。また海岸が長く美しい。山が近く、谷戸といわれる谷筋は入り組んで複雑な地形となっている。散歩コースが無数にある。天園ハイキングコースの見晴台近くの茶屋から見る鎌倉の町並そして相模湾は、まさに絶景である。
鎌倉は温暖なところでもある。湿気が多い。花々の植物や樹木にとっては天国である。花の名所、花の寺は数えきれない。明月院のあじさいなど、梅雨時期はご婦人達の人波でごった返す。ところが夕方5時頃になると静かになる。昼間の喧騒がウソのように思える。どこへ行っても、いつ行っても花を楽しめるのが鎌倉である。
鎌倉五山の名刹、建長寺や円覚寺をはじめ、有名無名の寺社仏閣を尋ね歩くだけでも、残された人生を十分楽しむことが出来る。お寺にはすばらしい歴史と文化そして建造物や庭園が、長年に亘ってしっかり守られている。
また「善の研究」の西田幾多郎旧邸や有島生馬邸、高田博厚邸のある七里ヶ浜の稲村ヶ崎のあたりを哲学の散歩道という。私は高田博厚氏のアトリエを訪ねたことがある。鎌倉は別荘地としても有名で戦前戦後数多くの画家文士などが住んでいた。私は前田青邨、守屋多々志宅を訪問し作品をお願いしたことがあった。平山郁夫宅、小倉遊亀宅の前は散歩の都度足しげく通ったものである。鎌倉文学館には鎌倉ゆかりの文士の紹介が親切になされており、まわりの深い森と明るい南面の庭園を、共に楽しむことができる。駆け込み寺として有名な東慶寺には有名人達の墓が多い。一高の卒業生の共同墓碑もある。高見順、岩波茂雄、安倍能成、和辻哲郎、田村俊子、佐々木房、真杉静江、西田幾多郎、鈴木大拙等も眠っている。近くには川端康成記念館や吉屋信子記念館もあり、文学好きの人にとっては感慨深い土地である。
先日葉山ロータリークラブのメンバー20名の方々が、私達の福井北ロータリークラブの例会にビジター訪問をされた。その折、鳩サブレーをおみやげに頂戴した。鎌倉駅前の豊島屋の鳩サブレーは120年もの歴史のある銘菓である。久しぶりに鎌倉の味を思い出し、この文を書いた次第である。

変化を嫌う日本人

平成22年6月14日
変化を嫌う日本人

オバマ大統領が選挙戦の間ずっと使い続けていた「変化」が、世界中で持てはやされるようになった。時代はものすごいスピードで「変化」しているのである。しかしその「変化」を実感して、上手に対応しているかどうか疑問が残る。
特に日本人は「変化」を嫌う。一度決めたことを変えるには多くの反対を克復しなければならない。それは官僚組織だけでなく、社会のあらゆる分野で顕著である。漢字の「変」という字の使い方も、いい意味で使われてはいない。「変な外人」とか「変な人」「変な服装」などである。
私は逆に「変化」が好きである。変えるか、変えないかの二者択一の時には、常に変える方をとる。変化することによって新しい世界が開けることを知っているからだ。
オバマ大統領のアメリカでは「変化」が尊ばれている。これは最近だけでなくずっと以前からそうである。会社を変える、職業を変える、パートナーを変えるなど、日本人が考えると、不謹慎なほど変えるのである。
アメリカ人は人種のるつぼといわれている多民族国家である。違った文化を持った人々がお互いに認め合いながら生活をしている。そしてお互いのよい点を取り入れる為には自ら変化しなければならない。変化することは進歩であり、楽しいことである。そこから「変化」を尊ぶ気風が育ってきたのであろう。
反対に日本人は同質国家である。そのことが変化を嫌う原因のように思われる。しかし戦後、日本はアメリカナイズされてきた。変化を好む風潮は、徐々に醸し出されきつつある。
「変化」を選べる良識ある若者達を是非共育てていきたいものである。
            

幕末の日本

平成22年6月11日
幕末の日本
明治維新を乗り越えた明治人にとっては、旧幕府時代は悪い時代でなければならなかった。そこで歴史に対する歪曲が始まってしまった。
ところが当時の外国人の意見は、そんな前提がないので、より正確に幕末の日本をとらえている。
まずアメリカの総領事ハリスは、「日本人はよく肥え、身なりもよく、幸福そうに見える。貧者も富者もいない。これが本当の幸福である。生命は安全で、みんなが質素に満足しているのは他の国には見られない」
次にイギリス総領事オールコックは、「我々の考える自由はないが、多くの幸せを享受しているのは驚きだ。西洋の自由と文明をもってしても、江戸時代の長い間、戦争がなく、平和で、国は繁栄した事には及ばない。西洋は王が民を搾取するのが常識であるが、日本は違う。日本人の進取の気性と器用さ、ずばぬけた能力はすばらしい。」
またペリー提督は「実際の機械技術について日本人は非常に巧みだ。一度文明社会の技術を習得すれば、直ちに強力なライバルとなる。」
フランス公使ロッシュは「日本人は礼儀正しく、聡明で、議論も巧みである。頑固だが理を尽して説明すればよく理解してくれる。威嚇せず理性に訴えたので、フランスは弱きを助け、強きをくじく任侠の風があると認識してくれた。」
イギリス公使パークスは「武力を見せれば、すりよってくる。長州に上陸した4ヶ国連合軍はイギリス2,000、フランス350、オランダ200、アメリカ50人の計2,600人であったが、山口へ進撃できず、船に帰った。長州を占領するのは全東洋の全艦隊を集結しても不可能」と報告している。
このパークスと通訳のサトウ、英商人のグラバーが薩摩と組み、長州と手打ちをして、薩長土肥を中心に倒幕の幕引きをしたのが維新前後1860年からの10年間であった。

日の出

平成22年6月9日
日の出

マンションの高層階に住んでいると通常と違ういろいろなことに出会う。最も顕著な特長は遠景を毎日見ながら生活することである。福井は三方を山に囲まれ、残りの一方が日本海に開けている。太陽は東方の連峰の上から昇ってくる。この「日の出」が圧巻である。「日の出」の序幕は午前4時頃から始まる。白山連峰の少し北方の山々の上の空が茜色に染まりだす。時間の経過と共に茜色が濃くなってくる。そして5時30分近くに太陽が顔を出す。その変化は体験してみないとわからない。高山へ上り、御来光を拝んだ経験に近い喜びを感じることが出来る。 いまなお真っ白な白山連峰を従えて、少し北方にずれた地点から太陽が顔を出すのである。その瞬間すべてのものが光を浴びていきいきと動き出す。太古の昔から人類が太陽と共に暮してきたその事実を実感できる瞬間である。北ノ庄城の天守閣に登って越前平野を見渡した柴田勝家やお市の方とほぼ同じような視界である。
また夕刻になるとサンセットの劇が始まる。これは「日の出」とはまた違う感動を与えてくれる。全く別のものといった方がよい程である。明から暗への変化である。私達日本人は「日の出」を楽しむが、西洋人はサンセット「日没」を楽しむ人が多い。私もやはり日本人、「日の出」に軍配を上げたい。

岸田劉生

平成22年6月7日
岸田劉生

高田博厚(彫刻家)が岸田劉生の胸像を1976年に制作している。「劉生の会」の依頼で制作したとのことで、劉生の生前、何度かあったその印象から作られている。福井市美術館の高田博厚コーナーに常設展示されている。高田博厚はパリで長く生活をしていたので、彼の交友関係は、日本人関係だけでなく、フランス人をはじめ外国人の人々が多い。インドのガンジーの像も本人に頼まれて制作している。作品は一連の裸婦シリーズの他には、胸像や頭部のものが多い。しかしよく見ると1つ1つの作品は大きな差がある。岸田劉生の胸像はその中でもひときわ異彩を放っている。
岸田劉生が残した油絵は案外に少ない。しかも大作といわれる大きい作品が少ない。彼の独特の描法や、彼の生きた時代のせいか、それとも彼の天与の才能のせいか、彼の作品は見る人に強烈な印象を与える。娘を描いた麗子像シリーズは有名だ。1918年(大正7年)より始まった劉生の絵を性格づける程の特徴のあるシリーズである。大正時代を彩る絵の天才岸田劉生と文学の天才芥川龍之介には相似点が多い。
大正文壇は白樺の創刊によって始まり、芥川龍之介の死をもって終ったといわれている。同様に大正の油絵画壇は、白樺の創刊によって始まり、岸田劉生の死をもって終ったともいえそうである。大正デモクラシーやヒューマニズムそして白樺の中心にいた武者小路実篤や長与善郎の人道主義、自己主張主義から大きな影響を受けたのである。雑誌「白樺」の創刊は明治43年で、劉生は翌年から熱心な読者になった。白樺はその口絵に西洋美術の写真を掲載し、新しい西洋美術思想を紹介し、展覧会を開催し、当時の知識人に広く支持されていた。
劉生の父は岸田吟香、母は勝子の第9子(4男)として銀座2丁目で1891年(明治24年)誕生。吟香は幕末から日本に滞在していた医師、宣教師のカーチス・ヘップバーンを助けて、日本最初の和英辞典を編纂した。ヘップバーンはヘボン博士といわれ、ヘボン式ローマ字の創始者である。またヨゼフヒコ(浜田彦蔵)と共同で、日本で最初の新聞を創刊(海外新聞)した。更に海運、製氷、石油採掘、学校経営まで幅広く活躍し、横浜の生糸貿易商の娘小林勝子と結婚。劉生誕生の頃は、すでに各方面の事業から引退し、銀座2丁目でヘボン博士から譲り受けた目薬製梢紊寮渋と稜筺奮攸憩押砲函中国に関する「清国地誌」の執筆に没頭していた。
これ程の父岸田吟香の子として生まれた劉生は、父の死後家業の傾きと共にキリスト教の洗礼を受けている。画家としては早熟で、次々と賞を得て、審査員になり、一派を率いた。
私は縁あって劉生の生涯の友であった椿貞雄の一族と知り合い、劉生の交友の多彩さの中から、逆にまたその孤独と唯我独尊的な面を知った。まさに大正時代を象徴する天才画家であった。

酒田湊の本間家

平成22年6月4日
酒田湊の本間家

本間崇久は堂島の米相場で活躍した。江戸中期以降天下の台所といわれた大坂で、米相場の先物取引を行う堂島米会所が開かれていた。北前船による東北、北陸、山陰、山陽、九州、四国の米や塩など各地の産物が大坂に集まり、大坂の繁栄ぶりがしのばれる。
本間崇久は米相場で大儲けをしたといわれているが、その根拠となる相場感は「酒田五法」としてまとめられている。罫線による戦術で、日本古来の罫線が「酒田足」と呼ばれるのはその為である。酒田五法は日本のチャート解読本としてアメリカウォール街で読まれたとコミュニティ新聞社の「酒田湊繁盛史」が伝えている。書名は「A scientific analysis of "Sakata's five methods」と記されている。
江戸時代が見直されてきている。私は特に幕末の動乱の時代から明治の前半にかけて、外国の黒船襲来からそれに対応した日本の人々の真の姿を再現したいと思っている。明治3年以降、薩長閥といわれる一部の人間に日本の政治が独占され、その影響は現在でも続いている。その間、幕末から明治にかけての歴史がかなりゆがめられているように思えて仕方がない。
明治維新の原動力になったのは、江戸時代を通じて北前船の交易がもたらした富の蓄積によるものである。東北から越前、長州などその恩恵を享受した。薩摩も南方貿易で利を上げていた。各地の豪商といわれる人々が、志士を支援し、外国の植民地になるのを必死で守りぬいたのである。
江戸時代の学問は蘭学がすすんでおり、オランダ語の医学書をはじめ数学、物理学、科学などが輸入され日本語に翻訳された。長崎が果たした役割は非常に大きいものがある。江戸時代の交通網はすべて船便である。船が日本の物流を動かしていた。船を握る商人や武士、藩が影響力をもっていたのである。

魯迅の師 藤野厳九郎

平成22年6月2日
魯迅の師 藤野厳九郎

中国の建国を思想面で支えた魯迅は、日本留学中の師藤野厳九郎について「藤野先生」という作品を残している。魯迅記念館には、その先生から別離の際にもらった写真が展示されている。
藤野厳九郎はあわら市の出身である。幕末に緒方洪庵の塾頭伊藤慎蔵を大野に招いて「蘭学所」という藩校を作ったのは土井利忠公である。全国からこの蘭学所で蘭学を学びたい人々が集ったという。伊藤慎蔵は藤野厳九郎の父藤野昇八郎を大野の蘭学所で教えた。昇八郎はその後大阪へ出て適塾で学び医師となって帰国した。藤野家は江戸時代のはじめから続く医家である。祖父藤野勤所は江戸の蘭学者宇田川玄真、榕庵父子に学んだ。福井県あわら市芦原町下番が医院のあったところで、祖父も父も立身出世を望まず、地域の人々に尽したといわれている。
厳九郎は野坂源三郎の中番塾に入り、漢学の素養を身につけ、藤島高校から名古屋大学医学部に進み助教授になった。そして仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の教授となり、そこへ周樹人(後の魯迅)が入学してきたのである。そこで師弟愛が芽生えた。魯迅が医学を捨てて、文学の道へ転進しようとした事件は、「幻灯事件」として有名である。魯迅が2年生の時、細菌学の授業中、日露戦争の幻灯を見て、中国人がロシアのスパイとして処刑される時、その光景を見ている中国人の無表情さに大きなショックを受けた。それ以来医学を学んでいる自分を責め、もっと人民の為に為す事が外にあると考えるようになり退学を決意した。
藤野先生は一瞬弟子魯迅が去っていくことを悲しんだが、彼の将来の為を思い、自分の写真を与え、その裏に「惜別 藤野謹呈周君」と書いた。その写真が中国の魯迅記念館にある。偉大な師弟のささやかな、しかし強靭な絆となった一枚の写真である。
 

魯山人の料理するところ

平成22年5月26日
魯山人の料理するところ

魯山人は北鎌倉の山荘で最後の人生を過した。1959年12月21日に76歳で世を去った。私が丁度同志社大学を卒業し、三谷商事へ入社し、大阪勤務から、本社勤務へ変った頃である。
北鎌倉駅は東京から横須賀線で約1時間、駅のフラットホームは細長く、電車が到着するたびに、中高年女性が大量に降り、駅は嬌声で沸き返る。外へ出るのに10分もかかる。寸刻みに歩くほかはない。西の山手の方への道に入り、北鎌倉女学院の門前を更に台峰の方向へ上って約10分、私の北鎌倉の家に着く。そこからは台峰の頂上を越え山崎へ降りていくと魯山人の終焉の地に着く。僅かに10分余りの距離である。
北大路魯山人は毀誉褒貶の多い人物である。子供の頃から他人の間で苦労していたが、人間に丸味が出るのでなく、反対に狷介な性格に磨きがかかってしまったようである。しかし書にしても、篆刻にしても、濡額(大看板)にしても、画にしても、陶芸にしても、一流の域を極めたといってもよい。特にその料理に対する執着心は、並外れたものがあり、生涯を通じて天下一の美食家であり、料理人であった。東京の日本料亭星岡茶寮へは皇族をはじめ貴顕紳士が連日集い、一世を風靡したものである。北鎌倉の山崎の邸宅の庭にはいくるかの窯を築き料理に供するための陶器を自分で焼いていた。
料理の真髄を表わす文章の中に、「料理するこころ」が記されている。私が最も心をひかれたのは料理の味だけでなく、五官すべてを使って賞味すべきものなので、材料の吟味に始まり、色、配置、器など万全の気配りを求めている。大根の皮、わさびの軸をムダにしない心を教えている。
魯山人の陶器は残されている数が多い。数が多いということは、人目につくということであり、収集家にとっては、何より先の楽しみな作家である。特徴のある形、あらゆる食器を網羅するレパートリーの広さ、そして何ともいえない暖かさ、料理に着せる着物としてはピッタリのものである。陶器は壊れ易い。また戦災で多くが灰儘に帰したが、多作が幸いして、多くの作品が京都、長浜、鯖江、加賀、金沢、そして東京周辺にも残っている。おそらく魯山人は百年二百年後にも残る大芸術家のように思えてならない。

十一面観音

平成22年5月25日
十一面観音

長浜市の高月町渡岸寺観音堂がある。ここに泰澄作と伝えられる十一面観世音菩薩がまつられている。1.95mの立像で木彫である。国宝である。泰澄が760年頃聖武天皇の勅願により、疫病平癒の祈願をこめて彫ったと寺伝にあり。そして801年最澄により勅願を得て七堂伽藍を建立したが、浅井、織田の戦火によって灰燼となった。その兵火から貴重な仏像を助け出し、土中に埋めて守りとおしたと伝えられている。
仏像研究家は勿論、白洲正子や寿岳章子などの作家をはじめ多くの人々から、日本屈指の霊像と賞讃されているこの十一面観世音菩薩は見れば見るほど見事である。ゆったりとした仏像は、腕が長く、腰がくびれて、わずかにひねるかのような動きを感じさせる。豊満な、官能的とも思える姿態である。容顔も整い、現存する十一面観世音菩薩像の中では、第一の容貌である。
泰澄伝説は福井県の越知山、白山、平泉寺から石川県、岐阜県、京都府などかなり広い範囲に残されている。そして十一面観音像や千手観音像などの木彫像を彫み、一宇を建立し、土地の人々の息災延命、万民豊楽の祈祷を行ったと言い伝えられている。
天皇から頂く大師号は最澄、空海が最初ということになっているが泰澄はその名も、大師号もいただいたようである。
泰澄研究は、平泉寺の平泉澄(元東大教授)の小冊子があるが、埋もれた伝承や寺伝などをつなぎあわせていくと、もっともっと深まっていく可能性がある。山嶽信仰の祖であり、仏像彫刻の祖であり、各地にある数多くの寺宇の創建者である。今少し泰澄研究がすすむことを期待する一人である。
渡岸寺(向源寺)は村落の中にあり、亭々とそびえる大木に囲まれた明るい寺域を持っている。長い間村の宝として代々守り抜かれてきた奇跡は、観音の尊像を見れば、その理由がわかる。一度拝顔すると忘れられない温顔である。その姿態は、あたかも生きておられるような錯覚をおぼえる。これ程の尊像が1250年前に彫られたとは、到底信じられない。ミケランジェロも真っ青になる程の完成度である。

今何をしているの?

平成22年5月18日
今何をしているの?

140文字の「ツィッター」がどんどん広がっている。「今、何をしているの?」というコミュニケーションの新しい手段が人気である。気楽に参加できるツー
ルになっているようだ。ソフトバンクの孫正義社長が昨年12月にツィッターのアカウントを作った。その理由が面白い。ソフトバンクは今年30周年を迎える。次の30年のビジョンを作ろうというので、社員だけでなく、広く一般の人々の意見を聞いてみたいと考えて作ったという。
私の会社は来年創業15周年記念日を迎える。今迄数多くの方々から励ましの言葉やご叱正の言葉をいただいてきたが、殆どが手紙や電話やメールで頂戴した。オープンの批判でなく、クローズドなものであった。「ツィッター」を若し取り入れると、すべてがオープンになってくる。その点を考えると安易にツィッターのアカウントを作ることにためらいを感じていた。
私はこのブログを書き始めて早や4年半が経過した。時々質問やご批判をいただくこともある。突然思いもかけない人からブログを読んでいるよと声をかけていただく。誠に有難い。友情についホロリとなることもしばしばである。
ただこれからの時代を考えると、「ツィッター」をはじめとして、動画サイトユーチューブ」やもっと新しいツールが次々と出てきることと思われる。携帯を中心に、40文字程度のショートショートが出てきてもおかしくはない。それを思うと「ツィッター」を始める時が来たのかもしれない。第15期のスタートは7月1日である。それまでによく吟味してみようと思う。


井上礼之ダイキン会長

平成22年5月17日
井上礼之ダイキン会長

経済同友会の総会後の講演会に旧知のダイキン工業の井上礼之会長を呼び、久しぶりに話を聞いた。メガリージョン構想である。50kmから200km圏の広域連携である。世界でも20ヶ所以上存在し、活性化しているメガリージョンの実情をシリコンバレーとシンガポールを例にとり、詳細に分析された。激変の時代には国家単位の考え方からメガリージョン単位のより身軽な、より特化できる、より先進的な考え方へ変身した方が活性化しやすいとのことである。
シンガポールは東京23区程の面積を持つ都市国家で、かつては「ルックイースト」と言って日本に学べを合言葉に急激な発展をしてきたが、今や人、物、金、情報を集めて、アジアのハブ物流基地、ハブ交流センターとしての地位を固めつつある。国家というより企業と言った方がよい程に活性化している。例えば物流では、空港にはフリーゾーンがあり規制はない。港湾は24時間365日入出港可能であり、インターネット(トレードネット)で、入出港前に通関手続を完了することが出来る。国際会議、国際見本市の開催は最も多く、ホテル、観光、警備、通訳、商業などへの好影響ははかり知れない。海外から呼び込んだ企業や人材が新しい産業を生み、新しい企業を生み、新しい富や雇用を創造していくことを狙っている。バイオ、医療、環境などの新分野の高度頭脳2千人の受入れを表明し、シンガポール国籍を与えることを条件に世界中へアピールしている。
シリコンバレーはIT先端企業の集積で有名である。スタンフォード大学を中心とした産官学連携がうまくいっており、アップル、インテル、ヤフー、グーグルをはじめ数多くの最先端企業を生み出してきた。ベンチャーキャピタルの発達も特筆すべき点であろう。
 さて日本や大阪、福井などの状況はどうかというと規制が多すぎる。外向きでなく内向きの考え方にとらわれすぎていて世界の潮流を見ていない。地域エゴが強すぎる。日本の98空港は多すぎて非効率である。東京一極集中で、他はすべて停滞或いは衰退している。などの問題を指摘された。
 シリコンバレーやシンガポールと比較すると、1、集積度が低い。2、解放性、多様性が乏しい。3、利便性が乏しくて、ユビキタス社会になっていないなど問題点が多い。新しい方向の可能性として1、大学のあり方を変えよ。福井に国際大学を作れ。2、環境モデル地区エコシティを作れ。3、ハブ機能を強化せよ、敦賀港湾整備とフリーゾーン、システム簡素化など。
 大学のあり方は、アジアよりの留学生を受け入れよ。奨学制度を充実させ、地域で支え、育てる道を作ること。学科はバイオ工学、原子力工学、地質学、海洋資源学など特徴を持った国際大学がよいとのことである。
エコシティについては、風光明媚な福井の風土を生かしたり、電力供給県としての原子力発電の電力を利用したり、医療分野での原子力利用による最新鋭技術を生かした医療施設を中心に、滞在型医療を地域に根付かせ、最高水準の技術開発、医療レベルの向上、そして世界中からの患者を向かえるホスピタリティを磨き上げていくなど可能性は大きい。
敦賀港の拡充とハブ港湾への変身は、釜山港やシンガポール港の例を見れば一目瞭然である。敦賀――ウラジオストック――ヨーロッパへの物流の可能性は高い。通関手続き省略がどの程度できるか?特区申請が必要であろう。井上会長の話に触発され、感動したので、ここに記し、感謝したい。井上礼之会長は同志社大学経済学部の先輩で、学内でも目立つ存在であった。三谷商事とダイキン工業との関係が出来て、山田稔社長(前会長)から井上礼之社長への社長交代の祝賀会に大阪へ招かれた思い出は忘れられない。井上会長は、それまでは化学部門をずっと担当されており、社長就任までは直接の面識はなかった。その後経済同友会の会合でしばしばお会いした。蓼科別荘へ夫妻で招待をいただいたことも私の一生の思い出である。

ゴールデンウィーク

平成22年5月14日
ゴールデンウィーク

晴天に恵まれたゴールデンウィークであった。北陸高速道は新緑がやわらかな薄い緑色に輝き、ドライブをしていてもついつい桃源境にいるような幸福感を味わえた。北陸3県の1日当りの交通量は、4万6千8百台(中日本高速道路発表)と昨年比4%の増加となった。それでも渋滞は殆どなく、サービスエリアは快適なドライブを楽しむ客であふれていた。例によって定点観測を行っているが、SAの売店やレストランは通常の倍近いお客で大賑い。店員は朝早くから夜遅くまで体がもたないと嬉しい悲鳴を上げていた。最初から最後まで今年のように晴天が続いたゴールデンウィークはほぼ50年ぶりとのことである。
福井県内の観光地は恐竜博物館、永平寺、東尋坊、芦原温泉、芝政、レインボーライン、三方五湖など、どこへ行っても県外ナンバーの車が数多く見られ、高速道路の割引サービスの影響により、安、近、短の観光から、遠くへ行きたいという人間本来の観光志向になりつつあるのを感じた。レインボーラインの有料道路も半額割引で大繁昌であった。
福井の山々の新緑があまりに見事なので、ガソリンが少し値上りしているのを忘れて、つい車を走らせてしまった。東へ走れば勝山や大野、南へ走れば敦賀から美浜、三方五湖、若狭、小浜、西へ行けば越前海岸、北へ行けば北潟湖畔や坂井丘陵、すべてが緑の山々や川、湖、海岸線を満喫できる。至福の時であり、最高のロケーションである。
ゴールデンウィークの5日間、マンション販売チーム全員が出勤してくれた。5日間の集客は約50組。いつもと違ったのは、里帰り客の来場と、転勤を予想してのお客の来場が多かったことだ。ここでもゴールデンウィーク中の人々の移動が活発であったことが実感できた。

絶対現在

平成22年5月13日
絶対現在

堺屋太一氏の小説『世界を創った男、チンギス・ハン』の中で、戦争用語の「絶対現在」について詳細な記載があった。私の考えにうり二つなので、ここに記しておくこととする。
「絶対現在」とは戦局が最悪になった時、即ち絶対絶命に追い込まれた時の戦略を示す言葉である。そんな時にはどうすべきかを教える言葉である。それは現在にすべてを集中し、過去も将来も全く視野に入れず、全勢力、全知全能をすべてこの戦いに集中せよという事である。
この現状認識が、忍耐を生み、倹約を生み、慎重かつ注意深い情報分析や観察となっていくが、この最後の瞬間には、狂暴ともいえるまでの決断力と実行力を与えてくれるのである。「絶対現在」という認識は、私達が今すぐに行うべきもののように思えてならない。100年に1度の大変といわれているが、まだまだ危機意識が希薄である。「絶対現在」こそが私達のとるべき認識であり、この戦略こそが私達を救ってくれる唯一の道である。
広大な蒙古高原の片隅で生まれたチンギス・ハンが、逆境の数々を、家族や友人達それも同族でない人々の信頼を次々とかちとって踏破していく様子は、誠に示唆に富んだものである。逆境こそが人を育てる。艱難辛苦こそが人を育てる。この言葉は至言である。真理である。
「絶対現在」を認識し、この戦略によって、この閉塞状態からブレークスルーしなければならない。全力を現在に集中することが求められる。持っているすべてのもの、知力、体力、金力、あらゆるまわりのものすべてを動員し、消耗戦を狂気と思える程の決断力を発揮して、中央突破していくのである。死を怖れる決断には、鬼神もこれを避るという。


福井北ロータリークラブ地区協議会

平成22年5月11
福井北ロータリークラブ地区協議会

福井市で5月8日(土)の早朝から丸一日、国際ロータリー第2650地区の次年度会長幹事各委員長を集めて研修会が開催された。この地区は京都府、滋賀県、奈良県、福井県の全域を包括する世界でも指折りの歴史と伝統を持っている。福井市で開催されるのは丁度12年ぶりである。参加者は1,040名を数え、各地からバスやJRで続々と集まってきて、熱心な研修会となった。
午前中の分科会では十ヶ所に分かれて、それぞれの任務に応じた研修が2時間余りに亘って行われた。午後の全体会議は全員がフェニックスプラザの大ホールで行われ、今年7月よりスタートする2010〜2011年度のガバナー栗田幸雄氏から国際ロータリーのテーマ「地域を育み、大陸をつなぐ」の説明、そして地区スローガンは真のロータリアンを目指して「ロータリーを良く学び、変化を知り、忘れたことを思い出そう」と発表。地区運営方針、地区目標の説明が行われた。
また第2660地区のパストガバナー戸田孝(84歳)の「無償の行為がロータリーの素晴らしさ」の基調講演があった。その講演録23ページを、お年を感じさせない程、熱く、早口で約一時間余り話をされた。その内容の濃さ、そして受けた感動の大きさに参加者は涙を禁じえなかった。
命がけて守ったロータリーの灯火、森繁久弥さんの友人の赤飯の話、自殺する若者への励ましの話、京大総長平沢興さんの孔子の言葉「それ恕か」(己の欲せざる所は人に施す勿れ)、(母が子を慈しむ心をいう)、ロータリアンである幸福を感謝しようという平沢さんの話、ポリオプラスに命をかけた山田ツネさん、長生きの秘訣は利他の心で生きること。また続いて第2680地区のポストガバナー田中毅さんなは「ロータリーの経営哲学」についての講演があった。100年余りのロータリークラブの歴史を紐解き、その歴史に流れる先人達の残された実績、苦難の数々を乗り越えてきた情熱、そして我々の果たすべき役割について大いに語っていただいた。約1時間余りの基調講演から多くの示唆をいただいた。ロータリークラブの素晴らしさをしみじみ味わった一日となった。

光陰

平成22年4月20日
光陰

月日のたつのが早い。年月の流れるのが早い。それを「光陰矢の如し」という。弓で射た矢が、目にもとまらぬ早さで飛んでいくように、一日があっという間に過ぎてしまう。年をとると「今日は何日だったか、何曜日だったか」を忘れてしまうといわれていたが、私も時々それを自覚し、愕然となる。
春先は転勤や退職が多い。私の事務所もその挨拶で3月から4月はお客が多くなる。60歳で定年退職となりましたという人もいれば、65歳で定年の人もいる。私が大学を出て37年間勤めた会社をやめたのは59歳の時であった。そして半年後に自分の小さな企業を立ち上げた。59歳からの出発である。それから14年が経過した。その間の私の失敗談を書いてくれた鶴蒔靖夫氏の「夢への始動」という小冊子がある。59歳からの再出発の人生を書いたものである。鶴蒔さんは「これは定年退職者への応援歌である」という。
退職の挨拶にこられた方に、私は私の思いをこめて、この一冊を謹呈することにしている。人生捨てたものじゃない。定年後の人生こそ、バラ色の可能性が多いのだと説いている。定年後の人生こそ、失敗の可能性が低く、ビジネスのチャンスなのだと説いている。
高齢化社会を迎えて、高齢者といわれる人々が年々増え続けている。60歳や65歳で仕事を止めてしまう社会となると日本全体が沈没してしまう。死ぬ日まで元気に、他の人々の為に、働ける日々が「光陰」である。それが人生最大の目的である。そしてその生活こそが人間の幸福への道なのである。「光陰矢の如し」を悲しむ必要はない。生き生きと共に生きる生活こそが「光陰」そのものである。
さあもう一度今日から歩き始めよう。創業15周年まで、あと1年余りと近付いてきた。

ものの見方

平成22年4月19日
ものの見方

比較経済学が私の専門であるが、年と共に、日本の真の姿を究めたいという、身の程を知らぬ、大きな目標が気になるようになってきた。いわゆる「日本学」という前代未聞の領域が、私を誘惑するのである。日本人はどこからきたか、日本語の起源、日本人の知恵、日本文化の粋、日本の仏教、神仏習合、三十一文字、俳諧文化などなど。「日本」と表題のついた本をデータベース化すると、その数は大変大きなものになってしまう。そして「日本」の意味が、その本のテーマ、内容等の諸条件によって大きく変ってしまうことの分析も必要である。要は「日本学」とは未完の分野であり、その範囲は広大なのである。
白川静博士が70歳を過ぎてから生涯の大三部作の執筆にとりかかり、見事に完成され、90歳を過ぎてから文化勲章を受章されたことを思えば、日本学の一分野の一端を担う勇気を絞り出すのもあながち無謀ではあるまい。
日本人の「ものの見方」には、大きな特徴がある。まず第一の特徴は微視的で、細部にこだわるのである。この「見方」が、日本民族の集中力を生み、勤勉さを期せずして作り上げてきたのであろうか。外国人の巨視的で、全体をまず把えようとする見方とは正反対である。二つ目は自然との関係である。自然に溶け込む見方が強い。自然がまるで母のふところのように、自然に甘え、自然と共生する見方である。外国人の見る自然は克服すべきもの、戦う相手であるという見方と大きく異なっている。三つ目は日本人の島国根性といわれるもので、外国人のように巨大な大陸に住む人々の見方とは全く違った環境から生まれてくる見方である。個人の視点よりも、全体の見方を優先するのである。これは個人の意見を主張すること急な外国人とは違ってくる。その見方の根源は、日本人は法律よりも宗教的なものに拠っているが、外国人は法律や契約にこだわっている。感情的、叙情的な日本の見方に対して、外国は理知的、理論的な見方をする。
こんなに異なった見方をする日本人である。世界の端にいて、世界史の中では、あまり目立たなかった日本が、20世紀初頭には、列強の一員となり、軍部の独走によって周辺諸国に多大な被害を与えてしまった。これは日本人らしからぬ誤謬である。そして20世紀の後半は奇跡の復興を遂げた。この段階では日本人のものの見方が、日本人本来のものに戻ってきたのである。そして21世紀となった。私達はこれから世界のために何ができるのであろうか。その為にも、もう一度原点に帰って「日本」を深く掘り下げてみたいと思っている。

美濃街道

平成22年4月16日
美濃街道

福井から大野へ、そして岐阜県境を越えて、郡上八幡から美濃へ抜ける国道158号線は、かつて美濃街道と呼ばれ、多くの旅人がこの道を歩いた。いまその美濃街道は、中部縦貫自動車道に変ろうとしている。目下工事が進行中である。山国の大野市民や郡上八幡市民、そして美濃市民にとっても、この縦貫道の全線開通は待ち望んでいる最たるものであるが、はかばかしい予算がつかない。だからという訳でもなかろうが、大野の岡田市長と大野城築城430年祭のイベントの話をしていたら、その日に西川福井県知事と岐阜県知事がその件で大野市内で会談中とのことである。その夜のテレビのニュースで更に確認できたが、広域の連携プレーは誠に結構なことである。一日も早く全面開通をして、沿道住民や企業の人々を喜ばせる政治を期待したい。
この美濃街道を通して結ばれている福井市、大野市、郡上八幡市、美濃市の四市がお互いの交流を深め、交歓をはかる為の協定を結ぼうかと考えているとの岡田市長の発案に大賛成の意を表わし、微力ながら協力を厭わないと申し上げた。岐阜市に約十年赴任し、岐阜青年会議所のメンバーであったので、当時の知人をたどっていけば種々とつながりが出来てくることと思う。また当時の販売店も残っている。交流交歓の手始めに、430年祭等のイベントに招待し出席してもらおうというのである。トップ同志が仲良くなれば必ず市民レベルの交流が始まることと思われる。幕末の大野藩主土井利忠公は賢君として有名であるが、全国に37の店舗をもつ「大野屋」を作り上げたことでも知られている。約150年前に37店舗の全国展開を行ったのである。
平成大野屋が大野市で第三セクターとして発足した。しかし未だに店舗は大野本店だけである。一日も早く、福井支店を開設されるよう勧誘しているが、未だ確約がない。福井支店に続いて郡上八幡店、美濃店や名古屋、大阪、京都、東京などに次々と大野屋を出店していただきたいと願っている。観光客を待っているのでなく、こちらから出かけていって連れて帰るくらいの覚悟でなくては人は集まらない。
大野の人々の純朴さにふれる一日となった。大野桜守の会の高松会長を訪問し、千年桜の苗木を30本分けてもらってきたのである。今度の休日に是非植えたいと今から楽しみにしている。

三寒四温

平成22年4月15日
三寒四温

「春の嵐」とよくいわれるが、「春一番」を初めとして、低気圧の影響で春はよく荒れる。それと同時に「春の陽気」を感じさせる穏やかな「春のそよ風」を楽しむことが出来る。気温の方も「三寒四温」といわれるように寒暖の差が激しいという特徴があるのが春である。真冬に近い寒い日の次には、20℃の温かい日がある。一日の内でも、朝晩は冷えることが多いが、日中の晴れた日になると思わず上衣を脱ぎたくなる。春は冬眠から目を覚ます熊のように、私達の眠っていた感覚を呼び覚ますかのように、私達を激しく揺さぶるのである。
それにしても今年の春の気候の変化は激しい。あれ程騒がれた新型の風邪に、殆どの人々が、かかってしまった。しかし結果は人間の方が勝ったようである。鳥ウィルスも、豚ウィルスも現在のところは、私達人類を窮地に追いやるまでには至らなかった。安心は出来ないものの、峠は越えたように思われる。「三寒四温」の気温の大きな変動の中で、体調を維持するのは大変であるが、自分の命を守る為と思えば、衣服を重ねたり、コートを着たり、脱いだりと忙しく対応するのも楽しみである。
 春の女性は美しい。重苦しい冬物の衣裳から、薄手の明るい春物の装いに変ると、そのとたんに女性は美しくなる。衣類業界が苦しいといわれているが、この春の商戦をいかに上手に戦っていくかで、将来が決まってしまう。折角の知恵を出し、お客の視線をとらえる春の明るさ、色調の温かさでショーウィンドウを飾ってもらいたいものである。

自殺者3万人超の国

平成22年4月8日
自殺者3万人超の国

食料が足りないのではない。お金がないわけではない。でも大切な何かがない国。日本。そう、日本では毎年3万人を越える人達が自ら死を選んでいる。何かが間違っているのである。
私は高校へ入学してすぐ友の自殺に出遭った。彼は中学生の短距離記録の保持者であった。彼がリレーのアンカーになると、何人も先を走る選手をごぼう抜きに抜き去って優勝する。私達のヒーローであった。その彼がある県外の高校のスカウトにより他の高校へ去っていった。そして、約半年後彼の自殺を聞いた。ご両親から涙の報告を聞いた。なぜ私達と同じ高校へと強く誘わなかったのかと悔まれた。お母さんの言葉「あの子が注文した文学全集が毎月1冊ずつ届くのがつらい」。初恋も、自信喪失も、孤独も、理由を捜せばいくらでもあろう。しかし残された者の悲しみ、苦しみを考えれば、死を選ぶことはなかなかできないはずである。
東尋坊は自殺の名所である。ここへ死を選んでくる自殺願望者が多い。この人達を瀬戸際で助っている人がいる。数知れない程の人達を助っている地元の人がいる。個人である。グループではない。でもこの人の行為は「神や仏の行為」である。
「グリーフサポート」という言葉を聞いた。これは自殺した人の家族を支援する人のことだという。かつては仏教寺院の僧侶や神社の神官が相談にのっていたことが今では医師やボランティアの人々の支援にかわってきている。そしてその自殺者の増加と共に、そのニーズがどんどん増してきている。毎日新聞の記事で、同志社大学の四回生の女性が、肉身の自殺を契機に、悲嘆の海から立ち上り、「グリーフサポート」ビジネスを立ち上げたいとの報道に接し、感激した。
若いということは何ものにも替え難い「すばらしい力」である。世の為、人の為に、困難に向って、挑戦しようというその姿に拍手を贈りたい。

ジャパンモデル

平成22年4月1日
ジャパンモデル

日本の人口構成は先進国の中でもダントツの超老人国になりつつある。2050年には70歳以上の老人の人口が55%を占めるという予測が出されている。この大問題をどう解決し、繁栄を保っていくのかを世界中が注視している。いわゆる「ジャパンモデル」をどう作るかである。その「ジャパンモデル」がこれからの世界の指標となるのである。日本に課せられた大きなテーマである。人口問題特に老人比率の急激な上昇は、先進国だけの問題ではない。中国も早晩この問題で苦しむのは目に見えている。それだけに世界から注目されているのである。
 ジャパンモデルは人口問題、老齢者対策だけではない。今世紀の最重要テーマとされる環境問題、省エネ対策でもジャパンモデルを要求されている。日本が世界でもトップクラスの省エネ効率の追究に熱心であり、特に産業分野では優等生だという評価を得ているからである。日本メーカーの省エネ技術の導入に熱心なのは先進国だけでなく、世界からの提携の申込がある状態である。例えば太陽光熱発電や、原子力発電所の建設、運営、管理技術や太陽電池開発技術、省エネ車開発技術など広範囲に亘る先端技術をどのように活用して、地球温暖化問題の解決方法を確立するのがよいのか。その方法がジャパンモデルとして期待されているのである。
 資源を持たない国だからこそ、なけなしの知恵を絞り、汗水垂らして勤勉に働き続ける以外に生き残る道はない。その生き残るための唯一の道がジャパンモデルとなる。これからのジャパンモデルを想定してみよう。
1. 子供が少ないので、子供を大切にする社会への転換
2. 高齢者が増えるから、高齢者が働き易い社会への転換
3. 結婚しない人が増えるので「お1人様」を認める社会への転換

新しい問題の発生は、新しいチャンスを生む。新しい成功者の出現が約束されているのである。この年度初めの時期に当り、新年度が明るい年になるよう心から祈りたい。

黒まぐろ讃歌

平成22年3月30日
黒まぐろ讃歌

国際会議で、地中海の黒まぐろの採取禁止の提案がモナコからあった。最初は国際的な採取の全面禁止が通る可能性があるとのことで大変心配をしていた。ところが決議で過半数の賛同が得られず、禁漁案は否決された。
私達日本人の「まぐろ好き」は、世界でも群を抜いて高く、特に回転ずしが流行してから消費量が増えてきた。禁漁提案が次々と出されるようになってくると、パニックになる危険性がある。今話題の黒まぐろについて考えてみることにした。
まず日本人は老いも若きも、子供達でさえ「まぐろ」大好きである。私の家は長男の家と次男の家、そして私達夫婦の家と母の家と四家族が別々に暮らしているが、どの家も「まぐろ」の刺身が大好きである。アメリカ人の牛肉と同じように、私達日本人は殆ど毎日まぐろを食べている。重要な蛋白源であるのは、当然である。私達は魚類を常食し、牛肉などを食べない習慣を、江戸時代末期まで続けてきた。私の祖母は、生涯牛肉を食べなかったし、祖父もすき焼きの肉を食べずに、肉を外したものを食べていた。親戚の家では、すき焼きでなく、肉のかわりに魚を入れた「おき好き」を食べていた。最近まで、牛肉を食べるのはタブーとされていたのである。牛肉を扱う肉屋と同じように、鳥専門の鳥肉屋があり、大いに繁昌していたのを覚えている。
地中海の黒まぐろの全面禁止は否決されたが、海洋資源に対する他民族からの干渉は、今後も続くと考えられる。鯨と同じように、黒まぐろもいずれ規制の対象になると予想しておいた方がよい。アメリカ人が牛を食べ、ヨーロッパ人が羊を食べ、中国人が豚を食べるように、私達は魚を食べてきた。現在の日本ではあらゆる食材が揃っている。その中で「まぐろ」の味は、私達にとっては最高位のものである。魚類を食べる習慣が世界中に広がりつつあるが、日本の漁業の現状は誠に厳しいことを知る政治家は少ない。農業も長い間放置されてきたが、現在の漁業や林業は、更に厳しいことを指摘しておきたい。一般の公務員やサラリーマンとの年収の差は恐ろしい程大きくなっている。政治の貧困を思わずにはいられない。

どこに植えよう千年桜

平成22年3月29日
どこに植えよう千年桜

私は桜の木、桜の花と桜なら何でも好きである。雪国に育ったせいか、雪国にいるせいか、「春を待つ心のトキメキ」に一番ふさわしいのが桜である。そして豪華な花をつけるソメイヨシノの生育の早さも魅力の一つである。5年か10年でかなりの成木に育ち、植栽してすぐに楽しむことが出来るからである。
大野市の亀山公園は桜の名所であるが、「おおの桜守の会」がこの公園を母体に、大野で生まれた千年桜、エドヒガンザクラを全国に普及させようと種から育成し、桜の苗木を配付するという。
エドヒガンザクラは成長すると、約15mの高さになる。直径は約60cm。ソメイヨシノザクラの寿命が50年余りであるのに比較すると、約千年という長寿命が魅力の第一である。
桜守の会の高松誠会長によると、2008年からのプロジェクトで、1千本の苗木を育てて、希望者に配付するという。桜の苗木は、春の植木市では人気者である。ただエドヒガンザクラは花を楽しむまでに、約10年を要するとのこと。せっかちな人には不向きであるが、千年の寿命を思えば有難いといわねばなるまい。彼岸桜のその名の通り、春分の頃に開花するという。大野で生まれたこの桜を各地の桜の愛好家が大切に育ててくれることを祈りたい。
全国に桜の古木は多い。山里や町はずれの大木が、長年に亘って、数多くの桜ファンを魅了している。それぞれの桜の大木を眺めながら、春の催しが行われている。今年の福井は足羽山の護岸整備が完成し、4月1日より18日まで春まつりが挙行される。
足羽山に植えるのもよし、また足羽川のどこかに植えるのもよし、いっそ私の住むマンションの庭に植えようかと考えている。敷地1,500坪のどこにどれだけ植えられそうかガーデニングクラブの皆さんと話し合って決めようと思う。


人間の本能

平成22年3月18日
人間の本能

食欲、性欲、金欲、権力欲、名誉欲、征服欲などいろんな欲望が多いのが、人間である。そしてそれ等は本能的なものであり、その本能を私達は理性や知性でコントロールしているにすぎない。人間が本来持っている本能の中に、もう一つの欲があることに気付いている人は少ない。それは「我欲」というか、一言で表現するのが難しいが、「自慢欲」というか、自分の国、自分の地域、自分の会社、自分の家族、自分のものなどに対する執着心である。それが一番すばらしいと考える本能がある。
ミシガン大学で世界中から集まってきている学生達に、ある教授が一人ずつ自国の食事の自慢話をさせた。アフリカの学生も、北欧の学生も、中国も、インドもみな自国の料理が最高だという。その夜の学生寮のミーティングルームまでその議論は延々と続いたのである。誰一人自説を曲げようとはしない。私はフランス料理、中華料理と比較して日本料理の特長を述べ、日本料理のよさを冷静に説明したつもりであるが、みんなの主張は同じである。自国の料理が世界一おいしいというのである。
生まれてはじめて見たものを、自分の母親だと思う本能を持っているのは鳥だといわれている。卵から生まれる鳥の本能がそうさせるのであろうが、私達人間も、幼い頃に刷り込まれた経験に、大きな影響を受けるようである。幼児体験といわれる「三つ児の魂、百までも」ということになる。自分のまわりのものを、それを最高、最適と思うようになっていくのである。「ナルシスト」もその一つの典型といえるであろう。
民族学に「エスノセントリズム」という言葉があるという。元東大教授の服部四郎氏は、モンゴル語、ツングース語、樺太アイヌ語など少数民族の言葉を生涯研究されていた。著作「一言語学者の随想」を司馬遼太郎氏が読んで、講演の中で使っている。この「エスノセントリズム」が少数民族を守り、本能的に固有の民族、固有の言語、固有の文化を守っているのだという。それを本能的に命がけで守ることに誇りを持つのだという。本能的な
「使命感」であろうか。地域を守るために、ナルシストになってはいけないが、自分や地域、国家、民族に対する誇りを失いたくないものである。

ユーチューブ

平成22年3月15日
ユーチューブ
インターネットの動画共有サイトに「ユーチューブ」がある。動画であれば、誰でも、無料で投稿し、掲載することが出来る。2005年2月のユーチューブの創業時は、苦難の連続であった。訴訟や、掲載とりやめ要求が相次ぎ、あわや消滅かと思われたが、ベンチャーキャピタル会社が大金を投じて出資者に加わり、あれよあれよという間に大企業になってしまった。NBCユニバーサルは最大の敵と思われていたが、一転して提携を発表し、自社動画の配信をはじめた。
そして2006年10月グーグルが、約2,000億円で「ユーチューブ」を買収した。株式交換の方法がとられた。2006年にはCBSと提携したが、2007年2月にはキャンセルし、3月にはBBCと提携、BBSチャンネルを立ち上げた。任天堂のゲーム機wiiのCMを流し、ナイキシューズは日本向にCMを流している。
福井県は、このユーチューブを使って、県内の観光名所を動画と英語で紹介し、外国人観光客の誘致に大きな期待をかけることになった。「福井は恐竜王国です」ということで、恐竜博物館や、永平寺、越前ガニなど県内各地の観光施設や名産品を映像にし、英語のナレーションやテロップを使って使ったもの。テーマは「福井の魅力」というタイトルになっている。
私はいつも「日本の魅力」や「福井の魅力」をこのブログで主張し続けているが、「ユーチューブ」についても、既に10年程前に、同様のアイデアで特許申請をしたことがあった。残念ながら、特許庁のOKをもらえていないが、「ユーチューブ」の繁栄を見る時、その「茨の道」を振り返りつつ、感無量である。「失敗は成功の元」「成功する人は、何度失敗しても途中であきらめず、成功するまでやり続ける人をいう」との言葉の正しさに気付かされる。私達も過去は振り返らず、目の前にこの「ユーチューブ」を、福井県の観光営業部に倣って、私達の動画をアップすることとしよう。来月から配信をはじめたい。新しいビジネスチャンスの到来を期すと共に、社内の開発部員達や、デザイナー達の発奮を促し、新技術、新システムの誕生を目指していきたい。

ラムサール条約

平成22年3月9日
ラムサール条約

福井県の若狭町(森下町長)と美浜町(山口町長)の間にまたがる三方五湖は、日本有数のリアス式海岸と相俟って福井県観光の白眉となっている。ラムサール条約登録の湿地である。三方五湖は、遊覧船が就航しており、五つの湖が地下や水路でつながっている。汽水湖が3つ、海水湖が2つであり、それぞれの湖に固有の生物がいる。昨年から東京大学の農学部の農学生命科学研究科保全生態研究室が、福井県と共同で、自然再生に向け、生物多様性保護の研究を進めているという。
三方五湖は、水質の違い、水深の違いから湖の色が変化するので、「五色の湖」と呼ばれている。晴れた日ドライブして梅丈岳から見下ろすと空の青を写して見事な景観を楽しむことができる。久々子湖、日向湖、菅湖、水月湖、三方湖があり、近くには複雑な地形の常神半島が若狭湾にぐっとつれられて、毎年敦賀の杉津の旅館で過した思い出が忘れられず、自分の息子達が大きくなった時には、毎夏久々子の民宿での海水浴や舟つりを楽しんだ。その息子達がもう40歳をとうに越え、孫達をつれていく時代になった。まさに月日のたつ早さには感無量である。久々子の民宿の楽しみはやはり生きのいい刺身や鯛の塩焼き、かれいの塩焼きである。自分達が釣り上げたキスを焼いてもらって食べるのも子供達にとっては未経験のことである。思い出をつくるのに、最も好都合なイベントといえよう。
ラムサール条約で、三方五湖は、生物多様性を保護する湿地としての指定を受けた。地球温暖化の影響によって種の死滅が大きな問題となりつつある。このまま放置するとどれ程の種が地上から消えていくのであろうか。その為に私達がやるべき事は、一体何なのであろうか。何かをやらねばならない事はよくわかる。何をすればよいのかも世界の趨勢を考えればわからないことはない。こんな厳しい環境の中で、生物の種を多少とも保全し、多様性が失われることのないよう研究に努力していっていただきたいものである。

人を魅了するもの

平成22年3月5日
人を魅了するもの

人を引きつける力には、どんなものがあるのだろうか。「お金」という現代人は多い。「若さ」だという老人は多い。「セックス」という人も多い。昔から飲む、打つ、買うと言って、男の道楽はこの三つに極まっていた。「飲む」というのは飲食特にアルコール等におぼれることである。「打つ」とは博打、いわゆる花札や投機などに夢中になること。「買う」とは昔の買春、いまでいう有料の自由恋愛であろうか。
私達の青春時代は何もない時代であった。すべての物資が不足していたので、ものに対する欲望が非常に強かったように思う。その不足しているものを一つ一つ手に入れることで満足し、また次の目標に向って努力していったのである。物質へのこだわりが強かったのである。そして戦争に対する厭戦気分が濃く、平和への希求が強かった。憲法第9条を天からの授かりものとして、欣喜雀躍したものである。
現代の世界においては飢餓の問題が大きい。先進国の飽食と反対に、餓死する子供が多いのは、誠に情けないことである。またロータリークラブの活動で、ポリオプラスの運動を続けているが、世界から子供の疫病を根絶したいものである。毎年アジアやアフリカへ医師団を派遣し、ワクチン投与を数年間も実行していただいている。
「社会的地位」や「名誉、名声」を気にする人も多い。この欲は加齢と共に強くなるようである。権力の座につくと、それを手放すことは、なかなか出来ないようであるが、未来永劫それを持ち続けることなどムリである。欲望はほどほどにしたいもの。
「健康長寿」は新しいタイプの欲望というより、人間の永遠の理想としてきたテーマである。平均寿命の伸びと共に、近年益々中高年の人々の関心事となってきた。「命」を大切にすることは、自分だけでなく、他人の命を大切にし、命の尊さを教えることも忘れないでほしいものである。
「安心、安全」も人を引きつけるようになってきたテーマである。福井は凶悪犯罪の発生率が少ないといわれている。安心して住めるということは人生にとってとても有難いことといわねばならない。
「愛」と「美」は人間にとって最も魅力的なテーマである。私達はこの二つを追い求めて旅を続けているのではなかろうか。ただ誤解をとくために、あえて一言しておきない。美しいものは形だけではない。心が大切なのだ。笑顔の美しい人を私は信ずることに決めている。


頑張っている人

平成22年3月4日
頑張っている人

相変わらず、どこへ行っても、景気が悪いという話ばかりである。お客が来ない、来ても買っていかないなど売上不振の実例を多く聞かされる。3月危機や2番底をいう人もいる。そんな中でとても気になることがあった。「頑張っている人」のことである。この不景気の中で「頑張っている人」は少ない。殆どの経営者の方針は、縮小均衡であったり、コスト削減であったり、過剰人員・過剰設備のカットである。輸出が好調で、忙しいという企業があるが、稀なケースである。殆どはじっと嵐の過ぎ去るのを耐えている人が多い。
「頑張っている人」は、数は少ないが、確かに存在している。在庫投資をして需要回復に備えている人、不景気の時こそ設備の更新のチャンスと考え、実行した人、新規分野へ進出した人などなど。地域経済を支え、雇用を守って努力を続けている人は、多くはないが、確かに存在する。この貴重な存在であるはずの少数の人々が、苦しんでいるのが問題なのである。一番の大問題が「金融がまわらない」「ニューマネーが出てこない」ということである。企業にとって「金融は血液である」。これがまわらないことには企業を守ることは難しくなる。デフレスパイラルが心配される中で、必死に健闘している「頑張っている人」を助うことを真剣に考えなければならない。
政府系の金融機関、公的資金が唯一の頼りであるが、その他に何か手はないのか真剣に考えている。建設業や不動産業界への融資が冷え込んでいる。住宅ローンの審査も厳しい状態が続き、ローンの審査が通らない人が増えてきている。高齢者は住宅ローンの申込資格がない。自己の住宅を処分してマンションを買いたい人がいても、その住宅が売れない。その住宅を担保に資金提供をするシステムを確立しようとする動きはあるが、まだ実現していない。若い人達への所得保証制度、高齢者の住宅売却を前提とする保証制度の実現に向けて、いい知恵がないものだろうかと、無い知恵をしぼる努力を続けている。

越のくに

平成22年3月3日
越のくに

「み雪ふる」と枕言葉のつく「越のくに」は越前、加賀、能登、越中、越後と、確かに雪の多い地方である。大和や山城とは高い山嶺で遮られ、都人からみれば遠い国、遥かなる国であった。雪がふるということは、北陸では雪が積もることであり、厳しい自然環境が、北陸の人々のたくましい根性を育て上げたと言っても過言ではあるまい。北陸の雪は重い。この重い雪を放置しておくと、小さな地震でも家が倒壊する。そこで積雪が1メートルを超えると、屋根雪おろしがあちこちで始まる。老人だけの家では、「屋根雪おろし」の人を頼む必要がある。
自然環境が厳しければ厳しいほど、人々は強くなり、たくましくなり、育っていく。ボランティア活動や、弱者への思いやり、相互扶助の精神がおのずと育まれていく。自然条件がよくないので、人々は、地域をよくする為に、努力し、改善への情熱を持ち続けるのである。自然の猛威と闘う中で、海や山、川の幸を発見し、食生活を豊かな、稔りあるものにかえていった。
そして時代が大きく動いた時、例えば継体天皇の御代や戦国時代或いは明治維新前後、そして敗戦後、日本が混乱し、一寸光が見えない時代の変革期に、越のくにから救世主が出てきたのである。それは継体天皇をかついだ人々であり、朝倉三代から柴田勝家、結城秀康を支えた人々、松平春獄とその家臣団、そして終戦後の繊維王国を築いた人々である。これ等の人々に共通する思想が、時代を変える情熱をともなった、「利他の心」「ボランティア精神」であり、「粘り強い根性」に裏打ちされていた。
最近は積雪が少なくなった。地球温暖化の影響であろうか。しかしいまだに北陸人の粘り強さ、根性は失われていない。小学生、中学生の体力、知力ともに福井県は全国トップレベルを維持している。ボランティア活動も常に上位にあり、活発な活動が行われている。住みにくいと思われるが、逆に住み易い県全国一位をずっと続けてきたところである。食べもののおいしいこともよく知られている。この素晴らしい福井県に住める喜びをかみしめ、「利他の心」「粘り強い根性」を忘れず毎日感謝の心で送りたい。



実践という力

平成22年2月25日
実践という力

いくらよいアイデアであっても、実行しなければ、何にもならない。逆に多少問題のある、生半可なアイデアでも、実行してみると、予想以上にうまくいくこともある。すべての物事は、実行前と実行後とでは大きく異なってしまうのである。その「実行する」という行為、作業により、その結果は質を変えるといってもよい。
私は林の中を散歩している例で、この事実を説明することにしている。林の中で立ち止っている私がいる。その時見える景色を記憶しよう。そして一歩踏み出す。その後の景色は、一歩踏み出す前の景色と明らかに違ってみえる。「一歩を踏み出す」という事は「実行」なのである。「実行する」ことにより、変化が起きる。見えなかったものが見えてくる。空理、空論をたたかわせているよりも、まず実行してみることが大切である。一歩を踏み出す勇気、この勇気があるかないかで人生は決まる。
「ど根性」という言葉がある。「強い意志」を持つことである。私はこの「ど根性」は「実践という力」だと思っている。何回失敗しても、またやり直す力、底辺から這い上がっていく力、負けるものかという力、夢をつかむ力、風をおこす力、そんな力が「実践力」なのである。
ある小説家の話の中で一つの例があった。彼の友人の話である。友人は学生時代から優秀で、文才があり、仕事で世界中をとびまわり、引退後は、小説家として数々の名作をかきたいと言っていた。そしてその内容も口頭で説明をしてくれた。すばらしい内容であった。ところが引退していざ小説を書き出してすぐ突然の病いに倒れてしまった。もう小説は書けず遂に一作も残さず逝去したという。私はこの話を聞いて、身につまされた。「実践する力」の偉大さを知ることが出来た。実践することで人は成長する。勿論失敗することも多い。しかし失敗しなければ成長はない。失敗が人を育てるのである。実践する力が明日を切り開いてくれる。
前へ一歩踏み出すと当然そこで考える。考えながら更に一歩前へ出る。この繰り返しの中で、その結果が生まれてくる。時には前へ出ているはずが横へずれることもある。歩きながら補正しているのである。歩きながら考え、考えながら歩く。空理空論でない現実が体験できる。ドキドキ、ワクワク、生き甲斐を胸一杯吸い込んで、今日もまた確かな小さな一歩を踏み出そう。


ユニークなトライアングル型

平成22年2月24日
ユニークなトライアングル型

建物を設計する時に、一番注意すべき点は、地形を生かしつつ太陽と風との整合性を保ち、使い勝手をよくすることである。そして街との調和が望まれる。マンションであれば、なお更注意しなければならない。すばらしい眺望、陽当り、風通しを実現するために、設計者と共に建物の外観を決めるのに何ヶ月も費やした。そして最後に出てきたのがユニークなトライアングル型である。正三角形を真北に頂点を向けて置き、中心から三方に伸びる線を引き、その線の上に居室を並べていった。こうすることにより、真冬に太陽が一番南の方向にずれた時にも全居室に太陽光が届く配慮をした。そしてハイサッシ2.3m高をすべての居室に採用したのである。これで太陽と風を部屋の中に取り込むことに成功した。
この建物の形が、トライアングル型なので、非常にユニークであるので期せずしてランドマークとして認知された。地下の大きな39ヶの基礎免震装置と共に、今でも毎日何組もの来場客が訪れてくれている。
そして集合住宅の特長である「豊かさの共有」を実現できたと自負している。それは単に量の集積によるだけでなく、質的な豊かさを追求したからである。一番の特長は敷地や駐車場の広さだけでなく、建物の内でも、ゆったりとしたパブリックスペースを設けてある。中心部に3基のエレベーターを配し、そのまわりに3ヶの展望室を設けている。住む人に自信と誇り、喜びと幸せを実感していただける癒しの空間である。
玄関へのアプローチには高さ3m、幅18mの滝がある。常時マイナスイオンを作り続け、豊富な植栽、美しい花々と共に自然とと共に暮す喜びを演出した。ガーデンニングクラブを住民で結成し、それぞれが花園を共有しながら交歓の一時を楽しんでいただいている。
各階には日本や地元の有名芸術家の作品を展示し、自宅への行き帰りに心を癒す魅力を用意している。101歳の豊田三郎画伯の油彩画や五島哲陶芸家の陶壁画など、各階毎に力作を展示し、美しいものと共に住む豊かさを演出した。一階のコミュニティルームには演奏会用のグランドピアノを置き、希望すれば誰でも演奏できる。毎月ライブがこの部屋で行われている。トライアングル型のユニークな外観に呼応するように、このマンションはすべてに「ユニークな上質の住い」を追求した。75戸の住宅と2軒の大型店舗に、100台をこえる駐車スペース、豊かな緑の木々の中に、2つの池を配したのである。


水ようかん

平成22年2月23日
水ようかん

夏の定番スイーツに水まんじゅうやフルーツの寒天がある。福井には水ようかんがあり、これは冬のものである。雪の降る日にこたつに入ってよく冷えた「水ようかん」をいただくと、「ああ、福井にいるな」という感慨にひたることができる。熱めの日本茶と一緒にいただくとなお更に味がよくなる。この水ようかんを作っている和菓子店は、福井の中心部だけでも十数軒はある。福井は菓子屋さんの数が日本一だという(人口割)。水ようかんの作り方は、いたって簡単である。材料は餡と砂糖(店によって違う)、寒天、水である。黒砂糖や白砂糖の使い方、寒天の量、煮つめる時間、水の量などによって、味や硬さに微妙な差が出てくる。
お酒のすきな左党は、甘いものを好まないといわれているが、水ようかんの好きな左党は割合多い。それ丈、甘味を押さえたものが多いということであろうか。
福井の水ようかんは和菓子屋さんだけでなく、福井のスーパーでもコンビニでも、冬の定番商品として売られている。全国的には水ようかんは夏のものである。なぜ福井だけが冬の定番スイーツになったのであろうか。誰に尋ねてみても、これはという解答は得られなかったが、作り方の簡単さと味のよさそして安価でありながら、栄養価が高いことから広く普及したのであろうかと推察している。
味は好みがあり、人々は自分の好みの店で買う。自分だけの水ようかんを賞味しているのである。福井の冬の味覚「越前ガニ」や「若狭ガレイ」や「甘えび」だけでなく、かくれたスイーツ「水ようかん」があることを忘れてはなるまい。
私は「おうす」をいただく前に、この「水ようかん」を一切れいただくのが大好きである。これこそ庶民の味である。珍味である。

日本の仏像

平成22年2月18日
日本の仏像 

仏教はインドの北方ヒマラヤ近くで誕生し、東方へ伝えられた。現在では祖地インド、チベット、中国、朝鮮半島、そして南洋諸国をまわってみても誕生から数世紀の頃の繁栄は見られない。日本への仏教伝来として史書に残っているのは、聖徳太子の頃である。それ以前には各地へ漂着した人々から伝えられていたことと思われるが、史書には残っていない。とすると僅か1500年足らずの期間に「仏教」は、日本古来の神道と並ぶ宗教に成長したのである。そして世界中の仏教と日本の仏教とを比較してみると、日本の仏教は圧倒的に優勢であり、その寺院の数、その信仰する仏教徒の数、その建造物のすばらしさ、どの点を取り上げても、日本に並ぶ国はない。特に仏像や仏典の保存はすばらしい。幾多の戦災や大火、地震などを経てなお死守されてきた仏像や仏典は世界遺産のトップに上げられてもよい程である。
写真家で、仏像をとることを職業としている人がいないのは不思議としか思えない。これ程の宝物を世界の人々に示すことにより、「日本人の精神構造」「平和主義」や「博愛」「報恩感謝」「非戦」などの哲学を知らせることが出来る。珍宝は市中の寺々に、小さな観音堂や地蔵堂に、山中の山寺にも数多く存在する。保存状態も数百年、千年を経てもなお光り輝いている。その美術工芸的価値もさることながら、今なお人々の信仰を集めているのはすばらしい。
仏像を尋ねる旅を旅したのは、近くは白洲正子がいる。腕のいい写真家と正子の筆を借りると、日本の至宝「仏像への旅」を完成できそうな気がする。但し幾世代もの人達の協力が必要となる。なぜならば福井県下だけでもお寺の数は1千ヶ寺、その他に路傍の地蔵は数え切れず、山野に並んでいる。その由来、その表情これ等を調べていくと、たちどころに数年がすぎてしまう。一生の仕事ではムリである。組織を作って実行していけば、福井県下の調査を数年で完了することも可能である。福井県がリードし、各市、各町に協力を依頼していけば見込みは十分にある。撮影のマニュアルや文章の手本などを示して、各教育委員会に指導させていけば、成功は間違いない。これこそ「新しい福井県の宝」である。これを世に発表すれば全都道府県はマネをするであろう。そして日本の仏像を、世界人類の宝として世に問えば 、世界中から日本各地へ観光客を誘致するガイド役になってくれることと思われる。

同志社大学おのが会

平成22年2月17日
同志社大学おのが会

同志社に「おのが会」という名の会がある。故小野高治教授のゼミナールの卒業生の会で、56年間続いている。会の名称が「おのが会」になったのは私が卒業した後の1960年代のことと記憶しているが、年代を問わず機会あるごとに、小野先生と奥さんの鈴子様をお招きして、会合を重ねてきた。先生は昭和18年同志社へ入学、兵役等を経て昭和23年経済学部を卒業と同時に、助手として母校に残られ、昭和28年助教授、昭和34年教授、学校法人理事、評議員、名誉教授として私達の指導育成に尽力を賜った。ゼミは昭和28年卒の第1回生を皮切りに、昭和64年(平成元年)の卒業生まで、全37クラス、1,000名に達する「おのが会」の会員の活躍は、誠に目覚しいものがある。
去る昨年末の12月23日、天に召されて85年の生涯を終えられ、2月14日京都にて偲ぶ会が催され、先生との最後の別れに涙した一日となった。全国から150名余の会員参加と、数多くの会員の芳志を集め、小野家の鈴子令室、恵子令嬢、慎一郎令息のご参加をいただき、しめやかな中にも和気藹々の偲ぶ会となった。恵子令嬢は夫君と共に東京から、慎一郎君は任地フィリッピンのマニラからの参加となった。
小野先生の残された業績の中で、私達が最も強く印象づけられていることは、「師弟愛」である。ゼミの学生一人一人に格別の愛情を傾けていただいた。先生の神を信じ、同志社を愛し、教会を大切に思う心は疑うべくもないが、それ以上に私達学生を愛し、その行末を心配して下さったことは、忘れられない思い出となっている。その尊いお姿は、校祖新島襄先生にあまりによく似ていることに今更のごとく驚いている。
在校中に絵を描くことに熱中し、ゼミをさぼった日に、先生が私の下宿を訪れられ、何も言わずに「碁を打とうか」言って無言の指導をいただいた事もあった。岐阜でおのが会を開いたところ、出席者が3人であったが、それなりに印象に残ったこと。先生から突然電話があり、福井へ行くといわれ、一夜歓談したこと。ミシガン大学への留学の是非を相談に行った時、すべてを天に委ねて前へ進めと諭されたこと。人生の節目に、数々の温かい配慮を賜ったことに感謝し、先生のご遺志をついて母校同志社のため、世の為、人の為に残された人生を捧げたい。28年卒の木本勝造先輩の「このまま朽ち果てたくないなあ○○君」の言葉どおり、「無為無策のままに、人生をムダに過すこと」は許されない。先生が作られた二つとない「おのが会」である。更に続けることにより「おのが会」は小野高治先生と共に永遠不滅であるといい続けたい。

豊富なパブリックスペース

平成22年2月10日
豊富なパブリックスペース

「悠久の住い」を都市に演出するには、建物の中に、豊富なパブリックスペースを設けることである。南仏マルセイユの「ユニテーダビタシオン」はこの夢を実現した。貴族の館でなく、庶民の住い、集合住宅の中に「ひろびろ、ゆったり」の癒し空間が作られた。設計はル・コルビュジェである。1930年頃の竣工である。RC造、18F建、メゾネットの337戸の大アパートである。各階、各所にパブリックスペースが作られており、入居者だけでなく、市民も出入でき、楽しめるようになっている。
私が世界各地の分譲マンションを見学して歩いた時、感じたのは、ル・コルビュジェの考えが、忘れ去られてしまっていることである。日本に今作られている分譲マンションと大差のないものになってしまっていた。これは20世紀が、効率追求の時代背景を持っていたせいかも知れない。
精神の安らぎ、癒しを提供するのが住いである以上、マンションのパブリックスペースは、大きく、ゆったり、くつろげる場でなければならない。そこには緑や花、そして絵画、彫刻などの芸術作品を眺めたり、時にはピアノの音色が流れたり、滝の水音が聞こえてくるような環境であることが望ましい。
一つの集合住宅の中に、まちがあり、自然があり、人と人とのふれあいの場を用意してほしいのである。住いの内部はある程度のプライバシー保護の為に外部との隔離を要するが、一歩ドアを踏み出すとそこにはまちがなければならない。人気のないコンクリートの塊ではなく、温かみのある、人間味のある雰囲気を醸成することが求められる。それが魅力のあるパブリックスペースである。そしてそれは豊富に存在しなければならない。
私はこの夢を実現するために「タワーグランデCHA」という分譲マンションの建設に着手した。時は今、世界大恐慌かといわれる程不景気の中にいるが、私の描いたコンセプトを巧みに現実のものとしてくれたセンボー建築事務所の仙坊幸治氏、そして熊谷組、見谷組JVの諸君をはじめ協力業者の皆さんのおかげで立派に完成した。
悠々の住いに住んでみて気がついたのは、人と人とのふれあいの大切さである。「尊縁」や「一期一会」で表わされる人とのお付き合いの有難さである。毎日が笑顔と笑顔との出会いの感動の連続である。豊富なパブリックスペースを大いに楽しみ、マンションライフを満喫している。

「岡倉天心」の今日的存在意義

平成22年1月29日
「岡倉天心」の今日的存在意義

日本文化は室町時代に形成されたものが多い。文化の源流は南方や北方を含めて中国や朝鮮そして遠くヨーロッパから流入してきている。
その後、鎖国時代には、長崎の出島、対馬(朝鮮貿易)の2ヶ所が国際交易の窓口となり、出島は清国とオランダのみが交易を許されていた。
但し漂流民よりの情報は多く、幕府はその収集に努力し、世界情勢の把握はすすんでいたようである。
「東洋は西洋から多くのものを学んだが、西洋は東洋から学んでいない」と主張したのは岡倉天心である。1903年にアメリカで出版された「東洋の理想」の書き出しの一句は、「アジアは一つ」である。今にして、まだ新しいこの言葉を、100年以上前に、アメリカで主張したのは天心である。更に続いて翌年の1904年には「東洋の目覚め」を出版した。その命題は、「ヨーロッパの栄光は、アジアの屈辱」である。
天心は「アジアは一つ」の中で、アジアを一つにする基本の考えとして「愛」や「宗教」を念頭においている。決して「武力」ではない。しかし天心は武力をも否定せず、武力は避くべからざる悪で、支配すべきものであり、支配されてはならないと説いている。インドのガンジーやタゴルの考え方に近い。
「西洋は東洋を誤解したままであり、日本が目指している理想境作りを西洋のどの国も理解していない」と嘆いている。
天心は欧米に発信した最初の日本人である。明治日本は世界中から蔑視されていた。その中でアジア文明と、日本文化がいかに輝かしい歴史と伝統と内容を持っているかを西洋に認識させた功績は大である。
天心(岡倉覚三)は1862年(文久2年)横浜で生まれた。父は旧福井藩士で藩命により横浜で貿易商を営む。1880年(明治13年)東大卒。アーネスト・フェノロサの通訳を勤めていた。文部省へ就職し、明治19年9月から1年間フェノロサに同行し、美術教育調査に渡欧。東京芸大設立。明治23年から8年間校長。排斥に遭い退職。日本美術院創設。明治26年中国を歴訪。明治34年インド旅行、タゴールにあう。明治37年からボストン美術館東洋部長を兼務した。明治40年官職に復し、明治44年欧米旅行、ハーバード大よりマスターオブアーツの学位。大正2年1913年赤倉山荘にて病死、享年52歳。天心は日本の驚異的な発展の原動力は、日本人の同化能力、内的な再生産能力の高さであり、発展の真の原因であると指摘している。「知識の蓄積だけでは進歩はない」、「進歩」とは、高められた自己能力の実現であると喝破している。100年前にこれ程の正論を堂々とアメリカで主張した岡倉天心の思想やその系譜が、福井に残されていないのを悲しんでいる。

女性は太陽

平成22年1月20日
女性は太陽

平塚らい鳥は「太古女性は太陽であった」と叫んで、女性の権利獲得運動の先頭に立った。岡倉天心の四部作の一つ、「日本の目覚め」という名著がある。その中で「日本の女性は常に自由と尊敬を享受してきた」と書いている。「天皇は太陽女神、天照大神の直系であり、女帝の御世は輝かしい時代であった。神功皇后は自ら兵を率いて朝鮮にわたり、推古女帝は平城京の洗練された文化を開いた。古典文学の世界でも女性優位である。1630年には明正天皇が誕生、やはり女帝である。
女性が強くなると世の中は平和になるという。戦後「女性と靴下」は強くなったといわれたことがある。絹の靴下は、すぐ破れてしまうので、とても高価についた。よほどのお金持でなければ、絹の靴下をはくことは出来なかったのである。それがナイロンの発明により、絹の感触を持っていながら、何度洗っても破れない、ナイロン製の靴下が女性の足をつつむようになった。と同時にナイロン製の靴下を履きこなして、さっそうと歩くハイヒールの女性が続々誕生した。
岡倉天心の父岡倉勘右衛門は福井の越前藩の武士であったが、藩命により商人となり、横浜で貿易商を営んでいた。その子覚三(天心)は幼少より英語を学び、東京大学卒業後、講師をしていたアーネスト・フェノロサの助手となった。「日本の目覚め」を書いたのは、1904年であった。アメリカで英語で出版されたのである。日本の女性について書かれたところは100年以上経った現在でも十分通用する内容である。天心の先見性には驚きを禁じえない。
吉田茂の養父吉田健三も天心の父と同じく、福井の越前藩の武士であったが、横浜へ出て英国商館に勤め、その後独立して巨万の富をなしたといわれている。二人が、同じ横浜を基地とする貿易商であることを思えば、生前にはかなり昵懇であったことと思われる。二人が幕末の横浜で、新しいヨーロッパの思想の影響を受け、「女性解放」に好意的であったのは、この「日本の目覚め」を読んでもよくわかる。吉田茂首相がいつも娘の麻生和子(麻生太郎前首相の母)を帯同し、外国訪問をしていたのを思い出す。ファミニストだったのである。

十月十日

平成22年1月19日
十月十日

日本では妊娠から出産までを十月十日という。学問的には277日という。この277日は一体誰が決めたのであろうか。海のサンゴ礁では満月の夜に、一斉に産卵が始まる。なぜ一斉に始まるのであろうか。例えば人間の赤ん坊は、小学校入学までには、殆ど大人並の言語能力を身につけてしまう。日本で生まれ育った子供は、ひとりでに日本語を話し、アメリカで生まれた子供は、ひとりでに英語を話す。両親が日本語を家の中で話していると、子供は英語も日本語も話せるようになる。思春期といわれる年代になると、初潮があったり、射精がおきる。そして生命の限界は、男性80歳、女性86歳から30年程度プラスした年齢であろうか。
この一連の流れを振り返ってみると、出発点は卵子と精子の結合による受精卵であるが、細胞分裂を繰り返し、277日で母体から誕生し、その後幼児期、小児期、少年少女期、成年期、壮年期、老年期を経て、死亡までの一生を送るのである。その人類すべてに共通の生涯は、一体誰が決めたのであろうか。かげろうの一生、蝉の一生、ホタルの一生など、すべての生きものが、それぞれの種のルールに従って生き、そして死んでいく。これは一体誰が決めたのであろうか。
2006年6月に人間の全遺伝情報が書かれたヒトゲノムの会読が殆ど終ったと発表された。ワトソンの二重螺旋の発見に始まった遺伝子学の研究がいま猛烈なスピードですすんでいる。しかし根本的なもの、「なぜDNAが存在するのか」「その配列の精緻さ」「その発達のスピード」など不可解なものが何一つ解明されていない。
一粒の麦とか一粒の米とかいわれている。一粒の麦や米の中には、遺伝子学から見ると、膨大な情報が入っている。そしてそれが時と共に変化を遂げていく。成長を続けていく。ノーベル賞を受賞した科学者の脳と、私の脳と、あなたの脳は、殆ど同じであるという。DNAも殆ど変わらないという。「ヒトゲノム」と呼ばれる私達の存在の履歴書のようなものが、既に一つの受精卵の中に存在しているという事実を知って、私は「十月十日」の決めごとの存在の重さ、その意味の深さを実感した。「生かされている身」に対する畏敬と感謝を忘れてはなるまい。

美術館の写真撮影

22年1月6日
美術館の写真撮影
世界を歩いている時、まず私は美術館や博物館を訪れる。その国を理解するのに最適であるからである。ニューヨークのメトロポリタン美術館や、パリのルーブル美術館、オルセー美術館、ロンドンの大英博物館、ワシントンのスミソニアン博物館と世界中の美術館や博物館を見て歩いた。
どこへ行っても写真撮影が認められている。美術館では名作の前で模写している人もいる。見物客が談笑していることも多い。収蔵品をみんなで共有し、楽しむ雰囲気が旺盛である。自由が感じられる。
日本の場合と比較してみると観賞の仕方に大差がある。まず「写真撮影」は絶対にダメである。その理由を聞かせてほしい。ある経験をした。自殺した画友の大回顧展が京都で開かれたので、生前の姿を偲びながら大作に見入っていた。その時遠くに住む後輩が会場に来ていて声をかけられた。お互いに亡き友を讃え合っていた。その時美術館の人間が走り寄ってきて声が大きすぎると注意するのである。私は日本人の文化度の低さと、ルールの異常さに腹立たしい思いを禁じ得なかった。
日本の美術館や博物館の建物は立派である。収蔵品も世界一流である。しかし声が響き過ぎる弊害は、日本の殆どの美術館、博物館が持つ欠陥である。直ちに全国的に見直すべき欠陥である。そして写真撮影の禁止もやめるべきである。開かれた美術館、博物館をつくっていくにはどうしたらよいのかを、根本に立ち返って考え直していただきたい。公共の場所である美術館や博物館は、人々が談笑し、自由に、愉快に楽しむ空間であるべきである。そんな楽しい場所が増えることを期待している。

一期一会

平成22年1月4日
一期一会

2010年の新春を、元気に迎えられたことにまず感謝したい。今年はどんな年になるのであろうか。環境は厳しさを増しているが、今年、私に出来ることは何であろうか。生涯現役をモットーに、1959年以来仕事をして既に50年が経過した。過去を振り返る余裕はないが、今までに仕事で出合った方々には唯々感謝あるのみである。仕事を通しての出会いが、私の人生を作り上げてくれたからである。
一期一会の気持で、出会いを大切にすることを、常に心がけてきた。人生模様は、人と人とで作り上げていくものである。人と人の触れあいの中から、それぞれの人生が生まれてくる。今年はどんな新しい出会いが待っているのだろうか。それを思うと期待に胸が膨らむ。ワクワク、ドキドキ、感動の出会いであってほしいものである。
昨年は思いがけない大事件が起きた。世界一の大企業、超優良企業のトップに長い間君臨していたGWの倒産。そしてもう一つはエコカー(ハイブリッドカー)の大躍進であった。世界の変化の激しさ、早さを嫌という程実感させられた大事件である。
2010年度の国家予算は、史上最高、最大であるが、国債依存の赤字財政が続く。これをマイナスと見るか、プラス思考でチャンスととらえるか、人によってその対応は大きく変ってくる。私はこれをチャンスととらえたい。史上最高、最大の国家予算は、大きな官需をもたらすのは間違いない。その官需を私達がどう活用し、自分の仕事に結びつけていくかが大切なところである。幸いにも贈与税の無税枠の倍増、住宅ローン補助1%、エコポイント対象商品の拡大など、住宅投資促進の景気対策が次々と打ち出されてきた。冷え切った投資意欲が、今年は少しよくなりそうである。古い住宅、狭い住宅、地震に弱い住宅から、新しいマンションへの需要の流れを期待したい。
人生の喜びや満足は、一期一会によるすばらしい人との出会いにある。そしてまたすばらしい住いとの新しい出会いによって、毎日がより楽しく、より心豊かな、より安全なものとなるのである。
今年を「感動の年」とするため、夢への挑戦を続けていきたい。

賀状欠礼の便り

賀状欠礼の便り

年末が近付くと続々と賀状欠礼の便りが届く。毎年のことではあるが、先輩諸氏の未亡人からのものが多い。しかし近年になって、同級生や友人達の未亡人から届く便りが増えてきた。感慨は一入のものがある。思わず自分の年齢が気になってくる。
友人の未亡人に、おくやみの電話をかけてみても、寂しさは増すばかりである。私達は昭和の二桁といわれ、敗戦時には小学校3年生(当時は国民学校)であった。それから5年間は日本全体が食料不足、物資不足に陥った。「食うや食わずの時代」と言って、栄養失調で何人もの友人達が死んだ。新制中学が出来て、全員が中学へ進学し、小学校の先生達(図画工作や音楽担当)も私達と一緒に中学校へ入ってきた。「持ち上がりだ」と言って笑った先生の顔が今でも忘れられない。そして普通高校へは入学したのは4分の1ぐらいの人数になってしまった。大学へ進学できたのはそのまた半分であった。小学校から大学まで一緒だった友人は僅かに3人。その3人の友人のうちの一人が11月に逝去した。ガンが原因だという。東缶興業の副社長として、永く活躍した富田隆夫君である。私と同じく営業畑であったので、仕事上も多少の縁があった。竹馬の友としての交友は、昨年のクラス会まで続いていた。突然の訃報に声を失った。「人や先、我や先」というが、人は必ず死ぬものである。全員が死ぬ運命にある。しかしその死が身近かの友人に及んでくると、いやでも死と真剣に向き合わざるを得なくなる。
健康長寿、生涯現役を願っている私ではあるが、少しずつスピードを緩めていかなければならないと自覚している。1日1冊の読書も、出来るだけ読みやすいものに変えていこうと思ってはいるが、これまたすんなりとはいかない。幕末の越前藩の記録、中根雪江の書いた『昨夢紀事』、『再夢紀事』、『丁卯日記』、『戊辰日記』、『奉答紀事』や村田氏寿の著、『続再夢紀事』などを読破したいと考えている。


雪恋い

平成21年12月22日
雪恋い
ミシガン大学へは世界中から学生が集まってくる。ミシガン大学は英語教育のメッカであり、専門分野でも数多くの優れた研究部門を持っている。私は日本という国が世界で一番美しいと本気で考えていたので、あるクラスの討論会で「お国自慢」をしたのである。「日本」がいかに美しい国であるかを例を上げて自慢したところ、大変なブーイングが起きたので驚いた。聞いてみると殆ど全員が、「自分の国」が一番だというのである。ということは、世界一美しい国とは「自分の生まれた国だ」ということになる。
食事のことでも同じ結果である。私見では日本食が食材を生かした健康食で一番だと思っている。フランス料理、中華料理もレパートリーが広く、味もよいが濃厚すぎるように思う。ところがイタリー人はイタリア料理、メキシコ人はメキシコ料理、タイ人はタイ料理が最高という。
海辺に育った人は「海恋い」というほど海にこだわって生きている。痴呆症の人を海へつれていくと記憶がもどるそうである。海のそばで生まれた人は、海岸に住居を持ちたがる。
山間部で海を知らずに成長した人は、海にはなかなかなじめないそうである。別荘をどこに持ちたいかを調査してみると山国の人は軽井沢などを希望する。やはり山にこだわっているのであろうか。
 私は雪の降る北国街道の入口である長浜で生まれた。小さい頃は、雪道を難儀しながら、登下校をした記憶がある。雪の記憶ですばらしいと思うものは浮かんでこないが、「雪」は私の生活の中の一つのリズムを形成しているように思う。その雪への思いが高じてくると「雪恋い」になる。道元は「冬草も見えぬ雪野の白鷺は、おのが姿に身をかくしけり」と詠んだ。雪はすべてを覆い隠すベールであり、白一色と思いがちであるが、実際は時と場所に応じて七色に輝くことが出来る。雪には陰影がある。暗い時は、ほの暗いこともある。反対に目に見えない何かを感じさせる。明るくなると太陽の光を浴びて、燦然と光り輝くのである。その変化の落差が、自然の力の大きさを教えてくれる。人間の小さいことを教えてくれるのである。
雪は、自然の変化を、山中でも、森の中でも、海岸にいても私達にありありと体験させてくれる。そして雪こそが日本の抒情詩の生みの親となったのである。「雪恋い」は雪国に生まれた者にとっては当然であるが、世界一の雪国といわれる日本に住む日本人全員にとっても、心に植え付けられ、DNAに刷り込まれているものなのである。

歌会始の儀

平成21年12年17日
歌会始の儀

和歌は万葉集に始まり、古今集、新古今集と、日本の歴史の中で、一本の太い線をなす文化を形成してきた。そしてその多くは、勅選和歌集といわれる天皇家による編纂である。選者だけでなく、詠み人といわれる人々も、天皇周辺の文化人であることが多い。
いつの頃から始まったのか。毎年正月に宮中において歌会始の儀が 執り行われる。世界中から寄せられた和歌の中から、選ばれたものが読み上げられる。その宮中歌会始の儀に、台湾の呉建堂さんが陪聴人として招待されたのは、十年余り前のことであった。彼は「孤蓬万里」という雅号を持っており、「台湾万葉集」という日本語の和歌集を編纂した人である。
1968年彼を中心に「台北歌壇」という結社が生まれ、それ以来結社誌は100冊を遥かに越えて、年間総合歌集は20巻を越えている。不思議なことに、台湾では万葉調の短歌が守り継がれているのに対して、日本では晦渋歌が増えてきている。しかし歌会始で選ばれる歌は、台湾と同じように万葉調の短歌のように私には思える。
天皇、皇后両陛下の短歌に続いて、毎年読み上げられていく「選歌の作者」の人々や、陪聴人が招待されて、歌会始の儀は行われる。これは日本の伝統、日本文化の華である。
福井市役所の市長室の入口の壁に、昭和天皇から贈られた福井地震の見舞の御詠が掲げられている。この御詠を見る度に、敗戦後の焼土の中を、中折れ帽子を手に持って、日本の隅々まで歩かれていた昭和天皇の温顔を思い出す。
「地震にゆられ、火に焼かれても、越の民、よく堪へて、ここに立直りたり」
なお台湾万葉集「折々のうた」の冒頭の歌は
「万葉の、流れこの地に、留めむと、生命のかぎり、短歌詠みゆかむ」

平山郁夫画伯

平成21年12月8日
平山郁夫画伯

享年79歳。画壇のトップに長く君臨し、日本画の再評価に多大な貢献をした平山郁夫画伯の逝去の報は、私にとって誠に痛恨の極みであった。広島での原爆体験を早くから聞いており、長年の精力的な創作活動を知っていただけに、健康状態を憂慮していた矢先の訃報であった。
福井えきまえの柴田神社の再建時(約10年前)に、柴田勝家公の末裔とのことで、作品の寄贈を申し出られ、その版画が福井市内の各家に大切に愛蔵されている。私は最近えきまえ活性化の一環として、柴田神社や北ノ庄城、福井城などを巡る歴史のみちをたどって、地元の古老の方々を訪問している。その話の中に平山郁夫画伯から協力を受けた話が多い。
平山郁夫画伯の経歴を調べたり、著書を読破したり、美知子夫人の著書を読ん
でいくと、その人となりそしてその活動に敬意を抱かせざるを得なくなる。私はノーベル平和賞に最も近かったのが平山画伯であると信じていた。日本の美術品が海外に流出し、世界各地の美術館、博物館に収蔵されていたが、その貴重な作品群の修復の仕事をされたり、シルクロードの各地に点在する仏教美術の保存、その地域住民達への支援などを通して、世界平和に貢献されていたのである。ナイチンゲールの赤十字活動と同様に、文化財の生命を守り、地域住民の生活を守る文化財赤十字活動を行っておられたのである。逝去を惜しんだ
のはその為でもある。
また柴田神社に関する歴史を調べていく内に、一度平山画伯におあいして、神社の繁栄の為の妙案をお聞きしたいと思うようになっていた。高田好胤師との出会いから、薬師寺玄奘三蔵院伽藍壁画「大唐西域記」を、生涯をかけた大作(タテ2.2m、ヨコ49m)として完成された苦労話などを是非聞かせてほしかった、と悔んでも、もう取り返しがつかない。今はただご冥福をお祈りするばかりである。

文系の人間

21年12月4日
文系の人間

理系と文系という二つの系統がある。教育の途中で、一般教養から専門教育に分かれる時点で、理系を選ぶか、文系を選ぶかによって、学ぶ内容と、その後の職業までが、ある制約を受ける。学校によっては、入学する時に、すでに進路が決まってしまう所もある。

文系は「つぶしがきく」という。どんな職業でもおおむね就くことが出来るというので、人気がある。理系はそれが出来ない。日本全体の学校を考えてみると、文系の学生数と理系の学生数とでは大差がある。文系は圧倒的に多いのである。
私も文系である。サラリーマンを37年勤めた。商社なので、多くの先輩、後輩も文系が殆どであった。その後起業して電子機器の製造、販売、メンテナンスを行う会社を作った。そして工学部系の卒業生を採用することになった。理系の人達である。私にとって、理系との親しい付き合いは、初体験といってもよい程に稀なもので、面喰うことが多かった。商社時代に、メーカーの人々との接触はあったが、窓口となった人やトップにいる人は文系が多かった。
文系の人々との長い間の交流を考えてみると、「浅いが、広範な知識」を持った日本人の平均像が浮かんでくる。日本人の教養レベルが世界一であることも、文系の人々が大多数を占めている現実に負うところが多いと思われる。家庭での会話、職場での会話、喫茶店や夜のバーでの会話でも、世界のニュース、日本の経済ニュースが日常会話、それも一般人の会話に、易々と取り上げられている。こんなレベルの高い民族は少ない。
文系の人々が殆どを占めているということは、日本人社会が世界でも珍しい程の均質社会であることと重要な関連性がある。思考方法や知識が同質なのである。議論がしやすく、反対者を説得しやすい環境にある。なぜならバックグランドが殆ど等しい者同士だからである。
同質社会、均質社会だけに注意しなければならないことがある。それは「安易に同じ方向に流されるな」と肝に銘じる必要がある。マスコミの誘導、世間が同じ方向に向おうとする時「本当かな」と疑ってみることをすすめたい。「その方向は誤っていた。正反対の方向であった」と後で気付かされることが多い。

390円のランチ

平成21年12月3日
390円のランチ

老舗といわれる長寿企業は京都・滋賀・奈良等に多いが、福井にもある。私のいるマンションの一階に出店している「オレボ」がそれである。創業は天正元年(1573)で当初は酒造業とのことである。現在の小川明彦社長は29代目で、今は「地域密着型コンビニエンス」の「オレボ(オレンジボックスの略称)」を経営している。
このオレボが私の食堂、マイダイニングである。朝の早い日はサンドの材料はすべて揃っている。昼の「ランチは390円」とビックリ価格である。そしておいしい。量も十分である。これ程安く、これ程おいしいランチを私は知らない。夜は自宅で晩酌をしたい人のために、日本酒も売っている。お惣菜はレパートリーが幅広い。ジャガ芋、里芋、さつま芋のフライ、煮付け何でもある。サラダも豊富である。大スーパーへ行く必要を感じさせない品揃えがうれしい。
自宅のダイニングは、オレボからの買入れのお惣菜に、ご飯とみそ汁を作ってもらってそれOKである。酒の肴もいろいろ揃っていて飽くことがない。
最近では農商工連携の認定を受けて、おいしい豚肉を活用したおかずの開発をしたり、福井テレビとタイアップして「チカッペカレー」を開発、大ヒット商品となっているとのことである。私もカレーライスは、子供時代、学生時代そしてサラリーマン時代を通して大好物の食べものであり、このカレーライスも定番にしている。
オレボは池田町と業務提携し、池田町の道の駅「ゆいマート」と相互に商品を供給することとなった。私の住むマンションの1階のオレボに池田町特産の野菜や穀物類などの地産地消の商品が毎日所狭しと並べられるのである。
新鮮な野菜に目がないマンションに住む奥さん方は、太い大きな大根をかかえて帰っていく。今は大根おろしがとてもおいしく甘い季節である。マンションに住むと便利なことが多い。

鍵一本の生活

平成21年12月2日 
鍵一本の生活

久しぶりにマンション生活に戻って感じているのは「鍵一本の生活」の気易さである。庭の草とりから解放され、冬の除雪や屋根の雪おろしの心配もない。先日の台風の時も、部屋にいると、全く何の不安も感じない。ところがベランダに出ようとして、少しガラス戸をあけたら、強風に驚いた。ペアガラスになっているので、外の強い風や音が殆ど聞こえないからだ。
マンションは、戸建てに比較すると生命や財産を守るのに有利である。特に地震時には大きな差が出来る。福井地震の時には鉄筋コンクリートの建物がいくつも残った。その為、昭和30年代に駅前から3〜4階のビルが次々と建てられていった。
私のマンションは、39基の基礎免震装置を備えた「福井県初の免震構造マンション」である。ところがこの「免震装置」がお客様に十分理解されていないことに気がついた。そこで動画のCDをホームページやモデルルームで流すことにした。「百聞は一見にしかず」である。見ていただくことで、安全性を知り、安心していただけることと思う。
免震装置の最大の特徴は、「生命と財産を守る」ことにある。大地震のたびに多くの方が死傷し、財産を無にされることがある。免震装置を備えたマンションは、私達の生命を守り、財産の損失を防いでくれる力強い味方である。まず大地震がおきたとしても、緩やかに揺れるだけである。机の上のコップも倒れない。コップの水が少しこぼれる程度である。周辺で火災が発生しても類焼はしない。完全な耐火耐震構造なのである。
広い駐車場をはじめ、アプローチの石畳もすべて融雪装置付で、除雪の心配は全くない。安心、安全、ゆったりの生活が、鍵一本の生活が保証されている。実際に住んでみてその快適さ、身軽さに気付き、日々感謝の生活を送っているのである。

眺望

平成21年11月25日
眺望

既に冬至を過ぎて旬日、東天の山並の上は雲少なく、夜は白み始める。時まさに午前6時。刻々と変り、明けていく空の景色は誠に美しい。ちぎれ雲の動きは、その遠いものは動かず、近いものは静かに少しずつ去っていく。空の色の変化よりも早く、雲の色の変化に気付かされる。
目の前の円山は黒い塊となり、東山は沈んでいる。その先の吉野ヶ岳の崚線が少し明るい。今日の白山は雪がなく、その手前の経ヶ岳、冠岳の南斜面が明るくなりだした。その手前、法恩寺山、そのまた手前浄法寺山はまだほの暗い。空はいよいよ輝きを増し、永平寺の大佛山の上あたりの空が光り輝いている。頭上のちぎれ雲も七色に輝き出した。雲の下が明るくなってきた。いよいよ日の出である。東天の雲は一斉にピンクに染まり、山の頂より太陽が頭を出す。手前6時48分。あっという間に太陽は全体の姿を見せる。その間僅かに数秒。世界は変る。一瞬の間に、満天に青空が広がり、視界は生き生きと動き出す。今日の一日の始まりである。
このマンションに住んで気がつくのは自然の荘厳さである。朝に夕にまわりの眺望のすばらしさに感動している。住むまでは想像はしていたが、これ程の自然の美しさを実感できるとは思い及ばなかった。
マンションの住人の一人一人に声をかけてこの話をすると、全員が同じ意見である。誰もが「眺望が最高」という意見である。
朝をすがすがしく迎えることができる生活は、ここ福井だからこそである。このマンションライフだからこそである。思えば人間はみな高い所が好きである。あの織田信長が安土城の天守閣に立って琵琶湖を見下し、早や天下統一を果した夢を見たのも「眺望のよさ」が原因である。勝山城の天守閣が名古屋城や大阪城、姫路城より高いのは眺望を愛した元相互タクシーのオーナー多田清氏の夢の実現である。彼は日本一高い天守閣を作った。その天守閣の高さと私のマンションの屋上の高さはほぼ同じである。そしてこのマンションは広大な福井平野の中心に立っている。眺望は誠に勝れている。

古墳の近くに住む

平成21年11月20日
古墳の近くに住む

福井市の中心部から東方に位置する東山を貫通する中部縦貫道は、永平寺への峠、越坂の下を通っている。この越坂峠の一帯は、越の国を支配していた一族の墳墓の地である。主として3世紀から5世紀にかけて築造された前方後円墳が数多く存在している。これ等古墳の特徴は、山頂部に築かれている点や、石棺が地元産のしゃく谷石で作られている点、その形も独特で底に筋が彫ってある点などである。九頭竜川をはさんだ対岸の山々にある同種の古墳群と併せて、私はこのあたりを「越のくに王家の谷」と呼んでいる。
この越坂をすぎて永平寺町へ入ると、道元禅師が建立した大本山永平寺のある里に出る。トンネルを出て、すぐ右へ折れ数キロで到達する。この越坂のあたりは全くの深山の面影が濃く、「熊に注意」の立札が、森閑とした山にふさわしい。野の草花に見とれていても、熊に遭遇するような錯覚をおぼえてしまう。自然が一杯で、騒々しい社会を一瞬ふっと忘れさせてくれる。車でこの坂を越えていくと、まず必ずと言っていい程、対向車とすれ違うことはない。勿論人影は皆無である。全くの別世界に遊ぶことができる。
けやき台の住宅団地から歩いて1分のこれ程近い所に、古墳が数多く並んでいる山があるというのは、誠に信じ難いことであるが、同時にこれ程すばらしいことも少ない。
古墳の近くに住むという実感を楽しませてくれる山である。「越のくに」という伝説の世界に導き入れられて、神々の時代を想像しているのも、楽しい時間である。
京都の嵐山で1千坪の庭に森を作った人がいる。森孝之さんである。森さんが森を作ったと評判である。私はまだ面識はないが、同世代の人間として同感する所が多い。今年「エコトピアだより」を出版された。40年かけて森夫妻が作り上げたのがエコ住宅と庭と森である。エコライフの実践の書である。
私はエコライフプラザと名付けた旧三上百貨店を改造して、エコライフに関するお店を集め、そこに事務所を作った。好きな本に囲まれて、福井のえきまえをいかに活性化していくべきかとない知恵を絞っている。コンパクトシティ構想である。エコシティ構想である。「理論よりも実践」が私のモットーなので、試行錯誤を繰り返しながら、悪戦苦闘の毎日である。古墳の丘を越えると一日の疲れがウソのように拭い去られるのに驚く。スローライフを目指しているが、何かを為そうとするとついつい忙しくなってしまう。自ら求めた道であるだけ、誰にも文句を言える筋合いではないが、「明日では遅すぎる」といわれるとエコライフ実現のために走り出さずにおれないのが現状である。今日は「充電スタンドシステム(電気自動車用)」の普及のために、元トヨタ自動車部長の藤田顧問と意見交換をするつもりである。福井県を電気自動車普及のモデル地区にしようとの、西川知事の呼びかけに応じて、「明日のために」働いているのである。

喫茶去

平成21年11月19日
喫茶去

禅では「喫茶去」という。一日一度は静かに座って、身心と呼吸を調えることにより、悟りに近付くことができるのである。茶は中国とインドの間に生まれ、早くから日本に渡来していたが、まず仏教の「施茶」として歴史に残っている。茶道としての日本独自の発展を遂げるのは、村田珠光、武野紹鴎、千利休と続く茶匠たちに始まる。特に大徳寺との関係が深い。
「喫茶去」と染めた二つ折の屏風を、芹澤圭介のお弟子の椿夏子さんからいただいた。夏子さんの自作で、屏風の仕立ては芹澤好みの上品な作品である。生前に彼女の仕事場のあった自由ヶ丘周辺のレストランで、食事を共にしたことは多かったが、お茶席へは、私の不調法のせいで一度も同席したことはない。
最近になって、健康長寿と食品の関係を調べ出しているが、「茶」は「薬」として、長い歴史を持っていることに気がついた。そして「喫茶の法」を説く「茶道」に注目せざるを得なくなってきた。お茶をいただくのにその一挙手一投足に細心の注意をはらう「一期一会」の精神である。「喫茶去」はこの「一期一会」につながっている。
椿夏子さんとの出会いは、私の勤務していた東京日本橋の東急百貨店の画廊である。椿貞雄(父)の油彩画と夏子さんの型絵染との「親子展」の会場である。岸田劉生の弟子というよりも、親友といった方がよい椿貞雄の油彩の小品を買い求めた私に、夏子さんはその後親しく文をくれるようになった。そして「喫茶去」の自作を頂戴した。その後病を得られて長い闘病の後、なくなられたが、その間、ご一族の方々との交流は続いている。みなさんご尊父の椿貞雄さん(元草士社、元国画会会員、元慶応幼稚社指導)の誠実な人柄を受け継がれ、心が洗われるような清々しい交流である。
「喫茶去」の屏風を開ける機会はまだないが、「健康長寿食」の一環として、「お抹茶」を一日一度静かにいただくようにしている。私の好きな日本酒は晩酌(ほとんど冷酒で一合)として静かに独酌で飲んでいる。好みのぐい呑みを自分で選んで飲んでいる。お抹茶は妻が選んだお茶碗で、妻がたてるおうすを、毎朝静かにいただくのを日課にしたいと思っている。

柴田勝家像

平成21年11月18日
柴田勝家像

毎朝車で出勤し、柴田神社の裏手のコインパーキングに駐車する。柴田神社の塀ごしに、柴田勝家の銅像が見える。長い槍を持っている勝家の背中が見える。親の背中を見て、子は育つといわれるが、毎日勝家の背中を見ていると、他人でないような気持になるから不思議である。そして彼が手に持つ長い槍は、天を貫く勇ましさである。気持が萎えそうな朝に、この槍を持つ背中を見ていると大きな勇気をいただくことができる。そして織田信長家中第一の勇将といわれた柴田勝家に惹かれていく自分に気付かされる。
柴田神社は、勝家が信長の許しを得て築城した北ノ庄城の本丸にある。天守閣は旧日動火災ビルのあたりといわれている。信長は勝家築城に当り、越前の知治世について指図する文書を残している。また、宣教師ルイスフロイスが北ノ庄に滞在し、このまちについての詳細な記載がある。そして柴田勝家と若き妻お市の方の辞世の歌が残されている。武骨な大将というイメージが強い中で、よくよく調べていくと、勝家は人間味あふれる悲劇のヒーローであったことにたどりつく。
羽柴秀吉が足羽川のほとりの足羽山山頂に立ち、勝家の築城した「北ノ庄城」の偉容に驚嘆した手紙が残されている。この落城の折、勝家、お市の方に随って、共に城を枕に討ち死した将兵の数は、80余名といわれている。ともに柴田神社に祀られている。戦国の世にこれ程の武士が追腹を切ることは、稀有といわねばならない。余程の温情の持主であったと思われる。
日本の将といわれた人々の中で悲劇的な死に方をした人が大いに人気を集め、長く語り次がれている。例えば菅原道真、楠正成、源義経、真田幸村、大石内蔵助、坂本龍馬、西郷隆盛、山本五十六などである。私は柴田勝家こそはこの悲劇のヒーローにふさわしい人物と思っている。
羽柴秀吉の大躍進の陰に隠れてしまったが、その気になれば当然織田家中をまとめて信長の後を継げたはずの人であったはずである。それが時代の流れというか、秀吉の機略というか、あっという間に掌中の珠を取り落としてしまった姿が痛々しい。
反対に秀吉は、歴史に残る日本一の成長戦略家である。近江長浜5万石からの借金政策は連戦連勝を生み、その部下は実績を上げれば出世はいつも目の前にぶらさがっていた。しっかり働いて勝てば加増、立身出世は保証されていた。燃える集団である。秀吉の周辺の逸話は、成長を賞賛してやまないものが数多く残されている。柴田勝家や徳川家康とは正反対の強気の成長戦略の下、秀吉は突き進んでいったのである。そこに柴田勝家の悲運が待っていた。勝家とは知れば知るほど魅力的な人物である。柴田勝家を主人公にした小説が生まれることに大いに期待する。
今日も勝家の背中は温かく私を見守ってくれている。

法恩寺山ゴールデンロード

平成21年11月11日
法恩寺山ゴールデンロード

秋の一日、好天に誘われてドライブに出かけた。まずガソリンを補給、向うは白山スーパー林道ならぬ「法恩寺山ゴールデンロード」と私が勝手に命名した林道である。勝山スキージャムの有料道路脇の道を上っていく。このあたりの山塊は、浄法寺山や法恩寺山大師山や山頂に経塚がある経ヶ岳など、白山禅定場の一画をなす信仰の山々が多い。
白山スーパー林道の混雑ぶりと比較すると、まるでウソのような閑静な深山の紅葉を愛でることができる。今年の紅葉は美しい。寒暖の差が大きいと紅葉がより鮮やかになるといわれているが、この法恩寺山ゴールデンロードの紅葉がひときわ見事である。
紅葉の主役はモミジや楓であるが、ななかまどやはぜの木の赤はより赤くなる。この赤の色素はアントシアンである。また黄色の主役は銀杏であるが、黄色の色素はカロチノイドという。この赤と黄の色素が交じり合ってできる褐色などが錦秋といわれる絶景を作り出してくれる。
このゴールデンロードのいたる所で、全山紅葉をバックに、道路際に紅葉がしたたるような木々が立っている。せせらぎも多く、小さな滝もいくつか身近に見ることができる。釣鐘のような大きな岩のある鐘岩のある橋は、朱色に塗られている。このあたりがまた見所である。
曲りくねった林道のドライブは、ゆっくり走って約2時間、それは、生きている喜びを堪能することが出来る至福の時である。こんな身近に、こんなすばらしい紅葉の名所がある福井県、すばらしい自然の宝庫、それが福井県である。ドライブコース終点は六呂師高原である。ここに車を止めて山腹を散策するコースや、ミニ動物園もある。地元の農産物が特別価格で安く手に入る。両手一杯の新鮮な野菜を買って、帰途についた。赤かぶ、かぶ、大根、緑大豆、小豆、大野里芋などである。絞りたての牛乳もおいしい。

井伊直弼

平成21年11月2日
井伊直弼

NHKの連続テレビドラマに「花の生涯」という井伊直弼の生涯を描いたものがあった。私の生まれた長浜は、彦根のとなりの町であり、国宝彦根城は、元の長浜城(豊臣秀吉が最初に築いた城)を取り壊し、その遺構を使って長浜城と同様に琵琶湖を外濠とした美しい城である。
小さい頃から秀吉や石田三成、賤ヶ岳七本槍の話などを 身近に聞いていたが、井伊直弼についても同様であった。15歳の頃、彦根藩主、父井伊直中が死亡し、その後、「埋木舎」に部屋住みとなった。13歳の頃、井伊家の菩提寺、清涼寺(曹洞宗)で雲水と共に禅の修行に励み、27歳からは鳥取より晋山した仙英禅師の下、遂に大悟し、印可を受けている。
茶道は徳川宗家と同じく石州流を幼少より学び、江戸石州流宗家の片桐宗猿より度重なる書面にて直接学んでいる。直弼の茶名は「宗観」である。遠く村田珠光、武野紹鴎、千利休宗易など流祖を尋ね、千少庵宗淳、古田織部正、小堀遠州、片桐石州宗関と引き継がれてきた道を極め、「茶禅一如」を示したのが井伊直弼である。そして石州流宗観派ともいうべき「彦根流」の「入門記」を表わした。
松平不昧公は、宗観より数十年早く、同じ石州流の一派を開いている。芭蕉の「不易」と共に「流行」をも重んじた姿勢に通じるものがある。宗観は、曹洞宗の禅から永平清規などを通して「茶禅一味」とした。また南方録により千利休の茶湯に出会い、「禅茶」「侘茶」「心茶」と呼ぶ茶道の根源に帰ることを主張している。「一期一会」や「独座観念」などを自派の中心に据えている。
井伊直弼宗観の茶道に関する記述は多く、「宗猿先生茶道聞書」「茶湯一会集」(大老就任前に完成)、「入門記」(31歳で奥義を究め、1845年10月一派を立てた)、「茶湯をりをり草」など。
安政の大獄の悪いイメージが強い井伊大老ではあるが、1945年の敗戦後、井伊家の古文書が多数公開され、日本開国に至った苦衷と英明なる識見が再評価された。時代の犠牲者である。安政の大獄で罪をきた水戸藩、越前藩、長州藩などの人々が、桜田門外の乱後に復権しているが、橋本左内、吉田松陰などの英傑は帰らぬ人となっていた。今年、福井において毎年挙行されている左内忌に、井伊家から弔問があり、百数十年を経て、その子孫や関係者が一堂に会して和解の機会を持った。
井伊直弼宗観は茶人にして、禅の人であり、「それ喫茶の法は・・・」で始まる「入門記」は格調高い「茶道入門の書」でもある。「茶道は心を脩むる術であり、万法の上に漏ることなし」と述べ、「虚より実に入るは茶の一道なり」と結び、茶道という虚より入り、実生活にこれを生かしていくという宗教的、哲学的な領域に茶湯を高めていった人物像が浮かび上ってくる。入門記の署名は露軒主人とある。直弼の自署である。

午前6時

平成21年10月21日
午前6時

今日も快晴になるのか、日ノ出を迎え白山連峰に続く東方の山々の上がピンクに染まってきた。いつ見ても朝日は、気持を明るくしてくれる。刻々と変る空の色、天の広がりに我を忘れる一刻である。
この一日の始まりである朝の明るさを、気持の明るさを、今日一日だけでも持ち続けるには、どうすればよいのであろうか。テレビも新聞も、明るいニュースを殆ど報じない。地域社会も、日本も、世界も、そんなに悪いのであろうか。そんなに暗いのであろうか。未来についての暗い予想が多すぎるのではなかろうか。心配のしすぎではなかろうか、自分に対する自信がなさすぎるのではなかろうか。私は日本人は敗戦後、自虐性が強くなり、自信喪失症にかかっていると考えている。常に未来への予想は暗く、先行き不安を吹聴する傾向が強い。それが閉塞感を生み、若者の希望を失い、社会を暗くしていっている。
未来は本来明るいものである。一点の曇りもない快晴の世界であるはずである。その明るい未来に向けて、自分を信じ、他人を信じ、地域を信じ、国を信じて生きていくのが、私達に出来る最善の道であり、唯一の道である。
日本を信じよう。日本人を信じよう。そして私達の能力に自信と誇りを持とう。現状は厳しくとも、今日一日力を尽くし努力すれば、必ず明るい明日は来る。
私達のまわりの人達をよく見てみよう。輝いている人がいる。生き生きと活躍している人がいる。輝いている人は美しい。生き生きと生きている人は美しい。個性を思いきり発揮している人達である。個性を発揮すると前向きに生きることが出来る。前向きに生きると輝き出す。生き生きとしてくる。それはそんなに難しいことではない。自分の持てる個性を存分に発揮すればよいのである。人生一回きりである。個性的であることは罪ではない。逆にとても美しいことである。
19世紀末から20世紀にかけて、ダーウィンの進化論が持てはやされた。「変化に対応するものが勝ち残ることが出来る」という。そしてそれが一部の白人によって「白人の世界制覇」の道具に使われた。白色人種が人類の頂点にあり、白、黄、赤、黒と劣化しているとの誤説を流布した。そして私達すら危うくそれを信じようとした。それはロシア帝国を生み、地球の大部分は白人のものとなりつつあった。それを打破したのが日露戦争である。白人のロシア帝国を弱小国日本が破ったのである。これは奇跡として有色人種のすべての人々に自信を与えた。第二次世界大戦で軍事力でアメリカと対等に戦える力を生み出したのは、日本だけである。そして敗戦後世界中で民族自決、独立の動きが広がり、白人支配の世界は短い期間で崩壊していった。日本は敗戦後僅か数年で立ち直り、奇跡の復活を遂げた。今や世界トップレベルの繁栄をしているのである。
この僅か100年間を翻ってみても、私達の先祖、先輩の方々がこれ程の力を発揮され、世界のために貢献しているのである。今日今もこの世界トップレベルの地位は決して揺らいではいない。揺らいでいるのは私達の自信だけである。自分を信じ、日本を信じ、明日を信じて生きていこう。次世代に夢と希望を与えることが私達の究極の使命である。

豊田三郎画伯をたずねて

平成21年10月20日
豊田三郎画伯をたずねて

友人の経営するコロンバの「マロンパイ」がおいしいので、これを手みやげに休日に豊田三郎画伯を訪ねた。満101歳をこえられた画伯は相変わらずすこぶる元気である。百寿者、センティナリアンである画伯は、私達と同様、いや私達以上に元気である。大阪のNHKがテレビの収録にきて、画伯が元気に、現役で油絵を描いているのに驚いたという。画伯は現地でしか描きはじめないのだ。自然に感動し、その自然からいただく感動を画面に定着するのが仕事なのである。だから創作の第一歩は画架を立てる位置決めから始まる。場所が決まったら、画架を固定する杭打ちを自分でする。次回に来た時の為である。そして描き始める。収録の時の作品をかい間見せてもらったが、その筆勢に視聴者は驚くことであろう。
また講演会の話が来ていた。その準備に忙しいとのことである。これでは絵を描く暇がないのではと心配になる。101歳をこえて、現役の画家で、食事、掃除、フトンの上げ下げ、そのすべてを自分自身でやり乍ら、テレビ局や新聞社の取材をこなし、講演会の原稿を書いておられるのである。食事のおかずだけは、ヘルパーさんが作りに来てくれるとのことである。
今回の訪問は、また大きな元気をいただいたと同時に、百寿の元が何であるかを教えられた。その一つは「生き甲斐」を自ら作り続けることである。100歳を目指して生きる超エリート老人は、増えてきているが、100歳に到達すると気が緩むのか、3分の2の人がなくなるのである。画伯は日々新しい目標を自分で樹立し、その目標に向って、常人でも、私達でも為し難い「努力」を行っておられる。100歳を超えてから「新しい目標」を樹立されたのである。驚異の精神力である。
話し方や、身ぶり手ぶりをともなう大きな声は、私の祖父が生きかえって、直に私に指導してくれているような錯覚をおぼえる。私の祖父は明治の初めに生まれ、88歳で逝去した。大きな声の人は長寿だというが、画伯も私の祖父も声が大きい。言葉に力がある。次々と飛び出す「ダーとくる」とか「ガァーとせまってくる」とかの言葉にも勢いがある。それだけでも圧倒される迫力である。
そしてまた「笑顔が美しい」。画伯の目は鋭いが、終始見せる笑顔は美しく魅力的である。101歳を超えてなお、新しい油絵の大作を描きつづける力の源泉はどこから来るのであろうかとまた考えてしまう。健康パワーと精神力を維持し続ける源は、一体何なのであろうか。

日本学について

平成21年10月15日
日本学について

学際学の研究が進んでいる。例えば海洋学について言えば、今迄は海上や海中からの調査が当然であったが、宇宙からの研究が可能となり、膨大な集積データが瞬時に収集可能となった。新しい宇宙海洋学の誕生である。医学については、専門分野がどんどん細分化される傾向にあったが、最近では予防医学の発達と各種医療機器の飛躍的発達によって学際学が生まれつつある。抗加齢医学と人間ドックの結合により、健康学や長寿学が生まれようとしている。
漢字の原点を研究された白川静博士は、文字学を確立され、白川文字学といわれる程ユニークな学問を打ちたてられた。
ディズニーワールドのある新浦安には「日本一学」という学問ができそうである。地域特性を研究するもので、同類では「京都学」や「福井学」を上げることが出来よう。
私は日本という国の成り立ちから、現代に至る歴史をひもといてみて、世界中で、日本ほど変った国は数少ないことに気がついた。そして「日本学」というテーマで、種々の事柄について、考察してみようと考えた。その内容は「言語」であったり、「詩歌」であったり、「絵画」「工芸」など幅広い分野を考えている。「衣・食・住」から入り、産業、教育、芸術、スポーツ、宗教とすすみ、国学や民族学などへの考察も行えたらと望みは大きい。
まず「日本」と名のつく「もの」や「こと」、本などを集めだしている。いつの日にか、系統だった「日本学」の誕生につながればという淡いはかない夢を夢見ているのである。
研究の手法を「美」においた。「美」という切り口で「日本学」の中へ切り込んでいこうと考えている。
日本という国が21世紀の世界で果すべき役割を考える上で、日本という国を世界に昇華し、日本人の考え方、感じ方を理解してもらって、平和と安定のために人類すべてが心から協力しあえる社会の実現を目指していることを明確にしたい。
日本の歴史には、戦争の記述は驚く程少ない。相互扶助を前提とする水稲式農業社会という基盤の上に、日本という国が築かれてきたからであろうか。不敗を誇った神や仏や儒教の国、日本は、太平洋戦争という資源争奪戦争に敗れたが、あっという間に復興をなし遂げ、今また世界のリーダーとしての道を歩み始めなければならない。その時の灯の一つになればと思って「日本学」を研究したい。

生きること

21年10月7日
生きること

この混迷の時代に生きることは、決して易しいことではない。難問題との出会いが毎日待っていると言ってもよい程だ。世界大恐慌かといわれる経済的な問題も多い。雇用不安が広がっている。失業率は最大値となっている。派遣社員、パート社員だけでなく、正社員のリストラが始まっており、その為の精神的なストレスが蓄積しているという。貧困の問題は、日本では既に解決ずみの過去のことと思っていたが、雇用環境の悪化は経済全体に及び、特に地方の景気は悪い。日本でも、地方でもそこに貧困問題が出てきたのを見逃すわけにはいかない。
「生きる」ということが難しくなってきたのである。収入が減少し突然の解雇や倒産により、生活が破綻するケースが増えている。「生きる」ということは、本来「美しい」もののはずである。それが辛いこと、苦しいこと、困難なことになっては大変である。私がいつも言っているのは「どんな環境になっても、夢や希望を失わず、その目標とするものに向って黙々と、前へ前へと進め、必ず前途に光明はある」と。
自分のことだけを考えていては、生き残ることは難しい。絶えずまわりの人々、会社の同僚、隣人達、地域社会のことを考えながら和気藹々と生活していくことによって明日はある。夢や希望や目標を見失うと、生きる意欲が減退してしまう。そんな時はどうすればよいのだろう。
そんな時、自分の思い、悩みなどを誰かに打ち明けるのはよい方法である。メールでも、手紙でも、電話でもよい。誰かに聞いてもらうのである。そこでまた気持が落ち着き、勇気が沸いてくる。
 「人間の能力にそんな大差はない」ということに気付くことも大切である。ものごとを大きく見る「視点」を持つことによって、クヨクヨ、コセコセと些事にわずらわされないよう、大所高所から自分を見るクセをつけておくとよい。
 好きなことに熱中すると、生きる力が出るとよくいわれている。「好きこそものの上手なれ」で、好きなことをやっていると自信が沸いてくるのだ。先日福井県鯖江市の立待小学校の岩堀美雪先生にあった。彼女は子供達を「自分のよい所を捜す、家族のみんなのよい所を捜す、友達のよい所を捜すことを教育の原点に置いて指導している」とのこと。「自分を好きになろう」を教えているとのこと。大変よいことだと感心した。へ理屈を何百遍重ねるよりも、よいと思うことを1つ実行するのが、何より重要である。美雪先生は、その教育方針を「パーソナルポートフォリオ」と名付けて、本を出したり、研修会を行っている。福井にも、こんなすばらしい先生がいることを知り、うれしくなった。私達の会社の社員研修(must会議)で一度提案してみようと考えている。その内容を簡単に説明すると、まずノートの表紙裏に自分の夢、目標をかく。そしてその右側のページに自分の写真を貼付。そして次々と自分が好きと思うもの、よいと思うことなどをドンドン貼付したり、ファイルしていく。そうするとそのノートやファイルは私達の宝物になるという。一度試してみるとよい。私はもう何十年もの間、手帳や日記帳をそのように使っている。それが自分史にもなるのである。美雪先生が若くして、これ程よいことに気付き、いち早く実行している勇気に拍手を送りたい。

秋たけなわ

平成21年10月6日
秋たけなわ

仲秋の名月を賞でながら、「芋と酒」を楽しむ季節となった。昼はまた、爽やかな秋風の中、各地で「野点」のお茶会が開かれている。床几に赤毛せんを敷いて、着物を優雅に着飾った女性達が秋の一時を楽しんでいる。表千家、裏千家、煎茶の席もある。遠くから見ているだけで、日本人としての喜びが沸いてくる。こんな優雅な時間を、自然の中で味わえる人々が、世界にいるのであろうか。茶道という日本文化のありがたさについつい涙する。
茶は薬といわれるが、茶道の先生は一日何十杯ものお茶を飲んでいる。「緑色の汗が出る」とのこと、冗談なのかどうか定かではないが、毒でないことは確かである。薬としての効能はまずはビタミンを多く含むこと。高血圧にもよいとのことで、最近「おうす」を飲むよう心がけている。
野点は越前陶芸村の広大な林の中で開かれていた。抹茶をいただく前にまず和菓子が運ばれてくる。それを口に入れていると茶碗に入ったお抹茶がうやうやしく運ばれてくる。この緑色のお茶が何とも美しい。
お茶席の和菓子の重要さに気付いたのは最近である。文人や画家が数多く住んでいた鎌倉にあこがれて、しばらく鎌倉に住んだことがある。その時、寺院や料理店、喫茶店など各地でお抹茶が供せられていた。そして必ずおいしい和菓子を添えて出されるのである。私は甘くない和菓子が大好きである。手作りの、色彩豊かな、かわいい和菓子は、一つ一つが芸術品である。和菓子が洋菓子ブームの中で、けなげに健闘しているのは誠にありがたい。
福井の足羽山の愛宕坂に「茶道美術館」がある。市営である。そこでお抹茶を飲ましてくれるが、干菓子である。菓子組合の皆さんが福井市内各所にある「お抹茶どころ」を掘りおこし、おいしい和菓子を提供されるとよいと常日頃考えている。特に茶道美術館は絶好の場所である。

茶道

平成21年10月2日
茶道

茶の起源は世界的に見ても古い。日本で、茶に関する史実が残っているのは、729年聖武天皇が宮中大極殿にて施茶の儀式ありとある。749年孝謙天皇が東大寺の大仏前で施茶。804年最澄が、茶の種を中国より持ち帰り、比叡山の麓の坂本に植えたとある。1191年栄西、宋より茶の種を持ち帰る。1206年明恵これを高山寺に植えた。1483年銀閣寺に同仁斎と称する茶室あり。1502年茶道の祖といわれる村田珠光没。珠光の前の茶は、茶道とは言わず、寺や公家、武家の間で行われていたが、村田珠光は今日の茶道にまで高めていったのである。
侘びや寂びを茶道の中心に据えたのである。それまでは特権階級が豪華な部屋で茶を楽しんでいたが、珠光は日常生活から脱却し、精神世界へ入るための「茶道」を追求したのである。村田珠光は「藁屋に、名馬つなぎたるがよし」と言っている。「月に叢雲」「動と静」「明と暗」「華美とさび」など、対極の美を表わしている。そして珠光から武野紹鴎へ、そして千利休へと続く茶道は、益々厳しさを増し、一期一会の精神性を加味し、世界に類のない発展を遂げつつある。
茶道は日本文化の中心といってもいい程に、その後の日本の芸術や文化生活に大きな影響を与えてきた。侘びや寂びの観念に通じるものを世界に捜せば、よく似たものはある。しかしそれを美の世界の頂点に位置づけ、さらに日本庭園、日本建築、特に茶室に凝縮していく、この徹底した侘びや寂びの精神文化は、比類ないものといわねばならない。
茶室の定型は4畳半である。国宝の茶室は、京都、山崎の妙喜庵の中の「待庵」、愛知、犬山の有楽苑の「如庵」、京都大徳寺の龍光院の「密庵席」の三つである。この三つの建物が国宝である。世界広しといえども、これ程小さな建物を国宝としている国は他に例がない。そして茶室へ入る「にじり口」の意匠、アイデアのすばらしさは圧巻である。その前の茶庭の入口から続く緊張感は正に日本独特の小宇宙である。千年の都、京都には、日本古来の美が凝縮して残っている。それが茶道を生み、育て、今日を迎えてきたのである。古いものを残すこと、そしてそれを育てること、更に「革新的なもの」は京都から始まることも忘れてはならない。
日本庭園から続く茶室を含む日本建築、そして茶室の中にある、床の間の掛け軸、香炉、花生、茶道具の数々、懐石料理、書道、華道、香道などを併せた伝統文化の数々、参会者の着物や持物に至るまで、きめ細かな一つ一つの品物が磨きぬかれた文化の粋となって表わされてきている。
日本画や歌道、俳諧の世界も茶道に連なっている。和菓子、陶芸、竹芸、木工芸、鉄器類、漆芸、和紙、織物などその裾野は広大である。武士が命のやりとりをする前に、小さな密室の中で、一期一会の茶を通じて、何ものかを感じあっていた頃から、茶道は急速に発展し、そして現在の未曾有の発展を遂げたのである。
茶道が確立しつつあった千利休、古田織部、松平不昧などの頃に返って、もう一度枯淡の文化を味わって見るのも一興と思うが、いかがであろうか。

シルバーウィーク

平成21年9月30日
シルバーウィーク

4月29日の昭和の日から5月5日の子供の日までの7日間をゴールデンウィークと呼ぶのは、すっかり定着した。今年は9月21日の敬老の日、23日秋分の日の前後5日間が、シルバーウィークと呼ばれ、秋の行楽の誘い水になった。千円乗り放題の高速料金割引もプラスに働き、行楽地の旅館ホテルは札止めの満室となり、不景気に泣いていた観光地は、久々の大入り満員となった。高速道路の渋滞も予想された程でもなく、一般道路が空いていたので、実質的なCO2削減効果はあったと思われる。「案ずるより産むが易し」である。
一般道路を走行すると、渋滞は当然であり、更に信号での急停止、急発信を0.5km毎にくり返すことになる。それが高速道路を走ると、原則として渋滞はゼロ、信号待ちはゼロ、急発進・急停止はゼロになり、CO2削減効果は当然大きくなる。高速道路が混雑して各地で渋滞が起きるという予測は、今回のシルバーウィークで誤りであることが判明した。
今年の5連休は私は家にいることにした。本を読みたかったからである。図書館から借りてきたのは、シルクロード関係の本と平山郁夫、美知子さんに関係する本である。約8冊を丹念に読んだ。平山郁夫画伯と奥さんの美知子さんそして高田好胤さんとシルクロード、玄奘三蔵、薬師寺の玄奘三蔵院それ等の要素が一本の線のようにつながって見える。そして私のすぐ近くにその先が来ているように思えるのである。
平山郁夫画伯は、原爆の直下で被災した生き残りの貴重な体験をされたとのこと。爆発の熱風や死の灰や死の雨から身を守り、1・2日以内に中心地から脱出した人が助かっている。幸運の人、強運の人である。
その平山さんが世界中の美術館博物館や各地の文化遺跡にある日本やアジアの文化遺産の修復作業、保存作業をすすめるために「文化財赤十字」構想を持っていると聞き、興味を持ったのである。何冊もの著書を読んでみると、「文化財赤十字」は既に構想の域を脱していることに気付かされた。世界中への出動を重ねておられるのである。アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、アイルランド、ポーランド、ロシア、ドイツ、クリーブランドそしてカンボジア、アフガニスタンと幅広い。ユネスコ本部との見事な連携プレーに、正直言って大いに驚いた次第である。
シルバーウィークの読書が、平山郁夫・美知子ご夫妻のおかげで、大そうもり上り、私に深い感動を与えてくれたことに感謝したい。

アニメ、マンガ、キャラクター商品について

平成21年9月29日
アニメ、マンガ、キャラクター商品について

明治維新からの約140年間、私達日本人は、西洋文化の輸入に忙しかった。逆に日本文化が輸出されることには、あまり興味を持たなかった。徳川幕府が1867年に、パリで開かれた万博に、日本よりはじめて出展をした。それは日本の伝統工芸品ともいうべき陶器、漆器、浮世絵、甲冑などであった。印象派の画家達に大きな影響を与え、アールヌーボーのジャポニズムと注目された。
明治に入り、西洋から来日したお雇い技術者達は、日本の美術や伝統工芸、建築、庭園などの独特の優れたものに注目し、これを正当に評価し、多くの優品を故国に持ち帰っていった。それ等が現在も、世界中の美術館、博物館に収蔵されている。
明治、大正、昭和は西洋に追いつけ、追いこせの時代となった。その後、昭和20年までは軍国主義が幅をきかせた。言論も表現も厳しい統制下に置かれて見るべきものがない。
敗戦と同時に息を吹き返した芸術家や文化人は、表現の自由を徐々に取り戻していった。私の学生時代はマンガブームに始まり、劇画へと移っていった。テレビにマンガが登場し、新聞もマンガを掲載し、「サザエさん」は一世を風靡した。「鉄腕アトム」「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道」「ゲゲゲの鬼太郎」など次々とマンガの流行作家が生まれていった。トヨタ自動車のイベントにまでマンガ家が動員される時代を迎えたのである。
アメリカのディズニーワールドをしのぐ「マンガ王国」が日本に誕生したのである。そしてマンガは日本の電化製品やカメラなどと一緒に世界中に輸出されていった。キャラクター商品も成長産業の一画を占め、成長を続けたのである。
ただ心配なのは最近のマンガ、アニメなどが戦いや暴力を表に出したものが増えてきている点である。私達の日本は戦争を放棄し、暴力を否定したはずである。それがマンガやアニメ、映像の世界で幅をきかせていることに私は憤りを禁じえない。
マンガもアニメもキャラクター商品も、平和や人間愛、環境や自然をテーマに作り上げていってほしいものである。未知のものを描くこと、十年先、百年先のものを描くことそれがマンガやアニメの世界であるならば、人々にもう少し夢と希望を与えてくれるものにしてほしい。
1999年1月にニューヨークで、「アニメとマンガのシンポジウム」が開催され、マンガやアニメに対する見方に大きな変化が起きてきた。日本のマンガやアニメに対する、世界中からの興味が沸き上ってきたのである。研究者やマンガ作家(MANGAは日本のコミックをさす言葉となっている)達が日本をめざすようになってきたのである。
国際交流基金の支援を得て、パリで「現代日本短編マンガ展」が開催された。その時短編マンガのコピーが数多く、持ちこまれたという。見せるためのものである。手にとって見ることにより、理解を深めようという狙いであった。マンガを読む体験をさせたことが成功につながったという。
今やマンガ、アニメ、ゲームなどは日本文化の象徴である。マンガ作家は芥川賞や直木賞作家と遜色のない立派な文化人であることを忘れてはならない。
私はある構想を、マンガで表現できないだろうかとマンガ作家と打合せを始めたところである。出来るかどうか確信はないが、やってみる価値はあると思っている。

笑ってみる

平成21年9月28日
笑ってみる

世の中暗い話題が多い。不思議なことに、暗い話題を求める人がいる。他人の不幸を喜んでいるかのように思える人もいる。世の中が暗いと思うから暗くなる。明るいと思えば明るくなる。物事には表裏がある。明暗がある。しかし表裏も明暗も一如である。
辛い時、苦しい時に、私はひとり笑ってみることにしている。笑ってみると、大変だと思っていたことが、それ程でもないように思えてくる。更に声に出して笑ってみる。大声で笑ってみる。すると問題のポイントが見えてくる。笑っているうちに問題の殆どが消えていってしまうのだ。
悩みがある時、人に聞いてもらうだけで、悩みの殆どがなくなるといわれている。カトリック教会では懺悔室があり、神や神の代理人の神父に聞いてもらうことにより、救われるという。
笑うことも、悩みをうちあけることも、閉塞した状態からの脱出に役立つ。どん底からの回帰に役立つ。人に聞いてもらう前に、まず笑ってみよう。悩みを笑い飛ばしてみよう。笑うことによって世界が変るのである。どん底から這い上ってくる力、この力こそすべての人に与えられたものである。「人間力」と呼んでもよい。「精神力」という人もいる。「気の力」と言ってもよい。
「どん底」はあらゆる人に巡ってくる。何度も何度も経験するのが「どん底」である。そのどん底で得たもの、這い上る過程で得るもの、「蘇生」がその人の人格の涵養に資し、人生を豊かにする。
偉人伝を読んで感動することが多い。平山郁夫画伯の鎌倉の家を何度か訪ねたことがある。いつも留守が多かった。平山夫妻の仲人の前田青邨さんが紹介していただいたのが守屋多々志さんと平山郁夫さんであった。3人共当時鎌倉に住んでおられた。平山画伯は私より7歳年長であったが、原爆にあって九死に一生を得た経験があるという。瀬戸内の生口島の出身とのことであるが、柴田勝家の子孫だとのことで柴田神社社殿完成の折、本画を寄贈され、その版画を氏子一統に賜った。私の会社で柴田神社の隣地を入手し、コインパーキングシステムを設置したが、不思議な縁で、この版画も入手した。日本画の第一人者でありながら、平山画伯の温顔はいつみてもすばらしい。何回も何回もどん底を経験しながら、それを乗り越えられた、そのプロセスをたどる時、私は沸き上ってくる感動に身震いがする。
平山夫人の美知子さんに、数冊の本がある。いつもスケッチ旅行に同行され、介添役として画伯を陰でしっかりと支えておられるのである。「二人の歩く後に道ができる」と夫人は言う。この言葉にこめられた楽観的な考え方、生き方が平山夫妻の人生に大きなプラスの働きをしているように私は思う。
「一本の道がある」「その道を行く」というのが普通であるが、「二人の歩く後に道ができる」というのは何とすばらしい自信であろうか、何とすばらしい開拓者魂であろうか。
お二人は「文化財赤十字」を提唱し、これを実行されている。世界中の仏教遺跡、日本の伝統芸術の修復や保存のため、私財を投じ、自ら現地へ出向いてこの支援をされている。ワシントンのスミソニアンの美術館の東洋美術品の修復やバーミアンの仏教遺跡復旧に多大の貢献をされている。原爆の死の世界から「蘇生」し、そして笑顔を絶やさず世界平和のため、身を挺して活躍されている姿は、赤十字を生んだナイチンゲールの姿と重なってみえる。ノーベル平和賞に最もふさわしい人と思うのは私だけではないはずである。
「どんな困難に直面しても、不撓不屈の開拓者精神を持って可能性に挑戦する」これが私の会社の社是の一つであるが、平山画伯の人生そのものである。
この厳しい社会情勢の中にあって、笑顔を忘れず、生きていきたい。さあ笑ってみよう。

松尾芭蕉サミット

平成21年9月18日
松尾芭蕉サミット

敦賀短期大学は最近まで瀬戸内寂聴さんが学長を務めていた。その大学から例年の如く福井経済同友会を通して、企業の最前線から学生向の講演と依頼され、お引受けをした。敦賀は私にとって特別なところである。琵琶湖岸に育った私にとって「ウミへ行く」というのは琵琶湖へ行くことである。敦賀の松原海岸や美浜へ行くことを「塩海へ行く」と言っていた。塩海の水は塩からく、浮力が強いので潜るのに苦労したものである。
敦賀には私の生涯の中で大きな影響を受けることになった敦賀セメントがあった。1企業1工場(原石山は岐阜にもあったが・・・)ではあるが、幸いなことに海岸工場なので、内陸工場が廃工場化した中にあって、立派に生き残っている。その敦賀セメントのセメントを売る仕事が、大学を出て最初の仕事になった。そしてその後も関係が続いている。いまだに福井市にある敦賀セメント本社の建物の一部を借りており、関係は深い。
その敦賀市で松尾芭蕉の「奥の細道」敦賀サミットが10月3日、4日に開催される。1689年に芭蕉が旅をして以来300年経ったのをきっかけにして関係する公共団体等が、地域活性化をはかろうと始めたのがこのサミットである。
「奥の細道」には記載されている福井県内の句が5句、その内4句が敦賀で詠まれている。芭蕉は敦賀の色ヶ浜、本隆寺で句会を催しており、12句を作っている。また「奥の細道」には記載されていないが、山中温泉で曾良と別れた芭蕉が、仲秋の名月を賞んと、福井から敦賀を目指した「月の句」が14句ある。「奥の細道」の旅の主目的がこの色ヶ浜の観月会だとの見方もある程、敦賀での句作が多い。「敦賀と芭蕉」、この対比こそ、地域の文化振興、観光開発にとって、貴重なテーマとなる。サミットに併せて開かれる全国俳句大会も楽しみである。思えば福井県は俳句や和歌、詩とのかかわりが深い。源氏物語の紫式部をはじめ数多くの歌人、詩人、俳人達が福井県を訪れている。そして名歌、名句、秀逸な詩を残していっている。気がついてみれば福井は文化の香り高いところなのである。

ガーデンニング

平成21年9月17日
ガーデンニング

イギリスのキューガーデンやパームハウスを訪れてみると、16世紀から19世紀に至る約300年余りの間に、世界中から収集してきた植物類が栽培され、研究されているのが一目でわかる。
イギリス固有の樹木は僅かに200種といわれている。ところが、17世紀には1,000種が増え、18世紀には9,000種が持ち込まれ、栽培されたという。スペインの無敵艦隊を破ったイギリスは、制海権を握り、世界の海へ進出していったのである。アメリカ大陸、オーストラリア、アフリカ各地、インドなど世界各地に殖民地を持ち、中国を半植民地化し、日本へやってきたのは19世紀末のことである。20世紀初頭までイギリスは、世界一の大国であることを維持したが、その前はヨーロッパの一弱小国にすぎなかったのである。国力の増大と共に、世界の富を集めるのはあらゆる国の歴史が証明している。イギリスは文化遺産や金銀財宝を集めると同時に、世界中から珍しい植物や樹木を集めたのである。それがガーデンニングの始まりとなった。
温室の誕生である。温度調整を行わなければ成育しない樹木の栽培のために巨大な温室が建てられた。クリスタルパレスである。ロンドンの万博(1851年)の会場のハイドパークに建てられ、その後シドナムの丘に移築されたクリスタルパレス(水晶宮)は1936年の失火による消失まで多くのロンドン市民に愛された。その後クリスタルパレス公園として存在している。そしてキューガーデンの巨大温室はここにある。
ガーデンニングは、植物を育てる楽しみと、庭を作る楽しみ、そして家族や友人、隣人達との交歓をもたらしてくれる。植物図鑑を片手に次のシーズンの種蒔きを夢見るのもよし、日々成長する草花の変化に目を見張るのもよし、木々の季節の変化を楽しむのもよし。植物は、私達動物とは違う「何か」を持っている。その「何か」を捜すのは、ガーデンニングの魅力の第一である。ペットブームと同じように、人間は孤独であることに耐えられないようだ。その孤独を慰めてくれるのは草花であり、木々である。語りかけてみよう。「何か」が返ってくる。植物との会話が出来るようになれば、ガーデンニング免許皆伝の証明書が天からもらえる。
福井で完成した分譲マンションの住人達と、付属の広い庭園の一画でガーデンニングを楽しむことにした。「ガーデンニングクラブ」を発足させることにしたのである。早速来年の球根を植える作業をはじめなければならない。

痛み

平成21年9月15日
痛み
すべての人間に平等に与えられるものは時間である。いや人間だけに限らず地上に海中に生けとし生けるものに平等に与えられるものが時間である。その時間の長短はあるが、すべての生きものは、生まれた時間から「死への旅」をはじめているのである。
死は人間にとって永遠のテーマである。死を克服することは不可能であるが、死を忘れることは出来ない。死との対話は、芸術の領域でも、大きなウェイトを占めている。宗教の領域ではなお更であり、医学や科学は死への挑戦の歴史でもあった。
秦の始皇帝も、徐福も、永遠の生命を与えてくれる不老長寿の薬を求めた。日本における徐福伝説のあまりの多さは、一体いかなる理由によるものであろうか。しかし伝説の多くは「不老長寿の薬」といわれる「薬草」を上げている。「良薬口に苦し」という「薬草群」である。
現代人の2人に1人はガンにかかるという。3人に1人の死因はガンであるという。ガンは痛みを伴った病気である。疼痛の病気である。先に妻がガンでなくなった。発病して3年。疼痛との闘いであった。座薬が多少効いた。モルヒネの注射は嫌っていた。
母は満86歳まで生きた。ガンの疼痛に耐えて、神仏にすかって生き続けた。死の間際まで意識はしっかりしていた。2006年に「ガン対策基本法」ができて、ガンの疼痛緩和治療が明文化された。日本では麻薬であるモルヒネ類の使用は、それ迄公然とは認められていなかったのである。その為世界の最先端であるはずの、日本の医療現場で使用されている医療用麻薬の使用量は、ドイツの5分の1以下、アメリカの3分の1といわれている。埼玉県ガンセンターの、WTOガン疼痛治療指針の治療成績によると、モルヒネ等を使用すると87%が全く痛みを感じない、9%がほぼ痛みを感じない、4%が軽くなったとの結果である。効かないというのは0%である。
モルヒネを使用すると中毒になるという。ガン患者は激しい痛みと戦っているので頭の中にダイノルフィンが常に放出されていて、ドーパミンの放出を抑制する。だから決して中毒にはならないという。2008年日本医師会の調査によると、約半数の医師が、中毒症状を引き起こし薬物中毒になると誤解していたという。
疼痛緩和医療を普及させる為に、医師と患者とその家族に対して、国や製薬メーカー、マスメディアが、もっと責任をもって強力に啓蒙活動をしていくことが必要である。高齢社会がどんどん進んでいる中で、寝たきりやぼけに苦しむ家族が増えている。ガンの場合は痛みさえとれれば、死ぬまで頭脳明晰である。どちらが幸せか考えてみてほしい。「死ぬならガンで」という人が増えてきているのだそうである。

夢・希望を語る

平成21年9月14日
夢・希望を語る

夢や希望を語り合う友を持っているか。語り合う友がいる人といない人とでは、近い将来に、大差がついてしまう。
夢や希望を語ろうとすれば、夢や希望について考えなければならない。考えることにより前向きの姿勢が生まれ、それが喜びにつながっていく。
夢や希望について考え、友と語り合って、それぞれの夢や希望を追っていくと人生はバラ色になる。喜びが生まれ、幸せにつながっていく。子供達や若者達が、夢や希望を持てないという。豊かな社会、閉塞感の強い時代がそうさせるのであろうか。
私は「夢追い人」である。どんな困難に直面しても、夢や希望を失わず、常に前へ出る事だけを考えて生きている。過去を振り返らず、明日のこと、未来のことを話すクセをつけてきた。
私のクセは「ゴミを拾うこと」私の口グセは「出来る、出来る、出来る」私のモットーは「明るく、元気よく、前向き」である。
自分の夢や希望を語れる相手を見つけよう。それが友であればすばらしい。家族でもよい。未来の人生の伴侶であれば最高だ。ヘミングウェーの老人の海ではないが、若者に語るのもよい。現代は孤独社会であり、語り合うというコミュニケーションの場があまりにも不足している。青春時代は二度とこないといわれている。今を青春と思えば、70歳を既に超えた私ではあるが、全身に勇気が沸き上ってくる。夢や希望が胸一杯にふくれ上ってくる。夢や希望は人を幸せにする。夢や希望は、誰でも、何時でも、どこでも持つことが出来る。
夢や希望を持つことは、人間の特権である。万人に与えられた特権である。すべての人々が、この特権を生かして是非共すばらしい夢や希望を持ってほしい。願わくば、その夢や希望があまりに自分本位にならないように、我利我利亡者にならないように祈りたい。

夢への十カ条

平成21年9月8日
夢への十カ条

夢を夢見て生涯を送る人を「夢追い人」という。私はその「夢追い人」である。そしてこんなPRを地元の福井新聞の広告欄に掲載したことがある。毎月掲載し、3年に及んだと記憶している。それは

「大きな夢を持とう、その夢が大きければ大きい程、人生が大きくなる。高い志を持とう。その志が高ければ高いほど、人生が崇高になる」というものである。

このフレーズが私の夢のエッセンスである。そして「夢への十カ条」
を作った。以下その十ヵ条である。
「大きな夢、高い志を持つ」
「喜びの種、幸せの種を蒔く」
「一人三役に徹す」
「利他の心を持つ」
「十方よしが基本理念」
「生き生きと共に生きる」
「実行こそすべてに優る」
「生涯現役を貫く」
「温顔愛語で笑顔で暮らす」
「一日一生、悔いない人生」

「十方よしが基本理念」いかなる時も夢を失わず、常に夢に向って歩き続ける人生こそ最高と思う。夢を失っている子供達や大人達が多いと聞いて暗澹たる気持になった。「夢追い人」を自認する私は、この「夢への十カ条」を引き下げて「夢の伝道士」として、若者達をはじめ人々に夢を語る旅に出ることにした。  今年はあと何回この夢を語る機会が与えられるのであろうか。それを思うとまた明日が楽しみである。

自動車の軽量化

平成21年9月2日
自動車の軽量化

自動車部品のリサイクルが進みつつある。私の事務所の椅子はカーシートをとりはずし、回転できるように改良して使っている。違和感は全くない。長時間座っていても疲れない。快適シートである。
「車両総重量」とカタログに表示されているのを、各車それぞれ比較してみると、車がいかに重いかを発見し、驚く。小型車の平均重量は約1tである。重量を30%軽くすると、燃費は20%向上するという。重量を30%軽くする研究が今進みつつある。
エンジンが重い。サスペンション(足回り部品)も重い。ボンネットは見た目より遥かに重い。かつてのエンジンと最近のエンジンと比較すると、アルミが多く使われている。かつて車は殆どが鋼製であった。最近はFRPなどの樹脂の多用がどんどん進んでいる。鋼製から特殊鋼への進化も顕著である。日本の自動車産業を支える技術革新の裾野は広い。アメリカのビッグスリーを窮地に追い込んだ遠因は、この総合的な技術開発の差なのかもしれない。
小さく見えることを積み上げていくと、大きな差が出てくる。部品点数それぞれを30%を軽くする方法を考えていくと、目標が達成されてしまう。私は車の電装品の軽量化も進むと考えている。不必要なもの、大きすぎるものの検討もされることであろう。例えばタバコ用の灰皿、ライターなどは要らない。運転中の喫煙は危険であり、同乗者の健康にも悪影響を与えるからだ。
車は剛構造であった。それが徐々に柔構造に変りつつある。この傾向は「軽量化」の要請が大きくなると共に、更に進んでいくであろう。軽い素材への置き換え、強度の増強による原材料のカット、新材料の誕生など車をとりまく開発の波は大きなうねりを見せだしている。インドや中国の自動車メーカーとの競争が始まるのは避けられない。そこで競われるのはまず「燃費競争」である。「軽量化競争」である。新電池開発と電池重量の軽減、電池の耐久性向上などハイブリッドカーや電気自動車の普及と共に、新たな研究開発が求められてきている。モーターの小型高性能化は既に完成の域にある。問題は電池である。

平成21年8月31日

「一炊の夢」という故事がある。中国の趙の都、邯鄲で、盧生という者が、夢の中で富貴栄華を味わったという。夢からさめると炊いていた栗飯(一説では黄梁)がまだ炊き上がっていなかったという。この世は一炊の夢に過ぎないとの意味である。「夢」を睡眠中にみる夢をさす場合や「はかなさ」をさす場合が多かったが、最近では「実現は難しいが、努力すれば手に入る希望」を「夢」というようになってきた。私は「希望」よりも「夢」という言葉の方が好きだ。
福井県と東京大学社会科学研究所と釜石市が「希望学」の研究をはじめている。今年から4年をかけて、県内での調査研究が予定されている。福井県は住み易いまち癸韻魏甬5年間続けたり、安全なまち、豊かなまち、食材に恵まれたまち等として生活満足度が高い。そして小学生、中学生の学力、体力とも、全国トップクラスである。
普通に考えればそんなまちに住む人々や子供達は「夢」や「希望」に満ちあふれた生活をしているはずであるが、調査結果は全国中位である。将来に希望を持たない子供達、持てない大人達が多いという。そこで今回の研究調査が始まるのである。
子供達に夢や希望を与えるのは、社会責任であり、教育者や大人達の義務であり、躾の重要な要素である。しかし、現代は、「夢」や「希望」を持つことに情熱を注ぎ、執着心を持つ人が減っている。「夢」というキラキラ輝いている目標を持つ人は幸せである。しかし現実は、安易な小成に満足しているのか、日々の生活に追われているのか、閉塞感に満ちた社会に絶望しているのか、夢を持つ人が少ない。
私は「夢の語り部」として毎年、機械あるごとに「夢」の話をしに出かけていく。テーマは「夢」、『夢への挑戦』『夢への挑戦者達』『夢への始動』など「夢」に関する講演が多い。歴史上の有名な人々、例えば聖徳太子、菅原道真、法然、親鸞、道元、信長、秀吉など、誰を取り上げても、彼等の人生は、夢追い人の人生である。人間この世に生を受けた以上は、生涯をかけて「夢を追い続けていく」ことこそが人の道であろう。すばらしい夢を子供達が見つけられるよう、手助けをしていきたいものである。

夜明け前

平成21年8月27日
夜明け前

窓の月明かりに誘われて、テラスに出てみると、頭上に上弦の月。山の端に明けの明星か。静かに夜の帳が今あけようとしている。ここ永平寺町の山々は、黒々と横たわって夜明けを待っている。
この一帯は、遠い昔から、越の国の「王家の谷」といわれてきた。北陸地方最大の前方後円墳が九頭竜川の両岸の山頂に集中して築かれている。特に私の住む山続きには、山頂に沿って数多くの大型の前方後円墳がある。四世紀に築かれた。そしてこれ等の古墳は、笏谷石といわれる青味がかった石で作られた石棺をもった首長系譜のもので、内部に廃水溝のような切込があり、この地方だけの特徴である。
大陸や半島の影響、そして広域にわたっての水運を利用した交流によって、この地方は早くから開けていた。中国南方の水稲栽培の導入、朝鮮南部との濃密な関係、特に製鉄遺跡は古く、銅鐸も2千年前に作られたものがあり、外洋船の大型船が描かれているという。継体天皇の婚姻関係は九頭竜川流域と近江の湖西、湖北、湖東、そして尾張や美濃と広い。それは水運、陸運を押さえる豪族連携と見ることが出来る。
夜明けの一時は、古代のロマンを思い起こさせる。継体天皇が即位前の1,500年以上の昔、この月や星を見たのかと思うと感無量である。この静かな自然の中で、平和な朝を迎えることの出来る幸せに感謝したい。そろそろ東天が白みはじめた。

木のぬくもり

平成21年8月26日
木のぬくもり

私の生まれ育った家は、純日本風であった。玄関の戸をあけて入ると、そこは土間(タタキ三和土)。そして土間は、そのまま次の戸を開けると台所、井戸、カマドの横を通り、また戸を開けると風呂場、小便所、大便所そしてその先の離れ(隠居)まで続いていた。土間から畳敷の部屋へ上る所に、重厚な木の作りつけの物入れがあった。フタを上げてみると、そこには炭入れとなっていた。木はぬれ縁、床の間、仏間、階段、押入に使われていた。玄関の間はフスマでなく、板戸の4枚引戸であった。台所の大きな食器入も漆塗りの木で出来ていた。家族7人が使う食卓も木製。祖父母は別に箱膳で食べていた。
結婚して生家と別に、自分が設計をして、家を建てた時、木を多用した。木のぬくもりが忘れられなかったからだ。次々と転勤のたびに、家を建てて、住んだ。特に最近は「白い木のテラス」に凝っている。気分を変えたい時、外の空気を吸いに真っ白テラスに出る。外の緑と白のコントラストが見事である。至福の気分を味わわせてくれる。テラスを歩きまわっていると嫌なことは忘れてしまう。部屋の床もすべて木の無垢のフローリングを使っている。素足に心地よいからだ。冬は絨緞を敷く。
机も食卓も家具類も、木のぬくもりを優先している。これも日本人のDNAのせいであろうか。素手でテーブルや椅子をなでていると、気持が優しくなってくるから不思議である。地球温暖化防止のためには、木の浪費を止めなければならないという。日本は世界中から木材を輸入している。木材の輸入量は世界一である。国土の7割が緑で覆われている日本は世界トップクラスの森林資源を持っている。そして日本文化は木の文化といわれている。今輸入している木材はカナダ材、ロシア材、アメリカ材、スウェーデン材、南洋材などどの木も100年以上かけて育ったものである。
木のリサイクル、建築用の古材のリサイクルをやらなければならない。使い捨てでない木の文化をもう一度とり戻したいと切に願っている。木は数百年、数千年も使い続けることが出来る宝物である。「木の文化」をもう一度再認識し、使い捨てをやめる住宅にしてほしいものである。

東京一極集中 

平成21年8月25日
東京一極集中 

東京への過度の集中による弊害は、各方面に著しいが、特に情報面で問題が多い。まずテレビ局のキー局はすべて東京にある。そしてその媒体への広告を提供する広告会社もすべて東京にいる。新聞社、ラジオ局もすべて同じである。雑誌社も書籍の出版社、配送社も何一つ例外はない。これ等は許認可の必要なもの、不必要なものを含めて、すべての情報発信元が東京に集中してしまっている。インターネット時代を迎えて、今後地方への分散投資がいやでも進んでいくと思われるが、その傾向を食い止めるのでなく、促進することを望みたい。
教育についても同様である。高等教育においての東京一極集中は目にあまるものがある。私学も含めて、地方への重点的な支援を行っていくことが肝要である。札幌農学校、各地の帝国大学そしてユニークな地方の私学のかずかず、多彩な人材を世に送り出した歴史をもう一度反省してみなければならない。ノーベル賞の受賞者を数えてみても、地方の大学  出身者が多いことに気付く。学問の研究も自由な空間で、のびのびと、切磋琢磨していくところに成果が生まれるのである。私は教育こそ「東京以外のところ」で行われるべきだという強い信念を持っている。世界中の有名大学を考えても、それが証明できるのである。
芸術や文化についてもなお更である。今や能や歌舞伎などの伝統芸術でさえ東京集中がすすんでいる。すばらしい音楽会や展覧会、演劇などは東京でなければ鑑賞するのは無理である。これまたシステムの変更が必要である。
日本の交通インフラが高すぎる点も問題がある。今回高速道路料金が激的に下げられたことで、日本列島はこれから大きく変わることと思われる。この交通インフラのコストダウンは、東京一極集中の弊害を根治する特効薬である。高速道路料金が安くなると、JRも高速バスも私鉄も、料金引下げに動かざるを得ない。航空料金も追随せざるを得ない。そこに新しい日本列島の姿を思い浮かべるのは私だけなのであろうか。日本列島のすばらしさを日本人に、世界中の人々に知らせる絶好のチャンス到来が近い。

九頭竜川

平成21年8月24日
九頭竜川
福井の海産物は、「越前ガニ」や「甘えび」「若狭がれい」や「ねりうに」「もみわかめ」などが有名である。特に「越前ガニ」は皇室献上の歴史も古く、カニの王様として中京や京阪神の食通の方々に愛されている。しかし海だけでなく、山がもたらす「あけび」「栗」「ヒシ」や「マッタケ」「ワラビ」「ゼンマイ」「シイタケ」「シメジ」などの山菜類を忘れてはならない。更にまた河川からは、上流域で「イワナ」「アナゴ」「鮎」などが生育。中流域では「サケ科」「コイ科」「ドジョウ科」「ハゼ科」など様々な魚類がおり、下流域では淡水魚のほかに汽水性の「ボラ」「スズキ」も見られる。重要種の指定を受けているのは、「サツキマス」「ハス」「カマキリ」「アジメドジョウ」の4種類である。まさにその言葉の通り山海の珍味が揃う福井である。
福井市の中心から約2km程北へ来た「開発地籍」に免震構造のマンションを建てた。今春竣工したばかりであるが、そのロビーに「黒龍川」という名の畳一帖大の「陶板」レリーフがある。畏友五島哲先生の作である。この「黒龍川」が福井県の嶺北(かつての越前)1帯を流れる九頭竜川の古名といわれている。水系は、最上流で石徹白川が入る。この川は白山に連なる銚子岳(1810m)を源にしており、これを本流とする見方もあるが、岐阜県境の油坂峠(717m)を源に、三国港の日本海へ注ぐ福井県最大の河川である。幹川流路延長は116kmであるが、流域の一級河川数147本、1034kmにも及んでいる。流域面積は約3,000平方キロと日本でもトップクラスの大河である。打波川を合流して大野盆地へ、勝山盆地で真名川、滝波川を合わせて福井平野へ、そして足羽川を支流に持つ日野川と合流、河口近くで竹田川を合わせて日本海に注ぐ。正にその名の通り、三国から網の目のように広がった一本の大河であり、九つの頭を持つ竜の如く、147本の一級河川の支流に連なっている。年間流出流量は約60億㎥で、これまたトップクラスの大河である。環境基準値もよく、上流はAA(BOD1mg/ℓ、上流から中流A(2mg/ℓ)、下流はB(3mg/ℓ)と清流である。この清流がこの大河の各地で絶好の釣り場を形成している。特に九頭竜川(支流のすべてを含めて)の鮎をブランド化したいと考えている。春の解禁から盛夏を過ぎた落鮎のシーズンまで、釣天狗を楽しませてくれる鮎の味、天然鮎の香りと味は絶品である。「越前ガニ」「若狭がれい」と並ぶ「九頭竜アユ」の誕生を期して待っている。
今が「九頭竜アユ」の最高のシーズンである。各河川のいたる所に「九頭竜アユ」を味覚させてくれる料理屋がある。越前海岸に並ぶ「越前ガニ」のコース料理店と同じように、県内の「九頭竜アユ」の店を登録し、全国へ「九頭竜アユ」を発信していく価値は十二分にある。勿論「釣り場」のPRも併せて行っていけば、「福井県」がハワイやマイアミ以上にすばらしい所、永住の地にふさわしい所であるとの認識も無理なく生まれてこようというものである。
参考までに記しておくと、中世までは崩河(くづれがわ)とも呼ばれていたが、近世では黒竜川(くろたつがわ)、明治以来九頭竜川と統一されている。承平(931〜937)に国土を守る為に国の四隅に四神が置かれたという。その一つが越前の黒竜大明神といわれた。黒竜大明神の祭神は水体、黒竜王である。そして前方を流れる川を黒竜川と呼ぶ(越前国主記)とある。ちなみに四神の東は、常陸の鹿島大明神、西は安芸の厳島大明神、南は紀伊の熊野大明神である。福井には足羽山の登山口に「毛(け)谷(や)黒竜(くろたつ)神社」がある。継体天皇が「黒竜」(九頭竜川のこと)を黒竜村の毛谷の社に祀ったのが神社の起源といわれている。すぐ近くの足羽神社の神体は継体天皇といわれている。
 中流域の両岸は越の大王の「王家の谷」がある。4世紀に作られ始めた前方後円墳は北陸全体で約200基の内120基が福井県にある。そしてその8割が福井平野にある。北陸全体の半分が福井平野に集中し、その最大のものはすべてこの「王家の谷」九頭竜川両岸にある。この「王家の谷」の発掘調査がすすめば、エジプトのピラミッドと同様に、新発見があるのは確実である。

塩の道

平成21年8月19日
塩の道
越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄の陣へ「塩を送った」故事が、「敵に塩を送る」という格言を生んだ。命をかけて戦い続け、生涯結着のつかなかった両雄の間に、武士として相手を尊敬し、「武士は相身たがい」の心で送ったのであろうか。武士道の鑑として高く評価された出来事である。そして日本海側から日本列島の中央部へ続く「塩の道」の存在を表わす一事でもある。
私は山梨県の南アルプス市に取引先があるので、福井から北陸自動車道にのり、上越自動車道、中央道を通りドライブをすることがある。約5時間ほどの快適なコースである。そして古来よりの「塩の道」を偲んで、感無量の思いを新たにする。
三国の塩は大野を経由して郡上八幡や高山へ運ばれた。九頭竜川を遡っていく川筋は、堰やダムのなかった時代には、山間部からの木材の運び出しに利用され、魚の下流への移動、又海からの溯上にも役立っていた。塩の道もこの川筋をたどる道であった。
若狭の塩は、「鯖街道」と呼ばれる道を通って、古くから京都や奈良へ送られた。鯖街道の由来は、「若狭の海で、夜漁火の下で鯖を釣る。これを塩でしめて、「小浜」から「九里半峠」を超え、「朽木谷」を抜け「途中」から「大原」「八瀬」を過ぎ、「出町柳」へ翌朝到る。そして都の台所といわれる「錦市場」で売りに出される。約100kmの道程である。海のない京都や近江の人々にとって塩や新鮮な海産物を運んでくれる命の道それが「塩の道 鯖街道」である。
また敦賀の塩も奈良、平安の昔より有名である。全国の塩の道が閉ざされた時、敦賀の塩の道だけが残っており、助かったといわれている。塩は直接、間接に摂取すると同時に、保存食用になくてはならないものであった。みそやしょうゆの調味料をはじめ、梅干、漬物など「塩」は生命の維持にどうしても欠かせないものであった。
私の子供の頃は「塩」は国の専売であった。近所の官許塩屋さんへ、ナベを持って、量り売りの塩を買いにいった記憶がある。かつて塩や砂糖は、食用油やお酒、お米と同様に、貴重品であった。僅か60年程前の日本のことである。

夢を追う

平成21年8月18日
夢を追う

福井県の小学生も中学生も、最近の調査によると、学力、体力ともに日本一とのことである。これは学校の現場は勿論のこと、県全体にとって誠に喜ばしいことといえよう。学校教育、家庭教育、地域社会の協力すべてがうまく機能したおかげである。素直に喜びたい。
しかし子供達に「夢があるか」「希望を持っているか」という設問に対しては全国中位の結果に終っているという。誠に不思議な結果である。一番多くの夢、大きな夢を持っているはずの子供達が「夢や希望がない」というのは誠に困ったことである。
豊かな社会は人から夢を奪うといわれている。子供達は満ち足りた生活をしているから「夢や希望」が持てないのであろうか。そこに学力や体力だけでない教育の本質にかかわる大切な要素が隠れている。その要素を考えてみたい。
今日はうまくいかなかったが、明日は頑張ってうまくやろうと考えれば夢や希望は出てくる。今日はうまくいったが、明日は心配だと考えれば、夢や希望よりも不安になってしまう。現代は「不安過剰」の時代である。社会もマスコミも教師も生徒も先行きに不安を持ちすぎている。「不安」を持つことは何の益もない。すべてマイナスだけである。子供達から不安を取り除くことこそ現代の教育現場で必要不可欠のことなのだ。大学全入時代を向かえ、子供達にどのような夢や希望を持ってもらうのがよいのであろうか。地球温暖化の問題、食料や水不足の問題、生物種の大絶滅の問題をはじめインフルエンザやサブプライムなど人知で図りかねないことが次々と起きてくるのが現実である。その中にあって私達の最愛の子や孫にどんな夢や希望を与えられるのであろうか。私自身72歳の年をもかえりみず、相変わらず夢を追っている。夢追い人である。子は親の背を見て育つといわれる。子や孫に見せられる生き方を貫いていくことが夢や希望を持たせることになるのであろうか。

隣人祭り

平成21年8月17日
隣人祭り

1999年パリのアパートで孤独死した老人がいた。同じアパートに住んでいた青年が、死んだ老人に誰も気付かなかったことを悲しんで、自分の部屋に同じアパートの隣人達を招待した。お互いに、助け合う、支えあう、その為にまず知り合うことが大切だと気付いたからだ。「隣人同志」が仲良くする運動が、瞬く間にヨーロッパからアジア諸国に広がっていった。
私の子供の頃は「隣組」というのがあった。向う三軒両隣りの六軒単位を言ったが厳密に六軒と限ったものではなかった。歌にまで歌われた。「トントントンカラリト隣組、障子を開ければ顔なじみ、まわして頂戴回覧板、知らせられたり、知らせたり」非常に仲の良い近所つきあいであった。
女優の大原麗子さんが死亡しているのを警官が発見したという。死後2週間以上経過しているという。華やか芸能界を病気のため、一時休んで1人で闘病生活中の孤独死であるという。同じような孤独死が日本でも時々報じられ、「隣人」とのつながりが薄れたり、切れたりしている現代社会の暗い面を見せ付けられる。「隣人祭り」や「隣組」がもし機能していたら、こんな日本にはなっていないであろう。
福井市に一乗谷朝倉氏遺跡がある。室町時代にこの地で三代に亘って栄華を極めた朝倉氏の居城跡である。朝倉義景が京都より将軍の足利義昭を招いて出したといわれる「朝倉膳」という会席料理のレシピが残っている。このレシピを使って「朝倉膳」を再現し、これを観光客に振る舞い交流をはかる住民運動が始まった。「隣人まつりIn一乗谷朝倉氏遺跡」という。観光客を隣人としてもてなし、地域との濃密な交流をはかろうとする新しい動きである。最近この地で第60回全国植樹祭が両陛下臨席の下開かれ、温かな里山の雰囲気が大変好評であった。
私達は福井市の副都心、開発地区で北陸初の免震構造の分譲マンションを建設した。全戸75戸分と分譲店舗2店と福井県内では最大規模のものである。このマンションを理想的なコミュにーティに昇華しようとして種々のアイデアを作り上げた。その一つが「隣人祭り」である。その第1回を8月22日の夜開催する。同じマンションに暮す者がある程度の節度を保ちながら、お互いに助け合い支えあえるコミュニティを作りたいとのお願いをこめた集いである。コンシェルジュを中心として明るく爽やかな生活を送れることを祈っている。毎月の誕生会なども企画している。グランドピアノとエレクトーンが常時おいてあるので、「隣人祭り」などには気軽に自由に演奏が楽しめるようになっている。

ふるさと

平成21年8月10日
ふるさと

誰にでも「ふるさと」はある。転勤族の子供達の中には、「私にはふるさとと呼べる所はない」と嘆く人もいるが、「一番印象に残っている所はどこか」と質問すると、すんなり答がかえってくる。そこが「ふるさと」なのである。
「ふるさとは遠くにありておもうもの、そしてかなしくうたうもの、よしやうらぶれて、異土のかたいとなるとても、帰るところにあるまじや」の室生犀星の歌を私は何度心の中で歌ったことか。「ふるさと」は「帰るところ」なのか、「帰ってはいけないところ」なのかを自問自答する機会が何と多かったことだろう。
福井県知事の西川一誠氏の提唱した「ふるさと納税」が実現した。地方の発想が採択された珍しい例である。そして最近「ふるさとの発想、地方の力を活かす」という書名の本を岩波新書で出された。早速買って読んでみた。そして驚いた。感動したのである。知事がこれ程までに県民のことを思い、日々の仕事に精励されているのかと気付かされた。そして福井県民であることの幸せをしみじみ噛み締めた。
少し前のことになるが、同志社大学の米井嘉一教授に「福井のみなさんはお幸せですね」といわれたことがあった。西川知事の卓見と行政手腕を褒めての言葉であった。最近地方の知事が活発な発言や行動をして注目を集めるケースが増えている。「福井県発ふるさと納税」や「道州制への疑問」や「ふるさとの発想」などは特筆すべき快挙である。
団塊世代680万人は、今、永年勤務した組織から脱出し、新しい始動をはじめつつある。その流れの行く先はどこへ向うのであろうか。地方にとっては大きな影響を受ける問題である。彼等が選ぶ「新しいふるさと像」とはどんなものになるのか。彼等の余生はあと20年、第二の人生か、第三の人生をどのように生きていくのか。自然環境のよい所を選ぶのか、生まれた土地へ帰るのか、都会に残るのか、外国へ移住するのか。いずれにしても団塊世代の諸君は、新しい目的意識を持って行動しようとしている。「仕事をしながらそこで終の住処になるところ」を捜す――この考え方が主流になるであろう。その目的意識にあったところを作ればアイターン、ユーターンを含め、団塊世代の人々をも迎え入れることが出来る。
アメリカ人は、ハッピーリタイヤメントと言って、出来るだけ若い年齢で引退し、フロリダやカリフォルニアの海岸で、釣り三昧やゴルフに熱中することを理想とする人々が多い。「福井県」を日本のフロリダ、カリフォルニアにする方法を考えることも、必要条件の一つかもしれない。農林水産業を含めて、彼等のための受け皿づくりが出来ないものであろうか。

明治維新 その二

平成21年8月6日             
明治維新 その二

鯖江藩主間部詮勝が老中の時、井伊大老による安政の大獄事件発生し、橋本左内、梅田雲浜、吉田松陰等が処刑された。
小浜藩主酒井忠義は尊王と佐幕、攘夷と開国の中にあて京都所司代となり孝明天皇に高く評価されたが、譜代大名の立場から脱却できなかった。
大野藩は土井利忠が8歳で藩主となり、32歳で更始の令(節約令)を布いた。1855年から藩内産物を商う、商社「大野屋」を全国展開した。担当は内山七郎右衛門。維新後「良休社」という銀行の元の形を作り、武士達に出資させて、生活の安定をはかった。1858年北海道樺太進出、二本マストの西洋帆船を購入、樺太西海岸中部のライチシカからポロコタンまでの約200Kを幕府より大野藩屯田地として認可を得ている。担当早川弥五左衛門。1843年藩校令、翌年明倫館にて士農工商の子弟教育をはじめた。緒方洪庵の適々斎塾塾頭伊藤慎蔵(当時30歳)を百石で招き50両を別に与えた。ロシア語も堪能で通訳もした。1856年伊藤自宅で蘭学塾を開き、緒方洪庵の子供二人(平三と四郎)も大野で学んだ。適塾より数多くの弟子が大野へ来て、そこで蘭学グループを結成した。全国より秀才が集い、蘭学関係の翻訳、編集発行した出版物は多い。
坂本龍馬は由利公正(金札発行論者)と福井で親しくなって岩倉具視に由利公正を推薦。福井へは勝海舟の使いで海軍所の資金を春嶽に出してもらう為に来ていた。由利公正は橋本左内の農工生産拡充策と外国と積極的に交易するという説と、横井小楠の現実論の官営貿易論をはじめて実現したのである。参与になり、五ヶ条御誓文起草、太政官札発行を建議、明治2年辞任。4年東京知事。5年欧米視察、元老院議員、貴族院議員。明治27年有隣生命保険株式会社を創立し社長に就任。
関義臣は大蔵省大丞、徳島県、山形県知事、貴族院議員。坂本龍馬と海援隊を作り、西南雄藩の志士と交流。
長谷部甚平 初代岐阜県令。その子辰連は黒田清隆北海道開拓に従い、山形県知事、元老院議員。
村田氏寿  2代目岐阜県令。内務大丞。
佐々木権六 宮内省書記官、大蔵省御用掛。
田辺良顕  高知県知事、大蔵省御用掛。
堤 正誼  新潟県参事、宮城、熊本県知事、内務次官、貴族院議員、枢密顧問官。
渡辺洪基  欧米特命全権大使に随行。元老院議官。東京府知事、東京帝大初代総長、貴族院議員。
斉藤修一郎 第1回官費留学生、ボストン大学。外務省。井上馨の秘書官、商工局長、農商務次官。
三国の滝谷寺住職 道雅、幕末志士、京都の智積院より三国へ。
その弟子杉田定一(鶉山)は吉田東篁に学び、大阪三崎嘯助(理学校)に従い
東京へ。明治7年板垣退助、由利公正らが衆議院設立の建白に影響され、板垣
と意気投合。自宅で「自郷学舎」を開き、福岡の頭山満(筑前党)ら20人が入
った。その後北海道長官、衆議院議長。板垣の支援を受けた地租改正闘争は有
名。
山本条太郎 母みつの実家吉田家(勘定奉行)が裕福であったので、みつの弟吉田健三(吉田茂の義父)に預けられた。三井物産常務、満鉄総裁。その時副総裁に松岡洋右を選んだ。
幕末から明治にかけて綺羅星のごとく並んだ福井人脈の数々の一例を挙げてみ
た。主として政治や行政面を取り上げたが、他に医学、宗教、芸術、文化、教
育面でも数多くの偉才を輩出している。そのような人々を収容し、後世に残す
殿堂を福井の中心部、足羽山足羽川のあたり、愛宕坂周辺に建設したらどうか
と考えている。その名は「明治維新館」「松平春嶽ゆかりの館」「回天館」など
はいかがであろうか。

明治維新 その一

平成21年8月5日
明治維新 その一

幕末から明治にかけて、「明治維新」といわれる約30年程の期間、日本は大きな変革の渦中にあった。その渦中にあって、福井県の果した役割は、非常に大きなものがあった。福井がキラリと輝いた30年である。ところが日本の歴史の中で、福井県の果した役割は、正しく評価されていない。その理由は、薩長閥、特に長州から嫌われていたのが一因である。熊本藩細川家に強力に頼み込んで、福井へ招き、福井の改革の指南役を勤めた横井小楠は、この時期を通して、松平春嶽の活躍を支えた。
熊本での横井小楠の評価と、福井での彼に対する評価は大きく違っている。私はこの評価の違いと、その落差の大きさに疑問を抱えながら横井小楠という人物を追い続けてきた。熊本での小楠は藩学とは相容れず常に自己の信ずる所を主張し、藩論と対立していた。請われて越前藩に招かれた後は、信ずる所を周囲に理解され、尊敬されたのである。そして小楠は、熊本では相手の意見を聞くよりも、自己を主張するのに急であったが、越前では、他人の意見を十分に聞いた上で、判断をしている。まるで別人の観があるほどである。
松平春嶽は幕末の政治の中心にいた。1862年一橋慶喜将軍補佐、春嶽政事総裁職につき、小楠を政治顧問とした。大目付岡部長常と懸命に幕政改革を推進。島津斎彬薩摩藩主とかつてはかった通り、公武合体がすすみ、1863年京都無血クーデター七卿落ちとなった。1864年京都守護職、その後朝廷より参預に任命された。更に征長軍総督におされたが辞退。その養子茂昭が副総督となり長州征伐。1866年一橋慶喜将軍に。大政奉還を、春嶽と山内容堂の提案で実現。王政復古実現。摂政、関白をはじめ幕府の政治組織解体、新たに三職が任命された。総裁に有栖川親王、議定に春嶽はじめ五藩主と朝廷側近三名、参与に岩倉具視と五藩より各3名ずつ、福井からは中根雪江、酒井十之丞、毛受洪、更に由利公正が就任。翌1868年江戸は東京となり、明治天皇即位、福井より青山貞、横井小楠が参与に就任。
春嶽の正妻は熊本の細川 斎護の娘であった。11代将軍家斎は伯父、12代将軍家慶はいとこ、長兄斎荘は尾張家12代藩主、次兄斎位は一橋家を継ぎ、兄慶寿も同じく一橋家を継いだ。弟慶頼は田安家を継ぎ将軍家茂の後見役、末弟慶蔵は尾張家13代藩主と徳川幕府の中心人物ばかりである。
また春嶽の子孫を見てみると、五女節子は養子茂昭の長男康荘夫人、六女里子は徳川慶喜の子徳川厚夫人、七女正子は長州毛利五郎夫人、八女千代子は三条実美の長男公美夫人、三男慶民は式部長官、宮内大臣、戦後宮内府長官、四男徳川義親は尾張家を継いだ。
1869年の官制改革で、福井藩は明治政府より一掃された。版籍奉還により、261名の大名は太政官から藩知事、福井は茂昭が就任、横井小楠暗殺、大名の中で春嶽1人が、ただ1人残り、民部卿、大蔵卿などを歴任した。
橋本左内(景岳)は藩医であったが、鈴木主税に引き立てられた。安政地震で死亡した水戸藩の藤田東湖が「天下の豪傑といえるのは鈴木主税と西郷隆盛だけ」といった程の人物であった。1848年に家老本多修理、中根雪江、鈴木主税が春嶽を輔け、その後橋本左内や横井小楠が登用された。左内は明道館学監心得となり、その後を村田氏寿(巳三郎、後の福井県の長官)が継いだ。

面壁9年

平成21年8月4日
面壁9年

仏教の祖はお釈迦さんであるが、その28代目の継統者を達磨大師という。達磨大師は、仏教がインドで生まれ、中国へ入った頃、坐禅を修行と悟りの中心においた最初の仏弟子である。それは梁の武帝の時代(520年頃)、「正法眼蔵」を正伝する嫡々の承継である。嵩山少林寺で、坐禅を組み、その坐禅が九年にも及んだ。その故事を「面壁九年」という。その意味は「長い間、わき目もふらず一心に努力する」ことをいう。「壁に向って足を組み、心静かに、本眼でいることを「坐禅」というのである。
先日福井経済クラブの会合で、永平寺へお参りをした。門前におりながら山内へ入り、お参りするのは年に数回、あるかどうかである。久しぶりに法話を聞いた。松原徹心副監院の法話である。僅か1時間の法話であったが、不思議な体験をした。徹心師が私の亡父にだんだん似てくるのである。法話を静かになさるその身ぶり、顔、容姿、形が75歳で逝去した亡父に似てくるのである。亡父の口を通して、道元禅師の精神、「正法眼蔵」を聞く思いがした。「正法眼蔵」は世界でも稀有の大思想家、道元の全92巻に及ぶ大著である。その中に「尽十方界」がある。「十方界」は、東、西、南、北、東南、西南、西北、東北、上、下をいう時間空間を示す言葉である。この「十方界」と近江商人道の「三方よし」の哲学を合わせて、私は私の経営哲学の基本精神を「十方よし」としたのである。「喜びの種、幸せの種を蒔こう」「利他の心」「十方よし」「1人3役」の4点が私の経営哲学であり、道元禅師をはじめ多くの方々から学んだエッセンスである。
中食に二の膳つきの精進料理をいただいた。久しぶりに満ち足りたおいしい料理であった。大田監院さんは在山であったようだが、グループでの参加であったので、挨拶もせずに欠礼をしたのが心残りであった。その後、永平寺さんよりご丁寧なおみやげを持参され、益々恐縮した。

自殺を防ぐ

平成21年8月4日
自殺を防ぐ

自殺対策支援センター「ライフリンク」のホームページを開くと、「日本の自殺の現実」が見えてくる。2003年34,427人の自殺者が出た。この年バブル崩壊後の株式市場は、日経平均7608円にまで暴落した。そして2008年のリーマンショックにより、今年に入って株価は下げ足を早め、3月には7086円の最低価格をつけた。自殺者は、1998年に初めて3万人をこえ、32,863人となったが、それ以来、連続11年間3万人を超えている。自殺者は男性が多く、約7割であり、女性は3割に満たない。自殺の原因はいろいろであるが、「先行きに希望が持てない」「金銭的に行き詰った」「精神的に参った」「うつ病になって苦しい」など、殆どが社会的な問題が引き金になっている。ということは「社会を変えれば自殺はなくなる」のである。
もう一度自殺者年間3万人超という数字を追ってみよう。今年1月から6月まで17,076人であった。1日95人である。自殺する人の中で、未遂に終る人は自殺者の10倍以上いるといわれている。1日1,000人もの人々が自殺という「最悪の選択」をしてしまっているのである。自殺者をめぐる家族、親族、友人達に与える深刻な影響を考慮すると、「自殺を防ぐ」という行為の尊さに気付かないわけにはいかない。毎年3万人を超す自殺者は、毎年200万人もの人々に大きなダメージを与えている。11年間で2,200万人に達する。日本の総人口1.2億人の約5分の1である。自殺を防ぐことが、どれ程重要なことかこの2,200万人という人数で理解できるであろう。
対策は相談窓口や医療機関との取組(メディカルモデル)と社会制度・仕組をストレスの少ないものに変える取組、そして自殺や精神疾患の正しい知識を広め、偏見をなくす取組が必要である。
対策の受皿はまず医師、弁護士、警察を含む行政機関、そして宗教家(寺や神社)、民間団体等である。それ等の専門家に足繁く相談を持ちかけることである。解決策はきっと見つかる。高利貸しも弁護士からの連絡で一辺に手を引くケースが数多く見られるそうである。天から授かった唯一の貴重な命である。かけがえのない命を守るために、「自殺を防ぐネットワーク」を一日も早く構築する必要がある。声を大にして言いたい。世界で一番平和で豊かな国といわれる日本で、毎年3万人もの同胞が自ら命を絶つのを見殺しにするわけにはいかない。相談窓口を作り、その窓口を誰にでもよくわかるように告知し、明確化しなければならない。

困っている人

平成21年7月29日
困っている人

世界中の人が困っている。アメリカの低所得者の生活の悲惨さは信じられない。神に見捨てられた国といわれるアフガニスタンの人々。ウィグル自治区やチベットの人々。アフリカ大陸には飢餓と戦乱に苦しむ人々が多い。
日本にも、私達のまわりにも、困っている人々は多い。その人々に対して、私達は何かをしてあげたことはあるのだろうか。先日のブログに「北海道民芸家具」廃業のことを書いた。戦前、戦後を通じて、日本の民芸に多大な貢献をし、日本文化を世界に紹介した数多くの作家達を支援したあのクラレの大原総一郎氏が手がけた会社である。何とも残念で仕方がない。リーマンショックの前後から多数の有名企業が倒産した。その半数が黒字倒産である。何かが間違っているといわざるを得ない。
経済が不況になると、弱いところにその影響が強く出る。大企業は「苦しい」と言っておれるが、中小企業は「生きるか死ぬか」の状態である。会社だけでなく、芸術家の生活も一段と苦しくなっている。作品を買ってくれる人がいないのである。消費の節約ムードは、各方面に大きな爪痕を残しつつある。
リサイクルが時代の脚光を浴びている。古着に始まり、家具や骨董に至るまでいろんな商品がリサイクルの対象になってきた。先日イギリスの年代ものの家具類の展示即売に協力してくれないかとの申出を受けた。私達は家具には身分不相応に興味がある。ジュータンに始まり、森繁の家具を集め、外房の家は南洋のチーク材の手彫り家具で統一した。永平寺の家はイギリスの家具で統一している。
外国製品の輸入業務は、円ドル相場の上下によって、大きな影響を受ける。1年前の相場と現在のものとでは20%以上変動している。家具輸入を1年前にして、在庫している人は、20%以上コストがアップしていることになる。そしてこの不況下の状態である。私は家具の展示即売会に協力することにした。武士は相身互いである。武士ではないが、企業戦士として、喜んで協力を約した。身近に困っている人が多いことに驚いている。その為に、私達に出来ることは何かを、いつも真剣に考えている。

はなざかり

平成21年7月23日
花ざかり

福井に住んでいると、自然の真只中にいるという感じを強く受ける。「四季」がはっきりしているのだ。春は春でどこへ行っても花ざかり。十分に春を満喫できる。夏になれば海、山ともに近く、思い立ったらすぐ行って楽しむことができる。川も至るところに清流がある。秋の紅葉は、高山の上の方から徐々に山麓に下りてきて、平野に来、そして我が家の庭に到る。冬は純白の雪の世界が広がる。スキー場へのアクセスは、車で1時間以内のところが多い。
四季おりおりの景色だけでなく、その時々の四季の花を楽しむことが出来る。県の花、水仙は冬の花である。一面に広がる山の斜面に、咲き揃う水仙の眺めはすばらしい。一本、一本の花は小さく可れんであるが、群生すると、緑の中に白い花が続き、その花芯の黄色の点が風に揺れて見事である。
黄色の連翹が鮮やかに咲く。春は黄色に始まり、桜やこぶし、白木蓮などの白で終る。山法師や花水木の白も美しい。夏はしやらや槿が咲き乱れ、宇津木が山腹を覆っていく。野に咲く紫色のあざみも群生する。
秋には花よりも紅葉の方が美しい。はぜの木の強い朱が好きだ。紅葉の紅、銀杏の黄、桜や柿も特徴のある紅葉を呈する。楢の木の葉が風に舞いながら、裸になっていくと、冬近しの感を強くする。
人生の「花ざかり」はどの年齢を指すのであろうか。日本人の2008年の平均寿命が発表になった。女性が86歳を超え、24年連続世界一を続けている。男性は80歳に届かない。世界4位である。男性の1位から3位まではアイスランド、香港、スイスである。人口の少ない国々で、実質的には、日本は世界一の長寿国である。「花ざかり」の季節は女性の方が約6年間長く続くことになる。60歳定年制は、既に過去のものになりつつあるのである。


努力の尊さ

成21年7月22日
努力の尊さ

未曾有の経済危機といわれた2008年であったが、その中でひときわ明るい話題を提供したのは、4人の日本人の「ノーベル賞」受賞のニュースである。一度に4人もの受賞者が出たのは、最初のことであった。また名古屋大学に関係のある人が4人中3人もいたというので名古屋では大評判になった。
過去の受賞者は京都大学を筆頭に東京大学が続いていたが、今回名古屋大学から3人も出たというのである。私は福井にいるが、福井中学(旧制)卒業の南部陽一郎博士のノーベル賞受賞で福井は沸いていたので、名古屋の人々の喜びは手に取るようにわかった。ノーベル物理学賞の小林誠博士と益川敏英博士の共同研究「CP対称性の破れ」、そしてその二人の受賞のヒントとなったのは南部陽一郎博士(東京大学)の「自発的対称性の破れ」。そしてまたノーベル化学賞の下村脩博士「発光生物研究」は名古屋大学での研究が大きく貢献したとのことである。
それぞれ4人の博士のノーベル賞への道について、その道程を調べてみると、「不断の努力」が見えてくる。ノーベル賞をもらうくらいの知識、知能レベルの方々ではあるが、皆さんが同じように地道な努力の大切さを強調されている。実験でも、検証でも、この「努力の尊さ」に気付かなければ成功は覚束ない。
4人の博士は気が遠くなる程、長い研究生活の中で、常に不断の努力を続けられた結果が、輝かしい成果につながったのである。4人が4人ともに「努力」について述べている。最後に勝つのは「努力し続けた人」である。南部陽一郎博士の座右の銘を記しておく。

「学んで思わざる則ち惘(くら)し、思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し」

頬を打つそよ風

平成21年7月17日
頬を打つそよ風

「どんな時に一番リラックスできるのか」という質問に対しては、人はそれぞれ、また時に応じて変化する答がある。無人島のヤシの木陰でハンモックに揺られてしばしまどろむのが理想だという人がいる。あるいは休日の朝もう一度ゆっくり眠れると思う時が最高というサラリーマンも多い。ゴルフ場の風呂上りに、窓から吹き込む爽風を全身に感ずる時だというゴルファもいる。新幹線や飛行機に乗って、外部からの連絡がとれない状態でウトウトしている時がいいという経営者もいる。子供達を寝かしつけた後、ゆっくりとお茶を楽しむという母親もいる。
私の経験では、精神的な緊張から解放された後、身体を労わりつつ、ソファやベンチで休んでいる時、そして「頬を打つそよ風」を感じた時、何ともいえない恍惚境に入る。この「そよ風」が大切なファクターになる。それは熱過ぎても、寒すぎてもダメであるが、自然との一体感が私を幸せにしてくれるのかも知れない。生老病死の悩みを抱えながら、艱難辛苦の世界を、人はみな懸命に生きている。その刹那、刹那に、この「そよ風」を頬に受けると、しばし苦界を逃れて法悦の気分を味わうことができる。
「頬を打つそよ風」がなぜこのように私をリラックスさせてくれるのか、理屈ではよくわからない。ただ何度も何度もその体験がある。強い光線(太陽光を含めて)を全身に浴びると、心身によいといわれている。これまた理屈ではよくわからない。しかしこちらの方は睡眠障害の治療に既に使われているそうだ。「そよ風治療」が日の目を見る機会がありそうに思う。
とに角、後僅かで「土用」そして「海の日」である。炎暑を緑陰濃い海辺で「頬を打つそよ風」の中で、ゆっくりと過したいものである。週末から外房の夏の家を訪れようと今から楽しみにしている。

えきまえ大学

平成21年7月16日
えきまえ大学

ふくいの元気・健康長寿学について、アオッサ6階で講演を聞いた。約2時間、福井県立大学准教授塚本利幸先生の話である。社会学者の目から見た「健康」がテーマである。健康長寿を実現する為には、その社会的背景としてどのようなものが望まれるのかを見極める調査・分析を行った結果の発表として、興味深く拝聴した。
まず福井県の社会的背景の特徴(地域特性)を一言でいうと「安定性の高さ」だという。それが「健康長寿」につながっているとの位置付けである。
「定住性が高い」人口移動が少なく、転入率も転出率も最低レベル。昼間人口と夜間人口が全く同じ。職住近郊型社会で通勤時間30分未満が4分の3、殆どの人が1時間以内の所に職場がある。他県出身者は1割しかいない。
「三世代同居」が多い。全国2位。そして同居していなくても近い所に住んでいるケースが非常に多い。おばあさんが子育てに参画している社会である。また近くにいるので介護、買物、災害時など常に相互扶助がしやすい環境が出来ている。
「住いが良質である」持ち家比率は高く、延べ床面積は広い。また居住室数も多く7.3室あり。全員が2室ずつ使用している状態。個室を持っている方が精神の安定性が高いという研究結果あり。
「共働き率高い」全国1位「女性労働率高い」社長の数(人口割)が日本で一番多いので、すぐ近くに働く場所がいくつもある。但しすべて小規模の職場である。30人以上〜300人のところは7%、300人以上は1%以下である。給与は安い。男女共全国水準より1割近く低い。二次産業比率が高い、全国2位。三次産業比率が低い、最低レベル。
「兼業農家率が高い」全国1位。これは内からの混住化社会としての福井を表わしている。食べるものは自分で作る。子供世帯に分ける。子供は農繁期は手伝うという社会が出来ている。
「実収入が多く、貯蓄が多い」。時には3世代所帯の場合4人が稼いでいるケースが多く、世帯当りの実収入が多い。そして通常は質素に暮しており、お金を使うのは家か車ぐらいなので貯蓄率が特に高い。収入が多く、貯蓄が多いので精神的に安定していることが長寿につながっている。
「未婚率が低く、合計特殊出生率が高い」。この原因は、賃労働と子育ての両立がスムーズに行われる社会だから可能。公的支援(ふくい3人っ子応援プロジェクト)や各施設サービスと同時に家族によるサポートが厚い。私達の会社でも、福井勤務者が出産休暇を取っている者が多いが、他県の支店では今迄殆どいない。これは地域の支援体制が福井県では厚く、他の都道府県では弱いことを表わしているのであろうか。とに角、福井では地域とのつながりが強く、これを地縁血縁として活用していけば、安定した健康長寿が実現できる。昔から沖縄と長野は長寿県として有名であったが、最近福井県が上昇している。ストレスの少ない社会環境や、ボランティア活動が日常的に行われている地域であることが大きく影響しているのであろう。

CSAという農業経営

平成21年7月10日
CSAという農業経営
農業従事者の高齢化がすすみ、農業の危機が近づいている。第二の農地開放といわれる株式会社の農業への参入や、若者や定年退職者の農業への進出などが、これから益々重要になってくると思われる。その外に、「CSA」という新しい手法の農業が注目されている。これは今流行りの「コミュニティビジネス」の一種である。
「CSA」は、コミュニティの「C」、サポーテッドの「S」、アグリカルチャーの「A」の頭文字を並べたものである。まず契約農家から農地を借上げる。主として生鮮野菜を栽培する。そしてそれ等を地域の契約家庭へ直に届ける。その間に地域の家庭の主婦達に、選別や配送などの仕事を手伝ってもらうのである。
その特長は、旬の野菜の配給である。自分のほしい野菜が毎日毎週届くのではなく、旬の野菜が届くのである。届いた野菜で料理を考える必要がある。それ等の情報や知識を、手伝っている間に自分でわかるようになっている。
低農薬野菜かどうか、無農薬かどうか、これは手伝っていると直ちにわかるという。手伝っている仲間から与えられる情報も貴重なものである。
生活協同組合の創業の頃は、このCSAと殆どよく似た思想で始まったように思う。今は各地の生協は、時代のニーズに適合し、成長を続けている。この「CSA」も新しいタイプの新生協として成長していくことであろう。小グループの「CSA」が、各地で生まれつつあるのは、誠に心強い。地域の人々と共に発展する「CSA」は、食の安全と、地産地消、省エネルギー、省資源、そして農業の将来像を見据えた大切な成長の芽である。みんなで大切に育てていきたいものである。気になる点は、中心になる人、経営責任を持つ人の資力と体力、継続性のあるなしである。適任者かどうかは地域の人々が判断するであろうが、この「CSA」をシステム化し、次の日本農業の担い手とする為には、やはり何かが必要である。
農水省をはじめ、行政、農協を含めて早急に手を打っていただくことが求められている。食の安全は規制によって確保されるのではない。食の安全はみんなで作り出すものである。

日本の洋画のあけぼの

平成21年7月7日
日本の洋画のあけぼの

ヤンマージーゼルの創業者、山岡孫吉(1888〜1962)さんの洋画コレクションを見る機会があった。山岡孫吉氏は滋賀県高月町の生まれであったが、高月町は長浜市の北方数十キロの所である。私が幼少の頃すでに長浜市にもヤンマーの大きな工場があった。その工場は、母方の実家の田や畑を買収して大きくなっていったので、他人事ではなかった。また私の寺の住職は、ヤンマーへ勤務していたこともあり、なおヤンマーは身近な存在であった。
昭和8年12月に世界で初めて、ジーゼルエンジンの小型化に成功したとのことであるが、それは私の生まれる前のことであった。戦後のインフレ時代に、不景気が蔓延し、「首切り」という工員の解雇が、大きな問題となった。近所に住む友人の父親が解雇され、一日中ぼんやり川の水面を見つめていたのを覚えている。その後朝鮮戦争が始まり、急に景気がよくなった。
その頃から山岡孫吉氏の洋画のコレクションが始まったとのことである。日本の洋画の黎明期といわれる江戸時代末期から明治時代にかけて、日本画に対する洋画が試みられ、大きな衝撃をもたらした。高橋由一の鮭図、鯛図から、黒田清輝、藤島武二、青木繁などの黎明期の日本人画家に影響を与えた外人達の作品も交えて、数多くの貴重な作品が集められている。
この山岡コレクションの特長は、洋画の黎明期だけに的を絞って集めていることである。そして作品の質の高さも文句なしである。司馬江漢、五姓田義松、チャールズワーグマン、川村清雄などの作品を含めて、板や紙などに油絵具を使ってかかれたものも多い。笠間市の笠間日動美術館に「山岡孫吉コレクション」として収蔵されている。現在のヤンマー株式会社の山岡淳男会長は孫吉氏の長男である。父親の残されたコレクションを戦後の困難な混乱の時代に、大切に維持し、更に充実されたのは至難の快挙である。

寂円禅師開祖の寺

平成21年6月29日
寂円禅師開祖の寺

中国から師の道元を慕って渡ってきた寂円が、道元の死後、永平寺を出て、銀杏峰の岩の上で坐禅をはじめた。そこで巡りあったのが伊自良氏である。美濃から越前にかけての領主であったと思われる。
そして建立されたのが宝慶寺である。永平寺も深山にあるが、宝慶寺は更に更に奥山である。まわりは人跡未踏の地と言った方がよい。寺を支える里の檀家からは、かなりの距離がある。そして寺は、修行の場である。数名の僧が住職の指導の下、道元禅師や寂円禅師の教えを守り、厳しい日々を送っている。
かつて衆議院の議長をつとめられた地元大野市出身の代議士福田一氏より、宝慶寺の維持管理について助言があった。観光客を呼ぶための施設を増やしたらどうかという助言であった。15億円の資金の提供を伴う助言であったという。宝慶寺の里は中世以来、宝慶寺の門前村として続いてきた。山村の常として、若者の流出が顕著で、豪雪の地を喜ばず、離村する家々も多い。今は無人の村となった。福田一氏の助言に檀家の人々は喜んだが、当時の住職の「宝慶寺は修行の寺です。観光客を呼んでは、修行の妨げになる」「宝慶寺は葬式寺でなく、祈祷寺でなく、観光寺でもない。一途に修行を以って立っていく寺である」この言葉により、観光寺への助言は消えた。そして宝慶寺が生き残るための茨の道がまたはじまったのである。坐禅と托鉢による生活、それが開祖寂円の教えである。しかし開山当時の宝慶寺は50戸余りの門前村があった。今は全村この地を離れ、大野、福井、名古屋そして遠く北海道へと散っていった。お寺だけがこの山中に孤立し、全く無援の状態である。冬は托鉢に出ようにも豪雪で出られない。最も近い人里へ6キロも隔たっている。雪の量は永平寺の三倍。冬は4ヶ月も続く。修行僧は裸足である。開祖寂円は坐禅巌に端坐18年に及んだ(禅宗の祖達磨大師は面壁9年?)。宝慶寺の由来は、永平寺開祖道元が宋の天童山の如浄禅師に参学したのが宋の宝慶元年である。そして道元の遺品の中に「宝慶記」が発見された。寺名の由来は、道元と寂円が共に過した宋の「宝慶年間」であったと思われる。宝慶寺14世建綱(永平寺13世)は永平寺在任中に「宝慶寺由緒記」を撰述している。
訪れるたびに心が洗われるように清々しい感動をいただける寺である。門前の古民家旧橋本家住宅は無人村の庄屋であった。国の重要文化財に指定され、大野市に寄贈されたものである。私の好きな丸岡町竹田の千古の家「坪川家」と双璧をなす古民家である。毎年5月から10月の日曜日と祝日には開放され、檀家の人々が火の番をしている。

トヨダグリーン

平成21年6月26日
トヨダグリーン

絵描きにとって、絵具は自己表現のための最高の道具である。日本画の大家といわれる人は生前、この絵具を集めることに、多大なエネルギーを使ったものである。最愛の弟子だけが、師の絵具を継ぐことが出来た。
油絵の場合も、日本で最初にはじめた人々は、油絵具を自分達で作ったとのことである。絵具とはそれ程大切なものなのである。
百歳の画伯といわれる豊田三郎氏を訪ねたのは、夏至の昼下りであった。例によって元気なお声で迎えていただいた。
「最近よく講演をたのまれる」との画伯の話である。百歳をこえたとも思われない迫力と声量、そして約1時間の講演中、立ち続けて、身振り手振りを交えての熱弁を聞いた人は、みな大きな感動をいただくことが出来る。忘れられない、 人間わざとは思えない情熱を、烈しい生命の躍動をいただける。私は訪問するたびに、30歳もの年齢差を感じたことは一度もない。逆にいつも元気をいただいて帰るのだ。
今回の訪問時に見せてもらったのが「トヨダグリーン」と名付けられた油絵具の3本セットである。「ディープ」「ミドル」「ライト」の三色調がある。私は驚いた。画伯の風景画は、神韻の世界にある。特に豊かなグリーンの使い方を、世界の人々は画伯の名をとって、「トヨダグリーン」と呼んでいる。それは知っていた。しかし古今東西、画家の名を付した絵具があろうとは、全然知らなかった。ピカソの青の時代は有名である。しかしピカソブルーという絵具は作られていない。
トヨダグリーンの話から、画伯の人生訓が始まった。「自分のものは一体何だろう」「自分のものは何一つない」「自分の身体も心も知恵も絵を描く力も、みな天からの授かりものである」「一時預かっているだけである」「財産も身体も親からもらったと思っているが、親も実際は何も知らない。わからない。ただ天から預ったものを受け継いだに過ぎない」「年齢ですら同じである。人の命は儚いが、与えられた寿命をせい一杯生きるのだ」
「酒はのまない」「60歳でタバコは止めた」「80歳でヒゲを伸ばしだした」「健康維持のため、毎日柔軟体操をやっている」「5時起床、自分で工夫した柔軟体操を寝床の中ではじめる、型は10種類、1種類を20回繰り返す」「はじめはゆっくり、20回目は力をこめて、身体の筋肉をすべて動かしてみる」「特に血液の流れが淀まないように気をつけている」「最後は足を上にあげて20秒以上そのままの姿勢を続けて終る」「これを毎日続けるのだ」
生涯現役が私の理想であるが、画伯の住いを訪れるたびに感動する。死ぬまで絵をかき続けたいとの強い思いが、100歳をこえてなお、この元気を保っておられるのであろうか。トヨダグリーンを試したとの新作をみせていただいた。今、出来上った風景画は「タイザンギョウシュウ」と題をつけたいといわれた。まだサインは入っていない。百歳の枯淡はない。生命力にあふれた神韻縹渺の世界が広がっている。今日もまた元気をいただいて帰ることになった。

鮎解禁

平成21年6月23日
鮎解禁

福井県は越前ガニをはじめ海産物が有名である。南からの対馬海流と北からのリマン海流が流れ込む日本海の中央に位置しているので海の魚はとてもおいしい。嶺北といわれる北陸トンネル以北の河川は、八本の川が三国港近くですべて一本化し、九頭竜川となって日本海へ注ぎ込む。北陸トンネル以南の嶺南の六本の河川は、比較的に延長が短い。敦賀港に注ぐ三本の河川は、一本化しているが、残りの三河川はそれぞれ独立して日本海へ注いでいる。
川魚の中で最も人気の高い「鮎」が解禁になった。福井県下には十の河川漁業協同組合がある。それぞれの解禁日が異なると同時に、放流量にも大差がある。入漁料は年券と日券があり、これまた漁協ごとに大差がある。一番早く解禁になったのは、足羽川漁協と、九頭竜川中部漁協、それと嶺南の若狭河川漁協の6月13日である。一番遅く解禁になるのは奥越漁協で、7月11日である。
例えば私の住む永平寺町は、九頭竜川中部漁協に属し解禁日は6月13日、毛針釣りが7月14日、網が9月1日、素掛9月1日、鳴鹿大堰上流9月15日と決められている。休日ともなれば、両岸には数多くの釣天狗が長い竿を並べている。浅瀬にも点々と人影が並ぶ。九頭竜川中流域までに、この本流に流れ込む川は、遥か上流の真名川、清滝川、そして岐阜県境よりの九頭竜川、石徹白川、石川県境よりの滝波川がある。遥か下流で流入する竹田川も石川県境に端を発している。
緑陰の濃い山側や、早い浅瀬など、思い思いの釣場を求めて、この九頭竜川は全国から熱狂的なファンが集まってくる。特に永平寺町の鳴鹿大堰から勝山市にかけてが、最も有名である。一番高額の年券でさえ、1.2万円である。何匹釣れるかは、実力と運次第であるが、自然と一体となる一時を過す為の出費としては決して高くはない。70歳以上、女性、身障者、小中学生は半額である。現場売りは1千円高となる。海の越前ガニに対して、九頭竜川の鮎を、日野川の鮎を、足羽川の鮎をそして福井県の鮎を全国区にしたらいかがであろうか。その価値は十二分にある。川沿いの鮎料理店のフルコース5千円前後はお値打ちである。その味は天下一である。

数学

平成21年6月19日
数学

数学はあらゆる科学の基本である。数学嫌いの人は多いが、それは数学の本質を理解していない為の誤解に過ぎない。数学を少し詳しく考えると、数学が私達の生活に密接にかかわっていることがよくわかる。「数学嫌い」「数学は苦手」という原因をさぐり、その考えを改めることが必要だと思うので、あえて「数学」を取り上げてみた。
まず数学の最大の特徴は、必ず正解があるということ、それも唯一無二の正解があることである。物事で正解がはっきりしないことの方が多い中にあって、「数学」の世界では、明確な「解」が必ずあるのである。この事はすべてをあいまいな中で、見過しがちな私達の安易な生き方に活を入れてくれる重要な役割を果してくれる。
次に「ゼロ」の発見が人類の発展に大きな貢献をしたといわれている。これは私達の原点を示す言葉であると同時に、新しい数学の世界を生み出す原動力となった。「空」「色即是空、空即是色」の「空」の観念にも一脈通じるものである。
次にコンピューター言語の「0」「1」「01」である。これもコンピューターというマシンを使って数学の世界を無限大に広げていくツールになっている。数学の世界は今や宇宙の起源を洞察したり、DNAの解読や人類の起源、更に生命の誕生の神秘を解きあかすところまでせまろうとしている。
掛け算の九九は小学校で覚えたものだ。かつては割り算の九九もあった。暗算という計算方法がある。珠算=ソロバンの課外塾がかつて町中に必ずあった。そこでは1級を目指してみんなが一斉にパチパチとソロバンをはじいて早さと正確さを競い合っていた。暗算の名人は、頭の中でソロバンをはじいているといわれている。日本人の頭脳の訓練に、ソロバンの果した役割は大きい。
インドの数学が注目を集めている。九九が二桁まで覚えられているとのこと。記憶力の訓練であり、暗算の訓練である。数学の面白さはやればやるほど効果が積み上ることである。必ず実績と効果と能力の向上をもたらすことである。これ程の魅力をもったものを他に見つけることは困難である。

十二本の桜

平成21年6月17日
十二本の桜

永平寺への道に「十二本の桜」がある。誰が植えたのであろうか。古木である。見事な染井吉野である。道の片側に、十二本の桜が一列に並んでいるのは、見事であると同時に少し寂しい。桜は並木がいい。両側から道にかぶさるような桜並木がいい。いつの日か、誰かが植えてくれるといいと思っている。その土地は、永平寺町の所有である。その小高い山を道路から少し上ったところに私の小宅がある。桜の好きな私は、その山に山桜が数本あるのを見付けた。早速庭師を呼んで、その近くに三本の染井吉野を植えた。大きい桜を持ってくるように頼んだ。桜の成長を待つには、私は既に十分に長く生きすぎているからだ。私が生きている内に、満開の桜を楽しみたいと思ったからだ。染井吉野を選んだのも、花の見事さと、木の生長の早さが原因だ。そのおかげで、毎年道路に十二本の桜の古木が満開の頃、私の庭でも、桜花を楽しむことが出来る。今は6月の中旬、目の前の庭は一面の緑に覆われている。その緑を通して城山やゲンジ山を朝な夕な眺めている。まさに至福の時である。
十二本の桜の古木も、しっかりと葉を繁らせている。大本山の永平寺への参道にあるが、注意していないとパスから見過ごしてしまう。じっくり観察すると、見事な古木である。
今年は福井県で全国植樹祭が開催された。第60回の節目の年である。天皇、皇后両陛下をお迎えして県民こぞってお祝いした。今年の植樹祭の「木」は「桜」である。県内各地でおそらく1万本を超える植樹が行われた。「平成天皇ゆかりの桜」といわれるように見事に育ってほしいものである。私達も孫と一緒に、足羽山の古墳公園で、桜の植樹に参加した。

交通事故死と自殺者

平成21年6月15日
交通事故死と自殺者

交通事故の死者は、ここ数年減少し続けている。2008年の死者は、1953年以来54年ぶりに5千人台となった前年を更に下回り、5,155人(30日以内の死者を含むと6,000人)となった。各県警を競わせて、様々な対策を立て、自動車メーカーをも巻き込んだ運動が功を奏したものである。「シートベルト」の着用が死者の数を激的に減らした効果は、特に大きい。交通事故の撲滅に要しているエネルギーの膨大さを考えると、人間の努力と効果が比例することに気付かされる。交通安全教育を含め、この運動推進に携わる多くの警官たちに感謝しなければならない。
一方自殺者の数は、一向に減少しない。逆に社会不安や経済環境の悪化により、増加傾向にある。例えば1980年の自殺者20,542名、交通事故死者13,302名であった。約1.5倍である。2000年は自殺30,251名交通事故死9066名。3.3倍である。2008年は5,155名と3万余名約6倍となった。20年間に1.5倍から3.3倍に広がり、更に次の8年間に3.3倍から6倍にひろがってしまった。この事実に私達はもっと真剣に目を向ける必要がある。
対応策を徹底して推進し、全国上げてその撲滅に努力した交通事故死は減少し続けている。それに対して自殺者の数は毎年3万をこえたままである。その対策はどうなっているのであろうか。小さな交通事故を報道するマスコミの皆さんに、自殺者の悲惨さ、そのかげに隠されている社会悪の報道を是非お願いしたい。そして警察はもちろん、医療関係者、社会心理学者、政治家、行政、福祉関係者も含めてもっと真剣に、もっと継続的に、もっと緊密な連携を作り乍ら、自殺を食い止める手立てを実施していかねばならない。人を追い詰めるのでなく、人に救いの手を、愛の手をさしのべることに躊躇してはならない。協会の銀の燭台を盗んだジャンバルジャンに、残っていたもう一つの燭台も「これはあなたのものだ」といった神父の愛を、私は幼い頃から忘れたことがない。困窮に泣く人々への愛と行動を望みたい。今日も東尋坊の自殺の名所では、自殺しそうな人に声をかける運動を続けている人がいる。

高齢者マーケット 

平成21年6月9日
高齢者マーケット   

65歳以上の高齢者と15歳未満の少年少女の数は、1960年では高齢者500万人、少年少女2,800万人と大きな差があった。それが年を追うごとに近付き、2000年には1,900万人と同数となり、遂に追いついた。そして2007年には高齢者2,750万人、少年少女1,730万人と大きく逆転し、差は広がりつつある。
高齢者マーケットの特長は、いかなるマーケットと比較しても、それ等をはるかに凌駕する巨大市場だというところにある。
そしてこの市場の人々は、年齢的には65歳〜100歳と幅広く、体力的にも、知力的にも大きな差がある。健康、脳力、財力、知識、経験が多様であり、一概に論ずるのが難しい。
そして財力の点では他の年齢層に比較して、相対的に豊かであり、不動産、動産共に多くを所有している。経済力があるということは、消費する力を最も多く持っていることになる。
更に使ってもよい余暇の時間が最も多い人々である。時間があるので、消費の形態が他の年齢層とは大きく異なるものとなろう。時間を多く必要とする消費、例えば長期間の旅行、ガーデンニング、芸術・芸能、スポーツ、健康保持など多様な形が考えられる。
そして高齢者は、自らが意志決定できる「純消費者」である。その為、多様な意見を持っている。そしてどんなグループにも所属しない。だから強い自我を持っている。独特な市場であることに気付かざるを得ない。
高齢者市場はこれ等5つのきわだった特徴を持っている。この市場を攻略するのは、至難の技であるが、やり甲斐のある仕事である。この市場を攻略するには、「新しいツール」が必要となる。それは「IT戦略」である。一筋縄ではいかない市場を詳細に分析し、その消費動向に従って商品やサービスを提供するには、「IT戦略」を駆使しなければならない。
働ける年齢は最近どんどん上昇してきている。後期高齢者という言葉が生まれ、75歳以上が老人の分類のようになりつつある。しかし実際のデータを調べてみると、1960年の平均寿命68歳から、2007年82歳と大きく伸びている。ところが65歳以上高齢者就職率は1960年43%から2007年20%と大きく下がってしまっている。かつては農業人口の比率が高く、高齢労働が残っていたが、サラリーマン社会の定年制、年金の普及により、働ける能力も体力もあるが、遊んでいる人が急増しつつあることがよくわかる。
高齢者市場を分析し、それを適確に攻略し、見事な成果を上げ、人々を幸せに出来る秘密が、このあたりにある。
即ち「遊び」をテーマとすることが出来るのである。高齢者市場の可能性の第一は「遊び」の分野である。
スポーツ  DIY(リフォーム、ガーデンニング)
音楽 イベント 芸術芸能 手芸
第二の分野は「学ぶ・習う」である。
宗教、哲学等も含む習い事。一般向け大学講座、オープンカレッジ。
第三の分野は「教える・導く」である
語り部(歴史文化) 大学講師。
「学ぶ・習う」の先生役
スポーツ少年団の世話役
第四の分野は「社会貢献」である。
農林水産業  ガーデンニング(花壇づくり)
介護業    リフォーム業 ボランティア 
前記4つの分野は独立したものではない。相互にからみあって、一つの新しい商品やサービスを提供できる。「遊び」は「学ぶ・習う」に通じ、「教える・導く」は立場が逆になるだけで同じことである。またライフスタイルそのものを変革する程の新機軸が誕生する可能性すら秘めている。考えれば考えるほど、高齢者市場は面白い。キーワードは直・近・触といわれている。「直」とは、ダイレクトのアプローチ。「近」とは近づかないとみえない。「触」は更に密着するとわかる。

般若心経

平成21年6月8日
般若心経

1970年(昭和45年)頃のこと、私は岐阜にいた。勤めていた商社の岐阜の責任者として、忙しい毎日を送っていた。岐阜青年会議所の一員としての活動にも精を出していた。ある日、薬師寺管長高田好胤師の説法を、JCの会合の中で聞いた。440年余り前に戦火で灰燼に帰した薬師寺(東塔だけが焼け残っていた白鳳時代の伽藍)の復興を祈願されての説法であった。ただ単に伽藍復興を願うのではなく、百万人の方々のご芳志を受けるための旅とのこと、その方法が般若心経の写経勧進をすることである。一巻写経し、これを再建される金堂におさめて先祖供養をし、願いごとをしようということであった。
両親も弟妹も、二人の子供も、妻も元気であった頃である。私も般若心経を写経し、奉納させていただいた。一巻につき千円、四人家族で四巻を納めた。
その説法は、迫力に満ち満ちた、すばらしいものであった。440年もの長い間、歴代の住職が夢に見ながら為し得なかった伽藍の再建に取組む好胤師の熱弁に、若い私達JCメンバーの多くが賛同して、写経を申し込んだ。JCとは30歳台の青年の集団である。
そして6年後の1976年に金堂が完成、落慶法要が営まれた。448年ぶりの、正に快挙といえる好胤師ならではの成果であった。そしてまた5年後の1981年には、西塔が完成した。般若心経の写経が日本中を席捲し、戦後の苦悩の中から生まれた美しい、清々しい日本人の心の反映といえよう。
説法はまず合掌から始まった。大きな声、明るい声で呼びかけられた。「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろくひろく、もっとひろく、これが般若心経、空の心なり」岐阜JCで、数多くの講演を聞いたがこんな型破りな話は初めてで、みんな驚いた。そして感動した。「一巻につき千円の納経料を納めていただきますと、田中塊堂先生のお手本とお写経用紙が届きます。用紙は越前五箇の岩野平三郎氏の紙漉き工場で手漉きされた、天平時代と同じ和紙です」福井ゆかりの私にとってこの話はとても身近に感じ、早速友人達と競いあうように四巻を申し込んだ。生家の長浜へ帰った時、父母に納経を奨めたところ、両親はすでに納経をすませており、好胤管長の納経勧進の旅が広く、広くすすんでいることに気付いた。
その後、禅宗の古刹を訪れた時、般若心経を本堂で写経している若者達を見て、思わず合掌した。宝慶寺。夕暮れ時の森閑と静まりかえった本堂で四人の若い女性等が黙々と写経に励んでいた。
永平寺第一教区のお坊様達が毎月3人ずつ、私達がおまつりしている生き生き地蔵尊へ、読経においで下さっている。その時のお経の最初がその「般若心経」である。また、母が生前仏壇の前で毎朝、毎晩灯明をともして、この「般若心経」をあげていたのを思い出す。おそらくお経の中でも最も短く、最も人々に親しまれているお経であろう。今でも目を閉じると、高田好胤管長の若々しいお姿が生き生きと浮かび上がってくる。合掌。

神社仏閣情報

平成21年6月4日
神社仏閣情報

福井、滋賀、京都、奈良は、国際ロータリークラブの第2650地区を構成している。この地域の特長は、神社、仏閣がきわだって多いことである。平城京、平安京や志賀の都、越の国の都と、古くから歴史と伝統のある土地柄である。また神社、仏閣を長く伝えてきたのは信仰心の篤いことの証左である。
神社仏閣では毎年年中行事が行われている。この年中行事が地域社会を形成していく。お宮やお寺を中心としたネットワークがつくられたのである。地方の小さな町へ行くと、どの町にもお宮(村社といわれた)とお寺が一、二ある。各々の氏子、檀家である家々には、神棚と仏壇が必ずある。「月参り」と称して、神官や僧が各家を訪問し、祝言を上げ、経を読む。そこでは濃密な会話が交され、人々は信仰の世界に安住する。これ等の信仰は、核家族化の進展と共に、少しずつ薄れつつあるのは、誠に残念至極である。
先祖をまつるお祭りも、お宮では5年祭、10年祭、20年祭となっているが、お寺では3回忌、7回忌、13回忌、17回忌(数え年でいうので満では2、6、12、16年祭のこと)が行われる。神と佛を交互に拝む生活の知恵は、誰が、いつ考えたのであろうか。
神社の創建はかなり古い。自然崇拝に発し、その後神話の神や天皇をお祀りする神社が多い。また死後に神となって祀られている秀吉、家康をはじめ大名も多い
古来からの神道の信仰を中心として、天皇制が確立した1,500年前の頃、仏教が伝来し、日本人の生活の中へ浸透していったのである。それ等神社仏閣の全国情報を集め、その研究をすることも意義深いと思われる。その研究拠点の立地としては、特に福井県は最適と言っても過言ではないであろう。
福井県民は信仰深い。質素倹約の風習が残り、また暴力的な凶悪犯罪が少ない。エゴイズムを排し、利他の心を持った人々が多いのである。現代の殺伐とした時代に、信仰に関する祖先の足跡をたどり、神社仏閣情報を集め、次世代にこれを生かす道を考えてはいかがであろうか。福井県下に、その神社仏閣情報に関する研究拠点を設置することを真剣に考えたらいかがであろうか。

尊縁

平成21年6月3日
尊縁

多くの人々に支えられ、助けられて一日、一日を生きている。そんな切実な実感を持つ今日この頃である。新しく赴任されてきた方と名刺を交換する時、「やあお久しぶりです」と挨拶を交すこともある。「十年ぶりにまた福井へ来ました」といわれることもある。道を歩いていてすれ違いざまに「お元気ですか」と声をかけられる事もある。お互いに年をとって、うっかりすると見違えかねない。
初対面の方と名刺交換をする時に私は二、三の質問をさせてもらうことにしている。出身地と出身校についてと、景気の先行きについてと、地球温暖化についての質問をする。なぜそんな質問をするのかは自明の理であるが、お互いの「縁」をさぐりあうのである。出身地を聞くことにより、その土地での私の記憶を呼び起こし、共通の話題が生まれる。出身校も同様である。同志社大学を出た私は、京都の大学すべてに親近感を持っている。今でも年に数回は必ず京都を訪れている。青春時代の思い出が鮮烈に残っているからである。
景気の先行きについて質問すると、お互いの考え方の差異がすぐわかる。未来を考えるのは簡単なようで難しい。しかしいつも考えている必要がある。異なった意見は参考になり、同じ傾向の意見を聞くと自信がわく。
地球温暖化の質問は、相手の興味をたしかめるためのものだ。みんなが知っている問題ではあるが、本当に興味を持っているのかどうかを確認する質問である。私の名刺は「地球」をデザインしたイラストを使っている。温暖化防止のためのアイデアを聞き、それをまた次の人に伝える「伝道師」の役割をつとめているのだ。そこでまた「縁」がひろがっていく。
ある日突然に十年前に助けられた方におあいした。そしてその時の共通の友人の話に花が咲いた。「人生は捨てたものではない」そんな気持にさせてもらった楽しい一日となった。
「縁」につながる私達凡人は、その「縁」を大切にしながら、また新しい出会いを求めて、せいいっぱいの一歩を踏み出していくのである。

麦秋

21年6月2日
麦秋

麦の穂が黄金色に輝く季節となった。初夏の風が吹いている。隣の水田には水が満々とはられて、早苗が日に日に育っている。のどかな、平和な田園風景である。しみじみとこの平和な日本に住んでいることに幸せを感ずると共に、この平和をもたらしてくれた先輩達に感謝する気持がわいてくる。
天皇、皇后両陛下をお迎えして、6月6日から3日間、福井県は歓迎ムード一色になる。第60回全国植樹祭が、福井市の一乗谷朝倉遺跡をメイン会場として開催されるのだ。道路も整備され、あとはご到着を待つばかりである。
日本は古来より「芦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国」といわれる。この言葉は『日本書紀』の天照大神が孫の火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)にいわれたと記されている。米作りの原点にある言葉として、長い間日本の農業、米作りを支えてきたものである。
宮中にて天皇陛下は毎年5月29日に、みずから田植をされる。秋には稲刈りもされる。10月5日前後である。この行事は神代以来、連綿と伝えられてきた宮中行事である。そして秋には、伊勢神宮において覆奏(かえりごともうし)といって10月15日〜17日「神嘗祭」が挙行される。神前に豊作のお礼をするのである。更に宮中において11月23日に共食の儀、「新嘗祭」が行われる。これは天皇が、天照大神、八百万神に給仕をされ、共に新米を召し上るお祭りである。
思えば天皇と日本国民との間には、稲作という日本の土地にあった穀物を尊び、その生産を通して、国の安定をはかってきた深い濃密な関係がある。米の反収に比べると、麦では半分の人しか養えないといわれている。牛では10分の1しか養えない。将来の人類の主食は「米」にならざるをえないというのが栄養学の常識だという。
日本人は二千年の昔からこのことを気付き、稲作を実行し続けてきたのである。減反政策に批判が集まっているが、米の生産高を調べてみると、終戦の1945年を底として、それ以来急速に回復し、ここ数年は高原状態が続いている。過去最高の生産高をほぼ維持しているのである。農業従事者の高齢化が恐ろしい勢いですすんでいるが、高齢者の方々の努力に感謝すると同時に、日本の将来、お米の将来に、今一度、思いをめぐらさなければなるまい。

日本の起源

平成21年6月1日
日本の起源

地形から考えてみても、日本のユーラシア大陸との関係は長い歴史をもった濃いものであることに異論はない。満州や朝鮮北部から南下して日本へ入った北方系文化を持つ人々、そして南朝鮮から或いは直接九州へ入った江南系文化の人々など、古代からの交流のあとは容易に発見することが出来る。江南系は、苗族の故郷といわれる河南の先史遺跡から発見された稲作が「イネ」の語と共に江南へ移り、そして日本へ来たと思われる。白川静博士の説によれば、そこに「銅鼓の文化」があり、日本の「銅鐸文化」とつながるものと指摘されている。鋳造方法が似ている。農耕儀式に使われる。季節的に土中に埋められていたらしい等と、類似点が多い。江南系は、稲作の技術、儀式、器具の他、鵜飼や潜水漁法、文身、頭衣、鉢巻、褌や住居等相似性が多い。母権的な農耕文化と大地を母神とする信仰を持つ出雲系文化との融合が想像できる。筑紫、日向系の南方系の文化と江南系の文化とは無縁とは考えられない。
北方系といわれる大陸北部からの流入した文化は、父権的な遊牧民族の文化と天上の神を信仰する天孫系の信仰と近い。
日本の起源は、前2500年頃の縄文時代にはじまり、その後東アジアからの絶え間のない影響を受けて、発展してきた。稲作は前3世紀末、板付遺跡に痕跡をとどめ、その後弥生文化の流入、銅剣、銅鉾、銅鐸が入ってきた。3世紀初、魏へ女王の使者が行き、古墳の壮大さから見ても日本において各地に有力王族がいたものと思われる。そして7世紀はじめ「天皇記」や「国記」が完成、その後「古事記」「日本書紀」が選録された。稲作文化の流入から数えて900年が経過している。正史といわれる「日本書紀」より前に書かれた「肥前国風土記」にヤマトタケルノミコトを「日本武尊」と記している。「日本」は聖徳太子以前から使われていたものと思われる。紀元前の孔子の言葉に「いっそ東方の九夷に住もうか」「帝は震の卦に出る。・・・万物は震に出る。震は東方である」と東方の日本にあこがれるような言葉を残している。秦の始皇帝(前259〜前210)は方士の徐福を「不死の薬を求める旅」に出した。日本は不死の国と思われていた。徐福伝説は日本各地数十ヶ所にある。徐福の見つけた不死の漢方薬は、青森のアイヌネギ、八丈島のアシタバ、京都のヨモギ、九節のショウブ、和歌山新宮の天台烏薬、佐賀のフロフキ等があり、今なお漢方薬として珍重されている。
聖徳太子は髄の皇帝煬帝に国書を送った。「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。つつがなきや・・・」この文書は煬帝を怒らせたようであるが、既に聖徳太子は周辺諸国の高句麗等とネットワークを構築し強力な国力を背景にこの書を送っている。隋はこのあと僅かに10年で滅亡している。聖徳太子は仏教の注釈書「三経義疏」をかいている。当時の中国でもこれ程の注釈書はない。
玄奘三蔵(三蔵法師664年没)の唯一の日本人弟子、道昭(629〜700)は遣唐使として入唐、三蔵の弟子となった。日本霊異記によると、三蔵は「道昭は日本へ帰り、多くの人を教化しようとしている。軽んじるな」と弟子達に言ったという。帰国に際し、仏舎利と経典を授けている。この道昭の弟子が東大寺建立の行基上人(668〜749)である。
「日本」という国名が使われたのは、大宝律令(701年施行)が初めてである。そして日本からの留学生井真成が36歳で734年に中国で死亡。国葬で送られ、官位を追贈、石碑がある。「姓は井、字は真成、国は日本と号す」と墓碑にある。数々の望郷の思いが記された碑である。
遣唐使として有名な阿倍仲麻呂は、717年に入唐。玄宗皇帝の秘書監、安南都護などをつとめ、死後従二品を追贈されている。李白や王維と親交厚く、752年帰国の途につくが、難破してそのまま中国へ引き返し、中国で永眠している。中国人に最も親しまれた日本人といわれている。
続日本紀に記されている大伴古麻呂(日本よりの使者)の753年の事件を記しておきたい。中国皇帝の前での席順についてである。東側に新羅、ペルシア、西側にチベット、日本と日本が末席であったのに反撥し、新羅と日本の席次を入替えさせた事件である。その当時新羅は属国、日本は遠方ではあるが、独立国で、ペルシア、チベットとも交流があった。当時既に日本には強力な国力が温存されていたのである。
遣唐使最澄と空海についても記しておきたい。最澄(767〜822)が天台宗国清寺の座守行満を訪れると、「待っていた。昔、智者大師が、私の死後200年、東国で天台宗が盛んになると遺言された。待っていたのだ。すべてを伝授しよう」
空海(774〜853)、青龍寺の恵果は、「待っていた、あなたの来るのを知っていた、後継者に任命する」そして「遍照金剛」の号をもらった。密教の本家が日本となった瞬間である。恵果は更に「私は死後、日本に生まれ、あなたの弟子になる」といったという。中国の貴重な仏典、仏具、仏画等は遣唐使やその後の日明貿易により、日本へもたらされ、仏教研究のメッカも日本へ移っていった。日本の黎明期には、多くの日本人が中国との交流を通して、独自の文化を構築していったのである。そのバックボーンが神道であり、仏教であり、儒教であり、農耕文化である。

花を愛でる

平成21年5月29日
花を愛でる

今年の冬は暖冬であった。福井は雪国という常識が、温暖化の影響が、すっかり忘れ去られてしまったようだ。県も市町村も除雪費用を殆ど使わずに年度末を迎えた。私の会社も、福井、石川、富山、新潟、長野、北海道などの支店では、駐車場の除雪の予算を組んでいたが、今年度は北海道を除いて、除雪費は使っていない。景気の悪化の影響で、今期前半の業績は決してよくなかったが、除雪費用の節約により、多少は救いになった。
雪国の人々の春を待つ心は熱い。春の到来と共にまちは活気がみなぎる。花々は一斉に咲き揃う。一時に花が開くのである。桜の満開と同時に、日に日に華やかになってくる。日本のあちこちに「桜の名所」がある。福井市内を歩いてみても「ハッと驚く」美しい見事な桜に出会うことが多い。今年の全国植樹祭が、福井県で開催される。福井県民はその準備に忙しい。植樹祭の樹木は「桜」である。福井県は、日本全体がそうであるように、「桜の名所」が多い。「桜」にちなんだ名前も数多くある。
桜の花のシーズンはあっという間に過ぎていったが、今は新緑から深緑への季節である。これまた目のさめるような美しさである。花は、「桜」から「れんぎょう」「水仙」「椿」「チューリップ」「フクシア」「花海棠」がおわり、今は「日向ミズキ」「雪柳」「パンジー」「シャガ」「クレマチス」「山法師」「バラ」が花盛りとなっている。
「花を愛でる」という行為は、世界中の人々の、最高の楽しみの一つである。歌人も俳人も、詩人も、そして凡人である私達も「花」を愛でていると、ついつい苦しいことも、悲しいことも、つらいことも忘れてしまう。目を開いて、この美しい日本の初夏をしっかりと見て、今日もまた元気に出発だ。
アメリカの景気は底をうちそうだという。日銀の短観も、最悪期の表現から少し変えるようだ。私達の会社も月次決算が少し改善しつつある。「花を愛でる」心の余裕を持ち続けたいと切に思う。

また、異変が起きた?

平成21年5月19日
また、異変が起きた?

4月の国内の新車販売に大きな異変がおきた。異変の第一は、新車販売ベストテンの上位が、軽自動車で、3位まで独占されたのである。第1位スズキワゴンR、第2位ダイハツムーブ、第3位ダイハツタントとなり、更にベストテンに軽自動車は2車種が加わり、半分は軽自動車が占めるということとなった。
異変の第二は、登録車の第1位がハイブリッド車(ホンダのインサイト)となったことである。4月よりはじまった「エコカー減税」の影響が直ちにあらわれて、ユーザーのニーズが、燃費効率のよい車へ移りつつあるのが鮮明となった。
異変の第三は、前年同月比またまた23%減と大きく落込んだことである。4月は「エコカー減税」の効果で、新車販売の増加を期待する声が大きかっただけに、買控え、特に高額商品の購買を先送りする傾向が強まっているようだ。
今回のリーマンショックに端を発した急激な車の買控えに対するトヨタの動向に注目している。ホンダのハイブリッドカーのインサイトが189万円という思い切った価格で発売され、大きな反響を呼んでいる。トヨタのハイブリッドカーのプリウスは前年同月比マイナス64%の2,000台以下となった。ホンダのインサイトの2割以下にとどまった。これは3代目プリウスを205万円でいよいよ発売開始するのが不調の原因であり、受注は順調だとのことである。そして3代目プリウスを世界戦略車として、全世界80ヶ国で販売するとのことである。更に今期中に国内4車種、海外3車種の投入を予定しているとの報道に、ハイブリッドカー戦略、小型車戦略に注力するトヨタの姿勢が際立っている。
また、中国、インド、ブラジルの生産販売のシェアアップを掲げているトヨタである。これ等3国は、今後の世界市場において、間違いなくベストスリーの市場を形成することとなる。
5月の新車販売の状況が心配であるが、法案通過によって自動車販売へのカンフル注射が次々と打たれてくるので、徐々に回復に向うものと期待している。自動車産業は世界経済の10%以上の大きな影響力を持っていることを忘れてはならない。

日本の風土

平成21年5月18日
日本の風土

4つの島と6,800余りの小島から成り立つ国家が日本の姿であった。5,000年前から2,000年前までは日本国というよりは緩やかな連帯で結ばれた小地域の集団であった。国土の3/4は急峻な山地と丘陵、そして狭い平野、数多くの急流の河川がある。湿潤で温暖な気候は、稲作に最適であった。日本海と東シナ海によって、ユーラシア大陸と適度に隔てられており、文化や人の交流はあったが、幸いなことに侵略の歴史はなかった。日本が世界史の中で初めて登場したのは、後漢書の西暦57年である。日本王の使者が、洛陽の光武帝を訪れた。そして「倭国王」の金印をもらっている。この金印が福岡県で出土し、博物館で陳列中である。史実とみてよかろう。
人々は長い年月、先進文明と適度の距離を保ちつつ、独立した国土のまとまりを維持してきたのである。そして風土を形成していったのは、稲作文化の浸透とその熟成である。稲作を最も効率的に行う為の共同体が、各地で生まれていったと考えられる。大陸や半島からの移民が多かった古代には、紀記や詩歌に「国」に関する記述は少なくなかったが、その後「国」についての記述が表面に出たことは殆どない。「国家」としての意識は、人々の脳裏から消えてしまったのである。
「元寇」の短い期間を除いて、「黒船」まで、国家意識はなかったと考えた方がよい。即ち国家意識が過剰なまでに人々の脳裏に意識されだしたのは、明治以降であり、欧米列強からの影響によるものである。それまでの国内での戦いは、領主権の奪い合いである。部族同士の戦というより、覇権の争いである。農民は戦いの外にいた。武士も負ければ、新しい領主に雇われたのである。そこに日本の戦いの特異性がある。私はそれを風土によるものと考える。農林、水産業に携わる者は、常に戦いの外にいて、戦いがはじまれば逃げ、戦いが終われば帰ってきた。日本以外の、世界の民衆を巻き込んだ戦い、勝者が敗者の民を奴隷とした戦いは、日本の風土にあわないのである。
日本人が好戦的であるとの主張は、全く当を得ない。稲作文化は、水利と灌漑を永年に亘って維持しつづけることを意味している。「戦い」とは相入れないのである。
平和を愛する民、それが長い歴史の中で培われた民の心である。天皇家の諸行事、特に伝統的なものは、農業と直結している。「民のかまどの煙」を常に意識する天皇の姿の元像がそこにある。
日本の風土と文化の底を流れているのは、平和を愛し、共同作業に精励する民の姿である。全国に色濃く残っている各地の祭、それ等は神社仏閣と結びついて、数百年、数千年と引き継がれてきた。そこに「戦い」の陰は全く見えてこない。勤勉で、協調性に富み、互いに助け合って生きてきた祖先の姿は、私に深い感動を呼び起こしてくれる。「平和」を愛し、「戦争」を放棄した日本を、再びいまわしい戦いに参加させてはならない。「嫌戦」「棄戦」が私の信念である。現在の日本の根幹である。そして日本の歴史の長い伝統であることを忘れてはならない。日本は「平和の国」であり、この「平和」を世界に広める役目を背負っているのである。私は日本に新しい「国連」を作る必要を感じている。現在の国連とは全く異質のものである。「平和を求める国連」である。第二次世界大戦の戦勝国による国連、拒否権が存在する国連でなく、弱者のための国連、地球を守る国連、戦争を否定する国連を作る必要がある。その新しい国連の本部を日本に置く必要がある。その理由は「日本の風土」にある。「日本の歴史」にある。世界唯一の原爆の被爆国、戦争を放棄する憲法を持った唯一の国日本。平和のための新しい国連本部にこれ程すばらしい国は他に存在しない。

種の力

平成21年5月13日
種の力

西洋では「一粒の麦」から、万人を救う食料が生まれるという。日本では「一粒の米、一粒のご飯に魂が宿る」という。植物のDNAと動物のDNA,人間のDNAの配列は、差はあるものの、根本的な差はないという。植物の元は種である。その小さな種の中に、巨大な成長を遂げるすべての要素が含まれている。
杉の大木は日本各地にある。屋久島の縄文杉を筆頭に、千年を超す大木は多い。その杉の大木の元は、小さな種である。杉の花粉で私達は悩まされているが、受精した小さな種子が地に落ち、環境の中で育てられ、成長していく。種子の一つ一つに過去の数代前、数十代前、数百代前のDNAの記憶をとどめ、成長していくのである。
こんな奇跡を思い出す。千葉県の幕張メッセの近くに検見川遺跡がある。そこで発見されたハスの種の化石は、2000年以上前のものと判定された。このハスの種の化石が、培養によって開花したのである。2000年の眠りから覚めて、見事に開花し、大賀ハスといわれている。その株分けされたハスが、東京都の町田市、小山田神社にある。ハスの種は死んだのではなかった。化石になっても生き続けているのである。「種」の力を思い知らされた一事である。小さな「種」の中にDNAという秘密のカプセルのような形で、全生命を封じこめ、あらゆる環境の激変の中を生き延びているのである。
福井県は世界有数の恐竜王国である。世界に三つしかない恐竜博物館があり、希望すれば恐竜発掘の体験もできる。化石の発掘である。骨が出土する。化石として出土する。将来はこの化石から恐竜の子孫が再生できるかもしれない。そんな生命の不思議を思わせるのが「種の力」である。
もう一つある。それはトマトの人工栽培が、「つくば科学博」で披露された時のことである。人口土壌で育てられた1本のトマトの苗から、1万2千個のトマトが生まれたのである。私達の知っている畑のトマトは、多くても10〜20ヶまでである。それが100倍以上もの成果を上げることができたのであった。これまた生命の不思議、生きる力のすごさに驚嘆させられたのであった。この栽培手段は、「良い状態」を作ろうとしたのでなく、「悪い条件」「不利な条件」を排除し続けた結果であるとの説明であった。生命の本来持っている力、それが種に宿っていることを再認識した瞬間である。
私達人間同志にも、種と同じように、人間と人間には全く同じ力があり、全く同じ可能性があるのだと教えられ、勇気づけられた。
卑下することはやめよう。自信をもって今日もまた可能性に挑戦を続けていこう。

農業国日本

平成21年5月12日
農業国日本

神代の頃から、日本は農業国であった。豊葦原の瑞穂の国といわれていた。温暖、多雨のモンスーン地帯である。山が峻しく、河川は短くしかも急流である。この水を制した者が、大陸や半島から流入した「稲作」の恩恵を受けた。そして早くから二毛作が定着した。これは肥沃な大地を流れる河川が、上流からミネラル分を含んだ水を毎年運び、水田を潤すことによってもたらされた。
例えばヨーロッパでの農業は、一般的に、三区作と呼ばれ、作付、牧草、休耕と三年毎に一度しか収穫のできない農法である。反対に赤道近辺では二回作は常識となる。
現在(2006年FAOSTATより)では米の生産量の世界一は中国で、世界全体の29%、次がインドの22%、3位インドネジア9%、日本は10位で1.7%に過ぎない。
わが国の農業統計を調べていると、慄然とする数字に出くわすことが非常に多い。農業国日本は、もはや幻想でしかないことがよくわかる。日本の農政の無策は、大いに批判されるべき大問題をかかえている。まず米の作付面積の激減に気付く。1960年(昭和35年)330万haだった米作付面積は、50年後の現在、半分の167万haに激減してしまっている。農家の数も激減している。販売農家数は15年間に約300万戸から200万戸に減った。農業就業人口は1970年811万人から35年後の2005年には252万人になってしまった。69%減である。就農人口の就労人口比は、35年前の16%から、2005年の4%までに激減している。農業総生産も減り続けている。1970年4.7兆円が1980年10.8兆円、1990年11.5兆円、そして35年後の2005年は8.5兆円となった。GDP比で見ると1970年4.2%が2005年1.1%と存在感が乏しくなってしまっている。年間8.5兆円の農業総生産はトヨタの半分以下、約3分の1である。日立製作所1社より更に小さい。そして恐ろしいことに、就農人口の高齢化の進行が異常に早い。就農人口に占める65歳以上の比率は、1990年33%が2000年53%、2005年58%と急上昇しつつある。また就労環境が悪い。年間労働時間が4,300時間に対して、可処分所得が年460万円である。一般労働者の年間労働時間は2,040時間、可処分所得530万円と比較すると、その悪さに驚く。人の倍以上働いて、所得が13%も少ないのである。まさに農業国日本は死に体になりつつある。一日も早い対策が待たれている。
日本の農業を救えるのは、年金労働者の就農を促進することも一案である。株式会社への農地開放も一策である。公共投資が土地改良に使われているが、追跡調査をしてみると、その殆どで、農地以外への転用が数年後、十数年後に起きている。真心のこもった政策が行われなければ、日本の農業の未来はない。国民すべての大問題である。

和のしつらい

平成21年5月11日
和のしつらい

日本家屋が外人達から「兎小屋」といって笑われたのは敗戦後そんなに経っていない頃のことであった。日本は復興の最中であり、やっと衣食が足りたかというレベルにあった。住宅への投資はこれからという段階であった。
しかし日本家屋と外国の住宅を比較してみると、伝統や文化の違いによる大きな差があることに気付かざるを得ない。西洋では下足のまま部屋に入り歩きまわる。日本は玄関で下足を必ず脱いで上る。部屋には家具は殆どなく、いわゆるビルトイン型式が日本式である。そして床の間、建具、畳などが一体となって部屋を構成している。壁がないのが和室の特長である。
室内空間は季節や行事、迎える客によって様々にセットされる。これを「しつらい」と呼ぶ。春なら春のしつらい、節句などの度に建具、敷物、家具、絵画や軸、飾り物などを入れ替える。そこには約束事があると同時に、主人の教養、趣味、財力などが表われてくる。美的センスも含めて、そのしつらいを楽しむのが日本流の風流である。
大道具、小道具、飾り物などは特に重要で、招待される客の方にも、それなりの知識や教養が要求される。茶道、華道、香道をはじめ歌会、句会などの折にも、「しつらえ」が「おもてなし」の重要な要素となる。「しつらえ」には1、2のテーマが隠されている。その隠されたテーマを当てるのもまた一興である。
北陸では茶道が盛んで、煎茶などは手軽に楽しめるので広く行われている。和の生活がどんどん縮小していく中で、日本文化の原点ともいうべき「和のしつらい」を残すにはどうすればよいのであろうか。先人達の知恵によれば、「生活の中で普段づかいに和道具をどんどん使ってみる」ことだそうだ。洋室に和ダンスを置いたり、その上に陶磁器を飾ったり、季節の花を和風の器に飾ったり、やってみると結構楽しいものである。くり返している内に、勉強し、少しずつ上達していくのであろう。頻繁に取替え、飾り替えることをすすめたい。

電気自動車への道

平成21年4月28日
電気自動車への道

私の最初の職場は「石炭」であった。当時汽車は石炭を燃料としていた。それが「石油」に変り、ジーゼル車が走り出した。現在はすべての汽車も、ジーゼル車も、愛好家の夢と消えつつある。電車だけが、地上を、地下を走っている。電車がレールの上を走っているように、電気自動車が高速道路上を走れないのだろうか。原理的には可能である。直ちに可能である。経済的にも不可能ではない。システムが完成すると、コストは逆に大きく低下するであろう。
電気自動車への道は、近いことを忘れてはならない。ガソリンよりも電気(特に夜間電力の利用)の方が温暖化ガス排出の削減効果は大きい。ただ一つ大きなネックがある。それは電池の開発である。リチウムイオン電池が生まれ、あっという間に電池の主流になりつつあるが、まだまだ高価すぎる。安くて効率がよく、長時間の運転に耐え、短時間に充電できる電池の開発が、電気自動車への転換の時間を決めるであろう。それを2〜3年とみるか、5〜10年とみるか、いずれにしてもそんなに遠くないことを忘れてはならない。
車の軽量化の研究も進むであろう。1950年代のアメリカ車は数トンの総重量であった。現在のハイブリッドカーは1t前後である。高級車でもそんなに重くない。しかし私は車の総重量は500キロもあれば十分と考えている。風の影響に左右されない形が求められるが、重量を軽くするのは難しくはない。電池の軽量化、モーターの軽量化がすすめば軽すぎて困る車が誕生することであろう。
事故の衝突によるダメージを心配する人がいるが、逆に軽い車の方が、ダメージは少ないことに気付いてほしい。車はまだまだ軽くなっていくのも間違いないのである。そして電気自動車の可能性が増えていく。福井県は国の電気自動車実験の認定県となった。共に力をあわせ、知恵を絞って研究に参加したいと考えている。昨年ベストセールスマン賞(社内)として最優秀セールスマンにトヨタのハイブリッドカー・「プリウス」を進呈したが、「電気自動車」を進呈する日がそう遠くないと考えている。

価値の転換

平成21年4月24
価値の転換

先日「キラリ会」の月例会で、スピーカーのデザイナー松山道明さんから「価値の転換」について、約1時間にわたって話を聞く機会があった。松山さんは福井県のデザイン界の草分け的存在で、種々のデザインを通して、地元業界や地場産業を指導され、松山さんの育てたデザイナーも多い。「キラリ会」の卓話の中でも、トップクラスのお堅い話に、列席のメンバーも謹聴の1時間であった。
私は人生は「価値の追求」であると考えている。数学的にも経営学的にも「付加価値の増大」を求めることであると考える。「喜びの種、幸せの種を蒔こう」と呼びかけ、自らも実践しようとしているのは、この付加価値の追求にほかならない。
松山さんは、情報化時代のデザインの役割は、「価値の転換」であるという。そして「価値の転換」は「新しいエチカ(倫理)の創生」であるという。「新しいエチカの創出」とは、新しい価値観の問題であり、デザインの哲学的な課題であるという。
松山さんは、昭和4年(1929年)生まれの80歳である。若い頃に福井空襲の火の海、福井震災の地獄、そしてその後の戦後の混乱の中から、デザイナーを目指して、東京の青山へ出かけていき、デザイナーの修業をされた。「価値の転換」は当時日常茶飯事であったであろう。日華化学工業、三谷商事、セーレン等地元有力企業の仕事、めがねの仕事、などを通して、デザイナーの地位向上に多大な貢献をされた。
デザインの価値は、驚くほど大きい。「ブランド」の価値がよく問題になるが、その元となるのは「デザインの力」である。「ブランド」は「デザイン」の結果と考えた方がよい。ものづくり産地・福井を発展させるのは「デザイン力」以外は考え難い。「デザイン」は知恵の塊である。「エチカルデザイン」を追求していくことで価値の転換が促進され、価格競争と脱却することが可能になる。福井における「新しいエチカルデザイン」の創生を高らかに歌いたいものである。福井県は人口割では「ものづくり大国」である。繊維、めがね、和紙、電子機器などの生産は人口割ではダントツの日本一である。そしてこれ等の産業は「デザイン力」によって質的転換をはかることが可能である。松山さんの「夢の仕事」を継ぐ若人の出現を待っている。

柱時計

平成21年4月23日
柱時計

私の子供の頃には、どこの家にも柱時計という振り子のついた時計が、家の中心にかかっていた。バネで動く時計なので、ラジオの時報にあわせて、時計調整をすると同時に、数日に1回、2つのネジ穴のネジをまく必要があった。チクタク、チクタクと動く時計は、夜の静寂の中で生きているかのようであった。その「振り子」についての話をしたい。
幼い頃この振り子を見つめていた記憶がある。振り子は正確に反復運動を繰り返している。振り子は振り切れることなく、必ずまた返ってくる。そしてその繰り返しである。これが私の幼児体験として残っている。即ち「振り子は必ず反復運動を繰り返す」というのは真理である。
私の学生時代就職試験の時1958年は「ナベ底景気」であった。就職先がなかった。しかし留年した友は一流企業に入った。景気が回復したのである。1973年第一次オイルショックが発生し、物価急騰、世の中が激変した。しかし2年で沈静化した。1979年第二次オイルショックが再度発生。1983〜87年円高不況、1991年バブル崩壊、2001年ITバブル崩壊、2008年金融危機と景気の谷を列記したが、谷底と谷底の間には、必ず高い山があった。それが時計の振り子と同じように好景気と不景気の両極端を往きつ、戻りつしているのである。
ところが人は特に経済評論家やマスコミの論調は、景気のよい時は「好景気は続く」という見方をする。逆に不景気の時は「不景気は3年続く」という。よく調べてみると、3年続く不景気は殆どない。不景気の中にも、景気の山が存在するのである。
人はある考えにとらわれる習性がある。時計の振り子が右へ動いている時はいつまでも右へ動き続ける錯覚を持つ。これは錯覚である。振り子は必ずまた戻ってくる。振り子が左へ動いている時は、逆にいつまでも左へ動くかのように考えてしまう。これ又錯覚である。間違いである。振り子は左から右へ方向転換をする。
名経営者や哲学者の至言はこの振り子の心理を見抜いた上での言葉が多い。「不景気の時は、好景気になった時のことを考えて、事前に手を打っておけ」「好景気の時は、いずれ来る不景気のことを思い、早目に、手を打っておけ」「好、不況に一喜一憂するな、永遠に続く好況も不況もない」「消費が冷え込んで売れなくて困ると考えるのはおかしい」「嵐は永久に続かない、楽観はしないが、悲観もしない」「さあ大変と慌てふためくな、冷静に、手早く対処せよ」「困難な時こそ新技術が生まれ、不況が去った時その技術が生きる」「勇気を出して挑戦せよ先の見えない不況はない。よく見て挑戦するのだ」「付和雷同するな、世間の動きは遅い」・・・
先人はみんな振り子の原理を見通している。私は柱時計の振り子のことを思い乍ら、永遠に続く不況も、永遠に続く好況もないことを忘れてはならないと肝に銘じている。

食料の保存

成21年4月21日
食料の保存
縄文時代から日本列島には大勢の人々が居住していた。山の幸、海の幸に恵まれており、気候も大陸や半島と比較すると、寒暖の差が少く、住みやすいところであった。食料も豊富にあり、木の実や魚の加工品が長期保存に適しており多くの人口を養うことが出来た。小魚は天日干により、また大きい魚は燻製にして、長期保存していた。発酵食の歴史は古く、縄文の頃より、日本列島から中国、ロシアの河川沿いにまで、生魚を土中に埋めて保存食とする習慣があった。人類以外の動物は生きるためにその時間の殆どを使っている。食料を確保するために使うのである。
日本は有史以来、急激な人口減少の経験のない、珍しい国である。その理由が「食料の豊かさ」にあるのは言を俟たない。そしてその豊かさは日本人の知恵と節食の妙、そして種々の保存食の開発に原因がある。
人類は早くから保存食を工夫し、多くの命を保持する知恵を身につけた。食料を無駄にせず、徹底的に食べきるようにするのが、生きながらえる知恵となるのであった。
弥生時代に稲作が伝えられ、米が生産されるようになると、定住が一般化し、高床式の倉が作られた。食料がもみのまま1年以上保存されるようになり、食料事情は一変した。カツオ節に象徴される乾物は、腐敗しやすい魚貝類を数年にわたって保存できる食料にかえた。漬物特に塩による漬物は、食品の保存期間を圧倒的に長くした。これによって日本列島は、人口増加に耐えうる豊かな国へと成長していったのである。
この食料の保存の知恵が、現代の食生活にまでつながり、生かされてきた。この永年に亘って引継がれてきた知恵を更に生かしながら、食料の長期保存、備蓄、そして最終的には、リサイクルまで昇華していきたいものである。

柴田神社

平成21年4月20日
柴田神社

織田信長の臣下第一といわれ、越前49万石という最大の領地をもらった柴田勝家は、福井市のJR福井駅から徒歩5分のところにある柴田神社に祀られている。柴田勝家は斯波氏の庶流柴田土佐守の子として、尾張で生まれ、その後信長の宿将として活躍。越前の朝倉家や一向一揆との戦いを制し、1575年9月(天正3年)城主となり、九重の天守閣を持つ北ノ庄城を現在の柴田神社所在地に建てた。
信長の死後、勝家は秀吉と対立したが、信長の妹「お市の方」と結婚し、北ノ庄城に住んだ。しかし秀吉の北陸攻めに敗れて、この北ノ庄城でお市の方と共に自刃。その時浅井長政との間に生まれた美人3姉妹(お茶々=豊臣秀吉側室、お初=京極高次正室、お江またはお江与=徳川秀忠正室)は戦火の中を秀吉方へ脱出。その後絶世の美女といわれた「お市の方」の遺児たちは戦乱の世を、敵・味方に分れて数奇な運命をたどることになった。
北ノ庄城は柴田勝家とお市の方の自刃の際に、灰燼と化したが、その故地に柴田神社が造営されていた。戦災や震災で神社の社殿は燃えてしまったが、平成9年に新たに着工。現在神域は少しずつ拡大されつつある。材料の木材は伊勢神宮の式年遷座の折、境内社の一社を払下げて頂いたとのこと。様式は室町時代の重要文化財、宇治市の三室戸寺の左奥にある「十八神社」をモデルとして建立したという。
福井の春祭りの一環として開かれた地元を知る講座「北の庄物語」を聞く機会があった。講師は中川一雄元敦賀セメント役員であり、久闊を叙した。中川さんは福井市歴史ボランティアグループ「語り部」としてお話しをいただいたが、自宅が柴田神社に近く、役をお勤めのようである。柴田勝家、お市の方の菩提寺は柴田神社とほど遠くない西光寺である。
柴田勝家末裔の人々は、日本美術院理事長、東京芸術大学学長、文化勲章受賞の平山郁夫画伯をはじめ兄弟の方々が折々に参拝されている。また福井市内の宗法寺住職柴田性紀さんも同じく子孫とのことであり、柴田勝家ゆかりの遺品も数多く残されている。私は以前から「戦国のエレジー四人の美女」を描くメロドラマの出現を期待して、女流作家を物色中である。

頑張れ

平成21年4月9日
頑張れ

芹沢光治良の「人間の運命」という大作を読んでいる。数奇な運命にもて遊ばれ乍なら、明治、大正、昭和の疾風怒涛の時代を生き抜いていく「森次郎」という青年の姿を描いている。旧制の沼津中学から一高、東大を卒業していく中で、数多くの少年、少女そして青年男女の人生が生き生きと表現され感動的なシーンが多い。
その中で必死に生きる若者達が帝大三年の時に文官試験を合格した時の模様が書かれている。文官試験は外交科・行政科にわかれていて、一高の仏法、独法、英法などの出身同志が合格を喜び合う場面があった。「日本が文明国の仲間入りをする為に、自信を持って頑張れ!頑張れとは一高生の語彙であり、一高生の精神である」。この「頑張れ」という一語が、第一高等学校の語彙であり、精神だというこの一行に驚いた。
思い返すと、私は学生時代から、「頑張れ!」という言葉を、常に自分に言い聞かせてきたように思う。その「頑張れ!」が一高生の語彙や精神だといわれると、困ってしまう。この「人間の運命」という大作は時代背景の描写も巧みで、登場人物も殆ど実名で描かれており優れた作品である。全6巻という大作で幼少からの人生のいろいろがつぶさに描かれ、久しぶりに感激させてもらった。しかし、この「頑張れ」という私にとって大切な一言を、一高の専売のようにいわれた点は、心にひっかかった。
「一所懸命に、一生懸命に、一心不乱に、集中して努力すること」を「頑張る」という。辞書には「奮闘する、頑強に主張する、元気を出してやり抜く」などある。国会議員の選挙の時など、投票日が近付くと「頑張ろう三唱をお願いします」といって全員で「頑張ろう」を三唱する。この不思議な一言が人間を前向きにする。悲観的になりがちな心を勇気づける。暗くなりがちな心を明るくする。私は自信をなくしそうな時、落込みそうな時、自分で自分を励ます時にこの言葉をよく使う。そしてこの一言の力を信じている。今、世界は、未曾有の困難の中にある。この事態を、この閉塞状態を突破する為にこそ、「頑張ろう」を三唱したいものである。

日本学について

平成21年4月8日
日本学について

白川静博士の「白川文字学」について研究したいと思い、県立図書館へ通っている。白川さんを知れば知るほどその研究のすばらしいことに驚嘆する。白川さんは数千年、数万年前に遡ると思われる象形文字から、漢字(殷字というべきか)への成長の跡をたどっている。そしてその研究を「文字学」という学問にまで昇華している。しかも殆ど独力である。他に類を見ない偉業である。県立図書館には白川文字学の為の一室がある。そこには著書がすべて閲覧できるようになっている。その著書の内容の精密さと、文字一つ一つに対する研究の深さを実体験できる貴重な空間である。
福井駅前東口からまっすぐ東方へ約1キロ余り、そして交差点を北へ100メートル余りいくと旧福井県立図書館がある。今はこども図書館のようになっているが、この建物にも「白川文字学」の分室を作るとのことである。白川博士は福井県の宝であり、名誉県民である。ただ惜しいのは、県立図書館もこの分室も交通の便が至って悪い。福井県民でも車なしでは訪れることは難しい。
そこで遺族の方々に福井えきまえに「白川文字学」の分室の分室を作ることを提案している。私は白川文字学は本家の中国にも存在しない世界的な偉大な研究であると考えている。日本は今、世界の中の一員として、その存在感を高めているが、「言語力」が弱いといわれている。しかし私達の使っている日本語は「漢字」である。「漢字」は世界一の言語である。人類約60億人の内、20億人以上の人々の言語の元になっている。
「日本学」という言葉もまだ正式に広く認められてはいない。この言葉の定義を考えている私は、「日本学」の出発点、原点は「白川文字学」にありと確信しだしている。日本という国を歴史的、風土的、文化的に種々研究していくと、中国大陸や朝鮮半島を通して世界とつながっていたことに容易にたどりつく。そして世界の人や文物が日本へ渡来し、そこで発酵し、独自の発展を遂げたことに気がつく。この日本独特の思想を「日本学」の領域にまで高めたいと考えている。その出発点が白川文字学である。日本学の係累をたどってみると歴史上には細々とその姿が垣間見える。しかし、これを系統立てて日本学にまで高めていくことは容易ではない。白川さんの白川文字学の手法を参考に、日本学を考えてみたい。日本学の確立には今はじめたとしても数十年、数百年が必要であろう。私は白川さんゆかりの福井が、日本文化のふるさと福井が、日本海側中心の福井が、日本学研究拠点として最適だと思う。その足がかりという意味で、福井えきまえに「白川文字学」の研究室をと愚考している。

こしの国の都


平成21年4月6日
こしの国の都

越前に五山あり。日野山(越前富士)、越智山、文殊山、吉野が嶽、部子山である。日野山周辺にある日野神社は、すべて継体天皇を祀る神社である。中平吹、荒谷、向新保、常久にある。日野山の「日」の名は「日の御子」の「日」に通じ、同時に「火」に通じる。製鉄業が行われていたことと強いかかわりを表わすものであろう。百済から日本海(当時は北つ海といった)をこえて三国、河野、敦賀の津へ続く海の道を通って「製鉄の技術」が早くから伝えられていたと思われる。
継体天皇の御代にはまだ記録する文字が十分でなく、歴史の真実は、古墳の発掘を待たねばならない。ところが大和は早くから開発がすすみ、発見や発掘がすすんできていた。「こしの都」の越前は、北陸高速道の工事により、次々と貴重な発見があり、今後の発掘に大きな期待がかかる。今迄発見された古墳群の分布を見ても、越前三川を中心とした扇状地の高所に密集しており、巨大前方後円墳の数多くの存在は「こしの都」を十分証明するものである。更に学術的な発掘や探求がすすむことを期待したい。
古事記によれば、越の国を「遠々し高志の国」とよんでいる。万葉集には「科離る越」「み雪降る越」とうたわれている。律令時代には北陸道は、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の七ヶ国を含み、越前の国司が、各管内国司の治績を調査監督指揮する権限を持ち、道内唯一の大国であった。
織田信長の祖先ゆかりの織田町剱神社には神護景雲5年(770年)の梵鐘がある。国宝である。その銘文に「剱御子寺」と書かれている。そして境内から瓦が出土した。神宮寺の遺跡である。日本最古の神宮寺は宇佐八幡宮の弥勒寺といわれていたが、剱御子寺の方が古い。また敦賀の気比神宮の伝承によれば藤原武智麻呂が715年に神宮寺を建てたとの伝記がある。これが事実とすればこれまた宇佐八幡宮の神宮寺よりも少し古い。いずれにしても北九州と越前は古代より、日本の先進地域であったので、その事実を伝える事蹟である。こしの国は、「匠の都」といわれるほど、中国や朝鮮半島よりの文物の交流、人との交流が長い期間続いた。これは、地の利、水利のせいである。大和の比ではない。
和紙、漆器、陶磁器、鉄器、木工、織物、染色など、匠の技といわれる産業が越の国に根付き、しかも脈々と受け継がれて、今日まで続いているのは、特筆すべき事実である。
最後に音曲についても、田楽や神楽が各地に残っている。越前万歳は、国指定重要無形民族文化財の指定を受けている。三河や尾張、伊勢、伊予、秋田万歳よりも古い歴史を持ち、これまた現在に伝承され、生活の中に生き続けている。

こしの国の都 

平成21年4月3日
こしの国の都 

京都は千年の都といわれ、約1200年前に平安京が造られた。奈良は1300年前の都であった。ところが若狭から越前にかけて「こしのくに」があり、その都が九頭竜川、足羽川、日野川の三大河川を含む現在の福井市周辺から越前市にかけての広大な領域にあった。今から遡ること約1500年以上前である。継体天皇を育んだ「越のくに」である。神代には「高志の国」といった。その後「道の口の国」と呼ばれ、更にくだって西暦691年に「越前の国」となった。約1300年前ごろである。越前の国から、718年に能登の国が分かれ、更に824年に加賀の国が分かれた。日本海側では越前の国のみが大国といわれていた。
こしの都千五百年物語を聞く機会があった。福井のキラリ会の3月例会のスピーカーに「こしの都文化事業実行委員会会長の三田村紘二氏」を迎えて、歓談の一夕を持ったのである。そこで「こしの国の都」がいかにすばらしいかを再認識することが出来た。資料から抜粋してみよう。
弥生時代から日本海沿岸は、日本文化の先進地帯であった。中国は前漢、新、後漢の時代があったが、その新の時代の王莽が作った銅貨(貨泉)は日本海沿岸各地で見つかっている。すでに弥生時代に中国と日本海沿岸地帯は交流が存在していたのである。また各地に鉄をつくる鍛冶炉跡や多くの鉄製品が見つか
っている。鉄の文化は日本海沿岸から始まっているのである。日本書紀の垂仁天皇二年の条に書かれているのは、「崇神天皇の代に意富加羅国(おほからのくに)の王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が日本海をこえて、敦賀にきた」と伝えている。おお加羅国と
は、大邱市から釜山にかけての地域の中の一番大きい国である。その王子の名が「敦賀」の名となり、その子孫は今も福井に住んでおられる。
継体天皇母、振媛は、越前すなわち三国(坂井市)の出身である。日本書紀に登場する女性の中で、この振媛の美貌が最高位に賞でられている程の美人であった。三国の地は越の国の都を縦横に結ぶ三大河川の扇のかなめの地であり、かつては大きな潟を形成していたと思われる。九頭竜川を遡ると数多くの前方後円墳がある古墳群に達する。そこに二本松山古墳がある。私の住む山である。ここから銀製の冠、金銅製の冠が出土した。この山はまだ十分な調査が行われていないが、重大な発見が期待される山だと私は予測している。若狭町の十善の森古墳や、継体天皇の父、彦主人王ゆかりの滋賀県高島市の鴨稲荷山古墳からも冠が出土している。大和ではこの時代冠の出土はなく、6世紀後半の藤の木古墳の出土の金銅冠を最後とする。
朝鮮半島から、こしの国、そして大和へと続く「冠の道」を思わせる数百年にわたっての交流の証が、出土されてくる「冠」である。

春を訪ねて

平成21年3月30日
春を訪ねて

子供の頃から東京には縁の薄い人生を送っていた。生まれて初めて東京を見たのは、同志社大学へ入学した後、東京方面の大学へ入学した友人達に招待された時であった。東京駐在の役員になってからは、休日には必ずあちこち出歩いて見聞を広めた。関西人にとって、関東は、特に東京は異国のようにうつったものだ。政治、経済、芸術、文化、あらゆるものごとが一極集中している様子は、関西人にとって少し異様な感じを受ける。刺激が強すぎるのかもしれない。
そんな時、関東のチベットといわれる房総半島を訪れるのは、ささやかな息抜きの時間であった。特に本州で菜の花が最初に咲くといわれる外房の海岸線の旅は楽しい。小さなトンネルを抜けるたびに景色が変り、海の色が変化する。露地栽培の春の花が目いっぱいに飛びこんでくる。太平洋岸を北上する黒潮の影響を受けて、外房は暖かい。
東京出張にことよせて、今日は久しぶりに外房の上総興津の家へ泊ることにした。興津港から約500メートル、海抜30メートル程のところ、小さな谷川のせせらぎが聞こえる所に建てた家である。敷地は200坪あまり、花木を植え、ハーブ園を作った。敷地が八ノ字に広がっているので後方の森と山が自分の庭であるかのような眺望である。海を望む家もよいが、海の景色は「目が点になる」といわれるように変化に乏しい。山や森に面した家は四季の移ろい、一日の変化、刻一刻と変る木々の動きは見飽きることがない。特に春がよい。まず菜の花やれんぎょうが咲き、梅が咲き桃が咲き桜が咲く。それから続く草、花、樹木の競演は見事である。
外房の海岸線を白浜・館山方面へ向ってドライブしてみよう。東京湾横断道の海ほたるの料金が引き下げられて、急に車が増えたようであるが、まだまだ過疎地の面目は失っていない。のんびり、ゆったりの世界である。外房には高山はない。それだけに風景は優しく、穏やかである。花畑では露地栽培の色とりどりの春の花が咲き乱れている。「花摘み園」である。ほしい花を好きなだけ持ち帰ることが出来る。子供の頃にかえって花を摘んでみよう。
夏には海水浴客で賑わう海岸も、今日はダイバー達がいるだけである。ウェットスーツの若者に声をかけて、更に南を目指して車をスタートさせる。春風が頬に心地よい。
 

幅18メートルの滝

平成21年3月24日
幅18メートルの滝

人は水の音や風の音を聞くと、癒されるという。森に入ると小鳥の声にまじって渓流のせせらぎ、樹木をわたる風の音が聞こえてくる。森はマイナスイオンが一杯である。
私は幼少の頃、八幡宮の近くで過した。生家の前には甘柿の木、梅の木があり、堀井戸があり、目の前を米川という細く浅い川が流れていた。今から思うと、正にマイナスイオンのまっただ中で育てられたのに気付く。
現在福井市で分譲マンションを建設中である。このマンションの周囲を樹木で囲い、花園を作り、池を作りそして滝を作った。幅18メートルの滝である。日本中を捜しても、この規模(75戸)のマンションで、これだけの敷地、これだけの緑地、これだけの駐車場そしてこれほどの滝を備えたマンションは少ない。
特に滝は見事である。赤御影石を加工して作ったが、「上出来」である。流れ落ちる水は飲み水としても安全な地下水である。流れ落ちた水は池を廻って風のそよぎを水面に見せてくれる。マイナスイオン一杯の癒しの空間を作ることに成功した。
マロニエの並木道の歩道から敷地に入る。なだらかなカーブを描くペーブメントは天然の石で貼った。両側に池。右手の池の奥に幅18メートルの滝がある。爽やかな、軽やかな水音をたてながら流れ落ちている。池の中も白御影石張であり、池のまわりは赤御影石で統一した。ケヤキの大木の下で木洩れ陽をあびながら、春の一刻を過す至福を味わえる空間である。シンボルツリーは「ケヤキ」であるが、「オリーブ」の植木鉢も用意した。一番多いのはやはり「桜」である。すぐ近所に櫻谷神社の神域がある。「桜」を植えることに情熱を燃やしている私は、どこへ行っても「桜」を植えることを忘れない。今年の「桜」は少し無理かも知れないが、2、3年もたてば、立派になった「桜」を賞でながら滝の音、風の音、小鳥の声をゆったりと楽しめるであろう。

越前三河川

平成21年3月23日
越前三河川

日本海の三国湊は北前船の主要な寄航地として長い繁栄の歴史を持っている。豪商の館が並び、神社仏閣も数多く残っている。越前平野を流れる三大河川の九頭竜川、日野川、足羽川はすべて三国湊の手前数キロメーターのところで合流し、川幅を広げて日本海へ注いでいる。それぞれ発するところは別々の山塊から流れ出している。九頭竜川は奥越から石川県境にかけて白山系の山脈から始まっている。足羽川は奥越から南東方向の岐阜県よりの峰々に源を発している。更に日野川は滋賀県境との山塊から流れ出している。三川とも多くの支流を持ち、清流を形づくっている。そこでは鮎やヤマメ・イワナ等の絶好の釣場となっており全国の釣り人の人気の的となっている。
私が住んでいる永平寺町の広報誌に「サクラマス釣り発祥の地」という小文が掲載されていたので紹介しよう。
1980年代の終り頃、日本のフライフィッシングの第一人者沢田賢一郎氏(東京在住)が日本で初めてフライフィッシングでサクラマスを釣ったのが永平寺町松岡志比堺の織物会館付近であった。今でもこの辺りは「ハタヤ前」という愛称で親しまれ、一級ポイントとして有名。フライフィッシングは鳥の羽などを釣り針にまきつけて作った小魚や虫のイミテーションを使い、釣り竿を巧みに操る釣り。欧米では伝統的なスポーツとして愛好されている。日本では渓流で小さい魚を狙う釣が主流であったが、沢田氏はサクラマスのような日本古来の大きな美しい魚を釣る釣りを確立したいと考え、何年も九頭竜川へ通った。そして60センチを超えるサクラマスを釣り、専門誌が大きく取り上げた。それ以来サクラマスを目指して次々と県外客が訪れるようになり、1990年に九頭竜川中部漁協は日本で初めて「サクラマス」と明記した「遊漁証」を発行した。そこには「フライとルアーに限る」という全国にさきがけた画期的なものとなった。
サクラマスは30回通って1回釣れるといわれる程難しい釣である。それだけに釣天狗の興味をそそるようである。サクラマスはヤマメの降海型である。早春、川の上流で卵からかえったヤマメの稚魚は群で生活し、エサ捕りが下手で大きくなれなかった負け組がその年の冬に海へ降り、栄養の豊かで60cm以上に成長し、再びふるさとの川へ回帰してくる。川に残った勝ち組は20cmほどにしか大きくなれない。10月頃産卵するが、サクラマスはメスが多く、ヤマメのオスとペアになることが多い。
1994年に発足した「サクラマス・アンリミッテッド」は釣人達が資金を出し合い、毎年春と秋に五松橋の下でサクラマスの稚魚の放流やゴミ拾いを行っている。放流総数約40万尾に達している。
サクラマス釣りは自然と対話する釣りといわれる。「九頭竜川は釣り以外の多くのことを教えてくれる」という釣人がいる。ここはお互いのコミュニケーションの場であり、情報交換や親交をあたためる場となっている。
こんな身近にすばらしい福井の宝があるのを知り、うれしい限りである。愛知県の安田さん、大阪府の西村さんお二人ともサクラマスを釣り上げて再放流(リリース)されたとのこと。正に大公望である。

日本という国

平成21年3月18日
日本という国

日本の特徴を上げると、GDP530兆円は世界第2位、人口1.28億人第10位、国土38万k崑60位、排他的経済水域(領海を含む)448万k屐構成島数6,852島、森林率2/3、世界一の火山列島。
更に経済的な数値を調べていくと、日本の総資産2,000兆円(1990年は3,000兆円を超えていた)でアメリカとほぼ同額、人口1人当りではアメリカの2倍、イギリス・ドイツの3倍程になる。家計は健全で約1,500兆円の蓄積がある。家計の負債はきわめて少く約400兆円しかない。4年近くの貯えがあるのである。
年金が問題になっているが、老齢年金は夫がサラリーマンであった厚生年金保険のモデルケースの場合、月額20.6万円となっている。現在の為替レートで換算すると2,150ドル。世界一高い年金受取額である。母子家庭・生活困窮者への支援も多い。東京都の場合生活保護所帯3人で月額13.6万円、年額160万円である。アメリカは年収(夫婦と子供2人)約200万円以上の人に課税され、イギリスは126万円から課税されるが、日本は300万円以上の人に課税されるのでである。
世界一所得格差の少ない国なのである。そして世界一豊かな国である。平等で、安心で、安全性も高い。軍隊も志願制であり、戦後64年間外国よりの武力威嚇を受けたことはない。内乱争動も殆ど皆無である。殺人事件やテロ行為が少なく、殺人、強盗、傷害、強姦などの暴力事件は諸外国の十分の一以下である。
長寿も世界一である。コレラ、天然痘、結核、エイズ等の悪質な病気が少なく、健康の面、公衆衛生の面でも優れている。清潔である。公害防止基準も世界一厳しい。禁煙も日に日に強化され、麻薬の摘発にも力が入り出している。薬品や食品添加物はどこの国よりも厳しく規制されており、排ガス規制、騒音防止規制も厳しい。国民の健康への関心が高く、国民のすべてに健康保険が適用される。
日本の第3次産業の就業者は4,340万人で約70%を占める。そして毎年増え続けている。第1次産業約272万人で4%、第2次産業約1,720万人で27%、第1次・第2次産業ともに毎年確実に減少し続けている。ものづくりの国といわれていたが、サービス産業の国へと変化を遂げつつある。
このように日本は世界で最も恵まれた国である。気候も、風景も、食料も水も問題なくトップレベルである。しかし、ただ一つ問題がある。大きな問題がある。それは「殆どの日本人が、日本が最も恵まれた国である、豊かで幸せな国であると思っていない」ことである。「誰も自覚していない」のである。これは国民だけでなく、政治家も、マスコミも、官僚ですら自覚が足りないのである。
私はこの日本人の特徴を「懐疑主義」「自虐趣味」と呼んでいる。世界の中における日本の位置を正確に把握し、その責任を果たしていくことが求められている。しかるにその自覚がない。もっと自信を持つ必要がある。
松下幸之助さんは昭和21年11月、未だ日本の都市が焼土の中にあった時に、PHP研究所を立ち上げられた。平和PeaceのPと幸福HappinessのHと繁栄ProsperityのPである。松下さんは昭和51年(1976年)、今から33年前に2010年の日本を、世界の中の日本を次のように喝破している。
「2010年の日本は世界で最も理想的な国と認められているであろう」。その理由は、
「豊な生活を送っている日本」。  安定した経済成長を続け、国民所得1人当りで世界のトップを行く。税率は低いが、富の分配が公平で、高い生活水準を享受している。
「物価が安定している」。 輸入物資の個々の騰落はあるが、相対的に物価は長期に安定を保っている。
「モラル・マナーのよさ」。  日本人の礼儀正しさと親切さはどの国の人々にも好感をもって迎えられている。
「美しい自然」。  変化に富んだ自然がある。世界中の人々が一生に一度は訪れてみたいと心から願っている。
「自由と秩序」。  自由が抑圧されている国は多いが、秩序が保たれている国は少ない。日本は自由でありながら、秩序は整然と保たれており、政治もよく、犯罪が少ない。
「青年が希望を持って生きている。老人が大切にされている」。  青年と老人だけでなく、すべての日本人がよりよき人生、よりよき社会を目指して、喜びと幸せを感じながら張り合いをもって生きている。
「日本の歴史と伝統、皇室の存在」。  建国以来、天皇家が続いてきた珍しい国であり、独自の文化と伝統の精神が生きている。
「政治の安定」。  政情不安の国が多い中で、日本はコップの中の嵐はあっても常に安定し、首相が変っても、国の方向が変るような大きな変化はおきない。
「世界への貢献ナンバーワンは日本」。  経済的な援助にとどまらず、道徳面、文化面、福祉面での支援をオファーしている。またさまざまな国際紛争に対して軍事的でなく援助協力が出来る数少ない国である。またエネルギーや環境問題、技術開発等の支援も求められ、それに応じる力を持っている。
私は松下幸之助さんが大好きである。そして彼の先見性を証明するこれ等の言葉をかみしめて、日本人のよさ、日本という国のよさを
自覚しなければならないとつくづく思う。自らを必要以上に卑下するのはよそう。世界の現状を正確に把握し、日本の位置を判断し、自信をもって行動しようではないか。
 

大樹

平成21年3月17日
大樹

巨木といわれる程の大きな樹は、近づくと一種独特の雰囲気を感じさせる。常緑樹の大木もいいが、私は落葉樹が好きだ。楢、栗、ブナ、栃、モミジ、カエデ・・・。
人間の一生は長くて100年程度であるが、巨木は500年、1000年を生きているものがある。しかし、落葉樹の葉は、年々歳々芽を出し、葉を出し、実を育て、枯れて、散っていく。一生が一年である。同じ木の枝に毎年異なった芽が同じような葉を作り、同じように育ちそして枯れていく。しかもそれが500年、1000年と同じやり方で続いていく。
人間についての一生を考えてみると、私達の誕生から死までのプロセスが、巨木に宿る芽、葉、実などのプロセスと酷似しているのに気付かされる。私達は自分の力で、自分の努力で、自分の人生を歩んでいるつもりでいるが、果してそうであろうか。よく考えてみると人間は一枚の葉に過ぎないのかもしれない。人間も精子と卵子の結合の時からDNAに刻み込まれたブログラム通りに成長し、やがて死を迎えるのかも知れない。
鶏の受精卵からヒヨコが生まれ、そして育っていくプロセスを見ていると、私達が母親の体内で胎児として育ち、そして誕生して成長していくのと酷似している。巨木の葉も、ヒヨコも、人間も、その体内に固有のDNAを持ち、そのDNAの命ずるままに成長しそして次世代にバトンタッチをしていくようである。
葉にとって、巨木は生命の母である。ヒヨコにとって、鶏は生命の母である。私達の生命の母は母親である。ただ巨木の生命力と鶏や母親の生命力(時間軸上のもの)には大差がある。そこに巨木といわれる大樹の神秘性が宿っている。巨木の森といわれる屋久島の縄文杉は7000年を生きているという。伊勢神宮内宮の森や、各地の鎮守の森を歩いても、白神山地を歩いても、吉野の大台ヶ原を歩いても、霊気を感ずるのは何故であろうか。何百年、何千年をいき続ける大樹の持つ生命力が私達を圧倒するのであろうか。大樹の発するフィトンチッドが私達に力を与えてくれるという人がいる。森林のマイナスイオンが精神にプラスの作用を与えてくれるという人もいる。私達日本人の祖先は、山岳信仰即ち森林信仰からスタートした民であった。そこに大樹への畏敬の念がおのずと生まれてくるのかも知れない。大樹は見るだけでもよい。そばへ寄ると更によい。木肌に触れると生命力をもらえるように思うのは私だけであろうか。 

複眼力

平成21年3月16日
複眼力

ものを見る時にいろいろな見方がある。例えば鳥瞰図というと鳥の目のように上から見おろす見方で書いた図をいう。俯瞰図もある。高い所から下を見下ろすもので鳥瞰図と似ている。人が高い所に登って見下ろした景色をいう。
 また風景画をかく時に、遠景、中景、近景にわけてかく。それぞれかき方が違う。これは遠景を見る目と、中景を見る目と、近景を見る目が当然変るからである。見る目が変ると、見えてくるものが変る。
時代の先を見る目と過去を振り返る目も異る。過去の延長だけでは未来は見通せない。そこでは想像力が要求されてくる。分析力も必要である。
ものを見る時に、自分の過去に遡ってある時の自分の目になって考えることも可能である。例えば学生時代の自分に返って「自分が学生だった頃に、この問題に遭遇したらどうしていただろうか」と考えてみるのである。又は今は福井に住んでいるが「自分が東京にいた頃だったらどうしただろう」と考えるのである。或いは「退職した時だったら」とかもっと先の「八十歳になった時だったら」などと自分の年齢や条件を変えて物事を見るのである。
職業を変えることも出来る。私の場合商社へ入ったので、最初の仕事は石炭屋、次が冷暖房機屋そしてセメント屋、生コンクリート屋、分譲マンション開発屋、めがね屋、貿易屋、車屋、コンクリート二次製品屋、コンピューター屋などなどいろんな職業に携わった。それぞれの職業には独特の習慣や考え方がある。視点を変えるのにこれ等数多くの職業の方々とお付き合いいただき、種々教えていただいたことに感謝している。私の方は社命により数年毎に立場と職種を変えたが、相手の方々は生涯同じ仕事をされているケースが多かった。それだけに教えられることが多く、底が深かった。
これ等の体験から「複眼力」ともいうべき力、いろんな視点から物事を判断する力を養うことが出来た。誠に稀有の経験である。いかなる境遇にいようと、常に好奇心と挑戦する勇気を持っておれば、必ず道は開けることを学んだ。感謝。

福井の宝「雄島」

平成21年3月13日
福井の宝「雄島」

世界三大奇岩「東尋坊」は有名であるが、そのすぐ近くにある「雄島」の価値を知る人は少ない。実は「雄島」は東尋坊とセットにして世界遺産になり得る貴重な島なのである。雄島は神の森である。島全体が鎮守の森である。三国の人々にとって雄島そのもの、雄島の森そのものが神であり、長く信仰を集めてきた。その為、人の手が入らない。自然がそのまま残った稀有の宝となったのである。
雄島は周囲約2キロ、広さ10ヘクタールの小さな島である。日本海に浮かぶ表土の少ない岩石の島であるが、かつては日本の海岸の到る所にあった筈の海辺の自然が見事に残っている。日本海の荒波が洗う岩場から、海浜植物、そして照葉樹へと植生の変るのが手にとるようにわかる。
まず島の入口近くにある大湊神社への参道の雄島橋をわたる。潮風が冷たい。左手にハナウドの群落、右手にハマゴウの群落がある。少し登ると島を一周する遊歩道に出る。左手には岩を覆うようにタブが多い。樹の周囲3メールを超える樹齢500年以上のタブの大木がある。大湊神社の前後に更にタブの大木(500年、300年以上といわれる)が多い。板根を持つタブもある。山椿の群生が美しい。更に進むとシロダモ、トベラ、椿の林が続く。左手にはカワラナデシコ、ハマボッス、ハマアザミ、ハマニガナ、ハマベノギク、カワラマツバの群生がある。運がいいと、美しい声で鳴く、青と栗色の鳥イソヒヨドリにあえる。右手に入ると雄島監視所と雄島燈台がある。目の前の低木はヒメアオキ、アオキ、ヤブコウジ、マサキ、サネカズラの樹林帯である。下草のキノクニスケは日本での東限と北限の自生地である。遊歩道の周遊コースに戻ると、岩場に、コオニユリの群生がある。ノハナショウブ、ヒオウギ、エゾニワトコ、ハマベノギクが混生。島の北部は強い北西風によって木が傾いて風衝樹林帯となる。落雷による強い磁場を持つ磁石石がある。道の両側にキツネノカミソリが生えており、樹齢200年のエノキとタモが立つ。左手にはノブドウ、エビツル。珍しいマルバグミもある。東側はトベラ、ヤブニッケイの純林がつづく。最後に左手に板根を持つタブの大木と右手からはスダジイの林が見送ってくれる。休憩しながら歩いても約1時間で全島を見ることが出来る。植生は温帯性常緑広葉樹林の極相林でタブ、スダジイといった照葉樹が繁っている。表土が浅いので幹は細い。僅か1時間の変化に富んだバイキングであるが、去り難い魅力を持つ島だ。

恋は盲目

平成21年3月11日
恋は盲目

「初恋はカルピスの味」とは私の青春時代のキャッチコピーであった。「今日も元気だ。タバコがうまい」と双璧をなす名コピーである。「恋」も知らずに「カルピス」をのんで「恋」とは何かを議論した少年時代を思い出す。
「恋は盲目」という言葉も広く流布している。見ず知らずの者が、お互いに相手のよい所だけを見詰めてあって、恋心を抱くのである。マイナス面は見えない。あるいは「あばたもエクボ」に見えてしまう。恋に陥ると盲目のように本当の姿が見えなくなるというのである。
私は仕事柄人とあう機会が多い。一日百人ぐらいの人と挨拶を交わす。自分の気分や体調に関係なく、明るく元気に笑顔で挨拶をするように心がけている。人を見る時、人を評価する時、私達は相手の欠点をあげる事が多い。しかし欠点を言ってみた所で改善の為にはあまり役立たない。逆にマイナスになることが多い。自分の欠点は自分が最もよくわかっているのである。他人からそれを指摘されるとなお意識してしまう。そしていじけたり、自信を喪失したり、動けなくなったり、結果は余計悪くなってしまう。
私は人のよい点をみるように心がけている。そしてそれを指摘してほめるようにしている。私の人生の中で、思いがけない人から「ほめられた」ことにより、自信を持った事が何と多いことか。救われた事が何と多いことか。だから私は人の悪い点、劣っている点を捜さず、人のよい点、優れている点を捜すクセをつけている。恋する人になったつもりで、盲目になって相手のよい所だけを見続けるのである。そこに美しい出会いがあり、すばらしい人間関係が生まれてくる。
盲目になることによって恋は成長していくのである。盲目になることによって新しい世界が生まれるのである。「恋は盲目」というのは、正しい判断なのかも知れない。いや私は正しい判断だと信じている。現代は暴力の時代といわれる。1人1人の人格が軽んじられ、無視されかねない。弱者を排除しかねない悲しい時代である。そんな時代でも相手を心の底から信じること、心の底から愛し合うことほど大切なことはない。私は喜んで「恋は盲目」を今日も実行していくつもりである。

長浜八幡宮

平成21年3月10日
長浜八幡宮 

旧長浜市の中心部にある長浜八幡宮は1069年(延久1年)源義家が、後三条天皇の勅願を受け、石清水八幡宮の分霊を迎えて祀ったといわれている。檜皮葺きの屋根の頂きに千木鰹木を備えた神明造りは、伊勢神宮に似ており、伊勢神宮の御饌殿(外宮にあり、毎日朝夕二回、天照大御神をはじめ内宮、外宮、別宮のすべての神々に調理した御神饌を奉る神事を行うところ)を譲り受けたとの伝がある。皇室や武将の尊崇篤く、足利義政、浅井長政、豊臣秀吉等から社殿、社宝の寄進を受けている。社域は町中にしては割合広く、東隣に弘法大師の開いた真言宗の寺、舎那院がある。明治まで別当寺として務めていたが、神域との境は殆んどないに等しく、同一敷地のように見える。社域全体が森の中にあり、その中を米川が流れている。
私の生まれた家はこの宮前町にあり、家の前をこの米川が流れている。八幡宮の森は少年時代の遊び場で、幼稚園もこの社域の中にあった。かつては私達の町内そのものが社域の中に含まれていたのであろう。未だにこのまわりの土地は八幡宮の所有である。
長浜と豊臣秀吉との因縁は浅からぬものがある。秀吉が生まれてはじめて城持ちになったのが長浜城であった。この城は徳川時代に壊され彦根城となったが、山城から平城それも水利を活用した城づくりの嚆矢となったものである。
秀吉は男子の誕生を喜び砂金を町民に与えて八幡宮の曳山祭を誕生させた。十二両の曳山(山車)は金、銀、ゴブラン織などの豪華な飾りを持ち、重文に指定されている。この祭りは日本三大曳山祭の一つで、重要無形民族文化財の指定を受けている。曳山の上で12歳未満の男子が演ずる子供歌舞伎が有名である。滋賀県は人口割でみると神社仏閣の数が日本一(福井県はその次)と多いが、戦乱の巷でなかったからであろうか。
八幡宮の社域の中にはいくつかの神社があり、稲荷社も作られた。この稲荷社は私の子供の頃にはなかったものだ。能舞台も拝殿の東側にあり、小学生の頃、全員で能や狂言を見学にきた記憶がある。曳山祭の浄瑠璃や能の謡曲を幼少の頃より聞いていたのが、記憶のどこかに残り、それが私の能や謡曲への興味につながっているのかも知れない。私の幼い頃の記憶は、太平洋戦争の思い出を含めて、長浜八幡宮をめぐるこの神域にかかわっているのである。主神は息長氏の祖、息長足姫尊と誉田別尊、そして足仲彦尊の三柱である。創建以来一千年が経過しようとしている。

古寺巡礼

平成21年3月9日
古寺巡礼

学生時代を京都で過すまたとない機会を生かして、古美術研究会の友人を誘って、京都の古い寺をめぐり歩いた。戦乱の巷を千年以上も生き続けた京都の各地に、数多くの古寺が生き残っている姿を目のあたりにし大きな感動を受けた。まさに歴史や文化そして真の宗教や芸術にふれる旅であった。
ひるがえって福井について考えてみよう。福井県は滋賀県に続いて神社仏閣の数が多いところである。日本海沿岸には神世時代からの神社が多い。白木神社は各地にあり、半島との関係の濃さを偲ばせる。また古来から日本列島にあった自然崇拝と神道そして渡来した仏教を習合したという泰澄(682—768)は福井の生まれである。泰澄研究は、泰澄創建といわれる勝山市の平泉寺白山神社の前宮司平泉澄(元東大国史学教授)が書いた「泰澄和尚伝記」がすばらしい。これは泰澄入寂の地といわれる越智山大谷寺の僧「神興」が、天台僧の「浄蔵」の口授を筆記したという同名の「泰澄和尚伝記」の研究に基づいている。
福井県下はおろか、京都をはじめ周辺の至るところに「泰澄伝説」は存在する。しかし泰澄の名は正史といわれる公式文書には全く見当たらないといわれている。伝によれば722年に元正天皇の病をなおし禅師の位(十禅師の一人といわれる)につき、737年には天然痘が流行、これを十一面法を修して治め、聖武天皇より「泰澄」の名と「大和尚」の位をいただいたという。泰澄の足跡を訪ねて福井を歩く「福井遊行」の旅が面白い。越前町の福通寺朝日観音には泰澄の聖観音と千手観音が伝えられている。小浜の羽賀寺の十一面観音像は行基仏といわれるが泰澄作と思われる。
泰澄は日本における山岳信仰の祖であり、神仏習合の祖であり、仏像制作(木彫)の祖であり、十一面観音信仰の祖である。これ程の偉人は少ない。永平寺の道元、宝慶寺の寂円、北潟の蓮如をはじめ、日本の歴史、文化、芸術に大きな貢献をした福井ゆかりの宗教家の偉大な業績を訪ね歩く「福井遊行」は、観光の目玉というより、私達の心のふるさと再発見の旅へのいざないといえよう。
古寺社を訪ねる巡礼の旅は「四国の専売」にしておく必要はない。日本一、二、世界一、二を競う神社仏閣の密集する福井県下に数コースの「福井遊行の道」を作ることを提案したい。

戦争と軍縮

平成21年3月4日
戦争と軍縮

大西洋で原子力潜水艦同志が激突したという。おきる確率は限りなくゼロに近いはずである。そんな奇跡がおきたのは正に天からの警告としか思えない。冷戦の終結によって核の恐怖は鎮静化した。それも束の間、今や核保有が弱小国にまで及びだし、危険極まりない状態になりつつある。
戦争には膨大なエネルギーを必要とする。戦争にはならなくても、軍備を整え、攻撃力を維持する為に浪費されるエネルギーだけでも大きい。しかもそれが年々増え続けている。
国連は第二次世界大戦の戦勝国が作った組織である。常任理事国という拒否権を持った国が自国の利権を主張する為の組織という見方もある。日本は分担金や拠出金、数々の支援等で多大の貢献をしているが常任理事国には戦後60年を過ぎてもなれない。ドイツもイタリーも同様である。
日本に新しい国際的な平和組織を作ったらどうであろうか。国連から脱退しなくてもよいが、新組織は拒否権のない世界全体に開かれた組織にするのである。世界全体が軍備を一斉に放棄し、戦争をやめれば、温暖化ガス削減は一気にすすむ。平和維持隊は本来の役目である「平和を維持し、人々の生活を守るために派遣される」ことになろう。戦争を抑止するためでなく、生活の向上のための派遣となる。
ノーベル賞を作ったノーベルが心配していた通り、武器は悪魔のものになりつつある。軍備の縮小からはじめて、今世紀中に戦争放棄、核軍備根絶を達成することを日本が提案していったらいかがであろうか。2050年までにエネルギーのカット80%を達成する最有力手段として、私は「戦争放棄」のための日本サミットの常設を主張したい。
その候補地は日本海沿岸の中心部に位置する福井県がよいのではなかろうか。話は違うが世界にある奉仕団体の一つにロータリークラブがある。福井県は第2650地区という奈良、京都、滋賀、福井の4府県で構成している中にいる。本部はアメリカである。ライオンズクラブも同じくアメリカに本部がある。ローターリークラブ活動に取り組んで30年近くなるが、ロータリークラブと仏教の思想の相似点に気付くことが多い。しかし核兵器廃絶を提案しても取り上げてくれない。やはりこれも私達がその組織の中でどんどん粘り強く主張を続けると同時に、外部で新たな組織を作り、そこから新しい考え方を発信していくことが必要なのかもしれない。「戦争はイヤだ」は私の生涯を貫く信念である。これだけは譲れない。

世界一高い日本の給料

平成21年2月20日
世界一高い日本の給料

59歳で創業した1996年頃の状態は、前年の1995年に1ドルが80円台まで急騰し、輸出産業にショックを与えていた。当時の日本人労働者の平均賃金が約26万円/月とすると、アメリカは1600ドル/月といわれていた。アメリカの2倍の給料を日本はもらっていたのである。
しかしながら日本人は世界一高い(人口500万人以下の小国を除く)給料をもらい乍ら、それに満足している人はいなかった。現在円高が大問題になっているが、15年前の状態と比較してみると、全く驚くに足らない。アメリカと日本の給与格差は更に広がっている。しかるに日本人の高給に言及する人の何と少ないことか。中国やベトナム、インドなどとの給料の差は更に激しい。どこに問題があるのかを考えてみよう。まず日本人社会の持つ自虐性が第一である。日本人が世界一であるはずがないという固定観念から抜け出せていない。二つ目は経済構造、特に流通に問題がある。運賃が高すぎる。流通段階が多すぎる。流通マージンが高すぎる等々。三つ目は規制である。これは規制緩和が叫ばれ、徐々に解決に向いつつある。賢明な日本の官僚の力に期待したい。ところが最も大切な点は実は私達の「心の問題」なのである。世界一の給料をもらい乍ら、それに満足できない「心」の存在を忘れてはならない。
現在地球上で戦争や小競り合いで毎日多くの人が殺されている。そしてアフリカ大陸では数百万人が毎年飢餓で死んでいる。衣食住が足りている日本、健康保険制度、年金保険制度、生活保護制度、自治会町内会商店街組合等の仲間の互助制度などどれをとっても世界に冠たる優れた仕組が出来上がっている。勿論これ等の仕組の間からこぼれ落ちた人々は多い。しかし世界の悲惨な状況と比較すると不平不満を言っていてはいけない。個々のケースで速やかに対応し救済策を打ち出していく必要がある。例えばアメリカと比較しても貧困層の少ないことでは日本ははるかに優れている。
世界一高い給料をもらい乍ら、なぜ私達は「満足」が得られないのであろうか。老子の言葉に「知足不辱、知止不殆」がある。「足るを知る」ことがいかに大事かを教える言葉である。寺院や茶庭で丸い「つくばい」の真中に口と書いたものある。まわりに五、隹、 、矢が添えてある。吾、唯、足、知と読む。「足るを知る」ことが人生の修業である。「足るを知る」ことが生活の根本になければならない。「足るを知らない」生き方は餓鬼根性である。足るを知れば、自然に生まれてくるのが「利他の心」、「共生の心」である。「利他の心、共生の心」を大切に、日々を生きていきたい。 

医師という聖職

平成21年2月19日
医師という聖職

講演会の講師を頼まれることがある。学校の先生方を前に話す機会があり、面映い中をあえて苦言を呈することがある。私の拙い人生の中で恩師と呼ぶ教師の何と多いことかを説く。恩師と呼べるのは人生の師であり、厳父のような師であり、愛情を内に秘めた師であると説く。教師は聖職だと説く。
医師の友人が多い。最近は医師も専門分野が細分化されてきているが、開業医の場合は反対に、ひとりでに広い分野を対象とせざるを得ないようである。医師は時に人生の教師としての役目も持つことになる。医術は仁術といわれて久しいが、医術を習得するのに大学、大学院、インターン等を通算して7〜8年更に医師試験の期間を合わせると7〜10年を要することになる。
ミシガン大学の大学院の寮で隣室の日本人医師と親しく半年間を過したが、彼は酒もタバコものまない。脳神経外科であるので「手が命」だからという。まさに自分の手が「神の手」になっているのである。医師の友人には、このような人物が多い。医師が聖職であることを十分理解し、尊い人生を送っているのに感銘を受けることが多い。
世間は不況というのでテレビも新聞も暗いニュースばかりである。高速道路もレストランも百貨店もホテルも人影がまばらで寂しい限りである。人々は保身に走り、財布のヒモをしっかりしめ出している。明るいニュースがないのかと報道関係者や評論家の友人に声をかけてみるが瞠目するほどのものはないという。
4,5人の医師の友人を訪ねてみた。そして驚いたことにどの病院もどの医院も患者で一杯である。不景気は全く関係がない。インフルエンザのせいか、心の病いのせいか、高齢者が多くなったせいかとに角患者の多いのに驚いた。先生とあって話しをする暇もない程忙しい。毎日の貴重な時間を、先生自ら診療にあたっておられる姿を見て、本当に頭の下る思いがした。
医師や教師が聖職といわれる理由は、毎日の生活を、患者や学生、生徒の為に捧げているからであることに気付かされた。産婦人科医師の不足がいわれているが、少子高齢化時代の解決手段として産婦人科医師の枠を広げるとのことである。当然のことであるが、同時に激務に喘ぐ医師の状態に、心から感謝することを忘れてはなるまい。

豊田三郎画伯

平成21年2月12日
豊田三郎画伯
起床後約30分をかけて柔軟体操をする。16種類の型を自分で作り、それぞれの型を20回ずつ反復して行う。初めのうちは軽く、回を重ねるごとにより深くしていく。ゆっくりと、力を入れすぎずに行うこと。これが秘訣。最後の20回目は、完全な型がひとりでに決まってくる。
 昨年100歳を迎えた豊田三郎画伯の健康長寿法の説明は以上のような話から始まった。そして身ぶり手ぶり、両手を広げて、大きな声で教えていただく。座談を聞く一時間余りの間、私は画伯から大きな力を与えられた。その大きな力は「生命力」とでも表現できようか。私より30歳も年長であることが、信じられないパワーである。
昨年は100歳を記念して個展を開かれた。そして画集『寿楽無窮』と歌集『現影』の発刊、また記念講演会の開催など、とても100歳とは思えない活躍をされた。記念講演会は約1時間、1人で数百人の聴衆に向って、烈々たる気迫の大演説であった。
今日は私達だけの座談であるが、間近に見る顔容は60歳かとみまがうばかりの若々しさである。私達が建設中のマンションの一画に先生の絵をかけさせていただくことになり、歌集、画集と共に「芽吹く河岸 20号F 2004年作」を預かった。
画伯の住んでおられるアトリエから福井へ帰る車の中で、私はいつもひたひたと胸にせまってくる喜びと、何ともいえない温かい幸せを感じる。今夜はまず歌集をひもといてみようと心に決めて家路を急いだ。
北原白秋最晩年を支え続けた歌人、野北和義氏と知り合った画伯は、短歌を余技といいつつ、愛妻「けさ」さん(日赤病院元看護婦)への妻恋い歌を数多く作られている。そして 亡き妻へ捧げられた歌集である。生涯に幾多の断絶を「けさ」さんの助けと不退転の決意、強靭な意志と節制(ご本人の言葉によると「執着、根気、勤勉」といわれる)によって克服されてきている。そして一筋の道が百年となり、未だに現役である。私の理想「生涯現役」を101歳になってもなお続けておられることに驚く。没後25年になる私の父より年長でありながらの、この元気な生涯現役ぶりである。

頑張ろう三唱

平成21年2月10日
頑張ろう三唱

福井県選出の国会議員福田一先生の選挙運動を、手弁当で毎回応援させていただいた。選挙終盤になると、壇上へ応援者が上り、声を揃えて「頑張ろう」を三唱する。「頑張る」という言葉は。「努力する」ことだけなく、「全力を尽くして努力する」或いは「逆境の中で勝利を目指して努力する」等の意味が込められている。私はこの「頑張る」という言葉が好きでよく使う。
最近になって、あちこちで「がんばらない人生」というテーマの講演の案内や本を見る。うつ病の友人から手紙(ハガキ)をもらったことが何度かあるが、うつ病や精神的に弱い状態になっている人に「頑張ろう」というのは適当でないとのことである。
「ゆとり教育」が提唱され、自主性を重んじる教育が数年間に亘り、実施された。ところが学力低下などの顕著な悪い結果が出て、見直しをせまられた。「頑張らない教育」はダメなようである。教育は子供達に前向きに、何かに向って努力することを教えるものである。頑張らない教育はありえないはずである。
「スローライフ」が叫ばれ、ゆっくり、のんびり暮そうという考え方が浸透しつつある。ストレスの多い日本の現状を考えると、わからないでもない。特に老々介護や不登校の子など精神的なプレッシャーの重圧下にある人には「スローライフ」の考え方がふさわしい。不登校の子供達を集めて自然に触れる教育をし、全員不登校から抜け出せたという話を聞いた。老々介護の場合も積極的に自然と触れ合う生活を取り入れるとよいのかもしれない。
困難な経済環境の中で、私達も日々時代の風に翻弄されがちであるが、「逆境を乗りこえて努力する」ことを忘れてはならない。今日もまた「頑張ろう」を三唱して出発だ。
「いまやらねばいつできる。わしがやらねばたれがやる」
―――九十八翁平櫛田中の色紙より

悠久の時

平成21年2月6日
悠久の時

現代はストレスに満ちている。人々は、自然から遠ざかり、都市という「人口環境」を作り上げ、快適な生活を送るため都市に集まってきた。しかし過密な環境からおきる「心の病い」や、長寿化にともなっておきる「痴呆症」が増加している。人の心に対する関心はこれから益々増えていくことであろう。
宇宙や地球の起源をたどっていくと、生命の誕生が35億年前、そして人の細胞60兆個の小宇宙にたどりつく。太陽系以外の宇宙の輝きを見るのと同じように、私達は自分の身体の中に小宇宙を見ることが出来る。そして6万年前に既に地上に存在したネアンデルタール人を遥かに遡っていくと動物の脳の原型が出来たのは6億年前、そして6万年前のネアンデルタール人が埋葬や献花を行っていた事実、即ちその頃すでにあった心の存在に気付かされる。
脳と心の関係をたどっていくと面白いことに気付くことが出来る。脳は古い脳(動物が持っているもの)と新しい脳(大脳新皮質=人の脳が異常に大きいのはこれが発達しているから)に分けることが出来る。そしてストレスを解消するメンタルヘルスアップを行うには、古い脳の活性化をはかるとよいという。心身の健全化に役立つという。
私達は家庭、学校、職場、社会など周囲の環境と調和するために常にストレスを受けている。このバランスが崩れると種々の障害が生まれてくる。人類の歴史6万年、脳の歴史6億年と比較すると私達の人生はたかだか80年。悠久の時の流れの中に生を受けている奇跡を思うと、多少のストレスに悩んでいる暇はない。
しかしストレスの解消法は考えておいたほうがよい。それが生活の智恵である。その解決のヒントは「古い脳」や「古い骨盤」といわれる部位にある。人の誕生前から、人以外の動物や鳥などの持っている「古い脳」を活性化することである。
これをNHKでは「心のラジオ体操」と呼んでいる。ここで紹介しておこう。1.楽な姿勢をとる。2.軽く目を閉じる。3.深呼吸を2、3回。4.普通の呼吸に戻し、一気に力を抜き、頭を前に倒す。5.両手両足にそれとなく留意しながら、次の言葉を何回もゆっくりと心の中でいう「気持がおちついている」「両手両足が温かく重い」。6.背筋をのばし両腕の屈伸を3回し、深呼吸を2、3回し、静かに目をあけて終る。
この心の体操を続けると多くのストレス、精神的な悩みの解決につながるという。この方法は日本生産性本部のメンタルヘルス研究所で指導している。「只管打坐」や「真向法」によく似たところを感ずるが、似て非なるものであるのは間違いない。

東雲(しののめ)よりの曙光

平成21年2月5日
東雲(しののめ)よりの曙光

夜明けに東の空が少しずつ赤く染まってくる。薄雲があると、刻々と移りかわる光の饗宴がよりはっきりする。東雲と書いて「しののめ」と呼び、「明け方」「あかつき」を表わす意味がよくわかる。そして雲があるほうが、太陽の光がより美しく見えてくる。雲間に四方八方に、光が輝き出すのだ。私達はよく天から降り下る光や、森の中に差し込む光を絵や写真で見るが、この感動的なパノラマを、私はしばしば福井の自宅の窓から、体験する。この光の饗宴は一瞬にしてその輝きを変える。刻々と赤みを増してくるが、雲の変化と太陽の昇るスピードと位置により、その色も光の形も全く違ったものになる。本を読んでいて、ふと目を上げ東天を見てこの曙光を発見することがある。急いで外へ出て、冬の場合は東南の方向を見ようと思う間に、光が変化することがある。自然の荘厳さを実感する。自分の小さいことを実感する。時の流れを実感する。道元禅師は言っている。「古人は言っている。まず聞けと。そして見よと、そして経験せよと。経験したことがなければ聞きなさい。聞くよりは実際に見たほうがよい。見るよりは経験したほうが更によい」「そして時は流れていく。一瞬も無駄にせず、今の今を大切にせよ。今からはじめるのだ」
道元の言葉をこの朝の光の中で、心底から理解できるのは、ここが道元が常住した永平寺町だからであろうか。道元を京から招き、数百年に亘って守護した「波多野一族」が現在もこの地に住んでおられる。「無私の心、利他の心、信仰の心」がこの一族を守り通してきたのであろう。朝の東南の空を見上げつつ、太陽や自然そして道元や波多野家の方々を思っていた。気がつけば身体は冷え、あたりはすっかり明けてきている。さあ今日もすべてに感謝して出かけよう。

今日に明日をつぐ

平成21年2月3日
今日に明日をつぐ

白洲正子のエッセイの中に明恵上人臨終の言葉として、この「今日に明日をつぐこと」という名文がある。白洲さんの作品は数多く読ませていただいたが、文章の味わい深さと共に、常に現地現物主義というか、好奇心旺盛というか、女性にはめずらしく行動的である。そして直截である。白洲さんはいう。「人生を送るにあたり、知識や教養は自己を磨く道具にすぎず、自己を一心不乱に高めていく以外やるべき仕事はない。しかしこの道は簡単ではない。」
毎日の不断の努力によって、一本の道が出来る。一心不乱にその道を歩いていくとやっと終点が見える。毎日の努力が「今日に明日をつぐ」ことになるのであろうか。「自今生涯」という堀場製作所の堀場会長の話を聞いた。ダイキン工業の井上会長の「フロームナウ」という話も聞いた。「今日に明日をつぐ」という明恵上人の言葉にもよく似た響きがある。
「永遠の時の流れ」の中にたゆとう私達にとって、「今」という「この刹那」に全力を傾注する生き方が大事に思われる。今というこの一瞬、一瞬にすべてを投入し、悔いのない生涯を送りたいと思う。
「敵をつくるな、味方を増やせ」が私のスローガンの一つである。先日冨田商事の冨田社長におあいした時、このスローガンによく似た話を聞いた。「事を起こすに際し、三人の友に利があっても、一人に損をかける仕事だったらやりたくない」といわれる。「今」という時空の糸を紡いでいる私達にとって、利他の心を失ってはならないのは無論のことである。そしてたった一人の人にでも損をかけるような生き方はしたくないものである。凡人の私達には難しいことではあるが、常にこの言葉を胸に刻んで「今日に明日をつぐ」努力を続けていきたい。

映画「禅」

平成21年1月28日
映画「禅」

毎月24日は「地蔵まつり」の日である。福井えきまえの歴史の道の中に福井県の織田町平等出身の東京巣鴨の「とげぬき地蔵」にちなんで、「健康長寿の生き生き地蔵」を招来し、毎月24日午後1時から大乗院の大谷方丈の導きで商店街活性化と参拝者の健康長寿を祈っていただいている。今月24日は2009年正月の初地蔵まつりである。
福井県は浄土真宗の盛んな土地である。そして道元禅師の開かれた曹洞宗大本山永平寺のお膝元である。「とげぬき地蔵」も「生き生き地蔵」も勿論曹洞宗のお寺からお参りをいただいるが、今年は開祖道元禅師をめぐる「禅」という名の映画が上映された。1月10日より全国一斉封切りとなり、毎週入場者ランキングが急上昇中である。昨年末永平寺の監院さんにおあいした時、この映画「禅」の話が出た。ポスターもいただいた。道元は空海と異なり、中国から帰国の後は各地を遍歴することなく(京から福井へ、鎌倉へそして福井から京への旅を除く)、福井を聖地として死の直前まで永平寺にこもり、座禅一筋の道を歩かれた。その教えは、その後幾多の困難な時代を乗り越えて、脈々と今日まで伝えられている。映画の主人公として「道元の魅力」を表現することは、至難のわざであり、それをどう成功させるのか楽しみにしていた。
映画は2時間余り、息もつかせぬ感動の連続であった。特に私は寂円に以前から興味を持っていた。その寂円を、道元の弟子であると同時に心の友として撮っていた。道元の歿後、懐弉と義介の後、永平寺の法灯を延々と引継いだのは、大野の山中で宝慶寺を建てた寂円の弟子達である。映画では寂円と公暁を一人二役で演じさせていて、一際注目を集めさせていた。この映画を見てますます寂円の魅力が増した。少い文戯の中から、中国よりの留学僧「寂円」の根跡をたずね、彼の90歳余の生涯に光りを当てたいと思う。映画では道元は身一つで帰国したことになっている。しかし宝慶寺の寺宝は永平寺をも超える重要な遺物ばかりである。映画は道元の死と共に終っているが、日本語の字幕が必要な程曹洞宗の教義の言葉が出てくるが、漢文調なのでわかり難い。しかし感動で涙がとまらないすばらしい内容であった。もっともっと多くの人々に見ていただきたい名画である。

水仙まつり

平成21年1月23日
水仙まつり

越前海岸の冬の風物詩として有名なのは「水仙の花」と「波の花」である。1月中旬水仙の咲き揃う頃は、日本海は少し荒れ気味となる。詩人や小説家がよく使うのは「荒々しい海」や「暗い海」という表現である。海岸に打ち寄せる強い波の力で「白い気泡」が空に舞う。それが「波の花」である。北風の強い日は、風に舞う「波の花」を存分に楽しむことが出来る。あまり他の海岸では見ることの少ない光景である。複雑な断層海岸で、山塊が岸辺まで迫っているところへ、シベリアからの寒風がこの「波の花」を舞い上がらせてくれる。
もう一つの「水仙の花」は、福井県の県花である。急峻な山肌にびっしりと水仙の花が咲き揃う。一本一本の水仙は清楚な乙女、可憐な少女の面影を宿すといわれ、地味な小さな花である。しかし山肌一面に緑の茎と白い花、黄色い花芯のコントラストが美しく、晴れた日は輝くような美しさになる。また曇天でも寒風の中にしっかりと根をおろして力強い。粉雪の中で咲く水仙は圧巻である。越前海岸の水仙は、房総、淡路島と並ぶ日本三大自生地であり、多くの観光客が訪れる。水仙の爽やかな香りは冬の香りの代表である。私は毎年玄関の花瓶に水仙の花を生けるのを常としている。仕事に疲れて家に帰り着き、玄関のドアを開けると水仙の花の香りが私を迎えてくれる。切花であるが、つぼみから生けておくと1ヶ月は花と香りを楽しめる。庭の花壇にも植えているが、多年草なので、毎年、花も香りも楽しませてくれる。福井という土地にぴったりあった花である。一束千円も買えば家中水仙の花瓶で一杯になる。私の最も好きな花の一つである。

人間力

平成21年1月21日
人間力

人類の誕生の起源をどこにおくのかが論議の的となり、少しずつ遡って行きつつある。ネアンデルタール人のDNAがホモサピュエンスとの混血により、現代人のDNAの中に組みこまれているとの説もある。となるとかつて数万年前頃といわれていたご先祖様の誕生はどんどん古くなっていく。北京原人等をも含めてDNA鑑定がすすんでいくとその可能性は大きくなる。縄文時代の定義も、期間的にはここ100年足らずの間に遡っていっている。
人類というこの神秘な生命体の誕生は、今問題になっている地球環境と比較してみると、これはまたあまりに真新しい。進化論に従っても、それ程遡ることが難しい。
私達の誕生の確率を計算した人がいる。堀場製作所の堀場雅人氏である。彼の計算では、今、生きている私達は、約1兆倍の競争を勝ち抜いてきたラッキーな、運の強い、強い力を持ったものばかりであるという。その計算根拠はここで紹介するのは省くけれど、私はこの計算を何度も繰り返した。そしてその度に、自分がこの世に生まれてきた僥倖の不思議さに気付いた。なぜ自分が、自分だけがこの猛烈な競争を勝ち抜いてここに立っているのか、その理由は何だろうか。これを突き詰めていくと自分と同様に、まわりにいるすべての人達が私と同じように約1兆分の1の確率でこの世に生を受けた人であることに気付かされる。
そしてまた誕生から三歳児までの成長の早さ、知能の発達というよりDNAの中にすりこまれた人間力の覚醒の早さに驚かされる。三歳児からの成長もまた驚異の連続である。これ程の猛烈な競争を経てこの世に生を受けた私達は、もう少しお互いを尊重しあう必要がある。もう少し労りあう必要がある。もう少し愛しあう必要がある。自らのエゴの為に殺しあう戦争など言語道断である。無駄な競争も避けた方がいい。英知を働かせて共存共栄の道を捜すことが肝要である。
私は人間力を堅く信じている。人間というこの不思議な、神秘的と表現した方がふさわしい生命体が持つ力を信じている。今度の経済的な世界的な不況も、百年に一度といわれるが、英知を集め、人間力をふりしぼれば必ず克服できると信じている。その為の一歩が、その第一歩が大切である。しっかりと今というこの一瞬の一歩を踏み出す勇気を持ちたいものである。

般若心経について

平成20年12月18日
般若心経について


仏教の経典の数は3,200といわれているが、その中で最も有名で、最も短いのが「般若心経」といわれている。僅か262文字の中に、釈迦の究極の説法を伝える真理がある。原本はインドのサンスクリット語(梵語)で書かれたものを、649年頃に三蔵法師玄奘が漢訳したといわれている。インド・中国・日本の国々の仏教徒に最も親しまれている経典である。サンスクリット語の写本はインドやネパールなどには残っておらないが、日本の法隆寺に保存されている。
般若心経は釈迦が亡くなった紀元前383年から数百年たった紀元後に原型が成立したといわれている。釈迦の生存中に書かれた経典は、一切存在しない。3,200もの経典は、釈迦の説法を伝える弟子達の口伝によって徐々に形成されていった。
キリスト教のバイブルや、イスラム教のコーランと比較するとボリュームで大差があるが、この般若心経は仏教の経典の中で、バイブルやコーランに匹敵するほど親しまれ、愛され、生活の中で人々と共にあった唯一のものだ。僅か262文字の中に仏教の真髄にふれることが出来るのは、私達日本人のように、冗長を嫌い、簡潔性、凝縮性を尊ぶものにとっては誠に有難い経典である。
般若心経は「悟り」への崇拝と希求を説く教典といわれる。これを唱えること、これを写経することで、澄心と爽心を覚えるといわれている。心をこめてこの経文の一語一語を唱えることにより、仏の真実にふれることが可能になる。またこの経文の一語一語を祈りと共に書き写すことにより、充足感、爽快感を覚える。功徳を得るという。
毎月の「いきいき地蔵尊のおまつり」の冒頭に三人の導師侍僧の方々と共にこの般若心経を読誦している。年配の方々は殆ど無本で暗唱されているが、この暗唱と写経が出来ると仏陀の教えの真実にせまり、読経の後の法話が身にしみてくるという。
私は未だその境地には程遠いが、毎月の読経と法話を拝聴していると、仏教王国福井に住み、日常生活の中でその教えを身近に感じる有難さに感謝せざるを得ない。
12月8日は2500年前、釈迦が悟りを開いた日という。日本では毎月全国の寺院で成道会という法会が開かれている。般若心経の最後の五文字の「呪」にこめられた「悟り」に思いを致している。「悟り」を求めて生涯をおくるのが、私達の宿命なのかもしれない。そう考えると、毎日の数々の出会いが面白くなってくる。今日もまた新しい出会いによる「悟り」への道を捜しに出かけよう。

前向きに生きる

平成20年12月12日
前向きに生きる


景気が悪くなってくると、ものごとを前向きに考えたり、前向きに生きることが難しくなる。閉塞状態に陥り易くなる。しかし閉塞状態に陥っていては決してよい方向を見出すことは出来ない。そこを突破しなければならないのである。
前向きに考える方法は、「柔軟な考え方をする」ということである。物事を黒か白かに分けたり、敵か味方かに分けたりせずに黒でも白でもない中間の灰色や、敵でも味方でもない人々が殆どであることに気付く必要がある。
「敵をつくるな、味方を増やせ」と私はいつも口癖のように言っている。仏教でいわれる十方世界のこの世の中で、まわりの人々にとって、すべてによい行いをしていくことが、この「味方を増やせ」行為の原点にある。
そして前向きに考えられるようになれば、即実行に移すことである。半歩でも一歩でも前へ出るのである。前へ出ることが難しいと思えば、横へ動いてもよい。視点が変り、見る座標軸が変ると見えてくる景色も変る。いままでの閉塞状態から抜け出すことが出来たと気付くのに、そんなに時間はかからない。
世の中は「あざなえる縄の如し」という。善悪、景気不景気、吉凶、黒白、好嫌が次々と変り変って、代り代ってめぐってくる。これに一喜一憂する暇があるのなら、一心不乱に努力し、よいと思うこと、今出来ることをやるのである。努力し、苦闘している間に局面は変る。
一つ一つの小さな一歩から、すべての物事は始まる。小さな実行を行うこと、自分がよいと思うことをまず実行してみるのが前向きに生きる最大の秘訣である。
自分がよいと思って実行したことが間違っているかもしれない。だが間違うかどうかを怖れては、前に出られない。やってみて、間違ったと思えば、また直してよいという方向に進めばよい。間違うことを怖れてはならない。実行しないこと、前に進めないことが最も危険である。常に平常心で、半歩、一歩を踏みしめて生きたいと念じている。
小さな一歩を踏み出す時に、大切なことが一つある。それは自分だけの世の中ではないということである。人は他人によって助けられ生かされている。この厳正な事実を認識した上で、共に力を合わせ、感謝の心を忘れず、一歩を踏み出していきたい。
 

偉人伝

平成20年12月11日 偉人伝 歴史を動かすものは人間である。そして歴史は、時の権力者によって書き改められ、都合のよいように書き直されてきたという。日本の歴史をひもといても、庶民の姿が見えにくい。歴史が為政者側の記録であることの一つの証左である。その中にあって「人物評伝」といわれる偉人の業績やその生涯を追いかけた記録は誠に貴重なものである。私は子供の頃から本に親しむ機会を与えられ、乱読の癖が未だに直らない。特に興味をもって読んだのは、『偉人伝』といわれる分野のものである。その後ノンフィクションといわれる人物中心の作品を愛するようになった。 2003年にミネルヴァ書房が「日本評伝選」という新しい企画の「偉人伝」を刊行した。500人近くの人々を描くという。今迄とはスケールの違う、内容もかなり異なったものになりそうで、今から楽しみにしている。「偉人名」と作家名が既に発表され、既刊のものも年々増加してきた。 偉人伝を読んで気付くのは、数多くの偉人といわれる人達が大きく失敗したり、失意のドン底を経験しtていることである。そしてそのドン底から、這い上がってきて、成功の栄冠に輝いているのである。この「失敗からの再生」の努力と、その道程、そしてその人物をめぐる人物模様にこの「偉人伝シリーズ」の魅力がある。 私は「フランク・ロイド・ライト」帝国ホテルの設計者をまず選んだ。その内容を少したどってみよう。ライトは幕末にアメリカで誕生。父はアーモスト大学出身(新島襄、内村鑑三、樺山愛輔などと同窓)の聖職者であった。その為幼少より音楽の中で育ち、父は「交響曲は音の建物である」といったという。生涯ピアノを仕事部屋におき、発想の原点としていたようだ。母はライトの生まれる前から彼を建築家にすると決めていたという。イギリスの大聖堂の木版画10枚を赤ん坊部屋に飾っていた。母はウィリアム・モリス(1834〜96)を理想の建築家としていた。ライトは17歳の時、マディソン建築事務所で働き始め、ウィスコンシン大学の聴講生として学んだ。19歳でシカゴのシルスピー事務所に行った。シルスピーは日本美術の恩人といわれるアーネストフェノロサ(1853〜1908)の従兄であった。フェノロサは東京美術学校の初代校長となった。後任は岡倉天心である。ライトはフェノロサから浮世絵を買い、それがライトの人生をかえた。 ミシガン湖岸のシカゴでオーディトリアムビルの設計を担当したルイスヘンリーサリバン(1856〜1924)のトレーサーの仕事を受けたライトは、直ちにサリバンに認められた。6年後独立。 ライトの設計の特長は、自然との一体感の追求と空間の処理の見事さである。これは彼自身が日本の浮世絵、庭園より学んだといっている。日本の建物には壁がない。障子やふすま、木戸や衝立によって仕切られた自由な空間がある。自然と接する距離も近い。光の活用、自然光の活用も日本家屋から多くのものを取り入れている。 私はライトの中に、明治初期日本の美術工芸を含めて欧米に輸出された日本文化がアーツアンドクラフツ運動やジャポニズム運動に大きな影響を与えたものと同じものを見る。シカゴ万博が開催された1893年ライトはサリバンと共に「交通館」を担当した。すぐ近くでは日本の鳳凰館が建てられていた。宇治の平等院風の重厚なもので、博覧会終了後シカゴ市に寄贈され、1946年までシカゴ市民に親しまれた。前庭の中洲に写る建物は、多くの人々を魅了したという。ライトは明らかにこの様式を自分の設計図に取り入れた。帝国ホテルをはじめ多くの例がある。天心はシカゴ万博の事務局におりこの鳳凰殿の英文パンフレットを書いた。1906年の「茶の本」を読んだライトは更に感銘を受けている。フェノロサも会場で日本美術について数回講演を行ったという。1905年ライト初訪日。浮世絵を中心として日本美術品を多数購入。1916年帝国ホテル設計契約。レーモンド夫妻、遠藤信も共に働く。1923年関東大震災の当日帝国ホテルオープンセレモニー。損害なく残った。ライトは「基礎の浮き構造(海に浮かぶ船式)とカンティレバー構造にあるといった。臥梁が十分入っていたと耐震構造の専門家内藤多仲は述べている。1926年マン法違法で投獄。破産宣告。1929年NYウォール街株式大暴落。1932年ライトは自伝出版とタリアセンフェローシップと名付けた学校経営を行う。これがライトを苦境の中から救い出すことになった。この学校へ全米から毎年30名を受け入れる。そして落水荘の受注(1935年)果したのである。 1938年1月はライトにとって人生最高の月となった。ほぼ15年に亘って失意の時を過していたライトは、タイム誌の表紙を飾った。そして同時に「ライフ」も「アーキテクチュラルフォーラム」も「落水荘」を紹介した。週刊誌「タイム」はライトの劇的な人生を語り、「アーキテクチュラムフォーラム」はライト特集を組み、117枚の写真と図面を入れた。そして数々の悲運、悲劇を乗りこえて、見事に復活したライトを、讃え祝福したのである。また僅か5千ドルで建てられるユーソニアンハウスも人気を集めた。1日にしてライトは悲劇の建築家を脱した。時にライト71歳である。その後数々の名建築を残し、1959年91歳で逝去。 ライトの作品の内、日本で公開中のものは、帝国ホテルライト館が犬山の明治村にある。また西池袋の雑司ヶ谷に自由学園明日館があり、芦屋市の元灘の酒造家山邑太左衛門の別荘が、淀川製鋼所迎賓館として一般公開中である。 ライトと浮世絵の関係は濃密で、アメリカに現存する浮世絵の半分近くは、彼が日本で求めたものといわれている。滞在、来日7回ではあるが、深く日本を愛したライト。自然との共生、花に対する愛情、茶道への思い入れそして日本庭園への執着を思う時、私はライトの建築の魅力をたずねる旅、偉人の心を探る旅が、日本文化の再発見、日本人の心のふるさとへの旅となるのに気付かされた。偉人伝の最初の「フランク・ロイド・ライト」の著者は大久保美春である。岡倉天心研究にも造詣が深い。

日本三山の内・白山

平成20年11月25日
日本三山の内・白山

 越中の立山、加賀の白山、駿河の富士を日本三霊山と称するが、白山は、越前で生まれ、越前で修行した泰澄が開山した。泰澄は麻生津で生まれ、14歳の折十一面観音を夢見て越知山の岩屋に篭り独力で修行、21歳の頃には「越の大徳」と呼ばれたとのことである。36歳の春に「天衣珱珞で身を飾った貴女のお告げ」を受けて、九頭竜川を渡り、平泉寺から白山へ登り、頂上(翠ヶ池ともいう)で千日の間山篭り修行の後、十一面観音を感得されたという。養老元年36歳の時の開山である。白山神は初め、美しい女神像(妙理大菩薩)として立たれ、次に九頭竜の形で現れ、十一面観音の玉体を示した。泰澄は臥、浄定の両行者と共に、養老元年から3年まで1千日の練行を修め、帰路その貴女の姿を木像に刻み、小原峠の北東、川上という地に堂宇を建て「川上御前」として安置。現在は平泉寺に鎮座し「川上御前」としてまつられている。

 継体天皇ゆかりの紙の里今立の岡太・大瀧神社の里宮へ迎えたといわれるのも「川上御前」である。古より川上すなわち深山に神が棲むと考えられ、その神から神の技を教えられて、人々が暮していたということであろうか。

 とにかく白山への登山道の本道といわれる越前禅定道の起点は平泉寺である。明治の初めまで白山を管理していた平泉寺は、多くの登山を目指す人々で賑わい、越前禅定道の沿道は白山信仰の人々を迎える宿が点在していた。今でも平泉寺には白山本道登拝口があり三之宮から上りはじめる。「是より白山道14里28丁」と白山全上記に記されている。約20分で金剣宮につく。金剣の峰を第一の宿とし、釈迦の原、法音、祓川、温川、伏拝、河上、秘密谷、一之瀬、桧之宿、尾平、弥陀之原と十二宿が続く。一之瀬から先のルートは現在の白山登山で最もポピュラーな登山道である。

 これ等のルートは荒廃しているが、泰澄大師ゆかりの地として幾多の伝説がある。越前でこれ程の先人がいたのである。「泰澄大師」顕彰のための努力をもっとする必要がある。泰澄さんにあえる旅を今少し追及していきたいと思う。
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賞味期限

平成20年11月21日
賞味期限

 20世紀は資源や素材、食料や原材料の価格が安かった。そしてハイテク製品や加工品の価格が高かった。日本は工業国として第2次産業に注力し、敗戦後60年にして世界トップクラスの外貨準備高や財産を持つ国になった。しかし今パラダイムシフトが起きている。根本的な仕組みが変っているのだ。

 21世紀は加工品やハイテク製品の価格はどんどん下がり、食料や原材料の価格は上がりつつある。世界的な資源や食料の獲得競争が始まっている。トウモロコシが上り、小麦が上り、原油が上り、鉄鉱石が上っている。特に食料と水不足は、21世紀を通して発展途上国だけでなく、輸入大国日本にとっても大きなテーマとなろう。

 日本ほど食べものを余らせている国はいない。食べられるのに捨てている家庭の食品は約4割という。食料を輸入していながら、それをすべて食べるのでなくその4割を廃棄しているという。世界中の批判の目が日本へ向けられつつあるのを感じるのは私だけであろうか。

 「食品をムダにするな」というべきところを「賞味期限切れ」を問題にしている社会の風潮はおかしいのではないのか。「○年○月○日という賞味期限」は一体誰がどのような根拠で決めたのであろうか。誠に非科学的でアイマイな規準である。私はこの賞味期限は無益というより有害だと思う。ある業界の自主規制によると、3分の2のルールを決めた廃棄システムを作っている。例えば1年間の賞味期限のものは8ヶ月たったら返品とする。4ヶ月過ぎたものは出荷しない」というのである。

 スーパーへ行くと殆どのお客が賞味期限をチェックして、少しでも長いものを選んで買っていく。「○年○月○日」という日付があたかも天が決めたかのように一人歩きし、日本を、世界を苦しめている。

 スーパーへ妻と買物にいくと、私は逆に意識して日付の古い、賞味期限切れに近いものを買う。味も品質も変わらない。価格は安い。夜遅くスーパーへ行くと生鮮食料品やお惣菜は2割引、3割引になっている。夜8時をすぎると殆ど半額になる。エンゲル係数は8時以降は半分に下るのである。給料が半減してもやっていける可能性がある。

 この日本の異常さは何であろうか。過度の潔癖症であろうか。全く困ったことである。規制が逆になり、食べ残しをしない。食料を大切にする方向へ誘導しなければならない。21世紀は食べものが地球全体で不足する。これは間違いない事実である。この大問題をしっかり見据えて、今から対処していくことが大切である。農林水産業への企業の進出と、諸規制の撤廃、そして新たなルールづくりが必要となってきた。ここにも新しいビジネスチャンスがある。
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まちと文化

平成20年11月20日
まちと文化

 「文化」とは学問・芸術などが進歩して、文明の時を迎えることをいう。人智が発達し、生活が便利になることをさす言葉である。一般的には運動部に対する文化部のように、身体の活動よりも精神の活動を主とすることが多い。

 最近では「まち」の魅力を「文化」に求める動きが、活発になってきている。その場合の「文化」はどちらかというと「芸術」に近い使われ方をしているようだ。まちを魅力的にする為に、地方の都市にも音楽ホールや美術館、博物館、図書館等が次々と作られる時代になってきた。しかしその内容が全国的に大差がないのは問題である。地方によって、まちによって、それぞれ個性のあるユニークな文化があるはずで
ある。それが素直に表に出てくるのが本当の文化である。

 例えば音楽祭をやっている都市は福井県下では越前市がある。すでに18回となり完全に定着している。仙台市のフェスティバルは3分の1自治体の助成で開かれているが、入場料1,000円と安いので人気がある。

 信州の夏のライブも有名だ。富山県の利賀村の演劇祭もユニークだ。福井には音楽ホール(大・小)があり、えきまえには響のホールがある。アオッサの1Fでもライブが行われている。音楽でえきまえを盛り上げることにより「文化の香り」豊かなまちづくりが出来そうである。
日本の古典音楽は世界でも独自の発達を遂げた。能や声明など福井ならではの貴重な宝がある。琴と尺八、三味線の合奏などは定期的に毎年、毎月行われるとまちおこしに直ちにつながるのではなかろうか。

 私達のベーカリープラザで毎週1回ランチタイムミュージックを昼休みの昼食時に開いている。そして土曜日の午後2時から飛入り大歓迎のライブを行っている。少しずつ知名度が上り、来場者が増えているが、参加者も演奏者も無料である。みんなで楽しむのがライブである。プロもアマも自由参加し大いに土曜の午後を楽しんでいる。 

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宇野重吉演劇祭

平成20年11月19日
宇野重吉演劇祭

 宇野重吉本人と初めて出会ったのは、私が同志社大学の学生の時である。今から50年前。場所は同志社栄光館。彼の訥訥と話すその語り口、そして人柄を示すその表情、その講演の内容よりも私は彼の風貌とその表情に強くひかれていた。当時の私はクラマ画会に所属し、人物画に熱中していたからだ。しかし残念乍ら宇野重吉氏を描いた私の油絵はない。描けなかったからだ。

 その後宇野重吉氏は演劇、映画等で一世を風靡した大活躍をされた。福井出身の彼は福井を大切にされ、福井を再々訪れていたという。長男の寺尾聡氏の話では「家庭はいつも『福井』がいっぱいであった。福井の上庄いも、越前そば、越前カニなどみんなで食べていた。福井への思い入れは人一倍強かったと思う」

 20年前の最後の公演の時には歩けないので座ったまま演技され、その言葉は死を迎える人とはとても思えない程鋭かったという。残念乍ら私はその舞台を見ていないが、ビデオに残されている。見ていると演劇に生涯をかけた気迫が胸に迫ってくる。鬼気迫る迫真の演技である。

 重吉氏は映画出演で稼いだ資金を、演劇活動につぎこんだとのことで、数多くの後進を育てている。今日の「劇団民藝」の生みの親、育ての親ともいえる存在である。臨終の病床に福井県から「名誉県民」の第1号が贈られた。日本の演劇界の巨星「宇野重吉」のその後の顕彰は決して十分とはいえない。没後20年にしてはじめて福井で「宇野重吉」の名を冠した演劇祭が開かれた。若い人達が演劇に目覚め、第二、第三の宇野重吉を目指して努力するキッカケになることを期待している。「宇野重吉演劇賞」の授与が毎年行われ、その対象が全国に世界に広がっていくことを願っている。
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まちなか美術館

平成20年11月13日
まちなか美術館

 長浜で楽市楽座の構想が生まれたのは1970年頃である。長浜城の建設、西友の進出、黒壁の誕生などとあわせて、中心市街地の活性化のため官公民が共に立ち上がった。その時「まちなか美術館」の構想が生まれた。えきまえの各商店のウィンドに絵画を飾ろうという運動である。家宝を持ち出して飾るお店もあれば、レンタルで借りるお店もある。また購入するお店もある。賛同して一斉に絵画が長浜のお店の店頭を飾った。長浜のまちは一夜にして美術館に変身したのである。私は長浜の生まれである。その趣旨に賛同して数十点の絵画を貸出したり、協力させていただいた。スタートは各商店の共存共栄であり、個々のお店の繁栄が基礎になる予定であった。今は「黒壁」を中心としたガラス館の多店舗化の方向に変りつつある。しかし、まちなか美術館のコンセプトは変っていない。個々のお店が美術館のような雰囲気を持ち乍ら自店の商いをしているのである。

 私はこのコンセプトを福井のえきまえに導入してはどうかと考え、まず「ふくい工芸舎」を作った。本社の各フロアに絵画を展示し、ベーカリープラザに工芸品を展示し、エコライフプラザの歴史のみちにも名作を館内に展示している。ショーウィンドは福井文化服装学園のデザイナーの発表の場である。

 これを更にえきまえ商店街全体に敷衍していこうと考えている。各大学の学生達にも壁面を開放したいと思い、意見交換をはじめた。「文化のまちづくり」を中心とした地域の活性化のための努力である。

 近い将来、福井のえきまえは音楽があふれ、絵画・彫刻など芸術や文化の香り高いところに生まれ変ることを願っている。その為の捨石としてまず行動をおこしたい。賛同する人が増えていくことを期待している。
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長寿と気圧

平成20年11月12日
長寿と気圧

 長寿県といわれる信州、長野県は男性の長寿日本一の県である。長寿と気圧が関係があるかというテーマで沖縄の琉球大学と新潟大学とが共同研究を行った。その資料を友人の平啓介琉球大学監事(現副学長)からいただいた。

 長野県は確かに高地である。そして世界を見渡しても長寿国といわれる地域は山間僻地が多い。気圧は低い。気圧が低いのが長寿の理由である。この三段論法は果して正しいのであろうか。私はまずこの三段論法の最初から疑いを持った。山間部は長寿者が多い――これは事実である。これは疑えない事実であるが、山間部に長寿者が多いのは、何か別の理由があるのではないのか――これが私の直感である。考えられることはいくつかある。それを検証してみよう。

 山間僻地では老人が多い。若者は都会に出てしまう。死亡率が多い乳幼児、自殺が多い若年層、中年層が少ない。これが長寿の原因の一つではなかろうか。

 山間僻地の老人はよく働く。死ぬまで現役が多い。働くことでひとりでに生甲斐を見つけている。これが原因ではなかろうか。

 山間僻地の老人は足腰が丈夫だ。毎日傾斜地を歩くことで足の裏(第二の心臓という)を常にマッサージする効果がある。また農村作業は手や指をよく使う。足や手先をよく使うことにより血液の循環をよくしている。これが原因ではかろうか。

 山間僻地の老人は、毎日自然の中にいる。美しい空気、豊かな緑にかこまれ快適な環境である。過度のストレスを感じない。これが原因ではなかろうか。

 山間僻地の老人は、毎日山菜、野菜をよく食べる。穀物の摂取も多い。動物性蛋白や脂肪の摂取が少ない。これもまた長寿の原因ではなかろうか。

 以上のように「長寿と気圧」の関係について考えると、気圧と長寿に直接の因果関係があると指摘するよりも、他の要素の方が多いように思われてくる。

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遥かな寂円

平成20年11月5日
遥かな寂円

 1200年生まれの道元を追いかけていた数年前から、その道元に陰のようにつきまとう一人の僧が気になってしょうがなかった。その僧の名は寂円。1207年に中国の洛陽で生まれている。幼い頃に天童山で剃髪受戒、如浄禅師の教えを受けた寂円。そこへ24歳にて入宋した道元が1225年5月1日26歳になって、如浄禅師の下へ参学、二人は運命の出会いをした。その時寂円19歳。彼は道元を師とすることに決めた。その理由は道元の人柄と学識に引かれたという。1225年は宋の宝慶元年にあたる。宝慶3年日本からの留学僧である道元は、如浄の許しを得て帰国の途についた。天童山の後継をと頼まれた道元は、「異国人が法灯を継ぐのは天童山にとって好ましくない」といって固辞したという。如浄の教えは「只管打坐」といって、「座禅」をもって修行の真髄に迫るものである。そのため「焼香、礼拝、念仏、修懺、看経を用いず、只管打坐あるのみ」宝慶記(道元が天童山で記した手控え)より、といって永平寺と宝慶寺に今も受け継がれている。

 帰国する道元を明州の港まで送ってきた寂円に、如浄禅師の最後をみとるよう天童山へ戻した道元は27歳で京都建仁寺へ入る。翌年如浄遷化、寂円は来日、その時21歳。

 1231年道元深草に閑居、寂円随身。その後、興聖宝林禅寺を開創。そして1243年道元44歳、寂円37歳越前国志比庄地頭波多野義重の招きに応じ、まず吉峰寺に入る。翌年大仏寺建立、その後永平寺と改名。

 1253年道元示寂、54歳。懐奘が永平寺二世となる。1261年寂円54歳で永平寺を去り、これより18年の苦行に入った。永平寺から大野市木ノ本の奥、銀杏峰のふもと、座禅岩に座った。この姿を見た伊自良氏(寂円の戒を受けて真空沙弥となる)が一宇を建立し寂円を開山と仰いだ。これが宝慶寺の始まりである。道元の示寂後、永平寺は懐奘、義介、義演と相続されたが、約60年の間、激しい動揺が続き、三代争論にあけくれ衰微していった。宝慶寺は寂円禅師を慕って若い義雲、曇希などが参禅し如浄以来の厳しい座禅を中心とする修行が行われた。標高500mの山中にある宝慶寺の雪の多さ、寒さは想像を絶するものがある。そこで誰の助けも借りず、座禅にあけくれ、作務にいそしむ、食べ物がなくなれば托鉢をする。

 道元の教えは「道は貧なるべし」という。道元歿後8年、永平寺を去った寂円禅師の心にあったのはこの言葉であろう。宝慶寺を訪れてみるとよくわかる。今なおこの宝慶寺界隈は全山緑につつまれ、寂円と同心同行、同修同参の雰囲気に満ちている。

 おのれには猛烈修行の座禅三昧、人には大慈悲行、寂円は宝慶寺に入山以来一度も山を離れず遂に死後に「洛陽」に帰ると遺言している。寒苦、貧苦の中で、座禅と作務そして托鉢に命をかける寂円のすごさが身にしみてくる。

 寂円の開いた宝慶寺からは二世義雲が波多野氏の要請により永平寺五世を継いだ。その後江戸時代中期まで、38世厳柳まで、ずっと寂円派が永平寺の法灯を守り続けた。

 寂円は中国僧である。その彼が日本から宋へ来た道元に会い、その人格と識見に打たれて生涯を共にし、その思想を受け継ぎ、その法灯を伝えたのである。

 寂円の生涯は謎が多い。遺言も「ああ大宋国へ帰りたい」と一言、そのまま遷化した、93歳とあるが、「100歳を超えていた」という説もある。「ああ帰りたい」と言ったというよりも、「いよいよ故郷へ帰る」といったように私には思える。義雲というすばらしい弟子を得、伊自良氏という熱心な支援者に恵まれておりながら、あまりに孤独な一途な求道者の姿が浮び上ってくる。

 宋や元から蘭渓道隆、無学祖元などの渡来僧が渡ってきた時代であるが、寂円ほどの大きな影響を残した人物は珍しい。しかもその姿が未だに定かではない。1243年に道元と共に初めて越前の地を踏み、そのまま1299年示寂の時まで福井で過した寂円、その間56年に及ぶ。道元の生涯は54歳まで、福井滞在は僅かに10年である。いかに寂円と福井との関係が密であるかがよくわかる。そして寂円は宝慶寺で没している。700年も昔に、これほどの偉人が福井にいたことを私達は忘れている。「遥かな寂円」を、「あまりに遥かな寂円」を思う。
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富山紀行

平成20年10月24日
富山紀行

 中秋の一日、ロータリークラブの家族会のバス旅行で越中、富山を訪れた。北陸の中にあって、間に挟まれた金沢とは大きく異なっているが、福井と富山はよく似たところが多い。両県ともに質実剛健型の県民性を持っている。ものづくりが古くから盛んであり、1世帯当りの実収入が高く、人数が多く、持ち家比率が高く住宅面積も広い。また、自動車保有台数も多い。県央には呉羽山系があり、呉東、呉西と二分され、それぞれ富山市と高岡市を中心に独自の発展を遂げてきた歴史を持つ。

 バスはまず国宝瑞龍寺へ到着。出迎え頂いた四津谷道昭禅師の案内で寺内を一巡した。曹洞宗の巨刹で加賀藩三代藩主前田利常が、二代利長の菩提を弔うために建立。棟梁は越前大工山上善右衛門である。大本山永平寺は深山の山中にあり、山の斜面に建立されているが、ここ高岡山瑞龍寺は平地である。伽藍の配置が国宝の山門、仏殿、法堂と一直線に整然と並んでいる。左右に禅堂と大庫裏を配し、周囲を回廊で結んでいる。完成までに20年の歳月を要したとのことで建築美を誇っている。白砂と緑の芝生の妙は目に鮮やかである。四津谷禅師はロータリークラブのパストガバナーで、自ら説明をして頂き、その名調子に一同感服した。当日は年に2回の門前市が立ち並び、大変な賑わいであった。

 次に富山市の富山の薬売り、「池田屋安兵衛商店」を訪問。観光薬種屋として、越中反魂丹本舗から丸薬製造実演の薬の土産店に先代より転換、同時に薬膳料理店を併営、大繁盛をしている。世界中が不況に見舞われているが、製薬業界はカヤの外で逆に不況しらずで関連業界を巻き込んで絶好調とのこと。特にゼネリック薬品が盛んである。かつての売薬は0.5%に落込み、一般向も9.5%である。その殆どは医療機関向(90%)で、健康長寿時代にふさわしい産業基盤である。私達のヘルシープラザ、ビュートシステムの将来に多くの示唆を頂いた一日である。

 北前船の船主達の屋敷が立ち並ぶ岩瀬通りの森家を訪問した。儲けが倍、倍となるので「バイ船」と呼ぶ北前船の母港である。屋敷のあちこちに福井の青石「しゃく谷石」が使われているのが印象に残った。北前船の寄港地にはどこにもこの石が数多く使われている。北前船は北海道から日本海側を通り長崎、琉球、中国、東南アジアと続く昆布ロードでもあった。そのルートを漢方薬をはじめ南方の諸物が日本へもたらされたのである。森家で船ダンスを捜してみたがみつからなかった。店の主人の座に座って写真を一枚とってもらった。その続きの部屋に、銀行の金庫のような大型金庫があったのが印象に残った。

 富山駅前の「富山いきいき物産」でおみやげを買った。金沢も富山も駅前の整備が進んでいる。福井は30年遅れていると私は言っているが、何とか「福井らいしい」まちづくりをしていきたいものである。私の会社の社外取締役越田氏がこの「富山いきいき物産株式会社」の先々代の社長を務めておられた。月日の経つのは早いものである。

 富山の魅力はつきないが、最近大きな動きがある。アジアを意識した環日本海構想である。トヨタ自動車の部品基地建設に続いて、バローの物流基地も建設された。東海北陸自動車道の開通により、中京地区と富山県が直結し、海を通じて大陸との交流の可能性が高まってきたのだ。

 日本海ベルト地帯建設が日本の内需を喚起し、それがアジア貿易を活発化し、そして世界経済の安定に貢献するというのが私の提案である。それが既に富山県で次々と始まっているのは誠に喜ばしいことである。
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民芸運動と福井

平成20年10月23日
民芸運動と福井

 「民芸運動」は柳宗悦(1889〜1961)によって提唱された。「民芸運動」とは、「民衆の生活の中で使われる工芸品」の中に美を見出していく運動をいう。1916年柳宗悦は初めて朝鮮を訪れ、李朝工芸の美に惚れこみ、そして無名の職人達によって作られたことを知り、「民芸運動」の創始者となっていった。仲間には浜田庄司、河井寛次郎、芹沢げ陝▲弌璽福璽疋蝓璽繊棟方志功などがおり、同志は次々と増えていった。

 日本の民芸運動のルーツは、実は1880年代からイギリスにおいて盛んになった「アーツアンドクラフツ」と呼ばれる運動にある。工芸ギルドが形成され1881年に「アーツアンドクラフツ展覧会」が開かれた。中心人物モリスの「モリスマーシャルフォークナー商会(略称モリス商会)」の設立は1861年であり、その時がスタートと考えることもできる。ロンドンに対抗してコッツウォルズや湖水地方、ランズエンドなど田園の中で、自然のまっただ中で暮しながら「生活の美」を作ることを提案する人達が誕生した。

 日本との関わり合いは、1908年ロンドンへ留学した富本憲吉が最初である。そして1920年浜田庄司とバーナードリーチはセントアイブスで陶芸を作った。帰国後に柳宗悦、河井寛次郎と日本における「民芸運動」を始めたのである。その後1929年浜田と柳はコッツウォールズのモリス別荘を訪れ、モリスの妹より亡きモリスの消息を詳しく聞いている。そして「ダーティントンホール」も訪れている。この中世の館は「古建築物保護協会」(モリスを中心に1877年に創立)によって修復された。この団体はナショナルトラスト等の世界中の環境保護団体の先駆者である。

 日本の民芸運動のルーツはモリスの「アーツアンドクラフツ」であるが、モリスが触発されたのは、実は1862年のロンドン万博で紹介された日本の工芸品である。そして次の1867年のパリ万博に日本が公式に出展した簡素な工芸品が大きな反響を呼んだ。この独特の美を「ジャポニズム」としてまずテキスタイルの図案として完成させたのがモリスである。「ジャポニズム」はイギリスのみならずヨーロッパを席捲した。ジャポニズムが日本で生まれヨーロッパからアメリカを経て日本へ里帰りしたのが「民芸運動」である。福井の工芸は1500年前の越前和紙、越前漆器に始まる。そして福井での民芸運動として全国の運動とつながっていくのは昭和の初めに設立された日本民芸協会とその機関誌「工芸」との関わりの中で生まれていったのである。
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癒しの音楽

平成20年10月22日
癒しの音楽

 昨年の春から夏にかけて、アメリカ金融界を根底からゆさぶるサブプライムローンの問題が発生した。それ以来事態はますます深刻になってきている。アメリカからヨーロッパに飛び火し、昨年ではアメリカ、日本、EU、そしてスイス、カナダ、オーストラリア、イギリス、北欧3ヶ国の中央銀行を通してUS$の供給を行わざるを得ない状態になってきた。この最近の動きは、1929年のニューヨークやシカゴから始まった世界不況の頃を思わせる展開を見せ始めている。

 1929年のあの暗い陰惨な社会生活の中で、さっと差し込んできた一筋の光、それがジャズの響きであった。トミー・ドーシーバンドの「オンザサニーサイドオブザストリート」の軽快なジャズバンドが奏でるジャズの響きであった。この曲は時代の暗さに反撥するようにして生まれてきた癒しの音楽といっても過言ではない。

 音楽は絶望や停滞、失速、苦悩、悲哀など人間の持つマイナスの心理状態を改善する癒しの効果が期待できる。太古の昔から人類は音楽と共にあった。音楽は生きる勇気と希望を与えてくれた。共に悲しみ、共に苦しみ、共に生きるそして未来にかすかな希望を見出し、一歩また一歩と前進する勇気を与えてくれた。ジャズはその希望と勇気を人々に与えたのである。

 今世界はまた苦悩と停滞の時を迎えつつある。この時にこそ「心に太陽を、唇に歌を」という音楽による癒しを私は期待している。福井の駅前活性化に取り組んでいる私達は昼休みに生演奏が聞ける場所を提供しようと昨年から準備をしてきた。そして少しずつそれが実現しつつある。ベーカリープラザで、昼休みの昼食時、生演奏を提供している。この暗いうっとうしい時代を少しでも明るくしたいという私達のささやかな夢である。「小さな音楽会」は地元の音楽愛好者の奉仕により行われている。「ランチタイムミュージック」として定着させていきたい。
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21世紀型ビジネスモデル

平成20年10月21日
21世紀型ビジネスモデル
 
 20世紀の覇者はエネルギー多消費型の重厚長大企業であった。世紀末になり軽薄短小ムードがすすみ、グローバルスタンダードを制する企業が急成長してきた。ICT革命を活用した情報通信分野に多い。しかし世紀末にアメリカで作られた金融証券化商品が、その名目上の好利回りによって世界中に売られ、実体経済の枠を遥かに越える巨額のバブルを生み出してしまった。そして20世紀型ビジネスモデルの根底にある思想は「競争原理」であり、強者が弱者を排除するものであった。

 まわりを見てみよう。精神的に傷つき易い若者が多くなってきている。よくいえばナイーブ。悪くいえば「打たれ強くない」。「引きこもり」になる若者も多い。対人関係がうまくいかないのである。私は彼等を見て、物質的な繁栄の中で育ったので、道徳観念を身につけていないのではなかろうかと考えた。甘やかされた結果なのかとも考えた。しかし「引きこもり現象」は、今や社会全体に広がりつつある。「競争社会」「強者優先社会」への強烈な批判かもしれない・・・そう考えるようになってきたのである。

 21世紀型ビジネスモデルは彼等のためのものでなければならない。それは競争を否定し、弱者優先社会をもたらすものでなければならない。自然を破壊し、あらゆる資源を乱獲するものであってはならない。自然と共生し、ゆったり、のんびり、スローライフを楽しめるものであるべきだ。食料危機、水不足が深刻になるのは自明の理である。新しい農業、林業、水産業を育成していかなければならない。エネルギー多消費型生活から自然との共生を基本とする生活への転換が焦眉の急である。輝くような笑顔、おもいやりの暖かな寛容、そしてすべてを肯定して生きていく自然体のくらし、すべてに感謝する心を持ち続ける世界。そんな社会を作るために、21世紀型のビジネスモデルを構築していく必要がある。私の会社の社是をどのように変化させていくのか重い課題である。
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音楽の楽しみ方

平成20年10月17日
音楽の楽しみ方

 「原始女性は太陽であった」と平塚らいちょうは高らかに女性解放を宣言した。世界でも稀な女性の地位向上が可能になるきっかけになった瞬間である。その後次々と女性達の熱い戦いが続いたのである。

 「原始女性は太陽であった」と同じ頃、「原始音楽は民のものであった」のである。解放された女性と共に音楽は広く民の生活の中に息づいていた。その後時代の経過と共に、音楽は貴族のものとなっていった。

 敗戦後、すべての日本人が自信をなくし、希望を失い、その日暮らしの暗く厳しい生活を余儀なくされた。その時一条の光がさしてきた。「リンゴの歌」である。「青い山脈」である。ラジオや映画をとおして全国の津々浦々にまで歌われ、日本を、日本人を救ってくれたのは音楽であった。歌であった。

 福井県は小さな県である。人口も少ない。県内生産高も少ない。しかし音楽の点では、過去も現在も層が厚い。世界中で活躍している音楽家が多い。その音楽家たちを育てた土壌について、友人達と意見の交換をした。理由の一つは福井県民の信仰心の厚さだという。神道の「おかぐら」、仏教の「声明」の長い伝統が生き続けているのである。次の理由は私立仁愛短期大学の音楽科の存在である。この学校へ有名な教師が来て、生徒を育て、そして生徒達は都会の音楽大学へ進学し、その一部が世界の有名校へ留学していったのである。有名な教師の元へは幼少の頃から教えを乞い、通ってくる子供達が大勢いる。

 音楽の楽しみ方も上手である。戦災、そして震災と何度も大火災で焼失した町に「福井文化会館」が完成したのは今から40年前のことであった。ある先輩の言葉が忘れられない。「このホールの音響効果のバランスのよさは全国でも珍しい。いずれ時代が変り、このホールを建て直すという話が出たら反対してほしい。音のよさはお金で買えない。バランスなのだ」。音響のよさは、残響感、方向感、広がり感や音の明瞭さを示す「C80」「D値」などで判断される。

 その後福井の郊外に大小の「音楽堂」が建てられた。福井のえきまえにも「響きのホール」ができた。音響の点でも上々の出来である。しかし音楽堂やホールで聞く音楽会と生活の中で息づく音楽とはまた別のものである。もっと身近に、もっと楽しく、一緒になって音楽をと思う人も多い。生活の中に音楽を取り入れることで潤いのある、豊かな毎日が送れるのではないだろうか。

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法事

平成20年10月16日
法事

 妹の嫁ぎ先の法事が秋の爽やかな一日、長浜で行われたので出席した。両親の27回忌と7回忌とを併修するという。真宗のお坊様の読経の中、厳かに、仏間とそれに続く部屋を開放して行われた。参列者はご近所と親戚、それに親族のみなみなである。死者を弔うのが、このように7年、27年と時が経過しても続くのが、日本の特長である。特に近畿、北陸は真宗の影響が大きく、今でも生活の中に信仰が息づいている。

 導師は私の会社の社外取締役である。専門分野は社会心理学で博士である。読経の後で、法話をされる。毎回異なったテーマで異なった法話を聞く。今日は故金子大栄師の言より、「聴くは行、聞こえるは信」という話を伺った。真宗では「行」という定型のものはない。座禅とか千日回峰とか他宗でいうところの「行」はないが、「聴くは行」なのだと教えられた。毎回聴く法話を「行」として聴いていたかといわれると恥ずかしい。まして「聞こえるは信」とは・・・。いわれてみて初めて悟る今日の法話であった。

 毎月の取締役会でも、かつて神戸大学や大谷大学の教壇に立たれた時の気迫を感じることが多いが、今日の法話はひとしお身にしみた。信仰のない人生なんて・・・と常に思っているが、無信仰を誇らしげに語る若者が増えてきた。宗教が基礎にある戦争は困ったことであるが、無信仰を標榜するのは更に困ったことである。私の隣席の甥は早稲田の政経を出て十数年たつが、「正信喝」をみんなと共に声を出して唱えていた。その甥の幼い長男は、父親の膝の上で、みんなと同じように手を合わせていた。

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国歌「君が代」について

平成20年10月14日
国歌「君が代」について

 私がロータリークラブに入会し、ボランティア活動に積極的に参加するようになって早や27年目に入った。入会時にうれしかったのは毎月第一例会の冒頭に歌う「君が代」である。全員が起立し背筋をピンとのばして国歌「君が代」を斉唱する。毎月の初回の冒頭に歌うので気持ちが引き締まる。「今月もまたやろう」という能動的な気分の高揚を覚えるのである。

 ロータリークラブは世界中にある。世界200以上の国と地域にある。ということは世界中の国々で約33,000ヵ所のクラブにおいて、それぞれの国の国歌が毎月斉唱されているということである。

 ロータリークラブは100年余り以前に、2月23日シカゴでスタートした。ポール・ハリスという青年とその友人達でスタートした。その頃のシカゴの状況は、治安は悪く、経済環境も決してよくなかった。その悪い環境の中でお互いが助け合い、社会をよくするためのロータリークラブを創立したのである。それが約100年という長い年月を経て今や世界の各地に100万人ものボランティア達が活躍している。そして創立記念日を「国際相互理解と世界平和の日」と位置づけている。

 国歌の話にもどろう。世界を歩いて気付くのは、どこの国でも国歌がしばしば歌われているという事実である。例えばフランスでもアメリカでも授業の始まる前に国歌が歌われる。私も子供の頃は、毎月全校生徒が集まって国歌斉唱の式典があった。それが最近では「君が代」を耳にすることが殆どなくなった。誠に残念なことである。

 「君が代」を歌う機会を増やすにはどうしたらよいのであろうか。オリンピックやパラリンピック、冬期オリンピックなどの国際的なイベントでは、勝利の歌として第1位の選手の国歌が吹奏される。大相撲や高校野球大会などの国歌を斉唱する機会を、イベントの主催者もどんどん作りだしていくとよい。日本の天皇は国の象徴である。国歌や国旗も異なった意味での日本の象徴である。今少し国歌や国旗に対する敬愛の気持を育てていく必要があろう。
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吉田健三のこと

平成20年10月3日
吉田健三のこと

 彼は越前福井藩士渡辺謙七の長男として生まれた。幕末の1864年大阪へ出て医学を学んだが、その後長崎へ行き英学を修めた。1866年長崎より上海、シンガポールを経由して、念願の欧米を視察した。その後イギリス国籍の横浜、英一番館(ジャーデン・マディソン商会)に高給で採用された。このジャーデン・マディソン商会は、当時貿易、金融、海運、紡績などの事業を中国大陸を中心に手広く行っていた英国資本である。伊藤博文等がこの商会の力を頼って英国留学を果している。彼はこの番頭になった。

 この商会を退社後は、醤油醸造業を買収した。また横浜の地域開発に力を注いだ。妻は幕末の儒者佐藤一斎の孫、士子(コトコ)といった。佐藤一斎は幕末の儒官林家の塾長であった。朱子学、陽明学、暦法、数学にも通じていた。弟子は佐久間象山、西郷隆盛、安積良斎など幅広い。江戸っ子の妻、コトコは古風な厳しい女性であった。

 吉田健三の父、渡辺謙七は福井藩の勘定方を勤め、裁判を担当していた。横浜の久保山の慈眼院光明寺の開祖は吉田家というが、謙七かもしれない。

 三井物産首脳、満鉄総裁、政友会の重鎮山本条太郎は渡辺謙七の孫、吉田健三の甥である。吉田健三は1872年創刊した東京日々新聞を通じて、土佐系政治家と親しくし、自由党に入党して支援を続けた。日本最初の電灯会社設立に関わり、日本狩猟協会の副会長(会長は公爵近衛篤麿)を勤めた。遺言状を公正証書として作成し、家督を養子の吉田茂に譲ると記し、1889年40歳で逝去、財産50万円。

 吉田茂は3歳の時、実父竹内綱(高知、土佐自由党の志士)の下から吉田健三の養子となった。養母のコトコに厳しく育てられたとのことである。竹内綱は後藤象二郎と組んで長崎の高島炭鉱を経営した。藩主山容堂とも公武合体論を主張したが、薩長連合の討幕に押された。竹内が企画力、実行力を持ち乍ら政治より実業の世界で活躍するのはその影響であろうか。その後、土佐は板垣退助の自由民権運動を推進し、竹内も支援していった。吉田茂は薩摩の牧野紳顕の娘雪子と結婚。吉田健三の莫大な遺産の殆んどすべてを政治運動に注ぎ込んだとのこと。七賢党を建てた。七賢とは木戸孝充、大久保利通、岩倉具視、三条実美、伊藤博文、西園寺公望、吉田茂の七人である。

 麻生太郎首相は福井出身の吉田健三のひ孫である。
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平成20年10月2日

 私は楢の木が大好きである。冬の裸木はすばらしい。形がよく整っていて木という感じがする。春の新芽もまた初々しい。夏は大きく枝葉をのばし木陰を作ってくれる。初秋の或る日に木の下で本を読んでいると、パサッと音がした。木の上から何かが落ちてきた。よくよく見ると4枚の葉と1ヶのドングリの房である。なぜ落ちてくるのかと切口を見ると新鮮である。風のいたずらかと思うが今は風はない。木の下を歩いてみると同じような房があちこちに落ちている。種の保存の知恵かと思う。かなり広範囲に広がって、 全く同じ状態で、全く同じ姿で落ちている。

 楢の木を見上げていると、ひらひらと回転しながら、また一つ落ちてきた。強い風でも吹けば、遠くへ飛ぶことができそうである。まさに生命のリレーを見る不思議を感じた。

 楢の木は樹形がすばらしい。二本か三本が集まって生長するケースが多いが、大きな株になる。樹の直径は50僂らいまでに太くなる。高さも15mくらいの堂々とした大樹である。ブナ科の落葉高木に分類されている。繁殖力旺盛で、自然に増え、原生林を作るケースも多い。日本の森林の中で、人工林を除くと、楢の木が一番ポピュラーなのかもしれない。

 地中深く、広く根をはって、土壌を守り、保水力もある楢の木は里山になくてはならない樹木である。幼い頃に、八幡さんの森で、ドングリ拾いをしたことを思い出す。地面に落ちた房は、数日で葉が枯れていく。その時は青味がかっていたドングリは立派な茶色に変身する。幸運なドングリがまた新しい芽を吹き出すのであろう。それは人から人へとつなぐ、祖先から私達そしてその子孫へとつなぐ命のリレーを思わせる。
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敬老の日

2008年10月1日
敬老の日

 9月15日は「敬老の日」である。しかし最近は老人の定義が変わりつつある。総務省が敬老の日を前にまとめた調査では、65歳以上の高齢者人口は約2,820万人、総人口の22%をこえた。75歳以上の後期高齢者は約1,320万人、総人口の10%をこえた。総務省は年金の支給が開始される65歳以上を老人と見ているようである。

 「敬老の日」の言葉のように「敬老」の対象が総人口の4分の1近くいるのでは、少しおかしい。「敬老」は、長い間の苦労や社会貢献に対しての「ご苦労さま」というよりも、人生の大先輩としての知恵者に対する尊敬の表われという方が正しい。そして総人口の1割くらいの対象の方が、よりふさわしく、敬う方も敬われる方も納得できよう。

 アメリカのアンチエイジング学界でも75歳以上をオールドと呼ぶようである。日本では75歳以上でも、何の支障もなく1人で元気に生活している方が殆んどのようである。寝たきりや要介護の人は僅かに数パーセントにすぎない。

 私の理想は「生涯現役」である。生涯現役を貫くためには体力、気力の充実が前提になる。医学的に重要なのが脳力の維持である。脳の神経細胞の数は1千億ヶといわれている。その内、中心にあって働いてくれるのが直径1僉長さ5cmの海馬といわれる神経細胞である。その数1千万ヶ。老化はもの忘れからはじまるが、記憶能力は訓練で維持できるという。

 私の祖父は88歳まで生きた。死の直前まで元気であった。朝になると、毎日新聞を大きな声で読んでいたのが懐かしい。背骨は少し曲がっていたが、私達の幼い頃乗せてもらった乳母車を杖がわりに、長浜の町を歩いていた。適度の運動と大きな声で人と話をすること、何事もすぐ実行する前向きの姿勢が老化防止に有効のように思われる。

 食事も大切である。脳力アップにはアラキドン酸を含む卵黄やうに、脂身の肉などを摂取するとよいといわれている。ドコサヘキサエン酸(DHA)も忘れてはならない。

 脳のCTスキャンをとってもらった。今のところ何の異常も見当らないという診断結果であった。自分の脳の中をのぞいたような気分である。そのフィルムは記念のため持ち帰ってきて、今も私の部屋にある。
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仮説

平成20年9月30日
仮説

 私は学者ではない。ビジネスマンである。だから学問に対する興味は持っているが、研究に費やす十分な時間を持ち合わせていない。しかし子供の頃から不思議に思っていることが数多くある。ニュートンが木から落ちるリンゴを見て重力に気付いたり、コペルニクスが星の観察から地動説を唱えたり、ガラパゴス島から進化論を決定づけたダーウィンなど、現実に対する観察から仮説が作られ、そして証明され定説となる。理論物理と実証物理との関係も同じである。「観察から仮説を立て敷衍していく」この作業が科学の進歩の第一歩である。私は観察の前にまず疑問からスタートする。そして観察する。その観察も比較検討をともなったものを必要とする。

 例を上げてみよう。「蚤と象」の比較である。最初の疑問は重力や磁力の普遍性である。なぜ蚤は自分の身体の何十倍も跳躍できるのか。なぜ象は体重数トンの巨体なのに時速50KM〜60KMものスピードが出せるのか。象の跳躍は体長の1倍も飛べないのはなぜか。

 これは悪いジョークではない。このような比較をともなった疑問をつきつめていくと、重力・磁力の絶対性、普遍性に対する疑いが膨らんでくる。そして新しい仮説が生まれるのである。

 私は世界の大洋を泳ぎまわる回遊魚や、地球を半周する旅を続ける渡り鳥のケースからも、生体の持つエネルギーと重力・磁力の関係を疑っている。
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同志社創立200周年に向けて

平成20年9月22日
同志社創立200周年に向けて

 新島襄が同志社英学校を京都に創立したのは明治8年(1875年)のことである。その創立時の新島襄の言葉は、忘れてはならない。「同志社が基盤を確立するには200年が必要である」と宣言している。常識でいえば、200年でなく100年というのが通りがいい。しかしあえて「200年」といったところに新島襄の遠大な構想がはっきりと浮び上ってくる。

 私達は創立100周年記念をはるか前に既に祝った。今は200年に向かって学校と法人と校友がともに力を合わせていく時である。新島襄の生涯を振り返ってみると、日本中を、世界中を、同志社の基盤強化のために歩きまわっていることがよくわかる。「旅にあけくれた人生」と見ることができる。それは松尾芭蕉の奥の細道のように、「一切の名利を捨てて、旅に出た」のではなく明確な目的を持った旅であった。「伝道と同志社」のための旅であった。

 松尾芭蕉を例に出したのは、芭蕉の旅の不思議さにいつも気をとられているからである。「奥の細道」は「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」の有名な言葉で始まる。その旅程、およそ150日、約2,400kmに及ぶ長旅である。その旅の記録が、直筆で「奥の細道」として書かれている。芭蕉の句50首と、その弟子曽良の句11首、その他2首、すべて63首を含んだ紀行文である。そして63首の句碑がその地、その地に建てられている。新しいものもあれば、古い句碑もある。芭蕉は西行法師を尊敬しており、西行の旅をあと追いしているところもある。私が気をとられるのは芭蕉の句碑である。各地に作られて芭蕉を思い、旅を思うよすがとなっている。

 新島襄の旅に戻ろう。彼の旅はその日記や書簡集、旅の記録など数多くの記録に残されている。船旅あり、汽車の旅あり。しかし、その殆んどは芭蕉と同じ歩く旅であった。各地の情景描写や信徒への言葉、神への祈り、同志社人への願いがこめられた記録である。私はこの新島襄の足跡を一つ一つ石碑として残す運動を提唱している。200年までにあと残り約70年。全国各地で有志が足跡記念の碑を作っていけば、いずれ壮大な「新島襄の道」が完成するはずである。200年までに200基の碑が、各地に建てられていく夢を見ているのである。
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奇跡をおこした人

平成20年9月18日
奇跡をおこした人

 動物園は子供達に人気が高い。私は名古屋の東山動物園や京都の円山動物園へ子供の頃何回か連れていってもらった。印象に残る数々の思い出がある。今この動物園の世界で奇跡を起こしている男がいる。北海道大学獣医学部を卒業後、旭山動物園に就職。旭山動物園は旭川市の市営動物園である。1994年新市長に就任した菅原功一市長は動物園の存続で悩んだという。その時「動物園改造」を主張したのは、奇跡の人、小菅正夫園長である。赤字で閉園の危機を乗り切った瞬間であった。それ以来旭山動物園は変わり出した。小菅正夫氏の奇跡の快進撃が始まったのである。「動物の生態をそのまま見せる」という動物園本来の姿に立ち帰ったのである。入園者数は1996年度26万人から2005年度207万人、2006年度304万人と急増。今や動物園のトップを走る上野動物園の340万人を抜き去るのも時間の問題となってきた。2008年度の入園者数は、おそらく、全レジャー施設のベストテン入りが確実となろう。

 旭川市は北海道の道央にあって大雪山の西に広がる平野にあり、冬期の気温マイナス20度を越す、日本で最も厳しい寒さの土地である。新千歳空港から車で約3時間、この時間距離を短いと見るかどうかである。

 台湾よりのチャーター便が旭川空港に入ってきている。2000年度に5便だったのが2003年度167便、2007年度323便と急増している。台湾の人にとって、避暑地としての魅力を含めてこの動物園が提供する不思議な魅力が大きいことがよくわかる。台湾だけではない。香港がトップであり、台湾、シンガポール、韓国と続くのである。中国・インドを含めアジア諸国からの観光客の可能性の大きさを考えると、北海道のビジネスの将来は決して暗くない。旭山動物園の投資の歴史を見てみると面白い。

 1997年こども牧場にはじまる新路線は毎年新しい館をオープンさせている。 もうじゅう館、さる山、ぺんぎん館、チンパンジーの森、レッサーパンダの吊り橋、そして今年オオカミの森がオープンした。

 東京ディズニーランドを観察してきた私は、その投資スタンスが旭山動物園とディズニーとよく似ていることに気付いた。そしてターゲットも全く同じである。まず宣伝効率の高い、狭い地域で集中して宣伝し、口コミを活用して魅力を知ってもらう。毎年、目先を変えた投資を継続的に行い、10年たったら日本一というパターンである。ちなみにディズニーの年間入園者数は2,500万人、ダントツの日本一である。旭山動物園はディズニーを抜く可能性を持つ唯一の施設かもしれない。
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ジャパンセンター

平成20年9月11日
ジャパンセンター

 インターネット社会での用語は現在英語である。世界中で最も多く使われている。しかし通常の社会で使われている言語は第1位が北京語、第2位が広東語、第3位が英語である。日本語はインターネット社会では世界で第4位。通常の社会では第10位ぐらいであろうか。言語は文化の最たるものである。日本語が世界中で使われるようになれば、日本への理解も深まっていく。インターネット社会を通じて、日本語がどんどん使われることを期待したい。

 私はサラリーマンをしていた時、会社の命令でアメリカの大学への短期留学を命じられた。好きな大学を選べといわれ、日本人の少ないミシガン大学を選んだ。アナーバー市にある。年末に行ったので、厳寒の地であった。そこにジャパンセンターがあった。片言の日本語を話す教授やアメリカ人の学生がいた。日本の文化の研究をしていたのである。

 その後世界各国をビジネスの旅で歩いた。そして各地に日本文化を研究するジャパンセンターがあるのを発見した。彼等の興味は「源氏物語」であったり、「万葉集」であったり、「能・謡曲・歌舞伎」や「書道」「三味線、尺八、琴」など様々である。しかし驚いたことに彼等がより興味を持っているのは「明治維新以来の日本の発展」である。この飛躍の理由である。そして敗戦後の復興であり、その理由である。彼等は日本のことを奇跡の復興を成し遂げた世界で唯一の国という。

 私達日本人は、この質問に確信を持って、答えられるであろうか。日本人の知識のレベルは高い。平均レベルはおそらく世界一であろう。しかし、私達は自分の国のことを本当に知っているのであろうか。どこの大学にも、彼等の質問を満足させる講座はない。日本文化と日本の歴史を適確に教えている所を私は知らない。日本を世界中に知ってもらう必要が迫っている現在、私達はこの大切な仕事を忘れる訳にはいかない。

 私は毎日ブログを書いている。日本語で書いている。そして中国語でも遅れてはいるが発表している。日本人である私の考え方、生き方を世界に人に知って頂くよすがとしたいからである。私は日本の各地に、各大学にジャパンセンター、日本文化センターを設立すべきだと考えているのである。
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信仰の里

平成20年9月10日
信仰の里

 北陸は真宗王国と言われている。蓮如上人が北潟湖畔に居住し北陸一帯に布教、真宗王国を確立したといわれている。越前・加賀・能登・越中にまたがる広大な地域である。日本で真宗王国が誕生したのは北陸だけである。当時の日本ではあらゆる既成の権力が打倒された。金沢城は真宗王国の中心となった。

 親鸞・蓮如の教えは、歎異抄の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」といわれているが、「教行信証」を忘れてはならない。「還相廻向」である。「念仏を唱えれば極楽浄土へ行けるが、再びこの世に戻り、まだ救われない人を救わねばならない」と説いている。「利他の心」である。この「利他の心」が困窮の極みにいた北陸の人々の心に深く浸み込んだのである。そして「教行信証」の核心である「正信偈」が門徒衆といわれる北陸の人々の生活の中で生き続けている。

 福井は神社仏閣の数が、おそらく日本一(人口比)であろう。小さな村落を訪れてもお寺が1つ2つと、お宮が1つある。人々の生活の中心を形成している。県内は大本山永平寺があり、曹洞宗が盛んであるが、真宗系すべて含むと、真宗系のお寺や門徒衆が最も多くなる。

 信仰心のある人は逆境に強いといわれる。逆境によく耐えるといわれる。どんな困難にも負けないといわれる。北陸人の精神力の強さは気候風土のせいだといわれる。雪との戦いのせいだといわれる。私は「信仰心の強さ」が、北陸の人々の心の強さの原因だと考えている。最も中心をなすのが「利他の心」である。この美風を次世代に引き継ぐことが私達の使命である。北陸人の誇りである。私は近江、長浜の生まれで北国街道のほとりで生まれた。いわゆる湖北地方という湖北一市三郡の中心、長浜である。気候も信仰心も北陸と全く同じものを感じている。そして「利他の心」が私の思考や行動の規範の中心にいつもある。「喜びの種、幸せの種」を蒔き続けるのが私のミッションなのである。それが私の生き甲斐なのである。
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支援を受けた恩

平成20年9月9日
支援を受けた恩

 福井大地震は60年前に起きた。突然起きた。多くの甚大な被害が出た。敗戦後僅かに3年。福井市民は戦後復興の気概に燃えていた。戦災で焦土と化した福井市に、バラックが次々と建ちだして生気がよみがえっていたその時、大地震が起きた。死者約4,000名、負傷者約22,000名、全倒壊、焼失戸数約35,000戸余の大惨事である。死亡率で最大の被害であった。

 この福井地震のニュースは日本中、そして世界中に伝わった。当時の日本はアメリカ進駐軍の支配下にあった。数多くのアメリカ人が福井の惨状を伝えた。沢山の写真が撮影されそれがライフ誌に取り上げられた。

 救援物資は全国から届いた。世界中からも届けられた。地元の福井新聞社が地震で倒壊し、新聞が出せないことになった。石川県で印刷して地震の数日後より報道をはじめる有様であった。

 今、地震体験者が、老齢化により少なくなりつつある。福井市ではボランティアを募り、小学校で地震体験者がその貴重な経験を話す授業を始めた。地震の惨状を生々しく伝えることもよい。またその悲惨な状況の中、お互いに助け合い、支えあったことも伝えてほしい。更に私は希望したい。それは支援を受けた恩に対する感謝を忘れないことである。そして全国から寄せられた暖かい支援の輪、そして名も知れぬ世界各地から寄せられた数々の支援に対する感謝である。人が困っている時、人が苦しんでいる時、お互いが助けあう「互助精神」「愛の心」である。子供達是非伝えていただきたい。いや伝えなければならない最も大切な体験であるはずである。
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自殺について

平成20年9月3日
自殺について

 日本は正常な国家であろうか。私は学生の頃から、数字を比較検討し、分析する傾向が強かった。その為数字から何かを読みとるクセがある。いつも気にしている事がある。それは日本では常に見過ごされているいくつかの重要な数字である。その一つが自殺に関するものである。これを分析すると日本は他の国々と比較して異常と言えるほど冷たい国であることがよくわかる。

 まず自殺者の総数が異常に多い。ここ数年ほぼ3万人の人々が自ら命を絶っている。交通事故死が問題になり、シートベルトの着用が車の後部座席にまで義務付けされようとしているが、交通事故死の約5倍の自殺者への対策はゼロに等しい。政治家も官公庁も病院も、何ら有効な対策を立てていないように思う。

 恐ろしい数字を見てみよう。10歳〜14歳の少年少女の自殺は、死亡原因第3位、15歳〜19歳は第2位、20歳〜39歳の青年層は第1位、40歳〜49歳で第2位、50歳〜54歳は第3位である。即ち10歳〜54歳の殆んどの年代の死亡原因は自殺といっても過言ではない。これ程異常な国が、地球上に他にあるとはとても思えない。

 幸い55歳以上の人々の自殺者は減っていく。その人々の死亡原因は、ガン、心疾患、脳血管疾患である。特に問題とすべき点が3つある。その1つが10歳〜19歳の少年少女がなぜ自殺するかということ。躾と教育の問題である。その2つ目は20歳〜39歳の青年層の自殺原因第1位。これは豊かな社会といわれる物質的繁栄の陰で悩んでいる青年像が見えてくる。弱者救済の道を作らねばならない。3つ目は40歳〜54歳の壮年層の自殺である。中小企業経営者が自殺に追い込まれるケースが多い。リベンジできる再生可能な社会を作り上げなければならない。

 交通事故死の死者の数が、多くの方々の努力によってドラスティックに年々減少していったことを思い起こしている。どうしたら自殺者の数を、せめて交通事故死並に、引き下げることが出来るのであろうか。特に若い方々の為の対策が求められている。救命ポスト(警察等への相談電話)のような組織が、学校や職場、病院に設けられるとよいと思うが、いかがであろうか。勿論その為のシステムの裏付けが必要である。
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朝ぼらけ

平成20年8月26日
朝ぼらけ

 4時起床。いつもの通り、机に向って本を読み出した。ふと目を上げると東天に茜雲が出ている。見事な茜色である。早速テラスへ出てみる。子鳥の声が聞こえる。近くの杉林の梢にとまって激しくなきだした。東天の茜雲と青い空は、刻々と色を変えていく。茜色はすこしずつ濃くなり、青空の青い色も少しずつ深くなる。

 立山や白山、日本アルプスの山頂から見る御来光はまことにすばらしい。ふるさとの長浜には伊吹山があり、その山頂からの眺望は見事であった。そして御来光は何度も拝ませてもらった。

 我が家のテラスから見る茜雲も決して遜色がない。目を離すと、すぐ色が変化してしまう。茜色もよいが、私は空の青が好きだ。淡い空色から、深い青まで、目を上下に転じるだけで見ることが出来る。そしてその色も、青い空のあちこちで変化し続けていく。

 私の最も好きな色を捜す。あっ、あった、あった。雲と雲の間に淡い空色のブルーが見つかった。夏の早朝、この空の織りなおすスペクタクルを、我が家のテラスから、殆んど毎週見ることが出来る。こんな幸せはない。心から感謝したい。

 もう5時近くであろうか。まわりの木々の緑色がはっきりしだした。途絶えていた虫の声が聞こえてくる。そして次々とその声に和して、虫の音がすだきだした。今日もまた暑い日となりそうである。

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弱気と不安

平成20年8月21日
弱気と不安

 人は弱気になるとつい頭が下を向く。地面を見てトボトボと歩く。何を考えてもよい方向にはいかない。常にマイナス思考になってしまう。そして現在に対しても、将来に対しても不安を感じる。不安はひとりでに自己増殖して、どんどん大きくなっていく。

 世界を見てもこの弱気と不安が広がっている。特に日本はその傾向が強い。私はそれを日本人の自虐趣味と呼んでいる。日本は他の国と比較しても、貯蓄高が異常に高い。給与水準も高い。経済安定度も抜群である。しかし消費が伸びない。これは先行きに対する弱気と不安のなせる術である。
政治家もマスコミもこの国内経済の最大の可能性を持つ個人消費へのアプローチが、全く無い。個人消費を刺激することが政治、行政、マスコミの務めであることを忘れている。事の大小を見る目が曇っているのであろうか。

 GDPの60%は個人消費である。次に大きいのは製造業の24%、行政の12%、金融は僅か5%である。ところが景気対策は世界中の政治家、金融マンも小さな比率でしかない公共投資にたよりすぎる。特に日本はその傾向が強い。

 日本が本来行うべき景気対策は、貯蓄しすぎている個人金融資産をいかに流動化させるかである。特に高齢者の預貯金の流動性に問題がある。これを流動化させる鍵は「弱気と不安」の解消である。高齢者に「強気と自信」を思い起こさせる方法を考えることである。日本を救い、世界を救うのは、日本の国富であることを忘れてはならない。

 渋谷や銀座、秋葉原の流行が、日本全国に広がるようになってきた。そしてそれが台湾、香港、上海、シンガポールへと波及していく。アジアの時代である。東京がパリ、ミラノ、ニューヨークにとって変りつつあるのを感じているのは、私だけであろうか。
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同志社大学と私

平成20年8月20日
同志社大学と私

 1955年4月同志社大学に入学した私は、親元を離れて京都という大都会に1人で住むということに大きな喜びを見出していた。まだ食料統制の時代で、外食券がなければ食堂に入ってもご飯が食べられない頃であった。急に義務教育になった中学校時代から先生をはじめまわりに京都大学出身の親戚が多く、大学は必ず京都大学しかないと教え込まれていった。転機は突然来た。同志社大学と同志社女子大学への推薦入学の誘いである。放送部にいた私と友人の女性と二人で、先生の熱心なすすめもあり応募。一次試験無条件でパス。あとは面接試験だけとなった。新島襄の伝記を読み感激。面接試験時に不用意に「あなたは他大学を受けますか」の質問にハイと答えた。ご丁寧にも「もしそこが受かればそこへ行きますか」の質問にもハイと答えた。結果は不合格。しかし教員室の黒板には麗々しく合格第1号、第2号と私達2人の名前が既に書かれていた。そして不合格の通知と共に、私の名だけ消されたのは当然である。そして私の脳裏に浮かんだのは学園紛争で荒れた京大のキャンパス、それに反して私を拒否した同志社の雰囲気。御所に隣接し、女子大に隣接し、キリスト教主義ということでエキゾチックな魅力を感じた同志社。何か因縁めいたものを感じた私は京大の受験と同時に同志社の二期試験を受けた。幸か不幸か、京大へ行かず、因縁を感じた同志社へ入った。

 新島襄にあこがれたのは彼の「無私の心」、「利他の心」である。その象徴に「自責の杖」がある。「良心の碑」がある。新島襄の生涯は「旅」の一言に尽きる。病弱の身であり乍ら、国禁を破って幕末に単身で脱国、アメリカへ渡った。神学校、アーモスト大学を卒業。日本よりの教育使節団の通訳を引受け、数々の便宜をはかり、同志社設立の時にその縁が生きることになる。その後日本へ帰国。同志社英学校設立。資金の確保の為日本全国はおろか、アメリカ、ヨーロッパまで行脚。日記を読むと、その精神力にはほとほと感服する。開校当時は授業はすべて英語でやったとある通り、私の在校時にも数多くの外人教師がおられ、独特の雰囲気の中で学生生活を送ることが出来た。仏教と神道しか知らなかった私は「SCA」というクリスチャンの集いに参加し、友人達や先生達から暖かい指導を受けた。下手な英語でも話せるようになれたのも同志社のお蔭である。それが後年のミシガン大学への留学の縁につながっていった。

 今度、同志社東京校友会から「校友訪問」という栄誉ある申出をいただき感激している。私の福井での校友会(OB会)活動は福井県副支部長、支部長、顧問と数十年が経過。若いOB達との交流を楽しんでいる。
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農業の復権

平成20年8月18日
農業の復権

 敗戦後、日本経済の発展と共に、農業はその相対的な地位を保つことが難しくなってきた。輸出第一主義をとった国の政策によって、外貨が積み上り、食料の輸入が徐々に増えていったのである。気がついてみたら食料自給率39%という世界一の食料輸入国になっていた。

 地球規模の人口爆発という背景を考えると、このまま輸入にたよる食料政策を続けるのは好ましいことではない。省エネルギーが叫ばれる中で、食料は地産地消の方向に向わざるを得ない。「農業の復権」である。就農人口の減少と、その高齢化に悩まされてきたが、最近少しずつ若者が新たに農業に興味を示すようになってきた。すばらしいことである。自然と共に生きるその喜びを、感じ取る感性をそなえた若者が、育ってきているのである。

 農業法人が認められるようになってきた。大規模農業や株式会社形式の農業、大型機械導入の農業など、今迄とは全く異った農業が始まろうとしている。農本主義がかつては当然のごとくにいわれていた。日本の国は瑞穂の国、お米の国、農業の国なのだということであった。天皇がみずから毎年、皇居において米づくりをするのが日本なのである。その農業が軽んじられてきたのが敗戦後の60年間である。それが今見直されようとしている。いや見直さざるを得なくなってきたのだ。

 休耕田政策という理解に苦しむ悪政を一日も早く中止し、前向きの食料増産、お米の輸出奨励等を行う必要があろう。米飯大好き人間である私は、せめて朝食は、温かいご飯と味噌汁でと望んでいるが、幸運に恵まれることは少ない。私の希望は贅沢なのであろうか。その贅沢を希望する豊かな人々が世界中にいることを忘れてはならない。発想を変え、認識を新たにして「農業復権」を高らかに宣言しようではないか。新しい日本の誕生である。
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リサイクル先駆者

平成20年8月12日
リサイクル先駆者

 リサイクル社会が到来した。自動車のリサイクル法が施行されたのは2005年のことである。その遥か昔、1970年にこのことを予想した男がいる。自動車に命をかけた豊田英二氏と神谷正太郎氏である。そして1970年、今から38年前に系列の豊田通商と共に豊田メタル(設立時の正式名は豊田メタルスクラップ)を設立した。第1次オイルショック(1973年)を遡ること3年、工販合併を遡ること10年、日本でのリサイクル法施行を遡る35年のことである。

 当時、欧米では廃車公害が発生していた。そして第1次シュレッダーブームが到来したのである。1973年2月に変動相場制に移行した日本円の影響で、輸入鉄屑が増大した。そして10月第1次オイルショック発生。狂乱インフレといわれた嵐が世界中を吹き荒れた。石油を殆んどすべて輸入にたよっていた日本(現在も状態は同じ)では、物価も、給料も、ドンドン値上りした。騒然とした空気が満ちあふれ、大きな富が中近東の産油国に集まった。

 現在の株主は豊田通商50パーセント、トヨタ自動車48パーセント強、愛知製鋼2パーセント弱である。すべての仕入は豊田通商を通して行われ、すべての販売も豊田通商を通している。自動車メーカーがリサイクル事業に直接かかわっているのは、おそらくこの豊田メタルだけであろう。隣接地に自動車リサイクル研究所がある。

 時代の先を見よと私は常日頃から社員に言ってきたが、この会社を38年前に設立した自動車リサイクルの先駆者、豊田、神谷の両氏の慧眼に感服した。

 1日の処理台数は600台〜1,000台、能力はその10倍もある。回収されるのは鉄が主であるが、アルミ、銅、樹脂、発泡ウレタン、繊維、ゴム、ガラス等である。殆んどを再利用出来る状態にまで選別、加工されており、その努力に頭が下る。リサイクル研究所ではリサイクルしやすい車作りの研究が行われていた。

 面白いことを発見した。「針供養」という習慣を、私は幼い頃から母の和裁塾で身近に経験していた。また日本の各地で「魚供養」「牛馬供養」などが行われている。豊田メタルでは何と「廃車供養」が毎年4月に行われるのだ。しかもそれが1978年からずっと続いている。トヨタの強さの秘密を見る思いがする。まさに入魂の業がくるまづくりに生かされているのである。

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花咲爺

平成20年8月11日
花咲爺

 日本人は桜の花が大好きだ。桜前線が九州から北上をはじめると、春の到来を待つ日本人はすべて落ち着かなくなる。「花見」の話題が増えるからだ。桜の名所は全国到るところにある。川の堤防、里山、街路樹、どこにでも自分達なりに、心象風景として桜を思い浮かべることが出来る。

 私も桜が大好きである。駐車場に植えたり、自宅の庭に植えたり、別荘の庭に植えたり、毎年どこかに植えている。染井吉野がよい。とても成長が早い。植樹して数年で見間違えるほど成長する。八幡の森の近くで育った私の心のどこかに、森に対するこだわりがあるのだろうか。

 桜は花の季節が短い。パッと咲いて、パッと散る。「花の命は短くて・・・」と美人薄命にたとえられる。しかし、その魅力は花だけではない。新緑が美しい。夏の深緑も強い生命力を感じさせてくれる。秋から冬にかけての紅葉は、その日々の変化と共に、見る者の心を揺さぶる。冬の裸木の美しさも格別のものがある。そこに雪が降ると、白と黒のコントラストが浮び上ってくる。春を待つ裸木の枝から、「南枝ほころぶ」新芽誕生。そして開花まで、私はこの桜の魅力に一年中とりつかれている。

 私の信念ともいうべき生き方の根本は「枯木に花を咲かせましょう」と国語の教科書で習った「花咲爺」の姿にある。「うまいもの」「価値のあるもの」「お金」「幸せ」なんでも人のほしがるものを独占したがるのが人間である。しかし、独占は許されない。してはならないのである。独り占めしないで、パッとまわりの人々にさしあげるのである。花咲爺がザルに入れた大切な灰を、枯木に撒いたように。その灰は養分となり、桜の花が咲き乱れるのである。

 桜の生命力を楽しみ乍ら、今年もまた桜を植える為に働きたい。幸運なことに、今年は福井県が、来年行われる植樹祭の桜の寄付を募っている。貧者の一灯をささげたい。

 今、福井市開発で建設中の分譲マンションにも桜の大木を植える。近くに桜谷神社があり、ここの桜も年々よくなっている。
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かげひなた

平成20年8月5日
かげひなた

 祖父によくいわれたことに「かげひなた」があった。「かげひなたなく働け」とか「かげひなたのある人間になるな」とかである。「かげ」とは日蔭であり、「ひなた」は日向である。人が見てない時でも、天は見ている、何よりも自分が見ているということである。人が見ている、見ていないに関係なく正々堂々と生きよということである。

 ニューヨーク市のダウンタウンを人が歩いている。ニューヨークの冬は寒いが太陽の光があたると暖かい。ニューヨーカーは冬は必ず「ひなた」を歩く。「ひかげ」は誰も歩かない。夏はその逆のことがおきる。「ひなた」は誰も歩かない。暑すぎるからである。そしてみんな「ひかげ」を歩く。東京ではそこまで極端なことはおきない。「かげひなた」にあまりこだわらない。

 人生の道はみんなが「ひなた」を歩きたがる。これは致仕方のないことのように思われるが、よく考えてみると大きな疑問、多くの疑問がわいてくる。「ひなた」を常に歩くことが本当に幸せなのであろうか。かわいい子には旅をさせよというではないか。若い頃の苦労は買うてでもせよというではないか。

 私は「かげひなた」なく働いている人、努力している人を最も評価する。「失敗した人」「挫折した人」「倒産した人」を差別しない。逆にその後「かげひなた」なく努力している姿を期待している。そんな人が非常に多い。

 私は歴史を学ぶことに興味がある。そして大きな発見をした。大人物といわれている人は、必ずといっていい程、大失敗をしたり、挫折をしたりしている。そしてその失敗や挫折を乗りこえて、「かげひなた」なく必死で努力を続けて成功を勝ち取ったことに気がついた。だから私は「かげひなた」なく努力するのが大切なことを常に自分に言い聞かせている。
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日本のお金持

平成20年8月4日
日本のお金持

 お金持の定義がはっきりしないが、年収1億円を続けている人達や、純資産10億円以上を所有している人達と仮定すると、日本にはどのようなお金持がいるのであろうか。
年収1億円以上の人々の職業分類を見ると
1.企業経営責任者  約33%
2.医師       約15%
3.企業経営幹部   約12%
4.その他      約40%
その他とは地主、引退者、芸能、スポーツ、国家資格保有者などである。
中身を見ると企業経営責任者が最も多い。首都圏在住の人々が多い。ただ大企業の責任者の比率は低下傾向にある。中小企業でも堅実経営を長く続けているところや株式公開により創業者利益を享受している人が多い。

 医師は大病院の院長よりも、地方の開業医の人々の方が多い。眼科、歯科、美容整形、などの診療科目の医者が多い。

 その他は、地主が最も多い。先祖から譲られた土地からの収入が多い人である。
また株式の利得による税金が相対的に低いことから、株式売買益で稼いでいる引退者や高額所得者は有利である。ただ日本人で株式投資を行っている人は全体の10%以下である。諸外国と比較すると、ハイリスク商品という考え方が定着しているのであろうか。実際は最も有利な資産運用方法の一つである。

 日本には清貧思想が根強く残っている。勤勉さと清貧思想は日本の古来からの二枚看板である。時代は変りつつあるが、直接投資時代、ベンチャー起業時代を迎えるには、税制を含め、いろんな改革が必要だと思われる。特にメリハリの効いた幅広い税制改革、特に減税が実施されることを期待している。減税は増税をともなってくる。まず減税を導入して日本経済を活性化してもらいたい。

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刺身と寿司

平成20年8月1日
刺身と寿司

 立食パーティに招待されたり、ホテルのバイキング形式の食事をとる機会が増えた。そこでいつも同じことが起きる。行列が出来る人気ナンバーワンのコーナーは「刺身」と「寿司」のコーナーである。いつも同じである。そして一番最初に品切れになる。日本人の鮮魚好きを表している。

 日本は世界一の長寿国である。その理由の第一が日本食にあるといわれている。特に魚貝類、海藻類を多くとることによって、健康長寿が維持されているようだ。青もの、光りものといわれるイワシ、サンマ、サバなどは、現代人にとって、なくてはならないものなのである。

 世界中で一番魚を食べる哺乳類は鯨だそうである。その次が日本人といわれている。しかし日本食ブームが普及してきたので、今に世界中の人々が魚を食べることと思われる。ただでさえ漁獲量が減ってきているのに、魚を食べる人が増える時代になってきたのである。

 漁業も世界各地へ出かけて魚をとってくる遠洋漁業から、海岸線で養殖する養殖漁業に変りつつある。狩猟型の漁業から農耕型の漁業への転換なのである。いま、デジタル地球儀というNASAからの情報提供を受けている地球儀を私のいるビルの2階に常時展示している。その地球儀を見ると世界中で漁をしている船のあかりを見ることが出来る。その船団の殆んどが日本のものである。海の幸を日本人が独占することは許されない。一日も早く近海での漁業の育成が望まれる。おいしい刺身や寿司がいつまでも食べられるように知恵を絞らねばならないようだ。それは海洋牧場か洋上養魚場のような新しいコンセプトを作ることである。

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うれしいこと

平成20年7月31日
うれしいこと

 毎日新しいことに出会う。それはうれしいことも、悲しいことも、楽しいことも、つらいこともある。それが人生である。

 私はその時には、うれしいことにまず感謝する。うれしい出会いをもたらしてくれた人への感謝である。
悲しみに打ちひしがれている時、思いがけない人からうれしい知らせをいただくことがある。正に、待ってましたとばかりに喜々として、すばやく対応する。すべてに優先して対応する。そこでまた新しいチャンスが生まれる可能性が広がっていく。

 しかし、うれしいことは、「油断」を生むことが多い。油断していると、うれしいことが逆に失敗の原因になりかねない。心して対応しなければならない。

 人をほめるのがとても上手な人がいる。着ているものをほめたり、ネクタイをほめたり、手をかえ品をかえてほめてくれる。決して悪い気はしない。しかし相手はかなりの商売上手と考えた方がよい。これまた油断は禁物だ。

 あまり期待していなかった人が、思いがけず大活躍をすることがある。目に見えない所でコツコツと努力をしてきたおかげであろう。こんな時は本当にうれしい。身体中でそのうれしさを表現することにしている。少ない喜びを共有し、みんなで感動を分かち合う。そんな仲間がほしい。今日も「うれしいこと」が起きそうな予感がする。

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仲良し会

平成20年7月29日
仲良し会

 YPOという中堅企業の若手社長会があった。今でも存在していると思う。そのOB会がNPOである。オーナー経営者の集りである。私がかつて勤務していた企業のオーナー社長が入会し、YPOやNPOの情報を聞く機会が多かった。ある時全く関係のない大企業の経営者にお会いした。そしてYPOについて尋ねられた。私の少ない知識では答えようがなかった。ただその時聞いた一言が今でも耳に残っている。「YPOの皆さんは大変仲がよいようですね」日本では同業者の会や地域の会が盛んであるが、このYPOもNPOも異業種の集りである。そして、オーナー経営者の集りである。そこに大きな特長がある。

 福井という地域にいると、地域でのお付合いが多い。先日転勤してきたばかりの支店長にある会への入会をすすめた。見事に断られた。会合が多すぎて仕事にならないとのことである。自らをふりかえってみると、ロータリークラブ、経済同友会、経営者協会、商工会議所、経済クラブ、キラリ会、フェニックス研究会、デジタル地球大学その他不動産関係や商店街関係を入れると、一年先までスケジュールは一杯になってしまう。

 福井という小さな狭い地域ではそのメンバーは二重、三重、四重と重なってすぐに親密な関係が出来上がる。地方に住んでいると、未だに「村社会」が生きていることを実感できる。よい意味での「仲良し会」に加入できるのである。

 私は福井へ来て早や50年、何も知らなかった私を育んでくれたのはこの福井の地である。この福井のメンバーである。いくら感謝してもまだ足りないくらいお世話になった。このすばらしい福井をもっと日本全体の人達に、世界の人達に知ってもらうにはどうしたらよいのだろう。そのことを真剣に考えている。

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道州制と越のくに

平成20年7月28日
道州制と越のくに

 道州制について議論があちこちで行われるようになった。賛成あり、反対あり、それぞれ意見があるのは当然である。私達のいる福井県は、1500年以上前から「越のくに」の都であった。大和や尾張そして京都に近いということで最も古くから栄えたのである。北陸3県では人口僅か300万人、これでは州はムリである。新潟や長野を含むテリトリーが1つの選択肢として残されるのであろう。

 私は州都が人口が多いところという先入観は持っていない。東京一極集中を排除するという「道州制の理想」を考えれば、「州都」は人口過疎地に作るのがよいと思われる。アメリカのNYCとワシントンDCの関係である。越のくにの州都を将来の発展性、隣接州との関係から考えても「福井平野」に持ってくるのがベストと考えるが如何?

 道州制の最も重要な要素は「特別立法権」と「収税権」である。国の大権は、司法、立法、防衛等に絞りこむことが必要になる。道州制がスイスやアメリカのように自主自力型になると、日本の再生が早まることと思われる。

 東京一極集中はあまりにすすみすぎた。このへんで時計の振り子を逆方向にしなければならない。地方のあらゆる各層の首長、社長、議員のみんなが東京もうでをせざるを得ない現状は、あまり情ない。地方復権を早める為に、私達国民の一人一人が何をなすべきかを真剣に考えようではないか。道州制の賛否を問う前にその中身とその方向をつめることが先決である。

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21世紀の成長業種

平成20年7月23日
21世紀の成長業種

 今世紀に入って早や8年が経過しようとしている。低成長の日本の中で伸びているのは一体何であろうか。どんな事業が伸びているのか。捜してみた。そして驚いたことに、2007年の統計で、過去最高記録を更新したものがあった。それは鉄鋼である。銅である。工作機械生産高(金額)もピークに並んだ。

 まず粗鋼生産屯数は2007年記録更新。鉄鋼生産屯数も約30年ぶりにピークに近づきつつある。銅の生産屯数はピークを超えた。プラスチックの生産屯数も約10年ぶりにピークに近付いてきた。これは製造業が今世紀に入って輸出を中心に好調が続いていることが大きな要因である。自動車の輸出台数は2007年約20年ぶりにピークに近づきつつある。

 日本の国内を見てみよう。今世紀最も成長が著しいのが医療福祉事業である。特に老人福祉、介護事業が急進中である。少子高齢化社会の到来を迎え、自衛手段としての受皿作りがすすみつつあるのが見えてくる。ハード面だけでなく、ソフト面の充実、特にケアをする人間の育成が問題になりつつあるのを感ずる。

 また情報通信事業(私はI.C.T事業と呼んでいる)の伸長も見逃すわけにはいかない。特にインターネット付随サービス業の成長は大きい。この分野は今世紀前半の花形産業に育つものと考えている。アメリカの巨大企業のベストテンは殆んどこの分類に属する。日本のベストテンでこの分類に入れそうなのは、ソフトバンクだけである。まだまだ大きな可能性を秘めている。

 そして最後は廃棄物リサイクル事業である。産業廃棄物は1980年度の約3億屯から増勢が止まらない。自動車リサイクル法をはじめ家電リサイクル、食品リサイクルが法制化され、改正もすすみつつある。地球資源の枯渇が問題になる中で、静脈産業といわれてきたリサイクル事業が脚光を浴びる時が近づいている。この仕事はキレイな仕事ではない。人の嫌がる仕事である。しかし、誰かが、どうしてもやらなければならない仕事である。今世紀最大の事業のシーズがここにある。

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持てる力を生かす

平成20年7月22日
持てる力を生かす

 世の中の景気がよくない。あちこちで倒産や経営不振の風評を聞く。わが身をふりかえって見ても、決して他人事ではない。ここ数年の低成長乍らも年2〜3%の伸びを続けてきた日本経済の中で、私達も高い2ケタ成長が続いた。ありがたいことだ。

 しかし、中身をよく見るとトヨタ流の「なぜ、なぜ、なぜ」が不足している。高成長に安住し、私達の理想とする「満室、満車経営」が出来ていないのだ。例えば駐車場がオープンする。少なくとも近隣の方々に認知していただく期間(3〜6ヶ月)は赤字経営が続く。これが問題なのである。一日も早く認知していただき、満車経営が出来るように努力するのが私達の務めである。それが放置され、いたずらに日が過ぎてしまう。満車経営が出来ると当社の業績は一挙に急上昇する。

 また自社所有ビルの空室が目につく。これも「なぜ」という自問自答が足りないから空いているのだ。周りのビルが空いているから仕方がないというのは泣きごとであり、言い訳にすぎない。これを日々の努力で満室にすることにより、一挙に好決算に変身する。

 私達は自分の力、自分たちの持てる力を生かすことを忘れている。自分のよい点、優れた点はわかっているようで、本当はよくわかっていない。ましてその優れた能力を生かしきっている人は稀である。世界経済がよくないとか、日銀総裁が景気判断を下方修正したとか、地域が悪いなどと泣きごとを言う前に、自分の持てる力、自分達の会社の持てる力、自分達の地域の持てる力を分析してほしい。そこにすばらしいものが必ずある。それを活用することである。「満室、満車経営」、「満足経営」につながる。私はどんな困難に直面してもこれを試練として受けとめることにしている。そして効率を上げ、回転率を上げ、自分の得意分野を伸ばし、みんなに喜んでもらえる道を捜す。必ず道はある。

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あこがれのハワイ

平成20年7月16日
あこがれのハワイ

 太平洋のまんなかに位置するハワイ列島はリゾートの代名詞のように使われ、アメリカ人や日本人にとって、あこがれの地である。そのハワイは1898年まではまだ王朝が続いていた。その頃のハワイの人口約15万人の内、日本人は約6万人余りが住んでいた。

 1898年にアメリカがハワイを併合した。当時のアメリカへは、ヨーロッパ大陸から毎年100万人程の人々が移民として入国していた。アメリカが急膨張していたのである。アメリカの州となったハワイから、日本人も多数が西海岸へ移住していった。

 ところがハワイに住んでいた日本人に対して、西海岸では受入に抵抗する動きが出て、日本人排斥運動が始まった。なぜならアジア(中国を想定してのことと思われる)からの移民受入の完全拒否がその背景にあった。そして遂に1924年の移民法は排日を明確にした。常夏の島ハワイの日本人達にとって、ハワイにいても西海岸にいっても歓迎されざる人になってしまったのである。

 そして対米戦の宣戦布告によって、日本人に対する差別は信じられない程に、悪化し、多くの元日本人(当時既にアメリカ人のはず)が収容所という名のキャンプに収容され、全財産を没収されたのである。
私はその後ハワイを訪れる機会が数多くあり、日系2世3世の方々との交流を持つことが出来た。そしてその理不尽なアメリカの対応に対して強い怒りをおぼえたのである。ミシガンのアナーバーに短期留学をしていた頃から、ロータリークラブやYFU日本協会のボランティア活動を通して、日米友好の為に、蔭日なたなく努力しているが、古い過去の歴史を思うと胸が痛む。

 戦後「あこがれのハワイ航路」という歌が流行った。明るく平和で、気持ちのよくなる歌である。訪れるたびにハワイは私達に親しみを感じさせてくれる島である。過去の歴史を忘れて、お互いに本当のパートナーとして、日米親善が末永く続くことを願っている。今日もホノルルの空は青く、ハワイ島の渓谷に滝は流れ、火山の噴煙が上っていることと思う。

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近道 まわり道

平成20年7月15日
近道 まわり道

 第二次世界大戦後、日本はアメリカ占領軍により占領された。アメリカ空軍によって広島市、長崎市の中心部に原子爆弾が投下されて僅か1ヶ月程後のことである。そして昭和21年8月24日衆議院で大日本帝国憲法改正が採択、GHQに押しつけられた憲法ということで、多くの議員が泣き乍ら賛成したという。賛成421票、反対8票で成立した。昭和21年11月3日公布、22年5月3日施行された。これが現在の日本の平和憲法である。その憲法成立の裏舞台で大活躍したのが白洲正子の夫君、白洲次郎であった。彼の言葉に一つに「ジープウェー」と「エアーウェー」がある。

 「ジープウェー」とはジープに乗って目的地に向って走る道であるが、山々や河川があり、まっすぐには行けない。障害物を避けながら苦労していく道をいう。「エアーウェー」は直接空路により、まっすぐ目的地に到る道をいう。白洲次郎は「ジープウェー」は日本人的考え方、やり方で、種々諸問題を議論しながら慎重にすすめるやり方だといった。GHQ側は「エアーウェー」で単刀直入に目的に到るやり方を主張。憲法案づくりにその意見のくい違いを調整する為、多くの努力がなされたのである。

 近道を「エアーウェー」、まわり道を「ジープウェー」と考えてみた。ハイキングコースによくこの表示がある。殆どの人は近道を選ぶようだ。でも近道を歩いてみるとアップダウンの多い坂道になることが多い。もう一度まわり道を歩いてみると、高齢者や子供向の平坦な道になっている。近道は選ぶ人が多いので混雑しているが、遠いまわり道を選ぶ人は少ないので、空いている。ゆっくりまわりの景気を楽しむことも出来る。そして到着するのはあまり大差がない。

 楽に見える道と困難に見える茨の道と考えてみる。簡単で安易で楽しそうに見える道は、歩いてみると大きな落とし穴があったり、思いがけない障害物に泣かされることがある。茨の道を歩いてみると、案外すいすい往けることがある。また苦労して歩くことにより、多くの思いがけない収穫物を得ることがある。
 「損をして、得をとれ」の諺とおり、まわり道が正解かもしれない。私は常に茨の道を選ぶ。必ず選ぶ。それは自分を鍛える絶好の機会となるからだ。

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不易流行

平成20年7月7日
不易流行

 松尾芭蕉の俳論の本質を表わす言葉が、この「不易流行」である。今年の経済同友会のテーマとして取り上げられた。「不易」とは「変らざるもの」をいう。「流行」とは「変っていくもの」をいう。二つの相反する要素、これを芭蕉は両端にあるものといい、本質的には一つのものといっている。

 私の解釈は、二つの要素、例えば「動と静」「吉と凶」「紅と白」などは全く反対を表わす言葉であるが、自然界の中に或いは私達の人生の中に常に同時に現れたり、次々と続いて現れるものである。それと同じように「不易」と「流行」は全く両極端のもののように見えるけれども、本質的には同じものなのだと言っているように思う。

 また「不易」は「変えてはならないもの」という解釈もできる。「流行」は「変えていかなければならないもの」でもある。人生訓の一つとして「変えてはならないもの」は何かを見極め、これを大切に守っていくことは誠に大切なことである。「不易」は道徳や他人への愛、真理などがあろう。「流行」は世界の変化、自然の変化や時代の流れを意味する。

 私はCHANGEはCHANCEであると決めている。変化する時こそ絶好の機会到来と考えているのである。芭蕉は「不易」の中にも「流行」があるという。「不易」と「流行」は本質的に同じだという。とするとCHANCEは常にあるということだ。ということは、常に挑戦する気持即ち「CHALLENGE」を持ち続ければ前途洋々である。

 私は自然の変化、四季のうつろい、日々刻々変る雲や霧、雨や緑の木々の動きをじっと見つめている。そよ風に木々が喜び、鳥が呼び交わす。日本の美しい自然の中で、時代の不気味な流れを見ていると、「不易流行」についても、もっと数多くの議論が必要だと気づかされる。ものの見方、考え方を変えると、生き方が変わってくる。若い人達がもう少し明るく前向きに考え、強い生き方をしてくれることを切に願っている。

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企業の価値

平成20年7月4日
企業の価値

 福井県には優良企業が多い。上場企業(福井県下に本社を置く)は14社と少ない。しかし、人口割にするとかなり上位になる。これは社長の数が25年間連続でダントツの一位という数字と重なる。福井県人は独立心が旺盛なのである。

 優良企業の一つ、前田工繊の前田征利社長から話を聞いた。昨年8月東京2部へ上場されたとのこと。総資産128億、自己資本85億、売上123億、利益6億、資本金10億、総従業員278名バリュエーション43億の会社である。上場の初値より1年足らずの間に株価は半減している。ここ1年の株式市場の下落の影響を受けたものと思われる。しかし企業の中身、将来性、安定性、収益性どれをとっても過少評価としか思えない。

 企業は社長で決まる。特に私達のような中小企業は社長次第である。総資産100億、自己資本30億、売上80億以上利益4億以上が私達の今期の目標である。それを資本金4.56億(現在)、従業員300名でなし遂げたい。金融機関のご協力を得て、今年に入り第三者割当増資を行った。

 かつては売上の大きさ、利益の大きさ、従業員の数などで判断された。これからは何が指標になるのでろうか。私は5つの指標を掲げることにしている。まず「お客様満足度」、次いで安定した「雇用」の受け皿。株主に対する配当。そして国民の義務としての納税。そしてCSR活動である。

 企業の経営のもとは「人づくり」にある。すばらしい仲間づくりである。社員教育を社長の仕事の最重要課題として取組んできた。教育とは「学習」させることにある。前田社長の話が私の考えに非常に近く、感銘を受けたので茲に記しておく。

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福井地震

平成20年7月2日
福井地震

 60年前のことである。1948年(昭和23年)6月28日16時13分マグニチュード7.1の地震が起きた。1923年(大正12年)の関東大震災以来の大地震であった。気象庁は、全壊率100%の集落が多いことを契機として、震度階級の最大値に震度7を新たに追加した。全壊35,382戸、全焼3,851戸、半壊10,542戸、死者3,728人、負傷者21,750人と大きな被害が発生した。敗戦後の混乱の中からやっと立ち直りかけた福井県民を襲った災害であった。死亡率で過去最大の被害となった。

 当時の日本はアメリカ軍の統治下にあり、進駐軍という名のアメリカ人がジープを乗り回していた。震災直後に福井城址に進駐軍のテント村が設営され、貴重な震災直後の記録が撮影されている。アメリカの雑誌「ライフ」にこの記事が大きく写真入で報道された。アメリカの公文書記録管理局に今なおこの時の貴重な資料が保存されている。

 また気象庁の調査団もこの被害状況をつぶさに視察する為に、交通の途絶された福井へ入ってきた。その記録が72枚のモノクロ写真で残されている。地元新聞社は被害で動けず、これを大きく報道したのは全国紙であった。

 今、福井市の開発(かいほつ)で分譲マンションを建設中である。福井県下初の免震構造の分譲マンションである。地震から生命と財産が守れるかどうかの分かれ目になるのが建物である。発生から60年が経った。われ乍ら誠に意義のある事業であると思う。
喜びの種、幸せの種を蒔くのが私達の仕事である。生命の続く限り、人々の幸せを願って日々、地道な努力を続けていきたい。

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あと68年

平成20年7月1日
あと68年

 石油工業連盟は5年ごとに、世界の石油の埋蔵量と消費量を予測している。昨年11月に発表された残存期間が「あと68年」である。5年前に発表された期間が「後79年」であった。5年の経過の間に「11年」も短縮したことになる。その理由は発展途上国特に中国とインドの需要拡大である。新規油田の開発よりも人類の消費のスピードの方が早いということだ。あと68年ということは2075年までに石油は地球上から消えるということになる。

 しかし、第一次オイルショックの1973年頃には石油埋蔵量は「あと30年」といわれていた。その後需要は増え続けているが、埋蔵量は逆に増えてきた。それがこの5年で大きく減少に向ったというのである。
 当然代替エネルギーがクローズアップされてくる。太陽光であり風力であり原子力である。特に原子力については核アレルギーの問題はあるが、石油に代われる可能性が大きい。安定性でいえば太陽熱エネルギーの活用が理想的といわれている。この効率アップの研究開発がすすむと究極のエネルギーとなろう。

 発展途上国をも巻き込んで、今地球上で資源の争奪戦が始まっている。これは第二次世界大戦前の状況を思いおこさせる激しさである。今年の洞爺湖サミットを意義あるものにする為にも京都議定書に続く「洞爺湖宣言」を期待したい。それはCO2削減目標の共有にとどまらず、次世代エネルギーの共同開発宣言でなければならない。7月19日14時〜16時私の会社の会議室で「環境と原子力の利用」について研究会を開催する。私達の洞爺湖サミットならぬ福井サミットである。原発立地県の福井で開催することに意義を感じている。

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世界との共存共栄

平成20年6月30日
世界との共存共栄

 日本の食料自給率39%(カロリーベース)が問題になっている。こんなに低い国はないという。しかし、日本のように国土が狭く、山や丘や森ばかりの国が,多くの人口を抱え、そして自給自足するのは殆ど不可能に近い。高効率の第二産業で稼いだ外貨で、世界中から食料を輸入するのは或る意味で必然ともいえる。もし困る場合を想定すると、それは第三次世界大戦のような非常事態が起きた時、食料を売ってくれる国が残っているかどうかである。

 食料よりもっと深刻な例はエネルギー源である。これは第二次大戦前よりもまだ遥かに悪くなっている。エネルギー自給率は実質4%である。石炭も天然ガスもウランも石油も殆どすべて輸入に頼っている。原子力を含めても、自給率は20%以下である。

 この食料自給率39%、エネルギー自給率4%(原子力を含めても20%以下)という厳しい数字を目の前にすると、日本人として何をするべきかが見えてくる。今、急に自給率の向上に取組むことも大切であるが、もっと重要なのことは世界との共存共栄である。長期間に亘って築き上げてきた輸出国との信頼関係を更に緊密にしていくことが大切である。また、それ以外の諸外国との関係を考慮し、平和を希求する日本人、善良な温和な日本人、勤勉で誠実な日本人を世界にアピールすることである。

 国連の活動に協力し、常に共存共栄の精神を発揮してODA等をはじめ技術支援、金融支援に力を入れる必要がある。特に、日本は金融支援が苦手のように見える。世界に通用する財政・金融マンの育成に注力し、最も必要とされる地域や国々にベストミックスの支援を行えるよう努力しなければならない。

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海洋国日本

平成20年6月26日
海洋国日本

地球儀をじっくりと見たという人は少ない。地軸がずれている。陸地が少なく、海が広い。地球を大雑把に分析すると北半球に、陸が多く、南半球は少ない。比率は地球全体に対して北半球の陸地の20%、海洋30%、南半球の陸地10%、海洋40となっている。地球の70%は海である。

 私達の小さい頃から日本は資源のない国といわれた。あるのは勤勉な国民だけだといわれた。しかし当時から海洋国日本ともいわれていた。世界の中の日本を考えてみると国土は約37.8万平方キロであり、6,852の島々から成り立っている。その4分の3は山地、丘陵であり、その3分の2は森林に覆われた緑の国である。国土の大きさは世界で60番目である。人口の多さは世界で10番目である。EEZ(Exclusive Economic Zone)を含む領域は9番目である。最大はロシア(国土面積は7,098千k屐法▲▲瓮螢(9,629)、カナダ(9,985)、オーストラリア(7,692)、ブラジル(8,515)、中国(9,597)、インドネシア(1,905)、インド(3,287)、日本(378)の順である。

 日本が海洋国といわれる理由は何だろうか。そのEEZが国土面積の比率の約11倍である。1倍を超える国はアメリカ、オーストラリア、インドネシア、イギリスなどしかない。11倍は世界ダントツの1位である。日本の国土が極端に小さな島国日本は、EEZでは9番目に位置している。まわりはすべて海である。海の幸で日本は数万年を過ごしてきた。今も七つの海をかけまわり「海の民」の伝統と誇りを持ち続けている。魚貝類を食する習慣は、最近、世界中で注目されだした。健康長寿食なのである。黄金国ジパングは、不老長寿ジパングでもあった。

 私の義理のいとこは日本海洋学会の会長であった。彼から海の可能性についてさまざまな話を聞いた。二人で沖縄の海岸を歩いていて大きなサンゴの死骸を拾った。今社長室に飾ってある。耳をすますと海風の音が聞こえてきる。海が私を呼んでいるように。

 海の可能性は魚貝類などの食料だけではない。海洋深層水の利用度も高い。海面の埋立で、国土を広げることは歴史的にも数多くの例があるが、関西国際空港のように浮島構想も面白い。その上に海洋深層水発電所や原子力発電所、風力発電所、太陽光熱発電所を作り、そこに食料生産工場を併設することも可能である。海底資源は手つかずである。海洋国日本の明日は明るい。地球の70%は海であり、私達日本人は世界一の「ウミチュー」である。

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敗戦の後

平成20年6月20日
敗戦の後

 1945年8月 日本はポツダム宣言を受諾、太平洋戦争は終った。その時を境にして世界各地で植民地の独立運動が活発化した。日本は台湾、朝鮮、南樺太、千島列島、沖縄(1972年返還された)を失った。満州は幻の国となった。

 そして、ソビエトの猛烈な拡大戦争が勃発した。次々に東ヨーロッパ諸国を併呑していったのである。私の小学生から中学生にかけての頃の出来事で鮮明に憶えている。スターリンによる、鉄のカーテンといわれた目に見えない共産主義の壁を、拡大していったのである。

 同じく共産主義化した中国も蒋介石との戦争を始め、彼を台湾へ追い出した。日本が引き揚げた後へ蒋介石が入ったのである。満州も中国がソビエトを駆逐して、日本の引揚げた後へ入った。中国の侵略も激しかった。朝鮮戦争も38度線を突破した北朝鮮、中国軍によって始まった。もう少しで朝鮮半島が赤化するところまでいった。

 現在の中国地図を見るとよくわかる。中国各地に自治区と称する広大な土地がある。すべて異民族の国である。共産主義の華やかだった頃拡大していったところである。民族自決の主義からいうとチベットはチベットであるべきだ。先史以来中国の領土という人がいるが、過去の歴史をひもといても現在の中国の国土は異常である。

 ソビエト連邦が各国の独立を認めたように、周辺の自治区の独立を認めるのが当然だとう思う人が多い。

 イギリスも終戦後に、次々と大英帝国を解体し、友好国として独立を認めてきた。残っているのは中国だけである。樺太、千島の問題がロシアとの間に残されているのも世界の常識である。アメリカ軍が未だに日本各地に駐留しているの世界のも七不思議の一つである。平和を愛する日本にもう軍隊はいらない。

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明暗その

平成20年6月19日 
明暗その

 人は闇を恐れる。本能的なものであろう。精神的に衰弱している病人に、明るい照明を照射する治療法があると聞いた。元気のよい日の散歩や、明るい海岸への転地療法なども同じ効果を期待してのものである。

 健康な人にとっては、暗闇もまた魅力的だ。灯りを消してしばらくすると、目が闇になれてくる。少しずつ見えるようになってくる。外が少し明るい。月光がさしこんでいるのだ。窓ごしに外を見ると、星が美しい。部屋の中も雰囲気が全く違う。手探りで部屋の中を歩いてみる。何の障害もなく歩きまわれる。テラスを見ると、家の中から漏れる薄明かりにテラスは白く光っている。テラス全体はぼんやりとした月光の中にある。

 夕暮れ時は、ゆっくりと光の陰影を楽しむ時間がない。ただ早朝4時に起床し、机に向うのを常とする私なので、朝の光の饗宴だけは楽しませてもらっている。雨の日、風の日、霧の日。晴れた日、曇った日。遠景の山、中景の田園、近景の庭の木々。その日その日、その時、その時によって大きな違いがある。闇の中から徐々に姿を見せるその姿に、興味津々である。

 スポットライトを浴びると目が爛々と輝き、生き生きと表情が変る人がいる。役者向、テレビ俳優向の人である。逆に日陰にいてこそ存在感のある人がいる。聖人である。
人生航路、は明暗が次々と襲ってくる海をゆく。凪に油断せず、明日を信じていきたい。明日、また明日。一歩また一歩。歩き続けていきたい。

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明暗その

平成20年6月18日
明暗その

 城山三郎という作家がいた。彼のかく人物像に魅せられて私の書棚に数十冊の作品が並んでいる。亡くなってもう数年が過ぎた。ところが最近新刊本が出た。「そうか、もう君はいない」という題名だ。死後に出て大きな反響を呼んでいるという。五十年連れそった妻への挽歌である。

 城山三郎に興味を持ち、その作品にあふれる詩情を楽しんでいた。新刊本に書かれている妻への愛の深さに彼の人生の明暗を思う。人物評伝ともいうべき作品には、それぞれの人生の明暗が描かれている。底を流れる主人公への深い愛情を感じ共感を持ったのは私だけではあるまい。彼が多くの愛読者を持っていたのは有名である。

 今度の新刊をNHKのテレビがとりあげている。沢山の読者からのファンレターが寄せられているとのこと。人は明暗を好む。城山三郎の作品はこの明暗を見事に書ききっている。 成功者の話は面白くない。失敗した人の話は聴いていても面白い。参考にもなる。そして明暗が興味をひくのである。
釈迦もキリストも孔子もソクラテスもすべて失意の内に死んでいる。最悪の状態でこの世を去っている。それが数十年、数百年、数千年たった今も世界中の人々に称えられている。愛されている。尊敬されている。

 人類の歴史の明暗の中に、燦然と光り輝いているのである。4人共世俗的には決して成功者ではない。しかし彼等ほどの大きな存在はない。私達に指し示した明るい道程と、彼等自身がたどった暗い最期。そこに激しい明暗の落差を感じる。明暗が美しい陰影を形づくっているように思う。妻への愛をもう一度再確認させてくれた名作である。

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不動産開発事業

平成20年6月17日
不動産開発事業

 毎年カンヌで世界中の不動産開発に関する「国際不動産見本市」が開催されている。不動産開発事業の告知や、投資資金やパートナーの募集などのコラボレーションを求めて、国や都市、企業、第三セクター等が出展している。

 良質な物件、案件を求めて、不動産投資ファンドや機関投資家も多く集まって来る。最近の傾向はオイルマネーの勢いが目立っているとのこと。特に砂漠の中に忽然とあらわれたドバイの奇跡には驚嘆する。ロシア・中国などの急展開も顕著である。

 日本の現状は、世界と比較すると、あらゆる点で見劣りがする。列島改造論を掲げた田中角栄首相の時の勢いは、全く影をひそめてしまった。東京だけが一時の繁栄を見せてはいるが、日本全体の不動産向の投資は、金融機関の信用収縮ともあいまって、不動産向の融資がここ1年余り急激に縮小し、低迷中である。

 日本の問題は、金融面での支援態勢だけにとどまらない。税制の問題、規制緩和の問題など法整備の遅れも大きい。世界中がグローバル時代に速やかに対応しようとしている。ロシアも中国もである。のんびりしていると、日本だけが取り残されてしまうような危機感をおぼえる。

 東京オリンピックの開催が再度話題にのぼっているが、日本の国土再建は、あの東京オリンピックや大阪万博を契機として、世界の資金を集めて果敢に実行された。東京から神戸までの太平洋ベルト地帯の建設であった。今、日本は世界一の金融大国といっても過言ではない。そのプールされた資金が、海外への投資に向っている。内需拡大へコンパクトシティ建設に向うべきであると考えるのは私だけであろうか。21世紀はアジアの時代といわれている。アジアに隣接しているのは、日本海側の諸都市である。日本海側は幾千年来の良港が数多く存在するが、港湾機能が未整備である。アクセスする道路、鉄道も未整備である。私は日本海ベルト地帯を建設し、再度日本列島改造をめざすべきだと考える。

 日本が太平洋側と日本海側にそれぞれベルト地帯を完成させることによって、より効率のよい国土運営が出来るであろう。地震や災害に強い安全性を確保できるであろう。

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ナノテク(技術)

平成20年6月13日
ナノテク(技術)

 鉄が産業のコメといわれたのは50年程以前のことである。「鉄は国家なり」ともいわれた。その後シリコンサイクルという需給の変動を伴うICチップが産業を支配しだした。このICチップの開発や製造、改良に使われたのがナノテク(技術)である。今やこのナノテク(技術)はあらゆる分野で応用されだしている。
物を組み立てることが、印刷できることになったり、物質をマイクロチップに入れることにより多くの可能性につながったり、粉体の微粒子化により流動性を高めたり、ナノテク(技術)は今迄の常識を覆す力を発揮しだしている。

 株式の上場を目指していると新分野への進出はタブーであるが、ナノテク(技術)への執着は捨て難い。ナノの世界はDNAの世界でもある。生命体はすべてDNA を持っており、DNA レベルでは多くの共通点を共有している。遺伝子レベルでのやりとりで新しい物質の合成も可能になろう。

 金属の中で、原子核を中心に陽子、陰子、中性子等が軌道をまわって、物質を構成しているが、この外周部をまわる陰子(イオン)が外へ出たり、入ったりしているケースがある。この状態を利用して新商品を作ろうという研究を5年程前から考えている。未だに確信の持てるものにならないが、出来れば大いに役に立つ。

 遺伝子操作による植物の改良は古い歴史がある。特に米の品種改良はDNA操作そのものである。DNA操作の分野はまだこれからである。将来の取組みの為、バイオ研究者を捜しているが、ピッタリあう人に未だに出会えていない。

 ナノ世界は恐ろしいほど整然としている。覗いてみると驚嘆する。そこに神の存在を感ずる科学者が多いと聞く。私もその一人である。この整然としたナノ世界を開墾し、ここに新しい種を蒔き、新しい商品を育てていくこと。そこにロマンを感じている。

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ユニーク経営

平成20年6月12日
ユニーク経営

 企業は社会から必要とされるものでなくてはならない。そしてそれは時代の要請でなければならない。過去の栄光にとらわれているものであってはならない。そして限りある資源、限りある時間、限りある空間を生かすものでなければならない。そこで生まれるのが「嗚呼勿体無い」という哲学である。私は「遊休不動産の有効活用」をテーマに「ハードとソフトを融合したシステム」の商品化を行い、これを誠心誠意の「まごころサービス」で奉仕する企業を作りたいと考えた。

 経営方針はユニーク経営の実践である。人と違う道を歩き、人と違う夢を見、人と違うやり方で、人と違うものを作り、人と違う考え方で、他人に喜んでいただける企業にする。

 中小企業は何もない。人も金も物もすべて大企業より劣っている。ただ勝つチャンスはある。それはスピードと熱意とやる気である。そして不撓不屈、粘りの精神である。

 ソニーがまだ小さかった頃、松下は「マネシタ電気」といわれた。ソニーが新商品を開発すると、松下はよく似た商品を大量に作り市場を席捲する。ソニーはまた新商品の開発に向わざるを得ない。その頃、ソニーは松下には絶対に勝てないと思う人が多かった。松下の失敗もあったが、その後、ソニーは松下を凌駕し世界でもトップレベルにかけ上った。ユニーク商品を開発し続けた結果である。

 ユニーク経営は至難の道である。いばらの道である。行き止りになっている道でもある。しかし試行錯誤をやっているうちに能力も感性も磨かれてくる。気がつけば最強軍団に育っていた。常に時代の最先端を走るために、小さな企業ではあるが、挑戦を続けていきたい。夢への挑戦である。

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東京脱出

平成20年6月10日
東京脱出  
             
 世界でも特異な存在である東京。首都圏という東京周辺を含む地域の人口は約3千万人。交通網の密度は地下鉄・電車・バス・タクシー・モノレール・船・航空など世界のどこの都市をも凌駕している。
安全度も抜群である。強悪犯罪は非常に少ない。

 企業の集積度も高い。時価総額の上位から数えて大きい企業の本社所在地を調べてみると70%以上が東京である。

 意思決定のできる官庁の集積度は更に高い。約100%といってもよい。政治もそれと同じ。高等教育は幸いなことに地方分散が進んでいる。しかし若者の東京志向は年々進んでいる。

 こんなに集積度の高い首都は珍しい。特に人口の多い国においては考えられないことである。

 歴史的に見てみると、この状態が突然起きていることに驚く。徳川幕府が出来た頃、京都、大阪と東京はほぼ同じ規模であった。金沢100万石、鹿児島77万石、福井68万石、名古屋62万石、和歌山55万石、水戸35万石、仙台62万石と全国各地との差は小さい。明治に入って市制の創設された時も東京との差はあまりない。

 敗戦後1950年首都圏の人口が1,300万人を突破して以来、急激な人口集中がおきた。それ以来約50年余りの短期間に人口集中が起き、2.3倍になったのである。

 銀座の土地が坪1億5千万円で取引された。丸の内も1億円という。これに比較すると東京以外の都市の地価は驚く程安い。特に地方はただ同然の安値に放置されている。インターネット時代、グローバル時代を迎えてそろそろ発想の転換が必要になってきた。石原都知事は反対であろうが、それは立場上の意見である。東京脱出が必要だ。遷都論も分割論もいつの間にか下火になったが、今一番大事なことだと思われる。アジアの時代を迎えて日本海側の各都市の可能性は非常に大きくなっている。コマツもホンダも地方で大きくなった。トヨタやスズキ・マツダはまだ地方にいる。

 時代は日本海軸を、日本海ベルト地帯構想を考えるべき時の到来を告げている。多くの投資機会と広い土地そして優秀な人材と技術の宝庫が日本海側にある。

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死因について

平成20年6月3日
死因について

 死亡の原因について考えてみた。調べてみて驚いた。死因の第1位は飢餓である。58%である。人類の10万人中毎年1460人が餓え死している。第2位は喫煙である。喫煙者10万人の中毎年365人が死んでいる。14.5%の高率である。第3位がガンで10%。第4位肥満で6.6%。第5位血管系(心臓を含む)5%。第6位アルコール飲料 4.6%。第7位自殺1%と続く。それ以外の死因は交通事故をはじめすべてコンマ以下で、問題にならない。しかし、飢えで死ぬ人が58%もあるということは、食料危機が既に地球上の大問題になっていることに気付かなければならない。

 日本の食料自給率は40%以下(カロリー計算上)という。世界中で飢餓が広がりつつある状態の中で、考えなければならないのは、この「食料」である。遺伝子組替え(人工交配を含む)によって、この危機を乗り越えられると説く学者もいる。しかし、死因の6割近くが食料不足にあるという現実を考えるとこの楽観論は心配である。

 日本の農業は就農者の高齢化と兼農の増加によって効率は低下し、世界的な価格競争下で生き残るのが難しくなっている。この傾向をとめるのは農業の規制緩和である。企業の参入を認め、就農者の若年化をはかり、高効率、高回転を取り戻すのである。農業法人の活躍が、休耕田をなくしていくであろう。政府は補助金政策を止め、自主性を重んじながら、農業にも競争原理を取り入れていくことである。農業工場や海洋牧場など数億円から数百億円という投資を呼び込むことにより、日本が近い将来、食料や水の輸出国へ転換できる可能性が残されている。私はマイジュースやマイフリカケを毎日作りながら農業法人が各地に誕生してくるのを夢見ている。

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幸せは目の前にある

平成20年6月2日
幸せは目の前にある

 「ないものねだりをするなよ」とよく祖父に叱られた。友達の持っているものをほしがったからだ。兄弟喧嘩のもとは、相手の持っているものがほしいから起きる。人と人の間、国と国の間でも同様である。アメリカが産油国を攻めるのも、その根っこは「ないものねだり」である。相手の持っているものがほしいからである。すべての争いの源はここから生まれる。

 無一物無尽蔵という考え方がある。真理である。何一つ所有しないということはあらゆるものを所有することと同じである。日本の国家財政は明治維新以来二度破綻した。世界大恐慌の時と敗戦の時である。すべてを失って私達日本人はどうなったか。ドン底から這い上がったのである。世界大恐慌の後、列強といわれた西洋諸国に伍したのである。アジアではじめて先進国の仲間入りを果たした。敗戦の後も同じである。あっという間に世界のトップレベルに駆け上っていった。その間僅か30年である。

 すべてを失うことにより、見えてくるものがある。そしてそこから脱出する為の目標が出来、上る。それに向かって努力する。やれば何でも出来るのである。やるかやらないかそれは私達自身のやる気にかかっている。

 人はみな幸せになりたいと思っている。「幸せになりたい」というのは「幸せでない」ということになる。これはもっともっとほしいという餓鬼根性である。気がつけば、執着を捨てれば自分が幸せに包まれていることがわかる。幸せとは、幸福とは、幸福の青い鳥とはそんなものだ。目の前のもの、目の前の人、目の前の環境を最高と認めることから感謝が生まれる。感謝の日々を送っていると十日もしないうちに本当の幸せを手にすることになる。「幸せは目の前にある」というのは真理である。これを悟るのは凡人でも出来る。それを可能にしてくれるのは「感謝」である。「感謝」の一語に尽きる。

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命の尊さ

平成20年5月26日
命の尊さ

 日本での年間自殺者が3万人を超えている。親が子を殺し、子が親を殺す。人を殺してみたかったと無差別殺人をした子供がいう。これ等のすべてに共通するのは「命の尊さ」を教えない日本の社会の貧しさである。「命の尊さ」は仏教2500年の歴史を超えて、数千年前に溯る自然宗教の中にその真髄が説かれている。そしてまた最新の現代科学によってもそれが証明されている。私達の生活の中で教育という次世代を育てるカリキュラムが不足しているようである。家庭での躾、学校での教育、社会における教育などを再考し、教育ルネッサンスを実現しなければならない。

 「命はすごい」ということを検証してみよう。
1. 私達の誕生の確率は1兆分の1である。これは最大の奇跡である。
2. 私達の細胞の数は60兆個である。単細胞の生物から人間まで細胞という同質のものでずっと続いている。
3. 私達のDNA、ヒトゲノムは32億ヶの文字で書かれている。その文字が1グラムの2千億分の1という超微細なところに書き込まれている。そして常にそれが正しく作動している。そしてすべての生きものはDNAという所でつながっている。昆虫も魚、動植物もカビすらDNAを持っている。

 人と人が殺しあい、にくみあい、争うことがいかに道理に反することかがよくわかる。人に貴賎はなく、あらゆる生きものを慈しむ心を持たねばならない。「命の尊さ」を私達ひとりひとりが自覚し、それを次世代に教えていかねばならない。
イラク戦争での米兵の死者が開戦以来幾千人と発表されているが、私達の日本では、この平和の時代に、自ら命を絶つ人、命を絶たざるを得ない人が毎年3万人を超えているのである。これは政治の貧困、教育の貧困は勿論ではあるが、「命の尊さ」を伝えられない私達の責任も重い。

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情報発信能力

平成20年5月22日
情報発信能力

 日本人のプレゼンテーション能力の低さは世界でも定評がある。残念乍ら私達日本人は日本語という独自の言語文化に埋没してしまっている。その為英語という国際語を駆使して外国人と議論したり、意見を主張するのが苦手である。更に思想も同質性を重んじる風潮が強く、突出するのを嫌がる傾向がある。「男は黙ってサッポロビール」のキャッチコピーがうけたり、レストランでのメニュー選びも殆ど「前の人と同じ」ですませてしまう。この特質が内部にすばらしいものを持ち乍ら、外部へ正しく伝える能力を発揮しにくくさせている。

 日本人のヒーローはスポーツ界や芸能界だけ。政官財界でもヒーロー作りが下手である。ヒーローを好まない傾向が強い。悲劇のヒーローには熱い視線が集まるのであるが・・・。それが企業内でも起きている。トップダウン方式よりもボトムアップ方式が普遍化している。突出した人、異能の持主ははじき出されてしまう。

 しかし日本人のよい所も多い。それはロイヤリティが高い。ブルーカラーとホワイトカラーの差別がなく、平等である。提案制度が整っていてボトムの声が上がりやすい。日本文化に根ざした和と輪の精神、勤勉性、柔軟性、価値観、相互信頼関係、当事者意識、全員参画意識の強さなど世界に冠たるものだ。
これ等の日本の優れた点をグローバルスタンダードに広げていくことによって日本発の特徴のある情報発信が可能になる。日本人は「終身雇用制度」や「提案制度」「現地現場でのTQC活動」など効率を追求する技術革新によって1980年代世界のトップに躍り出た。

 これからはエネルギーと環境と食料である。この三つのテーマを中心として、技術開発をすすめると同時にそれを活用するソフトの開発も併行して実施しなければならない。特に食料は第一次産業とみなされているが、これを第二次、第三次産業化することを考える必要がある。

 日本が情報発信能力を高める最も重要な点は、外国との交流にもっともっとエネルギーと資金を使うべきである。英国のウィンブルドン効果のように、日本を世界に開き、純血主義を排し、外国人の受入、登用に注力したい。そして知識力、記憶力などの評価よりも創造力、挑戦力への評価を高めていくことが肝要である。世界で読まれている書物の中で、日本人の書いたもの、日本について書かれたものがいかに少ないかを考えれば、今後私達のやるべきことが明瞭になる。

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礼儀正しく

平成20年5月20日
礼儀正しく

 私達の会社のスローガンは「世界一礼儀正しく、日本一美しく」である。外国を旅していても、ついつい日頃の習慣が出てしまう。食事の前に両手をあわせて「いただきます」という。食べ終ると「ごちそうさまでした」と口に出す。レストランを出る時も「ありがとうございました」と「深々とおじぎをする」これ等の全ての動作は、外国人から見ると奇異に映るようだ。

 特に「おじぎ」は他にあまり例がない。これは神道や仏教からの影響であろうか。神道や仏教の礼拝の作法がそのまま私達日本人の日常生活に浸透しているのである。

 私達がよくつかう「お陰さま」という言葉も、外国人にはよくわからないようである。私は「あなたをはじめ数多くの方々のおかげで・・・」と表現するようにしている。一般的には「誰のおかげ」かはわからないけれど、「おかげさまで・・・」と使われている。これは「自然のおかげ」か「天のおかげ」か「神仏のおかげ」かわからないが、「おそれおおいもの」のおかげを意味するようだ。

 日本を訪れた外国人達、例えば安土桃山時代の宣教師達や明治初期のお雇い外国人達などは、日本人の礼儀正しさに驚いている。それがいろんな書物に残っていて興味深い。豊かな自然、肥沃な土地に恵まれた農耕民族である日本人は、お互いに和と輪を大切に暮してきた。そこから相手を尊ぶ、相手を立てるという、独特の気風が生まれ、そして礼儀作法が躾の基本となっていったのであろう。

 とに角、私達は出来ることから実行することにしている。世界一礼儀正しいといわれる日本の礼儀の中で、その最も顕著な特徴は「おじぎ」である。この「おじぎ」を深々と、みんな揃って、心から実行することを心がけている。「型から入る」のが日本流である。型を完成する内に、その実行をくり返している内に、「おじぎ」の真の心を私達も把むことが出来る。新入社員も1年もたてば、立派に先輩をしのぐ「礼儀正しさ」を身につけていく。

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夏炉冬扇

平成20年5月19日
夏炉冬扇

 禅の言葉に「夏炉冬扇」という。夏の炉、冬の扇を指す。これを禅では、無用の用として、その価値を認めている。それがあることによって、ゆとりが生まれ、安心するからとの意味がある。一般的には季節はづれの「役に立たないもの」との認識である。禅では正反対の把え方をする。

 私は、創業以来、僅か十有余年であるが、常に自己資本の不足に泣いてきた。そのたびに金融機関に助けられて徐々に業容を伸ばしてくることが出来た。心から感謝している。だが、人はことあるごとに忠告してくれたことがある。それは「銀行は晴れた日には傘を貸すが、雨の日には傘を貸してくれない」というのだ。しかし、上場企業を調べてみると、自己資本比率百パーセントの企業は殆んどない。みんな銀行の厄介になったり、一般投資家からの社債等によって自己資本の不足をおぎなっている。

 夏炉冬扇を借入金というわけにはいかないが、返済のための定期預金であったり、投資有価証券であったり、換金しやすいものと考えることは可能であろう。いずれにしても、そこにあることによって、他に安心を与える存在、それが夏炉冬扇である。

 冬に使ったストーブは夏までかたづけてしまうが、夏に使った扇、うちわは年中家のあちこちに置いている。「夏炉冬扇」の教え、禅の教えをキモに銘じ、時にそれを忘れないために。

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多摩川上流をたずねて

平成20年5月15日
多摩川上流をたずねて

 武蔵野に吹く風にあこがれて、立川駅から青梅線に入る。御岳(みたけ)で降りて、渓流沿いの遊歩道を歩く。新緑がまぶしい。鳥の声に耳を傾け、沢の流れの早さに驚く。水面の色は少し青味がかっている。川のいたる所に巨岩がある。渓流釣りの人々が巨岩の上から釣糸をたれている。浅瀬ではトビが小魚を狙っている。岩を飛び立ち足でつかまえたようだ。岸辺の森へと運んでいった。

 遊歩道沿いのゆず料理勝仙閣で会席料理をいただく。母の日というので義母へのささやかな感謝の食事会である。前回は小澤酒造直営の澤乃井ままごと屋で豆腐ゆば料理を賞味したが、今日は休み。このあたりの食事処は、いずれも旬の味、土地の味を吟味して出してくれる。

 ままごと屋の前にかかる楓橋をわたると寒山寺の名あり。小さな鐘楼の鐘をついてみる。川面にひびくよい音だ。石碑に「月落ち烏鳴いて・・・」の楓橋夜曲の詩が彫ってある。中国の寒山寺で求めた拓本を思い浮かべた。展望台あり。眺めがすばらしい。すべてが小規模ではあるが、心のこもった「おもてなしの心」を感じる。

 このあたり一帯に「水と緑の美しい里」を築き上げた地元の人々の心意気にうたれた。特に澤乃井櫛かんざし美術館、ままごと屋、そして酒蔵を開放している小澤酒造の果たす役割が大きく光っている。川合玉堂美術館や、吉川英治記念館も近く、見るところは多い。無人駅の軍畑(いくさばた)の駅前には風見鶏のついた半鐘あり。すぐ前に立派な旧家あり。多摩川上流沿いに建つ家々は、昔を思い起こさせ、心なごむなつかしさを感じさせてくれる。東京にもこんなスポットが地元の人々に守られ奇跡のように残っている。ありがたいことである。

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蓮如上人の御影

平成20年5月14日
蓮如上人の御影

 北陸は戦国時代より浄土真宗の盛んなところである。特に真宗中興の祖といわれた蓮如上人が吉崎に定住して教えを広められて、尚盛んになった。

 その宗教行事の一つにユニークな「蓮如上人御影道中」がある。毎年4月16日京都の東本願寺を出発した「御影」は徒歩で信者に守られ、福井県あわら市吉崎へ到着する。4月23日夜到着。上人の御忌法要が始まった。5月2日の朝まで毎日4回ずつの法要が行われる。そして京都の本願寺へ帰るのは5月9日の予定である。

 この行事は1752年に始まっている。今迄に行われたのは、335回目ということで、1年1回以上行われたり、何らかの事情で中止となったことがあったようである。

 吉崎には東西両別院が、他のまちと同じように、並び建っており、両別院で法要が別々に同じように行われている。蓮如上人が福井県と石川県の県境にある吉崎で、布教のためここに定住し、多くの信者に慕われ、今なお「御影」が毎年京都と吉崎を徒歩でゆずり渡されながら往来しているのである。「御影」とは軸装された肖像画のことである。

 伊勢神宮の神殿は、二十年毎に隣の敷地に全く同じものが同じように建て替えられる。それが千年も続いているという。そのことと、この「御影道中」の継続は、日本人の信仰心の厚さと同時に、この継続ということに対する日本人のこだわりの強さを感じずにはいられない。

 日本人の花好き、桜好きは有名である。しかし毎年毎年あきもせず花を賞でるのも、これまたこだわりである。桜の花のようにパッと咲いて、パッと散る、その散り際のいさぎよさが、日本人の性格のようにいわれることが多い。しかし農耕民族の持つ、「粘り強さ」「一徹さ」をより高く評価したい。日本人の信仰心の厚さ、地道な努力、そしてその継続性に感動を禁じえない。

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好き嫌い

平成20年5月13日
好き嫌い

 「好きなたべものは」と聞かれると困る。割合なんでもたべるからだ。嫌いな食べものはあまりない。強いていえば硬いものであろうか。歯が丈夫でないから。

 「好きな色は」と聞かれると、これはハッキリしている。赤系統が好きだ。特に最近は赤い色から元気をもらっている。赤い絵がよい。赤いシャツがよい。赤い花もよい。赤い色は暗い赤から明るい赤まで、その鮮度によって大きく表情をかえる。特に赤から黄への段階の色の変化と鮮度の変化は面白い。私は結婚した時、ある商社の役員をしていたので、妻の服装に注文をつけた。鮮度の高い赤い服装は慎んでほしいと。今考えると少し酷な要求であった。最近は地味になりすぎて、反対に「もう少し明るい服をきたら」と要求をしている。我ながら身勝手な自分にあきれてしまう。

 「白」も大好きだ。特にピュアホワイトがいい。外房の家も北鎌倉の家も、永平寺の家もすべてピュアホワイトのテラスを作った。赤い服と同じように純白のテラスは私の心を引き立ててくれる。人はまぶしすぎるというが、そのまぶしさが私は好きだ。雨の日も風の日も太陽が燦々と輝く日も、テラスに出ると気分が変わる。心のスイッチを切り替えることが出来るのだ。

 「高い所」も好きだ。高い所から見下ろす眺望が好きだ。故郷の伊吹山の頂上から眼下の琵琶湖を見ると、湖が近い。そして湖の水がこちらへ押しよせてくるような錯覚をおぼえる。水平線が高く見えるのだ。鎌倉の天園ハイキングコースの見どころは、頂上から見おろす鎌倉の森、そしてまち、その先の相模湾である。絶景である。永平寺の山あいの風景も墨絵の世界だ。眺望が開けている。外房の眺望も悪くない。冬は山が遠く感ずるが、春から夏にかけては森や山がぐっとせまって来る。

 「好きな人はどんな人」その答は簡単だ。「好きな人」とは「好きな人」である。理屈ではない。何となく好きなのである。こんな話がある。小学校に初めて入学した新入生の最初の授業の時、担任の先生が教室へ入ってきた。そして先生と生徒達は、挨拶をしたその瞬間、お互いに相手を好きになるか嫌いになるかが決まるというのだ。この第一印象を変えるには、莫大な時間とエネルギーが必要だという。私は「嫌いな人」を「好きな人」に変えようと努力する。なぜなら、自分が嫌いだと思っていると、相手もこちらを嫌いになる。好きになれば、すべての物事がスムーズに進むのを知っているからだ。私はすべての人を好きになりたい。どんな人にもよい点が、優れた点があるからだ。そのよい所、優れた所を認め、伸ばしてあげたい。人はみな、1兆分の1の確率でこの世に生を受けた。私達はみな選ばれた人なのである。お互いを認めあって、力一杯生きていこうではないか。私は自分以外のすべての人を好きになりたい。

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日本三大珍味「越前うに」

平成20年5月12日
日本三大珍味「越前うに」

 「うに」「からすみ」「このわた」を日本三大珍味と呼ぶ。いずれも海の味の代表であり、極く少量しか採れない。福井はこの「うに(雲丹)」の産地である。北海道産は「えぞばふんうに」といわれ、少し大型で味は油っこい。日本海を南下するにつれて小粒になり、「ばふんうに」と呼ばれる。味は少しにがみが入る。この「ばふんうに」の殻を割り、中の粒うにを取り出し「越前仕立」といわれる「塩蔵法」によって作られたものが「越前うに」である。これを扱っているのが創業文化元年、1804年「天たつ」の社長天野吉壹さんである。その10代目当主に「越前うに」について一夕、話をうかがったので紹介する。初代の五兵衛さんがうにに塩をまぜたところ固まって、赤く発色し、味も変わり、長持ちすることに気付き、福井独特の「塩蔵法」を確立し、大人気を博した。それ以来、松平家の御用商人となった。幕末に松平春嶽公は尊皇の志がつよく、それ迄の屋号「天王屋辰吉」は恐れ多いというので、改名を申し渡され、頂いたのは「天」と「辰」の二字をとり「天たつ」となった。それ以来、「天たつ」を守っているとのこと。

 最近の温暖化の影響なのか、年々粒うにの漁獲量が減っている。うには、漁師の自家用が半分、その残り半分の殆んどを「天たつ」が扱っているが、売るものがないという程、品不足に陥っている。貴重なものなので、桐箱入や漆塗りの小さな器に入れて売られている。最高級品は贈答用に喜ばれる。昔は塩分25%程度であったが、最近では10%程度の減塩仕立になっている。酒の肴に最適であるが、あったかいご飯にのせて頂くのもおいしい。「からすみ」や「このわた」或いは「キャビア」や「トリュフ」などと比較しても、「越前うに」の量は比較にならない程漁獲量、生産量が少く、まさに「海のルビー」といってもよい。鳥取や下関のアルコール漬うにとは、味もコクも全く違う逸品である。福井の地酒で、越前うにを肴に一献傾け。その後こしひかりのあったかいご飯やお茶漬にこのうにをのせていただくと、至福の一時を味わえることうけあいである。

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表裏一体

平成20年5月8日
表裏一体

 ものには必ず表と裏がある。しかし、それは表裏一体と見る必要がある。表は表だけで存在せず、裏も裏だけでは存在しない。それは善悪、吉凶、幸不幸という非物質の世界は勿論、ミクロの世界のプラス、マイナスイオンについても同じである。ということは、目の前にある物質や現象又は心象をそのまま受け入れると同時に、その裏にかくされた対極をも同時に見通すことが求められる。

 人間は弱い。悲観している時には目の前がまっくらになりあらゆるものごとがうまくいかないように思う。その時、その裏にある幸運を把えるチャンスがあることに気付けば局面は大きく変わる。悲観から脱却することが出来る。

 人間は強い。自分の意志によってまわりをコントロールできるのだ。苦しみを苦しみと感じるかどうかは自分次第である。苦しみを次に来る楽しみの前段階と考えれば、苦しみを楽しみに変えることが出来る。苦しみは楽しみに変るのだ。

 現代人はお金に弱い。十人が十人ともお金を欲しがる。しかしお金持ちは本当に幸福な生活を送っているか、それは本人しかわからない。歴史を見ても、本を読んでも、乏しい私の体験から考えても「お金持は幸福である」という結論は出しにくい。反対に貧しいけれど家族が助け合い、支え合っている家に本当の幸福があるように思う。

 貧富は表裏一体、一如と考えた方が正しいと思う。それは幸、不幸も、善と悪も同じなのである。自分の心の持ちよう、考えようによって目の前は明るくなったり、暗くなったりする。明るいと思うもよし、暗いと思うもよし、しかし現実は同じである。常に希望に燃えて前進する人に明るい明日がある。

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東京一極集中

平成20年5月7日
東京一極集中

 「東京は日本か」とよくいわれるようになった。日本の現状とあまりに異なった発展を続けているからだ。辛うじて東京に比べられるのは名古屋と京都と福岡ぐらいであろうか。名古屋はトヨタの本拠地、トヨタ系列の企業の本社、工場が近隣に集まっている。名古屋から全国、全世界に発信されている。

 京都はユニークな都市である。京都に本社を置くユニーク企業は綺羅星の如く光り輝いている。任天堂、京セラをはじめ、日本電産、オムロン、村田製作所、ロームと続く超優良企業がある。更にGSユアサコーポ、島津製作所、ワコール、堀場製作所、日新電機となると古都京都に花開く独自の経営哲学の存在を信じないわけにはいかない。ただ単なる観光都市ではないことに思い至る。

 福岡は九州の東京である。同時に韓国、中国に向けて交流を深めようとする国際交流都市を目指している。「これからはアジア」というコンセプトをしっかり持った地域の形成が進んでいる。

 「東京一極集中の時代」から「地方の時代」へ、「官から民へ」のかけ声と旗ふりは行われているが、実態が伴っていない。特に資金の流れがそうなっていない。

 人口の移動を見ても、その動きは全く逆の流れになっており、東京への回帰が甚だしい。京都を含めて京阪神は人口減である。特に大阪企業が本社機能を東京へ移転する動きがここ数年続いている。

 私達は地方にいて、人口減、需要減の中にある。いたずらに東京一極集中を羨み、わが身を悲観するのではなく、的確な対応をしていくべきである。その方法は「非常識の常識化」である。「黒を白にするアイデア」である。新幹線や高速道路の完成は「ストロー効果」によって地方格差が広がり、地方は益々疲弊するという考えもあるが、対策を打たなければそうなる。私は逆転の発想をする。「地方の魅力」を知れば、東京周辺に住む3,480万人はすぐ動く可能性が高い。なぜなら東京周辺では本当の雄大な自然との共生が出来にくい。「人間は本能的に何を求めるのか」を考え、そしてそれを「準備」して、知ってもらうよう「努力」することである。

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都市への集中

平成20年5月2日
都市への集中

 苦しい時、壁にぶつかった時、悲しみに絶えかねた時、福井県と石川県の県境に立つ石碑の前へ行く。そこに悲しみ、苦しみの極み、「慟哭の碑」が立っている。「大内村碑」ときざまれている。全村水没の悲劇の物語である。昭和58年4月初旬、大内村出身者一同とある。これらはバブルの始まった1983年頃の出来事である。

 敗戦後、日本の人口は早いスピードで増えだし、それは全国へ広がっていった。しかし都市への集中がすぐ始まり、1960年代後半、東京はピークを迎えた。日本の人口の約11.1%が東京へ集中したのである。そして1970年以後は徐々に減少し、10%以下にとどまっていた。前回の調査では東京は28年ぶりに10%を超えたとのこと。前年比0.78%の増加で1,276万人となった。

 この傾向は全国的で北海道の札幌、九州の福岡も同じである。今回の調査で人口の集中は太平洋ベルト地帯即ち首都圏(東京、神奈川、埼玉、千葉県)から静岡、愛知、三重、滋賀と京阪神に向う道路沿で発生している。それ以外の所は、このベルト地帯から取り残された県、ワーストテンは秋田、青森、高知、長崎、和歌山、岩手、山形、島根、鹿児島、鳥取県である。それに続くのが、徳島、福島、山口、新潟、北海道、宮崎、熊本、愛媛、山梨、佐賀県である。北海道、東北、四国、九州(除福岡)は全滅、日本海側も弱い。総務省の見解ではバブル崩壊後の都市の地価が大幅に下落したことにより投資が行われたこと。また大企業の業績回復による雇用が進み、就職や転入が多かったこと。更に外国人の転入もあった。企業立地がベルト地帯で進んだことも大きい。

 14歳以下の少年人口の増加は東京だけとなっている。これは何を意味するのであろうか。子連れ家族の流入と若夫婦の出産である。これは今後の都市での人口増加の必然の流れを意味する。

 65歳以上の老年人口の増加は、すべての都道府県で起きている。私の周辺でも、年をとって身動きが難しくなったら東京へ移住したいと考える人が多い。子供達が首都圏に住んでいるからである。

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笑いの価値

平成20年5月1日
笑いの価値

 成功する人はいつも笑っている。笑顔が美しい人は好かれる。どんな不美人でも笑顔は美しい。笑っている人に不美人はいない。笑顔で挨拶を交すと好印象は倍加する。サービス業は笑顔が第一である。

 お客様に接する時、笑顔で話すのと、普通に笑わないで話すのとでは大差がつく。特に高齢者の場合はなお更である。笑顔は誰でも出来る。いつでも出来る。コストはゼロである。そしてその効果は抜群に上る。誰に対してでも、ひとりでに笑顔になれる訓練、心のトレーニングをすることは、自己研鑽の第一歩である。

 私の会社では社内講師による「マナー研修」を定期的に行っている。最初のうちは笑わない人、笑えない人が殆どである。ところが研修を終ってみると全員が笑えるようになっている。キッカケさえあれば人は変れる。大きく変化できる。やろうとする気持ちとキッカケを作ってやれば、人はすべて笑いの世界へ入っていかれるのである。

 「ちりとてちん」というNHK朝の連ドラで、落語家の世界と福井県若狭地方が放映されたが、その中でも「笑いの効用」が吹聴されていた。落語家は身一つで、何の道具もなしで「笑い」を演出していく。人を笑いの世界へ導いてくれる。落語を研究するとそこにビジネススキルが一杯つまっている。

 日本一美しい会社、世界一礼儀正しい会社を目指しているが、宇宙一笑顔に満ち溢れる会社を作ってもらいたい。美しい会社を作るのもタダでできる。一銭もかからない。直ちに実行できる。そしてその効果は測り知れない程大きい。笑いの価値をはかりたくても、測りきれない程大きいのを感じている。

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電子マネー

平成20年4月28日
電子マネー

 電波による非接触電子マネーの普及は急速に進んでいる。インターネットの世界への浸透は21世紀が情報社会時代だということを明確にしてしまった。更に携帯の普及によって手の平サイズといわれたパームコンピューターを遥かにしのぐ、超小型、超薄型携帯を生み出した。パソコンに匹敵する能力を備えつつある。

 更に車載のETCやカーナビの急速な拡大は、情報を隠蔽することの困難さをともなって、利便性が獲得されつつある。

 JRや私鉄各社における改札口の自動化と共通化が進んでいる。JR東日本では地下鉄や私鉄との相互利用が拡大しだした。それがコインパーキング業界にも入ってきた。私達の会社でもJRの駅周辺の駐車場で電子マネーの導入をはじめている。

 電子マネーの効用は非常に大きい。まずメリットの第一は集金の手間の減少が上げられる。コインパーキングの集金は「コイン」の名の通り、百円玉の山を集めて歩く仕事である。手間がかかり、そして重い。集金だけでなく、検収も送金もコスト高であった。それが軽減されることは私達にとって大きなメリットだ。
更にセキュリティ問題の解決にもつながっていく。盗難や破壊からの予防に役立つのだ。コインパーキング業界全体にとっても有難いことといわねばならない。

 そして情報の他のショップや交通機関との相互利用のチャンスが増える。これまた予測を超えた大きなメリットになろうとしている。

 紙幣やコインの時代から、プラスチックマネーや携帯マネーの時代へ移行しつつあるのを実感している。電子マネー時代に既に入っているのである。

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レバレッジ効果

平成20年4月18日
レバレッジ効果

 てこの応用をレバレッジという。てこを応用して経済効果を高める方法をレバレッジ効果という。例えば県の予算の内、再開発工事に100億円かけるとすると、国の分担が3分の2、県の負担3分の1、即ち33億円の県出費によって、100億円の需要を創出できる。

 中小企業対策の中心施策といわれる信用保証協会の運営についてもこのレバレッジ効果を活用することで大きな効果を期待できる。最近までは県の資金を金融機関に預けて、制度融資を行ってきた。ところが県の資金量には限界がある。そこで利子補給制度に切りかえるのだ。例えば1%の利子を県が補給するという制度を作り、金融機関と契約する。資金は民間資金を100%使う。これにより県の資金は大幅に節減できて多大な効果を生む。

 埼玉県の例を見てみよう。2002年度にこの制度を取り入れて県の資金は前年度比90%節約できた。そしてこの制度の特徴は使い勝手をよくすることによって、民間の活力を生み、貸出しは年々増加していくことである。県の資金を大幅に節約し、なおかつ中小企業を元気にし、金融機関も喜ぶ制度である。

 地元金融機関と信用保証協会そして県との密接な連携プレーによって、地域経済が活性化するためのレバレッジ効果を上げている埼玉県の実情を参考にしてはいかがであろうか。

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源氏物語千年紀

平成20年4月16日
源氏物語千年紀

 昨年は継体天皇即位千五百年祭で盛り上がった福井は、今年また源氏物語千年紀を迎えて活性化しそうである。越前の国府である府中(現在の越前市)へ来た紫式部が近辺各地に残した足跡を明らかし、遠い千年の過去を思い起こそうという試みである。

 京都の桜を楽しもうと、四月上旬から京都を訪れた。その京都は「源氏物語千年紀」でやはり盛り上がりをみせている。「千年の都、京都」と宣伝する京都は平安時代から明治維新まで「京の都」として日本の中心であったことは間違いない。

 中国の北京、南京といわれるように、京都は東京が生まれても未だに「京都」である。千年もの長い間そこで培われた執念を感じるのは私だけであろうか。未だに東京は「東の京」である。「東下り」の言葉は、京都人の心の中に生きている。

 源氏物語は和歌の世界である。平安朝を通して流れるのは「和歌」である。政治、宗教、文学、経済、芸術の各分野の中でも「和歌」との関わりを抜きにしては何も語れない。「和歌」は教養であり、生活そのものといってもよい。十二単衣を頂点とする「襲ね色目」は、奈良時代までの中国大陸からの影響を超えた日本独特の文化となっている。四季の草木の色彩の変化を、「色目」とした美意識はこの時代に生まれた。また雅楽も約1300年の歴史を持っている。唐から直接、または朝鮮半島を経由して伝わったものが進化し定着し今なお各地に伝わっている。源氏物語絵巻も原画は紫式部の頃に描かれ、各時代にそれからも描き続けられ、日本の絵画史上稀に見る大きな影響を残している。「香道」も同じである。香りの世界も源氏物語の各帖に色濃い影を与えており、香り、匂いが私達の生活の原点として既に平安時代に花ひらいていたのを発見する。

 世界一古い人類遺産の「叙情文学」といわれる「源氏物語」に今年は更に親しめる年になりそうな予感がする。

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なぜか長寿。生き甲斐

平成20年4月14日
なぜか長寿。生き甲斐

 福井県は働き者が多い。私が初めて福井を訪れたのは50年前で、それ以来ここを生活の拠点としている。「仕事にホレよ、土地にホレよ、女房にホレよ」と先輩からよく言われてきた。そしてその教えを忠実に守り、何とか生きている。いや生かされている。

 福井県は社長輩出率がダントツの1位である。零細、中小企業が多い。社長は率先垂範、自分で働かざるを得ない。女性の社会進出も全国一位である。3世代同居が多いので、女性は子育てしながら仕事に出かけることができる。失業率も一番低い。働く意欲があれば職場はいくらでもある。高齢者も元気でニコニコ働いている。

 「生き甲斐」とは働くことによって生まれてくる。働く喜びが生き甲斐につながるのだ。私は企業の目的は、働く人達の為の受皿づくり即ち雇用の確保と考えている。その為に企業は生き続けなければならない。そして利益を出して税金を納めなければならない。国民の義務である。また社会奉仕を忘れてはならない。最近ではCSR活動という。この「三つの責任と義務」が私の企業経営の基本にある。それが「喜びの種、幸せの種を蒔こう」や「十方よし」のスローガンになっている。

 「生き甲斐」は温かい家族団らんの中から生まれてくる。愛情を注ぐ相手がいてこそ生き甲斐がある。家族は多いほどよい。大家族には健康長寿の元がありそうだ。みんなでワイワイガヤガヤ、ニコニコ元気にやりあっていると、気がつけば長寿ということになる。

 「趣味」に生きるのも悪くはない。夢中になれることがあるのは幸せである。福井県は海に近く、山に近く、河川は多く自然がいっぱいである。四季のうつろいは全く見事としかいいようがないほどである。ボランティア活動も活発だ。ロータリークラブやライオンズクラブのメンバーの数も人口当たり世界有数である。元気な高齢者が多いので、福井シルバー人材センターの活動は、全国的に有名になっている。生き甲斐がそのまま長寿につながっているのである。

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晋山開堂

平成20年4月10日
晋山開堂

 今年正月に曹洞宗大本山永平寺の第78世貫主宮崎奕保禅師が数え年108歳で遷化された。そしてその本葬と第79世貫主福山諦法禅師の晋山開堂が4月5日、約2,500人の参列者を迎えて永平寺で厳かに行われた。道元禅師以来760年余の伝統の下に、新しい貫主(75歳)を迎えた永平寺は春爛漫の時である。

 近くに住み、道元を崇拝する私は50年前に初めて福井を訪れた時から大本山永平寺とは不思議な縁でつながっている。最初は仕事で永平寺を訪れた。石炭の売り込みである。当時は貨車売りであった。10t車にオンレール渡で納炭した。資材係は直歳さん、会計係は副寺さん、石炭を使っていただくところは典座さん。集金の時、副寺さんの部屋で出してもらうお茶と和菓子のおいしさを今でも覚えている。

 その後私の家族の納骨の折々に京都の檀那寺は少し遠いので永平寺にお願いして分骨していただいた。いつでもお参りすることが出来る。そのことで永平寺はなお更私にとって身近なお寺となった。

 正法眼蔵の勉強も、そんなご縁があって、少しずつ身が入るようになった。立松和平著の「道元禅師」は力作である。道元の生涯を追いあますところがない。正法眼蔵の解釈も教えられるところが多い。インドで生まれた釈迦と中国で生まれた孔子の思想が2,500年を経て今私達の目の前にあることにいつも感謝している。とりわけ曹洞禅は、未熟な私では到達するには高すぎる峰ではあるが、それだけにあこがれの峰でもある。

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渓声山色

平成20年4月8日
渓声山色

 大仏山と剣ヶ岳(それぞれが約800mの標高)の間に発する永平寺川は虎斑滝を経て玲瓏滝を為し、永平寺に至る。山門脇を流れる渓流の音は昼夜を分かたず、あたかも釈迦の説法の如く響き渡っている。

 九頭竜の大河から、永平寺川に沿って東古市、諏訪間、京善、市野々、荒谷と小さな集落を上っていくと志比に着く。そこが永平寺である。渓谷の道は濃い緑に覆われ、まさに深山幽谷の気に満ちている。自然そのものが釈迦の説く仏の如くまわり一面が自分をも含めてその中に抱かれているような感じがする。

 今を去る760年余り前、この地に道元禅師が来た。釈迦は生まれると一手は天を指し、一手は地を指して、四方に七歩周って「天上天下唯我独尊」と宣言したと伝えられている。道元は新装なった山間の寺で「天上天下ここが永平」を宣言。吉祥山永平寺の誕生であった。 

 四季の移ろいを楽しむにはこの山あいの永平寺川沿いは誠によい土地である。晴れてよし、降ってよし、雪もよし、月もよし、花もよしである。この地を「只管打坐」の曹洞禅宗の大本山として修行道場と定めた道元は、公卿の久我源氏家を父に、摂政関白につながる藤原家(松殿)を母に、邦子内親王(後の安嘉門院)を内約の妻としたが、元服式の直前に遁世した。その後入宋し、天童寺如浄禅師の下で修行し、相伝を受けた。そしてこの山中に一切経を蔵し、正法眼蔵をはじめ曹洞禅宗の数々の教規を残した。

 私の愛する永平寺の里は今桜の満開の春を迎えようとしている。道元の修行した大宋の越州とここ越前のくには不思議な符牒合せのように全く同じ越州である。道元の理想境はそれ以来幾星霜を経てなお常にここ眼前にある。

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赤色について

平成20年4月4日
赤色について

 還暦を迎えた時に赤頭布をかぶって神前で豆を撒く。赤いチャンチャコを着て祝ってもらうこともある。赤は元気の出る色というので最近赤を着る人が増えている。

 私も何度か赤いセーターを着たり、赤いチョッキや赤いシャツを着てみたが、確かに元気が出る。赤は太陽の色というが、太陽はエネルギーの源泉であり、地球上のあらゆる生命の母である。だから赤色は力を与えてくれるのであろうか。

 紅白の幕は祝い事に欠かせない。祝儀袋も紅白だ。日の丸の旗も紅白。日本人は紅白が大好きのように思う。企業のロゴも白地に赤字がかつては主流であった。勝ち組の代表トヨタ自動車、コカコーラ、出光興産など紅白のものを上げたらキリがない。

 最近それが変わってきた。青や、緑を取り入れたロゴマークが増えてきている。環境に配慮したものが求められるようになったのであろう。私達のコインパーキングの看板も徐々に規制がかけられるようになってきた。赤色の看板の設置は難しくなってしまった。特に金沢や福井の中心市街地での規制が厳しさを増している。

 色は電磁波の中で、人間の目で見える範囲に存在する。波長を小さくしていくと赤外線になり、可視光線になり、紫外線になってしまう。赤から紫の間が可視光線である。赤から始まる日の出を尊ぶ日本人は、日没よりも朝やけの方を好む人が多い。私もその一人である。

 とに角赤い色からもっと元気をもらってよい仕事をさせていただきたい。

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学習と教育

平成20年4月3日
学習と教育

 ここ数年に亘り、学校の先生方を対象にした「講演会」の講師を頼まれるようになった。教育の現場が混迷を続ける中で、企業の代表者による「社員教育」の紹介や、学校教育の場への「企業活力の導入」を目指したのであろうか。

 教育に関するこんな数字がある。(8年前の中日新聞のギャラップ社調査より。)「子供の教育で最も重要な役割りを果たすべきものは・・・」との設問に対する答は「家庭」「地域社会」「学校」のいずれであるか。調査はアメリカ、中国、日本、フランス、タイの5ヶ国で実施された。

 「家庭」を第1位に上げたのはフランス78%、アメリカ74%、日本74%、タイ51%。「学校」を第一としたのは中国のみで46%(家庭は45%とほぼ同じ)。タイは26%、フランス13%、アメリカ12%、そして日本は何と5%であった。日本では学校教育への期待が殆どないということになる。反対に世界的な傾向として、「家庭教育」への期待の大きさは異常なほどである。

 「教育」は「学習」させることである。「学ばせる」「習わせる」ことである。「学ぶ」とは真似ること。「習う」は慣れること。これが教育の根幹である。「家庭教育」は父母や祖父母の生き方、考え方、あらゆることを真似ることに全力を集中させ、くり返しくり返しそれに慣れさせることである。「学校教育」は教師や上級生、同級生の生き方、やり方などを真似て、それに習熟させることである。

 学力偏重の考え方が学校教育で云々されだした。私は学力などは枝葉末梢のことと思う。そんな薄っぺらな知識は、後でいくらでも身につく。幼、少、青年期に身につけておくべきことは生き方、考え方、やり方など人間として知っておくべき基本的なことである。「他人への思いやり」や「命の尊さ」、「愛情の尊さ」、「話し方」、「礼儀作法」など知識の前に身につけておくことが大切である。

 福井の駅前で私が主催するデジタル地球大学やフェニックス研究会に全国の有名大学から斯界の講師を招いている。必ず私も出席してその講演を聞かせていただいている。それぞれテーマを持った研究会である。 デジタル地球大学は「環境」がテーマ。フェニックス研究会は「まちづくり」がテーマ。双方あわせて50人以上の講師に福井へ来ていただいた。日本のトップレベルの先生方から「学習」する機会をもらっている。それを身につけてみんなの為に生かす道を考え、勇気を持って実行していこうという研究会である。この年になっても「学習」することはできる。そしてその「学習」を生かすこともできる。どんどん長期間化する教育の現場の中で、本当の教育が行われているのかどうか。私の不安が杞憂であればうれしいのだが。

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失われた日本

平成20年4月2日
失われた日本

 生まれてはじめてパスポートをとって行った外国は台湾であった。台北市内は、異国情緒あふれる中国人町であった。中華料理や南洋産フルーツなどを売る屋台の並ぶ喧噪のまちであった。ところが台中や台南へ行くと、そこには古い日本の田園風景が広がっていた。驚いたことに、日本語で話しかけてくる老婆がいた。とても礼儀正しく、私の祖母のような雰囲気を感じた。

 これと似た感じを受けたことがある。韓国の釜山から馬山へ行く途中である。未舗装の砂利道をタクシーで走り、休憩に入った店の中である。女と子供ばかりの5人ほどの家族が、床几を路傍に並べて店を開いている。出てきた老婆が流暢な日本語で話しかけてきたのだ。まわりの景色も私の子供の頃と同じ、のどかな田園風景である。

 この二人の老婆から受けた印象は、決して豊かではない生活の中でも、礼儀を失わず、笑顔を浮かべ、旧知のごとく親しみをこめて挨拶が出来るすばらしさである。外国の田舎で、日本語で話しかけられた驚きもあったが、ほのぼのとした温かさを感じた。日本へ帰ってからもこの思いは心に長く残った。最近の私達は旅人や他人への思いやりの心を忘れてしまっているように思う。二人の老婆のような温かさ、優しさはどこへ置いてきてしまったのであろうか。

 「自分がしてもらいたい事を、他人にしてさしあげよ」と祖父母から教えられた。「人にものをあげると思うな。もらっていただくと思え」その底を流れるものの見方、考え方は、相手の身になれているかどうかである。立場を置きかえてみると「やるべき事」が明確になってくる。それは「おもいやりの心、おもてなしの心」という日本人の美徳である。

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恐竜博物館

平成20年3月31日
恐竜博物館

 約3万屬量明僂鰺する「福井県立恐竜博物館」は県民の宝であると同時に、日本全国へ、そして世界へPRしていく価値のあるすばらしい施設である。恐竜の研究はまだ始まったばかりの新しい学問である。恐竜学の研究メッカとして、この博物館が世界中の研究者や学者を集める環境を作ってはいかがであろうか。恐竜の時代は2億年近くも続いている。そして地質学と密接な関係にある。私は恐竜研究は環境との関連において、環境学としてとらえたいと考えている。巨体を維持する方法や進化の過程を地球環境との比較をしながら研究していくと新しい学問分野が生まれてくる。

 ディズニーワールド近くに住んでいた私は、開園以来、ディズニーランドの累積投資が次々と行われていくのを目のあたりにしていた。魅力のある施設を作り続けていくのである。その前提は来客数の増加である。京阪神や中京地区へのPR活動はどうなっているのであろうか。よく仕事で出張するが、ポスターの一枚も見たことがない。これ程のすばらしい施設をPRする工夫をしたらいかがであろうか。

 アニメーションの世界と連携するのもよい方法である。サッカーチームの「サウルコス」もよい考えであるが、漫画家と提携したり、童話作家や画家とのコラボレーション、映画制作会社と提携したり、コンピューターグラフィック会社と提携したり、夢はいくらでも広がっていく。

 勝山市は市制を敷いて以来人口の減少に悩まされている。しかし、風光明媚な土地柄である。福井県最大の観光メッカに変身する可能性が大きいことを指摘しておきたい。

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福井の女性は働き者

平成20年3月28日
福井の女性は働き者

 総務省の発表によれば2007年の福井の女性の就労率は例年どおり、全国一である。働く場があるのである。福井県は社長の数が日本一多い。ということは、零細・中小企業が多い。三世代同居も多いので、みんなが働いていても違和感がない。

 私の一族では78才の義母を除いて全員が職を持っている。働くことは楽しいとみんなが心からそう思っている。当然仕事以外の時間は節約せざるを得ない。テレビ等を見る時間は少ない。休養の時間も少ない。趣味・娯楽の時間も少ない。これは私の家族だけでなく、福井県下の女性すべてにあてはまる特長である。

 そして、通勤や移動に費やすムダな時間は少ない。働く為にいろいろな工夫をしていることがよくわかる。「生きる」ということは、「働くこと」であると私は思っている。「働けること」は人生の努めであると同時に最高の喜びである。

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恐竜博物館

平成20年3月26日
恐竜博物館

 世界三大恐竜博物館は「福井県立恐竜博物館」とカナダの「ロイヤルティレル古生物学博物館」と中国の「自貢恐竜博物館」である。カナダは1985年開館、中国は1986年福井は2000年開館。お互いに情報交換を行っている。当時の自然を再現した植物園を作ったり、石こうを使った化石標本を作ったりと、子供の教育にも力を入れているようだ。
 
 「福井県立恐竜博物館」は全国で発掘された恐竜の化石の約8割を占めているという。まさに恐竜王国ふくいの名にふさわしい。そして勝山市は九頭竜川に面した町である。「フクイラプトルキタタニエンシス」はカルノサウルス類に属する肉食恐竜で二足歩行していた。ほぼ完全な形で発掘され、日本初の全身骨格である。「フクイサウルステトリエンシス」はイグアノドン類に属する草食恐竜。全長約5mと推定されている。学芸員の指導による恐竜化石の発掘調査に親子で参加する機会も用意されている。
 
 地球の歴史は46億年前にはじまり、先カンブリア時代といわれる40億年間の長い無から有への時代があった。次の古生代といわれるカンブリア爆発のあった3億年余りの時代が続いた。そして中生代といわれる恐竜の時代が2億年近く続いたのだ。地球は恐竜の星といってもよい程、彼等は永い間地上を支配しつづけたのである。人類は誕生以来まだ数万年しか生存していない。そして早くも自らの失敗によって亡びようとしている。恐竜の研究を通して彼らがいかに地球環境の変化にうまく対応していったのかを学びたいものである。

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花について

平成20年3月24日
花について

 生活の中で「花」が占める重要性が年々増してきた。ミシガン大学にいる頃、ホームパーティーへ招かれると殆んどの人は「手作りの料理」を持参する。或いは果物を持ち寄る。フルーツポンチを作るのだ。そして、私は花屋さんで花を買っていった。花を持参するのは、手間暇をかける時間と余裕のないものである。30年以上も前のことである。
 
 日本では訪問時に「花」を持参することはあまりなかった。入院患者をお見舞いする時以外は、その習慣がなかった。ところが、最近では日本でも「花」をいただくケースがふえてきた。誕生祝や新築祝は勿論、いろいろ理由を見つけて「花」を送りあう。花ビジネスは少しづつ成長を続けている。
 
 日本の国の花は「桜」で、福井県の花は「水仙」、福井市の花は「あじさい」である。各県、各市がそれぞれの花を決めている。誕生月によって「誕生花」がある。私は3月生まれなので、私の誕生花は「チューリップ/スイートピー」そしてその花言葉は「愛情/喜び」。花に親しむのは心が安まる。花を育てると、花の命の貴さに気付かされる。春の花は黄色が多い。それが桜色になり、日本列島が桜で満ちあふれる。私達が地上まれなすばらしい国に生きているのを実感する瞬間である。春宵一刻、値い千金である。

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恐竜博物館

平成20年3月19日
恐竜博物館

 福井県は日本一、世界一といわれるものを数多く持っている。その一つが「福井県立恐竜博物館」である。日本で唯一の恐竜を専門とする博物館である。福井からR416を車で出発して約30分、左手に大きな卵形の建物が見えてくる。勝山市村岡町にある敷地面積約3万屬稜酳館である。建築設計はあの黒川紀章氏による。三階入口から地下一階までの吹抜けの無柱空間はすばらしい。すぐ近くの勝山市北谷の手取層群から発掘された恐竜の骨格をはじめ、化石や標本が陳列展示されている。恐竜の中で、日本で発掘され特定されているのは「フクイラプトル」と「フクイサウルス」だけである。今なお毎年新しい発見が相次いでいる。
 
 この手取層群という地層は岐阜県、富山県、石川県、福井県とほぼ4県にまたがる地域にある。そして、各所で恐竜の卵や骨、歯、足跡などが発掘されている。
 
 この博物館の展示は「恐竜の世界」「地球の科学」「生命の歴史」の3つのゾーンに分かれて構成されている。巨大な復元模型、迫力満点の大型ジオラマは、大人も子供も楽しめる。研究者にとっても十分満足できるものだ。
 
 音響効果、照明効果もよい。また、30体以上の恐竜の骨格はその大きさに圧倒される。動くように作られた恐竜の数々に子供も大人も大喜び。春の一日を十分に楽しめる要素のある博物館である。

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食育

平成20年3月18日
食育

 教育の基本は躾にある。躾が幼児期や成長期に十分出来ていないと禍根を残す。特に躾で大事なのは食育である。食事中のマナーに始まって、食べ物の選び方、そのバランス、そして食材の産地やその特性など、食育の範囲の広さ、その深さは大変なものだ。この食育がうまく出来ると家庭での教育はほぼ卒業である。

 ところが家庭で「食育」が成功した例が、最近では少なくなった。それは世帯の構成人数の減少により、親がその父母からの十分な伝承を受けていないためだ。また家族団らんの時間が殆どなく、子供がひとりで食事をすることが多い。小中学生の4割が1で朝食を週1回以上食べているとのデータがある。これでは食文化を伝える食育の機会はない。
 
 福井県では全国に先駆けて、2004年度より小学校中学校に栄養教諭を配属し、指導に当たらせている。「ふくい食の安全安心行動計画」に沿って行っている。2008年度からは「食育推進計画」を推進する「検討委員会」を作ることになった。「生産者と消費者のつながり」を重視し、「食の安全」を確保しようという地産地消運動につなぐとのこと。生産者の高齢化に伴い、農漁業に従事する生き甲斐、働き甲斐を見失ってきておりその意欲を高める為にも消費者とのつながりを持つことが望ましい。
 
 福井には他の地域にはないすばらしい食材や食文化の歴史がある。日本食の特徴はアルカリ性で抗酸化力の優れた野菜を食べること、繊維質の多い穀物を食べること、肉は少なく、魚を多く食べること、地産地消の旬のものを食べることであった。それを次世代に伝えることは大いに価値があり、やらねばならないことである。人間以外の動物は、眠る時間を除くと、殆んどの時間を、この食べる時間に使っているという。食べるということは人間にとって非常に大切なことのはずである。食育についてはもっと深く考えてみる必要がある。教育の根幹なのである。

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ああ、天、われをほろぼせり

平成20年3月17日
ああ、天、われをほろぼせり

  この言葉は孔子の発言として伝えられている。今から約2,500年前のことである。最愛の弟子、顔回が41歳の若さで死んだ時、孔子はこの言葉を2回発している。そして声を出して動哭したという。よほどつらかったのであろう。

 四哲といわれるソクラテス、孔子、釈迦、キリストは、それぞれ多くの弟子を持っていた。そして、その後の研究によって後世に残る至言の数々が伝えられている。しかし、私はこの孔子の言葉ほど強いものは知らない。父なる天が孔子をほろぼしたと嘆いているのである。その悲しみはいかほどのものであったのか。孔子は弟子達が自分を乗り越えていくことを願っていた。そして期待していた一番見近い顔回の死に遭い、絶望感に打ちひしがれた。
 
 孔子は乱れに乱れた世の中をよくする為に、黄河流域から中国各地を歴訪した。その旅の距離は長く、そしてそれは殆ど生涯を費やした長旅であった。各地の国を治める国王の師として、理想の政治を行う為の旅である。自分の意志を継ぐべき弟子をつれての旅でもある。旅の途中、いたる所で孔子の教えが繰り返される。清貧の中、粗衣粗食の中、厳しい教えが伝えられていく。
 
 顔回の死後、孔子は変わった。規律の中に生きるより、弟子の器量にあわせ、自由に解き放つ指導へと変わっていく。新しい「論語」の世界の誕生である。512章の論語は孔子の至言を弟子が集めたものである。孔子の没後、数十名の弟子は師の墓前で服喪した。三年間続いた。更に「子貢」は一人、三年墓を守った。各地に散った弟子が論語を完成させていくのに多くの年月が費やされた。今我々は2,500年を経て、論語のおかげで孔子の弟子になることが出来る。後に続いた孟子等をあわせて中国、朝鮮、日本その他周辺の地域へ儒教は大きな力を与えていっていいる。そして道徳の基礎として定着している。

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廃校のそばやさん

平成20年3月14日
廃校のそばやさん

 房総半島の勝浦市から内陸へ車で少し入って、狭いトンネルを抜けると別世界が広がっている。かつて幼少の頃、夢にまで見た林間学校の雰囲気なのだ。のぼり旗がアチコチに立っている。「手打そば」と書いてある。車を乗り入れていくと小学校の校庭に出る。「老川小学校」とかかれている。
 
 周囲を大木にかこまれた林の中の陽だまりになっている。3月初旬というのに春のような温かさだ。校庭では観光客らしい親子が何組かボール遊びに興じている。案内を乞うと近所の人らしい人が受付に腰をおろしている。「前金です」という。かけそば、もりそばとも600円。そば打ち道場で教えてもらうのは別料金である。教室に入るとタタミが敷きつめてある。昨日まで教室として使われていたかのように、壁には絵や習字、表彰状などがはられている。そばを注文した観光客はセルフサービスのお茶をのみながら、子供の頃にタイムスリップしてしまう。聞けば、この老川小学校の校下は35戸しかない。今は小学生がいなくなり廃校になったという。土日と祭日に近所の人達がにわかそばやを開業する。その時だけ沿道のアチコチにのぼり旗や案内看板を立てるとのこと。手打そばは二八そばでおいしい。ダシもからすぎず丁度よい。タマリ漬の大根がおいしい。そばと大根の合い性はよい。
福井の「おろしそば」は有名だ。特別にから味大根を使う。一度たべるとやみつきになる。健康によいのは広く世間に認められている。健康長寿食である。
  
 おみやげに名物の大根や千切り、タマリ漬の大根を買って帰る人が多い。素朴な味と廃校のそばやの雰囲気がよく似合う。山間の小さな学校であるが、地域との共生の例として面白い。地元の人々も楽しそうに働いている。観光客との会話もはずむ。思いがけない体験をしたドライブとなった。帰りの田畑では野焼きの煙が立ち昇っていた。

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禅宗と茶道

平成20年3月12日
禅宗と茶道

 禅宗は鎌倉時代に中国から伝えられた。曹洞宗の道元、臨済宗の栄西が有名である。その禅宗思想の中に、「茶禅一如」「一期一会」など禅と茶道との深い関係を示す言葉がある。

 少し茶道の歴史をたどってみよう。室町時代に一休が「茶礼」という「茶の喫し方」について精神的な裏付けを行った。そして一休の弟子村田珠光が、茶道の基礎を固めた。その後武野紹鴎らが現代の茶道の基礎づくりを行い。千利休がそれを完成の域に高めたとされている。利休以前の人達は、茶道の祖、「茶祖」といわれている。

 茶道はその後「わび」「さび」など、日本独特の美意識を育み、武家や町人の間に広まっていった。新しい日本文化の誕生である。その裾野は広い。建築、作庭、茶道具、美術、工芸など日本独特の文化といわれるものの殆どを包含しつつ発展を続けてきた。香道や華道、書画、骨董などとの融合も進んだ。禅宗という精神的なバックボーンを持ったことにとどまらず、日本精神を身近に感じることができる。

 更に懐石料理は茶懐石として禅宗の精進料理を元に広がった。今では茶懐石としてではなく、独自の日本料理として世界でも稀有な絢爛豪華な食事作法に到っている。健康食としても世界一流である。

 禅宗の教えの基本である「座禅」は自力本願を象徴するものである。茶道での閉じ込められた「茶室」という極小の世界での「決まりごと」はその自力本願に通ずるものである。一連の「お点前」という行為の中に、無意識のうちに「悟り」を開くことの可能性すら感じられる。ただひたすらに「座禅」を続けることと、無心に「お点前」に打ち込むことと、そのいずれにも「悟り」への道程を感ずるのは私だけであろうか。

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エネルギー変換

平成20年3月11日
エネルギー変換

 重力はニュートンが発見した。引力ともいう。地球のように大きい質量を持った物体は引力を持っている。その引力によって地球上の空気も水も動植物もあらゆるものが地上にとどまっている。

 宇宙船に乗って地球を飛び出すと、地球の引力に逆っていくので大きなエネルギーを必要とする。そして大きな重力が働く。ところが、宇宙空間(地表から僅か300km)に出て地球を周る軌道に乗ると、重力から解放される。身体も空間を遊泳しだす。即ち宇宙空間では重力からの影響が小さくなるのである。

 重力から解放されるもう一つの方法がある。超電導現象である。磁石の反発力を利用すると物体が浮遊しはじめる。常温では常に電気を流し続ける必要があるが、温度を下げていって絶対温度(−270℃)になると、一度この状態になると、完全に重力から解放されたかのように反発したまま浮遊し続ける。この常温による原理を利用するのがリニアモーターカーである。

 重力から解放される次の方法はないのだろうか。ヒントは紙ヒコーキにある。手作りの紙ヒコーキを作った経験は、みんなが持っている。滞空時間を競う「紙ヒコーキ大会」がある。優勝するのは滞空時間1時間という奇跡的なものまである。微風のドームで行われるので、風の影響は少ない。紙であるから質量は極少にできる。浮力をつける工夫が必要である。最初は手で飛ばすので推進力は小さい。それが飛び続けるのはなぜなのかをもっと考えてみる必要がある。

 地球には極と極を結ぶ地磁気がある。目に見えないパワーが放出されている。まだ私達はこの地磁気の活用についても研究が進んでいない。太陽からの光や熱は莫大なエネルギー源である。地球にあるエネルギー源の数千倍のパワーがある。全人類の消費する1年分のエネルギーは、地表に達する太陽エネルギー1時間分(桑野幸徳氏の説により)といわれる。この太陽光や太陽熱を利用した発電方法もまだ未熟である。太陽電池の研究は僅かに数十年に過ぎない。21世紀はエネルギーが変換しなければならない時代である。新しいエネルギーの使い方が生まれることを期待したい。そのキーワードは常温による超電導、紙ヒコーキ、新しい太陽光熱発電、そして地磁気である。

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ミクロの不思議

平成20年3月10日
ミクロの不思議

 宇宙を研究する科学者は数億光年という単位でものを考える。46億年前に生まれたという地球を研究する科学者は数億年という単位だ。人類の歴史は先人時代を併せても数万年にすぎない。人間が人間らしい宗教や哲学を持ったのは僅かに数千年前である。世界史や日本史を勉強していて感じたのは、私達の歴史の短さである。そしてその発展というか、変化のスピードの加速感である。そこに人類の未来に対する不安を感じる人も多いことであろう。

 ミクロの世界をのぞいてみよう。2500年前に数々の言葉を残した釈迦や孔子は「生々流転」「輪廻」を説いている。大河の流れのように人は遥かな祖先から子々孫々までつながっていくと説いている。この考え方はごく最近の生物学の分野で面白い学説となってきている。地球上の元素総量は等しいという前提である。そして食物を口にすると、分子レベルに分解され、タンパク質とアミノ酸になり、既存の細胞の中に入り、タンパク質となる。そしてそれを繰り返すので細胞の中身は刻々変るというのだ。

 ミクロの世界は細胞レベルの段階から分子、原子の極小世界に入っていくと、私達の常識を遥かに超えた事象に出会う。動物や植物、魚類等を食べて生きている私達が、毎日輩出しているものから動、植物等にまた取り込まれていっているというのである。

 原子の世界では陽子と陰子中間子などがまわっている。これは生物、人間そして宇宙まで考えてみると、一連のみえざる手の存在を考えた先達の多いのに今更のように気付かされる。「無宗教」という若者に、何をどう教えていけばよいのか、まずミクロ世界からはじめてみようではないか。

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目利き

平成20年3月6日
目利き

 骨董の世界で「目利き」と呼ばれる鑑定人がいる。また世界中の有名作家(故人)の作品に対してその真贋を判定する鑑定人がいる。永年の経験と豊富な知識に裏打ちされた「鑑識眼」を持った人である。それぞれ専門の分野があることは言をまたない。白洲正子さんの「青山二郎」を読んだ。青山二郎さんの鑑識眼に興味を持った。そして青山さんの数少ない書物を読んでみた。「目利き」として盛名を馳せた彼らしいキラキラとした輝きを発見したが、お付き合いの難しい人のようである。

 目利きの要諦は、一切の先入観を捨てて、見ることにつきる。そして本物を見る、数多く観ることである。「直感力」という感覚、第六感を磨きあげていくことである。「民芸」という新しい芸術運動を起した柳宗悦先生は朝鮮の李朝の青磁の中に真の美しさを発見した。名もない無銘のものばかりである。かつては絵画も陶磁器もガラス工芸も彫刻もすべて集団での作品であった。工房作であった。それが現代に至って個人作家の孤独な作品が評価されるようになってきた。柳さんは逆に無名の集団による生活必需品の中に、力強い美、素朴な美を発見した。

 日本で最も有名な茶碗は「喜左衛門井戸茶碗」といわれている。堺の喜左衛門という商人が所有していたとの伝えがある。その後、細川家に伝わり、松平家、徳川家そして天皇の御物となり国宝となった。

 今は大徳寺にある。おそらく作者は朝鮮の名もない陶工であろう。この茶碗を柳先生は見たという。その感想は「この茶碗を大名物として発見した茶の先達の審美眼と見識に感心させられた」とある。「茶の心がこの茶碗を通して冴えていた」と表現している。目利きの目利きたるゆえんを語る名文句である。

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自我

平成20年3月5日
自我

 現代人の不幸は、自己の力を過信する「自我」から来ている。敗戦までの日本人は自我を埋没させることにあまり疑問を持っていなかった。戦後の民主主義教育の中で自我の尊重が叫ばれるようになった。個人主義の台頭である。自分の意見を持つこと、自己を主張することから始まった。ところが生半可な自我では、早晩どこかで挫折するか、わけがわからなくなるか、病的になるか、結局行き詰ってしまう。中途半端な自己中心の「自我」は本来の強さを持ち得ない。

 禅宗や、真言集、天台宗などの自力本願といわれる仏教の修業の内容を調べて見ると、自力によって最終的な悟りの境地に到達するのがいかに難しいかよくわかる。それは至難の技である。何の修業もせずに自分を大切にすることを教えられ、与えられたところから現代人の不幸は始まった。「自我」の確立には幾通りもの道があるが、そのすべての道は険しい。その険しい道を悩みながら苦しんで歩き続けてやっと辿り着くのが悟りである。

 百人に一人、千人に一人の苦難の道である。暖衣飽食の生活からは決して得ることの出来ないのが悟りである。

 浄土宗や浄土真宗は他力本願といわれる。自己の力でなく仏の力で救われるという。学問もなく、お経の内容もよくわからない人でも、不思議なことに宗教的な悟りに達していることがある。生涯を通じて仏の道を踏み外すことなく、生き乍ら仏の道を歩いている人がいる。そこには「自我」は存在しない。もっぱら他力、仏の力を信じて生きているのである。自己の力の過信など全くありえない。

 現代において「自我」の認識の重要性を否定するものではないが、「自我」を、自分勝手な利己主義と混同していることを指弾したい。利己主義は人を破滅に導く。生けとし生きるものはみなお互いにかかわりあい、助け合って生きているのである。人間も動物も植物もすべての存在は相互扶助の世界の中にある。「自我」の認識は「他者」への愛の下になければならない。

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起業家

平成20年3月4日
起業家

 59歳で起業した私に、作家の鶴蒔靖夫さんから声がかかった。「起業」についての本の出版である。彼が書いた「コインパーキング」に関する本は既に十年前に出版されていた。その本を読み、啓発されることの多かった私は、鶴蒔さんのお誘いを断った。その時「コインパーキングの本」でなく、「起業」しようとしている団塊の世代への「応援歌」を書きたいと誘われた。団塊の世代が今定年を迎えつつある。その人達は500万人とも700万人ともいわれる。その10%の人達が起業に興味を持つとすれば、それは50万人〜70万人になる。50万人からの人にとって何か参考になるのであればと決心し、取材に応じることにした。そして約1年前『夢への始動』という小冊子が完成した。鶴蒔さんと私達から送る団塊世代への心からの応援歌である。

 資本主義の経済界にとっては、諸々の理由による廃業は宿命として真摯に受け止めなければならない。避けることは難しい。その為に廃業を上回る起業が、経済発展の原動力である。ところがこの大切な「起業」が日本では少ない。先進国の中で最低レベルである。全企業の中に占める新興企業の比率は4%である。アメリカは14%、ヨーロッパは10%である。この4%という数字がいかに日本は起業家が少ないかを表している。これはベンチャーキャピタルの面でも顕著に表われている。年間投資額は約2千億円。アメリカの1割に過ぎない。そして日本のベンチャーキャピタルは、アーリーステージという初期段階の起業家への投資は少ない。大企業に近づいた、体制の整った、上場前の企業への投資を好む傾向が強い。

 しかし時代は変わる。アメリカでも、中国でも、インドでも勿論ヨーロッパでも、最も優秀な学生は起業家をめざすといわれる。社会的な風土の異なる日本においてもいずれ「起業家」に対する評価は大きく変ってくると確信する。「出る杭は打たれる国」から「若い芽を伸ばす国」への変化である。国の施策も変わりつつある。1円起業の承認、エンジェル税制・ストックオプション採用など新しい考え方が次々と発表されている。日本経済が1980年代の輝きを取り戻す為の早道は、起業家の輩出である。そしてそれが正しい道である。社会全体が起業家を待望し、育成し共に喜びあえる時代の到来を待っている。

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偽善者

平成20年3月3日
偽善者

 哲学や宗教の中でよく使われる言葉で「偽善者」がある。ほんものの善人でないのに、さも善人であるかのように振舞う者。或いは善行に見せかけて実は自分によいことを行う者。上辺だけ、外面だけを繕う者、これ等を「偽善者」という。

 私は中学の頃この「偽善者」がとても気になった。私は実は「偽善者」ではないかと真剣に悩んだことがある。そして悩んだ末に得た自分なりの結論は「私は偽善者というより、偽悪者である」であった。よく考えてみると、世界中に偽善者の国は非常に多い。アメリカもイギリスもかつて世界を席巻した西欧諸国は殆どが偽善の仮面をかぶっていた。第二次大戦後のソビエト連邦、中国もその傾向があった。即ち武力を背景にした侵略である。19世紀から20世紀にかけては、侵略による植民地の時代といわれていた。日本も50年にわたる台湾、36年にわたる朝鮮統治の経験を持っている。満州国の建国もその一連の流れの中にある。そしてアメリカ、イギリスが今なおこの植民地を地球上に持っている。世界の警察官を自称するアメリカ、民主主義を強要するアメリカ、そしてそのバックアップを常にするイギリス、これを見ていると、そこについ偽善の仮面を思い浮かべてしまう。

 反対に日本人は偽善者になり得ない。第二次大戦の悪業を言い上げされるとすぐ「ごもっとも、ごもっとも、申し訳なかった」となってしまう。人類の歴史の中で、日本ほど他国への侵略をしなかった国はない。人口1億人もの大国(相対的にいうと人口でも国土でも日本は大国の分類になる)の日本が、他国を攻めた事実は誠に数少ない。これは誇るべきことである。日本は本来「平和の国」である。日本の歴史、文化、風土どこを見ても外への侵略の跡はない。

 偽悪者の日本、恥ずかしがりやの日本、日の丸、君が代、原子力に対する過剰アレルギーの日本、もうそろそろ目をさまそう。政治家も外交官もそして私達も一日も早く自信を取り戻そう。「日本は世界一のすばらしい国だ」ということを世界に向けて発信しよう。いや既にもう世界中の国々はそれを知っているのかも知れない。それを知らないのは日本人だけなのかも知れない。

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国の根幹は教育

平成20年2月28日
国の根幹は教育

 国家の品格がベストセラーになった。「品格」の文字がついた本が次々と売り出されてくる。誠に恥かしいことだ。人にとって、何が大切かと問いたい。「人品」である。「人格」の優れた人「品性」の高い人になること。これが人間としての修養の道である。人の猿まねであってはならない。

 「人品卑しからざる人」になる為には教養、知識そして幾多の経験を積み重ねていくことが必要である。それは社会的な地位や名誉や富貴ではない。ましてや血筋や財宝では断じてない。最近の拝金主義、金銭至上主義の風潮は、憂うべきことだ。豊かさに馴れすぎた結果であろうか。

 私の会社の社外取締役の一人から「ある大学のある学科の受験生が7割減になってしまった」という発言があった。「3割減でなく、7割減だ」という。大学全入時代の弊害が予想よりも早く現実化しそうだ。私学なので定員を1名でも割ると補助金がゼロになるという。このルールの不可解さはあるが、大学にとっては大変だろう。全入時代という「インフラ整備」に力を入れすぎた教育行政は曲り角に来てしまったようだ。

 インドや中国、韓国の大学の話題がよく出る。日本とは大きく違って勉学意欲にあふれた学生で一杯だという。日本の大学の日本人学生は怠惰で無気力でダメだという。これは日本で学んでいる外国人留学生の意見である。尊敬できないというのだ。

 中国における日本語能力試験1級の受験者は、2006年約6万2000人であった。30年後には日本人と同程度の日本語を話せる中国人が200万人を確実に超える。

 この日本と中国との差は一体どこから来るのか。日本人学生の無気力、低能力(敬語の使えない学生、会話の苦手な学生が多い)に対して、彼等の意欲、能力はどこからくるのか。私はここ20年程の教育に問題があると思っている。バブル崩壊前後からの教育の荒廃がこの状況をもたらしたと考えている。根本は家庭や社会での躾の放棄である。一番大切な躾が出来ていないからである。獅子は愛児を千仭の谷に蹴落とすといわれる。強い子に育てる為である。少子時代の日本では、この厳しい躾が出来ないのだ。母は子を守るために暖衣飽食で育ててしまう。親の厳しさ有難さを教えず、我が儘一杯の子に育ててしまう。子にとって両親は最も大切な教師でなければならないのに、そこで過保護状態を作ってしまう。子にとっては地獄である。先生であるべき人が、悪の道の道案内人になってしまうのであるから。そして最も困るのが子供を自分の所有物と思い違いをする親が多いことである。子供は社会のものである。国の宝である。親は子を一時預っているだけである。自分のものでは決してない。

 親が子に教えることは、人にはそれぞれ役割があるということである。「自分の役割」をしっかり見定めて自分の道を一人で歩いていけるようにすることが大切である。子は母に抱かれ、父の背中を見て育つといわれる。しかし母はいつまでも抱いていては困る。父も背中を見せないのは困る。弱い子を作るな、強い子を育てることだ。優しい子を育てよ、他人に優しい子は、本当はシンの強い子なのだ。家庭が、社会が、企業が次世代を育てることにもっともっと知恵を使い努力をしていかなければならない。それが日本のためであり、世界のためなのである。

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平成20年2月20日

 2月も半ばを過ぎて紅梅が咲き揃っていたところへ、突然(という感じで)雪が降り出した。2年続きの少雪かと油断していたので驚いた。日本海側より先に、太平洋側の諸都市に大雪が降り、その後で福井にも雪が来た。

 ヒマラヤの氷河や北極南極の極氷が融けだして。地球温暖化が心配されだした。高山の氷河や積雪は徐々に地下へ浸透し、伏流水となって河川に集ってくる。その水が森を育て、平野を潤し、動植物の命を保って海へ注ぐ。海の魚介類、海草などもこの大循環の中で生きている。

 幾万年もの年月をかけてつくられてきた極氷が融け出すと、温暖化を加速させる。降るべき時に、降るべき所に降らなくなった雪も温暖化を加速させる。誠に困ったことである。

 降りつもった新雪はすべてを白銀の世界に変える。一夜にして変えてしまう。この感激の瞬間は、雪国に住む者だけの至福の時である。あらゆる汚濁の世界が処女雪に覆い隠される。まさに自然の恵みである。雪の降り積もった翌朝、空が晴れ上がって太陽が昇ってくる。どこにいたのか小鳥が飛びまわる。静かな朝、昨日と全く違った朝がある。

 地球温暖化のことを考えながら、この雪の朝を迎えている。やるべきこと、やらなければならないことを考えている。今できること、私にできることは何だろう。私にとって一番大切なものは妻であり、子であり、孫であり、友である。しかし、みんなが住んでいる地球がおかしくなってしまえば、すべてがダメになる。無尽蔵にあるはずの知恵を絞り出して必死に対策を考えねばならない。そして一つ一つ直ちに実行に移していくことだ。

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人を魅きつける笑い

平成20年2月15日
人を魅きつける笑い

 目をさますと笑い声が聞こえる。妻と妻の母が階下で楽しそうに話をしている。その内容はわからないが、二人の上げる笑い声が聞こえてくる。1ヶ月ぶりに再会した喜びの声である。わたしは外国へ行っている期間は別として、私の両親が死ぬまで毎月1回両親の顔を見に故郷の長浜へ帰った。それは家を離れて暮らす長男の勤めとして当然のことである。父が死んだ後も、母が一人で暮らすというので、同じことになった。私の両親のあとは、妻の母との間で、その月1回の訪問が続いている。東京は久しぶりの大雪が降ったという。ここ三井不動産のミレーニア別荘地は快晴である。雪は全くない。連休というのでご近所の別荘もチラホラ車が駐っている。真冬ではあるが、子供等のあげる歓声が聞こえてくる。笑い声ほど耳に心地よいものはない。

 少し別荘地の中をドライブしようということになった。3人で母のカローラに乗り込み、妻の運転で出かける。道行く人々が笑顔で挨拶を交していく。お互いに名前は知らないが、福井ナンバーの車は別荘地の中では目立つようだ。ラコルテという小さな湖に出る。まわりの散歩道を早足で歩いている夫婦が多い。運動不足の解消と気分転換のためであろうか。笑顔が美しい。

 笑いは人を魅きつける。笑いや使命感は人を絶望の淵よりよみがえらせる力があるという。しかも「笑うこと」はやろうと思えばいつでも出来る。誰でも出来る。フランスの哲学者アランの「幸福論」に「悲観は気分に属するが、楽観は意思に属する」という言葉がある。幸福を得んとすれば、自分の意志で、楽観的な方向へ持っていけばよい。「笑う」のである。大きな声で「笑ってみる」のである。まわりをまきこんで笑いの渦を作り出すのである。苦しいことの多い日々が続くけれど、笑いによってそれを乗り越えることが出来る。気分で悲観的になる必要などさらさらない。今日も笑い声の絶えない一日でありますように。

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歴史の中の民衆

平成20年2月13日
歴史の中の民衆

 敗戦後に耳にした新しい言葉は「民主主義」であった。天皇による統治でなく「主権在民」となった。「三権分立」が叫ばれ、立法府、行政府、司法府がそれぞれの部門を分担し、相互に干渉せず独立独歩で業務を推進する制度が確立された。日本の歴史上かつてなかったことである。

 歴史は権力を握ったものが、恣意に作り上げるといわれる。これが真実かどうかは歴史をひもとけばよくわかる。例えば室町時代以降を見ても、戦国時代、安土桃山、江戸、明治以降も歴史の中に民衆の息使いは全く聞こえてこない。

 信長、秀吉、家康の三人の時代をとり上げてみよう。歴史の裏で暮していた民衆のかげすら見る事が出来ない。近江商人のルーツを捜す作業の中で、私は文献が少いことに驚いた。文学作品は勿論、研究論文も少い。そして、その少い理由が、日本の歴史の中では、民衆が忘れ去られていることにあると気付いた。

 気付いた以上はこの理不盡な歴史をかきかえる為に、何かをする必要がある。民衆にスポットライトをあてる作業である。余暇をさいて、この作業をはじめようと思う。幸いなことに民衆の生活を歴史小説という形式でとり上げている数少ない作家達がいる。作品数は多くはないが、それ等をあつめてみよう。また最近の傾向である女性を中心にした歴史小説が書かれるようになってきた。これ等も面白い。

 ワインの古いものをビンテージワインと呼ぶ。特別に珍重される。その評価が堅まっているからだ。長い歴史の中で息づいている民衆の目を通して、日本の過去を掘りおこすと、そこに光輝くビンテージワインを発見することであろう。

 近江商人の書き残した日記を調べてみると、私達が歴史上の大事件と考えていた事が全く記されていない。刻明に書かれた詳細な生活の記録であり乍ら、大事件は殆んど無視されているのだ。そこに本当の民衆の目を感じる。本当の歴史を感じるのだ。

 歴史を溯る旅は、民衆の視点に立つといろんなルートがある。新しい発見が期待できる。ひょっとすると歴史が変るかも知れない。そんな予感を覚える程、重要な仕事になりそうだ。

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永平寺で逢いたい

平成20年2月12日
永平寺で逢いたい

 起床朝4時、それから約1時間を思索の時としている。その後約2時間をテーマ別の読書に使い、雑誌等を読んで8時半頃に家を出る。

 東面する机の前から、目を上げると時々刻々移り変わる自然の動き、また季節のうつろいを見ることが出来る。特に永平寺の周辺は霧が多い。

 すべてを覆いつくす濃い霧の朝もある。無風状態の時には、山の森のあちこちで焚火の煙のように、まっすぐ上に上る霧の柱もある。上空200メートルまで降りてきた雲の層がゆっくり南へ移動する下を、薄い霧が反対の九頭竜川のある北へふわふわと漂っていくこともある。

 霞か霧か靄か雲か、はたまた雨かみぞれか雪か自然現象の変化の早さに驚かされる日々である。

 月もよい。月の満ち欠けが、一日一日の時のうつろいをいやという程明確に教えてくれる。満月もよい。月にむら雲も、じっと見るとこれまた刻々と表情を変える。古人が満月よりも、「むら雲の月」を愛でた心がしのばれる。

 山は杉やひのきの森と竹林そして落葉樹の森と混在している。私は落葉樹の森が好きだ。1年を通して大きく表情を変えてくれる。森を見ていると世界が見えてくる。刻々と変る人間の世界が見えてくるように思われる。曹洞宗の禅の大本山永平寺の開祖道元の視線である。道元は都の俗塵を嫌って、関を越えた。越の国府を過ぎ、朝倉五代の城下から更に北の山中に本拠を定めた。宿坊三千といわれた平泉寺は、九頭竜川を溯って約三里(12辧砲龍瓩気任△襦

 日本海の三国港から九頭竜川を上ってくる水運は縄文時代から盛んであったと思われる。縄文海進の頃にはこのあたりまで海であったであろう。今では海抜は僅かに20m前後に過ぎない。九頭竜川の下流域は福井市中心部近くまで海水が入り込んでいる。地球温暖化による海水面の上昇は、モリジブやバングラデッシュ、オランダなどの国々、特に海洋国家といわれる島々は滅亡の危機を迎える。しかしここ永平寺町ですら大きな影響を受ける。東京や名古屋、大阪、横浜などの大都市は殆んど水没する。こんな簡単なことが私達現代人には理解できていない。しかし永平寺へ来てみるとよくわかる。世界がわかる。道元の目で世界を見ることが出来るからだ。機会を作って永平寺を訪ねられることを願っている。

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日本文化

平成20年2月8日
日本文化

 仮面劇といわれる仮面をつけて踊る演劇は、東南アジアを中心に世界中にある。日本へ伝わり「能楽」として発達し、独自の文化として変貌をとげた。「茶道」も「華道」も「香道」も然り。それぞれ家元制度に守られ、発展をつづけている。そして、歴史的に見てもこれ等の伝統文化が今日ほど繁栄した時代はなかった。過去最高の繁栄の中にある。日本だけにとどまらず、これを日本の文化の枠として、海外に普及させる勢いである。

 これ等の日本文化といわれているものは、すべて「形」の修業からはじまる。「形」が無意識の内に完成すれば「心」がついてくるという。そして「形式」が「思想」へと高められていったのである。

 「茶」は珠光や紹鴎の形式によってはじまった。千利休がそれを引き継いで、その師の「形式」を「思想」にまで高めていったのである。時代がそれを求めたとしか言いようのない変化である。千利休の茶道は信長によって引き立てられた。そして秀吉、秀長兄弟によって完成の域に達した。その背景は戦国である。戦いの前後に、生死を分ける戦いの前後に、庭の片隅に作られた僅か四帖半の小さな茶室で対座しながら一ぷくの茶を喫するのは、並大抵の神経ではない。明智光秀や羽柴秀吉、徳川家康、柴田勝家、前田利家など歴戦の武士もいたはずである。そして彼等の昨日を思い、明日を見通した上での「茶道」であったであろう。

 千利休の茶道のバックボーンをなしているのは、堺の商人としての教養、広汎な知識、そして「禅の思想」や「キリスト教」の影響である。それが歴代の家元によって受けつがれて総合文化にまで高められてきた。日本家屋、庭、道具、食事、作法など茶室をとりまく種々な取り決めは、知れば知るほど奥が深い。透徹した審美眼を養い、和敬静寂の境地に到る「茶室」は現代にこそ最も必要なものかも知れない。きもの文化を含めて、これ等の日本独自の文化の興隆を望みたい。

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福井市の花あじさい

平成20年2月6日
福井市の花あじさい

 福井県で全国植樹祭が天皇陛下を迎えて行われる。

 その時桜を植えるという。福井は「桜」に関する名所旧蹟が多いけれど、戦災や震災の大火で中心部が何度も全焼した。残っているものは「自然」と「地下に埋ったもの」ぐらいである。足羽山、足羽川の桜は残った。先輩達が植樹した桜通りも延長15km近く辛うじて残っている。桜橋も架けかえられ、橋から桜の眺望も誠にすばらしい。「桜」を植える努力を続けていくことは花のまち福井をつくり上げる最短の道と考えていた。

 ところが友人から福井市の花は「あじさい」だといわれた。足羽山に数年間に亘って、有志があじさいを植えてきたという。確かに市の花はあじさいである。足羽山を毎週散策したり、ドライブする私であるが、沿道に咲くあじさいに癒される。あじさいは福井の気候にもあっている。そして、あじさいは強い生命力がある。湿潤を好む。梅雨時の美しさは何ものにもかえがたい。

 北鎌倉に住んでいた頃、梅雨時になると北鎌倉駅は中年の女性客であふれる。「あじさい寺、明月院」のあじさいを見に来る観光客である。小さな狭い明月院の寺の中一杯に植えられたあじさいを、花の数をこえる程の多くの女性が見にきている。女性の花好きには全く驚かされる。

 福井市の花あじさいをもっともっとアピールすることが大切だという友人の話に私は直ちに同意した。桜の花の季節は短かい。しかしその後の新緑、深緑そして紅葉、真冬の裸になった桜もまた格別の美しさがある。同じようにあじさいの季節は長い。目立たないけれど、桜の木や自然林の中で咲きつづけている。足羽山や足羽川をもう一度、福井県民のいこいの場所として、また観光スポットとして再生する「鍵」をまた一つ再発見した友人の一言である。今年は友と語りあい、誘いあって「あじさい」を植えようという声を上げていきたい。市制100周年の時(1989年)作られた福井市民の歌「わたしのまち、ときめきのまち」にもあるのを見つけた。「あじさいの花につつまれて、そぞろ歩きの足羽山 朝つゆにぬれた花びらにキラリ輝く陽の光り・・・」

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近江商人道

平成20年2月5日
近江商人道

 近江商人というと湖東の五個荘が有名である。私は出生から18年、高校を卒業するまで湖北の一市三郡の中心地、長浜にいた。繊維どころである。近江商人の本場でもあった。今でも私の会社の社外取締役栗田隆さんは「柏鶴」という呉服屋系の何代目かの名門のお家柄である。同じく高野盛久さんは三菱化学の副社長を定年退職されて、当社の社外取締役に就任していただいているが、繊維商の老舗の出身。私の妹は長浜縮緬の名門に嫁いだ。私の弟はビロード商の会社を継いでいる。長浜出身者は東京日本橋界隈に多く、大阪船場にも多い。下郷伝平翁の孫、下郷二三男さんは親しい友人である。私の祖父の弟は、紙商正木屋へ養子に入り、母の弟は戦前、西川甚五郎家の番頭をつとめていた。京都の市中にはその関係で、各区毎に何軒かの親戚がある。

 私の中には、近江商人の血が流れている。好むと好まざるとに関係なく、私は近江商人の末裔だ。そう気がついた時、「十方よし」という私達の会社の基本理念にたどりついた。そして「近江商人」の研究に関する本を読みあさった。「喜びの種、幸せの種を蒔こう」というもう一つの基本理念が、近江商人道に期せずして一致しているということに気付かされた。

 滋賀大学(旧彦根商高)や滋賀銀行の「近江商人研究」は有名である。しかし、日本の商業史に残した近江商人達の巨大な足跡と比較すると、まだまだ学問としての深耕が足りない。特に商人道にまで高められた「家憲、家訓、家法」の研究が不足している。「佛教や神道、儒教に通ずる実践哲学」を思わせる程に昇華されたすばらしいものがまだまだ存在するのである。

 滋賀県人会は全国各地にある。数年に一回、世界大会も開かれる。これは数百年に亘ってご先祖が築き上げてきた仲間意識、郷党意識、ネットワークの賜物である。同業種、異業種を問わず、全世界にはりめぐらされたネットワークをお互いに活用する、新しい時代を迎えているように思う。

 近江商人の職種は、五綿(伊藤忠、丸紅、日綿、東綿、江商)や麻、絹で有名な繊維は勿論、金融、醸造、売薬、ディベロッパーなど多岐にわたっている。商魂は丁稚奉公でつちかい、西洋式の複式簿記を数百年前から採用し、経営組織も現代の理想的なモデルと殆んど変わらないものを確立していたのである。もっと「近江商人研究」が進むことを心から願っている。

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「近江商人考」

平成20年1月29日
「近江商人考」

 乱読に終始した私は、蔵書を調べて見て、近江商人に関するものがあまりに少ないのに驚いた。そこで福井県立図書館に通い、数十冊の関係書籍を順次借り出して読んだ。読んで気がついた事がいくつかある。まず、研究者が少いということ。また、残された書物が少いということ。そして経済学的な研究が乏しいこと。日本の近代史の中での重要性のわりに、史学的な研究がなされていないこと。

 ただ気になる本がある。一冊は江頭恒治著の「中井家の研究」と佐藤誠朗著の「幕末・維新見聞録」である。「中井家の研究」は近江商人の中井家の前後6代に亘る歴史的な展開を分析した好著である。初代中井源左衛門光武の誕生(1716年)から、六代光忠が最後の店神戸店を閉じた1942年までほぼ200年余りの期間の中井家を調査した大著である。そして面白いのは3代光熙が1830年分家別家を統合して作った「和合寿福講」が内容をかえ、中身を変化させ乍らも現在なお存在していることである。

 また「幕末・維新見聞録」は小杉甚右衛門・元蔵の一代記である。これは元蔵の記した「見聞日録」「見聞集」「続見聞集」が元になっていると思われるが、小杉屋元蔵が1837年の誕生以来1897年(明治30年)までの60年間の生涯を記した一大絵巻ともいえる労作である。その記述は刻明を極めている。表面的な日本史の中身と、庶民から見た歴史との差に驚嘆する。

 近江商人を読む気になったのは、滋賀銀行高田頭取からいただく「近江商人」に関する小論文に触発されてのことである。また自からの中を流れるDNAを意識してのことである。更にこれを子孫に伝えていく使命を感じてのことである。近江商人のバックボーンは神。儒・仏の教えにあるといわれている。祖先、神儒仏への畏怖そして三方よしの商法、複式簿記の帳票重視、共同経営(出資を含めて)蓄財と神社仏閣への寄付と社会福祉等、調べるほどにその深淵な経営思想に驚かされる。
いつの日か優れた研究者が輩出されんことを願っている。

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「人間は考える葦である」

平成20年1月29日
「人間は考える葦である」

 この言葉を若い頃に覚えた。しかし、なかなか判ったようでよくわからない。70才をこえてもまだわからない。「沈思黙考」という言葉がある。禅は「座禅」を日常作務とする。そこでここ数年、毎朝4時起床し、東面する窓ぎわの机の前で約30分間の考える時間を作った。

 はじめのうちは雑念が次々と浮んでは消える。人間の悩みは尽きないという事が嫌という程よくわかる。考えはなかなかまとまらない。そこで少し考えをまとめて記録し、あとで加筆訂正をする習慣をつけた。少しづつ考える方向が一点に定まってくるようになった。まだまだ思考の巾は狭く、底は浅いけれど、考えがまとまらないという事は少くなった。

 「思考」と「実行」は全く異ったもの、異質なものである。「思考」は静、「実行」は動。「思考」は精神、「実行」は体が司るものである。しかし「思考」がまとまらないのと同様に、「実行」もまとまらないことが多い。「実行」の面でまとまらない時、それを記録し、それを分析し、それを評価し、やるべき事を絞り込んで行く。そして残った一つの事に全力であたる。

 「思考」も「実行」も同じである。いくつかの事を同時にやろうとする所に混乱が生じ、現実が見えなくなる。一つ一つを絞り込んで「考え」あるいは「実行」していけば難問は思いのほかに早く解決する。
しかし、人間にとって最も大切なことは何かを「行う」ことである。「実行」なくして成果はない。考えているだけでは人間としての価値はない。そこに「人間は考える葦である」という言葉の難しさがある。

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「南枝綻ぶ」

平成20年1月28日
「南枝綻ぶ」

 福井公園の紅梅は、春一番に赤い可憐な花を咲かせてくれる。例年なら2月下旬に開花するのが、今年は厳寒の「大寒」の日に、青空をバックに紅い花をつけ出した。まさに南枝ほころぶの言葉通り、南側の陽当りのよい方から開花しだした。

 この福井公園の梅林は私の散歩道である。ロータリークラブの例会場であるワシントンホテルへの道である。必ずといっていい程このルートを歩く。特に、梅の季節は楽しい。

 ここ数年、冬の積雪が極端に少くなり、除雪の費用を節約出来ると同時に、春を待たずに行動を起せるようになってきた。かつて北陸の新車販売は1、2月が極端に不振で、その反動で3月は通常月の3倍は売れた。温暖化の進行と共に、新車商戦は1月中旬からスタートし、2月に入ると大きな盛り上りを見せる。そのかわり、3月のピークは3倍でなく、2倍位いに販売のピークが低くなってきた。暖冬の影響である。

 毎日のテレビ、新聞、雑誌を賑わす地球環境の問題は、いよいよ目に見える形で私達に危機のシグナルを送っている。

 私達は駐車場の設計、建設、運営にエコロジーの思想を早くから導入してきた。太陽光発電、風力発電の導入やコインパーキング場内へのグリーンの設置、透水性舗装など他社に先んじて行っている。
これからの車はガソリン車(日本では殆んどがガソリン車、ヨーロッパではジーゼル車が多い)から電気で動く電気自動車になっていく。その為の研究を今はじめようとしている。YPPという「夢のパーキングプロジェクト」である。既にスタートして2年になるが、今年こそYPPから夢の花を開かせたいものだ。

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兼六園を超える足羽山

平成20年1月25日
兼六園を超える足羽山

 人工の美 兼六園は日本三大名園の一つ。金沢の観光スポットナンバーワンは兼六園である。琴柱灯篭はその兼六園を象徴するものとなっている。私は兼六園に隣接する東側でコインパーキングを経営している。シーズンになると常に満車となる。隣接する金沢城公園は加賀前田百万石の城壁を誇っている。その大手門のそばにも数ヶ所のコインパーキングとマンションを経営しているので、金沢を訪れる機会が多い。兼六園や金沢城公園の周辺に金沢市は巨費を投じており、金沢を代表する数々の魅力が集積されている。

 福井市の中心に位置する足羽山はどうであろうか。足羽山は明治時代に福井市民が労役を提供して作り上げた公園である。今年開園100周年を迎える。古墳が数多く残されており、そのせいか西方は墓地が多く、山すそには古くからの数多くの由緒ある寺が多い。継体天皇を祭神とする足羽神社は、創建1500年祭を昨年挙行され神殿を再建された。男大迹王(継体天皇)の姫が初代宮司をつとめられ、その後現代まで続くのであるが、社殿は足羽山公園の開設時に現在の場所に新築されたものだ。天魔ヶ池のあたりは、羽柴秀吉が柴田勝家やお市の方の守る北ノ庄城を攻めるため、胡床を置いたとされる所である。

 江戸時代には足羽山は越前松平家の御狩場とされていた。その為、原生林ともいうべき自然林が残っており、兼六園の人工美とは反対に、足羽山公園は足羽川と共に自然を多く残したすばらしい観光スポットである。県都の中心にある足羽山の原生林にもう少し目を向けたらいかがであろうか。ふもとから山上に到る各所に点在するお茶屋も風情がある。近年どんどん変化してきた愛宕坂も興趣あふれるところとなりつつある。茶道博物館や曙照覧記念館は大変ユニークで福井ならではのものである。周辺の各家にも茶室を持つ民家が多い。先日の町内会の新年会は足羽神社の馬来田宮司の祝詞ではじまった。参会者は山上の住民ばかり、いわゆる雲の上の人々ばかりであった。私も出席したところ、各家々にすばらしい茶室があることがわかった。茶道博物館や各民家の茶室も含めて、「茶室びらき」「茶室めぐり」などの新しい催しが出来そうである。桜の頃、中秋の名月の頃など年に数回、各流派の家元と相談して、この茶室めぐりを福井の年中行事として定着していけば、全国から観光客を呼びこめる。2008年度の全国植樹祭の一環として計画するのも面白い。ちなみに野点の茶室を作ったり、ふもとのお寺や各個人宅の茶室を開放すると、愛宕坂周辺で総計10ヶ所ほどの茶室を即座に揃えることが出来る。

 こんな魅力のスポットは、全国どこを探しても見つからない。まさに福井の歴史と文化を象徴する「催し」ではあるまいか。予算は全国へのPR費用と各家元への旅費だけである。毎年華道や香道との共催も考えられそうである。日本文化の華であるお茶やお花ときもの文化を包含する一大イベントを企画すれば大きく発展する可能性があると思うのは私だけであろうか。

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食うや食わずの生活

平成20年1月24日
食うや食わずの生活

 敗戦時をはさんだ約5〜6年間の日本は食糧難であった。育ちざかりの私達は、毎日腹ペコであった。日本中で餓死する人が出た。ある教師は、国が配給する食料だけでは、生きていけないのを知りつつ、ヤミの米(正規の国の食料供給を通さない闇ルートで流れる米)を一粒も買わず、遂に営業失調で死んだ。このニュースを新聞で見て、私達は子供心に政治力の不足を痛感したものである。ヤミの米があり乍ら、正義を貫いた先生が餓え死するとは何たることか。一教師の死から私達は多くのことを学ぶことが出来た。

 しかし、空腹を満たしてくれるものは何もない。学校ではイナゴ取りの実習に出かけて、イナゴをつかみどりし、それを一日カゴの中に放置し、翌日大カマに湯を沸かし、イナゴをどんどん放り込む。イナゴは直ちに茹で上がる。それをムシロに並べて乾燥させる。天日に干して2,3日で出来上がり。お茶の中に茶葉と一緒に入れたり、粉にしてゴハンに粉かけしたこともある。ゴハンは白米の御飯ではない。麦めしである。麦めしはまだよい方で、米のない毎日も続いた。

 野菜もないので、学校の実習では、山野草の採集に出かけた。食べられる草を教えてくれるのだ。まさにサバイバルの毎日である。そんな飢餓の体験をしてきた私達は、今回の賞味切れ騒動に対する見方が根本的に違う。賞味期限などという不確定な、非科学的な判断基準をまず信じない。そんなものは無用の長物である。日本中で毎日廃棄処分されている食品はどの位になるのであろうか。農水省に聞きたい。

 これを即時、廃棄前に冷凍保存したらいかがであろうか。アフリカの子供達に送るよりも、日本全国にある米の冷蔵装置を改良し、ここへ収納しておくことを提案する。おそらく日本の子供達が、数十年後に、ご先祖様の英知に感謝する日が来るであろう。

 日本の農業の破壊はそこまで進んでいる。そしてその原因も、政策の失敗なのであろうか。勿論無策の「無」のために情勢が悪くなりつつあるという意味での「失政」である。

 日本は敗戦後、僅か50年程の間に、画期的な発展を遂げた。これ程資源の乏しい国が、1億2,700万人もの飢餓列島が、世界一、二を争う生活水準に達した。これは人類史上でも稀な快挙である。そしてそれを成し遂げたのは私達の先輩の知恵と努力である。私はこの快挙が偶然ではないことを知っている。その原因が日本人の持っていた勤勉性と国民全体の教育水準の高さなのである。勤労意欲に燃える教育レベルの高い集団のパワー程強力なものはない。日本と同時に驚く程の発展を遂げた国が他にもある。ドイツであり、台湾であり、韓国である。そして共通するのはそれぞれの国民の勤勉性と教育水準の高さである。

 しかし今日本はこの世界に冠たる日本人の勤勉性と教育水準の高さを両方共失いつつある。一日も早くこの対策に取り組まなければならない。「教育」に対するあらゆる日本人の意識改革が必要なのである。

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休耕田に思う

平成20年1月23日
休耕田に思う

 私の住む永平寺町の近くに休耕田がある。休耕田は日本の農村風景の一つになりつつある。20年、30年前には想像もつかないことが今おきている。それは、就農人口の激減であり、農業従事者の高齢化である。特に専業農家の減少については、国が滅びるのかという程の危機感を私は持っている。

 現在農林業、水産で仕事をしている人、いわゆる一次産業で働いている人の休業日は年間60日程度といわれる。サラリーマンは年間130日である。2日働いて1日休み、また2日働いて1日休む。兼業農家が増えるはずである。農業などで得る実質収入は殆んどゼロに近い。食べるだけだという。日雇いで、土木建築工事に出ると、日当は1万円以上という。兼業農家が増えるのは当然である。

 21世紀は地方の時代である。20世紀に都市に集中した人口は、これから地方へ拡散していく。その理由はICT革命である。都市環境の悪化は早晩限界を迎える。そして、ICT技術によって、地方での快適な勤労が可能になる。地方への人口移動は、キッカケさえ作れば大きな流れになって地方を活性化するであろう。

 農業生産の効率化も当然飛躍的に進むであろう。休耕田に農工場や水産工場が建ち、そこで人々が喜々として働いている日がやがてやってくる。

 休耕田を見て、ただ嘆くだけでなく、休耕田を見て、何かをはじめる人になりたい。夢を持って、木を植える人と、命令されてただいやいや木を植えている人とでは、大きな差がつく。

 土を耕す人も同じだ。実りの秋を思い土を耕す人は幸せである。一銭にもならない仕事だと嘆きながら土を耕しても幸せはこない。夢は人に希望と勇気と輝かしい未来を与えてくれる。

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因数分解

平成20年1月21日
因数分解

 新制中学へ入った時のクラスの担任が、杉江仁先生であった。数学の先生である。数学より小説を読むのが好きであった私は、横着にも数学の授業中に教科書の下に岩波文庫を入れていた。それが先生の目にとまり、こっぴどく叱られた。「放課後に残れ」とのお叱りを受けた。その「放課後のお叱り」とは数学の特別授業である。選ばれた50人程の生徒を対象に行われる特別授業であった。当時数学より国語を好んだ私にとっては、選ばれる筈のない特別授業であった。余程先生を怒らせたのであろう。

 ところが与えられたのは「代数」というぶ厚い問題集だけである。それを何頁でも、何問でもよいから解答して出せといわれる。他の生徒は黙々と解答用紙に答を書いている。私はなかなか進まない。その内に時間切れとなる。「家でやってこい」の先生の一言。

 代数とは因数分解である。これを1年間杉江先生より徹底的に教えていただいた。他の生徒との暗黙の競争の中で、ひとりでに数学が身についていった。気が付いた時には「数学」が苦手であった筈の私の成績が、数学だけが逆に「オール5」になっていた。

 インドの数学が持てはやされたり、くもん式が子供達の間で盛んであるが、その根底には因数分解がある。因数分解を、いかに巧みに、素早く頭の中で計算できるか、それによって、結果はすぐ表われる。

 数学に限らず、いろんな社会現象も、経済の動きも、時代の流れですら、この因数分解の手法をもちいる事により、分析がた易くなり、解が見付け易くなる。二次方程式から多次方程式まで駆使すればミクロの世界から宇宙までが解明可能となる。なぜなら世の中は因果応報といわれている。すべてに因があり、それが結果につながっている。動物も植物も微生物も単細胞のバクテリアに至るまで「細胞」という組織から作られている。DNAの配列の違いによって、それぞれの種に分かれているに過ぎないのだ。宇宙には法則があるようだ。それを因数分解することによって、可なり整理整頓することが出来る。それが私の実感である。私の恩師である杉江先生の無言の教えを今でも時々反芻して考えている。

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赤い糸

平成20年1月17日
赤い糸

 大本山永平寺のほとりに住んでいる。狭い天地である。しかし雰囲気は深山霊谷の趣きがある。とても気に入っている。

 ロータリーアンとなって25年が過ぎようとしている。私をとらえて放さないロータリークラブの魅力は、その綱領にある。「国際間の理解・親善と世界平和を推進する」とある。そして今住んでいる「永平寺」という地名の中にロータリーの綱領の世界平和に通じる「永平」即ち「永久平和」の思いをこめて日を送っている。

 最近、周辺の町村を合併して、永平寺町は大きくなった。名前はまだ残っている。道元禅師の「永平」は、禅の真髄ともいえる座禅や修行によって「般若の知恵」を認識し、「永遠の平安」に到る道を指し示している。「永平」の名が残ったことに感謝している。

 福井市駅前の自社ビルの一階に、表通りから裏通りへ抜ける通路を作った。福井市の推奨する「歴史のみち」をその通路に命名した。そして路傍ならぬその通路に、地蔵さまを鎮座開眼しました。「生き生き地蔵尊」として毎月24日の地蔵の日に大乗院の住持、大谷氏はじめ3名のお坊様が参加してくださる読経と説教会を約1時間、その通路で開催。近隣の商店街の方々はじめ30名程がおまいりする。

 大谷氏の説教の中で、自らの履歴にふれられた。三菱化成の黒崎工場をはじめ、各工場を転勤し37年勤続したという。その間キリスト教会のお役も、永く勤めたという。悩みに悩んだある日、曹洞宗の名僧松原泰道師にあった。そして「坊主になれ」といわれて坊主になったという。
当社の社外取締役高野久盛氏は三菱化成の黒崎工場で当時働いていた。よく知っているという。取締役会には毎月出席いただいている。東京の郊外から来てくれる。

 同じような話であるが、仁愛大学から講演を頼まれたことがある。二度講演をさせてもらった。その時、担当の教授が心理学の博士であった。出身が京都大学という。聞いてみると当社の社外取締役の蜂屋良彦博士の後輩である。お互いによく知った仲だという。専門分野も一緒だ。

 すべては縁という「赤い糸」に結ばれている。生きているのではなく、生かされているのである。「五蘊皆空」を照見させていただいたことを心から喜んでいる。毎月の法話が益々楽しみになってきた。

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国宝松本城

平成20年1月16日
国宝松本城

 日本の城は戦国時代に、戦いの攻守の手段として主として山城が建てられていた。それが戦国末期に大名の権威を象徴する平城として、平野部に移ってきた。深い濠に囲まれ、堅固な石垣の上に天守閣がそびえ本丸をめぐる回廊が美しい。日本の城は、世界の古い建築物の中でも、独特の優れた美しさを備えたものである。国宝の指定を受けているものは、信州の松本城、彦根の彦根城、愛知の犬山城、そして姫路の姫路城である。福井の丸岡城は大震災後の解体復旧の際、国宝指定から外されている。誠に残念なことである。四つの国宝の城はそれぞれ特徴がある。私は彦根城の近く、長浜の生まれであるので彦根城は最もよく足を運んだ。井伊家歴代の城である。豊臣秀吉の長浜城を壊して作られたので、彦根城はあちこちにその名残りをとどめている。古色蒼然とした城で、徳川譜代の大名の風格を感じさせる。

 松本城は小さく、明るい。本丸と内濠だけが取り残されたようで、まわりは駐車場や史跡公園、松本城公園、市立博物館などが取り巻いている。その外側に松本市役所、日本銀行、裁判所、松本信用金庫などがある。

 今回松本信金本店の隣地に当社のコインパーキングを作ることになった。松本城までは至近距離にある。まわりには大手企業の支店が多い。すぐ目の前に松本城黒門があり、観光情報センターがある。松本の歴史や文化、産物等が調べたくて、本屋さんを捜すがない。喫茶店を30年程やっている方にたずねたところ、「いい本屋さんは、みんななくなりました。残念です」としみじみ話してくれた。ここ松本市でも中心市街地は、かつての活気が衰えつつあるようだ。

 しかし参考になる点も多い。女烏羽河岸と松本城のお堀の間の四柱神社が明治12年に建立され、その参道として作られた「なわて通り商店街」は映画のセットのようで多くの子供や観光客を集めている。空店舗も2,3あるが、客足は悪くはない。

 まちなかの歩道や町並みはよく整備されている。あちこちに標識が多く建てられているので、わかり易い。またデザインも統一されていて好感がもてる。橋の欄干の飾り金具もクラシック調でまちとよくマッチしている。

 JR松本駅から松本城にかけて旧市街を歩く、3つのコースが作られている。奈良ロータリークラブが「奈良市を歩く」というまちづくりの提案したのと同じように、約30分のコースが3コースある。

 また市内を走る100円バス(松本電鉄系)があり、1日に14回走る。乗り降り自由の1日パス300円もあるので便利。北アルプスの町松本は、人口227,627 人、中信の中心地として、長野市の北信、諏訪市の南信と並ぶ中堅都市であり、福井市にとってもよい見本になりうる魅力にあふれている。

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「健康長寿なふくい」の看板

平成20年1月8日
「健康長寿なふくい」の看板

 5年間毎に発表される全国都道府県別の各指標がある。そこで異変がおきた。平均寿命男子第2位、女子第2位の福井県が、ランキングを下げた。男子第4 位、女子第7位である。福井県民にとっては一大事件である。というのは、ここ5年間、福井県では県民一丸となって「健康長寿なふくい」を売り出してきた。数々のイベントも行ってきた。その元になるランキングが下ったのである。これをいかに回復させるかがこれからの5年間の大きなテーマとなろう。

 敗戦後日本は必死で欧米に追いつく努力をしてきた。「国敗れて山河あり」を実感し、焼土の中から立ち上がってきた。そして1980年からの約10余年、日本は間違いなく世界一の地位を得た。世界中(中国と韓国を除く)の人々から、日本は世界で最も貢献している国と賞讃された。私達は何かを得た。間違いなく何かを得た。それは私達が追い求めた夢であった。経済的な発展という夢であった。夢を実現すると、その夢の実体がよくわかる。こんな筈ではなかったと思いはじめた。

 人間として「幸せ」とは一体何であろうか。そして「元気で長生き」という考え方が出てきた。「桃源郷」である。平和で、安全で、優しさに満ち溢れ、おいしいものを少しずついつも食べられる所・・・そしてみんなが元気で長生きできる所。それが「健康長寿なふくい」のイメージであった。

 この看板を下すわけにはいかない。しかし4位と11位ではストレートにこの金看板は使えなくなった。一工夫も二工夫も必要である。21世紀のキーワードは「環境とエネルギー」である。この二つは福井県の最も得意とするところである。この二つのテーマと健康長寿を結びつけていけば出口が見つかるのではなかろうか。「環境とエネルギーと健康」から導き出される結果としての長寿。そこに金看板を掲げつつ再度健康長寿なふくい、世界一への挑戦を続ける道が開けるものと信ずる。

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天国に遊ぶ

平成19年1月7日
天国に遊ぶ

 人生は苦か楽か。これは人間にとって永遠の課題である。あらゆる物事に共通するのは、表と裏が常にあることである。ものは考えよう、とりようによって表になったり、裏になったりする。「目の前を、地獄と思えば地獄、極楽と思えば極楽」である。同じ毎日を送るのであれば、地獄でも極楽と思って悠々と生きてみてはいかがであろうか。これを人は「悟り」という。そう思いきれる人を「悟りを開いた人」という。

 福井の足羽山の登り口に「愛宕坂」がある。近年福井市が環境整備に注力している。その「愛宕坂」は、足羽山が江戸時代までは「愛宕山」と呼ばれ、「愛宕大権現」が山上にあったことに由来する。その坂の中腹に「橘曙覧記念館」がある。彼は若くして家督を弟に譲り、この坂に「七松庵」という小宅を建て移り住んだ。清貧の中、歌をよむ毎日であった。「あるじはと、人もし問わば軒の松、あらじといって、ふきかえしてよ」(新かな遣いにかえた)。この歌が歌集の一首目の歌である。そこに江戸時代最高の名君といわれた松平春嶽公が訪問され、曙覧の生活ぶりを賞せられた。光り輝くような一瞬である。「黄金舎」に庵の名を変えている。

 茶道の真髄をあらわす言葉に「花は野にあるように」がある。商人として大成できず、好きな歌の道に一生を捧げた曙覧の生涯は激しいものであった。また曙覧を愛した春嶽の一生もまさに波乱万丈である。その歴史に残る二人が相まみえた「愛宕坂」の緩い石段を歩いていると、まさに「天国に遊ぶ」とはこの二人のその会見の瞬間のような気がする。その会見の前にも、その後にも、それぞれ全く違った苦悩の日々があった。二人の生涯を重ねあわせてみると、「心の持ちようは自らにある」「今を大切に生きなければ」と気づかせてくれる。愛宕坂にも初春の風が吹き出した。

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パニクル

19年12月26日
パニクル

 「一心不乱」という言葉が好きである。「一点集中」という意味もある。私達の目の前にはいつも数多くの事象が流れている。何かをやろうとする時、何から手をつけていいのか迷うことが多い。一つの事をやっている時、次の仕事を回される事がある。更に次々と仕事がまわってくる時がある。急ぎの仕事をやっている時に限って大量の仕事がくる。偶然かどうかは別として私達はそんな時、「パニクル」のである。「パニクル」とは「パニックになってしまう」ということだ。

 「パニクル」のは真面目な性格の人が陥りやすい。そして仕事が出来る優秀な人ほどそうなる。「仕事」は優秀な人、忙しい人に不思議に集まる傾向があるからだ。「仕事」が重なり、仕事に追われると人はパニクル。どんな優秀な人でもパニクル。では「パニクル」ことから解放される方法はないのであろうか。

 その最善の方法が「一心不乱」「一点集中」である。まずははじめに、仕事を整理分類する。そしてやるべき仕事を一つ選ぶ。そこに全力集中し、一心不乱にやり続ける。どんな困難な仕事でも着手してみると思いの外にうまく進むことが多い。気がつけばもう終っている。そこで余裕綽々次の仕事にとりかかる。

 パニクラないもう一つの方法は、仕事を選ぶことである。仕事に追われるのでなく、自分からやりたい仕事を見つけてそれを追いかけるのである。やりたい仕事、好きな仕事であるからパニックっている暇はない。楽しく、明るく仕事がはかどっていく。

 仕事を捜す時、それを選ぶ基準を自分の中に持っていることも大切である。たった一回しかない人生である。出きるだけ多くの人々を幸せにするような仕事を選びたいものである。

 パニクル人生でなく、パニクラない人生を共に歩もうではないか。

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方丈の美学

平成19年12月19日
方丈の美学

 同志社大学経済学部の小野ゼミナールで共に学んだのが茶道藪内流の藪内家の若宗匠(当時)。そして同志社校友会の会長をその後されたのが裏千家の宗匠(現千玄室)であった。そして日本電池の役員宅で役員の夫人からお茶の手ほどきを受けた。それが私と茶道との関係のすべてである。茶道は建物、道具、人の総合文化といわれる。建物は庭園を含むけれども、主なものは方丈といわれる四畳半の茶室である。僅か四畳半の茶室で、富貴にとらわれず、人と人とがゆったりと大らかに、その場を楽しみ、その時を喜ぶのが茶道である。そこにはギラギラした権勢欲も事業欲もなく、素朴にお茶を愉しむだけの世界である。

 ヨーロッパやイギリスではガーデンニングや読書などの為の森の家やコテージを持つ人が多い。アメリカやオーストラリアでは船を持っている人も多い。しかし日本の茶室のように、名実共に美学でしっかり定形化されたり、様式化されているものはない。日本独特の文化である。勿論茶は日本で生まれた文化ではない。遠く南アジアから中国を経由して、日本へ入ってきた。そして、日本では茶から茶道へと変質した。精神性が付加されたのである。

 季節の和菓子を賞味し、「おうす」をよばれるのはまさに至福の一時である。四畳半が異次元の世界に変る瞬間となる。人はそれぞれ、人生はいろいろである。価値観は人によって大きく変る。私は最近縁があって二つの茶室を引き取ることになった。茶室を建てる時は、莫大な経費がかかるといわれている。しかし、その道具を見れば、その主の人格もたちどころにわかるという。方丈の美学を極めるのは、私のような浅学非才の者には、まだまだ道遠しといわねばならない。心を磨き、行いを正しくして、譲られた茶室に恥じない人間を目指していきたいものだ。この茶室はいずれ大修理をして、皆様に自由に使っていただけるようにする予定である。

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愛はすべてを奪う

平成19年12月17日
愛はすべてを奪う

 すべてを与えるところに真実の愛がある。産休に入った女性幹部社員から「男子誕生、母子元気」の一報が来た。二度目の産休であるが、二度共産休に入ってすぐの無事出産である。その愛社精神には、誠に頭が下る。またその産休中の留守を守る同僚部下の方々の協力も有難い。

 子供への愛は無償の愛といわれる。報われることを全く期待しない本能的な愛である。母は子にすべてを捧げる。そして母の慈愛の中で、子はすくすくと育っていくのである。母はすべてを与えるので、その愛はあたかも神仏が私達に注いでくれる愛に最も近いといわれている。母と子のきづなは何物にもかえ難い、強い愛で、結ばれている。

 私はこの愛を、この母から子への愛を普遍化できないだろうかと常に考えてきた。私の生涯のテーゼである。そして「喜びの種、幸せの種を蒔こう」を私の会社のスローガン、根本的な精神基盤とした。お客様をはじめ私達をとりまくあらゆる人々に喜びと幸せを共有する関係を築き上げていくこと。これが私の理想である。

 丁度同時に日本橋2丁目の私達が所有するコインパーキングを買いたいとの吉報が入った。いい事は重なるものである。今期も中間期末を迎えて、計画通り増益決算が達成できそうである。150名余りの社員、100名近くのパートや契約社員の皆さんの努力の賜物である。同時に私達を支えていただいているその家族の方々のおかげである。そして何よりも私達に活躍の場を与えて下さっている社会のご恩に感謝しなければならない。すべてを与えていただいている方々に、私達は何をお返しすることが出来るのか。よくよく考え、そして感謝しつつ、お返しを実行していかなければならない。

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うれしい便り

平成19年12月14日
うれしい便り

 盆暮のお中元、お歳暮のシーズンとなった。景気のよい時はデパートをはじめ有名店や老舗の逸品を、お世話になった方々に送る風習が長く続いてきた。ところが、バブル崩壊や社会風潮の変化の影響を受けて、受取拒否などの思いもかけない現象が起きるようになった。古い美風がまた消えようとしている。私達の会社でも自粛の方向にある。

 そんな風潮の中で、毎年届けられる「うれしい便り」がある。それは私達が創業してまだ日が浅い頃のことである。2人の若者が「コインパーキング事業」に自分達の青春をかけたいと申出てきた。私達も小さな企業である。彼等はもっと小さい2人だけの会社である。誰も資金も力も貸してくれない。そこで私達は工夫に工夫を重ねて資金を捻出し、細々と、1ヶ所ずつコインパーキングを開設していった。失敗は許されない。唯の1ヶ所でも大きな赤字が出たらお互いが行き詰ってしまう。慎重に、しかし確実に私達の堅い信頼と若いお二人の努力で拡大を続けていくことが出来た。

 その若いお二人からの便りは、いつもすばらしい内容に満ち溢れている。今冬の便りを紹介しよう。
「コインパーキング事業の楽しさと奥深さを知ることが出来て、いつも感謝しております。御社のコインパーキングシステムは携わった人全てが喜べる最高のシステムだと思います。御社に出会えた喜びは何ものにもかえられません。実家で作っている和菓子ですが、お納めいただければ幸いです。」

 こんなすばらしい季節の便りをいただける私達は、何と幸せ者なのだろうと思いつつ和菓子を小さく分けてこの幸せを社員一人一人と共にかみしめている。

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喜びの種幸せの種を産み出す

平成19年12月12日
喜びの種幸せの種を産み出す

 私達の会社は、喜びの種や幸せの種を産み出す工場である。車を作るメーカーもあれば、メガネを作るメーカーもある。生産された車やメガネは出荷されて世の中の役に立っていく。そこに付加価値が産み出されていく。私達の会社は、お金儲けの道具であるコインパーキングシステムを作り、それを販売し、そして管理している。発注先の協力工場をはじめ、設計業者、施工業者、管理業者等々当社の社員の総数を遥かに超える方々のグループパワーを結集して、これを行っている。その目的は、私達の目指すところは「喜びの種、幸せの種」を生産し、これを世に送り出し、まわりの人々と共に生き生きと生きることである。「喜びの種、幸せの種」のメーカーと考えることが出来る。

 不動産業界に二つの巨人がいる。三菱地所と三井不動産である。三菱地所は丸の内の大地主、大家主として戦前・戦後この業界に君臨した。ストックビジネスの巨人である。三井不動産は日本橋界隈の地主、家主であるが、三菱地所の大きさには到底及ばなかった。そこで最初東京湾岸の埋立地を次々と取得し、みんなが気付いた時には、殆んどを系列下に押え込んでいた。そして首都圏の不動産業者の組織化に着手。三井のリハウスの名の下に首都圏に巨大なネットワークを築き上げた。今日では、追い越すのは不可能といわれた三菱地所を売上、利益、株価とも追いついてしまっている。

 二社の差は、ストック型ビジネスの「地所」に対して、フロー型ビジネスに徹した「不動産」に求めることが出来る。言葉をかえると「賃貸型」の「地所」と「分譲型」の「不動産」の違いである。古くからの不動産業界の常識は「賃貸型」であった。その中で三井不動産は「分譲型」にビジネスモデルを切り換えたのである。そしてバブル崩壊で数多くの不動産業者が倒産していった。最も安全であると思われた三菱地所は1989年に14億ドル(当時約2,200億円)を投じて入手したロックフェラーセンタービルを、1996年に約3億ドル(約330億円)にて売却している。大金持ちだったから陥ったワナである。一方の三井不動産はバブルで苦しんだものの、フロー型経営の特長を生かした。開発型分譲方式であるので、次々と作り続けて売っていっている。傷は浅かった。

 この二大巨人のビジネスモデルを分析してわかることは、「常識が正しいとはいえない」という一言に尽きる。

 ものやシステムだけが管理であってはならない。要は自分の仕事を通して、如何に社会に貢献できるかである。社会に還元できるかである。付加価値を高められるかである。

 もう一度いう。私達は「喜びの種、幸せの種、愛の種」の「種=シーズ」を蒔くために、この「種」を生産しているメーカーである。この仕事に、このビジネスモデルに、誇りと生甲斐を持って力の限り、働き続けていきたい。

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目の前にある地上の楽園(二)

平成19年12月11日
目の前にある地上の楽園(二)

 2年前に完成したという黒龍酒造の「兼定島酒造りの里」を訪れる。ここは創業200年を越す老舗の酒蔵が造った新工場である。低温貯蔵のための超大型冷蔵庫(1,000岼幣紂砲鯣えた製造部、商品部等が本社から別れてここへ来た。九頭竜川の川沿いに建つ新しい日本酒の工場として、今迄とは異なったイメージを作り出している。本社の龍翔蔵(醸造部)の古風なたたずまいとは対照的である。

 その近くの山腹に建つ「鵲荘」を訪ねた。ここからの眺めは絶景である。「あれは吉野嶽、あの光るのが九頭竜川」と指さして言いたい気分になる。コーヒーをごちそうになる。オーナーが収集した骨董を見せていただける。古い時代にタイムスリップした感じであるが、建物はヨーロッパ調の本格建築だ。薪ストーブの前で暖をとり、また外に出る。九頭竜川が蛇行するのを眼下に見ながら、次の予定のスポット「千古の家」を目指す。

 北陸最大の古墳「六呂瀬山」、古墳(前方後円墳)の横を抜けて石川県境に向う。隠れ里のような丸岡町竹田に着く。カヤ葺きの古民家「千古の家」が山を背に建っている。この家の歴史を思わせる桧の大木などの樹木で覆われている。ここの手打ちそばとそばがきが大好物である。例によってセットで注文。

 日本の民家のうちでも最古の部類に入る「千古の家」は、随所に特徴のある建物である。広い板の間の少し隅によった所にいろりがあり、一日中薪をもやしている。煙はそのまま天井を抜け煙出しから外へ出ていく。山からの清水は常に台所を流れ、夏は涼しく、冬は暖かい地下水である。ひさしのシャープな形が気に入っている。オーナーの坪川さんやお手伝いさんとの素朴な会話が楽しい。

 帰りは自宅まで僅か20分ほどのドライブである。紅葉の山々を賞でながら今日も至福の一日が暮れていく。今夜は黒龍のカン酒でしめることにしよう。自宅から車で30分足らずの所でこれ程すばらしい世界がある。「魅惑の一日」と呼ばずして何と呼んでいいのであろうか。まさに目の前にある地上の楽園に遊ぶ一日となった。

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目の前にある地上の楽園(一)

平成19年12月10日
目の前にある地上の楽園(一)

 永平寺の門前町の山の手に住んでいる。大自然の中に抱かれているかのような眺望が気に入っている。コンパクトシティを推進しようと、都心居住構想に夢中で取り組み乍ら、郊外に住むのには理由が必要だ。そこで自己分析を試みた。「なぜ永平寺なのだ」というテーマである。日本人は哲学や理想理念に弱い。原理原則を重視することも少ない。ましてやそれを体系的に分析し、その中身を訴求することはなお苦手である。私も日本人の一人であるからには、同じような傾向に陥り易い。常にその自分の弱点を意識しながら行動している。今日は一日を費やして、「永平寺の魅力」を分析してみたい。

 朝4時起床。師走に入った。月は中天にあり、皓々と輝いてあたりを明々と照らし出している。まわりの山々は薄いもやの中に、まだ静かに眠っている。大本山永平寺ではやがて朝の勤行が始まる頃だ。ここは越坂山の中腹、道元禅師が開山のためこの地を歩いて越えた山である。現在は山腹にトンネルが出来ている。しかし、旧道はそのトンネルの上にある。人や車が殆んど通らず、往時をしのぶことが可能な程、霊気が漂っている。坂の入口は遺跡発掘の跡が残っている。この周辺の山々は継体天皇ゆかりの地である。3〜6世紀頃にかけての前方後円墳が数多く発見されつつある。

 永平寺は世界一の禅の道場である。全山に百名を超える若い雲水が全国から集いここで修行している。朝起きてから夜寝るまで、すべてが修行だという。希望すれば一泊の座禅も可能。俗塵を払うためには貴重な体験となる。修行僧と同じものを食べ、別室ではあるが、同じように座禅を組む。

 車に乗り、九頭竜川の河岸を走る。白山水系の良質の水に恵まれ、酒作りが盛んである。白龍、黒龍と地酒の醸造所が並んでいる。上流にも下流にも酒蔵が多い。すべてが銘酒。越前ガニ、甘エビ、雲丹、魚介類の数々、里芋や赤かぶ、勝山水菜、大根などの野菜もよい。九頭竜川の鮎、上流のいわな、やまめの塩焼も酒の肴に最高。そんな素材は手近にある。世界に誇れる日本酒の里である。酒好きにとっては目の前にある地上の楽園である。

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東京は魅力がない

平成19年12月7日
東京は魅力がない

 「東京には空がない」といった智恵子は有名である。「東京は魅力がない」という外人が多い。なぜだろう。世界一という程に地下鉄や電車、首都高速道路が走っている。便利だ。若者は東京志向が強い。まちは活気にあふれている。

 しかし、外人には人気がない。数字が示している。東京に進出している主要企業のうち、東京にアジア本部を置いているのは僅かに15%程度。東京で開かれる国際会議は少ない。1位のシンガポールは3倍。2位の香港でも倍。3位ソウル。4位をバンコクと競っている。すぐ上海に抜かれるかもしれない。

 日本の設備投資特にインフラ整備は敗戦後ずっと地方重視で行われてきた。その為大都市への投資は前記のアジア諸都市と比較すると相対的に少ない。石原慎太郎東京都知事のいう通りである。しかし、今、急ピッチで民間の投資が進んでいる。

 東京に魅力がないといわれるのは、すべてのコストが高すぎることが原因である。交通費、輸送費が特に高い。通信費は急激に下ってきたが、住居費、生活費が高い。首都高は安いが、渋滞が多く、高速道路でなく、低速道路だ。東京湾横断道路は作ったが、誰も利用しない。首都高の一部にすれば利用客は百倍になる。日本一土地下落率の大きい木更津市は直ちに日本一魅力のある町に変身する。しかし、それが出来ない。やらない。

 成田空港と東京とのアクセスは論外である。その間の交通費も世界一高い。世界一高く、世界一遠い国際空港を、そのまま放置している国も国民も外人は信じない。

 日本文化、日本人の人格、識見、教養そして安全に対する配慮、どれをとっても一流である。しかし魅力を発信する能力、現状改善の努力が不足している。

 横文字の会社名は増えたが、外人に道を教えられる日本人は少ない。宣伝看板ばかりで道路標識、住居表示が不親切である。やろうと思えばすぐやれることが出来ない。東京を魅力的にするのは、やろうとする気持を素直に実行するだけでよい。地方都市を魅力あるものにするのも同じことである。

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デュアルハビタント二つの家を持つ

平成19年11月30日
デュアルハビタント二つの家を持つ

 景気がよくなると別荘を持つ人が出てくる。国が豊かになると同じことが起きる。更に文化が深まってくると同じである。人は一つの家を持つことだけで満足せず、別世界に異次元の生活を求めて別荘を持つ。これをデュアルハビタントという。先進国に非常に多い二つの住いを持って生活する人々をいう。

 避暑地、避寒地に別荘を持つことは以前から多かった。ゴルフブームの頃はゴルフ場の周辺にコテージを買う人が増えた。エクシブに代表される会員制ビラも盛況である。これからの傾向は、趣味の世界の為の二つ目の家を持つことである。これは海の家、山の家にとどまらず、ガーデンニングの為の家、或いは森林浴のため林間に建てる家を求める人も多い。

 かつて焼き畑農業を行っていた山間部の農民達が村を遠く離れた山の斜面に雨露をしのぐ小屋を作り、そこでたった1人で収穫までの日々を過し、秋になって収穫物を背負って山を下りてくるという話を聞いた。村に残された妻子は夫の帰り、父の帰りを首を長くして待ったという。山小屋での暮しは、別荘とはあまりに遠い。しかしデュアルハビタントにはこの意義も含んでいる。即ち「異次元での生活体験」である。

 農作業小屋は私も子供の頃に体験した。川のそばにその小屋はあった。中は農機具で溢れていた。二階はワラの束で一杯である。そのワラを枕にしていると不思議に温かい。ついウトウトと眠ってしまう。その二階から一階まで飛び降りるのも面白かった。誰もとがめる人がなく一日遊んでいられるのが楽しい記憶として残っている。

 世の中がどんどん住みづらくなってきた。安全神話が壊れつつある。また高齢化の進展、少子化の影響で、高齢者世帯が増えてきた。安全な家を求めて人々は動き出した。盗難に強い家、風水害や降雪、地震、火災に強い家、24時間365日常に相談の受けられる家、病院に近い家、などなど。今迄と全く異なったニーズが生まれてきたのである。今の住いの他に、このような住いが作れたらすばらしい。そう考えて今新しい分譲マンションを福井市の副都心、福井市開発町に建設中である。

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越前ガニと三国シェフ

平成19年11月29日
越前ガニと三国シェフ

 能登半島の付け根、氷見市のまちおこしで活躍されている小松さんと知り合って1年あまりが過ぎた。フェニックス研究会という中心市街地活性化のための講師にお招きしたのが最初であった。その後お互いに触発されるものを感じて、二度三度と会う度に、多くのことを学ばせていただいている。その小松さんからメールをもらった。11月21日、22日と友人のオーナーシェフ「三国清三さん」が福井へ来るという。彼のレストランへ行ったことのある私は、お二人が、東京の子供達と氷見の子供達と共に、有名旅館で地元の食材を生かした料理教室を開いたのを聞いていた。今回の福井でのテーマは「越前ガニ」の解禁に合わせて、献上ガニといわれる「越前ガニ」を使った料理教室をあちこちで開いていただいたという。私は三国さんと親しく話しをするのは初めての経験である。彼の生涯の師と彼が尊敬する元帝国ホテル総料理長村上さんはよく福井へ来ていた。その師、天皇の料理長といわれた秋山徳蔵さんが福井出身であったので、その縁が元である。三代に亘る日本の著名なシェフが「日本一おいしい食の福井県」にゆかりのあることがうれしい。これから毎年必ず福井県を訪問し、次回は私の会社へもきていただくようお願いした。同席したのがジャルダンの黒味シェフである。お会いした場所は、今、私が建設中の分譲マンション「タワーグランデCHA」の近くのファームビレッジ。あまりに寒いので、風邪を引いたという三国シェフと、再会を約して別れた。

 私は仕事が趣味である。公私が常に混同している。公私混同は、私の場合は「私」がないのである。朝から晩まで毎日が公ばかりである。仕事一筋の毎日である。三国シェフのボランティア活動には頭が下る。常に他人のために活動しつつ、全国を歩くという。歩くというより飛び回っていると言ったほうが事実に近い。仕事一筋の私達は、殆んど毎日外食に明け暮れる。オーナーシェフの有名な店や隠れたレストラン、福井ではそばのおいしい店へも三日にあけずに通う。粗衣粗食を心がけているが、「おいしい福井県」に住んでいると、ついつい食べ物では贅沢をしてしまう。秋から冬にかけて、今福井が一番おいしい季節を迎えている。

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世界一の奉仕団体

平成19年11月28日
世界一の奉仕団体

 ロータリークラブに入会して早や25年が経とうとしている。理事、幹事、会長職を経験して、ロータリークラブの真髄がわかってくると、この世界一の奉仕団体が貴重な存在であることに気付く。世界最大の奨学会である。世界最大のボランティア団体である。120万人の会員が世界各地で日々ボランティア活動に精を出している。すべてが身銭を切った奉仕活動である。

 その活動の範囲は広く、深い。まず新会員を捜し、そしてその会員が後継者として「奉仕の理想」を実現するよう指導育成する。これを「クラブ奉仕」という。そして、次世代の若者達のために行う活動、これまた重要な奉仕である。これを「次世代のための奉仕」という。更に国際的な、他国のロータリアン、その家族友人達との交流を促進し、世界平和実現を目指す奉仕、これを「国際奉仕」という。そして最も特徴的な、ロータリークラブ独特の奉仕、それは自分の「職業を通して」まわりの人々、地域の人々、日本の人々、世界の人々の為に奉仕する行為、これを「職業奉仕」という。この四つの奉仕活動を行っている団体がロータリークラブである。

 私は福井北ロータリークラブのメンバーである。勿論出席免除のシニアであるが、毎回の例会は殆んど欠かしたことがない。若い頃仕事が忙しいのと、出張(国内、海外)が多かったので勤続表彰がなかなかもらえなかった。しかしメーキャップ制が年々緩和され、最近ではメーキャップにこられるゲストが少くなった。

 メーキャップはロータリークラブ活動にとって非常に大きなメリットであった。メーキャップによって他のクラブを知ることが出来た。ホームクラブの友人以外に地域に多くの友がいることを実感できた。ヨーロッパやアメリカの地方都市で、ロータリークラブのバッチを胸にしていると「私もロータリーですよ」と握手を求められることも珍しくない。

 世界のどんな都市でも毎日例会が開かれており、出席可能である。入会と同時に、ホームクラブメンバーを全員友人にすることが出来る。そして世界中に120万人の友を持つことが出来る。こんなすばらしいことがこの世の中にあるのである。奇跡のような現実である。どこかで戦争があり、殺人があり、貧困があり、災害が起きている。その中で「奉仕の理想」を信じて集まってくる人々が日本でも約10万人、世界中で120万人存在する。世界人口の内5千人に1人がロータリアンである。日本は1,200人に1人がロータリアン。福井県を含む2650地区は日本一、世界一といわれるすばらしい実績を上げている。福井県、滋賀県、奈良県、京都府を含む広大なエリアを持っている。長い間ダントツの会員数、寄付累計額を誇ったが、最近では愛知県をテリトリーとする2630地区の猛追を受けている。トヨタの本社がある名古屋を中心に、東京以外で急速に発展を続けている中京経済の好調さを物語る話である。

 毎週の例会は昼食を共にする研修会である。各クラブで多少のニュアンスの違いはあるが、求道的な厳しさの中、和気藹々と友情の交歓が行われている。現実を超越した「異次元の世界」という人もいる。直立不動の姿勢で国歌を歌ったり、友情の握手を交したり、日本中、世界中で起きた災害への寄付行為、交換留学生への支援、どれをとっても他では見られない理想的な人道行為が日々行われているところ、それがロータリークラブである。

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石油価格は暴落するか

平成19年11月27日
石油価格は暴落するか

 石油価格が高騰を続けている。サブプライムローンの破綻に始まる世界経済の危機を乗り越えようとして、世界中の中央銀行が金融機関を守るための資金提供を続けている。この余剰資金が小さなマーケットである商品市場に流れ込んでいる。

 安全な投資先と思われる金や貴金属、希少金属、そして問題の石油への投機が進んでいる。投機はいずれ終焉の時を迎える。これは確実に終る。即ち石油の暴落は必ず起きる。これは経済の常識である。

 価格が上昇を続けると、その消費にブレーキがかかる。これはどの商品も同じである。例えば代替品の少ない石油の場合もいずれ必ず消費にブレーキがかかってくる。そして投機資金は素早く撤退を始める。遅れた者が手痛い傷を負う。サブプライムローンの場合も既にこれと全く同じことが起きている。
サブプライムローンは低所得者向けの住宅ローンということで最初のうちは極端に低い金利で住宅資金を提供した。低所得者ということで審査基準を低くし利用しやすいシステムを作りあげた。安い賃貸アパートより安く入れる。誰でも貸してくれるというので人気を集めた。利用者が急増(アメリカでは低所得者の数が非常に多い)した。そこで余剰資金が集まりだした。資金提供者は、資金の運用先がなかった所に突然大きな資金需要が生まれたと考えた。現状の運用よりも数年先に利幅が大きくなるというスキームに魅力を感じた。そして投資開始。このまま数年がたって低所得者が支払不能に陥り破綻したのであればまだ傷は浅かった。

 しかし現実はこの単純なスキームから債権債務の証券化が流行しているように、このサブプラムローンを組合せた証券化が数多く行われだした。そして当初10兆円かといわれたこのバブルの傷は今日30兆円といわれる。更に今後増えるだろうとの見通しに反論はない。日本の1980年代のバブルの結果とよく似た様相を呈し出した。FRBパーナンキ氏の悩みは尽きない。先進国の中央銀行総裁の顔色もさえない。

 このサブプライムローンの状態と同じことが、今また商品市場、特に石油相場で起きている。暴落の危険は日に日に大きくなっていく。

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紅葉の京都

平成19年11月26日
紅葉の京都

 久しぶりに京都を訪れた、紅葉まっさかりである。大原三千院や八瀬の紅葉は散り始めている。木々の燃えるような紅と落ち葉の紅が、上と下に分かれて、紅の帯のように連なっている。北山通りや白河通りの銀杏並木は、黄色の洪水である。京都のテレビは、京都でも大きな古くからの禅寺の一つ、東福寺の紅葉をすすめていたが、私達は鷹ヶ峯のしょうざん光悦村を訪ねることにした。ここは北山杉や台杉を背景に小高い山の斜面に作られた光悦好みの庭園である。随所に趣の異なる茶亭が配されている。その建物群のあちこちで「きもの」の展覧会や、和紙(竹の繊維を使っている)や竹筆の個展が開かれている。京都の冬は厳しいが、特に今日は寒い。小春日和を期待していたが、日陰に入ると冷たい風が身にしみる。50年前に過した下鴨での学生時代を思い出す。1955年頃の京都の下鴨では、くみ取り便所があった。学生のことゆえ、肌着の洗濯は、下宿の洗濯板を借りて、石鹸(粉でない、固型の大きなもの)を押し当てゴシゴシ洗ったものだ。水が冷たかった。不思議に紅葉の印象は薄い。50年前の洛北もこの紅葉は美しかった筈であるが、印象には残っていない。

 秋が深まると寂しくなると義母が言う。特に夕方が人恋しいと。「一日一生」を心がけて、生活している私達であるが、季節は春夏秋冬とめぐりめぐってくる。しかし人の一生は、青春も一度しかない。盛夏もたった一回。秋も同じ。とすると晩秋は人生最後の冬の到来を予感せざるを得ない。夕暮れ時は「一日一生」という気持で迎えると、晩年を思うことになる。残り少ない今日の一日は、人生にたとえると、熟年を過ぎつつある日々ということか。千年の都、京都の、降りしきる紅葉の、小砂利道を踏みしめて歩いていると、私の好きな本阿弥光悦に出会えそうな雰囲気である。

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越前市

平成19年11月21日
越前市

 福井県下第2の都市「越前市」はかつて「府中」といわれ、永く越前の国の国府がおかれていた。福井県下の伝統工芸といわれるものの殆んどはその越前市周辺にある。また「寺のまち」ともいわれ、地図を広げてみると町の中心の部分の約半分近くが寺院である。

 越前の三大河川の一つ「日野川」が村国山の麓を流れ、その東側に日野山が美しい山容を見せている。かつて紫式部が歌によんだあの日野山である。

 日野山と日野川の名も府中から見ると東側にある。太陽の日にちなんだものであろう。先日その越前市に本拠を持つ「仁愛大学」から講演の依頼があった。三回生を対象にして『企業が求める人物像』というテーマでの講演である。日野山と日野川との間に広がるキャンパスで約200名という学生達に語りかけた。

 今地方都市は苦難の道を歩んでいる。ほんの一握りの大企業は業績好調であるが、地方ではそんな大企業はごくごく僅かしか存在しない。中小、零細は苦しい経営を強いられている。若い学生達に、若さを武器に、この変化の時代を、チャンスと見て、挑戦を続けようと熱弁を振るった。仁愛大学の創立者禿すみさんは明治のはじめ同志社大学で学ばれている。ちょうど60年程私より早く学ばれていたことになる。そんな縁で何度か、福井の仁愛女子高校の就職の為の模擬面接に参加した。また仁愛大学でも二年前に講演をしている。同志社につながる不思議な縁を感じての奉仕活動である。

 越前市の中心市街地を歩いてみると、県都福井市より更に厳しい状況にあることに気付く。人口10万人に満たない都市にも、ドーナツ化現象が起きている。車社会で、人が歩いていない。かつてのうるおいのある、しっとりとした町並みだけが寂しく夕闇の中に残されている。このまちを再生するすばらしい知恵はないのであろうか。越前市や、武生商工会議所、越前市まちづくりセンターから、「再生の提案」を求められている。微力な私に何が出来るかを真剣に考えながら、氷雨の振るまちを後にした。地域の人々との共同事業の可能性、越前市の第三セクターとの共同事業などを通して、国の優良建築物に対する支援を受けられるかどうかを心の中で検討していた。

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創業200年

平成19年11月20日
創業200年

 「老舗」というと「のれん」を連想する。大体100年以上に亘って連綿と続いてきた超優良企業を一般的には「老舗企業」と呼んでいるようだ。先日その老舗企業の「安田蒲鉾」の安田社長から「蒲鉾談義」を聞いた。安田蒲鉾では、全国的にも珍しい「蒲鉾道場」を開いている。そこでは蒲鉾作りが体験できる。県内の小学3年生約8,000人が、既にこの道場で、蒲鉾づくりを体験しているという。参加型、体験型の学習方法としてすばらしい試みである。私達が行っている小学生対象の「キッズグローブ」「地球に触ってみようキャンペーン」とよく似ている。

 蒲鉾等の魚の練り製品の国内市場は、ピークの100万トンから30パーセントほどダウンしている。業界全体にリストラが進んでいる。食品スーパーなどへの納入は全く利益が出ない。そんな厳しい環境の中で、老舗の安田社長はユニーな売り方と徹底した品質管理方式を採用している。

 まず売り先は福井県内に限定して、品質維持に全力投球。夏のある時期を除いて保存料は使わない。県外へは自然食品を扱っている一部のお店だけ。朝4時から作り始めてその日の朝に出荷を終ってしまう。品質検査の専門スタッフを置いている。今大問題になっている賞味期限云々は全く関係ない。「安全な食」が老舗の信用の命である。

 味は材料で決まる。最高の新鮮な材料の魚をすりみにしてこれを種々な商品に仕上げている。その味の独特の風味は食べてみないとわからない。まさに「のれん」を大切にした「老舗」の味といえよう。

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三惚れ

平成19年11月16日
三惚れ

 古来より「三惚れ」という。妻に惚れよ、仕事に惚れよ、今いる土地に惚れよという意味である。そうしていればすべてがうまくいくと教えている。ある損保の幹部社員からこの言葉を久しぶりに聞いた。「私の会社では、汝、任地を愛せよ」とは正に至言である。

 戦後裏日本といわれる日本海側の各都市は、暗いイメージを持たれてきた。日本列島の背骨を形成する各山脈と最後のモンスーン地帯といわれる湿った空気の為に、雨や雪が少し多いせいである。また戦後の経済、政治活動の相手がアメリカ一国に集中したせいもある。「太平洋ベルト地帯」といわれる首都圏から関西圏までの間に投資が集中した。

 今また対大陸貿易の時代を迎え変化が起きてきた。環日本海の諸都市連携の機運が盛り上がりつつある。恐らく今後100年間は大陸重視となることは間違いない。北陸新幹線の開通に向けて、関係する地方公共団体もはじめ市民の期待は大きく膨らんでいる。「土地に惚れる」という意味でも、地方に対する温かい配慮が望まれる。どんな小さなことでも、やれるところから実行していく、これが成功のコツである。「地方重視」を忘れた自民党は手痛い選挙での敗北を喫したが、反省の時を迎えようとしている。

 「日本一」すばらしい福井県に住んでいると、ついついそのよさ、すばらしさを忘れてしまう。越前ガニが解禁になった。海の幸はますますおいしさを増している。紅葉もまっ盛り。実りの秋から冬支度が始まる晩秋を迎えた。今夜も妻と一緒においしい地酒と新鮮な夕食をいただき、この土地に惚れ直すことにしたい。

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大理石

平成19年11月15日
大理石

 日本の大理石の産地は、岐阜県の赤坂に極まる。建築物に使われる石の中で最高のものが「大理石」である。自然が作り出したその色や模様は、「大きな宝石」と言える程、人を魅了する。国会議事堂をはじめ、日本でも有名な建物には、必ずと言っていい程この大理石が使われている。

 東京芸大の先生をされていた矢橋六郎さんと知り合ったのは私が岐阜市に住んでいた1970年頃であった。油絵やスケッチを数点いただいた。大理石の関係で世界をまわるというお話である。赤坂山の大理石の埋蔵量を温存する為、外国からの輸入を行っているとのことであった。当時赤坂の近くでセメントの原石の採掘、輸送をしていた人々と親しかった縁で、赤坂へもよく行った。大きな、巨大な原石が野積みになったり、加工されたり、不思議な活気を感じさせる町である。

 先日関ヶ原製作所の矢橋会長の講演を聞く機会があり、矢橋亮吉翁のお孫さんであり、矢橋六郎さん
の甥であると聞いて驚いた。関ヶ原製作所の二代目社長として、第二の創業に尽力し、いままた会長として、第三の創業に立ち会っているとのこと。

 矢橋六郎さんの温顔を私はひとりでに思い起していた。矢橋会長の笑顔がまたすばらしいのである。こんな経営者の下で働く社員の方々の幸せをヒシヒシと感じた。

 言葉も大切である。心も勿論大切である。しかし人に対しても、ものに対しても、人は見映えにとらわれる。これが事実である。大理石の美しさはたとえようもない。矢橋会長の笑顔も誠にすばらしい。「顔施」というか仏像を思わせる魅力を感じた。

 中身の乏しいみずからを顧みて、「笑顔よし」の道に更に精進をしたいという思い切なるものがある。

 今建築中の分譲マンションにこの美しい大理石を使って矢橋亮吉翁や矢橋六郎先生、そして関ヶ原製作所の矢橋会長を思い出すよすがとしたい。

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60歳の出発

平成19年11月14日
60歳の出発

 いよいよ団塊の世代の定年退職が始まった。無事定年を迎えて、第二の人生を安心してスタートすることが出来るのは、何パーセントぐらいの人であろうか。年金支給が65歳に引上げられつつある現在、更に雇用延長を希望する人が多いことであろう。男女ともに、平均寿命が延びているのも心強い。第二の人生設計を早めに心がけておくことも大切である。

 60歳からの再出発を考えてみよう。平均するとあと20年が残っている。ということは40歳から現在の60歳までにやってきたこととほぼ等しいことを成し遂げられる可能性をはらんでいる。いやいや40歳の時には不足していた知識やノウハウ、人脈は更に厚みを増してきた。退職金を手にして、心のゆとりも生じている。

 たった1回きりの自分の人生だ。何か世の為、人の為に役に立つ仕事があるはずである。しかもそれは身近にある。それを見つけて、それに集中していけば第二の人生の花が開く。
私利私欲は捨てよう。そんな小さなもの、そんな汚れたもので自分の大切な人生を終らせたくない。もっとまわりの人々を幸せにする為に残りの人生を使おうではないか。

 目を開けば、耳を澄ませば、見えてくるもの、聞こえてくるものは暗く、貧しく、汚い。しかしそれに流されてはいけない。絶望してはいけない。コツコツと平凡に努力を続けているうちに必ず新しい世界が開けてくる。すぐ近くのたった1人の人を助けること、たった1人の人に喜んでもらうこと、たった1人の人の幸せの為に努力すること。そこから始めることだ。

 大きなこともまず最初の一歩を踏み出すところから始まる。「さあはじめよう」とかけ声を掛けよう。そして上を向いて歩き出すのだ。60歳からの出発に幸あれと切に祈っている。

 希望する人に『夢への始動』(鶴蒔靖夫先生著)の本をさし上げている。無料。心の支えになればと念願している。

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非常識

平成19年11月13日
非常識

 人類の歴史の中で、常識はいつも敗れてきた。常識を超えるもの、即ち非常識が正しいとされてきたケースは多い。常識の世界はなぜ弱いのか。それは変化に対する対応が、遅くなるからである。常識の世界は保守一色である。人は保身に走る。真の勇気なくしては、時代の流れに乗り切ることは難しい。非常識と思われる新境地に至ることは難しい。

 非常識と思われることを実行するのは、大変な抵抗にあうことを覚悟しなければならない。例えばガリレオが地動説を唱えた時、教会は天動説が常識であった。迫害を受けた。しかし真理は勝った。非常識の勝利である。

 幕末の鎖国を解き、開国を迫った人々、皇室の復権を唱えた人々は、最初はみな非常識人として処刑された。吉田松陰、橋本左内などすべて犠牲者となった。しかし彼等の非常識が、明治維新を現実のものとした。その薫陶を受けた者は、明治の顕紳として、日本再生の先頭に立った。
非常識を否定することはたやすい。それは多数派につくことだからだ。しかし、非常識の中に常に一筋の真実があることを見極めることが大切である。非常識は起るべくして起るのである。その中身を検証するクセをつけておこう。

 現代は価値判断が難しい。真に価値のあるものが特定しにくい。例えば自動車である。20世紀最大の発明である車は、21世紀に入って、悪者にされかねない。
世界一の圧倒的な力を誇るアメリカは、テロに苦しんでいる。軍事力、経済力、文化力すべてにおいて優位なはずのアメリカが勝てない。

 今静かに進行中の異状現象は、いくつかある。温暖化。資源枯渇。食料難。水不足。ガソリン高騰。貧富拡大。そして政治の世界での女性リーダーの誕生である。これは平和の象徴である女神讃歌なのであろうか。世界のトップがすべて女性にかわるというのも非常識である。

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気比神宮

平成19年11月12日
気比神宮

 福井県敦賀市に越前一の宮の気比神宮がある。神功皇后が三韓征伐に出発し、帰国した港として有名である。祭神と天皇が名前を交換したという伝えがある。越のくにの中心地であった。三関の一つ愛発の関のすぐ外側にあり、かつて「越の国」は大和と同列の国家であった。その神宮が日本三大松原の近くに鎮座している。能登の気多大社、越中の気多神社等と連なり、その流れは北は東北地方にまで延びている。

 神社は各地の「一の宮」と呼ばれる総社を中心に、全国に広がっている。最大のものは出雲大社(いずもおおやしろ)である。伊勢(大)神宮は別格であるが、大社と神宮が神社より格上の感じがする。諏訪大社も上社、下社があり大きい。宇佐神宮(豊前)は全国の応神天皇(八幡大神)系の神社4万数千社の総本社である。摂津の住吉大社は住吉神社2千社余りの総本社である。一の宮ではないが伊勢の椿大神社(おつかみのやしろ)は猿田彦の2,500社の総本社である。また全国にある熊野神社も有名である。安房の安房神社は180社の総本社である。

 また「一の宮」にかえって、近江には建部大社があるが、日吉大社、多賀大社と上になったり、色々と長年の確執があったようである。丹波の出雲大社神宮は出雲の国の出自を思わせる名前である。熱田神宮の草薙の剣は有名である。下総の香取神宮、常陸の鹿島神宮も有名。大社には、和泉の大鳥、駿河の浅間、伊豆の三嶋、美濃の南宮、筑後の高良大社がある。

 また神宮も、紀伊の三前国懸、淡路の伊弉諾(いざなぎ)があり、大隅の鹿児島神宮は明治時代までは大隅正八幡宮と呼んでいた。神社の古事来歴を調査していくと、日本の歴史の特徴に気付くことが多い。日本海側に点々とある小さな白木神社は、半島の新羅につながる民を思い起こさせる。

 ともあれ継体天皇即位1500年を迎えたこの年に、天皇、皇后みずから出陣したと伝わる気比神宮への興味は尽きない。日本の神社はかつての自然崇拝が、数千年もの時を経て、まだ日本の各地で鬱蒼とした鎮守の森を残している。どんな小さな村にも神社が数社、お寺が数寺必ずある。近くの山頂にその奥社があることが多い。気比神宮の浜辺には、日本三大松原の一つ、気比の松原が広がっている。松原客館という渤海よりの客人を迎える館があったところである。

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笑いの効用

平成19年11月9日
笑いの効用

 「笑い」の科学的な研究が進んでいる。笑いの効用についてよく考える。夜に寝室で1人で笑ってみる。悪い気はしない。ついつい暗くなりがちな気分の時に、無理をして笑顔を作ってみる。散歩をしている時、その笑顔で歩いていると、すれ違う人が会釈してくれる。つい嬉しくなって本当に笑ってしまう。

 「笑い」は私の心を常に前向きにする効用がある。こんな力を与えてくれるものは他にない。そして笑うことには何のコストもかからない。

 また「笑い」は私の身体にもよいという。健康増進に役立つというのだ。万病に効く薬だという。健康保険制度が破綻しそうな時に、これは朗報である。大いに笑顔をふりまいてお互いが健康で長寿を満喫しようではないか。

 私の会社の壁に張ってある標語に「あなたの笑顔が一番美しい」とある。かつて男は力仕事をしている姿が美しいといわれた。真剣に働く姿を美しいと評価したのである。かつて女性は愛嬌が大事といわれた。「男は度胸、女は愛嬌」から来ている。現代は男女について差別をすることに異を唱えるようになってきた。M的女性が増え、F的男性が増えてきたせいであろう。だから男女の差なく「笑顔が一番美しい」ということにしている。事実だ。

 笑顔はまわりを幸せにする。笑い声の絶えない職場ほど活気がある所はない。家庭でも同様である。古来より「笑う門には福来る」といわれている。どんなに貧しい家庭でも笑い声に包まれた家庭であれば、子は立派に育つ。

 私の会社では古いビルをリニューアルして再生して活用する仕事をしている。「もったいない哲学」の実践である。古いビルでは日々のお掃除が美しさを保つ為に特に重要である。社員が交代で掃除している小さいビルと、専門の人を雇っている大きなビルとがある。明るく元気に笑顔がいっぱいでお掃除している人を見ると、本当に頭がさがる。心から「ありがとう」の言葉が出てくる。立派な人だと実感が湧いてくる。嬉しくなって私も笑顔になっている。禅の大師が「何もすることがなかったので一日座って笑っていました」という言葉を私は忘れたことがない。

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戦争体験

平成19年11月8日
戦争体験

 1945年8月15日昭和天皇の玉音放送を聞いた。その時の日本人の殆んどすべては「戦争が終った」と感じた。「敗けた」と感じた人よりも「終った」と感じた人のほうが遥かに多かった。その後「敗戦」ではなく、「終戦」という呼び名が日本では定着していった。

 後になってよく考えてみるとポツダム宣言受諾、無条件降伏ということは間違いなく「敗戦」である。以来私は「敗戦」を使うことに決めている。

 1937年3月生まれの私は、敗戦の時、小学校3年生(当時は国民学校といった)であった。幼い記憶の中に、戦中、戦後の混乱の日々は生々しく残っている。

 華々しい大本営発表の戦果(校内放送で毎日聞かされる。日本軍の勝利を誇大にラジオで放送していた)の終るか終らないかの後で、敵機襲来(アメリカ軍の飛行機の襲撃)の警戒警報が鳴り出す。すぐ続いて空襲警報が鳴り出す。私達低学年生は、高等科のお兄さん達に手をひかれて防空壕まで命がけで走って逃げた。幸い私の住んでいた町は、不発弾が落ちただけで、被害は少なかった。しかしカネボウの監視塔にいた人が、機銃掃射で死んだ。その時、父は出張する為に長浜駅にいて、待合室のベンチの下にもぐりこんだという。祖父は、父を心配して布団を頭からかぶって出ていこうとして、母に必死で止められていた。真昼の惨事であった。

 来る日も、来る日も、昼となく夜となく、空襲におびえる日々が続いた。睡眠不足で精神的にも肉体的にもまいっていた。そのあげくの玉音放送であった。大人は全員泣いていた。私は「ああ、これで今夜からゆっくり眠れる」と思った。「敗戦」というものの実態を知らない子供の実感である。

 長ずるにつれて、戦記ものや引揚げ者の手記が次々と出版されだした。戦争の惨めさ、悲惨さを知るにつけ、私は「不戦の誓い」の思いを深めていった。「平和の尊さ」を子孫に伝えていくことが、戦争体験者の義務であり、責任である。私の蔵書の中に、戦争に関するものが多いのはそのせいである。命のある限り、「不戦」の旗を振り続けていく覚悟である。

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乳白色の霧の中

平成19年11月7日
乳白色の霧の中

 朝6時、読書の間にふと窓外に目をやる。外は一面の乳白色の霧の中である。庭先の木々がぼんやりと霧の中に浮かび上がっている。いつも見える山なみは全く見えない。不思議な白の世界が広がっている。

 何事も見えるように思っている日頃の自分の至らなさを思う。乳白色の霧に隠れた事象は、そう簡単に人間に見えるはずはない。見えないものを見えると思うのは錯覚である。傲慢といってもよい。霧の中にいて、日頃の浅知恵を反省する機会となった。

 生きるということは耐えることである。常に困難な状態が次々と惹起してくる。それを丁々発止と受けながら、生き続けなければならない。人生で何事かを為さんと思えば思うほど、逆風にさらされる。それに耐え、乗り越えることが出来た人だけが喜びを掴む。しかし、殆んどの者は乗り越えられずに挫折する。逆境の中また次の試練が待っている。

 耐えることは人を強くする。生老病死という言葉があるが、その生きること、老いること、病気にかかること、死を迎えること、すべてが孤独との戦いである。人生の一コマごとに耐える為の試練が待っている。生ある限り、力一杯耐え忍んで生き生きと行き続けていきたい。たとえどんな試練であろうと、耐えられないことなどあろう筈はない。

 霧が少し晴れてきたように思う。気のせいであろうか。テラスに出てみると鳥の声がする。はっとする程に命の尊さを感じた。今日もまた深い霧の中を一歩一歩進んでいける勇気を与えられた。

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家庭の崩壊と企業責任

平成19年11月6日
家庭の崩壊と企業責任

 教育の危機が叫ばれている。躾が出来ていないのだ。かつて当たり前であった三世代同居は夢物語になってしまった。仕事が忙しい父とパートで働く母と孤独な子の3人世帯が標準家庭である。「孤独な」というのは「1人っ子」という意味と「いつも一人ぼっち」という二つの側面を持つ。厳格な父はいない。優しい母もいない。生活の知恵を授ける祖父母もいない。喧嘩と闘争に終始するテレビやゲーム、マンガだけがある。

 日本のアニメの評判は悪くない。しかし評判のよいのはアニメ製作のテクニックである。内容ではない。暴力的な内容に対する批判は、予想以上だ。公害タレ流し以上に、暴力肯定とも思える日本製アニメに対する風当たりはきつい。子供に対する悪影響を心配しているのだ。しかるに日本ではもう批判する人はいない。困ったことだ。

 家庭の崩壊の危機は過ぎたともいわれている。既に崩壊してしまっているというのだ。手遅れなのだ。それでは対策はと考えると、残され道は、企業責任である。企業が受け皿となって、躾や道徳教育をする時代が来た。殆んどの有力企業が、社員研修にマナー教育を重点的に取り入れている。長幼の順、敬語の使い方、話し方からおじぎの仕方に至るまで、懇切丁寧に教えなければならない。

 同時に企業は、社員である父や母を、家庭に帰すことにまで責任を負わされている。本来職場は仕事をするところである。社員の研修は仕事に関することに限定されるべきものである。しかるに今日ではそれでは全く教育の用をなさない。それ程家庭や学校での躾や道徳教育を含む常識的な基礎訓練が出来ていない。

 そこで私達の会社では、入社早々より「お掃除」と「挨拶」は徹底的に教え込む。人間としての根本精神の修練と考えるからである。それが企業責任の一つと考えているからである。毎日毎日お掃除をし、礼儀正しい挨拶をしていると見違えるように成長するのがよくわかる。崩壊した家庭再生の為にもプラスになると考え、私も自らゴミ拾いをしている。

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マスメディアの責任

平成19年11月2日
マスメディアの責任

 世の中が悪くなってきた。子が親を殺すという。すべての者はみな親から生まれてくる。子が親を殺すのは自己否定である。かつて尊族殺人は死刑であった。

 子を捨てる親もいる。自分の命に代えても守るのが親である。しかし育てられないといって子を捨てる。

 親も子も、あまりに自分本位にすぎないか。自分を捨てて、相手のことを考えてやれないか。私はできると思う。躾や教育そして愛情によって、社会をよくすることは出来る。

 まずマスメディアの報道の取り上げ方を変えてもらう。「ペンの暴力」といわれるが、テレビの通俗番組、悪いことばかり次々としつこく報道するマスメディア。これは明らかに「ペンの暴力」である。必要のない報道というより、悪影響を与える報道なのだ。世の中にはすばらしい人が大勢いる。みんなが見習うべきことが沢山ある。そんなことを報道してほしい。

 世の不正を質し、社会を導くべきマスメディアが、人々を反対の方向に引っ張っていってどうすうのか。

 世の中の美しいものを捜し、尊敬すべき人を捜し、隠れた美談を捜す。私は前向きに、ひたむきに生きるのが好きだ。そんな人に会いたい。そんな記事を見たい。そんな本が読みたい。そんなテレビ番組がほしい。

 マスメディアの責任はそこにある。果たすべき責任と義務はそこにある。それでこそ、社会の公器といわれ、最高の権力を持たされている価値がある。

 北朝鮮のニュースを知らせる女性アナを見ていると、私は大本営発表のラジオニュースと酷似しているのに気がつく。正しい時代認識の下、自らの主義主張をするのはよい。しかし、誤った方向へ人々を誘導することは許されない。

 報道は「不偏不党」が原則だと日本ではいわれている。これもおかしい。マスメディアは確固たる信念に基いてニュースを流すべきである。

 堂々と論陣を張るほどの社説が少ないのが残念である。テレビも新聞も雑誌も、活字ばなれが進み、インターネットや携帯の影響が大きくなる中で、原点に返ってマスメディアの責任について今一度考え直してほしいものである。

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旦那さん

平成19年11月1日
旦那さん

 母はいつも父のことを「旦那さん」と呼んでいた。終戦後民主主義が導入され「戸主」が廃止された。それまでは戸主が一家の長であった。祖父は88歳で死んだ。現在の相続制度と異り、当時は全財産を戸主が相続した。戸主の権限は絶大であった。

 父は養子であった。私の生まれる前昭和10年頃に野坂家へ養子に来た。長浜近郊の小藩の士族の末裔である。養子縁組に際して履歴書(実筆墨書)を残している。

 母も養女であった。戸主であった祖父の妹の娘であった母を幼い頃養女にもらっている。野坂家は江戸時代より女系で祖父の父も養子であった。祖父の父は養老の滝で有名な岐阜県養老町から来た。祖父が生まれた時は一族を上げて喜んだという。女系が続くと、男子誕生が切望される。私の誕生もそのような背景の中で喜ばれたようだ。

 母はそれだけに家への思いが強かった。野坂家の柱石ということを常に考えていたようだ。戸主である祖父を敬愛しながらも、父を「旦那さん」と呼んだ。家族全員の中で一人だけそう呼んでいた。他の者はお父さん、父ちゃんなどと呼び、母以外の者が父を「旦那さん」と呼んだことはない。母は和裁塾を若い頃に開いた。結婚前に京都の親戚「清水家」にいて、そこで和裁を修学した。母の和裁塾は30人程の塾生がおり、数軒の呉服屋の丁稚や香頭が出入していた。呉服屋は土地ではお大尽である。その主人は「旦那さん」と呼ばれ、尊敬されている。母はそれを意識していたのであろうか。父が死んだ後も、父のことは常に「旦那さん」の呼称で終始した。

 「旦那さん」という声の響きは未だに耳に残っている。いつも着流しの着物姿で、折目正しく生活していた父の姿を思い浮かばせる。家庭での躾の乱れをいわれるようになったが、親子三代の同居がなくなり、親戚付き合いがなくなり、近所付き合いがなくなった今日、教育の危機をひしひしと感じている。

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近江商人

平成19年10月31日
近江商人

 「三方よし」という商いの哲学がある。先輩が長い年月かかって築き上げた近江商人道である。長浜の名物に「小鮎の飴だき」がある。小鮎を甘味と醤油味でコトコトと煮る。かくし味は山椒である。葉山椒、実山椒、粉山椒といろいろ使い分ける。鮎は川魚の逸品である。しかし、近江では鮎は不思議に大鮎になれない。全国へ稚魚のうちに出荷されていく。栄養分の豊富な全国の河川や湖沼で大きく成長する。
鮎が近江で成長できず、他所へ出て大きく育つことを、近江商人にたとえて話される。全国へ、全世界へ雄飛するのが近江商人だと。小鮎が立派な大鮎に育つように、他国で頑張れと。

 交通手段は、100年前までは殆んど徒歩であった。後は馬か駕籠である。船便もあるが内陸には入り難い。江戸末期鹿児島から長崎まで徒歩6日、江戸までの参勤交替で40日を費やしている。加賀100万石や島津77万石を維持するのは大変なことであった。

 近江商人達も大変である。故郷近江を遠く離れて、彼等は旅商人から、徐々に土着化をしていった。地域に受け入れられていく為には、想像を絶する苦難があったことであろう。

 私は時間軸と空間軸を常に思考の基におく。あらゆる物事を、時間軸上で考えたり、空間軸上で考えたりする。物事の判断は、その際に、反対の結論を出すことがあるからだ。近江商人の時代、交通手段が未成熟な中での彼等の活動のエネルギーを考えると私は恥ずかしくなる。私の現状は何と恵まれていることか。瞬時に情報を受けたり、出したり、短時間で広範囲に活動することも出来る。交通手段、通信手段だけを考えても、私の置かれている立場は、ご先祖様とは比較にならない。有難いことである。

 近江商人のDNA、そして日本人のDNAを子孫にどうして伝えていけばよいのか。それに思案投首の毎日である。「喜びの種、幸せの種を蒔こう」を合言葉に、常に「三方よし」ならぬ「十方よし」を念頭に生きていくことを伝えていきたい。

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とげぬき地蔵

平成19年10月29日
とげぬき地蔵

 東京山手線巣鴨駅を降りると、他の駅とは少し風景が変って見える。高岩寺、とげぬき地蔵尊の門前町である。地蔵通商店街を中心に、巣鴨駅から都電荒川線の庚申塚駅まで約800メートルの間に、店が並んでいる。曹洞宗万頂山高岩寺のご本尊は、「心のトゲ、心のトガ(罪)」を抜いてくれるという延命地蔵尊で拝観は出来ない。

 この「延命地蔵尊」の「御影(おみかげ)」をいただく。和紙に刷り込んである。縦4cm、横1.5cmの和紙である。このとげぬき地蔵へは年間900万人が訪れるという。

 福井の永平寺は、曹洞宗大本山である。しかし年間の参詣者は、残念乍ら約200万人と少ない。いかに「とげぬき地蔵」に人気があるかよくわかる。人気の秘密は対象を「信心深い中高年」に絞ったことにある。巣鴨が「おばあちゃんの原宿」として、戦後人気を集め出した。今では若者の姿も多くなり、オシャレなお店も多い。

 この「とげぬき地蔵」の高岩寺は曹洞宗のお寺である。福井県織田町平等の出身で、福井とは縁が深い。私はこの「とげぬき地蔵」にあやかって、福井のえきまえを活性化したいと考え、えきまえに「生き生き地蔵尊」を招来した。毎月24日の「地蔵まつり」の日に永平寺第一教区大乗院のお坊さんに先導いただき、約1時間の読経とお説教をお願いしている。

 近所の商店街の方々をはじめ県内外からのお参りが多い。参拝者のご先祖供養、ご家族の健康長寿、無病息災を願い、般若心経をはじめ、数々のお経を上げていただいている。お供えのおさがり、粗品進呈もあり、毎月参拝者は増えてきている。柴田神社(通称お市神社)と相まって人気のスポットとなってくれることを期待している。なおこの「生き生き地蔵尊」はビルの中を通れる歴史のみちの路傍に鎮座ましましている。

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AIC

平成19年10月26日
AIC

 ナイチンゲールは今から約100年前に、看護士の卵達に向ってこう言っています。貴方達が経験したことのない「わが子を失うというような悲しみや苦しみを持った」母親に対して、その悲しみ、苦しみに共感できなければならない。それは感性である。感性のない者は看護士の資格がない。
医は科学である。そして技術である。しかし心の伴わない医は科学や技術であっても価値はない。特に高齢化社会になってくると、終末医療を含め、心のケアの重要性がまして来ている。100年前のナイチンゲールの言葉の重みを感じる今日この頃である。

 コンピューターの世界も面白い。約50年程前からコンピューターとのお付き合いが始まった。はじめはコンピューター用語は、アブリビエーションがあまりに多く、日本人にとっては誠に使いにくいものであった。そして日進月歩、その変化が早い。ミシガン大学短期留学の前後、世界を飛び回っていた頃から、コンピューターへの関心が深まった。トヨタの新車ディーラーの代表者になった頃、トヨタは全国にコンピューターのネットワークの構築を始めた。1980年頃である。

 1990年頃にコンピューター事業本部長の時、本格的にコンピューターを知った。ブラックボックスではあったが、その中身を少しずつ理解し始めた。ナイチンゲールのいう「感性」によって、物体にすぎないと思っていたコンピューターが身近になった。その頃A.I.C即ちアーティフィシャル、インテリジェント、コンピューティングという考え方である。人間の脳の働きを真似た認識方法の採用である。

 私は早速この「アイク」という名をとった子会社を設立した。サラリーローンのアイクが出来た頃である。今でも私のメールアドレス(公式のもの)はaic@syb.co.jpとaicを使っている。コンピューターの世界にも感性を生かしたいと考えているからだ。I.C.Tの最先端企業を目指すという私の夢の看板は、まだ下したわけではない。最先端は常に小さく、するどく尖っている。大きいより小さい方が最先端になり得る。そう考えてAICを追求し続けている。

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艱難辛苦を乗り越えて

平成19年10月22日
艱難辛苦を乗り越えて

 藤沢周平という作家がいた。若い頃から辛酸をなめた。実家の二度の破産。苦学して師範学校を出て教師になって僅かに三年。肺結核にかかり闘病生活が続いた。結婚して、死産で子をなくし、藤沢生まれの最初の妻をガンでなくした。45歳で、直木賞をとって、作家としてやっとデビュー。
その間世の中の不幸を1人で背負ったような厳しい人生であった。艱難辛苦を乗り越えて、藤沢周平独特の深みのある、透徹した、厳しい世界が生まれ出た。

 何という優しさであろうか。苦労した人しかわからない人生の機微を見事に描き出している。特に数少ない女性の表現がよい。今はもう存在しない、かつての日本女性、それも理想の女性像を表わして、玄妙である。

 私も人生の大半を、失敗の連続の中で過してきた。だからなお藤沢周平への思いが強い。失敗は誰でもする。失敗を怖れたら、何も出来ない。ただの一歩ですら踏み出せない。失敗すればよい。失敗することで多くのものを手に入れることが出来る。

 不幸も同じである。不幸を怖れては前へ出ることが出来なくなる。不幸はすべての人に平等に訪れる。それを是として受け入れるかどうかで、先が決まってしまう。不幸を受け入れることは、克服することにつながる。不幸の受入れを、不平不満で、拒否していると、状況をますます悪くしてしまう。

 不幸はチャンスと思い、次の発展に向って、努力をしていくことが大切である。不幸や苦しみは、考えようによっては、幸せであり、喜びである。感謝して、その不幸や苦悩を甘受し、新たな気持で挑戦を続けることが肝要である。

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知恵の勝負

平成19年10月19日
知恵の勝負

 人間の可能性は無限だ。優秀な人も、優秀でない人も、全く同じように可能性は無限だ。私は優秀な人が大好きだ。同じように優秀でないと思っている人も好きだ。自分は優秀でないと思っている人は多い。でも本当に優秀ではないのか。実は本当はそう思っている人も優秀なのである。自分の思い込み、まわりの勘違い、誤解、偏見が生み出した幻想にすぎない。

 人間は等しく平等に優秀である。ミケランジェロもアインシュタインもエジソンもあなたと同じである。私と同じである。人間に多少の差があるとすれば、それは「意欲の差」である。「やる気の差」である。例えば足の速い人鈍足の人は同じスピードで走れない。しかし10年後も同じかというとわからない。野球選手でも王貞治、イチロウなどは「才能の人」というよりは「努力の人」である。常人の考え及ばない程の努力の積み重ねが差になって表われてくるのだ。

 特に頭脳に差はない。脳細胞は加齢と共にドンドン死んでいくといわれた。間違いだ。脳細胞も新しく作られ続けているのだ。アルツハイマーで脳が傷つくことはある。また年齢が進むと頭蓋骨の形が変ってくる。しかし、脳力や能力は努力と訓練、環境によって改善される。

 ソニーの創業者井深大氏は「三つ子の魂だ。三歳までの間に、子供の脳細胞から出る触手のからみあいによって脳力が決まる。胎教を含めた幼児期の母親の努力が、子供の将来を決める」と考え、彼は晩年に全国の青年会議所をまわって幼児の父であった私達に幼児教育の大切さを力説した。

 私はそれを否定するつもりはない。しかし3歳児までというのはあまりにこだわり過ぎである。例えば四国に「いろどり」という老人ばかりの会社がある。平均年齢70歳。190人。全員がパソコン・ファックス・無線を駆使している。若い頃から使えたわけではない。「もみじビジネス、葉っぱビジネス」を始めた時に学び出したのだ。平均70歳以上のお年寄りが、心機一転やる気になって、新しいことに取り組んだのである。そして見事にやり遂げた。

 知恵の泉は決して涸れない。こんこんと湧いてくる。使えば使うほどますます湧き上がってくる。これからの日本の得意分野とすべき所はサービス分野である。そこで要求されるのは「知恵」である。体力ではなく知力を求められる。常に時代の先を見て、知恵を絞り、新しい第一歩を踏み出していきたい。

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味覚

平成19年10月17日
味覚

 ヨーロッパ大陸の人は、イギリス人の味覚を信じない。イギリス料理は味がないという。即ちイギリス人は味覚が不足しているというのだ。大体において味が薄いのは確かである。私は味が薄い方が食べ易いので、嫌いではない。フランス料理の濃厚な味を毎日いただくよりは、イギリスの薄味は悪くはない。

 中国人の味覚はフランス人に似ている。味の濃厚さでは中華料理とフランス料理は世界でも双璧である。その反対に位置する薄味の代表格が、イギリス料理と日本料理である。共通するのは共に島国。海に囲まれた僻地。そして薄味である。ただし料理の種類では圧倒的な差がある。それがイギリス人の味覚云々を有名にしたのであろう。片や隣国に世界一有名なフランスと中国が位置するのも似ている。その影響は無視できないが、海がその影響を永年に亘ってさえぎってきたのも無視できない。

 日本人の味覚は世界一敏感だという。しかしイギリス人はその正反対のことがいわれている。「味覚の文化」だと思う。イギリスは19世紀から20世紀にかけて世界を征服した覇権の国であった。世界中の富を集めた。その間に世界を旅したイギリス人は、世界中の料理を味わったはずである。何故それが集大成されなかったのか。これでは、イギリス人の味覚を疑わざるを得ないことになる。

 日本人の味覚は敏感である。今、日本料理は健康食として世界でももてはやされている。その薄味の中に「かくし味」が数多いのも、徐々に認められていくであろう。日本人が永年に亘り築き上げてきた文化、日本料理の味について世界が気づきつつあるように思う。フランス料理や中華料理の豪華さとは違う。わびさびの世界に近い薄味文化は貴重な存在である。

 私の友人の一人、あるオーナーシェフはミックスステーキという変ったメニューを30年前から売り出している。牛肉と豚肉ととり肉が同じプレートに並べて出てくる。こんな料理を考えるのも日本人ならではである。味はそれぞれ好みがあるが、とり肉のおいしさを気づかせてくれ逸品である。こんな芸当が出来るのも好奇心旺盛な日本人独特の性格のせいであろうか。秋の食はすすむという。いよいよその秋が目の前にきている。

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月を思う

平成19年10月16日
月を思う

 朝4時。いつもの通り起床。東天に明星あり。雲が薄くかかっている中で他の星はほとんど見えない。気になって外へ出てみる。西の空には満月が明々と輝いている。他の星はあまり見えない。月の色はいつもの白でなく、少し赤味がかった黄色がかった不思議な色である。

 日本から月探査ロケットが打ち上げられた。成功とのニュースが入って、もう大分過ぎた。まだ次のニュースが入ってこない。月の質量やその内部の組成など、未だに謎が多い。

 人類の月への思いは強い。文学や絵画あるいは詩歌、俳諧にいたるまで私達の月への思いは強く、深くそして歴史と共に続いている。

 月は地球の衛星といわれる。地球のまわりをまわっている人工衛星は地球の直径を約1mとすると、地上から約3センチ〜5センチの宇宙空間をまわっている。月は約35m離れたところをまわっている。人工衛星と言いながら本当の衛星である月と比較すると、人工衛星はジェット機とあまり変わらない。ジェット機は地上から約1ミリの所を飛んでいる。月は近いようで遠い天体である。

 潮の干満や生命の誕生に月が大きな影響を与えているという。太陽暦を世界中で使うようになったが、太陽暦(月の満ち欠け)の方が私達日本人の感性には遥かにふさわしいと思う。月との対話、自然との対話から、季節を感じることが出来る。思えば現代人の私は「月」を殆んど知らない。恥ずかしいことだ。

 私は「忘れかけた英語やドイツ語の勉強がしたい」と妻に言ったところ、彼女は「絶対に宇宙研究だ」という。永遠の謎といわれる「宇宙」をもう一度考えてみるのも面白い。満月を見ながらそんなことを考えた。
5時。まだ東天に明星あり。

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逆転の発想 なぜ地方は高い

平成19年10月10日
逆転の発想 なぜ地方は高い

 物価のことではない。JRの料金制度である。都市周辺では利用客が多いので料金は安い。特急料金ナシで快速に乗れる。都市周辺は便利で安い。

 ところが地方ではJRの乗客は高い料金を支払わされる。そして不便である。これでは地方はたまらない。

 例を上げてみよう。私は今、外房の上総興津にいる。東京までは116辧特急で約1時間半。料金は往復7,200円である。鎌倉にいた時は東京まで50辧普通で約1時間余、料金は往復1,640円であった。

 千葉県は首都圏といわれる。かつて房総半島は関東のチベットといわれた。いわゆる僻地という意味であろう。道路も内房側は少し整備されつつあるが、外房はあまりよくない。JRは内・外ともに四国や北海道並である。

 利用客の立場に立って考えると、料金は前記のように高い。なぜ高いのであろうか。安くならないのか。

 私は滋賀県長浜市の生まれだ。長浜は京都、大阪から近いけれど直通の快速(普通料金での特急並)が通っていなかった。まちはドンドンさびれていった。町衆が立ち上がった。米原まで来ている快速を長浜まで延伸してもらおう。結果は上々。長浜のまちは息を吹き返した。乗降客は湖北一市三郡の中心といわれた頃より以上に増えた。その殆んどは観光客である。

 私は外房の現状を見て上総一の宮から千葉へ朝夕でている快速にあわせて、鴨川発京葉線経由の快速を走らせることを提案したい。快速が走り出すと観光客は数倍に増加し、通勤客は増える。誰でも豊かな自然の中で住みたい。そしてそこから都心へ通勤、通学したい。切実な人々の願いである。逆転の発想だ。客が少なくて採算があわないから料金を高くするのではない。だからこそ料金を安くするのだ。安くし、速くすることにより人は集まり、まちは繁栄する。JRも当然利益が出る。

 JRの利用客の1人である私は、最近JRの経営姿勢に大いに賛同する。ぜひ関東のチベットといわれる房総を見直していただきたい。JRにとって房総は残された宝庫である。未開の沃野である。

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米山記念奨学金

19年10月5日
米山記念奨学金

 新幹線三島駅の近くに米山梅吉翁が創設した米山奨学会と梅吉翁の記念館がある。小さなひなびた建物である。東京でロータリークラブの活動を開始した梅吉翁は、その生涯を社会福祉事業に捧げた。特にアジア洲からの留学生を支援することに力を入れたのである。

 その米山梅吉翁の功績をたたえて、東京ロータリークラブは冠名の米山記念奨学会を設立。今や海外よりの留学生に対する日本最大の奨学会にまで育ってきた。

 私も過去何人かの奨学生と知り合ったが、その留学生の数といい、その出身国といい、その奨学金の額といい、すべてが抜群の理想的な奨学制度である。今年度で累計169ヶ国から13,902名の奨学生を迎え支援されてきた。

 拠出したのは日本のロータリアンだけである。これも累計で20万人ほどのメンバーからの芳志である。世界中のロータリアンの拠出するロータリー財団の奨学生と併せると更に大きな広がりを見せる。

 しかし米山記念奨学会の主たる対象国はアジアである。累計13,902名中13,315名、約96%がアジアである。アジア諸国は17世紀末から20世紀までヨーロッパ諸国の植民地として辛酸をなめ、その後日本の占領を経て戦争の中で多難な生活を強いられてきたことから、特にアジアの学生を招いた為である。中国28%、韓国27%、台湾24%と三国の比率が圧倒的に多い。博士号取得者は約3,000名を数え、日本をはじめそれぞれの国で活躍をしている。すべての奨学生の消息は定かではないが、若い日に日本で学んだ体験は忘れられない生涯の思い出となっていることであろう。「世界は一つ」の21世紀を迎え
て、彼等の活躍を期待し、世界平和の実現を願っている。

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世の中を変える人

平成19年10月4日
世の中を変える人

 「変革のリーダー」と呼んでもよい。「世の中を変える力を持っている人」と呼んでもいい。世の中を変えた人々を歴史上で捜してみると、その能力を理解しやすい。「変革力」というか「時代を見抜く力」というか。とに角「異能」と見られる特別の力である。

 古くは聖徳太子であり、源頼朝であり、織田信長、徳川家康であった。私は政治というより、自分に近い経済の分野に親しいので、それを坂本竜馬や渋沢栄一、そして近江商人の先達に求めることが多い。そしてこれ等の人々から学ぶことは多い。

 日本の金融界の一方の旗頭、日本銀行設立前に銀行を作った人、安田財閥の祖、安田善次郎(1921年83歳没)に、学んでみたい。彼は露店の両替商よりスタートした。文字通りの徒手空拳である。28歳で両替商(安田商店1866年)を作った。そして1876年、38歳で第三国立銀行創立。1880年安田銀行。1882年日銀理事となっている。同時代の渋沢栄一が表舞台を歩いたのと比較すると、安田善次郎は好対照である。彼の言葉からいくつかの名言金言を拾ってみた。

 「目的をはっきりする」「進取」を説いている。時代の先を見て、何を行うのかをしっかり明確にする事としている。

 次に「心に誓いを立てる」「立志」と言っている。目的完遂の為に必達を念じている。

 更に「実行」の重要さを説いている。「克己」と「堅守」が大切という。実行なくして何もない。また実行するには右顧左眄せず努力を継続することを重んじている。熟慮断行である。

 安田財閥を作った彼の業績は、どちらかというと金融関係が中心で、1920年には銀行20行、保険4社を数え、その他の企業15社をあわせてコンツェルンを形成。

 彼が今日あるのは、「徹底した合理主義」そして「発想のすばらしさ」と慎重さと果断さをあわせもった「実行力」にあるといえよう。

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変 化

平成19年10月3日
変 化

 人生は旅。人は一生をかけて時間と空間を旅する旅人である。万葉歌人をはじめ旅で詠んだ歌や句そして絵も多い。西行は言うに及ばず、芭蕉、北斎など旅は彼等の作風に影響を与えた。彼等の人生に大きな影響を与えた。

 旅は変化を伴う。非日常の世界である。変化することで、人は心を解き放つ。旅は人を自由にする自由になることで思索が深くなる。

 作家や画家が行きづきまして、ものがかけなくなることがある。その時彼等は旅に出る。時間やお金に余裕のない時は散歩でもよい。歩きながら新しい何かを把む。一歩を歩き出すことで、変化が生まれ、壁を乗り越えるよすとなる。

 私は旅が好きだ。変化が好きだ。居場所が変ると考えが変る。社員に少し重めの仕事を任せてみる。うまくいった時、その社員は大きく成長している。仕事が人を育てる。地位が人を育てるという。まさに至言である。

 私は自己の成長を期待して大きな仕事に挑戦することが多い。変化は必ず困難を伴うものであるが、その困難の先に大きな成果があり、喜びがある。

 変化を意識して求めるのである。言葉を変えれば安定に満足しない為に自からを変化の境地へ動かすのである。時代の変化を待つのもよい。しかし時代を変えるのは人である。

 人生は旅。私は私の旅を今日も旅する。

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思い上り

平成19年10月2日
思い上り

 ある程度勉強し、少しわかってくると、人はすぐ増長慢になる。多少の知識をひけらかしたくなる。理論と現実の事象との正確な対比を怠って、誤った判断、誤った結論を導き出してしまう。それを「思い上り」という。

 私はこの「思い上り」の苦い経験を数限りなくした。最初は小学校2年の絵の時間。恥かしい程先生に褒められて舞い上った。中学校2年の数学の時間、学年400人中1、2位といわれた時。高等学校2年の英文法の時間。いずれも先生が褒めすぎて、私はつい我を忘れ、思い上がった。結果は明白、努力を怠りその後漸次成績は下降線を辿った。慢心ほど恐ろしいものはない。思い上りの記憶ほど恥かしいものはない。

 逆に謙譲の精神は人を成長させてくれる。これは自分の我執を捨てることである。自分の意見を主張する前に、まず相手の意見を謙虚に聞く姿勢が大切である。謙譲の美徳という。凡人の私達には到底達することの出来ない境地である。しかし、努力すれば近付くことは出来る。

 日本人で偉人といわれる人達は殆んどが謙譲の美徳を身につけていた。なぜだろう。躾なのか、教育なのか。家庭環境か、よき師とめぐりあえたからか。

 自からを主張する前に、相手の考えを聞く。それも謙虚に真剣に聞く、そこからすべては出発しているように思う。「雄弁は銀、沈黙は金」という諺は日本のものではない。まず相手の考えを十分に聞いた上で、自分の主張を述べる。何人かの人との討論でも同様である。まわりの人の意見を引き出す糸口を云うのはよい。しかし、浅薄な自分の考えを声高にいいつのるのは、後悔先に立たずとなる。後で恥かしい思いがする。思い上りを常に戒めてはいるが最近はついつい声を上げたくなる事が多い。思い上りなのだろうか。

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千利休もビックリ

平成19年9月28日
千利休もビックリ

 わびさびの茶道を完成した千利休は、自然を室内に取り込むことに種々と工夫を重ねた、茶室に竹を使ったのもその典型の一つ。JR外房線の勝浦駅で驚いたことがある。駅のプラットホームの駅舎を支えるH型鋼の中に高さ約2mの孟宗竹の生花が固定されている。最高6段の利休風の切込みを入れそこに季節の花の花鉢を入れている。駅員の労作かと思い確認したところ勝浦市役所の配慮という。数えてみたら全部で12本の孟宗竹がプラットホームに林立している。

 相模湾に上陸し関東一円を襲った台風9号のためあたり一面の山々は潮風にやけている。その中で駅の孟宗竹の中の花畠は辛うじて可憐な花を残していた。

 とかく殺風景になりがちな地方の駅頭で、こんな愉快な花たちに出合えるとは。秋の虫の音を聞きながら千利休がこの光景を見たらどう思うだろうかと考えた。ビックリするのはまず間違いない。

 この沿線は乗降客は少ないが「花を愛する」古くからの風習があり、花摘みのビジネスが盛んである。私が外房に住もうと思ったのは菜の花が春一番に咲くところという友人の話に大きく影響された。住んでみると一年中花に囲まれた生活である。

 しかし最近になって東京からの観光客は減っているという。簡単に安く海外旅行が楽しめるからという。私はグァム、サイイバン、沖縄の島々も数多く訪れたことがある。房総はどこと比較しても負けない景勝の地である。

 花を愛する南房総の人々の明るい生活を垣間見るのも又一興である。そして、おいしい海の幸も食べ放題である。

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ストレス解消

平成19年9月27日
ストレス解消

 住いはストレス解消と大いに関係がある。私の友人に、海辺にあこがれて、外房の海岸に居を移した人がいる。また東京のタワーマンションの高層階に住んでいる人がいる。人間は眺望のよいところに住んでいるとストレス解消に大いに役立つようだ。住いから毎日眺める風景は、人の心に大きな影響を与える。特に海辺や川岸、或いは山や森、林の緑、そして日照も影響を与える。

 年配の人の話を聞くと、ガーデニングや本格的な畑仕事もストレス解消に役立つようだ。ものを育てることに生甲斐を感ずるのであろう。

 要約すると、理想の住いとは、まず眺望のよいこと。そして日照がよいこと。緑風を感じることが出来ること。水に親しめること。花や野菜が育てられること。

 このような住いがストレスを感じない、理想の住いと言えそうだ。その他に、買物が便利か、近くに外食を楽しめる所が多いか。車庫は完備しているか等々があろう。若い人は「静かな環境」「広々空間」を求める人も多い。また最新式の機能付住宅への欲求もある。

 「夢の住い」を追求して半世紀を超えた。今迄転勤や転居をくり返し、理想の住いを捜してきた。数えてみたら転居は20回を超えている。ふり返って見ると、若い頃は大きな家あこがれた。最近では維持や清掃が手間のかからないコンパクトな家がよい。

 日本の夏は暑い。日本の家屋は夏の蒸し暑さに対処することを考慮して発達してきた。フランスやスイスの友人が来ると寒い寒いという。家の中が外と同じだという。アメリカの留学生を預かるとクーラーは一日中つけっ放しとなる。それぞれ気候と習慣の差であるが、日本の住いの気密性への配慮の乏しいのは認めざるを得ない。開放感を重視し、ストレスを感じない住いを追求していくと冬の寒さへの配慮が欠けるのであろうか。省エネ住宅で重要視されてきたのは、無断熱と気密性、そしてオール電化(夜間電力利用)である。新しいインテリア、癒し系のインテリアと同じように安全、安心への配慮が求められている。今私達は福井県初の免震式分譲マンションを工事中である。私の永年の理想の住い、夢の住いが完成する日があと1年余り先と近付いてきた。

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日本発「敬老の日」

平成19年9月26日
日本発「敬老の日」

 世界中を歩いてみると、日本のことがよくわかる。ブラジルに移住している日系の人々と話をすると、古き良き時代の日本が今でも大切にされている。台湾や韓国の地方でも全く同じ体験が出来る。

 私達みんながかつて持っていて、今あまり持っていない「美徳」は何か、考えてみるとよくわかる。それは「人を敬う心」である。特に年長者に対する「礼儀」である。「先生」や「教師」に対する尊敬である。

 「仰げば尊しわが師の恩」と歌った卒業式の歌はもう歌われないという。私達みんなが涙して先生に感謝し歌った別れの歌はもう歌われないという。何と悲しいことか、何と恐ろしいことか。教育の荒廃はこの一事をもってしてもわかる。「先生」を尊敬せずして、何を尊敬するのか。両親やそのまた両親を尊敬せずして、何を尊敬するのか。

 私は人生の出会いを常に大切にしてきた。そして多くの先輩から教わった。しかし教えの根本は両親や祖父母からいただいた。何人もの先生からいただいた。感謝しても感謝してもいい尽くせない程の教えを受けた。

 敬老の日は日本で始まったという。1947年敗戦の焦土の中から生まれたという。兵庫県の野間谷村の村長が「老人を大切に、老人の知恵を大切に」という趣旨で始めた。それが兵庫県内に広がり、日本全体に広がった。

 「人を敬う」のは礼の始まりである。世界中の人々がお互いを敬う心を持てばあらゆる諍いは即座に消滅する。「敬老の日」を全世界に広めるという、小さく見えるが、世界中の同意を得やすいこの運動を進めていってはいかがであろうか。国連の安保委員会常任理事国入りを訴えるより、敬老の日を作って、これを世界が守ることの方が遥かに意義深いことである。

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てこ(Leverage)の力

19年9月19日 
てこ(Leverage)の力

 てこは私達の生活のいたる所で使われている。ビール瓶の栓抜きや、ワインオープンナーなど小さなものから、巨石など大きなものを動かす場合に「てこの力」を使っている。長浜祭や祇園祭の曳山や山車を動かすのにも大型のてこを使っている。かつてはピラミッドや城壁の巨大建造物の材料を動かすのにこの力が使われた。これ等は物理的、科学的な話に終始する。しかし、私がいいたいのは、この「てこの力」を政治、特に経済政策の手法として採用しようということである。

 財政出動、緊急経済政策が急遽出動される時は、よく「真水」○兆円といわれる。「真水」とは実際に国庫から出てくる資金量をいう。通常は国庫から1兆円を出し、地方へ配分し、地方がその半分を出すと、1兆円は1兆5,000億円になり、1.5兆円の緊急対策を打ったと発表される。私は「てこの力」を利用して、この1兆円を1.5兆円にするのではなく、10倍、50倍に活用することを進言したい。

 即ち国の資金は、直接投資にまわすのでなく、民間資金を引き出す為の呼び水に使ってほしい。例えば、今年度も学校の耐震工事に50億円程の予算計上がされている。これをPFIで施工させるのである。

 予算は工事業者や開発会社等の信用補充や利子補給に使うのである。彼等は自己資金を投資するので、資金効率は厳しく追求され、信用力不足は官公の助力によって補われる。最終の官公の持ち出しは5億円以下ですむ。即ち1年ですべての耐震工事が終了してしまう。てこの力を応用することは魔法の杖を使うように大きな成果をもたらしてくれる。

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愛宕坂界隈

平成19年9月18日
愛宕坂界隈

 足羽山への登り口はいくつもあるが、古来より最も有名なのが愛宕坂である。その坂の中腹に橘曙覧記念文学館がある。幕末の歌人で生活の哀歌や国体について詠じた歌が多い。アメリカ大統領ビル・クリントンが、平成天皇訪米の折、橘曙覧の「楽しみは・・・」で始まる和歌を詠み、歓迎したのを昨日のことのように覚えている。万葉仮名を使い格調高い曙覧の和歌を、正岡子規をはじめ斉藤茂吉、折口信夫(釈辺空)、窪田空穂、大田垣蓮月などが絶賛した。その記念文学館である。かつてこの地は橘曙覧の草庵「黄金の舎」として彼が住み、当時の松平春嶽がお忍びで訪ねてきたと伝えられている。その後料亭「五嶽楼」として粋人の好むところとなった。「五嶽楼」とは明治10年に、その松平春嶽公が訪れて命名したといわれている。眺望がすばらしく、窓外の白嶽(白山)をはじめ吉野ヶ嶽、椿嶽(白椿山)と養子の巽嶽、そして自らの春嶽をあわせて五嶽と数えたという。

 市立郷土歴史博物館があったが、現在では他へ移り駐車場になっている。茶道美術館やギャラリー、お料理離世などが並び、春の桜、秋の紅葉の頃は大いに賑う。茶道美術館は誠にユニークである。そして収蔵品も名品が多い。茶道は仏教と共に中国・朝鮮より伝来。栄西から明恵上人そして道元に至り作法として完成。その後、戦国大名に受け継がれた。越前朝倉家五代の繁栄は名品といわれた中国渡来の八景の内、三景を所有したという奇跡が証明している。その三景をはじめ名品は、その後、信長、秀吉、そして徳川家へと引き継がれていった。初花の茶壷は越前松平家の重宝とされている。家康から松平忠直へ戦功あったとして授与されたものという。奈良稱明寺の僧村田珠光がわび茶を始めた。そして武野紹鴎、千宗易(のち千利休)へと発展していった。その頃宇治より朝倉家が毎年茶を仕入れている。

 足利家最終の将軍足利義昭は越前朝倉家で元服、その大茶会の記録が残っている。茶道は、人、道具、建物を含んだ総合文化である。そしてお茶だけでなく、華道(生花)、香道、絵画、建築を含み、世界に冠たる日本文化を育んできた。小さいけれど見ごたえのある美術館である。坂を上りきった所が継体天皇を祭る足羽神社である。しだれ桜が見事。今年は継体天皇即位1,500年記念の年ということでイベントが多い。

 愛宕坂のいわれは、柴田勝家が朝倉遺跡の中の愛宕大権現を愛宕山(明治以降足羽山と改名)へ移した。その参詣路であった。

 福井市は戦災、震災などで福井の建物は殆んど灰盡に帰した。大正時代の水道博物館がこの坂の東側にある。また大小数多くの寺院が足羽山の山裾に広がっている。瑞源寺は萩のお寺として有名であるが、江戸時代に福井城の遺構をもらい受けたものが残っている。もうそろそろ萩が満開になる頃だ。

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笑顔よし

平成19年9月11日
笑顔よし

 笑いの効用はいうまでもない。明るい笑い声にハラを立てる人はいない。笑いはただで出来る。ヨーロッパのことわざに「笑いは副作用のない妙薬である」とある。そしてこんな安い薬は他にない。

 ガンは苦痛の伴う病いである。私の母は辛抱強い人であったが、84歳で亡くなる前に、激しい痛みを訴えた。苦痛を和らげるのに「マッサージ」がよいという。「血行をよくする」のがよいのであろうか。

 笑いがもたらす副作用に、「ガン細胞」を攻撃してくれる「ナチュラルキラー細胞」が活性化されるということがいわれる。またガンの痛みを和らげる為に使われているのはモルヒネである。このモルヒネ以上に効果があるのが、「ベータエンドルフィン」と呼ばれるホルモンである。このホルモンは「笑い」によって分泌されるというのだ。

 最近ストレスや老化によって急に怒り出したり、どなったり、キレたりする人が増えている。その時はノルアドレナリンという毒性分泌物が出てくるという。「笑い」と「怒り」は私達に正反対の結果をもたらしてくれる。

 私の理想とするところは「一日中笑っていること」と決めている。こんな簡単なことが、こんな誰にでも出来ることが私にはまだまだ出来ない。

 まわりに人がいない時、突然笑い出したり、ニヤニヤ、ニコニコ笑ってみる。悪い気はしない。笑う努力をすることも修行のうちと考えれば誰に遠慮をする必要もない。

 明るい人生を送りたいと思えば、そう念じて、そう実行すればよい。すべては「実行する」か「しないか」で決まる。
 笑顔よしといわれる人は貧富、地位などに関係なく最も幸せな人である。そういう人に私はなりたい。

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愛国心

平成19年9月10日
愛国心

 国を愛する気持を表わす言葉に「愛国心」がある。日本人として日本国を愛するのは当然で、必要欠くべからざるものである。外国では「愛国心」といわず「忠誠心」ということが多い。その方がより意味がはっきりし、わかり易い。

 世界には国籍を持たない人々が数多くいる。特に変ったことをしなくても、時代の波に翻弄されて国籍を失ってしまう人たちである。

 例えばマレー半島は太平洋戦争時代に、日本軍が占領するまでは英国の植民地であった。イギリスに占領されていたのである。戦後日本軍が帰国したり、処刑されたりした後はまたイギリス領となった。住んでいるのはマレー人、インド系の人、華僑の人たちである。太平洋戦争後、殆んどの殖民地が独立を果した。マレーシアもシンガポールも遅れはしたが、最後に独立を獲得した。しかし、その過程で、多くの華僑が中国へ帰国し、文化大革命で虐待され、香港へ放擲された。そして無国籍になってしまった。

 同様に世界各地に存在する無国籍者は数多い。ロシア系、ユダヤ系、メキシコ系、プェルトリコ系や日系、中国系も数多い。そのいずれの人々も持っていきどころのない愛国心を持っている。しかも強烈な愛国心、忠誠心である。不遇な環境がそうさせるのか、それは悲しい程に美しい。「愛国心」を憲法や教育基本法に明記する事に、議論をしなければならない程、とぼけた国を私は知らない。教育の基本は、かつて「敬天愛人」といったが、「愛」である。「愛」は周辺の人々、地域の人々、国、そして世界中の人々に広がっていくものである。

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笑顔が一番美しい

19年9月7日
笑顔が一番美しい

 男も女も一生懸命働いている顔は、光り輝いている。目が生きている。そして笑顔が一番美しい。私達の会社では「笑顔が一番美しい」というスローガンをいつも壁に掲示している。特に女性に好評だ。

 「笑うかどには福来る」と古くからいわれている。最近では「笑いが健康によい」といわれているようになってきた。福井県は「健康長寿なふくい」「元気で長生き」をスローガンに、平均寿命日本一をPRしようとして数々のアイデアを出している。笑いはガン細胞を攻撃するナチュラルキラー細胞を活性化させるという。また、「糖尿病」にも効果があり、笑うことにより血糖値が低下することもあるという。

 福井県では「健康増進課」を設けているが、「笑い」と健康について研究している医師や研究者の講演を計画している。また、落語研究会の実演者を招き、県内各地で笑いを起こす落語の実演会を開く。県内には健康福祉センターがあるが、そこにも落語のビデオを置き、県民が笑いに親しめるようにするという。堅いイメージの強かった県庁にしては、誠に面白いアイデアの数々である。

 北陸の人々は忍耐強いという。あまり笑わない人が多い。笑いはいつもまわりを明るくする。それと同時に笑っている人自身の健康にもよいのである。これからは「大いに笑おう」「意識して笑顔をつくろう」と考えている。妻は私の笑顔は「営業スマイル」だという。「営業力」も実はこの「笑顔力」なのである。これは営業の極意、秘中の秘である。

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日本料理

平成19年8月31日
日本料理

 日本料理にはレシピがない。料理学校は数多くあるが、日本料理専門の料理学校は聞かない。日本の料理人の世界が、長い間閉鎖的であったせいであろう。日本料理のルーツはどこか。いくつかの可能性がある。

 まず仏教系、特に禅宗系で顕著な特徴を持つ精進料理がある。黄ばく宗、曹洞宗、臨済宗の精進料理は長い伝統がある。一度頂戴すると忘れられない滋味である。旬のものを巧みに取り入れてその調理の技もすばらしい。浄土宗、浄土真宗系の報恩講料理もその簡素化したもので、素朴な味わいではあるが、民間で広く伝わっている。

 次いで仏教系と不離不即の関係にあるが、より形式化しているのが茶道系の懐石料理である。各家元を中心に数百年に亘って磨き上げられてきた伝統の料理である。

 更に全国各地にあった大名料理の系統も忘れてはならない。特に加賀百万石前田家の加賀料理は、常に京料理を意識しながら、独自のものに作り上げていっている。各地に同様の各大名家の料理の流れがあった。

 そして有名料亭で永年修行し、のれんわけをしてもらっている料理店が全国各地にある。レシピを持たず師匠から長年たたきこまれた手法、技法を体得した料理人(西洋風にいうとオーナーシェフ)が活躍している。

 その他に寿司系統の店も豊富で、最近流行の回転寿司を含めて高級寿司の店から大衆寿司まで数多い。

 また、麺類を忘れてはならない。日本そばは「そば道」といわれる程、奥が深い。特に越前では「おろしそば」といって、このそば一本で勝負している店が多く、大繁昌している。最近の健康食ブームに乗って、そばに含まれるルチンが長寿によいと評判になっている。関西ではうどん専門店も多い。

 各地にある地方独特の地方料理がある。福井では「越前ガニ」のフルコース「カニづくし」は珍味中の珍味。カニのシーズンには全国各地からカニを食べに観光客が押し寄せる。ふぐ料理は博多、かき料理は広島をはじめ海岸沿いで賑っている。山菜料理、川魚料理は山間部で、今でも数多くの有名店が生き残っている。少子高齢化時代になり、「健康によい」ということで豆腐系の専門料理を出すところが増えてきている。精進料理の別派とでもいうのであろうか。年配の私にはごま豆腐、油あげ、豆腐そして豆腐の絞りかす「おから」を巧みに使う「豆腐づくし」が気に入っている。

 すべての日本料理に共通するもので、西洋料理・中華料理にないものがある。それは「器」である。料理を盛る器である。多種多様、千差万別のあらゆる形、あらゆる材料を組み合わせて作り上げる芸術品それが日本料理の器である。陶器、磁器、ガラス、漆器、木工品、竹材工、紙器、鉄器、銀器、等々それが形を変え、色を変え、模様を変えて目の前に出されてくる。まさに至福の世界である。

 その底に流れているのは禅の教えであり、おもてなしの心であり、一瞬の芸術品を見る趣きがある。これを文化といわれずして何が文化かと言いたい。日本料理が世界の人々に認められる日が近いことを信じている。道元禅師の言葉に、料理は作務、修行の道、座禅と同じく心を空にしておのずから悟るとある。

 日本料理は長寿食であることも忘れてはならない。

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よみがえった陶板

平成19年8月28日
よみがえった陶板

 今日陶芸家の五島哲さんより電話があり、会いたいという。スケジュールを調整し、午後お会いした。先般、夜中に、何の前触れもなく突然落ちて壊れた陶板画を、新しい赤い漆の板に貼付して更生してくれたのだ。

 鮮烈な赤の台紙と重厚な赤の漆芸板との発色の差は、当初の心配を超えた見事な出来栄えである。鮮烈な赤な台紙は、人を鼓吹する魅力があった。重厚な漆芸板の赤は、より深い感動を与えてくれる。
十数個に割れた陶板は、新しい漆芸板の上に完全な形を取り戻している。大切にしていたものが、ある日突然壊れてしまうことは世の常である。それが元の姿でよみがえってくるのは珍しい。思いがけず、その珍しいことが起きた。しかもその出来ばえは「ブラボー」と呼びたい程に見事である。

 日に新た、日々に新たな毎日を送りつつある身ではあるが、愛するものの更生を目の前で見せられる思いがする。陶芸家の五島哲さんは謝礼は要らないという。今日一日とても充実した幸せを味わうことが出来た。「人の命は短かい、されど芸術は長し」をしみじみ感じさせる稀有の体験となった。

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ゴミを拾う

平成19年8月27日
ゴミを拾う

 「お掃除が会社をかえる」「お掃除好きの家庭は絶対壊れない」「お掃除は人づくり」など、お掃除の再評価があちこちで行われるようになってきた。うれしい事である。わが意を得たりと喜んでいる。

 私は今、永平寺町に住んでいる。道元禅師が開いた曹洞宗大本山永平寺に近い。道元の教えは「お掃除」をはじめとする日常の作業を厳しく律し、ここからの悟りを促している。

 私は滋賀県長浜市の出身である。時々長浜へ帰る。長浜は西田天香が生まれ、お掃除哲学を完成させた所である。今この「お掃除哲学」を経営に取り入れている人が多い。

 私は今から11年余り前に創業した。人、物、金、情報といわれる経営資源を何一つ持たない「無」からの出発であった。たった一つあったのはほとばしる熱情だけであった。この世に生を受けて、無為の内に一生を過すことに耐えられなかった。そこで考えた。自分に何が出来るのか。

 私に出来ることはたった一つ。「他人の為に生きよう」という決意であった。人の嫌がることを喜んで引受けよう。人のやりたがらない汚れ仕事を率先して引受けよう。ゴミが落ちていたら拾おう。人より深々とおじぎをしよう。人より元気な声、大きな声、明るい声で挨拶しよう。どれもこれも人、物、金、情報の経営資源を何一つ持たない私でも出来ることであった。

 人前でゴミを拾うことは難しいことではない。しかし易しいことでもない。そしてそれを続けることは難しい。社員が増え、店が増え、拠点が増えていくにつれて、「お掃除」の重要さが社内外に認識されるようになった。

 「お掃除」は周辺整備である。環境整備である。同時にそれは「心のお掃除」につながる。「お掃除」のあとの充実感それはゴミを拾う勇気を持った人の心のゆとりである。幸せである。

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日本料理は世界一

平成19年8月24日
日本料理は世界一

 健康食、長寿食として、日本料理が見直されている。そのどこがよいのか、各方面の人達が分析をしている。外国人も含めて日本料理を研究対象にする人達が増えてきつつある。最大の特長は、主食が米であるということ。米は咀嚼能力を必要とする。食事することにより、健康を増進する作用がある。また食材の豊富さは世界一である。特に新鮮な旬の味覚を生かす調理方法を大切にしている。下ごしらえに時間をかけている。刺身を英語でローフィッシュという。「生魚」という意味である。その語感は「刺身」とは程遠い。料理人が包丁で生魚を三枚におろし、切身を丁寧に皿に盛り付けていくのを見たら、ローフィッシュなどと言えないと思うはずである。私は刺身は「ウェルクックトフレッシュフィッシュ」と言いたい。

 いろんな食材、それも新鮮な旬の食材を豊富に使う日本料理が身体によいのは当然である。更にフランス料理や中華料理と比較して大きな違いがある。それは見映えである。配色の妙である。器の見事さである。これを「眼福」という。味を楽しむ前に、目で楽しむことが出来る。料理を盛る器はまさに芸術品。一品一品が異なる素材、異なるデザイン、異なる色彩で作られている。日本人の教養の深さ、趣味の高尚さを示している。そしてそれは食べる者にとって癒しの効果をもたらす。

 味噌汁、漬物、なれ寿司等、酵母菌の力を利用した日本料理特有の食べ物も、健康によい。豆類、いも類は身体に吸収されやすい蛋白質である。日本料理で多用される重要な食材である。そしてその素材を、手を変え、品を変えという程、存分に加工して毎日いただいている。数ある蛋白質の中で最も素朴な形の分子式はタロ芋である。最も複雑怪奇な分子式は牛肉である。日本人が好む豆の分子式は、牛肉に少し似ている。みそ、豆腐、あげ、納豆、きな粉、等々いろんな形で毎日食べている豆は、最も健康長寿の元になる食材ということが明らかになりつつある。

 アメリカで少し暮したことのある私は、スーパーマーケットでしばしば買物をした。アメリカ人は1週間分をまとめ買いする。それに対して日本人は毎日スーパーへ買物に行く。食べるもの、調理方法、保存方法の差が歴然としている。日本人は新鮮な食材を求める。欧米人はそれ程新鮮さにこだわらない。これが味付けの差にあらわれてくる。薄味の日本料理は、塩分や脂肪分を少ししか使わない。薄味の料理をおいしくいただく為には、数多くの工夫や努力が必要となる。それが醤油を生み、七味を生み、かつおぶ
しや昆布、のりを生み出した。佃煮などもその種類の豊富さ、配合の妙など世界一の珍味である。

 日本料理は今、世界を制覇しつつある。まぐろの刺身が牛肉のステーキよりおいしく、身体にいいということに世界が気が付きだした。いずれ米が続き、豆料理がそれに続くことと思われる。

 日本のよさが世界にわかるにつれて、日本の「戦争放棄」の日本国憲法のすばらしさに気付いてほしい。世界唯一の「平和憲法」である。「第9条を守る会」が出来つつあるが、私は戦後60年余り、この憲法から受けた恩恵を忘れた日は一日もない。世界に向って「戦争を止めよ」と言える唯一の国が日本である。数百万人の同胞を戦争で失った国が地球上にあろうか、日本だけである。インドのガンジーの無抵抗主義もインドですら忘れられようとしている。「不戦」を誓った戦後を歩いてきた私は、自衛権の名の元に軍備に走りたがる連中の気が知れない。日本が世界一すばらしい。日本人が世界一平和を愛している。そのことをもっともっと訴えていこうではないか。今、地球は一つになろうとしている。訴えるに絶妙の機会である。それは国連常任理事国になるよりも、もっと大事なことであると思う。

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麻田浩さんをしのんで

平成19年8月22日
麻田浩さんをしのんで

そこは死の静寂が漂っていた。暗い暗い。滅びの世界が、ひろがっていた。荒涼とした異次元の世界だ。京都国立近代美術館の「麻田浩 没後十年展」の会場である。500号にも及ぶ大作を含む、約150点の作品が並んでいる。 
同志社大学経済学部卒の先輩であり、同時に「鞍馬画会」の先輩として長年お付き合いをいただいていた。展覧会の図録にある麻田さんの写真からは、あの特長のある、ゆったりした温かい声が聞こえてくる。大柄な長身を、少し見下ろすように、笑顔で話しかけてくる。麻田さんが京都嵯峨野の自宅アトリエで自ら命を断ったのは10年前の「鞍馬画会展」の時であった。病身とは聞いていたが、その精力的な作家活動から、私には到底想像もつかない事件であった。その日の数ヶ月前に、JR京都駅で、私達夫婦は、麻田浩さんご夫妻にあった。相変わらずの明るい声で挨拶を交したばかりであった。その頃創業間もない私達は、年中無休で全国を走りまわっていた。その日から約8年、仕事が軌道に乗り出して、私達を紹介する小冊子が発行された。美彌未亡人の元へ、その本を送らせていただいた。しばらくして、その礼状が届いた。強度のうつ病にかかっているとの便りであった。約30年間共に歩み続けた最愛の人を失っての9年間は、さぞつらい日々であったことと思われた。その後すぐ訃報に接した。展覧会の会場にパリ在住時代の手帳が展示してあった。「美彌は一度二度三度と日本へ帰りたいという。自分はその気持を最初から捨ててパリへ来た。画業半ばでどうして帰れようか・・・」新制作協会の会員として、パリ滞在中も一度の休みもなく、大作をパリから送り続けてきたその意欲、そしてその作品の透明度。画業一筋の麻田さんを語って余りある。
 会場で「鞍馬画会」の後輩達3名から声をかけられて、思わず我にかえり、大声で麻田さんのすごさを語りあった。会場の女性が走りよってきて注意されるまで、我を忘れて、「感動した。これ程の大作の数々があろうとは・・・」などと話しあった。
「死の世界」から若い後輩達(若いといっても60歳台であるが、・・・)のお蔭で、現実の世界へ呼び戻された思いがした。展示されていたのは150点程の大作ばかり。生涯5、6百点の作品だという。精密画、エッチング。1点を描き上げるのに、大変な時間と集中力を必要とする。ものすごい、人間わざとは思われない労作ばかりである。一緒に見た妻は、「誕生の喜びでなく、死や廃墟を感じさせる。時間を逆回転させて、生命や緑の輝きを見たい」という。「原風景」「原都市」など私達にも共通するテーマである。私は深い感動の中にいた。
 佐賀・尾道・相模原に住む三人の鞍馬画会の友人に送るため、図録を4冊求めた。麻田さんは、永遠に超えられない先輩である。しかし、これ程の画家と親交を深められたことは、最高の喜びであり、幸せである。あらためてご冥福を祈りたい。
 福井県立美術館に麻田浩さんの油絵、エッチングが多数収蔵されている。福井出身の行動美術会員森康次さん(鞍馬画会員で、麻田浩さんの親友)の協力によるものと思う。福井県民の一人として誇らしく思う。

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立山

平成19年8月20日
立山

 今、日本で一番高い所に建つホテルに滞在している。立山の室堂平にある「ホテル立山」である。標高2,450mは日本一。そして世界第3位という。世界一は標高3,488mのホテルクスコ・ペルー。そのホテルの最上階に部屋をとった。夏でも最高気温(平均)13.8℃と涼しい。立山へは何度も登ってきていたが、このホテルに宿泊するのは初めての経験だ。古代の山嶽信仰の盛んだった頃から立山は、日本三霊山の一つとして信仰の対象になっていた。富士山は少し遠いが、頂上からは遠望できる。もう一つの霊山の白山は、この立山と対をなすといわれている。

 「越中で立山、加賀では白山、するがの富士山三国一」と歌われる。立山を男山、白山を女山とも言う。立山のびょう風を開けたような荒々しさ。白山の優美な山姿。まさに双璧をなす名山である。

 立山の雷鳥も有名だ。半年以上雪に覆われる立山にあって、雷鳥は雪の上では白く、ブッシュに隠れる夏はこげ茶色と白のまだらに羽の色が変る。霊山立山に住む雷鳥は古くから霊鳥として大切にされてきた。氷河期からの生残りという。小さいが足が太くイヌワシなどの多くの天敵の中を生き抜いてきた。

 夜は満天の星、流星がよく見えたので、フロントで聞くと、毎年お盆に一度のペルセウス座流星群だという。天ノ川もくっきりと見える。首が痛くなる程、星を見ていた。星を見ていると自分の悩みはおろか人類の悩みすら小さなことに思えてしまう。

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カリグラフィ

19年8月17日
カリグラフィ

 私は「書道」が苦手であった。国民学校(現在の小学校と同じ)の頃、学校の木の机の右側に「硯」を入れるスペースがあり、そこに墨と「硯」と筆を入れていた。学校から帰ると「ソロバン塾」へ行く子と「書道塾」へ行く子と分かれる。私はどちらかというと「ソロバン」の方がまだついていけた。「書道」が苦手であった。

 「書道」を教えている友人がいる。特に頼んで色紙を数枚いただいた。見事な出来栄えである。私達には別世界の美しさである。

 ミシガン大学院のベイツ寮に中国語を学びながら、「カリグラフィ」を楽しんでいるという女子学生がいた。「あなたはカリグラフィが好きか」と質問され、とまどった。アメリカ人に「書道」は好きかと聞かれようとは、誰も考えないだろう。私は「まあまあだ」と答えておいたが、妙にこのことが記憶に残った。

 相田みつをの書を見て、この時のことを思い出した。独特の筆使いで表現される短い詩から、「新しい書家像」を感じとった。何か親しみすら感じた。自分にも書ける。自分も書きたい。そんな気持にさせられた。

 学生時代に、マッチの軸にインクをつけて手紙を書いたことがある。「弘法は筆を選ばず」というが、私達凡人は筆によって文字そのものが大きく変質してしまう。マッチ棒の筆もなかなかの優れものであった。

 今、数本の筆を選んで「書」を書き始めたところである。書けば書くほど子供の頃の記憶がよみがえり、思うように書けず困っている。相田みつをの書と見比べては思案投首が続いている。

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福井大震災

19年8月16日
福井大震災

 1923年関東大震災で東京は壊滅した。「私はトラックに乗っており、相棒の運転手田口利八さんと東京湾の近くで被災しました。当分東京はダメになるだろうと二人で相談し、それぞれ郷里へ帰りました。」

 この話をしてくれたのは福井貨物の元社長、会長の藤尾定尾さんである。当時私はトヨタビスタ福井の代表を務めていた。非常勤の代表をお願いしていたのが藤尾定尾さんだった。相棒の運転手とは現在のセイノーホールディングスの創業者の田口利八さん。当時のトラックの運転手というのは、運転だけでなく、修理も自分でやれる最高の技術者であった。

 若い時に関東大震災を体験した藤尾さんは、その後郷里の福井へ帰り、そこでまた1945年7月福井大空襲、3年後の1948年6月に福井坂井大地震に遭遇。一生涯に3回もの生死を分ける程の大災害のまっただ中を生き抜いてこられた。生前にその生々しい体験談を親しく聞けたのは、誠に貴重な体験であった。そして私は福井大震災に関する資料を少しずつ集めようと思い立った。

 国民学校から元の小学校に校名が変った小学校6年生の時である。八幡神社の中を流れる小川の淵で釣をしていた。ゴーという物すごい音と同時に川面が激しく波打ち、立っておられなくなった。震動が少しおさまった時、八幡神社の森の石灯籠が数多く倒れていた。私のいたのは震源地から80キロほど離れた長浜市である。福井大震災がいかに大規模な地震であったかを後で知った。

 今、福井市の新都心といわれる地で、分譲マンションを建築中である。免震装置付である。分譲マンションとしては福井県下初のマンションとなる。自分の経験や藤尾定尾さんの話から、私は100年経っても、200年経っても価値を失わない、そんな分譲マンションを建てたいと思う。世界一高い建築を作った熊谷組と地元の見谷組のJVに、私の希望を託した。いよいよ発売開始の日は近い。大震災にビクともしない最高級マンションの建設に、私は夢中である。

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付加価値について

平成19年8月13日
付加価値について

 私は若い頃、商社の貿易を担当する部門で5年間に亘って、世界中を歩いた。かつての近江商人のように、世界中を行商して歩いた。

 その利益が「テンパー」であった。犬の病気のテンパーと同じ発音であるが、利益は僅か10パーセントという意味である。ものすごい円高であった。1ドル360円だったものが、アッという間に最高は80円を割った。生きているのが不思議なくらいの思いを体験した。多くの戦友を失った。私はその時くらい自分の利益の「テンパー」が低すぎると感じたことはない。

 貿易はLCによって決済する。受注して、納品をして、代金が決済できるまでに最速でも3ヶ月以上かかる。その間円高が進み、利益の10パーセントは吹き飛んでしまう。現在1ドルは約120円の円安といわれている。1ドル80円がいかに猛烈なものであったかが想像できよう。

 付加価値について、常に自問自答する習慣を身につけるのにそんなに長くはかからなかった。「テンパー」」では生きていけない。付加価値率が一定であれば、売上を伸ばすか経費を切り詰めるかいずれかである。しかし、突然の円高によって、確保したつもりの付加価値が消えてなくなる経験を味わうと何を信じていいのかわからなくなる。為替予約というリスク回避の方法も存在するが、短期間での変動の大きさには効果が薄い。一番の解決策は、付加価値を率で把えず、付加価値の大きさで把えることであった。

 また、究極の解決策は、累積経営であった。ここで行き着いたところが「累積経営」への開眼であった。

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关于附加价值


19年8月13日
关于附加价值

我年轻的时候,在商社贸易部门担任工作,5年里走遍了全世界。就像曾经的近江商人一样,在全世界行商。
当时的利益是“Ten Percent”,这个 发音跟狂犬病“Temper”相同,但是意思是利益只有10%。当时日元看涨,1美元360日元的汇率,眨眼之间涨到1美元不足80日元。令人体会到活着真是一件不可思议的事情,当时我失去了众多的战友。并且从来没有像那时一样感觉到这10%的利益有多低。
贸易以LC(信用证)结算,从订货、收货到决算最快也要3个月以上。这期间日元不断升值,10%的利益往往灰飞烟灭。现在的汇率大约为1美元120日元,这个水平叫做日元便宜,可以想象当时的1美元80日元是何等的猛烈。
所以我并没有花很长时间养成对附加价值进行自问自答的习惯。“10%”根本就活不下去。如果附加价值率一定,那么就得想办法甓销售额或削减经费。但是,往往突然性的日元升值,使得本来确定的附加价值消失得无影无踪,尝过这样的滋味之后,简直不知道该相信什么才好。虽然存在预约汇率回避风险的方法,但对于汇率在短期之内的大幅变动效果甚微。最好的解决方法是不理会附加价值率,而是把握好附加价值的大小。终极的解决方法就是累积经营了。我最终到达的地方是累积经营开了窍。

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駐車場ビジネスの将来

平成19年8月10日
駐車場ビジネスの将来

過去の日本のデータの上で、前年を一度も下回ることのない奇跡の発展を長期間に亘って続けているのが車の稼動台数である。私の知るところでは、これに匹敵するものは存在しない。まさに「奇跡の数字」である。この「奇跡の数字」の上に成り立っているのが駐車場ビジネスである。一朝一夕で崩壊する危険性は全くない。将来性、安全性、成長性のすべてを兼ね備えた稀有のビジネスである。

このビジネスの欠点は、やろうと思えば誰でも簡単に参入できるところにある。しかも参入に要する資金も少なくてすむ。ということは将来ともに「競争」は覚悟しなければならない。「競争」に勝ち残っていく為の工夫や仕かけ、戦略が求められる。

 私はこの対策を社是に掲げている。戦略を社是に盛り込んでいるのである。戦略とは奇策であってはならない。あらゆる人に認められるものでなくてはならない。

 その戦略の第一は、「自分の利益を追求しない」ということである。ライバルはすべて利益を追求するのに急である。私達はステークホルダーだけにとどまらず、まわりの人すべての人の為に働くことを心がけようとしている。

 戦略の第二は「雇用の確保」である。リストラの嵐が吹き荒れていた創業以来11年余り、雇用の確保を必死で守り抜いてきた。弱い人ほど大切にしてきた。この創業以来の姿勢を失ってはならない伝統にしたい。理想は「人を大切にする企業」である。

 戦略の第三は何一つ武器らしい武器を持たない私達にあるものは「何か」を常に追求する「知恵と努力」である。「知恵と努力」は無限である。無限にあるものを活用するのが私達の取るべき戦略である。

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停车场事业的未来


19年8月10日
停车场事业的未来

日本过去的数据史上,一直保持着奇迹般、从没有低于往年发展水平的是汽车的运行台数。就我所知的范围来看,目前还不存在能跟它相匹敌的数字。这简直就是“奇迹般的数字”,停车场事业就建立在这一“奇迹般的数字”之上。所以完全不用担心这一事也会在一朝一夕之间崩溃,同时它还是兼备将来性、安全性、成长性的罕见事业。
而这项事业的缺点在于任何人都可以简单参与进来,而且不需要太多的资金。因此应该充分认识到竞争会一直存在。因此需要下功夫准备能够赢得最后胜利生存下去的对策和战略。
我把对策写在了公司的经营宗旨里,战略也融进了公司的经营宗旨。所谓的战略不应该是奇兵异谋,而是大家都认可的东西。
战略的第一点就是“不追求自己的利益”。所有的竞争对手都急于追求利益,但是我们力争不只停留在利害关系方面,而是为了周围所有的人们而工作。
第二个战略就是“确保雇佣”。 尽管创业11余年来精简裁员之风劲吹,但是我们想把确保雇用这一姿态作为公司不可缺少的一个传统。我的理想企业是“爱惜员工的企业”。
第三个战略是我们虽然没有任何武器,但是却拥有不断追求进取的“智慧和努力”。“智慧和努力”才是无限的,有效利用无限的源泉是我们应该采取的战略。

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まだ間に合う

19年8月9日
まだ間に合う

 人は自分の過ちを認めたがらない。だから、古来より「過ちを改めるに、はばかることなかれ」という。過ちを素直に認めて、方向転換をし、新しい道を求めるのである。正しい道を捜すのである。
しかしこんな単純なことが往々実行できない。なぜだろう。それは変えることが怖いのである。今までのやり方、考え方、生き方を変えるのは勇気がいる。間違っていると薄々わかっていても、変えることを怖れる気持に負ける人が多い。

 「もう遅すぎる」という気持も強い。「過ちを改めるのに遅すぎるということは断じてない」これは私の信念であると同時に、永遠の真理だと考えている。なぜなら「一日を一生」と考えればよい。今日の一日、明日の一日をよりよく、より正しく生きる為に最善の道を選ぶ。その為に素直に過ちを認めて正しい方向へ転換するのである。

 私を訪ねて毎日たくさんの人が来る。その人々から多くの教えをいただいている。自分の過ちにふと気付くことがある。その時躊躇することなく、自分のミスを認めて方向を変えている。それは時代の流れに即応し、正しい道を認める気持が強いからだ。まだ間に合うという気持が強いからだ。一日一日を大切にしたいからだ。

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还来得及


19年8月9日
还来得及

人一般都不愿承认自己的错误。所以自古以来就有“悔过不惮”的说法。我们应该老实承认自己的过错,转换方向,追求新的方式,或者寻找正确的方式。
但是看起来这么单纯的事情我们却很难实行。这是为什么?是因为我们害怕改变。缺乏改变长期以来形成的做法,看法和生活方式的勇气。因此即便心理隐约明白自己做错了,大多数人还是输给害怕改变的心情。
还有“已经太晚了”的思想也比较严重。“改正错误断然没有太晚的时候”这是我的信念,同时也是我所认为的永远的真理。为什么?只要考虑“一日即一生”就明白了。为了今天一天,为了明天一天,选择最好的,最正确的生活方式。为此才需要诚实承认错误并及时转换到正确的方向来。
每天都有很多人来拜访我,他们教给我很多东西。有时候还会忽然令我意识到自己的错误,每次我都会毫不犹豫,承认自己的错误,及时调转方向。因为我有强烈的适应时代潮流的愿望,因为我总是认为还来得及,因为我想珍惜每一天。

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凡事徹底

平成19年8月3日
凡事徹底

 仕事をする上で、生きていく上で、大切なことは、平凡に見えることでも徹底して全力で行うことである。凡事とは、毎日繰り返す単純な作業のこともある。あるいは仕事の前に行う整理整頓や清掃のことかも知れない。お客様からかかってくる電話の応対、来てくれたお客様との応対など毎日何気なく行っている行動も含まれるであろう。とりたてて大事なことでなく通常のことを言っている。

 その凡事の遂行についての気構え、心構えを言っている。凡事と思ってないがしろにするな、心を込めて徹底した仕事ぶりをせよとの教えである。私達は大きく見えること、恰好のよいこと、人目を引くことをやる時には、十二分の注意を払い、徹底して対処する。そして大過なくその日その日を送っていっている。

 ところが凡事の処理でつまづく事が多い。甘く見て手抜きをしたり、心のこもらないやり方をしてしまうからだ。凡事と言えども、常に誠心誠意を尽くした対応をすると、間違いが起らない。それ以上に、凡事と思ったことから、大きな成果が生まれることがある。凡事徹底の成果である。

 そして、凡事徹底を行うに当り、自分流の工夫をすることが望まれる。自分流のやり方を見付けるのである。そして、そのやり方を毎日磨き上げていく。他人と同じやり方でも悪くはない。しかし、「徹底する」ということは、そこに何らかの「新しい」「自分流」を考案し、実行することである。

 日本には「写経」という一つの宗教的な行為がある。手本に従ってお経を写しとっていくのである。これを毎回、全く同じやり方で、何十回、何百回と書いていく。

 また「座禅」という修行がある。毎日定時に結座瞑想する。何も考えるな、空になれといわれる。「写経」も「座禅」も凡事に見える。誰もが毎日同じことをやっている。しかし、1年経ち、2年経つと大きな差が出てくる。「徹底」できたかどうかである。凡事徹底は簡単に見えるが、非常に難しい。奥の深い教訓である。

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凡事彻底

凡事彻底
19年8月3日
凡事彻底

不论工作还是生活,彻底坚持对平凡小事也全力以赴去做非常重要。所谓“凡事”,也许是每天都重复的单纯作业,亦有可能是工作之前的整理整顿和打扫。还包括接听电话,招待来访的客人等等我们每天看似毫不在意的行动。也就是说“凡事”不是什么特别重大的事情,就是指日常琐事。
经常听到关于完成这些“凡事”的应该有怎样的心境的说法。也就是不要因为是“凡事”就轻看它,要用心地,彻底地做的教诲。我们在做看起来很大,很有形,非常引人注目事情时,经常会带着12分小心,彻底去做。从而好像也没有什么重大过失地过着每一天。
但是,处理“凡事”的时候我们却经常碰壁,这是因为我们把“凡事”看地太容易而偷懒,或者根本没有用心做才会这样。即便是“凡事”也保持诚心诚意尽力应对,才不会出错。不仅如此,“凡事”往往会带来重大的成果。这是“凡事”也彻底做才会有的成果。
另外,我们在做“凡事”时,最好自己下功夫形成自己的一套做法。即找到适合自己的方法,然后每天不断完善这种做法。和其他人一样做也不坏,但是所谓的“彻底”应该是自己想出新的、自己独特的方式并加以实行。
日本有一种叫做“抄经”的宗教行为,照着样本抄写佛经的意思,而且每天都按照同样的方法,写几十遍甚至几百遍。
还有一种修行叫做“坐禅”,即每天定时打坐冥想。但是要求什么都不要想,四大皆空。“抄经”和“坐禅”看起来都是“凡事”,谁每天都一样做。但是,经过1年、2年,就能看出大差别,之所以会产生差别主要决定于有没有彻底去做。“凡事彻底”虽然看起来很简单,实际上蕴含着非常高难、深奥的道理。

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なぜこんなに重い

平成19年8月2日
なぜこんなに重い

環境の世紀、21世紀を迎えて、日本は自動車リサイクル法を制定、稼動している。それに併せて福井県初の自動車リサイクル専用工場をスタートした。100パーセントのリサイクル実現の為、手分解方式を採用、ベルトコンベア方式でなく、セル方式を採用した。会社設立から5年が過ぎた。月の生産高5千万円から8千万円のリサイクル事業が実現した。目標の生産高が道半ばに到達した。

 リサイクルをしていて感ずるのは、車の部品の重さである。なぜこんなに重くするのか。メーカーは軽量化に命をけずっているというが、あらゆる部品が信じられない程重い。

 フロントもドアパネルも重い。サスペンションもクランクシャフトも。ホイールもタイヤも。重くすることと安全は別ものの筈である。そして燃費を考えれば、車量総重量は半分にしてもよい。いや半分になる筈だ。

 フロントパネルは美しい光沢があり、黒板がわりに会議室で使っている。しかしものすごく重い。持ち上げてみるとその重さを実感する。何とかならないのか。半分の重さにする方法を見付けるのはそんなに難しいことではない。

 サスペンションで傘立てを作っている。これまたとっても重い。材質を変え、コイルの長さを変えれば、これも半分の重量で十分と思われる。車の重量を半分以下に出来れば、CO2の排出量は大幅にカット出来る。すべての原点は発想を変えることである。そこに実現の可能性が潜んでいる。かつて車は鉄の塊りであった。それがアルミを使い、プラスチックを使い、大分軽くなってきた。しかしまだまだ可能性が残っている。

 持ち運びの出来るパソコンが最初に出てきた時は驚く程、大きく重かった。携帯電話も全く同じである。

 日進月歩を繰り返し小さく軽くなってきた。車も風に舞う木の葉のように軽々と滑るように走る日が遠くないと思う。発想を変え、材質を変え、挑戦を繰り返すことで手に入ると思う。そうしなければ人類に明日はない。メーカーはその事に責任を持たなければならない。

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难以承受之重


19年8月2日
难以承受之重

我们迎来了环境的世纪——21世纪,日本制定了自动车回收法,并开始生效。配合这一法律我们开建了福井县第一个自动车回收专用工厂。为了达到回收率100%,我们采用手工分解方式,没有采用流水线方式,而是单元独立完成方式。公司成立5年以来,实现了月生产额从5000万元到8000万元的回收事业目标。达到了我们设定的生产目标的一半。
通过这项工作我感触最深的是汽车零件的重量。为什么要把零件做得这么重?据说厂家已经在拼命为减少汽车重量而努力,但事实上所有的零件还是难以置信地重。
不管是前嵌板还是门板都很重,悬架和轴承也一样,还有轮子和轮胎。重量和安全应该是不同的概念,而且考虑到燃油费用,汽车的总重量大有必要再减少一半,而且这应该是完全有可能的。
车身前板有着很好的光泽,我们用它来做会议室的酥帖C∪非常重,试着抬一抬就知道有多重了。可不可以变轻点呢?找出把它的重量减少一半的方法并不是多困难的事情。
我们用悬架做放伞架,它也非常重。改变材料,改变线圈的长度,重量减少一半完全有可能。汽车如果能够减少一半重量,二氧化钛气体的排放量也可以大幅减少。所有的出发点是改变想法。这里潜藏着实现的可能性。汽车曾经就是一堆铁堆积起来的,后来逐渐使用铝合金,使用塑料,从而轻了很多。但是还保留着太多太多的可能。
可以自由携带的电脑刚开始上市时也是又大又重,令人吃惊,手机也是一样。但是通过日新月异的技术进步它们都变得越来越小,越来越轻了。所以,汽车也变得如同随风舞动的叶子一样可以轻快滑行的日子也应该不远了。改变想法,改变材料,反复挑战就可以实现。不如此,人类就没有明天。厂家应该对此负责。

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「ツキ」を呼ぶ

平成19年7月31日
「ツキ」を呼ぶ

 幸運を持っている人がいる。常に「ツキ」と共にある人だ。何をやっても失敗しない人だ。幸運の女神には後髪がないという。幸運の女神に気付き通り過ぎた後、すぐ髪を把えようとしても、後髪がないから把えられないというのだ。女神は前からしか把えられない。ツイている人は女神と共にあるように見える。私は逆に後髪を把えられなかった苦い経験が多い。失敗の経験である。大失敗の経験である。大失敗のあとは、誰でも反省する。あらゆる分析をし、打った対策の良否をチェックする。どこで間違えたのか。何が欠けていたのか。

 今から約35年程前。東京では分譲マンションというニュービジネスが誕生していた。日本の高度成長時代がはじまっていた。私は社内初のこのニュービジネスを、一本の柱に育て上げたいと、役員会へ提案を繰り返した。提案は承認された。新分野への参入が決定した。粘り強い説得が効を奏したのだ。

 しかし、万全と思ったこの計画は、次々と試練に襲われた。地元の反対運動である。そして建築基準法の改正。反対運動を支援するマンション建設規制法の制定。最後は第一次オイルショックによる建設資材の価格の高騰。それにともなって戦後定着していた請負制度の一時中断が起きた。即ち請負ったものも緊急事態だから時価で買わざるを得ない。発注主も物価にスライドして請負額を引き上げよという法律である。精緻に組み上げたマンション分譲計画は大きく躓いた。

 この失敗を期に、私は分譲マンション事業に大きなこだわりを持った。35年間持ち続けた。失敗の原因の分析と対策の是非の検討に始まり、地元とのかかわりの継続も含め、私の時間とエネルギーを、これに注ぎ込んだ。

 その失敗のおかげで、現在各地で分譲マンションを購入し、これを運用している。また新たに3棟の分譲マンション事業を地元の方々と協力して始めた。福井市の優良建築物の認定を受け、まちなか居住、コンパクトシティ実現のための事業である。私にも「ツキ」が帰ってきた。

 「ツキ」を呼ぶための研究に失敗のあと35年を費やした。更にその為の理論武装をする為に、3年間の研究会の運営を続けた。更に100年後まで誠心誠意のサービスを続けていける体制づくりが必要である。ツキの女神は問いかけるであろう。「この事業は時代に合っていますか」「この事業は地域の人に歓迎されますか」「100年経ってもみんなに喜ばれますか」・・・この問いかけに自信を持って、「イエス」と答えられる事業だと信じている。

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呼唤幸运


19年7月31日
呼唤幸运

有些人好像总是很幸运,跟“幸运”同在,做什么事情都不会失败。人们常说幸运女神后边是不长头发的,意识到幸运女神来了,等她过去之后,想立即抓住她的头发,却因为她后边根本没有长头发所以无济于事。幸运女神只有从前面才可以抓住。幸运的人看起来好像和幸运女神同在。我则相反,没能从后边抓住幸运女神头发的苦涩经验很多,即失败的经验很多,而且是大失败。大失败之后,谁都会反省。分析失败的一切原因,采取的所有对策,什么地方做错了,什么地方有欠缺?
35年前,东京出现了分期付款公寓这一新的商业形式。当时日本的高速经济成长时代已经开始,我有志于把这一新的商务形式作为公司的支柱产业培养起来,于是反复向董事会提议。最后我的提议得到认可,公司决定进军这一新领域。这是我韧而不舍的多次陈说凑了效。
但是,我认为万无一失的这一计划,受到了一次又一次考验的袭击。地方居民的反对运动、建筑基准法的改正、支持反对运动的公寓建设限制法的制定、最后是第一次石油危机带来的建材价格上涨。同时战后逐步固定下来的承包制度暂时中断执行,即已经承包下去的工程因为这一紧急事态必须得按照时价收购回来。订货方可以根据物价浮动要求提高承包费的法律实施了。精心策划的分期付款公寓计划受到了严重的打击。
这次打击之后,我对分期付款公寓事业开始有自己的大原则,并且一坚持就是35年。这些年来我的时间和能量都用在了讨论失败原因的分析和对策的正确与否,以及如何保持和地方的关系。
正因为有上次失败的教训,我才能成功在各地购买分期付款公寓,并加以运营。另外最近还和地方各界齐心协力开始建设3栋新的分期付款公寓。这一建设得到了福井市优良建筑物认定,也是我们为了促进市中心居住,实现“袖珍城市”的理想而进行的事业。幸运女神好像也开始光顾我了。
失败之后我花费了35年研究如何才能带来“幸运”,为了进行理论武装,又进行了3年的研讨会运营。接下来还需要建立100之后仍然可以继续提供诚心诚意服务的体制。幸运女神一定会这样问我吧:“这项事业是否合乎时代要求”、“这项事业是否受到当地人民的欢迎”、“100年之后是否还会受到大家喜爱”……。我相信这是一项,我可以非常自信地用“yes”来回答这些问题的事业。

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「大事」と「小事」

平成19年7月30日
「大事」と「小事」

ある政治家から金言として「省事」を教えられた。老境に入ったら、出来るだけ、小事にとらわれず、やるべき事を減らせという教えである。「事を省く」即ち物事の本質を見抜いて、必要不可欠な一点のことだけを処理せよというのである。これが難しい。
「大事」の前に、急な「小事」が飛び込んでくると、すぐ手を出し、ずるずる時間と労力をとられる。結局「大事」に着手する機会を逃したり、遅れてしまったりする。
 また、「大事」と「小事」を見極めることすら容易でない。大事なことだと思い、急いで真剣に取り組んでみたら、案外なことに何でもない凡事だったりする。小事と思い、手をつけずにいると、問題が大きく膨らんで「しまった」ということもある。
 瞬時にして、物事の大、小を見極める力を養うことが求められる。「見極める力」「判断力」を持ってはじめて、「大事」と「小事」の区別が出来る。私の人生は失敗の連続だと思っている。「大事なこと」に気付かずチャンスを逃した事が多い。気付いていた時も、自分の能力に比べて「これは無理だ」と手を出せなかったこともある。「挑戦する勇気」がなかったのである。
 そんな失敗の後で考え出した改善策は、常に「自問自答」を繰り返すことである。私は自分に質問する。「何が一番大事なのだ」と。この質問を一日のはじめの早朝。そして仕事が一段落するお昼前後。そして仕事が終る頃。就寝前。何度も繰り返す。自問自答するのだ。
 突然の来客。そして長話。どれも私のスケジュールを乱してくれる。しかし、その中に思いがけず「時代の流れの変化」を教えてくれることがある。すばらしい出会いに会うこともある。「変化」に少しでも早く気付き、的確な手を打っていくことが非常に大切である。「大事」と「小事」の選別だけに把われすぎてもいけない。多くの人に、私と私の会長室を開放することに意義があるのかも知れない。そう思いつつ今日もまた自問自答を繰り返している。

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“大事”和“小事”


19年7月30日
“大事”和“小事”

我从一位政治家那里学到了至理名言“省事”。意思是说人上了年纪之后要尽量不拘泥于小事,减少该做的事情。即“省事”就是说要看透事物的本质,只处理必要的不可不做的事情。实际上做到这一点非常难。
做“大事”之前,突然发生一件小事,马上着手去做,不想却拖拖拉拉费时费力,结果错过了做“大事”的机会,延误了好时机。
还有,分清“大事”和“小事”都不是一件简单的事情。自己认为是大事,紧认真下功夫做了之后才发现,其实不是什么大不了的事情,凡杂琐事而已。相反,觉得不过是小事一桩,放任不管,结果问题变得越来越大最后大喊“糟糕”的时候也有。
所以,需要培养在一瞬之间判断事情大小的能力。而只有拥有“鉴别力”、“判断力”才能够区别“大事”和“小事”。我一向认为我的人生就是失败的连续。没有意识到“大事”而错失良机的情形很多。有时候即便意识到了,跟自己的能力相比又觉得“不可能”,而没有做,即缺乏“挑战的勇气”。
经历这些失败之后,我逐渐总结出了善后之策,那就是经常不断“自问自答”。我总是自问“什么事情是最重要的”。这个问题会在一天开始的早晨,工作告一段落的中午,以及工作结束,就寝之前,不断地重复,自问自答。
不速之客、漫长的谈话,这些都会打乱我的日程安排。但是有时候又会意外地教给我“时代潮流的变化”,或者造就非常有缘的相逢。尽早意识到“变化”,准确应对变化非常重要。所以太拘泥于区别“大事”和“小事”也不好。把我和我的会长室开放给更多的人也许是件非常有意义的事情。今天我也一边思考这个问题同时反反复复进行着自问自答。

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未知との遭遇

平成19年7月27日
未知との遭遇

 生老病死という言葉がある。人間の生も死も苦しみを伴うものである。そしてその生と死の間、老化に悩み、病気に苦しむことを運命付けられている。仏教の教えの言葉である。それが頭でわかっていても、なかなか自分の身に置き換えて理解することは難しい。

 生と死は自分で自覚できるかどうか、おそらくムリであろう。不可能と言ったほうがよい。ただ老いと病いは嫌でも自覚せざるを得ない。それが未知との遭遇なのである。不老長寿といったり、アンチエイジングという。これはすべての人を襲う体験となる。70歳という「古稀」の年齢に達した時、先輩の方々からこの現実を知らされた。

 まず体力の急激な衰えに気付く。今迄考えもしなかったことが起きる。今迄出来たことが、急に出来なくなる。未知の体験である。諦観ということを真剣に考える。

 70年近く、病気らしい病気はしなかったが、高血圧ということで毎日一錠ずつ薬を飲む。生きているのではない。生かされているのだと思いつつ、先の心配をする。すべての現象が今迄と違ってくる。

 気力の衰えはまだ感じない。しかしいずれこれも経験せざるを得なくなることであろう。私は老いや病いを恐れているのではない、次々と未知の事柄に遭遇するとハラハラ、ドキドキ興味津々である。スリル満点である。

 壮大な宇宙の一員であると同時に、ミクロの世界の巨人でもある私という一個の心身が、ゴールデンエイジにさしかかってきたことの自覚を悟らされる毎日である。今、まわりの親しい友や後輩、息子や孫に残す言葉を考えている。「一日一生」という表題で、日めくり形式にしようと思う。

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遭遇未知


平成19年7月27日
遭遇未知

有句话叫做生老病死,人的生死都伴随着痛苦。从出生到死亡,人们又为了老朽而烦恼,为了疾病而痛苦。这是上苍赋予人的命运,也是佛教所讲的道理。但是这个道理就算头脑可以理解,把道理实际放到自己身上对照理解却又非常困难。
靠自己领悟生和死,恐怕太过困难,或者说接近于不可能。只是老朽和疾病即便自己不乐意也得接受。这是和未知世界的遭遇,所以人们才追求长生不老,才有抗老化的之说。老朽会突如其来袭击所有的人。我到古稀之年时,从前辈们那里得知了这个事实。
首先是发现自己体力急速衰退。想都没有想过的事情接二连三地发生,本来会做的事情却突然做不了了。这都是未知的体验,只好认真考虑谛观。
活了近70年,不曾得过像样的病,只是最近因为血压高,每天要吃一片药。不是自己活着,是因为有大家帮助才活着,虽然一直这么想,还是开始担心将来,所有的情形都变得不一样了。
还没有感觉到气力的衰竭,但是总有一天这一点也会经历。我并不是害怕老朽和疾病,相反对不断遭遇的未知世界,一边有些紧张,一边又兴致勃勃,对这种冒险很是享受。
我的身心作为广袤宇宙的渺小一员,同时又作为微观世界的巨人,切实感受着即将迎来黄金岁月的每一天。现在,我正在思考可以留给亲友、后辈、以及子孙的遗言。考虑以“一日一生”为题,做成日历的形式。

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築地

平成19年7月26日
築地

 京都に「築地」という音楽喫茶がある。来年は創業75年になるという。ウィンナーコーヒーが名物である。高校生の頃はじめて「築地」でコーヒーを飲み、音楽を聞いた。マドロスパイプをくわえた白髪の上品なお爺さんがコーヒーを丁寧に入れてくれる。それを着物を着た婦人がてきぱきと運んでくれる。店の中はまさにヨーロッパ。シックな机、椅子、漆喰の壁や天井。彫刻入りの飾りがついている。色は赤と、黒っぽいが黒でない色。

 先日雨の日に久しぶりに訪れた。客は少かった。例の通り、ウィンナーコーヒーを注文。聞いてみるとその若い店主はお孫さんだという。

 神戸の「元町」、横浜の「馬車道」、そして東京の「築地」は、明治から舶来文化の先進地として、早くから開けた。ヨーロッパ文化の花開くところであった。その「築地」という名の音楽喫茶は、田舎から出てきたばかりの学生には、まばゆく見えた。

 記憶をたどってみると私がはじめてこの店へ来たのは53年前になる。改装はされているが、テーブルや椅子の位置は殆んど同じ。飾ってあるものも変化はない。京都は戦災にあっていないから、75年もの長い間、同じ雰囲気で存在し続けることが出来たという。それだけではあるまい。目に見えない三代にわたる手塩にかけた努力がヒシヒシと感じられる。まさに京都の宝である。あと2軒程同じように長年続いている喫茶店があるという。

 今、私は百年経っても、色褪せない、価値のおちない「マンション」を建てようとしている。同志社の栄光館、神学館と同じように、周囲に融けこみつつ、その美しさを持ち続ける建物、そんな美しいマンションを建てようとしている。そこにまた、「築地」のように変ることのない愛情、変えない勇気を持ち続ける主人公の心の大切さを教えられた気がする。建物がどれ程すばらしくても、それを美しく維持していく愛情がなければ価値は下っていく。「築地」という小さなお店ではあるが、三代にも亘って、愛情を注いでこられたその努力に対して、敬意を表したい。小さなお店でなく、大きな京都の宝として顕彰したい気持で一杯である。

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筑地


19年7月26日
筑地

京都有个叫做“筑地”的音乐茶座,明年将迎来创业75周年。这里的维也纳咖啡(Wiener Kaffee)是店中一绝。我上高中时第一次在“筑地”喝咖啡,听音乐。叼着烟斗、满头白发的优雅老人一丝不苟地在倒咖啡,而身穿和服的女侍者们麻利地把准备好的咖啡端给每个客人。店中犹如置身欧洲,古典的桌子、椅子、石灰墙壁和天花板,再加上装饰用的雕刻。颜色由红色和偏鄂У冕不是鄂组成。
前几天下雨天我又去了很久没去的“筑地”。客人很少,还是照老习惯要了维也纳咖啡。并且打听到原来现在的年轻店主是老店主的孙子。
神户的“元町”、横滨的“马车道”、东京的“筑地”,明治以来就作为吸收舶来文化的先进地,很早就得以开化,是欧洲文化在日本开花的地方。音乐茶座“筑地”,对于刚刚从乡下出来的我,显得异常目。
回想起来,我第一次进这个店是53年前了。这期间虽然店铺也装修过,但是桌子和椅子的位置几乎完全跟以前相同,装饰品也没有什么变化。据说是因为京都免于战火之灾,所以75年来才能够保持同样的氛围。其实并不仅仅如此,我可以深切体会到在我们看不到的地方三代人所付出的努力。这样的地方简直就是京都的财富,据说京都还有另外两家同样历史悠久的茶座。
现在我正在建一座100年后也不会褪色,不会贬值的“商品房公寓”。我希望把它建设成为像同志社的荣光馆、神学馆一样的建筑,既不断地融于周围,却又时时刻刻保持着自身独特的魅力。为此最重要的是要有“筑地”教给我的不变的爱情、坚持的勇气。无论建筑物如何美丽,如果没有维持这份美丽的爱情,也会不断贬值。“筑地”店铺虽小,但我想对主人一家三代倾注爱心的努力表示敬意。同时,更充满了想把小店“筑地”,作为大京都的财富发扬光大的心情。

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乱読

平成19年7月25日
乱読

 ものにあまり執着しない私は、本や絵を買っても、すぐ人にあげたり、売ったりしてしまう。社長職と同時に、社長室、社長車等を息子に引き継いだ。そして自宅のものも含め、すべての蔵書を整理した。福井駅近くに所有しているビルの空ペースであった所を改装し、会長室を作ってそこに蔵書を並べてみた。驚いたことに、ジャンルが多種多様。分類が難しい。これも私の乱読癖のせいである。文学全集や美術全集で抜けたものが多い。これも「ほしい」といわれると、喜んで、「どうぞ」と言ってしまう私の癖のせいである。「ほしい」といった本人が「本当にいいの」と驚くほど、私は執着しない。

 乱読とはいうが、その時、その時は、ある目的をもって、まとめ買い、まとめ読みをする。例えば画家のシャガールについて知りたい時は、画集をはじめ、シャガールの名のついたものはみな購入する。お金が足りない時は、図書館に走る。シャガールに関する本は多い。芹沢げ陲亡悗垢詼椶眤燭ぁ

 シャガールと芹沢げ陲呂匹Δ弔覆るのか、私にも説明が難しい。好きな作家という点は同じだ。それとカラフルである。独創的である。芹沢は、フランスで、パリで、絶賛を博した数少ない日本人芸術家の一人である。

 乱読の楽しみは、格別である。「旅」にたとえることも出来る。行き先を決めずに出かける自由な一人旅である。どこでも自由に行ける。それは多くの果実を私に与えてくれた。思いもよらないすばらしい出会いがあった。予期せぬ結末に驚いた。美しい結縁に感動した。

 古来より「歴史に学べ」といわれる。「真理は永遠なり」ともいう。しかし、人それぞれ。人生いろいろである。ものの見方、考え方、感じ方の多様さを知る為には、乱読が役に立つ。先入観を持たず、白紙の状態で、自然体で人生に謙虚に向いあうことは決して危険なことではない。乱読のすすめになったかどうか心配であるが、私は乱読をすすめたい。

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滥读


19年7月25日
滥读

我向来对东西没有过多执著,经常买了书或画过不了多久就转手送人或卖掉。前不久我把社上的位置连同社长办公室、社长专用车一起让给了儿子继承。然后对包括自己家里在内的所有藏书进行了整理,并把福井车站附近公司名下大楼的一处空房间,装修改建成了会长室,把自己的藏书全部摆了进来。结果自己都大吃一惊,书的种类实在太多,难以分类,这也是我喜欢滥读的习惯造成的。其中文学全集和美术全集中间短缺的也很多,这又是我只要谁说“好喜欢”,我就乐意说“拿去吧”大方奉送的结果。反倒是说“好喜欢”的人会问“真的没关系”,显得非常吃惊我竟然如此舍得放弃。
虽说是滥读,其实很多时候是不同时间,抱着不同的目的,一次性买来,集中阅读。例如我想了解画家夏卡尔时,就从画集开始到所有带有夏卡尔名字的书籍一次性买来读,钱不够用时,就跑图书馆。现在我的藏书中关于夏卡尔的很多,芹泽げ霤也不少。
至于夏卡尔和芹泽之间有什么关系?我也难以说明。他们在都是我喜欢的作家这点上是相通的,还有色彩都很丰富,具有独创性。芹泽是在法国,在巴黎得到大家击赏的少数日本艺术家之一。
滥读的乐趣别具一格,可以比喻成“旅行”。好比是事先并不定好目的地的自由自在的单身旅行。可有自由地去任何地方。却能给我带来丰硕的果实。经历意想不到的美妙邂逅,惊叹于结局的意外,为美丽的缘分而感动。
自古就有“向历史学习”的说法,也有“真理是永远的”看法。但是,每个人千差万别,人生也多姿多彩。滥读对于理解人们看法、观点、以及感受的多样性非常有用。不带任何先入之见,保持如同一张白纸的状态,以自然之我谦虚地面对人生决不是一件危险的事情。最后虽然有点担心这篇文章有没有很好地把滥读介绍推广给大家,总之建议大家不妨尝试滥读。

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芥川賞

平成19年7月24日
芥川賞

 文学を志す若者にとって芥川賞は大きな夢である。学生時代に「芥川賞」がほしいといった友は昨年逝った。銀閣寺のほとり、彼の下宿の二階で枕を並べて文学に対する夢を語り明かした。彼の名は横田典夫。私達の国文学の師、横田晶子さんの弟である。遂に芥川賞はとらず僧籍に入り、そして逝った。彼の下宿は西田幾多郎の哲学の道に近く、その後この哲学の道は私の好きな散歩コースとなった。

 鎌倉の七里ヶ浜に哲学の谷戸がある。西田幾多郎がここに住んで思索した道がある。すぐそばに福井ゆかりの彫刻家高田博厚のアトリエがあった。パリで活躍し、世紀の彫刻家ロダンを超えたかとインドのガンジーにいわれた高田も晩年この谷戸に住んだ。死後、彼のアトリエを訪ね、未亡人から作品を見せていただいた。福井市に作品を寄贈する約束をしてあるが、その受け皿の美術館の建設がすすまないことを心配されていた。今は立派に完成し、作品群は美術館の宝となっている。

 鎌倉にあこがれていた私は、高見順が住んでいた北鎌倉の山の内界隈で住いを捜した。丁度台峰の頂上近く、北鎌倉女学院の上でよい物件を、系列の不動産会社が見つけてくれた。隣家までが山の内地籍。私の家は台地籍。2、3分歩くと女学院のグランドに出る。そこから霊峰富士が目の前に大きく浮かび上る。今は家が建ちだしたが、手に入れた時はまわりは森。眺望は抜群。大船観音が白く輝き遠望できる景勝の地であった。

 それから数年、柳美里の芥川賞受賞の報が届いた。おそらく彼女の受賞作は、私の家で書かれたものだと思われる。というのはその家は彼女の母から私が買い、その後1年以上にわたってそのままそこに住んでおられた。よく話題に上った自慢の娘である。

 福井県出身者で芥川賞、直木賞の作家は多い。高見順はノミネートされたが、受賞していない。その後芥川賞の審査員として活躍したのは有名である。芥川賞は小説家の登竜門であり、若者にとって大きな夢である。活字ばなれの進む昨今、芥川賞、直木賞を目指す若者が増えることを期待している。

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芥川奖


19年7月24日
芥川奖

对于立志于从事文学创作的年轻人来讲,芥川奖是个巨大的梦想。我的一位学生时代说过想要摘取芥川奖的友人去年去世了。多少次我们在银阁寺旁边并排躺在他2楼的宿舍里彻夜讲述着自己的文学梦。他叫横田典夫,我们国文学老师横田晶子的弟弟。但是最终他并没有摘取芥川奖而是入了僧籍,并且离开了我们。他的宿舍离西田几多郎的哲学之路很近,后来这条哲学之路成了我非常喜欢的散步路线。
廉仓的七里滨有哲学谷户,西田几多郎居住于此时的思索之路也在这里。紧旁边就是跟福井很有缘的雕刻家高田博厚的工作室。他是一位活跃在巴黎,曾被甘地称赞为可能超越了世纪雕刻家罗丹的雕刻家,晚年也住在谷户。他辞世后,我曾经造访他的工作室,未亡人高田夫人带我看了他的作品,并且承诺要把作品捐赠给福井市,当时夫人十分担心可以接纳这些作品的美术馆迟迟无法竣工。现在气派的美术馆已经顺利完工,高田先生的作品群成了美术馆的宝贝。
一直对廉仓满怀憧憬的我,后来开始在高见顺曾经住过的北廉仓山之内界隈寻找住房。刚好同一系列的不动产公司在台峰靠近山顶,北廉仓女子学院的上方为我找到了不错的房产。只是到邻居为止还属于山之内地界,我家却成了台地界。步行2、3分钟就是女子学院的操场,站在那里极目远眺,灵峰富士就会大大地浮现在眼前。现在那一带开始不断建造起房产来,当时我买房子时周围都是森林,是非常适合眺望的名胜所在,可以看到远方闪耀着白色光辉的大船观音。
又过了几年,传来了柳美里获得芥川奖的消息。获奖作品大概就是在我家里写的。因为当时我从她母亲那里买到房子之后1年多,她还一直住在那里。对于母亲来讲她是一位受人关注的值得自豪的女儿。
福井县出身的芥川奖、直木奖获得者很多。高见顺曾得到提名但是没有得奖。后来他一直活跃在芥川奖审查员的舞台上成了有名的逸事。芥川奖可谓小说家的登龙门之举,对年轻人来讲是巨大的梦想。在今天人们离文字越来越远的时代,衷心期待有更多的年轻人立志朝着获得芥川奖、直木奖而努力。

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格差とスーパーリッチ

19年7月23日
格差とスーパーリッチ

 ビルゲイツやアラブ王族、ヨーロッパやアメリカの富豪といわれるスーパーリッチ、最近では中国やロシアのスーパーリッチの話題が多い。反対にまた若者を中心とする低所得層の増大が問題になってきている。福井県は世帯当りの貯蓄で日本一多いといわれている。1人当りの所得は決して多くはないが、三世代同居のケースが多く、しかも共稼ぎが多い。この傾向は当分続きそうだ。

 日本の上場企業の数は約4,000社。福井県に本社がある企業(本店)は16社。0.4%にすぎない。人口は0.64%である。福井県は社長輩出率25年間全国一を続けている奇跡の県である。しかし、上場企業を含めても自己資本100億円を超える企業は僅かに10社程度。10億円を超える企業は100社程度。小粒の良質の企業が集っているのが福井県である。いわゆる「格差」が少なく、「スーパーリッチ」の殆んどいない所である。

 人は何を求めて集ってくるかを考えてみよう。まず、世界の先進地を調べてみよう。代表的な所は、スイス・モナコ・ハワイ等である。そこには美しい景観(自然と人工の建造物の調和)と安全(これから最も重要)とすばらしい気候とホスピタリティがある。福井県はどうであろうか。景観も安全も気候もホスピタリティも十分合格である。そして終の住処を求めてくる人は「健康長寿」「元気で長生き」したいと考えてくる。

 その受け皿があるかどうかが大切となる。例えばスイスには「ラブレリー」というクリニックがあり、世界中から特別な医療やアンチエイジング治療、エステティックなどを受けにくる。福井県のガン治療、心臓手術等の医療を充実させていけばこれまた可能性大である。モナコは安全性を宣伝している。幸い福井県は県民性もあり、宗教心、信仰心が篤く極悪犯罪が少ない。更にこのよい点をのばして、あらゆる犯罪ゼロを目指していけばよい。これ等は「最新医療・老人福祉施設をともなった健康長寿特区」「犯罪ゼロ特区」などの申請も考えられる。最近沖縄への移住が盛んであるが、沖縄は熱い、熱すぎる。福井にはぜひこのように、みんながあこがれて集まってくる新しい福井の実現ができることを願っている。

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差距和超级富豪

差距和超级富豪
19年7月23日
差距和超级富豪

比尔盖茨、阿拉伯王族、欧洲以及美国的富豪们被称之为超级富豪,最近有关中国、俄罗斯的超级富豪的话题比较多。相反,以年轻人为中心的低收入层的甓談蘆渐成为问题。福井每家每户的储蓄额占日本第一。虽然每个人的收入绝对不算高,但是三代同居的情况很多,而且双职工家庭也比较多。这种倾向还会在很长一段时间持续。
日本的上市企业大约有4,000家,其中总公司(本店)在福井县的有16家,仅占0.4%。福井人口占全国的0.64%,但是创造了社长辈出率连续25年来都是日本第一的奇迹。但是包括上市企业在内,自我资本超过100亿的企业只有10家左右。超过10亿的只有100家左右。可以说福井是小型优良企业比较集中的县,是个“差距”很小,“超级富豪”却也几乎没有的地方。
让我们来思考一下人们为了追求什么而向某个地方集中。首先,来调查一下世界上的先进地方。代表性的有瑞士、摩纳哥、夏威夷等。这些地方都有美丽的景观(自然和人工建筑物相协调)、安全(这一点今后将成为最重要的因素)、以及宜人的气候和待客之道。福井怎么样呢?景观、安全和气候以及待客之道都完全合格。寻求终老之地的人们自然要考虑“健康地长寿”和“精神地长寿”,能不能满足这个条件就成为关键。比如瑞士有叫做La Prairie的诊所。她的特别医疗和抗老化治疗、美容护理等项目吸引了世界各地的人士前来接受治疗。福井县如果进一步充实癌症治疗、心脏手术等医疗条件可能性也是极大的。摩纳哥在宣传自身的安全性。值得庆幸的是福井县受县民性的影响,宗教心、信仰心诚笃,恶性犯罪很少。这一点应该进一步加强,朝着各种犯罪为零的目标努力。也可以考虑申请成立“具备最新医疗•老人福利设施的健康长寿特区”、“零犯罪特区”等等。最近移居冲绳非常盛行,但是冲绳很热,可以说太热。希望福井有一天能够实现理想,成为大家向往聚集的地方。

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「コシヒカリ」のふるさと

平成19年7月20日
「コシヒカリ」のふるさと

 1956年福井農業試験場で育成され、「越の国に光り輝く」ようにと名付けられたお米、それが「コシヒカリ」である。おいしいと評判になり、1979年から28年連続で日本一の栽培面積を続けている。現在では栽培面積のベストテンは、「コシヒカリ」とその系統の子孫が独占している。まさに日本のお米のふるさとは福井県と言っても過言ではない。

 継体天皇の即位1500年を迎えて、今年はゆかりの各地で、継体天皇にちなんたイベントが挙行されている。継体天皇の功績は治水事業である。河川が交通の要衝であった時に、河川をコントロールし、広大な農地を開墾し、米の生産を奨励したといわれている。その頃より福井県は日本一の米作地帯であった。

 「コシヒカリ」が福井生まれであることが明々白々であり乍ら、なぜの新潟県魚沼産のコシヒカリがこれ程有名になったのであろうか。その理由は栽培面積が逆転してしまっていること。今では新潟県のコシヒ
カリ栽培面積の方が遥かに大きく、宣伝の仕方もうまい。

 栽培面積を一挙に逆転することは難しいが、上手に「コシヒカリ」のふるさと福井をPRすることは可能である。お米は上手に調理すると健康食となる。おいしい福井の「コシヒカリ」を全国に、全世界に送り出す手段を考えることだ。インターネットの利用、オークションの利用、ふくいブランド化、新しいイベントの開催、豆・芋文化の中のコシヒカリ、精進料理のコシヒカリなどなど、工夫すれば「コシヒカリ」のふるさと「福井」をPRすることは十分可能である。

 量が質を凌駕できる時代は去った。これからは質の時代である。日本一、世界一おいしいお米「コシヒカリ」のふるさと「福井」の存在価値を世に問う必要がある。

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“越光米”的故乡


19年7月20日
“越光米”的故乡

1956年在福井农业试验场培育成功,并被命名为“光芒照耀越之国”的大米就是“越光米”。“越光米”因美味而备受好评,从1979年起连续28年成为日本栽培面积最广的大米。现在栽培面积最大的前十位大米都是“越光米”或者同一系统的子孙们。说福井县是日本的大米故乡一点都不言过其实。
为了迎接继体天皇即位1500年,同天皇有着深厚渊源的各个地方都举行纪念活动。继体天皇的最大的功绩是治水事业,当时河流还是交通要冲的时代,据说继体天皇有效控制河流,大量开垦农田,鼓励生产稻米。从那时起福井就是日本最大的稻米产地了。
“越光米”源自福井是明明白白的事实,但是新泻县鱼沼的“越光米”为何如此有名呢?理由是栽培面积和福井发生了逆转。现在,新泻县的“越光米”栽培面积远远超过福井,宣传方法也要高明得多。
想一举扭转栽培面积太困难,但是有效宣传“越光米”的故乡福井还是有可能的。大米只要调理方法得当,就会成为健康食品。要想办法把美味的福井“越光米”推广到全国乃至全世界。可以利用网络、利用拍卖、把福井品牌化、开展新的促销活动、比如豆类•芋类文化中的越光米、精进料理中的越光米等等、只要下功夫,宣传“越光米”的故乡——福井的可能性是充分存在的。
现在“量”凌驾于“质”的时代已经过去,今后将是“质”的时代。我们有必要让世人知道日本第一、世界第一美味大米“越光米”的故乡——福井的存在价值。

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午前5時30分

平成19年7月19日
午前5時30分

午前5時30分。白鷺の群が目の前に田園に舞い降りる。二つの群でそれぞれ8羽ずつ。テラスへ出てみると、霧の中に点々と白く光って見える。白鷺だ。頭上を小鳥達がさえずり乍ら飛んでいく。今日も平和の里、永平寺の田園は、静かに明けようとしている。
 エコ花という廃タイヤを利用した植木鉢を考案した。まちおこしということで、事務所や駐車場にプラスチック製のプランターを置いていたが、半年も経たないうちに枯れてしまう。1年も経つとプランター自体が破れてくる。廃タイヤはその点、誠に強い。3年経っても破れてこない。そこでこれを加工して新しいプランター(植木鉢)に作り直した。実験的に毎月100ヶ〜150ヶを作っていこうと考えている。
 この「エコ花」のアイデアは社員の中から生まれてきた。エコロジー運動が盛り上がってきている。この時に、このようなすばらしいアイデアが、社員の中から次々と生まれてくることは、無上の喜びである。
 そのほかに自動車のカーシートを取り外して、足をつけ、「エコチェア」「エコソファー」として事務用のイスやソファーとして売り出している。福井県のエコ認定商品として登録済である。これ等のイスも更に在宅用として開発中で、県産品の杉の間伐材を使って製作中である。
 更に車のウィンドーを使った花台もある。ガラスの再利用は今後の重要課題である。
 廃タイヤを「エコ花」に作り変える機械の開発も始めた。人力だけで機械を使わず「エコ花」を作ると1人10ヶ/日が限界である。なれない人や女性では5ヶ/日も作れない。そこでみんなの知恵を集めて、誰がやっても20ヶ/日以上作れるような機械の開発を始めた。完成すれば、全国の仲間達に紹介したい。みんなに喜んでもらえる仕事がしたい。それが私の切なる願いである。その為の出費は惜しまない。

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清晨5点30分


19年7月19日
清晨5点30分

清晨5点30分,白鹭群降落在眼前的田园里,两群各8只。走出凉台,晨雾中散发着点点白光的,就是白鹭。小鸟们在头顶鸣叫着飞去。今天这和平之乡,永平寺的田园也在静悄悄地迎接着黎明的到来。
我们想出了利用废旧轮胎作花盆的“环保节能花”。为了振兴城市我们曾在办公室和停车场安放塑料制的花盆,但是不到半年花就枯萎了,再不到1年花盆自身也会坏掉。废旧轮胎在这一点上就要结实得多,3年也不会坏。因此我们选择把废旧轮胎重新加工成花盆,现阶段试验性地每个月生产100个至150个。
“环保节能花“的创意来自于员工。节能运动正在不断升温,此时,能够从员工当中不断产生如此精彩的创意,实在令人欣慰无比。
另外我们还把汽车的座椅拆掉,安上脚,作为“环保节能椅”或“环保节能沙发”等办公用椅或沙发销售。这些商品已经作为福井县的环保商品注册备案。我们在进一步努力把这些椅子作为一般家庭用开发,目前在使用福井县产的杉木进行试制阶段。
另外我们还试着把车窗做成花台。玻璃的再利用将是今后的重大课题。
同时我们还开始开发将废旧轮胎做成花盆的机器。现在不用机器只靠人力制作“环保节能花”,一个人一天最多只能做10个,不熟悉的人或女性一天连5个都做不了。因此我们决心集中大家的智慧,开发谁都可以一天轻轻松松做20个的机器。开发成功之后,我们打算把它介绍给全国各地的同仁们。我们就是想做使大家都开心的工作,这是我衷心的愿望,为此我们将不惜任何代价。

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日本の城

平成19年7月18日
日本の城

 日本へ来た宣教師達は、長旅の途中の各国の情況を、刻明にローマへ逐次報告をしており、その記録は貴重な資料として残っている。自分達の目で見たものから判断をしているので、その描写は生々しく、手にとるようによくわかる。

 日本の城が山嶽のとりでから、平地に移った頃、急速に姿・形を整えた。1500年代の半ばである。斉藤道三の井の口を攻略した織田信長は、早速井の口を岐阜と改称し、岐阜城の大改修を行った。「岐阜」の町の名は中国の故事により付けられた。

 周の文王は岐山より起って天下を定めた。また孔子は曲阜に生まれ、その後、曲阜は文教の都として栄えた。信長は「武の都の岐」と「文の都の阜」を合わせて「井の口」を「岐阜」と改めたのである。

 更に信長は琵琶湖畔安土に進出し、そこに彼の一世一代の安土城を建造した。七層の天守閣を備えた全国一の美しい城であった。彼は岐阜城も安土城も宣教師達に十分に見せており、二つの城の詳細はその報告書として残っている。

 柴田勝家は越前北ノ庄に入ってすぐ築城をはじめ、羽柴秀吉との賤ケ岳合戦までに北ノ庄城をほぼ完成させていた。信長の安土城の七層の天守閣を凌ぐ、九層の美しい天守閣を持った名城とローマに報告している。「ヨーロッパのシヤトーよりもより洗練され、より豪華で、より気品に満ちている」との評価である。当時の安土桃山時代は金銀の産出がピークを迎えていたという背景もある。

 いずれにしても世界中を歩いた宣教師達の受けた「日本の城」の印象は芸術的にも日常的にも世界でも突出して優れたものであったに違いない。

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日本的城堡


19年7月18日
日本的城堡

来日本的传教士们,将长途旅行中所经各国的情况逐一仔细地报告给罗马,这些记录成为珍贵的资料保存了下来。因为都是根据自己亲眼所见做的判断,所以其描写都生动形象,使人如临其境。
日本的城郭从山岳的堡垒向平地转移时,样式,外形都发展很快,快速走向成熟。16世纪中叶,织田信长攻克齐藤道三的井之口,随后立即将井之口改称为岐阜,对岐阜城进行了大改修。“岐阜”的名字来源于中国的典故。
周文王兴起于岐山而定天下,孔子生于曲阜,之后曲阜作为文教之都繁荣。于是信长将“武之都的岐”和“文之都的阜”合起来把“井之口”改为“岐阜”。
后来信长更进一步打入琵琶湖畔的安土,并在此建造了他一生一世的安土城,这是一座有着7层天守阁的全国最美丽的城市。他把岐阜城和安土城热情地介绍给传教士们,有关这两座城的详细情况都在传教士们的报告书中保留下来。
柴田胜家进入越前北之庄之后,立即修筑城池,到同羽柴秀吉进行贱之岳大战时基本完成。传教士们的报告中说这是一座凌驾于信长的安土城7层天守阁之上,拥有9层天守阁的名城。他们评价这座城市说“比罗马的希亚特城还要洗练、还要豪华,还要富于品位”。这跟当时安土桃山时代金银的生产达到高峰的背景也有关系。
总而言之足迹遍布全世界的传教士们对“日本城”的印象是艺术的、同时又是日常的,在全世界来看也一定是非常突出和优秀的。

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荒磯忌

平成19年7月17日
荒磯忌

 7月15日に高見順の生誕100年の荒磯忌が、福井県の坂井市三国町の文学碑前と円蔵寺で行われた。日本海を見下す松林の中にその文学碑はある。私生児としての彼の出生が、荒々しい日本海の吹雪の中から語られている。私はこの詩が好きである。

 最初に高見順にあったのは、北鎌倉の彼の家の前であった。昭和30年の夏、長身の彼は暑い陽ざしの中、笑っていた。私は友人の親戚の家に数日間泊めていただき、東京見物や材木座海岸の海水浴を楽しんでいた。その家は高見順の家のすぐ前のお邸であった。

 その後、高見順が福井県の三国町の出身と知った。小説や詩の中で、共感するものがあった。特に大正から昭和にかけて一世を風靡した白樺派の運動について多くのものを得た。武者小路実篤の「新しき村」、有島武郎の「カインの末裔」「農場の開放」など高見順の学生時代には鮮烈な新運動であったに違いない。私の学生時代は彼とは30年後である。既に農地解放を眼のあたりにした私には、それでも白樺派の主張は魅力的であった。武者小路の「一本の枝」(岸田劉生の一本の小さな枝を持っている麗子像が描かれている)をはじめ数々の小説は、独得の文章と共に、青春時代の私達の精神に勇気を与えてくれた。白樺派の画家や作家と私の交流もその縁で始まった。

 その後北鎌倉に居を移した私は縁切り寺(東慶寺)で高見順の墓石とあう。彼の家は既にアパートに改造され、その前のお邸には友人の姉夫妻が住んでいる。近くの料亭、好々亭はその後長く私が接待に利用した。

 私生児としての誕生に深い陰影を刻んだ高見順は、その後どういうわけか、私生児を作ってしまった。高見順が庶子として認めれたのが、東京大学卒業後の23歳の時。高見順が生ませた私生児を養女として入籍したのは7歳の時。彼の死の13日前のことであった。

 彼の作った貸本屋「鎌倉文庫」は現在もその名前をとったギャラリーが鎌倉の小町通りにある。

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慌矶忌


19年7月17日
慌矶忌

7月15日,纪念高见顺诞辰100周年的慌矶忌在福井县坂井市三国町的文学碑前和圆藏寺同时举行。文学碑立于俯瞰日本海的松树林当中。日本海的千堆雪浪讲述着他作为私生子的身世,我很喜欢这首诗。
最初见到高见顺是在北廉仓他的家前面,时间是昭和30年的夏天。身材颀长的他,在热辣辣的阳光中欢笑着。我当时刚好在朋友的亲戚家里短住游览东京和享受材木座海岸的海水浴。朋友的亲戚家刚好在高见顺家的近前面。
后来,得知高见顺是福井县三国町人,读他的小说和诗歌,也有很多同感。特别学到了很多风靡大正到昭和的白桦派运动。武者小路实笃的《新村》、有岛武郎的《该隐的后裔》
、《农场解放》等等这些在高见顺的学生时代应该是非常鲜明激烈的新运动。我的学生时代则晚于他之后30年,虽然已经亲眼看到了农地解放运动,但白桦派的思想对我还是充满了魅力。
武者小路的《一根树枝》(岸田刘生曾经画过拿着一枝小小树枝的丽子像),还有很多其他小说,都以独特的文笔,给我们的青春时代带来了莫大的精神勇气。我同白桦派的画家和作家的交流也是因这个缘分而起。
移居到北廉仓之后我在斩缘寺偶然看到高见顺的墓碑。他的家已经被改造成了公寓,朋友的姐姐姐夫就住在那所公寓前面的家里。后来我经常去附近的饭店、好好亭招待客人。
私生子的身世给高见顺留下了深刻的阴影,但是后来不知为何,他自己也生了个私生子。高见顺作为庶子得到承认是东京大学毕业之后的23岁,而自己所生的私生子作为养女加入自家户籍则是在孩子7岁时候,即他去世之前13天。
高见顺曾开租书店“镰仓文库”,至今廉仓的小町路还有同样名字的艺术画廊。

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令人不解的国内销售


19年7月13日
令人不解的国内销售

新车的国内销售(记录)在下滑。往年都是3月份达到高峰4月份以后开始下滑,今年4月份以后的下降幅度大大超过往年。一方面轻车销售势头的影响比较大,但是,跟出口的好势头相比国内销售的不景气是为了什么?
丰田请出老本家丰田家族的丰田章男副社长担任国内销售的总领,大概是要采取大动作了。但是,另一方面,丰田的人气车“混合燃料车”普锐斯与国内销售相比面向美国的出口一直在长。大概在日元贬值的影响之下,考虑到预算还是出口好处大得多?今后包括丰田的轻车战略在内,都是令人关注的问题。
据说斯巴鲁的力狮销售也在下滑。一般认为汽车销售呈两极分化,即会出现低价位车、轻车和高级车的需求分化。而现在高级车的销售明显开始减少。原因可能是因为年轻人开始疏远汽车。对厂家和代理商来讲高级车销售不景气就意味着经营难以为继。唯一的常胜将军----汽车相关产业,仅就国内销售来看,似乎落日的影子已经悄悄逼近。
时代从“拥有的时代”朝着“使用的时代”转变,从积蓄走向流动的浪潮正在兴起。曾几何时,对于人们来讲拥有汽车是社会地位的象征,可以带来自我满足。但是现在汽车只不过是“代步工具”、“借用一下”即可的东西的思想开始泛滥,另外“共用汽车”以及防止地球变暖等思想也开始快速普及。
汽车生产厂家所剩下的道路只有开发节能轻型车、新动力(更加轻便)汽车、以及混合燃料车的批量化生产。流通成本的减少,也会随之而来。厂家和代理商只有切切实实毫不迟疑采取应该采取的对策才能生存的时代就要开始。

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今を生きる

平成19年7月9日
今を生きる

 近江商人訓に「三方よし」がある。「売り手よし、買い手よし、世間よし」という哲学である。売り手と買い手という利害が相反する双方にとってお互いに納得できる価格の設定は至難の技である。ましてそれが世間にとって、正当性を持つ価格にすることは難しい。「価格」と言ったが、それは取引の一条件であり、「三方よし」は「価格」を含むすべての商取引を通してこの考え方を求めている。

 私は仏教で言う「十方世界」を例に、「三方よし」の考え方を更に拡大解釈し、「十方よし」を社是社訓の中に取り入れている。空間的に言う「十方」は前後、左右、上下、そして斜め方向など自分を取り巻くすべてのものを含む。同時に過去、現在、未来という時間軸を取り入れて、これを含んで「十方」と呼んでいる。

 時間は不思議なものである。私達は過去も、現在も、未来も広大無辺なものと考えているが、本当にそうであろうか。いやいや現在は「刹那」である。「瞬間」である。過去から未来へ続く長い道程の中の「一瞬」にすぎない。この「一瞬」を悔いなく生きることは大変なことである。この「一瞬」にまわりの人すべてに喜びと幸せを共有する仕事をすることは誠に難しい。しかし、これが「十方よし」を実行することになる。

 「現在に生きる」、「今を生きる」、これに全力を上げていくことこそ「十方よし」なのである。価格を例に例えたが、最近のスーパーマーケットの生鮮食料品売場を見ると、午後8時になると、殆んどの商品に50パーセント引の札を貼っている。5分前に買った客と僅か5分間の差で、半額になる。私は子供の頃、八百屋、魚屋の店頭でこの光景を見た。店主が頃合いを見て、客の顔色を見て、急に大幅な値引をする。

 価格決定権を持つ八百屋や魚屋の店主が尊敬すべき人に思えた。「偉い人」に見えたのである。しかし、よく考えてみると生鮮食料品は売り切ってしまうことこそ肝要なのである。だから、一物二価であろうと客は文句も言わず買っていく。「現在」と「価格」の関係をそこに見ることが出来る。

 「今を生きる」私達は、一瞬のチャンスを逃すと大変である。次のチャンスはいつ来るかわからない。だから、常に気をはってこの「チャンス」をしっかり把える態勢を整えておくことこそ肝要である。「今を生きる」というのはそれを言う。「十方よし」の精神の真髄はここにある。

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活好现在


19年7月9日
活好现在

近江商人训中有“三方皆好”,即“卖方好、买方好、大家好”的经营哲学。设定对卖方和买方这一利害关系完全相反的两者都愿意接受的价格就已经很难,更不要说这一价格还要对世界上所有人来讲都具有正当性了。这里讲的“价格”,这只是交易的一个条件,“三方皆好”则要求通过包括“价格”在内的所有商务往来来实现。
我以佛教所讲的“十方世界”为例,将“三方皆好”的提法加以扩大解释,把“十方皆好”融进了公司的社训之中。从空间来讲的“十方”是指前后、左右、上下、斜向等包括围绕着自己的所有的东西。同时再加上过去、现在、未来等时间轴、包括这些在内的一切叫做“十方”。
时间是个不可思议的东西,我们总认为过去、现在、未来都是广大无边的,真的是这样吗?不,绝对不是,一切不过是“刹那”而已,“瞬间”而已。只不过是从过去走向未来的漫长过程当中的“一瞬”而已。如何把这“一瞬”活得没有遗憾不是件容易的事情。而在这“一瞬”能够从事跟周围人共享喜悦和幸福的工作就更难了。这就要求遵照“十方皆好”原则行动。
“为现在活着”、“为此刻活着”。只有倾注全力才会“十方皆好”。刚才也举了“价格”的例子,最近观察超市的生鲜食品柜台,一般到下午8点以后,几乎所有的商品都贴上减价50%的标签。5分钟之前买东西的顾客仅仅相隔5分钟,自己所买的东西就会变成半价。我小时候,在杂货店、卖鱼店的也见到过类似的情形。店主人往往看时间,看顾客脸色,会突然大幅降价。那时候在我眼里拥有价格决定权的杂货店和鲜鱼店老板是值得尊敬的人,觉得他们都是很伟大的人。仔细想想生鲜食品最重要的是要彻底卖掉。所以,即便是一物二价,顾客也毫无怨言地买去。在这里可以看到“现在”和“价格”的关系。
“为现在而活着”的我们,错过一瞬间的机会都产生重大影响。不知道下一次机会何时会来。所以,保持精神高度紧张,做好牢牢抓住机会的准备才是重要的。这才是“为现在活着”,“十方皆好”精神的真髓也在于此。

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還暦の祝い

平成19年7月6日
還暦の祝い

 60歳になると還暦の祝いと言って、地方によって違いはあるが、古来より「祝い」の習慣がある。私の場合は創業間もない頃であったし、まだまだこれからという気持が強く、「祝い」はすべて断った。私の父は還暦の時、多賀大社の豆まきに参加した。それが戦後勤務した会社の退職と重なった。赤鳥帽子をかぶり、一升マスを手に持ち、元気に笑顔一杯に豆をまく父の姿が目に浮かぶ。特に鳥帽子の赤い色が印象的であった。

 30年程前にアメリカやヨーロッパを旅して驚いたことが二つある。当時の日本では肥った人はいなかったが、アメリカやヨーロッパでは肥満があふれていた。もう一つは老人達の派手さである。女性の化粧を含めて、服装は「赤」が多かった。最近は日本でも肥満が増え、老人の服装も派手になってきた。「赤」を使いだしたのである。

 ピカソの青年時代の「青」から、中年時代の「赤」へ、そして晩年の「線描」へと変っていったのを思い起こしている。「赤」は人を元気にする色だ。還暦の祝いを断った私は、満70歳にして社業を息子に譲った。「古稀」にして友人、知人、お取引先から祝いの言葉を賜った。そして、自分自身に元気を甦せる為に、生活の中に「赤」を使うことにした。先人の知恵に学ぼうということだ。

 「赤」は日本人の心の中に生きている基本色である。日の丸の旗は「白地に赤く日の丸が染めてある」。神社の赤い鳥居、紅白の幕。赤は吉事、祝いによく用いられる。

 白地に赤の社名やロゴの企業は、日本では勝ち組となるといわれてきた。トヨタ自動車、出光興産、コカコーラ等が上げられる。潜在意識の中で私達は「赤」に好感を覚えているからであろう。中国でも、古来より「赤」は「祝い」の色であり、「歓喜」の色である。

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花甲之喜


19年7月6日
花甲之喜

60岁被称为“花甲之喜”,虽然各地有所不同,但自古以来就有“庆祝”的习惯。我60岁时,正上创业不久,当时的心情是一切从现在开始,所以拒绝所有庆祝。我的父亲在花甲之年参加了多贺大社的撒豆子法事,也刚好和他从战后工作的公司退休这一大事重合。直到今天我眼前还经常浮现出父亲头带红帽,手持一升斗,笑容满面地撒着豆子的身影。特别是那顶帽子的红色给我留下了鲜明的印象。
30多年前我去欧美旅行,有两个现象令我感到特别惊讶。一个是当时日本没有胖子,但是欧美却到处充满胖子。另一个是老人们的花哨。包括女性的化妆在内,服装也以“红色”居多。最近日本的胖子也多起来,老人们的服装也变得花哨起来了。开始穿“红色”了。
我想起了毕加索,他从青年时代的“蓝色”,转变到中年的“红色”,再变成晚年的“线描”。
“红色”是令人振奋的颜色。拒绝花甲庆祝的我,满70岁时,把公司业务交给了儿子,并得到了友人、知交、客户们的祝福。同时,为了振奋自己,我决定在日常生活中使用“红色”。
这样做也是为了学习先人的智慧。“红色”是日本人心中的基本色。太阳旗就是“白底,中间的太阳染成红色”。还有神社的红色鸟居,红白幛幔。“红色 ”经常用于吉祥的事情、庆贺。
据说在日本白底红色社名或标志的企业,会成为胜利者。比如丰田、出光兴产、可口可乐等。大概是因为我们在潜意识里对红色抱有好感吧。“红色”在中国自古以来也是表示“庆祝”的颜色,表达“欢喜”的颜色。

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真夜中の椿事

平成19年7月5日
真夜中の椿事

 耳元で大きな音がして飛びおきた。闇の中で目をこらしてみたが、何も変ったことはない。猫が踏みつぶされたような音であった。隣りのベッドの妻も起きている。灯りを付けてみた。午前2時。物が落ちて、破れた音のようだと妻はいう。家の中をあちこち点検したが、異状はない。

 ふと寝室の壁を見ると、陶版の額(赤い)だけが残って、陶版がない。足元を見ると、五、六ヶに破れて転がっている。陶版の重みに耐えかねて、額から剥がれ落ちたようだ。

 作家は五島哲。古くからの友人の陶芸家である。慎み深く、この道一筋の芸術家。この陶版は私が特に気に入って寝室の東面の壁にかけていたものだ。相並んだもう一枚の額は人間国宝芹沢げ雕遏崚譟廚粒文字。好一対であった。地震でもないのに・・・と思いつつ陶片を拾い集めて、リビングのテーブルの上で並べてみる。何とか復元できないものか。

 午前3時。身内に何か変事が起きていないか、心配になる。朝が明けたら電話をしてみようと思いつつ再び床につく。遠く離れた妻の母のこと、弟、妹のこと、子供達の家族のこと、それぞれの顔が浮かぶ。何事もなく無事でいてくれと祈りつつ寝てしまった。

 人は身近の者達のことを心配しながら、生きているとつくづく思う。逆説めくが「親に長生きしてもらいたければ、親に心配をかけよ」という。「心配で死ねない」ということか。

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夜半奇事


19年7月5日
夜半奇事

耳旁传来一声巨响,我立即从床上跳了起来。邂澱羔徒椹曜勝ぶ无任何异常。但是刚才那声音听起来简直就像一只猫被踩死时发出的。隔壁床上的妻子也醒了。于是开灯,时间是凌晨2点。妻子说好像是什么东西掉下来摔碎的声音。检查了家中所有的地方,也没有发现异状。
蓦地抬起头来,只见寝室墙上只留下陶版画的红色边框,画却不见了。再看脚下,画碎成了5,6片散了一地。可能是版画太重了,最终从边框脱落掉了下来。
这幅画的作者陶艺家五岛哲,是我的老朋友。作风严谨,一直在陶艺领域辛勤耕耘。我特别喜欢这幅陶版,特意挂在了寝室东面的墙壁上。并排还挂了人间国宝芹泽げ霆衾的“东”文字画作品。这两幅画本来是很相称的一对。“又没地震,怎么会……”一边这么想一边把碎片收拾起来,摆到起居室的桌子上,想看看有没有办法复原。
凌晨3点。突然想到会不会是亲朋好友出了什么事情呢?不由担心起来。天一亮就给她们打电话,一边这样胡思乱想,一边又重新躺下。眼前一一浮现出远在外地的岳母、弟弟、妹妹、孩子们和家人的脸庞。心底一遍遍祈祷他们都平安无事,再次入睡。
又一次切身感受到人总是因为不放心身边人而活着。从相反的角度也许可以说“想让父母长寿,就让他们不放心吧”。这就是所谓“不放心才死不了”吗?

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黄金の島ジパング

平成19年7月4日
黄金の島ジパング

 世界有数の火山帯をなす日本は、過去も現在もそして未来もおそらく金の埋蔵量は世界一の可能性が高い。昔から山師といわれる人達がいた。今は宇宙から地表や海底の金鉱脈を捜すのが早い。又、海底へ潜水する探索船(シンカイ号)の活用も面白い。

 私の予測では日本列島の東側の海底に豊かな金鉱脈が今もなお手つかずに眠っているように思える。これは、デジタル地球儀を使って、毎月いろんな学者から、地球環境保全の講義を聞いていて気付いたことだ。勿論、佐渡金山、菱刈鉱山等への入鉱による体験を経て得た素人考えではある。
資源のない国――日本といわれて久しいが、世界一の黄金の埋蔵量を持っている日本と考えるだけで楽しくなる。そして黄金以上に貴重な資源「水」と「緑」の保有も、世界トップレベルであることを忘れてはならない。

 祖父母や両親は、それ以上の日本人の宝は「勤勉」だと教えてくれた。国の宝は日本人の特質「勤勉」にあると。今、私はこれを誰に伝えることが出来るのか。暗くなりがちな気持ちを引き立てていわねばならぬ。黄金の国ジパングの本当の宝は「私達の勤勉性」なのだ・・・と。

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黄金岛日本(Cipangu)


19年7月4日
黄金岛日本(Cipangu)

世界有数的火山地带日本,大概无论过去、现在和未来,黄金储藏量都是世界第一的可能性极高。很早以前有被称为“山师”(矿山开发鉴定师)的人们存在,现在从宇宙勘探地表或海底的金矿脉要快得多。另外利用可以潜入海底的勘探船(如深海号)进行勘测也很有意思。
我个人预测日本列岛东侧海底丰富的金矿脉,直到今天我们都不曾动过,还在沉睡。这是每个月,听了很多学者使用数码地球仪做的关于保全地球环境的讲义之后想到的。当然也是自己经历了进佐渡金山、菱刈矿山等经验之后得出的外行想法。
长期以来我们一直被称为资源匮乏的国家。其实只要想想我们拥有世界第一的黄金储藏量就会感到欣慰。同时,我们不应该忘记我们的“水资源”和“绿色”拥有量也是世界顶级水平。
祖父母和父母,都告诉我比起这些资源我们日本人更重要的财富是“勤勉”。国家的财富也在于我们日本人的特质“勤勉”。现在,我能把这些思想传达给谁呢?为了振奋我们动辄消极黯淡的心情,也有必要对大家说:黄金之国日本真正的财富是“我们的勤劳”。

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黄金の島ジパング

平成19年7月3日
黄金の島ジパング

 住友金属鉱山の菱刈鉱山で、世界一の金の含有率の金鉱脈が発見されて、早や20年余りが経過した。カリフォルニアの金鉱脈の発見で、幌馬車隊が西へ西へと進んだ西部劇の映画が懐かしい。たまたま鉱山のご好意でその鹿児島の菱刈鉱山を見学する機会をいただいた。

 鉱道の入口までに衣服を脱いで、長靴と雨合羽に着替える。車で中へ入る。鉱内の道は思ったより広いが、下方に傾斜している。すぐに採掘場に到着。熱い。湿度も高い。世界一の金の含有量だというので、金色に光る石があると思っていたが、全くの当て外れ。鉱石の色は白、その層も非常に薄い。

 この小さな地中への旅で、私はいくつかの誤解が解けた。金鉱脈は地中深くにはないということ。地下のマグマが地上に噴出する時に、金を含む物質が冷えて、シマ模様のように硬くなって残るという。マグマの質は大同小異と思われるので、火山列島といわれる日本列島には、過去も金の産出が多かったと思われる。

 マルコポールの『東方見聞録』に黄金の国ジパングが語られている。史上に残る黄金伝説は意外に新しい。聖武天皇の代に、東大寺の大仏開眼会が開かれた。752年4月という。その前の749年2月に陸奥国で黄金発見。これは「吉野金峰山の金は弥勒菩薩の預けたもの、近江石山寺に如意輪観音を造って祈れ」と夢告があった。東大寺の良弁僧正。『万葉集』に大伴家持の祝歌がある。「天皇の御代栄えんと東なるみちのく山に金花咲く」。この陸奥国で産出した金を九州の宇佐八幡宮に「神宝」「御正体」として奉納した。黄金伝説の始まりである。それまでは韓を「宝国」「金銀の国」と呼んでいた。

 日本の地名に「金」がつくところが多い。かつて金(砂金が多い)が取れた名残りであろう。佐渡金山や金沢そして陸奥金山、金華山なども地下のマグマが噴き出した跡である。

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黄金岛日本(Cipangu)


19年7月3日
黄金岛日本(Cipangu)

住友金属矿山菱刈矿山发现含金量世界第一的金矿脉,转眼过了20多年。令人不由怀念起加利佛尼亚发现金矿之后,大篷马车队不断向西前进的西部片。因为矿山的一番好意我很偶然得到一个去菱刈矿山参观的机会。
进入矿道之前要将衣服脱去,换上长靴和雨衣,然后乘车进入矿道。矿山内的路比想象的要宽阔,但是朝着下方倾斜。很快就到达了采掘现场。第一感觉是热,湿度也很高。因为听说是世界第一含金量,所以我一直猜想应该看到闪着金光的矿石。结果猜想全然不对,矿石的颜色是白色的,矿层也非常薄。
通过这趟小小的地下之旅,我的几个误解得到了纠正。首先是金矿脉并不在地下深处。地下的岩浆向上喷涌时,含有金子的物质逐渐冷却,最后呈条纹状硬化而保留下来。岩浆的质地大同小异,因此有火山岛之称的日本列岛,过去也应该盛产黄金。
马可波罗的《东方见闻录》有对黄金之国日本的记载。历史上流传的黄金传说更是出人意外地新奇。圣武天皇时代举行了东大寺的大佛开眼法会,据说是752年4月。在此之前的749年2月陆奥国发现了黄金,传说有神人托梦给东大寺的良弁僧正说“吉野金峰山的黄金乃弥勒菩萨所托之物,切记须造如意轮观音于近江石山寺,虔诚祈愿”。《万叶集》中大伴家持曾作贺诗“吾皇承天运,四海尽荣发,东国陆奥地,山开黄金花”。之后陆奥国所产的黄金作为“神宝”、“神体”奉纳于九州的宇佐八幡宫,这就是黄金传说的开始。陆奥发现黄金为止,韩国一直被称为“宝国”、“金银国”。
日本带金字的地名很多,大概那里曾经出产黄金,因而留下了名字。佐渡金山、金泽、以及陆奥金山、金华山等地都有地下岩浆喷发的遗迹。

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団塊世代はどこへ行く

平成19年7月2日
団塊世代はどこへ行く

 昭和22年〜24年(1947〜1949)に生まれた戦後ベビーブームの落し子達を、堺屋太一氏は「団塊世代」と呼んだ。今、彼等は定年退職を迎えた。約800万人、日本の人口の約6%に当たる。昨年末、鶴蒔靖夫氏執筆による団塊世代への応援歌『夢への始動』が出版された。鶴蒔氏も私も考えた。「団塊世代は必ず再就職する。そこで希望の職がない人が多く出る。起業する人に、勇気を持ってもらう本を作ろう」と。

 今のところ、私達の狙いはまだ当たっていない。野村総研の調査によると、
やってみたい事は(複数回答)
     70%近くの人が    旅行
     40%近くの人が    ハイキング、まち歩き
     30%近くの人が    ボランティア活動
     20%近くの人が    スポーツ・体づくり
     25%近くの人が    映画鑑賞
     ・・・         ・・・
     10%近くの人が    起業・NPOの立ち上げ

 起業したい人が30%近くいるだろうと考えていたところ、大きく外れそうだ。定年を迎える約半数以上の人は、定年後も同じ職場で働くことを望んでいるという。また、雇用を続けたいと思っている起業も半数以上あるという。特に大企業が多い。給料を大幅に下げて、雇用を続けるのであろう。

 私は大学を出て、就職した企業で37年間働いた後、独立して起業した。まわりの人々、家族や友人の声援を受けて茨の道を歩いたが、起業して12年目を迎えた。今はすべてに感謝している。そして、やりたいことはまだ山ほど残っている。

 団塊世代の諸君はどこへ行こうとしているのか。残された貴重な人生を何に使おうとするのか。世界中を旅行して本当に楽しいのか。日本の隅々を見て本当に満足して死ねるのか。私はそうは思わない。人は、他人の為に役に立つことで喜びや幸せを味わえる。幸福は他人を幸せにする、まわりを幸せにすることで得られるのだ。その為に「何かを実行する」ことだ。「頼りにされる」と本当に嬉しくなる。「頼りにされる」ような仕事を見付けたい。そんな人の為に『夢への始動』の発刊に同意した。真の団塊世代への応援歌である。死ぬまで生涯現役、それが私の究極の夢なのである。夢を共有しませんか。

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团块一代将走向何方


19年7月2日
团块一代将走向何方

堺屋太一氏把昭和22年〜24年(1947〜1949)即战后婴儿潮期间出生的人们称为“团块一代”。现在这些人到了离岗退休的时候,他们的总数约为800万,大概相当于日本人口的6%。去年岁末,鹤蒔靖夫先生执笔的一本旨在激励团块一代的书《向着梦想启航》出版发行。当时鹤蒔先生和我都认为,团块一代一定会再就业,并且可能会出现大批找不到理想工作的人。为了支持他们当中的创业者我们决定写一本“给他们带来勇气的书”,这就是《向着梦想启航》。
但是,就目前来看,我们的预计似乎有些偏颇。野村总研对团块一代退休之后想做的事情进行了调查(可以多项回答),其结果如下:
近70% 旅行
近40% 远足、去很多城市
近30% 义工
近20% 体育、健身
近25% 电影欣赏
…… ……
近10% 创业、成立NPO(非营利社团)
我们预测大概会有30%的人想创业,看来这一预测落空的可能性很大。据说大约有一半以上的离退休者希望退休之后还能继续在原来的公司工作。另外,打算继续雇佣退休人员的企业也有半数以上,特别是大企业比较多。大概会大幅度降低工资,再继续雇佣吧。
我大学毕业之后在所就职的企业工作了37年,退休之后自己独立创业。在周围人、家人和朋友们的支持下走了一条充满荆棘的道路,现在迎来了创业第12年,我对一切充满了感激。而且发现自己还有太多想做的事情。
团块一代诸位将走向何方?将把自己所剩不多的珍贵人生投向何方?全球旅行真的就快乐吗?看遍日本的角角落落就会满意地离去吗?我不这样认为。人只有在做有益于他人的事情时才会体会到喜悦和幸福。幸福来自让他人幸福,让周围人幸福。为此,要“切实做点什么”。“被他人依赖”会非常开心,所以要找到可以被依赖的工作。为此我才同意出版发行《向着梦想启航》,这是一本真正的为团块一代准备的励志书。活到老工作到老是我的终极梦想,衷心希望和大家共同拥有这个梦想。

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城市设计


19年6月28日
城市设计

我在密西根大学留学时,认识的一位鹿岛建设派来学习的朋友,告诉我说自己的专业是城市工学。用英语来讲应该是Cityscape或者Groundscape吧。最近“Compact City”即袖珍城市成了人们关注的话题,如果只是简单地把这个问题看作是市中心和郊外的对立对解决问题毫无用处。近50近来,以美国为中心,汽车社会的快速成熟化所引起的城市中心多重化现象十分显著。其实城市在诞生的时候都是袖珍型的,在发展阶段才逐渐转变成郊外型。为了使城市恢复本来的面貌,有必要从城市设计,从城市工学角度出发考虑城市的再规划。
根据明治22年的城市制度,全国同时诞生的城市只有40个,而且大部分为城下城。这些城市都以各大名的城堡为中心,经过大名们常年累月的建设,布局非常整齐。当时的城市里没有汽车,水路交通是最重要的。虽然有马和轿子,但是一般情况下是步行。也就是说,当时的城市都没有考虑汽车的存在,是面向水路而建的城市。
进行城市设计首先应该考虑交通系统。就福井来看应该从考虑JR北陆线(新干线站将进入现在的车站),明铁系的福武,作为第三选择的越前铁道,北陆自动车道福井入口、福井北入口,以及建设中的东海北陆自动车道福井北入口开始。固有的水路在当前一段时间还不必要发挥作用。以上这些点连接起来,把其范围之内的地区看作袖珍城市的中心,大致的城市设计也就完成了。
接下来可以考虑在这个大空间里包括福井站和福井城遗址的“站前”和“开发地区”以及“西南部的BELL周围”。现在,为了搞活中心市区,福井市投入最大力量的是县都的门面“站前”,这一地区的设计规划非常重要。希望能够大力修整福井城遗迹和足羽山、足羽河,整理规划从柴田神社(我一般用俗称阿市神社,这个叫法更容易理解)到福井城遗址、福井公园、佐佳枝神社、福井神社、历史博物馆、养浩馆(御泉水)的历史之路,使这一地区成为适合步行的街区。同时,希望确立这一地区的城市设计,把这一地区设计成为即便经过100年、200年也不会失去任何价值的美观、舒适、同时可以品味福井吃的魅力的美味市区。另外,商业设施也很重要。一方面要支援奋斗在这一地区的西武百货店,另一方面有必要建设新的商业设施。青森县立志要在5年间使观光人数甓5倍,福井也应该充分虑到旅游业,为此完善现有的酒店、旅馆设施非常重要,在期待华盛顿酒店等现有大酒店发挥作用的同时还应该欢迎建设新的旅馆设施。制止中心市区居住人口的减少,为了使市区居住人口甓叩ね必要积极努力做工作,致力于在站前建设充满魅力的住宅区和充满魅力的店铺。理所当然应该考虑为居住者完善各类生活和医疗设施。近三年来我把生活的中心从郊外转移到了市中心,感到最不方便的就是购物。在郊外一步到位式购物早已是常识,但是站前却办不到。为了改变这一点我加入好几个商业街协会,到处提意见,还有就是尽量在站前购物。
这样一来,我确确实实看清楚了一个事实。那就是“城市设计”的必要性。

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上を向いて歩こう

平成19年6月27日
上を向いて歩こう

 「上を向いて歩こう」という歌が流行った。私の学生時代だ。アメリカで「スキヤキソング」として題名をかえて歌われた。歌手は坂本九。九チャンの呼び名で一世を風靡した。彼は人気の絶頂期に、飛行機事故で死んだ。

 人は意気消沈すると、つい下を向いてしまう。病気になった先輩は「視線も、姿勢も、心もすべて下を向く。ダラリと下ってしまうのだ」と言ったことがある。私は困難に遭遇した時、くじけそうな気持を引き立てるように九チャンの「上を向いて歩こう」を歌った。

 「頭を上げよ。まなじりを決せよ、そして力強く足を踏み出せ」と自からに言い聞かせ乍ら、この歌を歌う。

 日本人は型から入るのを常とする。覚悟を決める時は、まず姿勢を正す。座禅もその一つのあらわれである。剣道も柔道も空手道も、型を重視する。形が整えば、心も正しくなるという意味である。
「上を向いて歩こう」の歌を心の中で歌っていると、ついつい下を向いていた自分の姿勢や自分の心が、ひとりでに上を向いてくるのを感ずる。天からの勇気を与えられ、また挑戦の心が静かに、力強く沸き上ってくる。

 福井県民は神仏を信仰しない人、宗教を信じない人の割合が日本で最も少ないという。古今東西宗教を信じない人など殆んど世界に存在しなかった。それ程人間は生きる上で神仏の加護に頼って生きてきたのだ。今、日本で一番信仰心の厚い県、福井県でも神仏を信じない人が37%もいる。世も末である。宇宙の神秘、マクロの世界もミクロの世界もすべて人知を遥かに越えている。見えざる手を信じた数多くの最先端科学者の姿を、私達はもう一度考えてみる必要がある。そこに見えるのは畏敬の念である。坂本九の笑顔がまぶしい。

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昂首挺胸向前走


19年6月27日
昂首挺胸向前走

我上学时候《昂首挺胸向前走》这首歌很流行。在美国歌名被改为《SUKIYAKI SONG》翻唱。唱这首歌的歌手是坂本九,他被人们亲昵地称为“九儿”,风靡当世,在人气最旺的时候因飞机事故去世。
人们意志消沉时不由自主地目光向下,抬不起头来。一位生病的前辈曾经对我说简直是“视线、姿势、心灵所有的一切都开始向下。耷拉着提不起来”。我遇到困难时,快要站不起来时,为了调整情绪就会唱“九儿”的《昂首挺胸向前走》。
“昂起头来,睁开双目,坚强有力向前迈步”,我总是一边这样对自己说,一边唱这首歌。
日本人一般喜欢从外形入手,所以下决心时首先端正姿势,坐禅也是表现之一。剑道、柔道和空手道,都很重视这个外在的形,所谓形正则心正。
每当心里唱起《昂首挺胸向前走》这首歌,就会感觉到自己低沉的姿势和心态自然而然地开始蓬勃向上。上天也会赐予我勇气,重新挑战的意志也会静静地、强有力地涌上心头。
听说福井县民不相信神佛、不相信宗教的人口比率全国最少。古往今来,不论洋之东西,几乎不存在不信仰宗教的人。这一点充分说明人类要生存对神佛的护持是多么地依赖。但是,如今,就是在日本信仰最虔诚的县——福井县,也有37%的人不信仰神佛。看来世界也离末日不远了。不论是宇宙的神秘,还是宏观或微观世界都远远超出我们人类认知的范围。我们有必要再一次想起那些无数相信“有看不见的手存在”的最先进的科学家们,再次关注从他们身上体现出来的敬畏之心。坂本九的笑容如此灿烂目。

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入梅

平成19年6月25日
入梅

 例年より少し遅く、全国で最も遅く、北陸から東北地方が梅雨入りした。入梅宣言である。しかし、僅か数日の雨の後、今日はまた太陽が戻ってきた。山の峰にかかる霧の上に太陽が顔を出した。光の筋が四方へ走っている。見上げると空は青い。今日は暑くなりそうだ。

 昨日会社の幹部達に同道して神戸へ行ってきた。運動公園駅にある提携先の一部上場企業の社長への、表敬訪問である。当社の神戸支店長には時間の関係で会えなかったが、創業以来神戸には古いお客様が多い。板宿駅を電車が通過した時、この駅を何十回も訪れて、神戸の最初のコインパーキングを作ったことを思い出した。もう十年程以前のことになる。

 当社の管理するコインパーキングは、この6月末で2,000ヶ所を超える。九州から北海道までお客様がおられる。7月には沖縄での新規オープンがある。全国の支店長をはじめ、社員達そして営業を統括する営業本部、バックアップする社員達の総力を結集してはじめて「喜びの種、幸せの種」を蒔き続けることが出来る。

 神戸は長崎や横浜、敦賀や函館と共に古くから港町として栄えていた。その為、洋風文化が早くより浸透し、洋菓子が有名である。雨の降る中、妻へのささやかなみやげを物色した。数ある中から「異人館生チョコケーキ」、「神戸スイート」、「神戸プリン」を選んだ。

 日帰り出張は平気でも、駅へ送迎してくれる妻には口に出さぬが、感謝している。福井着は夜の9時近くになった。

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进入梅雨季节


19年6月25日
进入梅雨季节

今年北陆到北海道地区略迟于往年,在全国也是最后,宣布进入了梅雨季节。但是,还没下几天雨,今天太阳又回来了。罩着雾霭的山峰上太阳露出笑脸,光芒四射。抬头看天空,颜色是蓝的,看来今天又要很热了。
昨天和公司的干部们一起去了神户,拜访位于运动公园车站的合作伙伴,现为一部上市企业的老板。虽然因为时间关系这次没有见到本公司的神户支店长,但从创业开始我们在神户就有很多老客户。电车通过板宿站时,我想起了曾经好几十次拜访这个车站,在神户建设第一个投币式停车场的往事。转眼已经是10几年前的事情了。
公司管理的投币式停车场到今年6月末为止将超过2000个。我们的客户遍布九州到北海道,7月份新的停车场将在冲绳开张营业。只有集结全国各支店长,全体员工,统括公司营业的营业本部,以及所有后勤员工的力量,我们才能够继续播种“喜悦的种子,幸福的种子”。
神户曾经和长崎、横滨、敦贺、函馆等城市一样,自古以来就作为海港城市而繁荣。因此,西洋文化很早就开始渗透,洋果子比较有名。细雨中,我在物色送给妻子的小礼品,最后从众多的商品当中我选中了“异人馆生巧克力蛋糕”、“神户甜点”、“神户布丁”。
当天来回的出差早已经习以为常,只是对每次到车站接送的妻子,虽然说不出口,但心底是感谢的。今天抵达福井时已经将近晚上9点。

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幸、不幸はあざなえる縄の如し

平成19年6月22日
幸、不幸はあざなえる縄の如し

 縄を作ったことがある。家の土間の三和土(タタキという)の片隅に御影石が埋め込んであった。その石の上で玄能という木づちを使い、ワラの束を丁寧に何度も打ち、ワラを軟かくする。そして二筋のワラの束を、手につばして、より合せていくのだ。

 子供の頃であったので、私の作る縄は太かったり細かったりする。一緒にいる祖父の縄は太くて均一で見事な出来であった。

 縄を作り乍ら祖父は「幸と不幸は順番に出てくる。丁度この縄のようだ。縄目を見るとよくわかるだろう」と教えてくれた。

 私達はよい事が起きると元気になり、強気になり、永久に勝ち続けることが出来るように高揚する。反対によくない事が起きると意気消沈し、弱気になり、もうダメだと引っ込み思案になってしまう。

 しかし、物事には必ず反動が来る。時計の振り子はチクタクチクタクと反復運動を繰り返している。幸せの絶頂でも油断せず万全の配慮をすることだ。また不幸のドン底にいる時は、絶望の淵から近いうちに必ず脱出できることを信じて努力することだ。

 物事には表裏がある。もっと正確に言えば、多面性を持っている。一概に幸とか不幸とか決めつけることが出来ないのだ。だから幸福な時、よく気を引締め、八方に気を配ることこそ肝要である。

 会社の業績が予想以上によいこともあり、満70歳を過ぎた日に社長を長男に譲った。代表権を持たない非常勤の会長になった。人は「おめでとう」と言ってくれる。長男に私が言えることは「油断するな」の一言である。

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ハンディキャップからチャレンジドへ

平成19年6月21日
ハンディキャップからチャレンジドへ

 身体障害者の方からよく強く要求されることがある。「ハンディキャップ」と言うなということである。当社の社外取締役である神戸大学名誉教授の蜂屋良彦博士が、大江健三郎氏の話を引合いに出されたことがある。大江氏が子息のことを常に慈しんでいるにかかわらずそれ程ご子息は嬉しそうにしないという。ところが、大江氏が病気で苦しんでいた時、ご子息が心から優しくいたわってくれたという。そしてとても生き生きと看病してくれたという。

 ハンディキャップを持つ人も、一般の私達も同じなのである。優しくされるのは悪い気はしないが、もっと嬉しいのは何事かを他の人にしてやれる時である。それこそ生き甲斐といえる。

 ハンディキャップを持つ人という表現はもう古い。今はチャレンジドという。身体的な、精神的な弱点を、いかに克服し、それを逆に強味として生きていくかどうかが重要になる。

 介護のケースでも同じである。ただ単に一方的に介護を受けるという立場を続けると身体的にも、精神的にも病状がすすむそうだ。ところがお互いに介護を受けている人同士が、助けあう状態にすると、病状は改善するということだ。これも前記の大江氏の親子の場合とよく似た現象である。蜂屋博士の論文の一部を私達の「エコロパークニュース」に数回に亘って紹介したのは、私が博士の説に全く同感だからだ。人は助けられることは感謝するが、それ以上に感謝されること、人を助けることをしたいと考えている。「してあげる」という言葉自体が不遜である。「させていただく」という気持で奉仕するクセをつけていきたい。

 「チャレンジド」達のために「障害者手帖」というものを廃止し、「キャラカード」とか「グリーンカード」というスマートな名前のカードに切り替えることを提案したい。人を傷付けるのでなく、お互いに尊敬しあう関係になりたい。

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Handicap 到Challenged


19年6月21日
Handicap 到Challenged

经常有残疾人强烈要求,不要把我们称为“Handicap”(不利条件者,弱势人群,残障者)。我们公司的社外董事,神户大学名誉教授蜂屋良彦博士,曾经引证过大江健三郎的例子。大江健三郎对身有残疾的儿子慈爱有加,但儿子表现地并没有多开心。相反,大江自己生病痛苦时,儿子对自己细心照料看护,那个时刻的儿子是那么充满生机。
有残疾的人也跟我们一般人没有什么区别,受到优待虽然不会不高兴。但是更开心的是能够为别人做些什么事情的时刻。这才是人生价值。
“残障者(Handicap)”这一说法已经过时了。现在叫做“被挑战者(Challenged)”。从这个词来看如何克服肉体上、精神上的弱点,相反把这些弱点转变成优点,才是重要的。
看护的情形也一样。单纯只一味单方面接受看护,长期下去,身体和精神状态就会呈现出病态。但是相互照顾的人,处于互助的状态,病情反倒会改善。这跟前文所说的大江父子的情况很相似。我们在公司广报《Ecoro park news》上分期连载蜂屋博士论文的一部分,也是因为我完全赞同博士的看法。人得到帮助会感谢,但是更愿意被别人感谢,更想帮助别人。“我来帮你”这句话本身就很不逊。我们有必要养成习惯,怀着“谢谢您给我机会让我为您做点什么”的心情来无私奉献。
我想提议,为了这些“被上帝挑战(Challenged)”的人们,废除“残疾人手册”,代之以“个性卡”、或“绿色卡”等更加洒脱的名字。人不能伤害,而是应该保持互相尊敬的关系。

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健康長寿と信仰

平成19年6月19日
健康長寿と信仰

 百寿者(100歳以上の人、centenarian)を対象とした調査によると、日本でもアメリカでも際立って特徴的なことは「信仰心」を健康長寿の秘訣に上げる人が多いことである。

 88歳まで元気で生きた私の祖父は、実際の年齢は94歳だと主張していたが、毎朝神棚と仏壇で神仏を拝し、家の前の小川のほとりにある井戸の前で朝日に向って拍手を打つのを常とした。

 86歳まで現役で和裁塾を開いていた母は、神仏への勤行を朝晩欠かさず、その時間が年々長くなっていった。

 二人共当時としては長命であった。特に母は心臓弁膜症という持病を抱え乍らの生活で、傘寿を過ぎた時は家族一同心からその長寿を祝ったものだ。

 日本の長寿県は、かつては沖縄、現在は長野・福井になっている。それぞれ県民性は大きく異るものの、信仰心の厚さでは、共通している。沖縄の自然崇拝、長野の諏訪大社や山嶽崇拝、福井の気比神宮や真宗王国、曹洞禅など特徴のある信仰のよりどころを持っている。ちなみに福井県の神社と寺院の数の合計は、人口当りにすると日本一になる。宗教を信じていない人は福井県は最も少なく37%(NHK調査)である。

 信仰心を持っている人は、心の平安を得やすい。クヨクヨイライラしない。神仏の命ずるままに自由に、明朗に、感謝の生活を送れるということだろう。健康長寿の研究はアンチエイジング学ということで世界でも緒についたばかりである。日本でのアンチエイジング学会の呼びかけに、同志社大学が手を上げた。アンチエイジングセンターが京都御所の近くでオープンした。そして、生命医科学部がいよいよ来年からスタートする。キリスト教主義による人間教育に取り組んできた同志社らしい快挙である。大いに期待したい。

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健康长寿和信仰


19年6月19日
健康长寿和信仰

根据对百岁或百岁以上的老人(centenarian)为对象所作的一项调查,发现无论是日本还是美国有一点特别突出,那就是很多人把“信仰”列为健康长寿的秘诀。
我的祖父健健康康活到88岁,一直说自己实际年龄应该是94岁。他每天早晨都会在家里的神龛和佛坛前拜祭神佛,还经常在家门前小河边的水井前朝着太阳行拍手礼。
我的母亲86岁还开裁缝班,每天早晚都坚持拜佛修行,时间也一年比一年长。
他们两人在当时都算是长寿。特别是母亲一直有心脏瓣膜症的老毛病,她迎来88岁大寿时我们全家人都从心底向她祝福。
日本的长寿县以前是冲绳、现在是长野和福井。虽然这些县各自的县民在性格方面存在很大差别,但是在笃厚的信仰心这方面却是相通的。冲绳的自然崇拜、长野的陬访大社还有山岳崇拜、福井的气比神宫和真宗王国以及曹洞禅宗等等,这些县都拥有自己独特的信仰圣地。这里顺便提一下,福井县的神社和寺庙数按人均来算是日本第一。福井不信宗教的人最少,只占37%(NHK调查)。
有信仰的人,容易得到心灵的平衡。不会闷闷不乐,不会烦躁不安。听凭神佛的安排,自由地,明朗地,怀着感恩的心情生活。
健康长寿研究即“抗老化学”在全世界也刚刚发端。同志社大学率先举手响应日本抗老化学会发出的号召,在京都皇宫附近开设了抗老化学会中心。另外,明年还将开始甓胆弧唇絏专业。不愧是一直以来把基督教义融入人类教育的同志社的快人之举。我对此充满期待。

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かげひなた

平成19年6月15日
かげひなた

 「三つ子の魂百まで」といわれる。ソニーの井深大氏よりこの言葉を聞いた。岐阜青年会議所のメンバーであった頃だ。親しくしていた先輩や、お取引先の先輩が次々と理事長を引受けられて、お手伝をさせていただいた。井深氏は「幼児教育」が最も重要といわれる。青年会議所のメンバーは殆んどの人が「幼児の父」である。私もその時二人の男児の父であった。井深氏のえらい所は、「幼児教育」の重要性を説く為に、全国の青年会議所に足を運んで、自説を展開されたことだ。

 今、教育の荒廃が問題になっているが、そこにあるのは無意味な、無価値な自己主張、自己弁護である。井深氏のような無私の奉仕、無欲な社会貢献が最近少ないのを私は悲しむ。

 「かげひなた」という言葉をよく聞いた。そして私はしばしばこの言葉を使う。そしてこの言葉に照して自らの行動を律している。

 「かげひなた」とは「日陰と日向」である。「日の当らないところと日の当るところ」である。「人が見ているところと人目のないところ」とも言えよう。「かげひなたなく働け」とか「かげひなたなく努力する人」とかに使われる言葉である。人の目を気にせず自分の道をコツコツ歩めという意味にも取れる。

 我田引水の気持があったり、自分のことをまず考える人にとって「かげひなた」は気になる言葉のはずだ。「かげ」で悪い事をし、「ひなた」で口をぬぐって知らぬ顔を決めこんでいる人が多い。「かげひなた」なく努力する人、「自分の為でなく」他人の為に働く人、まわりを幸せにする為に生活している人を、私は心から尊敬する。

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表里


9年6月15日
表里

俗话说“三岁看到老”。我是从索尼的井深大先生听到这句话的,当时我是岐阜青年会议所成员。跟我交情不错的前辈们还有客户们一个接一个担任我们的理事长,我则帮助他们做工作。井深大先生一直主张“幼儿教育”是最重要的。青年会议所的绝大多成员都是“孩子的爸爸”。我当时也是两个男孩的父亲。井深大先生伟大的地方在于为了宣传“幼儿教育”的重要性,亲自去全国各地的青年会议所,开展宣传自己的主张。
现在,教育的荒废成了问题,只剩下无意义、无价值的自我主张、自我辩护。最近像井深大先生一样只求无私奉献,没有任何欲求的社会贡献行为太少了,我为此感到深深的悲伤。
经常听到“表里”这个词。我也经常用这个词,并且对照它约束自己的行为。
这个词写作“日阴和日向”,意为“背光的地方和向阳的地方”,也可以说成是“大家可以看到的地方和看不见的地方”。这个词经常用于这样的表达“表里如一地工作”、“表里如一努力的人”。“表里如一”还可以理解为不顾及他人的眼光,坚持走自己的路。
自私的人还有首先考虑自己的人应该比较在意“表里”这个词。这种人“背地里做坏事,人前嘴一抹装作什么也不知道的很多。表里如一努力地人,不是为了自己而是为了他人而工作的人,为了给周围人带来幸福而活着的人,我从心里尊敬这样的人。


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大学も競合が厳しくなる

平成19年6月14日
大学も競合が厳しくなる

 少子化のため、受験生の数と定員枠の差がなくなり、全入の時代に入った。受験生はどこかの大学に必ず入学できるということだ。ところが、現実は厳しい。大学の選別が更にすすみ、有名校、名門校へ集中するようになっている。国立大学の独立法人化の動きが、この傾向に更に拍車をかけている。

 福井県の同志社大学と同志社女子大学のOB、OGが集う「同志社人の集い」が先日、市内のユアーズホテルで開催された。久方ぶりに同志社大学長八田英二氏にお会いし、講演を聞いた。1875年同志社英学校設立、以来132年になる同志社は、常に校祖新島襄と共にある。「一国の良心」といえる人を育てる為に200年の大計をたてよと言い残し、46歳で逝去した新島襄は学生達に「倜儻不羈」の人になれと言っている。「信念と独立心を持ち、容易に他人に左右されない」という意味である。

 今、私学連盟は慶応大が会長を、同志社大と早稲田大が副会長を勤めており、日本を代表する私学として、教育界のリーダーとして誇りを持って活躍している旨のお話を聞いた。

 同志社は私の在学中も、マンモス大学でなく(現在も在校生は2.5万人)、京都の御所に隣接し、赤レンガの校舎群、彰栄館、クラーク記念館、ハリス理化学館、チャペルや、アーモスト館などが並び、西洋の雰囲気を色濃く残すすばらしい大学であった。今訪れてもあまり変化はない。田辺校舎はその反対に広大な校地(アメリカの大学のように山や丘や森や林の中に点々と校舎が建っている)の中にある。

 来年から11学部になる。あとは校祖の夢であった医学部の新設が残っている。八田学長はその前に「大学付属病院」を作りたいという。大いに賛成だ。

 ただ気になる点がある。大学予算(2007年度)432億円に対して寄付金が3億円と極端に少ない。0.7%以下である。アメリカのスタンフォード大学を訪問した時、大学予算は学生よりの納付金より、企業よりの寄付金が多いくらいだと聞いた。税制の違いもあるが、もう少し考慮の余地がありそうだ。「付属病院設立募金」などはいいアイデアである。税制の後押しがあれば全額寄付金での調達も可能である。

 私は来年から同志社大学をはじめ数校で「冠講座」を開く。テーマは「健康長寿の研究」「環境保全の研究」の二つのテーマにしぼっている。ささやかなCSR活動の一端である。

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大学竞争激烈化


19年6月14日
大学竞争激烈化

因为少子化,考生和大学录取名额之间的人数差消失,日本社会进入了百分百上大学时代。也就是说考生一定可以进入某个大学。但是,实际上现实是严酷的。选择大学现象更加明显,大家的目标向名校集中。国立大学的法人化则更加速了这一现象。
前几天福井县出身的同志社大学和同志社女子大学的老毕业生们在市内的Yours Hotel内举行“同志社人聚会”。会上我见到了久违了的同志社大学校长八田英二先生,并听了他的演讲。同志社大学于1875年建校,至今已经有132年的历史,建校以来一遵循创建人新岛襄的办学理念。新岛襄创建人留下培养“一国的良心”的遗言,在46岁时去世。他一直要求学生要成为“倜傥不羁”的人。即成为“拥有信念和独立意识,不轻易为他人所左右的人”。
另外,八田校长还讲到了现在私立学校联盟会长由庆应大学,副会长则由同志社大学和早稻田大学担任的事实。并表示同志社大学应该作为私立院校的代表,教育界的领导,满怀豪情,发充分发挥自己的作用。
我在同志社大学就读期间,学校也不太大(现在在校生也只有2.5万人)。学校毗邻京都皇宫,红色砖瓦砌就的校舍群、彰荣馆、Clark博士纪念馆、哈里斯理化学馆、小教堂、安默斯特馆等栉次鳞比,保留着浓郁的西洋气氛,是一所非常秀美的大学。这一布局即使现在也没有太大变化。田野式大学则正好相反(比如美国的大学都散落在山岗或森林中),校园很大。
从明年开始同志社大学将达到11个系,另外还有校祖的梦想----医学专业还有待新建。八田校长说想在此之前建设“大学附属医院”。我非常赞同他的意见。
只是有一点比较担心。那就是432亿元的大学预算(2007年度)中捐款只有3亿元,少的可怜,比例在0.7%以下。去美国的斯坦福大学访问时听说大学预算大多来自学生,来自企业的捐款。虽然两国存在税制方面的差别,但好像应该有考虑的余地。“附属医院建设募捐”是个不错的主意,如果有税制的保障全部建设资金依靠捐款来调度也不是没有可能。
我从明年开始将在包括同志社大学在内的几个大学开设“捐助讲座”,打算锁定“健康长寿研究”和“环境保护研究”两个主题。这也是我进行的一项小小的CSR(企业社会责任)活动。

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働くことの意義

平成19年6月13日
働くことの意義

 私は同志社大学で経済学を学んだ。ゼミは小野高治教授について、「マックスウェーバー研究」をした。マックスウェーバーはドイツの社会学者であり、当時新興の商人達に信仰に基づく勤労の貴さを教えた。名著に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」がある。

 古来より「労働は苦痛である」という誤った考え方がある。マックスウェーバーはキリスト教精神に則って、「働くこと」の意義を求めた。利益の享受が神の意に反する行為でなく、勤勉や倹約による富の蓄積は賞賛されるべきものであると説いた。まして「勤労を苦役」などとは言っていない。十分神の意に沿った行為であると説いている。

 私は働くことの意義を「人生の目的」と考えている。私は働く為にこの世に生を受けたと考えている。仕事を苦痛に思ったことはない。反対にこんな楽しいことはないと考えている。「生涯現役」が私の理想である。

 私は働くことの意義をより明確にわかり易く測定する為の尺度を用意している。それは「付加価値」である。自分の仕事によって、どれ程社会に貢献できたのかを知る為の尺度である。商人にとっては、売上総利益が付加価値である。私の会社のスローガンは毎年「付加価値の向上はあなたの存在の証拠です。」を掲げている。今期は約250人の役員、社員、パートさんの一年間の付加価値が20億円ほどになる。1人当り800万円/年間である。この向上が私達の生き甲斐なのである。雇用を確保しながら、付加価値を向上し、節約をしながら勤勉に働き、利益を残して、税金を払う。これが企業人としての私の使命と深く心に刻んでいる。

 働くことの楽しさを、より多くの人に知っていただく為の努力をしていきたい。

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劳动的意义


19年6月13日
劳动的意义
我在同志社大学时的专业是经济学,研讨课跟随小野高治教授,学习研究“马克斯•韦伯”。马克斯•韦伯是国的社会学家,是他教给了当时的新兴商人们基于信仰的勤劳是如何可贵。他的名著有《新教伦理与资本主义精神》。
自古以来就存在“劳动是痛苦的”的错误思想。马克斯•韦伯则根据基督精神,着眼于探求“劳动”的意义。他认为享受利益并非违反神的意志的行为,相反通过勤俭节约积累财富是应该受到赞扬的行为。更没有视“勤劳为苦差事”,而是认为勤劳是充分尊重神的意志的行为。
我认为劳动的意义就是“人生的目的”。我是为了劳动而降生在这个世界上的。从来没有觉得工作是件痛苦的事情,相反一直认为再也没有比工作更快乐的事情了。我的理想就是“终生工作”。
我准备了可以简单明确地理解劳动的意义的尺度,它就是“附加价值”。也是衡量自己的工作可以为社会做出多大贡献的尺度。对商人来讲总销售利润就是附加价值。我们公司每年都打出“附加价值的甓箪∪你存在的证据”的口号。本年度公司全体董事、员工、临时工250人所创造的附加价值大约为20亿元。平均每人一年800万。附加价值的甓箪∪Р们的劳动意义。一边确保雇佣,一边甓檀躄弛值;一边节约一边勤奋工作,留下利润,缴纳税金。我心里深深知道这就是我作为企业人的使命。
为了使更多的人体会到劳动的乐趣,今后我还将继续努力。

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宗教と日本

平成19年6月7日
○宗教と日本

 社員と元社員の結婚式に招待された。友人の経営する結婚式場での挙式であった。チャペルで、英語と日本語による不思議な外国人牧師の司会ですすんだ。最近の結婚式は殆んどキリスト教式になった。カトリックかプロテスタントかわからないので、牧師に確認したところ「私は神父でなく、牧師です」とのこと。新教である。

 私達日本人は結婚式はキリスト教で、お葬式は仏教で、お正月は神社へ参詣し、お年寄りはお寺詣りが好きときている。信仰心がないわけではないが、割合不節操である。外国人には理解できないようだ。

 福井という土地柄は信仰心の篤いところだ。神社の数も、お寺の数も非常に多い。人口当りではおそらく日本一だと思われる。日本海文化圏にあるので、古来から出雲や東北、北海道と濃密な関係を保ってきた。

 北魏の都、洛陽に、扶桑館(東方夷人の居留区)があり、扶桑国(日本の北方民族か、越の国からか)よりの帰化人が住んでいた。多分蝦夷を主体としていたと思われる。「仏教はガンダーラ僧によって458年扶桑国へもたらされた」と『梁書』の「扶桑国記事」にある。聖徳太子の頃より可成り以前のことである。今まで仏教伝来といわれたより遥かに早くに、仏教は日本各地にもたされたものと思われる。

 継体天皇の時代にすでに日本海側に仏教が入っているという感触を持っている。継体天皇を推戴したのは大和政権中枢の豪族と、渡来人の秦氏や蘇我氏であり、尾張氏であった。それ等の豪族は、大和の豪族が「神」と共にあったことと違って、新しく伝わりつつある仏教の影響を受けつつあったと考えられる。聖徳太子の十七条憲法以来仏教が中心となった。天皇は即位後伊勢神宮へ参ると同時に、各寺院に勅額などを贈り、仏教への崇拝も篤い。日本は不思議な国である。

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宗教和日本


19年6月7日
宗教和日本


我收到请帖去参加公司现役员工和前员工的婚礼,仪式在友人经营的婚庆公司举行。在一个小教堂里,一个奇怪的外国人牧师用英语和日语主持了婚礼仪式。最近的结婚仪式绝大部分都是基督教式的了。我实在搞不清楚是天主教还是新教,就向牧师确认,他告诉我说“我不是神父,是牧师”。看来应该是新教。
我们日本人婚礼是基督教式、葬礼是佛教、过年时候则去神社参拜、年纪大的人还喜欢参拜寺庙。虽然并不是心里没有任何信仰,但是相比较而言好象没有操守。对此外国人似乎很难理解。
福井因为地缘关系是个信仰诚笃的地方。不管是神社,还是寺庙,数量都非常多。按人口来平均恐怕是日本第一多了。同时,这里地处日本海文化圈,自古以来就同出云、东北、北海道等地保持着密切的关系。
北魏的都城洛阳有个扶桑馆(东方夷人居留区),据说来自扶桑国(来自日本的北方民族或者是越之国)的归化人曾经居住于此,大概以虾夷族为主。《梁书》中关于扶桑国有“公元458年佛教由比丘尼传入扶桑国的”记载,此事发生在早于圣太子时代很久之前。可以说远在一般学者公认的佛教传入日本的时间之前很早,佛教就已经传播到了日本各地。
我感觉继体天皇时代佛教就已经进入日本海地区。推戴继体天皇的是大和政权中枢的豪族以及舶来者秦氏、苏我氏和尾张氏。这些豪族跟大和民族所信奉的与“神”同在相异,不断在接受新传入的佛教的影响。圣太子的17条宪法以来佛教成了宗教的中心。天皇即位之后去伊势神功参拜的同时,也要赠给各个寺院匾额,对佛教的崇拜也极其诚笃。日本真是个不可思议的国家。

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今、森の中に居る

平成19年6月5日
○今、森の中に居る

 今は6月の初旬。外房の海から約200mほど山に入った所に森がある。天然の森だ。椎の木の先端が黄金色に輝いている。新しい花芽である。何種類もの小鳥のさえずりが聞こえてくる。時には猿の群が、目前にまで近づいてくる。大鹿を見ることもある。

 庭に白いサンデッキを作った。製作者は香亜奈工房の社長、栗田一級建築士。ログハウスづくりでは指折りの実績がある。チェンソーを使うウッドカービングの名人でもある。私は彼のセンスに共鳴し、外房のサンデッキに続いて、北鎌倉にも同じスタイルのサンデッキを作ってもらった。サンデッキで飲む休日の朝のコーヒーは格別の味がする。

 私は絵かきを目指していた。そして色は白が好きだ。世界中を歩いて気に入った色はやはり、白い建物、白いサンデッキやコンサバトリー。

 外房にいる間は、早朝に起きて、サンデッキを歩きまわる。爽やかな空気、森の精気を胸一杯に吸う。目の前は深い森。そして近々と低い山の峰が続いている。森の中を小川が流れている。

 会社を設立して間もない頃、社員を5、6名づつ、2泊3日の研修で、ここに招待した。一巡する前に、社長の家へ、社員を宿泊させて、会食するのはよくないとの注意があり、止めた。招待漏れの社員は口惜しがったが、それ以上に私の方が驚いた。世の中には、制約が多い。

 四季おりおりの変化を楽しむのは森に限る。外房の海もいいが、森は一日一日違った顔を見せてくれる。今、森の中に居る。緑の中に居る。

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此刻,我置身于森林之中


19年6月5日
此刻,我置身于森林之中

时值6月初旬。从外房海边大约200米,入山处有森林,且为天然林。椎木的先端晖映出一片金黄色的光芒,那是新的花芽们。听得到好几种小鸟的鸣叫,不时还有猴群来到眼前,有时还看得到大鹿。
我请人在院子里做了日光甲板(sun deck)。建造者是香奈亚工房的社长、栗田一级建筑师。他在建造圆木房方面的成绩屈指可数。也是用电锯雕刻木头的名人。我非常欣赏他的品位,继外房的日光甲板之后,在廉仓也作了同样风格的甲板。假日的早晨在日光甲板享用的咖啡总有别样的滋味。
我曾经立志做画家,而且喜欢白色。全世界不论我走到哪里,最吸引我的颜色还是白色,白色的建筑物、白色的日光甲板、或者白色的日光室(conservatory)。
在外房的日子,清晨早起总会在日光甲板周围徘徊。尽情呼吸清爽的空气、吸收森林的精华。眼前是深深的森林,近处蜿蜒着低矮的山峰,小溪在森林中流淌。
公司刚成立不久时,我曾经以5、6人一组,招待公司员工来这里住2宿3天进行研修。但是还没有轮完一轮之前,就接到告诫说老板把员工请到家里住宿,会餐不太好,只好中止了这种研修。没能轮上的员工都觉得很可惜,我更多的则是惊讶。世界上竟有这么多的约定俗成。
享受四季不同的变化莫过于森林。外房的海固然好,但是森林每天更给人以新的面孔。此刻,我就置身于森林之中,置身于绿色之中。


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勿体ない思想

平成19年5月24日
○勿体ない思想

 「ああ、勿体ない」という言葉が、最近復権してきたようだ。私にとっては「我が意を得たり」と誠にうれしい限りである。「ああ、勿体ない」という言葉は「ご飯の一粒」から教えられた。「米」はお百姓さんが八十八の手間をかけて、丹精をこめて作ってくれた大切なものだ――と教えられた。ご飯の一粒でも残すと大声で叱られたものだ。

 「ご飯の一粒」から「紙」にすすむ。「紙」のムダ遣いをとがめられた。紙をムダ遣いすると紙地獄に落ちるぞとおどかされた。物資の乏しい時代であった。自転車のチューブも洋服もすべて自分達で修理し、つくろって使った。着古したシャツやパンツは雑巾に作りかえて、学校の放課後の清掃に使った。だからまだ使えるものを捨てることには大きな抵抗を感ずる。使い捨ての時代は納得できない世代なのである。

 この「勿体ない」という考え方は環境にプラスに働く。地球温暖化対策が急がれるようになったが、その為にはエネルギーの消費を根本的に見直すことが最良の方法である。即ちあらゆる消費を抑制することが温暖化防止につながる。少し辛抱して、量を減らすことを実行すればよい。

 飲み放題、食べ放題が一時流行したことがある。これは食料のムダ、エネルギーのムダに直結し、健康にも悪影響を及ぼす。絶対に止めてほしい過剰サービスである。百害あって一利もないサービスである。あらゆる面で謙虚なサービス、地道なサービスを継続していってほしい。

 「ああ、勿体ない」は「清貧」に通じる生き方であり、私は好きだ。そんな生き方を理想としている。

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“好可惜”思想


19年5月24日
“好可惜”思想

最近“啊,好可惜”这句话,似乎又重新得势、人气起来。对我来讲“正合吾意”实在是再好不过。我知道“啊,好可惜”这句话,得益于“一粒米饭”的教诲。大人们从小就教育我“大米”是老百姓费了88道功夫精心种植出来的,哪怕剩一粒米都会被大声训斥。
后来这种教育又从“一粒米饭”发展到“纸张”。浪费纸张要挨训。家人会说“浪费纸张小心掉进纸张地狱”。那是物资匮乏的时代,自行车轮胎、衣服,所有的一都要自己动手修理、修补。穿旧的衬衣或裤子就做成抹布,放学后就用它打扫卫生。所以,我一直很抵触扔掉还可以用的东西,属于无法接受“一次性消费”的一代人。
这种“好可惜”思想对环境会起到正面的作用。全球变暖对策是目前的当务之急,为此从根本上重新审视能源消费才是最好的解决方法。也就是说抑制所有的消费才能有效防止全球变暖。要实际做到稍微忍耐一下,减少能源用量。
自助餐饮曾经很流行。这种风尚直接造成粮食和能源浪费,对健康也会产生不良影响。是我绝对希望停止的过剩服务,也是一种有百害而无一利的服务。希望所有地方都坚持谦虚的、实实在在的服务。
“啊,好可惜”是一种通向“清贫”的生存方式,也正是我所喜欢的方式,是我奉之为理想的生存方式。

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今を生きる

平成19年5月23日
○今を生きる

 温泉に入るとゆったりした気分になる。入浴もそれに似た効果がある。夕食を食べる前に入浴すると夕食がおいしい。また一合の晩酌の後の入浴も捨てたものではない。そして精神的にも悪くない。

 入浴中に考えることがある。この温かい湯の中でゆっくり身体を暖めている今は、私にとって何なのだろう?「今」はくつろぎの時である。明日への英気を養う時であると考えることも出来る。人によっては、入浴時が至福の時と考える人もいるかもしれない。また、一日の汚濁を洗い流す時という人もいよう。もっと言えば反対によからぬ事を思いはかる人もいるかもしれない。

 人それぞれである。何を思い、何を考えるのかは、すべて自由である。しかし自由であるなら

 「プラス思考」をめざすことが大切である。これは思考のスイッチを自分で切りかえる作業をすればよい。難しいことではない。ハッと我に返るとよくいうが、我に返って「今」が一番大切だと自分に言い聞かせればよい。すると自然に前向きの考え方、まわりのすべてに感謝する心がひとりでに沸いてくる。

 人は「今」を生きることしか出来ない。過去にとらわれる必要はない。明日を悩む必要もない。「今」を精一杯、努力して生きていけばよい。明日はひとりでに開けてくる。暗い過去はひとりでに去っていく。

 日本人の温泉好き、おふろ好きは突出しているので、入浴中の話にたとえたが、入浴中にこだわる必要はない。電車の中でも、仕事中でも、休息中でもいい。いつでも「今」が一番大事だということを自分に言い聞かせることだ。これを一週間続けるだけで「人間」が変る。「自分」が変る。「人生」が変る。明るい毎日が待っている。

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为现在活着


19年5月23日
为现在活着

每次洗温泉心情都会变得怡然自得,沐浴亦然。晚饭之前的沐浴使晚饭更加可口,一合小酒之后的沐浴,更是令人难以割舍,对精神健康也相当不错。
沐浴时有时候我会想,温暖的浴池中,浑身暖洋洋的“现在”,对我来讲,意味着什么?“现在”是放松的时刻,也是为了明天养精蓄锐的时刻。对有的人来讲,人生最幸福的时刻莫过于沐浴时。也有的人认为沐浴是洗涤一天的尘埃的时刻。相反甚至有的人沐浴时在考虑一些不太好的事情。
人各不相同,想什么,信奉什么,完全自由。既然是自由的,何不朝着“积极的方向”而努力呢。也就是说只要自己切换一下思考的电源就行了,这应该不是什么困难的事情。人们经常说幡然醒悟,幡然醒悟,做回自己,对自己说“现在”是最重要的。这样会自然变得积极,也会自然而然地对周围的一切产生感恩的心情。
人能够把握的只有“现在”,所以没有必要对过去耿耿于怀,也没有必要为明天而烦恼。只要努力地抓住“现在”,活好“现在”就足够了。通向明天的大门会自然开启。灰暗的过去也会悄然离去。
日本人以喜爱温泉,喜欢洗澡出名,所以这里我举了沐浴的例子。其实也可以不是沐浴,还可以是坐电车时、工作时、休息时。无论何时对自己说“现在”才是最重要的。只要这样坚持一周人就会改变,自己就会改变,人生也会改变,在前方等待着我们的将是美好的每一天。

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お市神社(通称)

平成19年5月18日
○お市神社(通称)

「楊柳の風になびく如く、顔色の艶に麗しきは、芙蓉の露にいたむとも言いつべし。東国一の美人にして・・・」と『太閤記』は伝えているのが「お市の方」である。その天下一の美女といわれた織田信長の異母妹「お市の方」が永久に眠るのが福井市中央1丁目の「柴田神社」通称「お市神社」である。

 兄弟の縁が薄かった信長はお市の方には特別の愛情を持っていたようだ。琵琶湖の水運を押え、北国街道と中山道の分岐点に位置する浅井家の長男浅井長政に嫁いだ。美男の名が高かった。お市の方18歳、長政20歳。京への安全な通行権を手に入れた信長は「今後朝倉は攻めない」と約束。しかし、朝倉の名門意識は強く、信長よりの京への招きに応じないので、この約束を反古にして朝倉と開戦。戦国の習いとは言え「お市の方」の悲劇が始まる。

 「お市」は「小谷の方」と呼ばれ、数年の間に5人の子を生んだ。小谷城落城の折、「お市」は三人の娘と共に「浅井の血を残せ」という長政の願いを受け入れ、信長の元へ帰った。その後、羽柴秀吉、柴田勝家に再婚を申し込まれ、柴田勝家を選び北ノ庄に入った。お市36歳、柴田勝家56歳といわれる。

 北ノ庄城落城の折「お市」は3人の娘、長女「お茶々」後の淀殿、「お初」後の京極殿、「お江」後の徳川秀忠夫人小督局を城外に出し、九重の天守閣を持つ当時最大規模を誇った城と勝家と共に炎に包まれた。天下一の美女であった。その勝気さは豊臣秀吉の妻となり、豊臣秀頼の母となった淀殿が、その聡明さは次女お初が、その不屈さは徳川家光や和子(東福門院)を生んだ小督(崇源院)が受け継いだ。享年37歳、法号は慈照(自性)院殿微妙浄法大姉。福井市の西光寺(願応寺自性院)に柴田勝家と共に眠る。西光寺はお市神社より徒歩10分。

 織田、浅井の血は後の豊臣・徳川・天皇家とお市を介して続いていった。越前国織田庄は斯波氏家老の一織田家の発祥の地。織田町にはゆかりの剣神社がある。お市神社より車約40分。

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阿市神社(俗称)


19年5月18日
阿市神社(俗称)


“婀娜如杨柳之随风飘舞、艳丽似芙蓉之带露欲滴。东国第一美人……”,《太阁记》中描述的就是“阿市”。这位天下第一美女、织田信长的异母妹妹“阿市”,长眠在福井市中央1丁目“柴田神社”,俗称“阿市神社”。
手足情淡薄的信长似乎对阿市有着特别的感情。阿市嫁给了控制琵琶湖水运、位于北国街道和中山道交叉点的浅井家长子浅井长政。长政是著名的美男子,阿市18岁、长政20岁。通过联姻信长得到了通往京城的安全通行权,作为回报信长答应“今后不会进攻朝仓家”。但是,朝仓家的名门意识极强,对信长的进京邀请不理不睬,信长于是违约同朝仓开战。虽然这是战国时代的习惯,但“阿市”的悲剧从此开始。
“阿市”又称“小谷的贵人”,几年间生有子女5人。小谷城陷落时,“阿市”接受长政“保住浅井家的血统”的哀求,和3个女儿回到了信长身边。之后,羽柴秀吉和柴田胜家都提出了同阿市再婚的要求,但阿市选择了柴田胜家进入北之庄城。阿市36岁,柴田胜家56岁。
北之庄城陷落时,阿市把3个女儿,即 “茶茶”后来的淀殿、“阿初”后来的京极殿、“阿江”后来的川秀忠夫人小督局,放出城外。自己则和胜家在拥有九重天守阁的当时最大的城池化身火海。天下第一美女,她的烈性被大女儿即丰臣秀吉之妻,丰臣秀赖之母淀殿继承、聪明被二女儿阿初继承、三女儿即生下川家光、和子(冬福门院)的小督(崇源院),则继承了她的不屈不挠。阿市享年37岁,法号慈照自性院殿微妙净法大姊。身后和柴田胜家安眠于福井市的西光寺(愿应寺自性院)。西光寺距阿市神社徒步10分钟。
织田、浅井家的血统通过阿市流向后来的丰臣、川、天皇家。越前国织田庄是斯波氏家老之一织田家的发祥地。织田町还有跟织田家渊源很深的剑神社。距阿市神社大约40分钟车程。

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国歌「君が代」について

平成19年5月8日
○国歌「君が代」について

 私は世界中の国々を巡り、数多くの方々と知り合い、いろんな経験を積んできた。1970年頃からしばしば仕事で海外へ出かけた。どの国へ行っても「国歌」の吹奏や放送が始まると、すべての人は直立し、胸に手をあてて、国歌を唱和する。

 ところが戦後の教育現場の混乱から「国歌」を私達はなくしてしまったようだ。国歌を歌えない国民は世界にいない。世界有数の大国意識を持ち乍ら、日本人は「君が代」を忘れてしまった。

 私はロータリークラブに入会しほぼ4分の1世紀が過ぎた。毎月第一例会の冒頭に国旗に向い、「君が代」を斉唱する。全員上着を着て直立不動で歌う。「君が代」は荘重であり、内容もすばらしい。世界にも例がない程平和的である。

 「君が代」の起源は古い。『古今集』に題知らず、読人知らずとして収録されている。平安時代の『古今集』より、かなり以前から歌われてきた賀歌である。この歌の雰囲気は「古今」というより、「万葉」の大らかさがある。「君が代は・・・」でなく、「我君は・・・」で始まっているものもある。君は「天皇」を指すのではなく、はじめからずっと「相手」の長寿を願って歌われためでたい壽きの歌である。室町時代、安土・桃山時代そして江戸時代と「君が代」は能狂言、清元、浄瑠璃、狂歌、俳諧とあらゆる分野に広がった。この歌ほど国民に広く親しまれためでたい歌はないというので日本の国歌となり、現在の曲がつけられたのである。

 アメリカの国歌、イギリスの国歌、フランスの国歌、中国の国歌どれをとっても平和の歌はない。私から見ると雄たけびに聞こえる。私は日本人が誇りをもって、自信をもって歌える国歌、それが「君が代」であると断言できる。これ程すばらしい国歌を生徒に教えない先生、ピアノ伴奏をしない先生がいる。私は言いたい。「人を愛し、地域を愛し、国を愛する心を育てるのが教育です。」「命がけで命の尊さを教えるのが教育です。」「平和の尊さを教えるのが教育です。」「国の歌「君が代」を正しく歌える教育が今ほど望まれる時はありません。」
 
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关于国歌《君之代》


19年5月8日
关于国歌《君之代》

我周游世界各国,结识了很多人,积累了各种各样的经验。从1970年左右开始因为工作关系我经常有机会去海外,发现不管到了哪个国家只要一开始奏国歌,所有的人都站得笔直,手放在胸口,和着音乐唱起国歌。
我们却好像因为战后混乱的教育丢掉了国歌。世界上没有不会唱国歌的国民,但是一方面有着自己是世界上有数大国的意识,另一方面日本人却忘记了《君之代》。
我加入扶轮社俱乐部大约经过了4分之1个世纪。每个月第一次例会的开头,大家都会面向国旗,齐唱《君之代》。所有人都穿好外套直立不动地歌唱。《君之代》庄重,内容也很优秀,而且充满和平精神,这是世界上绝无仅有的。
《君之代》的起源很古老,它收录在《古今集》的无题、佚名部。其实它早在平安时代的《古今集》之前就被人们传颂,是一种祝福诗。这首诗的氛围跟《古今集》的风格相比,更具有《万叶集》的大气。这类诗不仅有以“君之代……”开头的,还有以“我君……”开头的。诗中的“君”并不是指“天皇”,而是从一开始就是希望“对方”长寿,为“对方”唱的祝寿诗。室町时代、安土・桃山时代、以及江户时代《君之代》广泛传播到能狂言、清元、净琉璃、狂歌、俳谐等所有艺术领域。因为没有哪一首喜庆诗能够像这首诗一样广受国民的喜爱,所以它成了日本的国歌,并被谱上现在的曲调。
美国国歌、英国国歌、法国国歌、中国国歌,不管哪一国的国歌都不是和平之歌,在我听起来都很雄壮。我可以断言日本人可以充满自豪,充满自信歌唱的国歌非《君之代》莫属。但是就是有不教给学生如此优秀的国歌的老师,就是有不用《君之代》做钢琴伴奏的老师存在。我想说“教育就是培养学生有一颗爱他人、爱地域、爱国家的心”,“教育就是不惜生命的力量告诉学生生命的尊严”,“教育就是教给学生和平的可贵”,“没有比现在这个时代更需要能够正确歌唱国歌《君之代》的教育了”。

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クオリティオブライフ(Quality of Life)

平成19年5月1日
○クオリティオブライフ(Quality of Life)

 ミシガン大学で知り合った女性にスピーキングパートナーがいる。これは日本人など世界中から来る留学生に、一日も早く英語が話せるようにする為のシステムである。私はこの人から、そして彼女の夫から、家族から多くのことを学んだ。

 彼等はボストン、カリフォルニア、ミシガンと住所を変えて全米を歩いてきたという。夫妻とも大学院生であり、二人の子供があり、夫の方は仕事も持っている。私達の日本人とは全く違う生き方をしているのだ。そして転勤とか転校を命じられるのではなく、彼等の意志、家族全体の意志で、ボストンからカリフォルニアへ、そしてまたミシガンへ移住してきたという。

 ボストンから西部のカリフォルニアに移った時、まずみんなが驚嘆したのが、庭に移植したプランツ(植物)の生育の早さだという。ボストンでは殆んど大きくならないものが、どんどん大きくなっていく。そしてミシガンではまた元に戻ってあまり変化がないという。同じプランツが場所によって全く異ったものになる不思議を熱心に語ってくれた。

 私は砂漠で暮す友のことを思った。バングラデッシュで活躍中の友を思った。プランツと同じように、私達人間も住む地によって全く違う生き方、考え方を持つ。砂漠の友にこのアメリカの肥沃な土地、この華やかな文明の生活を実感させるのは難しい。しかし、砂漠で暮す人々は何百年もそこで住み続けている。何の違和感も持たず、厳しい自然環境を甘受して生きている。

 私はバングラデッシュの友を思った。炎暑と洪水の国にいて、この快適なアメリカを想像させるのは難しい。外はマイナス20度であり乍ら、このベイツ寮の中は半袖シャツで平気でいられる。

 スピーキングパートナーと一緒に病院を訪れた。そこで私は異常な体験をした。広い部屋に数多くの老人がいた。車椅子の老人である。しかし、生命の脈動が聞こえてこない。蝋人形の群かと疑った。生きている老人達である。よく見ると点滴のチューブをつけている老人もいる。よりかかって眠っている老人もいる。白人特有の肌の色のせいかもしれないが、私はいたたまれなくなり、その病室を出た。

 「クオリティオブライフ」と最近言われ出したが、プランツの例にあるように、場所によって、人は育ち人は生きそして枯れていく。ミシガンの病院や最近の老人ホームの例、或いは植物人間でも生かし続ける今日の日本を考えると、もう一度「クオリティオブライフ」を大声で主張したくなる。生きることは輝くことと同時に他人の為に尽すことである。ムリヤリ生かされることではない。

 死生観についても若い人だけでなく、私達ももっともっと学んでいく必要がありそうだ。生まれてきてよかったと思える毎日を送れること。これがクオリティライフの原点である。そう思える日々を送るには、どうしたらよいか。それは予防医学であり、健康産業であり、毎日のささやかな運動であろう。最も大切なのは感謝の心。そしてまわりに与える愛の種である。喜びの種、幸せの種、愛の種をまこうと叫び続ける毎日を送りたい。

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生活质量(Quality of Life)


19年5月1日
生活质量(Quality of Life)

在密西跟大学认识的女性当中有一位是我的语言助手(Speaking Partner)。语言助手是一种为了帮助日本人等来自世界各地的留学生早日学会说英语的制度。我从她身上,还有她的丈夫以及家人那里学到了很多东西。
他们一家在波斯顿、加利佛尼亚、密西跟等地之间频频搬迁走遍了整个美国。夫妻两个人都是研究生,有两个孩子,丈夫在工作。他们过着跟我们日本人完全不同的生活。而且并不是被命令而调动工作或转学,而是根据自己的意志,全家所有人的意志,辗转于波斯顿、加利佛尼亚,又来到了密西跟。
他们说从波斯顿搬到西部的加利佛尼亚时,大家首先惊叹的是移植到院子里的植物们的生长速度之快。在波斯顿几乎不见长的植物,不断长大,但是到了密西跟时又故态复然,不太变化了。他们就这样热心地给我描述同样的植物因为所处的地方不同竟然变成完全不同的东西的不可思议性。
我想起了在沙漠生活的朋友,想起了活跃在孟加拉国的朋友。同植物一样,我们人类也因居住地区的不同而过着完全不同的生活,有着完全不同的思想。沙漠中的朋友恐怕很难体会到美国肥沃的大地,绚烂的文明。但是另一方面,在沙漠中生活的人们,几百年来世世代代居住在那里,却也没有任何不适应的感觉,心甘情愿地忍受着严酷的自然环境。
想起了在孟加拉国的朋友。他身在炎暑和洪水之国,让他想象舒适的美国恐怕也很难。户外虽然达到零下20度,但是在贝茨宿舍里穿短袖都毫无问题。
有一次跟语言助手一起去一个医院,在那里我经历了不同寻常的体验。宽敞的房间里有很多老人,都坐着轮椅。但是从他们身上听不到生命脉搏的跳动,我简直要怀疑眼前是不是一群蜡人。但是他们都是活着的,仔细看可以发现有的老人身上插着点滴管,有的斜倚着在睡觉。也许是因为白种人特有的皮肤的颜色,令我无法再呆下去,我很快走出了房间。
最近“生活质量”开始被提出来,成为时尚。就像植物的例子所讲的一样,人也会因为生活场所的不同而成长或枯萎。想想密西跟的医院,最近的老人院,或者就算变成了植物人也要想办法维持生命的现在的日本,不由得想再次大声提倡“生活质量”。所谓活着应该是自己的生命之光光芒四射的同时为了他人而尽心尽力。不是被逼无奈而勉强活着。
关于生死观,不仅年轻人,我们这些老年人也有必要再进一步学习。每一天都认为生而为人来到世间是幸福美好的,这才是高质量生活的原点,为了度过这样的每一天,应该怎么办?要进行预防医学,要关注健康产业,要每天适当运动。更重要的是要有感恩的心,还有给周围人爱的种子。让我们播种快乐的种子、幸福的种子、爱的种子,我想为此而大声疾呼度过我的每一天。

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天の声

平成19年4月27日
○天の声

 幼少の頃より、「天の声」を聞けとよく母にいわれた。「天の声」とは「神仏の意志」を言う。「森羅万象の生成流転の法則」を言う。最近のマスコミのいう「天の声」ではない。「天の声」は第一に、人間としての基本を求めてくる。その基本とは、言葉と精神と行動の一致である。分かり易くいうと、「言うこと」と「腹の中」と「やること」の一致である。この三つを一致させることは難しい。当然一致する筈であるが、違うことの方が遥かに多い。

 耳を澄ますと必ず「天の声」は聞こえてくる。私は道に迷った時、困難に遭遇して立ち往生した時、常に「天の声」を求める。私情に流されないために、激情に判断力を鈍らされることのないように、私は常に「天の声」を聞く。

 「言うこと」はそんなに難しくないと人は言うだろう。しかしその言葉の裏にある心とその言葉を実行する可能性を思うと、決して易しいことではなくなる。「言葉」を発することは、それを裏付するだけの精神・心・中身を持っていることが必要十分条件になる。そしてそれを実現していく為の行動、実行の可能性まで求められるのだ。

 私達は日々の生活の中で、常に多くの誤ちを犯している。気付く時と、気付かずに過し、大分時間や年月が経過した後で気がつく時がある。どちらにしても凡人の私は誤ちを犯してしまうことが多い。そんな時「天の声」を聞く。言葉を発する時、思索している時、行動に移す時、その時々に、「誤ちのありや無きや」「私心や欲情におぼれていないか」「みんなの為になるかどうか」を天に聞く。常に天の意志に逆らわずに生きたいからである。

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上天的声音


19年4月27日
上天的声音

小时候起,母亲就经常告诫我要倾听“上天的声音”。所谓“上天的声音”是“神佛的意志”,也是“世间森罗万象生成流转的法则”,并不是最近媒体所说的“上天的声音”。“上天的声音”首先要符合做人的基本,这个基本就是语言和精神以及行动的一致。简而言之就是要“口中所言”和“心中所想”及“实际行动”相一致。使这三者一致很难,虽然三者原本理所当然应该一致,但是实际上并不一致的人要多得多。
只要侧耳倾听一定可以听到“上天的声音”。我在迷茫时,遇到困难进退两难时,总是征求“上天的声音”。为了不流于私情,为了不因为激情而使得判断力钝化,我总是询问“上天的声音”。
也许有人会说“开口讲话”没有那么难吧。但是考虑语言背后的真心和将所说之话付诸实行的可能性,那么开口讲话就绝对不是一件容易的事。对“发言”而言,证明这一发言的精神、意志、实质的存在是充分必要条件。不仅如此还要求有为了实现发言的行动和行动实施的可能性。
我们在日常生活中经常犯各种各样的错误。有时候会立即意识到自己的错误,但有时候却全然不知,直到过了很多年之后才发现这些错误。不管哪种情形,我们普通人经常难免犯错。这时候就要倾听“上天的声音”。发言时,思索时,打算行动时,为了不违背上天的意志,这些时候都要问一问上天。“我有没有做错”,“有没有沉溺于私心或者情欲”,“这样做是不是对大家都有好处”等等。

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ああ、勿体ない「321グラム」

平成19年4月24日
○ああ、勿体ない「321グラム」

 この「321グラム」の数に注目した。この「321グラム」は最近の日本人が1日1人321グラムの食料を捨てているというのである。「私はそんな勿体ないことはしていない」とすべての人は言うであろう。しかしこれが現実の日本人の姿なのだ。目をそらすことは許されない。何がこのようなムダを私達にさせているのか。みんなで真剣に考えることが大切だ。

 コンビニの閉店の後、中で何が起きているか。駅弁の売店の閉店時間に弁当を買いに行くとよくわかる。サンドウィッチ店、スーパーマーケット、あらゆる食料品の売場のバックヤードから毎日売れ残りの、まだ新鮮な弁当やサンドウィッチやパンや豆腐や生鮮食料品などが大量に捨てられていっている。

 ある売店でお弁当を買った。夜少し遅い時間だった。私が買った弁当の支払いを済ませている時に、他の係りの人がビニール袋に次々と残った弁当を詰めている。賞味期限切れになるので返品するという。返品するということは破棄処分ということになる。私は自分の買った1000円の弁当を眺めながら、次々と捨てられていく同じ弁当を見て涙が出た。こんなことが許されていいのか。世界中に飢餓で苦しんでいる人がいるというのに、まだ食べられる(私はこれから家に帰ってこの弁当を食べるのだ)弁当が目の前で捨てられている。

 何かが確実に間違っている。その間違いをみんで考え、みんなで改善していく必要がある。ちなみに「321グラム」は日本人の1人当り、1日当りの食べものを捨てている量である。これは年間1500万tになる。ああ、天よ、許したまえ。いや、天は決して私達を許すことはないであろう。

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啊!真浪费“321克”


19年4月24日
啊!真浪费“321克”

我非常关注“321克”这个数字,最近日本人每人每天扔掉的粮食就是这个数字——“321克”。大概所有人都会说“我没有浪费”。但是这是日本人的真实姿态,我们无法对此视而不见。什么原因使得我们如此浪费,大家都来认真考虑才重要。
便利店关门之后,店里会发生什么事情,关门时间去车站的便当店买便当就会理解。每天卖剩下的,还非常新鲜的便当、三明治、面包、豆腐等等生鲜食品从三明治店、超市、所有的食品专柜后面被大量扔掉。
我曾经在一个便当店里买便当,时间是晚上稍晚时分。就在我买好便当结账的同时,其他的店员在不断把卖剩下的便当装进塑料袋里,说是过了保质期了要退货,所谓的退货就是扔掉处理。我看看自己花1000块钱买的便当,再看看其他的一模一样的被扔掉的便当,不由流下了眼泪。我们这样做可以得到宽恕吗?全世界还有那么多人在饱受饥饿的困苦,而就在我的眼皮底下完全还可以吃(我接下来回家会吃这份便当)的便当却正在被扔掉。
可以肯定我们一定有什么做错了,我们有必要思考这种错误,一起改善这种状况。顺便再说一次“321克”这个日本人平均每人每天扔掉的食物,一年加起来就是1500万吨。天啊,请原谅我们吧。不,天绝对不会原谅我们的吧。

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他人と共に生きる

平成19年4月19日
○他人と共に生きる

 一人で生まれてきたのではない。先祖があり、父母がある。そして私達を今日まで育ててくれた他人がいる。あらゆる生物も私達人間も、他人と共に生きる運命にある。一人で生きていくのは不可能だ。

 その為には他人と共に生きる決心をしなければならない。自分のことよりも、他人のことを先に考えられるすばらしい人にならなければならない。ところがこの簡単に見えることが、実は大変に難しい。人は本来、自分に甘く他人に厳しく考える動物のようだ。でもこれは間違っている。自分に厳しく、他人に優しい人が求められている。

 反省をこめて現状を見てみよう。

  1.他人の欠点はよく見える。自分の欠点は見えない。
  2.自分の好業績などよい点はよく見えるので自画自讃する。他人の好業績やよい点は見えないの  でほめられない。
  3.過去はよく見える。現在は見えない。見ていない。まして将来などなお見えない。

 これが私達凡人の真の姿である。これでは「他人と共に生きる」ことは難しい。自分を捨てることは、凡人には難しいが、せめて自分のことよりも、まず他人のことを先に考える習慣をつけてみよう。「自分よりもまず他人を先に」「お先にどうぞ」「他人さま」という新しい生活を始めてみよう。この小さな行為が、やがては大きな果実をもたらしてくれることうけあいだ。

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和他人共处


19年4月19日
和他人共处

我们每个人都不是一个人来到世上的。我们有祖先,有父母,还有养育我们的其他人。所有的生物,包括我们人类都承担着跟他人共处的命运。一个人生存是不可能的。
为此我们要有跟他人共处的决心,要努力成为先人后己的人。但是,这一点看起来简单,其实非常不容易。人似乎是一种宽于待己,严以律人的动物。但是这是错误的。现在需要严于律己,宽以待人的人。
让我们反省一下我们的现状。
1.他人的缺点看得清清楚楚,自己的缺点却视而不见。
2.自己的优秀业绩,自己的优点看得清清楚楚,而自吹自擂,自我欣赏,却 看不到他人的业绩和优点,而吝于赞扬。
3.过去看得很清楚,却看不透现在。或者对现在不屑一顾,更不用说能看到将来了。
这就是我们这些凡人的真实姿态,“跟他人共处”当然难上加难。舍弃自我,对我们凡人来说太难,但至少我们要养成先人后己的习惯来。让我们开始“先人后己”“您先请”“他人第一”的新生活。这个小小的行动,总有一天会结出丰硕的果实。

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五十にして天命を知る

平成19年4月17日
○五十にして天命を知る

 『方丈記』の冒頭に「ゆく川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず・・・」と詠じた死生観は、約2500年前に黄河の堤に立って孔子が言ったという「逝くものはかくの如きか、昼夜をおかず」によっている。

 仏教の釈尊はBC560年に誕生。儒教の孔子はBC551年に誕生。ソクラテス、キリスト、マホメッド等の今日の宗教哲学の源流をなした偉大な哲人がいた。その内の二人、釈尊と孔子は、全くの同年代を、没交渉の中で、インド北方のヒマラヤと、中国中原の黄河流域に生き、それぞれの弟子によって今日まで営々とその思想が伝えられてきた。「五十にして天命を知る」という言葉と比較すると、孔子は73歳まで生きた。「天は私を見放したか」と嘆いた寂しい晩年を心ならずも過したが、その思想は生き続け今日に到っている。

 「天命とは何ぞや」という言葉には「死生、命あり、富貴、天にあり」の中にある。人は生死にとらわれがちであるが、そんなことは天に任せよう。富も名誉も大したことではない。それも天に任せよう。今日一日を力一杯生き抜くことで私は満足だと考えている。

 私は59歳で起業した。今、団塊の世代の最初の年の人達が、59歳の筈だ。ここで今起業するのも人生だ。天命を知り、やり残した仕事があると思えば、残された人生をそれに没頭するのが人と生まれたものの道である。その人達への応援歌『夢への始動』という本を鶴蒔靖夫さんが書いてくれた。元気の出る本である。ご一読をお勧めしている。

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50而知天命


19年4月17日
50而知天命

《方丈记》的开头所吟咏的生死观“逝川之水不绝,然非原水。……”,来自孔子大约在2500年前站在黄河岸边所发出的感叹“逝者如斯夫!不舍昼夜”。
佛教的释尊出生于公元前560年,儒教的孔子出生于公元前551年。此外还有苏格拉底、基督、穆罕默等等,他们都是奠定今天宗教流派的伟大哲人。其中的释尊和孔子,则几乎属于同一个时代,只是两人却毫无交流,一个在印度北部的喜马拉雅,一个在中国中原的黄河流域度过了一生。而他们的思想却被各自的弟子继承并绵延不绝传到了今天。跟“五十而知天命”的说法相比,孔子活了73岁。他发出“吾见放于天呼”的感叹,度过了不如意的寂寞晚年,但是在他的身后他的思想继续活着直到今天。
“何谓天命”?“天命”即所谓“生死有命,富贵在天”。人们动辄被生死所累,但是这句话告诉我们:生死的事情交给老天爷吧;财富和名誉也没什么大不了的,也交给上天安排好了。我只要全心全意地活好今天就感到满足了。
我59岁创业,现在,第一批团块世代的诸位也应该59岁了。从现在起开始创业也是一种人生。知天之命,如果觉得自己还有未竟的工作,那么把剩下的人生全力以赴地投入到这种工作中去,这是生而为人该走的道路。鹤莳靖夫先生为这样的人们写了鼓气歌《向着梦想启程》,这是一本让人振奋的书,建议大家一定读一读。

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お市の方

平成19年4月13日
○お市の方

 JR福井駅から徒歩5分のところに柴田神社がある。通称お市神社という。柴田勝家の北ノ庄城、九重の天守閣跡地である。織田信長の妹として近江浅井家に嫁し、3人の姫を生み、その後、信長の第一の臣、柴田勝家の正室として、この地にて死んだ。この時また3人の姫は数奇の運命の糸に操られるように、落城前に救出された。長女は豊臣秀吉の側室淀君となり、豊臣秀頼を生んだ。三女小督は徳川家康の三男、二代将軍徳川秀忠の正室となり、三代将軍徳川家光を生んだ。後に関ケ原合戦、大阪冬の陣、夏の陣と天下分け目の戦の中で、東西の主役として相対することになろうとは誰一人夢想だにしなかったことであろう。「女戦国史」が書かれるとしたらこのお市の方等親子4人の生き様は、きらびやかな中にも悲しい女性の姿を偲ばせる一大絵巻となろう。

  柴田勝家の辞世の歌
  夏の夜の、夢路はかなき跡の名を、雲井にあげよ山郭公

  お市の辞世の歌は
  さらぬだに、打ちぬる程も夏の夜の、夢路をさそう郭公かな

 お市37歳の春。九重の天守閣をもった北の庄城で最期を共にした。絶世の美女といわれ、その絵姿が高野山持明院に残っている。秀吉も家康もその美貌に夢中になったといわれているが、その血は豊臣家、徳川家に引継がれていった。北ノ庄城の茶々(淀君)15歳、初13歳、小督11歳での2度目の炎上であった。

 お市神社に隣接して先月当社のコインパーキングがオープンした。約386平方メートルの敷地に、20台収容できる駐車場である。

 お市神社は市の歴史のみちの指定を受けている。福井の人達の宣伝下手もあって、折角の観光資源が眠っている。お市神社を訪れて、織田・豊臣・徳川3代を生き抜いた美貌の女性達のドラマの原点を見たいと思う、中高年の人達はキット数多くいることを信じて疑わない。

 歴史のみちを歩く散策コースは、京都にもない、金沢にもない、福井だけの特長のある観光資源である。世界一の美女4人のエピソードに彩りを添える日本一の桜のトンネル足羽川、3000本の桜の山足羽山、日本有数の規模を誇る越前福井城跡、これ程の観光資源を生かすことの出来ないのは私達の怠慢としかいいようがない。福井県民、福井市民の奮起を期待したい。

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阿市


19年4月13日
阿市

柴田神社位于福井JR车站徒步大约5分钟的地方,俗称阿市神社。柴田胜家的北之庄城中九重天守阁的故址也在这里。阿市是织田信长的妹妹,初嫁近江的浅井家,并生下3个女儿,后来又嫁给信长的第一家臣柴田胜家,作为他的正室死在这里。当时3个年幼的女儿却像冥冥中有坎坷的命运之神操纵一样,在北之庄城陷落之前被救出去。长女后来成为丰臣秀吉的侧室,并生下丰臣秀赖。三女小督最后成为川家康第三个儿子、也是第二代幕府将军川秀忠的正室,生下第三代将军川家光。后来在决定天下归属的关原合战、大阪冬之战、夏之战的战役中,两姐妹各为其主,作为东西方的主角决战疆场,这一点恐怕做梦都没有人想到。如果要写《女性战国史》,阿市母女4人的传奇人生,一定会成为一幅波澜壮阔的画卷,让人感到绚丽多姿却又无限哀婉。
柴田胜家的临终诗写道:
炎炎夏日夜,佳梦无以期。且借杜宇声,长空度我意。
阿市临终诗写道:
炎炎夏日夜,晚凉人欲倦。杜宇声声切,催我入梦阑。
阿市37岁,选择了与拥有九重天守阁的北之庄城共命运。据说阿市风华绝代,高野山持明院还保留着她的画像。秀吉和家康也痴迷于她的美貌,所以她的血统最终被丰臣家、川家所继承。北之庄城消失于一片火海时,阿市的三个女儿茶茶(淀君)15岁、阿初13岁、小督11岁。三姐妹人生第二次经历沦陷之灾。
我们公司上个月在临近阿市神社的地方开设了投币式停车场。面积大约386平米,可容纳20辆车。
阿市神社被市政府指定为“历史之路”。只是因为福井人不善于宣传,致使宝贵的观光资源也只能无语长眠不为人所知。我毫不怀疑一定有很多中老年人士愿意来到阿市神社,看一眼在织田、丰臣、川3代枭雄之间生存的美丽的女性们人生戏剧的原点。
“历史之路”观光路线,京都没有,金泽也没有,是只有福井才有的观光资源。我们拥有为世界第一美女的传说畤的足羽川日本第一樱花隧道、有3000株樱花树遍布全山的足羽山、还有规模日本屈指可数的越前福井城遗址。如此丰富的观光资源却不能够充分地利用,除了说明我们的怠慢,还能说明什么?
衷心期待着福井县民、福井市民、振奋起来,付诸行动。

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賞味期限と消費期限

平成19年4月12日
○賞味期限と消費期限

 ものには賞味期限がある。友人が和菓子屋さんなので生菓子をよく買う。友人はこれによく注意する必要があるという。北鎌倉の松花堂のあがり羊羹は、甘味が押えられているので、賞味期限は一日である。そして殆んど毎日午前中で売切れる。今は甘味を押える方がお客様の好みだという。

 ものには消費期限がある。菓子メーカーの老舗不二家で問題になったものである。消費期限切れの原料を混ぜて使ったという。コンプライスアンス(この場合は社内ルール)に抵触する。菓子を食べて実際に病気になったり、死亡したりしたのではないが、社内ルールに違反したことをマスコミが取り上げ問題が大きくなった。

 不二家は何十年も以前のことになるが、敵対的M&Aを仕かけられた苦い歴史を持つ会社である。その時も自社株を高値で買い取らされた。今回も格下の会社に吸収合併ではないが、統合されてしまう。名門企業を知る一人として誠に残念である。

 ものにはこのように賞味期限があり、消費期限がある。しかしその期限は、人間の意志によって任意に決定される。裏付けのデータはあり、経験則も働いている。

 人間にも賞味期限、消費期限がある。今年私は満年齢であるが、古稀を迎えた。生まれてはじめて、多くの方々から誕生祝を頂戴した。そしてまわりを見渡して驚いた。70歳を過ぎて現役社長は県内に殆んどいない。僅かに2、3人の例外と一部の官僚の方々だけである。「生涯現役」を主張している私も、この現実には愕然とした。そして体力の低下である。大先輩の方々からは「健康」に気をつけよ、社長は健康が第一だと忠告をしていただく。目、歯、〇〇の衰えを考えよとの忠告だ。

 我が家は代々浄土宗知恩院派である。法然上人には特に興味を持っている。79歳まで現役を貫いた。孔子は世界四哲の一人といわれるが、73歳の生涯。浄土真宗の親鸞は90歳。思想家、哲人は当然のこと乍ら生涯現役であった。

 しかし実業界、政界、官界ではこの人間の賞味期限、消費期限切れが問題となってくる。「晩節を汚す」の言葉の通り、隠退時期を間違えると周囲に迷惑をかけることになる。その期限切れを、自からの意志で決定しなければならないのは大変である。社長定年制を考えなければなるまい。「天降り」の言葉は不遜であるが、これも厳正に自から律して欲しい事である。孔子の言葉に仁、信、恕がある。忘れられない言葉である。忘れてはならない言葉である。

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保质期限和消费期限


19年4月12日
保质期限和消费期限

东西都有保质期限。友人是卖点心的,所以我经常买生鲜点心,每次他都告诉我要注意保质期限。北廉仓松花堂卖的贡品羊羹,甜度控制地恰到好处,保质期是1天。而且大多每天上午就卖脱销。据说现在的顾客喜爱甜味比较含蓄的点心。
东西都有消费期限。点心厂家――老字号不二家的问题也出在这里。他们使用过期的原材料,触犯了行业规则(这里指公司内部守则)。虽然实际上并没有发现吃了不二家的点心生病或死亡的例子,但是他们违背公司内部守则的做法被媒体曝光,问题变大了。
几十年前,不二家有过差点被敌对收购的苦涩历史。当时不二家被迫高价买回了自己公司的股票。这次虽然没有被完全吸收合并,但是也是被比自己规格低的公司合并了。作为一个了解名门企业的人,对此实在感到非常遗憾。
东西就是如此有保质期限和消费期限。但是这个期限是由人的意志决定的。作决定时作为证据的数据和人们的经验都在起作用。
人也有保质期限和消费期限。今年我是满周岁,迎来了古稀之年。有生以来第一次收到了很多人的祝福。看看周围更是大吃一惊,超过70岁的现役总裁县内几乎没有,只有2、3个例外和一部分官僚。一直提倡“终生不下岗”的我,也不由对这一现实感到愕然。还有就是体力下降问题。前辈们都在忠告我要注意“健康”,说总裁应该把健康放在第一位。还有人劝我考虑眼睛、牙齿、等等的衰弱。
我们家世世代代都属于净土宗知恩院派,特别是对法然上人有着特别的兴趣,他坚持现役直到79岁。孔子被称为世界四大哲人之一,活了73岁,净土真宗的亲鸾享年90岁。这些思想家、哲人当然是终生没有下过岗。
但是在实业界、政界、官场,个人的保质期限和消费期限却成了问题。正如“玷辱晚节”这个词所说,搞错了隐退的时间给周围人带来麻烦。这个期限,得通过自己的意志决定。必须制定总裁退休制。“高官下凡”这个词虽然有点不逊,但是也希望有关人士在这方面严于律己。孔子讲究仁、恕、信三个字,这三个字令人无法忘记,也不应该忘记。

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フラトン市より8名のロータリーアンと家族を迎えて

平成19年4月10日
○フラトン市より8名のロータリーアンと家族を迎えて

 ロータリークラブの活動として27年間、私達の福井北ロータリークラブとアメリカロスアンゼルス郊外フラント市のフラトンサウスロータリークラブとが青少年交換留学を続けてきた。3年毎に調印式を日、米交互の地で行い、今年は10回目の調印式を福井市で行った。

 私も9年前フラトン市で行った調印式に、その年のクラブ会長として調印に臨んだ。殆んどのメンバーが奥さん同伴で渡米、久闊を叙した。

 ロータリークラブ同志の姉妹クラブを契機として、福井市とフラトン市が姉妹都市の契約にまで発展し、以来続いているのも珍しい。

 今年はシュワルツネッガー知事や上院議員等からのお祝いのメッセージも届いた。

 何よりもそのキズナを強くしているのは、お互いの国の子供達が家族と同じようにその後も交流を続けていることだ。会えば必ず子や孫の話題になる。まさに草の根運動である。

 一般のアメリカ人は、アメリカが世界だと考えている。日本なんて知らない人が多い。これは事実である。アメリカを歩いてみるとよくわかる。中華料理店はどこの町にもあるので、チャイニーズだろうといわれる。その中でフラトンの皆さんとは親戚なみのお付合いが続いている。奇跡である。

 今回の団長格で来日したロナルド・ニューウェル氏は1978〜1979年の会長である。私達が隔年渡米するたびにロス空港まで車で迎えにきてくれる。ロスから約2時間。その夜はメンバーの子息の経営するレストランで歓迎会だ、そして翌日公式訪問、その後はアナハイム、ディズニーランド、ハリウッド、南カリフォルニア海岸、野球場、博物館、美術館と好みに応じて案内していただく。同じように日本へ来てもらうと、日光、京都、金沢や福井の各地を案内して歩く。今回は福井で3泊4日。ワシントンホテル大宴会場での公式訪問、料亭山楽での歓迎会、そして芦原温泉のホテル八木での送別会ではメンバーの1人が感謝感激の涙の演説をしてくれて、参加者一同もらい泣きの一幕もあった。市長への公式訪問、前知事が館長を勤める国際交流会館への訪問、前副市長が館長を勤める歴史博物館への訪問、県内各地の観光地巡りと多彩な歓迎式調印式であった。

 私の弟の長男が南カリフォルニア大の大学院で博士号取得の為に数年間留学しているので、ロナルド・ニューウェルさんがまた夕食に招待してくれるとのこと。早速アメリカへメールを入れた。国境を越えた交流、友好が益々進むなか、お互いに協力し合っていけるものを見付けていくことが大切になってくる。日本から輸出した「寿司」が「アメリカンロール」となって日本へ帰ってきている。この寿司チェーン店を日本で大きくしたいと言っているのもロータリアンの1人である。まだ非力な私であるが、早く力をつけてお役に立てる日の来ることを願っている。 

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欢迎来自富勒顿市的8名扶轮社友及其家人


19年4月10日
欢迎来自富勒顿市的8名扶轮社友及其家人

作为扶轮社的俱乐部活动之一,27年来,我们福井北扶轮社和美国洛杉矶郊外的富勒顿市富勒顿南扶轮社一直在进行青少年的交换留学活动。并且每3年轮流在日本和美国举行签字仪式。今年的第10次签字仪式在福井市举行。
我9年前也曾经作为当年的俱乐部会长前往富勒顿市参加在那里举行的签字仪式。当时大部分会员都协同夫人一起去了美国,跟大洋彼岸的社友们畅叙阔别之情。
以扶轮社之间的姐妹俱乐部交流活动为契机,福井市和富勒顿市也发展成为姐妹都市,并且一直在坚持交流活动,也是弥足珍贵。
今年施瓦辛格州长、上议院议员等人士也为交流活动带来了祝词。
比什么都加强了双方这种联系的是两国的孩子们,他们也跟家长一样,后来也没有中断过交流。大家只要一见面也必然谈到自己的儿孙们,这正是名副其实的草根运动。
一般的美国人,都认为美国就是整个世界。对日本一无所知的人很多,这是事实。在美国街上走一走就可以发现,哪里都有中国餐馆,所以我们经常被人认为大概是中国人。在这种情况下,我们和富勒顿市的人们相处地跟亲戚一样,真是个奇迹。
这次作为团长来日本的罗纳尔・纽威尔先生也是1978〜1979年的俱乐部会长。每次我们隔年去美国时,他都会开车来洛杉矶机场接机,机场到洛杉矶大约2个小时。当晚必然是在会员的子侄们经营的饭店举行欢迎晚宴招待我们。接着第二天是正式访问,那之后是根据大家的不同喜好带领我们去安那罕(Anaheim)、迪斯尼乐园、好莱坞、南加利福尼亚海岸、棒球场、博物馆、美术馆等地观光。同样,他们来日本之后我们也会请他们参观日光、京都、金泽、福井等各地。这次活动安排在福井停留3个晚上4天。正式访问在华盛顿饭店大宴会厅举行,欢迎会安排在日本料理店山乐。在卢原温泉宾馆八木举行的欢送会上还出现了一名会员含泪发表表示感激感谢的演讲,惹得大家一起掉眼泪的动人场面。另外公开行程还有拜访市长,访问前市长担任馆长的国际交流会馆,参观前副市长担任馆长的历史博物馆,以及游览县内各地。这次的欢迎活动和签字仪式也安排地丰富多彩。
我弟弟的长子为了攻读博士学位这几年在南加利福尼亚大学院留学,罗纳尔・纽威尔先生听说之后表示要请他吃晚饭,我立即给侄子发了邮件。在超越过境的交流和友谊不断加深的过程当中,寻找双方可以合作的工作变得非常重要起来。从日本出口的“寿司”,变成了“美国卷”又回到了日本,一个社友说要把这个寿司连锁店做大。我的力量还远远不够,但是希望快点把自己变得更加强大,祈祷着为这一事业助一臂之力的那天的到来。

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京都

平成19年4月6日
○京都

 京都は千年の都といわれる。私の所属する福井北ロータリークラブは京都、奈良、滋賀、福井の4府県をカバーする第2650地区にある。その会員数、寄付総額、クラブ数等あらゆる活動で世界一の地区(会員数は最近愛知県全域をカバーする2760地区に抜かれることがある)といわれて久しい。活動の地域が広いので、中心の京都での会合が多い。

 また、私は同志社大学に学んだので、京都には特に思い出が多い。幼少の頃より父母に連れられて神社仏閣に参ったり、百貨店で買物をしたり、京都へ行く機会が多かった。早朝の汽車で出かけて夜遅く帰ってくる。1泊2日の旅となるともう嬉しくて寝られない。そんな記憶がある。

 京都の地図を広げて見て、母の系統の親戚、父の系統の親戚を捜してみた。その数が多いのに驚く。上賀茂神社の近く、船岡神社の近く、河原町今出川角、河原町三条角、河原町松原角、新町三条、南上総町、鳥丸鞍馬口と学生時代に厄介になったところばかりだ。

 下宿先もいろいろ移った。南上総町の親戚をふり出しに、下鴨で2軒、金閣寺前と、4年間で4軒の方々にお世話になった。

 現在の会社を設立した当初は、京都の南区に事務所を置いたが、その後鳥丸六角に移った。市内の管理駐車場(コインパーキング)もどんどん増えて100ヶ所に近付いてきた。年内には確実に120ヶ所を超えると思われる。女性専用30分間フィットネススタジオのビュート店の直営店も西大路の大将軍にオープンする予定をしている。

 同志社大学在学中にクラマ画会に所属し、その後OB有志の鞍馬画会に入会し、油絵を描いている。(今は殆んど描けない。時間と気力、体力不足?)その縁でこれまた京都を訪れる機会が多い。

 岐阜青年会議所のメンバーの頃、岐阜ロータリークラブの方々を師匠として、観世流謡曲を学ぶ「みなもと会」に入会し、謡曲をならった。その後福井で片山九郎右衛門師に学び、京都観世会館へは年に何回か能を観にいく。今は亡き白洲正子さんと隣席になり声を交したのが縁で、彼女と白洲次郎さん関係の本は殆んど読んでいる。今は片山清司さんの後援会に入れていただき、毎年の演能を楽しんでいる。父子の名演技は永久に残ると思われる。

 とに角京都と私の縁は幾重にもつながっている。そして「京都」というだけで、幼い頃のあの独特の胸のトキメキを覚える。春の桜、秋の紅葉は特にすばらしい。今その桜花爛漫の春の真っ最中である。この4月中旬、久しぶりに京都を訪れて、自然と古典芸術そして人情、京料理を堪能して来たいと考えている。

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京都


19年4月6日上
京都

京都素有千年古都之称,我所属的福井北扶轮社俱乐部属于统帅京都、奈良、滋贺、福井4个府县的第2650地区。这一地区的会员数、捐赠总额、俱乐部数量等所有活动都是世界第一的说法由来已久(会员数最近经常超过包括爱知县全县的2760地区)。这一地区因为活动地域广,所以经常在中心区京都聚会。
还有,我大学在同志社大学学习,因此有关京都的回忆也特别多。小时候经常被父母领着去参拜神社寺庙,或者去百货店购物,去京都的机会很多。记忆里,一般都是大清早坐车去晚上很晚才回来,而碰到住一晚上玩两天的旅行,会兴奋地睡不着觉。
我打开京都地图,试着寻找母亲家族和父亲家族的亲戚,对其数量之多感到非常惊奇。上贺茂神社附近、船冈神社附近、河原町今出川角、河原町三条角、河原町松原角、新町三条、南上总町、鸟丸鞍马口等等还都是学生时代打扰过的地方。
上学期间寄宿处也变了很多次。从最初的南上总町的亲戚家开始,下鸭有2家、还有金阁寺前的亲戚家、4年里共有4家的亲戚们照顾过我。
当初成立现在的公司时,京都的分店事务所设在南区,后来又迁到了鸟丸六角。京都市内我们经营管理的停车场(投币式停车场)不断甓叩だ楸100个,年内将切切实实超过120个。另外公司直接经营的专门面向女性顾客的30分钟健美俱乐部“美拓”也将在西大路的大将军开张。
同志社大学在学期间我加入了“鞍马画会”俱乐部,后来又加入了毕业生志愿者鞍马画会,进行油画创作。(现在几乎什么也画不了,是时间、精力和体力不足吗?)因为这个缘分,我又甓知思迷慎邉都的机会。
做岐阜青年会议所成员期间,我拜岐阜扶轮社俱乐部的各位成员为师,并加入“源之会”俱乐部,跟他们学习观世流能剧谣曲。后来在福井又随从片山九右卫门大师学习,而且每年都要去京都观世会馆看几次能剧的演出。有一次坐在白洲正子(现在已经成为故人)的邻座,有机会跟她交谈,又因为这个缘分,有关她和白洲次郎的书我绝大部分都读过。现在我又加入了片山清司后援会,每年欣赏他的能剧演出,相信父子俩的名演技会常驻人间。
总之,我跟京都的缘分千丝万缕地联系在一起。甚至只要一提起“京都”这两个字,就能感觉到小时候那种独特的心潮起伏的情感。特别是春天的樱花、秋天的红叶更是美不胜收。现在正是樱花烂漫的时节,这个月中旬,我要去看看久违了的京都,尽情享受京都的自然和古典艺术、京都浓浓的人情和料理。

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笑顔が最高

平成19年3月30日
○笑顔が最高

 美しく生きたい。優しく生きたい。生き生きと生きたい。共に生きたい。人はみな思っている。その時「笑顔」が生まれてくる。笑顔は太陽のように光り輝き、まわりを明るくする。自分をも朗らかにする。

 子供の無垢の笑顔は最高だ。そして家族の笑顔も。職場の笑顔も、そしてあなたの笑顔も。

 笑顔は美しい。働く人は美しい。笑顔で働く女性は最高だ。そんな女性は会社の宝だ。そんな女性は家族の宝だ。そして世の光である。

 子供に元気をあげよう。それは「笑顔」の尊さを教えることである。子供はあなたの「笑顔」で元気になる。あなたは子供の「笑顔」で元気になる。

 暗い人、消極的な人、否定的な考えが先に来る人、一度「笑顔」の絶大な効用を試してごらんなさい。今日一日でよい。会う人すべてニコニコと、ニッコリと、笑顔で挨拶することにしよう。今日からあなたの人生は変ります。自分の人生、たった一回キリしかない大切な人生、その大事な、貴重な一日一日をもっと丁寧に生きよう。

 目をキラキラさせて、美しい笑顔で、優しい笑顔で、この困難な、この厳しい現実を乗り越えていこう。

 笑顔があなたを救ってくれます。あなたの笑顔があなたを救ってくれます。そしてまわりのみんなもあなたの笑顔で救われるのです。

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笑容至高无上


19年3月30日
笑容至高无上

美丽地活着,温柔地活着,神采奕奕地活着,共同活着。人们这样想时,脸上就会浮现出“笑容”。笑容好像太阳一样光芒四射,照亮周围,也使自己明朗起来。
孩子无邪的笑脸是至高无上的,家人的笑容也一样。工作单位同事们的笑容,还有你的笑容都是无与伦比的。
笑容是美丽的,工作着的人是美丽的,带着笑容工作的女性更是最美丽的。这样的女性是公司的财富,也是家人的财富,同样也是世界的光彩。
给孩子们以鼓励吧,教给他们“笑容”的尊贵。孩子因为你的笑容而变得充满活力,你也因为孩子的笑容而变得精神百倍。
阴郁的人、消极的人、首先进行否定思考的人,不妨体验一下“笑容”的极大效果。只需今天一天就可以,露出笑脸对见到的每一个人打招呼。从今天开始你的人生一定会改变。自己的人生,只有一次的宝贵人生,让我们更加认真地度过人生中重要、珍贵的每一天。
让我们以闪闪发光的眼睛,美丽的笑容,温柔的笑容、超越这严峻的现实。
笑容会拯救你,你的笑容会拯救你自己,不但如此你周围的人也会因你灿烂的笑容而得救。

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イラクは地獄

平成19年3月29日
○イラクは地獄

 イラクの現状はまさに泥沼。アメリカは引くに引けない。宗派の対立は極限に達しつつある。毎日テロで無関係の民間人が犠牲になっていく。世界中のマスコミの目が注がれている。しかし地獄のような、最悪の状態のイラクでさえ、戦場と化したイラクでさえ、毎日100人もの死者は出ていない。

 日本の現状を直視しよう。世界一安全で、世界一平和なはずの日本で、毎日100人もの人が死んでいっている。自殺者の数である。みずから命を絶つ人の数である。イラクの人達はテロに殺される人達である。日本の人達はみずからを殺す人達である。

 日本は病んでいる。日本の社会は病んでいる。私達自身が何か重大な誤ちを犯しているのだ。

 教育も問題だ。家庭崩壊も問題だ。道徳は地に落ちた。連綿と続く日本民族の歴史の中で、今日ほど悪い状態はない。そして困ったことに、誰もこの事を問題にしない。イラクの報道は毎日伝えるが、マスコミもこの大問題を社説に取り上げ、一大キャンペーンをはる所はない。

 交通事故死の5倍ほどの人達が、悩み乍ら、追いつめられて死を選んでいる。何が彼等を追いつめたのか、まずその分析から入り、無自覚の私達の蒙を啓き、世の光となるマスコミの姿を渇望している。強力なリーダーシップを発揮して政治の流れを変える政治家を待っている。熱血教師よ、立ち上ってほしい。そして暖かい、優しい家庭、思いやり、助け合いの社会を作っていこう。

 日本は今、イラクよりも深い地獄の状態にある。

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伊拉克是地狱


19年3月29日
伊拉克是地狱

伊拉克的现状正如泥潭,美国想下台却下不了台。宗派的对立正逐渐达到极限。每天都有无辜的平民因恐怖行动而牺牲。全世界的媒体都在关注伊拉克。但是,即便是处在地狱般的、最恶劣状态下的伊拉克,就算是化为一片战场的伊拉克,死者也没有达到每天100人。
而直面日本的现状,本应该是世界第一安全,世界第一和平的日本,每天竟然有100人死亡。这是自杀者的人数,即每天亲自断绝自己生命的人的数字。伊拉克的人们是被恐怖行动所杀,但是日本人却是自己杀死自己。
日本在生病,日本的社会在生病。我们自身在犯着什么严重的错误。
教育也是问题,家庭解体也是问题,还有道沦落。连绵延续的日本民族的历史中,没有比今天的状况更糟糕的了。更令人担心的是谁也不把这件事情当作问题来看。伊拉克的报道每天都会传来,但是媒体对于自杀者这个大问题却既没有提高到到社论上来谈,更没有哪个地方开展什么大的活动。
大约相当于交通事故死亡人数5倍的人们,烦恼,并且被逼迫地走投无路而选择死亡。是什么在逼迫他们?首先应该从分析这一点着手,以开启我们毫无自觉地蒙昧。我渴望着看到作为世界之光的媒体的姿态;期待着能够发挥强有力的领导才能,改变政治潮流的政治家的出现;满腔热血的老师们,站起来吧。让我们共同创造温暖、和睦的家庭,建设互相体谅、互相帮助的社会。
今天日本处于比伊拉克更深刻的地狱状态。

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美しいもの

平成19年3月28日
美しいもの

 人は誰でも美しいものにあこがれる。美しい人、美しい心、美しいものの数々。世に美しいものは満ちあふれている。その美しいものを見、美しいものを聞き、美しいものを味わい、美しいものを得ることによって、私達は喜びを感ずる。

 友人に呉服屋さんがいる。人間国宝の方々が作った和服を店に飾っている。見るだけで惚れ惚れする美しさだ。

 友人に和紙作家がいる。彼の創作する越前和紙を使った作品は深く、静かに何かを語りかけてくる。
友人に染色や織物を作っている人がいる。藍染が私は特に好きだ。藍の香りとその風合い、太陽の光の下で青空のように輝く木綿の藍染は私を幸せにしてくれる。

 友人に画家が多い。若い頃、私も画家志望であった。そのせいで未だに多くのプロの画家とのお付合いがある。

 陶芸、漆芸、木工芸、あらゆるジャンルの作家の方々を通して「美しいもの」との出合いのチャンスをいただいている。「美しい心」「美しい人」との出合いをいただいている。まさに一期一会の出合いである。
 美しいもの、美しい心、美しい人の裏側にその反対の世界が広がっている。私達の怖れる、醜い反社会的な世界である。私達の心の中に、この美しい世界と醜い世界は同時に存在する。人は一瞬にして、美しい世界から汚濁の世界へ移ってしまう。美しさと醜さは表裏一体なのである。ピカソのゲルニカや女の顔を美しいと見るか、醜いと見るか、人それぞれである。またその時その時によって感じ方は変ってくる。

 私は常に自分に言い聞かせている。この世界を美しいと見るのも、醜いと見るのも自分次第。絶望しても何の得にもならない。希望をもって少しでもまわりを美しくする為に今日一日努力しよう。目の前を地獄と見れば地獄、極楽と思えば極楽。私の同志社の恩師、キリスト者の小野高治先生は「死ね、死ね、死ね、さらば生かされん」と説かれた。般若心経の締めくくりの言葉は「行け、行け、行け、共に行け、さらば彼岸に達しよう」とある。美しいものを追い求め、美しい心を捜し求める旅を続けよう。

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美好的事物


19年3月28日
美好的事物

人们都向往美好的事物。美好的人们、美好的心灵、美好的东西,世上充满了美好的事物。欣赏,倾听,品尝这些美好的事物,通过得到美好的东西我们感到喜悦欢欣。
我有友人,经营和服店,他的店里装饰着人间国宝们制作的和服,那是让人只要看一看就心旷神怡的美。
亦有身为和纸作家的友人,用他创作的和纸制作的作品,会深深地、静静地向你诉说什么。
我有友人,从事染色和纺织。我特别钟爱蓝染,蓝的芳香和味道。而木棉蓝染有如阳光下光辉四射的青空,让我幸福。
我也有很多当画家的友人。我年轻的时候,也想当画家。因为这个原因现在还和很多专业画家保持着交往。
通过从事陶艺、漆艺、木工艺等各种艺术的作家们,我得到了跟“美好的东西”相遇的机会;同时也得以邂逅“美好的人们、美好的心灵”。这些都是一生只有一次的难得的相遇。
在美好的东西、美好的心灵,美好的人们的背面延伸着一个相反的世界。那是一个我们感到恐怖和丑恶、反社会性的世界。我们的心中、美好的世界和丑恶的世界同时存在。人会在一瞬之间,从美好的世界转向污浊的世界。美好和丑恶互为表里。毕加索的格尔尼卡和女性的脸是美还是丑,因人而异,各不相同,不同时间的感受也会发生变化。
我经常对自己说,觉得这个世界是美好还是丑恶完全取决于自己。如何绝望都不会有什么好处,不如满怀希望为了把周围变得美好一点今天一天也不懈努力。觉得眼前是地狱就是地狱、认为眼前是乐土就是乐土。我同志社大学的恩师、基督教信徒小野高治老师曾说“死亡、死亡、死亡,如此才可以重生”。般若心经的结束语也写道“前行、前行、前行、一起前行,如此才能够抵达彼岸”。让我们继续追求美好的东西,寻找美好的心灵之旅吧。

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夢を夢見る

平成19年3月23日
○夢を夢見る

 夢について語りたい。夢を持つことは人生を豊かにする。毎日の生活を楽しくする。夢は勇気を与えてくれる。恐怖を忘れさせてくれる。夢はエネルギーだ。夢によって一歩前進が出来る。

 子供の頃、若い頃、人は多くの夢を持っている。その夢を実現する為に学び、努力する。そして壁に阻まれ、失敗し、挫折する。また次の夢に向って同じように学び、努力する。「壁」や「失敗」を乗り越えた人が夢を実現する。それはいくつもの壁や失敗から学ぶことが出来るからである。

 「サルでも反省する」というキャッチコピーがある。「烏でも学習する」も使えそうだ。私達は人から学ぶと同じように、自分の行動や思考の誤謬から、多くのことを学ぶことが出来る。歴史を紐解いてみるのも、大変参考になる。そこには鉄則があり、神仏の意思すら感じとることが出来る。

 「夢」が大きければ大きいほど、その人の人生は大きくなる。「志」が高ければ高いほど、その人の人生は崇高になる。志を高く、夢を大きく、そして小さな第一歩を、勇気を出して今日もまた踏み出していきたい。

 人生は茨の道もある。いや茨の道こそ人生だ。その茨の道をいきいきと元気に歩いていく為には、苦難を乗り越える勇気と忍耐が必要だ。それを持つには「夢」があればよい。夢は常に自分と共にある。誰もこの聖域を犯すことは出来ない。「夢」を夢見て、「夢」を育んで生きていきたい。目的は自分の為でない。「十方よし」の精神である。自分以外のすべての人の為に生き抜くことが出来たら幸いだ。ここで、この仕事で、今、全力で生きていきたい。

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梦想


19年3月23日
梦想

我想给大家谈一谈关于梦想的话题。梦想使人生丰富,给我们每天的生活带来快乐。梦想给予我们勇气,让我们忘却恐怖。梦想是动力,拥有梦想我们会迈步向前。
孩提时代,青年时代,我们都拥有很多的梦想。并且为了实现这些梦想而学习,而努力。碰到墙壁的阻碍而失败、而挫折。但是我们还是会向着下一个梦想同样地学习和努力。超越了“墙壁”和“失败”的人才会实现自己的梦想。因为我们可以从多次的碰壁和失败中学习和汲取教训。
有句广告词说“猴子都会反省”,同样“连乌鸦都知道学习”也可以用。同从他人身上学习一样,我们从自己的行动或思考的谬误里,也可以学到很多东西。翻阅历史,也可以得到很多参考。那里有铁的法则,甚至可以感觉到冥冥中的天意。
“梦想”越远大,人生就越伟大。“志向”越高远,人生就越崇高。今天我也要向着高远的志向,远大的梦想,勇敢地踏出小小的第一步。
人生也有荆棘路,不,应该说充满荆棘的道路才是人生路。要想快乐精神地走过这条荆棘路,需要有超越苦难的勇气和忍耐。而拥有梦想就可以充满勇气和善于忍耐。梦想与自己同在,谁也无法侵犯这一圣地。人生要有梦想,并且不断培养梦想。人生的目的不应该是为了自己,要有“我为人人”的精神。能够为了自己以外的他人而度过一生是幸福的。现在我将为了此时此刻,目前的工作全力以赴。

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優しさについて

平成19年3月20日
○優しさについて

 「男は度胸、女は愛嬌」といわれる。私も社員教育の時によく使う言葉である。物事を始める時、人は必ずためらう。その躊躇する気持ちを乗りこえる力が度胸である。勇気である。女性の魅力は姿形ではない。美人とは愛嬌のある女性である。笑顔が美しい女性である。笑っている女性ほど美しい人はいない。笑っているすべての女性は美しい。

 笑顔はコミュニケーションのスタートである。多民族国家のアメリカの町を歩いていると、人通りの少ない道で女性とすれ違う時に、必ず笑顔で挨拶される。黒人男性と会っても同じである。思わずドキッとする。私達は見ず知らずの人に町ですれ違った時、笑顔を見せることはない。しかし明るく挨拶をすることはある。特にハイキングの時や山登りの時などはしばしば声をかけ合う。人が人に意志を伝えるのにこの笑顔は重要な役を果たしてくれる。

 「ロータリーの友」という会員向の月刊誌がある。その3月号に、南米ボリビアで宣教師をしている倉橋輝信さんの記事が掲載されている。偶然私と同じ1937年生れで国民学校3年生で終戦を迎えた。戦後の食料難は厳しかったが、私は祖父が僅かの農地を耕作してくれたお蔭で、飢えることはなかったが、乏しさの中、みんなが助け合い励まし合って生きていた記憶が強い。倉橋さんは父が戦死というハンディの中を生き抜かれ神父への道を進まれたとのこと。

 最近の私達は、戦後のドン底の頃にさえ、みんなが持っていた「優しさ」を見失っているようだ。倉橋さんのミサの司会の話の中にこの「優しさ」が出てくる。明治初期にお雇い外国人として日本へ来た動物学者モースが「貧しい少女に小銭を渡し、何を買うのかを観察しようとしたところ、少女は道端で物乞いをしている三味線ひきの箱にその小銭をそっと入れた。」と書かれている。明治初期の少女の行動、太平洋戦争後の混乱の時代、私達は人間として最も大切な「人への思いやり、優しい心」を持っていた。「優しさ」についてもう一度考え直してみたいものである。僅か50年前、100年前に私達が持っていた世界一の美風「優しさ」を表わすピッタリとした英語も中国語も韓国語もない。これは和語である。平安時代に女性が書いた世界一の叙情詩「源氏物語」や「和歌」を彩る和語なのである。

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关于善良


19年20日
关于善良

俗话说“男要勇,女要娇”,这也是我培训员工时经常用的一句话。人们在开始新事物的时候,一般都会踌躇不决。超越这种心情的力量就是胸襟,就是勇气。女性的魅力并不在于外表,所谓美女指的是可爱动人的女性,指的是有着美丽笑容的女性。没有比笑容满面的女性更美丽的人,所有绽放着笑容的女性都是美的。
笑容是交流的开始。走在多民族国家美国的大街上,即便是在行人稀少的路上跟女性擦肩而过,也会被微笑着致以问候。遇到鄂傭棒也一样,令人不由吓一跳。而我们一般不会对街上擦肩而过的陌生人露出笑脸的。不过有时候会大声打招呼,特别是在郊游或登山时,会经常互相打招呼。人向别人传达自己的意志时笑容会起到非常重要的作用。
扶轮社面向会员的月刊《扶轮社之友》,3月号上刊载了在南美的玻利维亚做传教师的仓桥辉信先生的事迹。非常偶然的是仓桥先生同我一样生于1937年,在国民学校3年级时迎来了战争结束。战后食品短缺现象相当严重,幸亏有祖父耕种了一点农地,才不至于挨饿。但是在物资匮乏的年代,大家互相帮助互相鼓励顽强生活的情景,深深留在我的记忆里。仓桥先生是跨越父亲战死的悲哀走向了神父之路的。
最近的我们,却好像迷失了就连在战后最底层的时候,大家都没有忘却的“善良”。有关仓桥先生主持的弥撒当中可以看到这种“善良”。明治初期作为雇佣外国人来到日本的动物学家莫斯曾经写道“我把零钱送给贫穷的少女,想观察她会买什么。只见少女悄悄地把钱放进了路边弹三弦的乞丐前面的盒子里。”明治初期的少女的行动,太平洋战争之后的混乱时代,我们都保留着作为一个人最重要的“体谅他人,温柔善良的心”。我想我们应该再次重新认识“善良”。仅仅在50年前、100年前我们还拥有的世界第一美“善良”,不管是英语还是汉语或是韩语里都没有能够恰到好处地表达这个词的对应语。这是我们固有的和语。是曾经为平安时代的女性所写的世界第一部叙事抒情诗《源氏物语》着色,为和歌辉的和语。

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新たな第一歩を

平成19年3月19日
○新たな第一歩を

 すべての物事には始まりがあり、そして終りがある。昭和20年代から40年頃まで(1945年〜1965年)の私の少年時代から青春時代には娯楽があまりなかった。本を乱読するか、草野球をするか、友人とダベル等といったことが多かった。その中でひときわ光彩を放っていたのが映画である。

 映画は2本立、3本立が多く、映画鑑賞は趣味の中でも堂々の1位といわれていた。日本映画も外国映画もすばらしかった。ハラハラ、ドキドキや恋愛もの、ミュージカルすべてが当時の現実を超えた夢物語だった。よい映画は何度も大枚をはたいて見にいった。そして銀幕の最後に「終」「end」「fin」の字と共に夢の世界から、元の現実に引き戻される。観客(満員が多かった)のザワザワとした音や声と共に映画館から外へ出る。その瞬間はまさに浦島太郎が玉手箱をあけたような感慨をおぼえる。「終った」という実感である。その当時の私にとって、これ程明瞭に「始まり」と「終り」を実感させてくれたものはない。

 そして「終り」は永遠の「終り」ではなく、また次への「始まり」なのだということも併せて教えられた。来週は何を見ようか、松竹、東宝、東映、日活等の邦画各社、メトロ等の外国系の各社がしのぎを削っていた。

 人との別れも鮮烈な「終り」の印象を与える。私は家族の内、祖母を大学受験の年に失い、次に寝食を共にした祖父、そして次に母の実母、そして父、そして最初の妻、母の順に辛い別れをした。しかし終りは始まりであることも教えられた。どんな悲しみも苦しみも必ず去っていく。一日一日、一年一年、努力を積み重ねていくことであらゆる困難、苦難を乗り越えることが出来る。

 人生はマラソンであると同時に、リレーである。バトンを次に渡すまで走り続けるのである。バトンを確実に渡された時が「始まり」である。バトンを渡し終えた時が「終り」である。渡された者にとっては新しい第一歩が始まる。

 私は最初の妻に先立たれた時、息子2人と共に泣いた。これ程の辛い別れがあろうかと。それから数年良縁があって現在の妻と結ばれた。家族で切りひらく新しい世界があった。今度は息子達にとって「新たな第一歩」を力強く始める時である。期待をこめて見守れることに感謝したい。

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新的第一步


19年3月19日
新的第一步

所有的事物都有开始和结束。昭和20年代到40年代(1945年〜1965年),刚好也是我的少年时代到青春时代。那时候几乎没有什么娱乐,博览群书、业余棒球、或者跟朋友们闲扯就是最普遍的娱乐了。在这种情形下电影大放异彩。
电影通常都是连着放2部或者3部,电影欣赏在人们的兴趣当中赫然占据了第一位。不管是日本电影还是外国电影都很精彩。悬疑、惊险、爱情故事、音乐剧所有的电影都是超越当时现实的梦想故事。对于好的电影我总是不惜重金要去看好几次。随着银幕上最后打出“终”、“end”、“fin”,的字幕,从梦想的世界,被拉回到现实。随着观众们(大多情况都是满员)噪杂声,走出电影院。那一瞬间的感觉就像浦岛太郎打开玉手箱时候的感慨。那是一种“结束了”的真切感觉。当时的我还从来没有真正经历过如此明了的“开始”和“结束”。同时这种经历还教会了我“结束”并不是永远的“结束”,同时也是走向下一步的“开始”。下一周看什么呢?松竹、东宝、东映、日活等本国电影公司的,还是去新城等外国各家公司电影院去看,很快我们又在争论不休了。
跟人的告别也给了我强烈的“结束”的印记。在家人当中,我在考大学那年失去了祖母,接着是共同生活的祖父、母亲的母亲、父亲、我的第一位妻子、母亲,我依次跟这些亲人痛苦告别。但是,与此同时我也又一次体会到了“结束也是开始”的道理。多大的悲伤和痛苦都必将远去,日复一日,年复一年,只要不断努力就能够超越所有的困难和苦难。
人生是马拉松,同时又是接力赛。直到把手上的接力棒传给下个人为止每个人都要坚持奔跑。接到接力棒时是“开始”,交接完接力棒时是“结束”。对接到接力棒的人来讲则意味着新的第一步要开始了。
第一位妻子先我而去时,我和两个儿子抱头痛哭,没想到世间竟然有如此令人肝肠寸断的离别。只是数年之后我又遇见好缘分,跟现在的妻子结合,拥有了跟家人共同开创的新世界。现在对儿子们来讲是勇敢开始“新的第一步”的时候。我对他们满怀期待,同时又深深感谢能够照看他们启程。

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扉をたたけ、さらば開かれん

平成19年3月12日
○扉をたたけ、さらば開かれん

 キリスト教の神との対話は、扉をたたくことから始まる。扉をたたかなければ、その扉は永遠に開かれないのである。仏教においては、禅宗は自力本願という。自から修行し悟りを開く為の修行や作務を懸命にやった後に、仏との対話が始まる。浄土宗や真宗では南無阿弥陀仏と唱えることにより成仏できるといわれる。神道では二拍手で神が現われ祈りが通じる。

 あらゆる宗教において、神仏との対話は手続きを必要とする。手続きは神仏へ近付く為の手段であり、行動であり、意志表示である。この行動を起すかどうかで、すべての事柄は変化してくる。即ち待つだけでは何の変化も現われてこないということになる。行動する、実行することによって、まわりの条件や環境が変化する。そこにチャンスが生まれてくる。そしてそのチャンスをものにする為の挑戦を始めることが可能になる。

 世の中を変えることは、そんなに難しいことではない。公私混同がうるさくいわれる時代となったが、私は公私の私はない生活を長年に亘って行ってきた。

 後継者たちに伝えたいことは、「私利私欲で動く人間になるな」ということである。出来れば公の為に私を限りなくゼロに近付ける努力を生涯続けてほしい。「子孫に美田を残すな」とよくいわれる。私は美田を残すなど不可能であるが、自からの私利私欲を捨てて、他人の為に生きることに全身全霊を傾けてきた。そして大切なことは扉をたたくこと。即ち勇気をもって挑戦することである。ベンチャースピリッツは「夢への挑戦」である。物質や金銭の目標にとどまることなく、もっと大きな「公僕への道」を歩んでいってもらいたい。

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去敲门,不然门不会开启


19年3月12日
去敲门,不然门不会开启

在基督教中,和神的对话开始于敲门。如果不敲,那扇门永远不会开启。佛教里,禅宗讲究自力本愿,自愿修行,为了开悟努力修行,作务,然后才能开始同佛的对话。净土宗和真宗则主张念诵南无阿弥陀佛可以成佛。神道里,两拍手之后神灵才会显现,祈祷方可通达。
在所有的宗教里,和神佛对话都需要手续。这个手续就是接近神佛的手段,行动,和意向表示。行动还是不行动,所有的事情都会因此发生变化,即一味等待任何变化都不会出现。只有付诸行动,实际施行,周围的条件、环境才会变化。机会也才会由此产生,也才有可能开始挑战,把机会变为现实。
改变世界其实并不难。时代已经越来越难以容纳公私混同,而我多年来一直过着没有公私的“私”的生活。我想告诉后继者们一句话,那就是“千万不要成为为了私利私欲工作的人”。可能的话要坚持毕生努力为了大公使小私无限制地接近于零。人们常说“不要给子孙留下良土美田”。虽然我不大可能留下良田美宅,但是为了他人我舍弃私利私欲,倾注了全部身心。最重要的事情是敲门,即拿起勇气挑战,风险投资创业的精神就是“向着梦想挑战”。不要停留在物质或者金钱的目标上,而是朝着更大的“公仆之路”前进。

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私の祖先は息長氏?

平成19年3月9日
私の祖先は息長氏?

 日本人は単一民族であるといわれる。本当にそうなのか。確かに日本語を話す。独自の和語といわれる言語や漢字、ひらがな、カタカナ文化を共有している。西洋人から見ると「全員が同じように見えて区別がつかない」といわれる。しかし日本に長く住むと変ってくる。「千差万別の顔をしている」という。

 日本の縄文遺跡は、全国に亘っておって数が多い。しかし残された縄文遺跡の中身はかなり違う。北方系、南方系、大陸系、半島系と石器時代、縄文時代から弥生へ、そして古墳時代に入っても人口の流入が続いていたようだ。原住民かといわれる熊そ、アイヌの人達とエスキモー、白系ロシア人、モンゴル人、南方海洋系そして中国大陸から朝鮮半島を経てきた人との混血が、今日の日本人のルーツと思われる。

 それぞれの住む地域は、地形に左右される。かつての国名で言ったほうがわかり易い。僅か100年以前まで使われてきた地名である。近江、伊勢、美濃、飛騨、尾張、加賀、越前、若狭、山城等である。その国と国の境界は高い山や大きい川によって区分されている。ある意味では別世界である。別の国である。これは地形によって小国に分かれ、永い間農耕社会の中で域内重視の生活が営まれてきたことを表わしている。

 私の一族の遠い祖先は西江州から長浜へ来たと言い伝えられてきた。西とは今津か高島(三尾)かマ
キノか。山は野坂山地が広がり、敦賀には野坂岳がそびえている。近江はかつては謎の氏族といわれる息長氏が勢力を持っており、皇室との関連も深い。今年即位1500年が祝福されている継体天皇の父彦主人王は近江の豪族息長氏の出と思われる。また長浜は坂田大俣王の地でもあった。ともに継体天皇家へ娘を嫁がせている。伊吹山周辺から西江州、敦賀にかけて息長氏の永年に亘る影響と、渡来系かといわれる出自を辿っていくと朝鮮半島南部へと視線は移っていく。私は今、継体天皇に関する出版物を集めている。私の社長室はそれ等の書籍で一杯である。

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我的祖先是息长氏?


19年3月9日
我的祖先是息长氏?

日本民族向来被称为单一民族,真得如此吗?确实大家都说日语,共同拥有独特的和语和汉字、平假名、片假名文化。从西洋人的眼光来看“大家看起来都一样,没有区别”。但是如果长期住在日本看法就会改变,得出其实“大家长得千差万别。”的结论。
日本的绳纹遗迹遍布全国,数量众多。但是这些保留下来的遗迹其实际内容也互相差别很大。北方系、南方系、大陆系、半岛系,从石器时代、绳纹时代到弥生时代包括进入古坟时代之后,人口流入一直在持续。一般认为有可能是土著居民的熊袭、阿伊努人和爱斯基摩人、白系俄罗斯人、蒙古人、南方海洋系以及从中国大陆经朝鲜半岛来的人不断混血,形成了今天的日本人。
我们曾经一直被所在的地区和地形所左右。这点也许拿过去的地名进行说明更加容易明白。这些地名仅仅在100年前都还在使用。近江、伊势、美浓、飞騨、尾张、加贺、越前、若狭、山城等等。界线由高山大河区分,从某种意义上来讲各自自成一体,就像不同的世界,不同的国家。这表明日本长期以来因地形分成一个个小国,一直过着农耕社会重视地缘的生活。
据说我的远祖是从西江州来到长滨的。这个西是今津还是高岛(三尾)抑或牧野?至今野坂山地依然横亘于滋贺和福井之间,敦贺也耸立着野坂山。而在近江谜一样的氏族息长氏曾经长期得势,跟皇室的关系也极为深厚。继体天皇今年就要迎来即位1500周年,如今正在受到各界的祝福,他的父亲彦主人王很可能就出身于近江豪族息长氏。另外长滨也是坂田大俣王的出身地。这两家都把女儿嫁给了继体天皇。从息长氏多年来对伊吹山周边到西江州、敦贺所拥有的影响力,以及据说是外来户的出身一直追究下去,我的视线逐渐向朝鲜半岛南部移去。
现在,我正在收集有关继体天皇的出版物,我的办公室满满的都是这些书籍。

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天よ艱難辛苦を我に与えたまえ

平成19年3月8日
○天よ艱難辛苦を我に与えたまえ

 福井大空襲が1945年7月19日、福井坂井大地震が1948年6月28日。福井は二度にわたる壊滅を経て、廃墟の中から再生した。そして不死鳥のようによみがえった。フェニックス都市といわれる由縁である。地震に関する記事を集めていたら、友人から数多くの資料の提供をいただいた。そして読み進むうちに不思議なことに気付いた。それは悲惨な状況、最悪の事態の中で人間の発揮するすばらしい「復元力」である。これは生半可な状況では生まれてこない。しかし、最低の状態の中で突如沸き出てくる不思議なパワーである。

 地震の逸話の中で注目したのが、手術を目前に控えた父親が、家族の被災を知って急変し手術をせずに退院し復興に励んだという話である。

 私の妹は阪神淡路大震災の時、芦屋に住んでおり、家屋全壊の下敷きとなり、その中から1時間後自力で這い出してきた。約1ヶ月余り声を失い心配したが、復興の先頭に立った。その後失った声も戻り今は元気に暮らしている。

 アメリカの話であるが、ガンのため余命いくばくもない重病人が、看病してもらっている妻によりかかり、ふと窓を見ると、飛行機が目の前の湖に不時着した。ボランティアレスキュー隊員であったので、使命感をゆすぶられ救助に向った。今迄死にそうであった人が湖に沈んだ人を救助できるなど妻には考えられなかったが、どこから出てくるのか不思議な力が沸いてきたかのように夫はボードで救助に向った。そして湖の底からけが人を救助し救急病院まで搬送し集中治療室でその人の命を救った。気がついたらガンが治っていた。

 どの話も最悪の状態に置かれると人間はとてつもない力を発揮できるということである。苦しみを友とし、日々努力を続ける人に喜びや幸せが与えられる。そう思うと「天よ艱難辛苦を我に与えたまえ」といった先人の至言に感銘を受けるのである。

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上天啊,请赐给我艰难困苦


19年3月8日
上天啊,请赐给我艰难困苦

1945年7月19日福井大空袭。1948年6月28日福井坂井大地震。福井经历两次毁灭,又从废墟中顽强再生,像火凤凰一样复苏。这就是福井被称为火凤凰之城的缘由。最近我说要搜集有关地震的报道,结果友人提供了很多资料给我。读着这些资料我开始意识到一种不可思议的现象。那就是人们处在悲惨的情况,最恶劣的事态中时所发挥出来的“复原力”。这是一种在模棱两可的情况下不会产生,但是在最危急的状态下却会喷涌而出的不可思议的力量。
有关地震的逸事中最引人注目的故事是:马上就要动手术的父亲,得知家人受灾之后立刻改变主意没有上手术台而是办了出院手续努力重振家园了。
我妹妹在阪神淡路大地震时正住在芦屋,被压在了倒塌的房子下面,结果1个小时之后她凭自己的力量爬了出来。之后大约失声了一个月,我很是担心。但是她却站在了复兴家园的最前面,不久之后声音也恢复了,现在还健康地活着。
另外还有一件发生在美国的事情。因为癌症眼看活不了多久的重病患者,有一天靠着看护自己的妻子,忽然朝窗外一看,看到一架飞机正向眼前的湖里紧急降落。他本来是志愿急救队员,强烈的使命感驱使他去救人。他的妻子根本没有想到临死的人能把沉在湖底的人救出来。但是此刻他的身体里好像涌现出一种不知来自何处的神奇的力量一样开着快艇去救人了。结果他不仅从湖底救起了受伤的人并送到了急救医院,在医院的集中治疗室那个人得救了,而自己的癌症竟然也不知不觉地好了。
每个故事都说明人们处在最恶劣的情形下时能够发挥出不同寻常的力量。所以以苦为友,每天坚持努力一定会得到快乐和幸福。如此一想不由对前人“上天啊,请赐给我艰难困苦”的至理名言感动万分。

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30歳台の女性映画監督達

平成19年3月2日
○30歳台の女性映画監督達

 戦後焼け跡世代といわれる昭和2ケタ生まれ(昭和10年から昭和20年までに生まれた年代の層)の者にとっては、映画は最高の文化であった。唯一無二と言ってもよい。街角には絵かきのアルバイトで手書きされた大型ポスターが貼り出され、続々とヒーロー、ヒロインが誕生していた。そして映画俳優や女優を自由に操る「監督」の姿は羨望的であった。一流大学を出ても、助手から助監督を経て監督になるには数十年を要した。まして女性監督など夢想だに出来なかった。

 ところが最近になって、映画の製作費が見る見る下ってきている。カメラの小型化と高性能化。そして、ビデオの普及による編集の簡易化である。この新しい波に乗って登場してきたのが若い行動派の女性映画監督達である。殆んどが30歳台。今、彼女等の手によって日本映画が変りつつある。

 時代は止まることなく、年々歳々必ず変っていく。しかし私達は変化を恐れる。変らないことを願う。変化に対応するのは骨が折れるからだ。出来れば何事もなく変らないよう願う。しかしダーウィンの言葉の通り、「変化にすばやく対応できるもののみが生き残れる」のである。変化を恐れてはならない。変化にすばやく対応することを考え実行するのだ。「変えること」と「変えないこと」の二つの選択があれば、私は必ず「変えること」を選ぶ。変化は変化を呼び、新しいステージへ私を導いてくれるからだ。

 30歳台というこれからの人達。そして今一番元気な女性。日本映画の未来は間違いなく明るい。映画を見なくなって数年になる私であるが、今年はぜひ見にいきたい。

 福井県は海・山・川の変化に富んだ自然環境がある。そして日本独特の緑の天地がある。広い平野。山あいの渓谷、扇状地、海岸に迫る山々、入り組んだ海岸線など、ロケに適した場所に事欠かせない。映画村の建設も可能である。古い民家を集め出してもう十年近くになる。そろそろ映画村の場所を決定しなければならない。しかし私の乏しい資力ではムリだ。資金を集める為の工夫が必要だ。

 映画村を作るとどんなメリットがあるのかを考えている。まず鎌倉市の大船撮影所や京都市の鴨川撮影所が次々と廃止になっている。よい映画を作れる場所が不足している。福井は羽田から小松まで1時間弱、小松から高速で30分余りの距離にある。自然条件は最高。土地も安く、食べものはおいしく、人情は厚い。映画監督や俳優達がしばらく暮すにはよい環境である。新しい映画産業、新しい文化を生み出す基盤として、「新映画村」デジタルハリウッドならぬ「デジタル福井映画村」の建設を公民力を併せて考えてみてはいかがであろうか。永平寺町をはじめ福井市近郊は、どこもみな適地である。

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30岁左右的女性电影导演们


19年3月2日
30岁左右的女性电影导演们

电影对于出生于昭和两位数年代(昭和10年至20年间出生的年龄层)的战后废墟一代是最高的文化,甚至可以说是独一无二、不可替代的。街头到处张贴着画家们打零工绘制的大型海报,银幕英雄不断诞生,可以对男女演员发号施令的“导演”成了令人嬖蘚存在。即使毕业于一流大学,也要经过助手、副导演才能成为导演,这一过程需要几十年时间。至于女性导演简直是做梦都没有想到的事情。
但是最近,电影制作费不断下降,其原因在于照相机的小型化和高性能化,录相机的普及又使得编辑工作更加简单容易。乘着这股新兴浪潮粉墨登场的就是一群年轻的、行动派女性电影导演们。她们大多在30岁左右,日本电影正在她们手中发生着变化。
时代的脚步从来不曾停止,每年每岁必定要发生变化。但是我们却害怕变化,祈祷什么都不要改变。实际上正如达尔文所说“只有最适者才能生存”。所以我们不能害怕变化,想办法快速应对变化并付诸行动才重要。如果有“变化”和“不变”两个选择,我肯定选择“变化”,变化会带来新的变化,引导我走向新的舞台。
30岁左右,最有精神的女性们!日本电影的未来一定是充满光明的。我不看电影已经很多年了,但是今年一定要去看。
福井拥有大海、高山、河流等富于变化的自然环境,还拥有日本独特的绿色天地。广阔的平原、山间的溪谷、扇状地形、靠近海岸的群山、曲折的海岸线、从来都不缺适合做外景地的场所。建设电影村的可能性也有。我探寻古民宅已经将近10年,看来是时候决定电影村的地点了。只是我的资金有限,无法行动,还需要下功夫集资。
建电影村有什么好处?首先镰仓市的大船摄影所和京都市的鸭川摄影所正逐渐被废弃,制作优秀影片的场所不够用。羽田机场到小松机场大约1个小时,从小松开始乘高速30分钟的距离就是福井。这里自然条件至高无上,土地便宜、食品美味、人情味浓郁。各方面的环境都非常适合电影导演和演员们生活小住。集中全体公民的力量建设独一无二的、制造新电影事业、新文化基地的“新电影村”数码好莱坞 ――“数码福井电影村”怎么样呢?从永平寺到福井市近郊,到处都是最佳场所。

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私の履歴書

平成19年2月28日
○私の履歴書

 日本経済新聞に「私の履歴書」というコラムがある。有名な経済人、文化人など外国人も含めて連載で発表される「履歴書」である。もう数十年も続く大ヒット企画である。私は興味を持った人物に会いたい時は、この「私の履歴書」に書かれたものをまず捜す。本人の自作のものが殆んどなので、非常に親しみを感ずることが出来る。同時に、隠れたエピソードも豊富である。

 今ダイキン工業の井上礼之会長の履歴が連載中である。私と同窓である。一年先輩であるが、SCAというクラブ活動を行っていた私は学校の校内で、クラブの部室でしばしば逢っていたのを覚えている。
卒業と同時に私は三谷商事という商社に入り、石炭部へ配属になった。昭和34年1959年。もう石炭は斜陽産業といわれていた。工場のエネルギーは次々と石油に変っていった。「燃転」といわれる燃料転換が急速に進んでいたのである。暖房用の石炭需要は、国策もあり、まだ残っていたので冬場は忙しい。

 しかし夏場に仕事がない。そこで夏の仕事は何かないかと捜した。系列に福井製氷という関係会社があった。氷は売れないか。その時ひらめいたのは、当時最先端の冷房装置である。アメリカのGE製のウインドークーラー。それを大阪金属工業(現在のダイキン工業)で扱っていた。ダイキンの本職はエアコンといわれる5馬力〜10馬力の冷房装置が主力であった。この代理店を取った。ダイキンで1週間に亘る缶詰研修を受け、冷暖房設計士の認定証をもらい石炭と冷暖房の二足のワラジを履いた。

 ダイキンは創業家の山田稔社長の決断で住友金属工業の出資を受けられた。それから30年ほどの年月を経て三谷商事の専務取締役を退任、三谷設備の代表取締役になった。かつて石炭部時代に育てた冷暖房機課の後の姿である。そこで山田稔社長と再会、蓼科の別荘へ夫婦で招待していただいた。

 冬場の蓼科は誠に寒かった。しかしよい思い出をいただいた。社長交代で出会ったのが井上礼之現会長である。当時の井上礼之社長はその後関西経済同友会の代表幹事となられて同友会の会合でも何度か旧交を温めた。私がパーキングビジネスをやっているのを知って、ダイキンもパーキングに関係していると紹介を受けたが、まだ接点はない。

 山田会長、井上社長就任パーティの席上、山田会長と写した写真はよく取れている。その時山田会長は井上新社長を「気配りの人、誠心誠意の人」と評価されたのが印象に残っている。
日経新聞のコラムを読むと、自分の青春時代を思い起し感無量である。

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我的履历书


19年2月28日
我的履历书

日本经济新闻有一个专栏叫“我的履历书”。内容是包括外国人在内的著名经济人、文化人的经历连载。专栏已经持续了几十年,是个非常受欢迎的人气企画。我遇到感兴趣,想会面的人时,首先会翻一翻“我的履历书”中写的内容。因为大多是本人所写,所以非常有亲切感。同时,还可以读到很多鲜为人知的小插曲。
最近连载的是大金工业的井上礼之会长的履历。井上会长是我的同窗,高我一个年级的学长。记得当年我参加SCA俱乐部活动时,经常可以在校内,或者俱乐部活动室碰到他。
毕业之后我进入三谷商事贸易公司工作,被分配在煤炭部,时间是昭和34年即1959年。当时煤炭已经成为夕阳产业,工厂能源正不断向石油转变,即所谓的“燃转”――燃料转换在急速进行。暖气用煤炭因为国家有政策,还继续保留着,所以我冬天工作很忙。
但是,夏天却几乎没有工作。于是就想找一找可以在夏天做的工作。同系统有个叫福井制冰的关系公司,因此曾经想到销售冰不知道怎么样。不过最后灵光闪现想到了当时最先进的冷气装置――美国通用电子公司的窗式空调。当时大阪金属工业(现在的大金工业)在经销这一产品。而大金的老本行主打产品是5马力〜10马力的冷气装置。于是我申请了他们的代理业务。在大金接受了一个礼拜的集中研修,取得了冷暖气设计师的资格认定书,开始脚踏煤炭和冷暖气两个领域,开展工作。
大金工业后来根据创业家族出身的山田稔社长的英明决断接受了住友金属工业的出资。那之后经过30多年的岁月,我从三谷商事的专务董事退下来,成了三谷设备的代表董事。三谷设备也是我在煤炭部时代培养起来的冷暖气机科的后身。这时我再次见到山田稔社长,并跟妻子一起接到邀请去他的蓼科别墅。
冬天的蓼科奇冷无比,但是丝毫没有影响那次蓼科之行成为美好的回忆。在大金工业社长交接时我遇到了井上礼之现任会长。井上礼之社长后来担任关西经济同友会的代表干事,我们曾经多次在同友会聚会时见面,重温当年的友谊。他知道我在做投币式停车场生意,给我介绍说大金也在做有关停车场的工作。只是我们双方还没有找到合作的切点。
在山田会长、井上社长的就职宴会上,两个人的合影感觉非常好。当时山田会长对井上社长的评价给我留下了深刻的印象,说他是一个“细心周到,诚心诚意的人”。
读了日经新闻的专栏,不由想起自己的青春时代,万千感慨涌上心头。

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京都は千年の都、福井は二千年の都

平成19年2月27日
○京都は千年の都、福井は二千年の都

 越の国といわれた、越前、越中、越後は二千年以前より栄えた国である。その都は福井。九頭竜川の中流域である。日本の天皇家の祖は神武天皇といわれ皇紀2650年が過ぎたところである。しかし大化の改新西暦645年、皇紀1290年頃より史実による正確な年号が付せられてきた。それ以前は古事記、日本書紀なども神話的表現が多い。九州の南端や九州の北端そして出雲の国と並んで越の国、東北の北端などに有力な国家が存在していたものと思われる。西洋や中国の石造文化でない日本は、木造文化の国である。これが不幸にして遺跡の存在を困難にしてしまった。しかし埋蔵物は多いはずである。宝の山は地中深く眠っている。なぜなら日本列島は世界有数の火山国であり、火山灰の堆積土が次々と層になって降り積ったはずである。その下から、今後続々と、偉大な文明の遺跡が発掘されることは間違いない。

 福井は二千年の都である。古代国家としては大和より遥か以前より栄えた地域である。卑弥呼や倭の国はどこかに議論が集中しているが、日本列島全域に小国家が早くから発達し、それが長い年月と共に中規模になり、やがて大和と合同していく。文化は海から。南から、北から。そして主として大陸から半島から入ってきた。

 最近日本は情報衛星の打上げに成功し、現在4基が地球上のあらゆる地域を写し出すことが出来るようになった。そしてH2A型ロケットの成功確率は92%となり、安定度は増した。そして衛星に関する業務が国の宇宙航空研究開発機構から三菱重工業に民間委託されることとなった。この情報衛星を使って埋蔵文化財の調査を行うことを提案したい。また環境調査にも利用の可能性は多きい。

 いつの日か、仁徳天皇陵を大きく超える巨大古墳や、古代遺跡の発見が相次ぐことを期待している。特に古代の国々にはまだ多くの謎が残されていそうである。

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京都是千年古都 福井是两千年古都


19年2月27日
京都是千年古都 福井是两千年古都

被称为越之国的越前、越中、越后等地,是从两千多年前起就繁荣兴盛的国家,其国都是福井,位于九头龙河的中流。据说日本天皇家的祖先是皇家纪年大约经过2650年时的神武天皇。但是实际上大化革新的645年,即皇家纪年1290年时才开始出现以确切史实为基础的正确年号。在此之前的《古事记》、《日本书纪》等都还存在大量的神话记述。一般认为日本列岛的九州南部和北部以及出云国、越之国,东北的北部等都曾经存在过强有力的古代国家。只是跟西洋和中国的石器文化不同,日本为木造文化,这一点成为我们的不幸,给遗址保存造成了极大的困难。但是,我们应当有很多宝藏埋藏于地下,这些宝藏还在沉睡。因为日本列岛是世界上屈指可数的火山岛、火山灰的堆积土逐渐形成地层不断下将沉积。发掘这些地层,一定会不断发现古代的伟大文明遗迹。
福井是个拥有两千年历史的古都,这一地区远在大和国之前就作为古代国家繁荣。长期以来人们议论的焦点一直集中在“卑弥呼以及倭之国究竟在哪里”。实际上日本列岛各地很早就有很多发达的小国家存在,这些国家经过漫长的岁月逐渐发展成中等规模,最后跟大和合并。文化从海洋,从南方,从北方,最主要的是从中国大陆和朝鲜半岛传来。
最近日本成功发射了地球观测卫星,现在总共有4台卫星在太空运行,可以观测到全世界所有地区的情报。而且H2A型火箭的发射成功率准确到92%、稳定度有所甓叩此外,与卫星有关的业务也从国家宇宙航空研究开发机构委托给了民间企业三菱重工。我想提议利用这个卫星对地下文化财产进行调查。同时这一卫星用于环境调查的可能性也很高。
我期待着有一天,规模远远超过仁天皇陵的巨型古坟、巨大古代遗址能够相继被发现。众多的古代国家也都还保留着众多的待解之谜。

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敦賀半島

19年2月26日
○敦賀半島

 敦賀は神話の時代を遡る遥か昔から、大陸や半島との交流があった。リマン海流と親潮の交流する日本海の中央部にあって、漁業と交通の要衝であった。敦賀港は天然の良港として古くより、その重要な役目を果たしていた。敦賀半島は、その基点となる野坂岳(独立峰、914m)から日本海に長く突出している。原子力発電所が完成する迄の長い年月、船便しか通らない別世界であった。

 半島の突端、立石岬の近く浦底に敦賀原子力発電所が建設され、以来敦賀から若狭地方にかけて、次々と原発が建設された。「もんじゅ」が完成し今や世界一の原発地域である。

 半島には西方ヶ岳(海抜764m)を中心に風光明媚な山々と海岸線が続いている。「もんじゅ」のある白木地区はその名の通り、朝鮮半島の新羅(しらぎ)からの渡来の人々の足跡を示すものである。ちなみに日本海沿岸には白木神社は到る所に散在し、過去の交流の歴史を知ることが出来る。

 能登半島の気多神社に対し、敦賀には気比神社があり、海岸線から敦賀半島にかけて、気比の松原が続いている。日本三大松原の一つ、海水浴も楽しめる自然一杯の地域である。

 神功皇后の外征にまつわる歴史や、地域に残っている民話も、大陸や半島との深い関わりを想像させてくれる。今年は越の国から出たといわれる男大迹大王(継体天皇)即位1500年祭が、越の国現在の福井県下の各地で開かれる予定である。

 現在では敦賀半島は車で先端まで行くことが出来る。一年を通してのどかな漁村風景を楽しむドライバーが多い。

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敦贺半岛


19年2月26日
敦贺半岛

敦贺和大陆、朝鲜半岛的交流可以追溯到神话时代以前更为远古的年代。敦贺位于里曼海流和亲潮海流交汇的日本海中部,是渔业和交通要冲,作为天然良港敦贺港自古以来就发挥着重要作用。敦贺半岛以野坂山(独立峰,914米)为基点伸向日本海,在原子能发电所完成为止的相当长的岁月里,是个只有船只才能通行的独立世界。
自从敦贺原子能发电所在半岛尖端立石岬附近的浦底建成以来,从敦贺到若狭地区原子能发电所被接二连三地建设起来,文殊炉完工之后这一地区成为世界第一原子能发电区。
以西方之山(海拔764米)为中心的半岛,风光秀丽的群山和海岸线绵延不绝。文殊所在的白木地区正如地名一样,昭示着从朝鲜半岛的新罗越海而来的人们的足迹。另外日本海沿岸各地随处可见白木神社,从中可以得知过去的交流史。
能登半岛有气多神社,敦贺则有气比神社,气比的松原从海岸线开始覆盖整个敦贺半岛,为日本三大松原之一。同时这一地区自然风光旖旎,还可以尽情享受海水浴。
与神功皇后远征的有关历史以及流传于当地的民间故事,也使人联想起此地与大陆和半岛的深厚渊源。今年越之国即今天的福井县,各地都将举行活动,纪念据说诞生于越之国的国王男大迹王(继体天皇)即位1500年。
现在已经可以驱车直抵敦贺半岛顶端,一年四季都有很多人开车前来欣赏闲适怡人的渔村风光。

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士農工商

平成19年2月16日
○士農工商

 明治時代に入り、士農工商といわれた身分制度が廃止され、大名も武士も町民も百姓もすべて同じ身分といわれた。しかし華族制度が導入され、公家や大名が爵位についた。薩長土州の武士達は明治新政府の重職を独占し、その後明治17年(1884年)に爵位を受けた。公爵に長州の山県有朋、伊藤博文、薩摩の松方正義、侯爵に長州の木戸孝允、薩摩の大久保利通の子、西郷隆盛の子、肥前佐賀の大隅重信そして伯爵に土州の後藤象二郎、土方久元と続く。子爵に長州の大村益次郎の養子。財閥も男爵を授けられた。三井の八郎右衛門、三菱の岩崎弥太郎、住友友純、鴻池善右衛門、大倉喜八郎等である。明治の政官界はまだ武士階級が中心を占め、平民といわれる農工商の庶民は対等に話をすることも難しい時代が続いた。

 福沢諭吉の「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」の言葉は、明言ではあったが、現実のものとなるのは敗戦後になってからである。しかし敗戦後もなおその風潮が残っているのは誠に不思議である。農民から武士になり、その後明治政府に入り、また野に下り、日本の金融・産業の近代化の父といわれた渋沢栄一は、明治33年に男爵に列し、その後子爵となった。最後の将軍、徳川慶喜は明治35年にはじめて公爵となった。慶喜に臣従した渋沢栄一は、生前500余りの企業を起し、今でいうところのベンチャーの雄であるが、官民格差、商工業蔑視の風潮に常に反論している。アメリカとの民間外交でもいち早く大きな成果を上げている。これも日本における身分制度の完全撤廃のために、アメリカの実情を広く日本人に知らしめたいとの気持から出たのであろう。

 世界には未だに権力や財力による差別、身分制度による差別が存在するのは誠に哀しいことである。

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士农工商


9年2月16日
士农工商

进入明治时代之后,士农工商身份制度被废除,大名、武士、市民、百姓都变成了同等身份。但是,取而代之华族制度被引进,公卿贵族还有大名都得到了爵位。萨长土州的武士们独霸明治新政府要职,并大多于明治17年(1884年)受封爵位。公爵有长州的山县有朋、伊藤博文、萨摩的松方正义;侯爵有长州的木户孝允、萨摩的大久保利通之子、西乡隆盛之子、肥前佐贺的大隈重信;另外位列伯爵的是土州的后藤象二郎、土方久元。子爵有长州大村益次郎的养子。财阀也被授以男爵爵位。比如三井的八郎右卫门、三菱的岩崎弥太郎、住友的住友友纯、鸿池善右卫门、大仓喜八郎等。明治政界官方依然以武士阶级为中心,武士们独步政坛,所谓的平民农工商等一般百姓跟他们连平等对话都困难的时代依然在继续。
福泽谕吉的“人人生而平等”,虽然不愧为名言,但是名言真正名副其实变成现实却是在战败之后。而且战败之后依然残存着身份差别的风气实在令人不可思议。涩泽荣一被誉为日本金融・产业近代化之父,他从农民变为武士,后来进入明治政府,进而下野,明治33年位列男爵,后来又被加封为子爵。最后的将军川庆喜在明治35年被封为公爵。曾经身为庆喜臣下的涩泽荣一生前创建企业500有余,现在来讲可谓是创业投资之王。他对官民差别、轻视商工业的风气一直持反对论调。并且很早就开展同美国的民间外交,并取得了很大成果。大概也是为了完全消除日本的身份制度,使更多国人了解美国的实际情况。
直到今日世界上依然存在因权利和财富产生的差别,因身份制度而产生的差别实在令人悲哀。

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今年の北陸は暖冬

平成19年2月5日
○今年の北陸は暖冬

 全く雪のない一月を迎え、各地で異変が起きている。春でもないのに、菜の花が咲きだした。スキー場は閑古鳥が鳴いている。クローズするはずのゴルフ場がプレーできるので、冬のゴルフ遠征旅行は中止、除雪の予算が余っている官公庁。例年は雪でスローダウンするはずの商活動が元気である。「観測開始以来の少雪」という記録が生まれるのかどうかというぐらい降雪量が少ない。

 コインパーキングビジネスにとって雪は大敵である。雪が積ると除雪費用がかかり、お客様の利用が減少する。ダブルパンチをくらうことになる。雪が少ないとこのダブルパンチがなくなり、通常月と同じように業績はよくなる。暖冬は私達にとっても有難い。

 昨冬はひどかった。12月に豪雪となり、除雪費用に多額のお金を使うと同時に、来る日来る日も社員がスコップを手に駐車場へ出動する。最初の日は楽しい。久しぶりに身体を使った共同作業に笑声がひびく。二日目は沈黙。三日目にはブツブツと不満が出る。同時に身体はクタクタ。風邪をひく社員が増える。その間通常の経理、財務や総務、人事や開発、営業の仕事はストップする。社員にとっても会社にとっても雪は重圧となる。

 反面雪は美しい。一面の雪化粧となる雪の日の朝。感動の一瞬。雪は降った時は、あらゆる汚いものを覆いつくし白一色の世界に変えてくれる。そこに陽が当たるとまぶしいくらいだ。雪が降り出すと世界には静寂が来る。すべての雑音を吸収し、ただただシンシンと降り積る。

 雪は楽しいもの、美しいものと思えば、まさに天の恵みである。雪融け水は沃野を作り、自然の恵みを用意する。地下水のおいしいのも雪のお蔭である。さり乍ら暖冬はうれしいと思う今日このごろである。

 年をとると雪は恐いという。子供達は雪を喜ぶ。雪を楽しめる境地になるのには時間軸を逆方向に走ることが求められる。

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北陆地区今年暖冬


19年2月5日
北陆地区今年暖冬

一月份完全无雪,各地异变横生。还不到春天菜花却开花了、滑雪场里郭公鸟在欢叫、原本应该关门歇业的高尔夫球场今年冬天却可以照样打球。苦了中止冬季的高尔夫远征旅行、除雪预算却剩下来的各级政府。往年因为大雪影响,速度会有所放慢的商业活动今年依然生机勃勃。降雪量少的让人们开始议论今年会不会创下“开始观测活动以来的的最少纪录”。
对于投币式停车场来讲雪是大敌。积雪以后不但要花除雪费、顾客还会减少,同时得消受两个重拳的打击。如果不下雪,则可以避免这两个拳头,业绩可以像普通月份一样好,所以暖冬对于我们来讲实在值得感谢。
去年冬天情况就大大不妙。12月份就开始天降豪雪,我们支付巨额除雪费的同时,员工们每天都拿着铁锨去停车场铲雪。第一天大家都很开心,久违的体力劳动和共同作业,使停车场里充满了欢声笑语;第二天是沉默;第三天,大家开始发牢骚,同时体力消耗殆尽、感冒的员工畭拭这期间日常的经理、财务、总务还有人事、开发及营业等工作停止,不管是对员工还是对公司,雪都成了沉重的负担。
另一方面雪非常美丽。尤其是下雪的早晨,银装素裹的世界,是最令人感动的一刻。雪可以覆盖一切肮脏,将世界变成纯白一色。有阳光映在雪上时还会反射出令人眩目的光彩。雪还为世间带来寂静。她会把一切杂音吸收,只是静悄悄地飘落,堆积。
雪是令人开心的、美好的、简直就是上天对我们的恩赐。积雪融水滋润了沃野、为我们带来大自然的礼物。地下水清甜可口也是因为雪的缘故。雪有如此多的好处,但我对今年的暖冬还是充满欢喜的。
据说上年纪之后就会怕雪。孩子们才会喜欢雪。看来,只有时光倒流,我才能拥有享受雪的乐趣的心境了。

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丁亥年

平成19年1月26日
丁亥年

今年のエトは「丁亥」年である。暦を紐解いてみると今年の運勢は強い。2006年上昇が始まり、今年は本格的に上昇、ピークは2013年、その後下降に入るという。この十年は繁栄の時代になりそうである。
 中国では今年を「黄金の亥年」という。韓国では今年を「赤い亥年」という。そして両国とも600年に一度の「黄金の亥年」といい、今年誕生の子は幸福な生涯を送れるといわれている。日本は「亥」はイノシシであるが、両国ではブタである。今年は「黄金のブタ」ブームに沸くことであろう。
 工芸舎では伝統工芸作家の展覧会を毎月企画し、運営している。会場費も案内ハガキの印刷・郵送すべて無料である。芸術家を支援する目的で始めて以来2年になる。出展作家の方々からは熱い支持をいただいている。陶芸作家の中には、オートバイやイノシシ、犬、猫などを陶磁器で作っている方がいる。驚くほど精巧なものもある。
 画家もエトを画題に色紙を毎年描く方も多い。それぞれ生活の糧として貴重な存在である。今年のエトである「丁亥年」にちなんで、陶芸家も画家も「黄金の猪」や「黄金のブタ」をテーマに作品を使ってみてはどうであろうか。
 金沢の金箔は最近とみに有名になってきているが、金沢、能登はもともと越の国の一部、越前の一部であった。越の国の都は九頭竜川中流域にあったのは考古学者の常識になりつつある。この金箔を越の国の伝統工芸である陶磁器、漆器、和紙、打刀物に生かすことを考えてみてはいかがであろうか。「黄金の十年」という名で売り出せそうに思えてくる。

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丁亥年


19年1月29日
丁亥年

按照干支纪年算今年是“丁亥”年。查阅年历会发现今年的运气特别旺。据说是运气从2006年开始好转,2007年正式开始攀升,2013年达到高峰,之后开始下滑。看来接下来的10年将会是繁荣的时代。
中国把今年叫做“金亥年”,韩国则称为“红亥年”。但两国都认为今年是600年才有一次的“金猪年”、这一年出生的孩子会一生幸福。日本的“亥”是指野猪,但两国指的是“猪”。可想而知今年会掀起一股“金猪”热。
工艺舍每个月都在筹划、运营工艺作家的展览会。入场费、请帖的印刷、邮寄全部免费。我们以支援艺术家为目的开始展览活动以来经过了2年时间,一直得到出展作家们的热烈支持。陶艺家当中有人在陶器上画上摩托车、野猪、狗、猫等等,有的作品的精致程度令人叹为观止。
以每年的生肖为题材作画的画家也很多。都是画家们珍贵的生活来源。今年陶艺家、画家们是不是也可以借“丁亥年”的生肖,以“金猪”为题开展作品创作。
金泽的金箔最近名声大噪。其实金泽、能登原来都是越之国的一部分,也就是越前国的一部分。越之国的国都位于九头龙河的中部流域已经逐渐成为考古学家们的常识。那么有没有办法把金箔也用于越之国的传统工艺——陶器、漆器、和纸及打刃器呢?以“黄金的10年”为名发售也许会相当走俏。

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フェニックス研究会

平成19年1月26日
○フェニックス研究会

 私は文科系の学校を卒業し、その後営業の先頭に立って仕事をしてきた。ところが高校時代は化学部の部長として後輩に理科の実験を指導するのが楽しみであった。ラジオの組立をしたり、腕時計型の鉱石ラジオを作ったりするのが当時の中学、高校生の夢であった。写真の現像、焼付、引伸しをしたり、暗箱カメラを作ったこともある。

 丁度同年の酒井 弥理学博士を友人から紹介され、その研究に興味を持ったのは20年程前のことになる。彼がアルバータ大学の研究所で講師をしていた頃、私はミシガン大学にいたのも不思議なご縁である。その後度々会うようになり、彼の生家の花筺酒造を訪ねるようになった。彼の理論について勉強し、実験をする研究会を金沢でやっていた。その研究会を福井でやってくれるよう依頼した。彼の最晩年のことである。私のビルの一室を酒井理科学研究所として無償提供し、その隣の会議室で毎月1回の研究会を開催した。「フェニックス研究会」の誕生である。

 テーマは「黒体」について。「ブラックホール」のイメージと重なるが、「黒体」とは黒い炭状のものである。既に100年も以前に学界で発表され、その後検証の進んでいる新物体である。私達は消臭剤として活用するグループ、吸着剤として活用するグループ、電磁波遮へいとして活用するグループ等に分かれてこの「黒体」を追求することを狙った。

 彼は「実験主義者」であった。実験をしないとみんなが興味を持ち続けるのは難しいという。私は理論派である。理論の勉強を優先してスタートした。彼の住む今立町は日本一の和紙の産地である。和紙に黒体をすき込んでいる地元の和紙メーカーを紹介された。和紙をすいた後の残しょう(廃棄物)を粘土と遊離性金属と混練し、高温で還元方式で燃焼させて黒体を作っていた。温度管理が難しいという。最初に実験したのはこの黒体をすき込んだ大版の手漉き和紙(67×48cm)を1300枚作ってもらった。これでホルムアルデビドで悩んでいる子供達を救えないかと大版カレンダーを作った。すべて手作りである。全く売れなかった。

 続いてこの黒体をそのまま加工せずに消臭剤として販売できないかと考えた。焼肉の秋吉の初代社長が「備長炭を毎日大量に使っているので焼肉の強い臭いがしない」という。それは備長炭が黒体に近い性格を持っているので、臭いを吸着するのだ。すし屋も生魚の臭いが強い。この臭いのキライな人は入り難い。老人ホームも独特の臭いがする。病院もそうだ。臭いを断ちたいと考えている人は非常に多い。有望な市場だ。そこでこの「黒体」をそのままケースに入れて実験をはじめた。

 残念なことに酒井博士は突然入院し、その後不帰の人となり、フェニックス研究会は残った数名の生徒のみ、途方にくれた。研究会や研究所のコストは、私の手弁当でやっていたので、諦めもついたが、黒体に対する熱い思いは不完全燃焼のまま残っている。私達が酒井博士と語り合った黒体入りの繊維、黒体入りの紙など次々と世に出てくるようになった。誠に喜ばしい限りである。竹炭ブームも私達が予見したとおりになった。伝統工芸産業と黒体を結合させて新分野の産業を作りたいという私の夢はまだ果たせていない。その可能性の実現のため、もう少しの時間ともう少しの資金を必要としている。その日を楽しみに日々仕事に勤しんでいる。

 フェニックス研究会はその後中身を刷新し、「都市の中心市街地活性化研究会」に衣替えした。そして既に3年目に入り、今月の新しい「フェニックス研究会」は26回目の講演会となる。1月27日(土)14時よりセントラルビル3Fで行う。講師は高本泰輔氏(株式会社金沢商業活性化センター 事業部課長)である。

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火鸟研究会


19年1月26日
火鸟研究会

我毕业于文科学校,一直工作在营业第一线。但是高中时代曾经做为化学部的部长,兴冲冲地帮助后辈们学习理科。而组装收音机、自制手表型的矿石收音机是当时中学生、高中生的梦想。我还做过冲洗、显影、扩像等试验,也挑战过制做暗箱照相机。
通过友人介绍认识同岁的酒井弥理学博士并对他的研究产生兴趣是在20多年前。他在艾伯塔大学研究所担任讲师时,我也正在密西根大学学习也是不可思议的缘分。后来,我们多次见面,再后来我开始经常造访他的老家花筐酒坊。当时学习他的理论,并加以试验的研究会正在金泽召开。我邀请他在福井开同样的研究会,则是他最晚年的时候了。我无偿提供公司大楼的一个房间作为酒井理学研究所使用,同时我们在相邻的会议室每个月召开一次研究会。这就是“火鸟研究会”的诞生。
我们的题目是“鄲痢鼻说到“鄲痢病膕伐椎讐饒枦“酘供鼻实际上“鄲痢廟鄂的炭状物体。是一种早在100多年前学术界就做了发表,并不断得到验证的新物质。我们分成了除臭剂、吸收剂、电磁波遮断等几个小组研究“鄲痢錨用途。
他是个“试验主义者”认为不做实验大家很难保持长久的兴趣。而我则是“理论派”,我的学习是将理论放在优先地位开始的。他居住的今立町是日本第一和纸产地,于是他把当地将鄲陵进和纸制做的厂家介绍给我。我们试着把抄过和纸之后留下的残渣(废弃物)用粘土和游离性金属混合,再用高温还原方式燃烧做出了“鄲痢鼻这一过程温度控制很难。第一次我们做的实验是做了1300张(67cm×48cm)添加了这种鄲療手抄和纸,然后把他们做成了挂历。为的是也许这可以帮助因为甲醛而烦恼的孩子们。挂历全部是手工制作,可惜的是一点都没有卖出去。
接着我们想到没有经过加工的鄲寮不是可以当作除臭剂来销售。记得秋吉烧烤的第一任老总说过“我们每天使用大量的备长炭,所以店里很少有烤肉味”。备长炭和鄲陵着相似的性质,可以吸收臭味。寿司店的生鱼也会发出很大的腥味,讨厌这种味道的人就不愿进来吃饭;养老院也有独特的气味,医院也是。想消除难闻味道的人非常多。这应该是一个很有希望的市场。于是我们把鄲諒在盒子里开始做试验。
遗憾的是酒井博士突然住院,不久就成了不归之人,我们的“不死鸟研究会”只剩下几名学生,日暮途穷,一片惘然。研究会和研究所的成本都是我无偿提供的,所以倒是很快想开了。只是对于鄲療热爱依然藏在我的内心深处没有燃尽。我们和酒井博士畅谈过的鄲纤维、鄲纸等等产品不断问世,实在是一件令人欣慰的事情。预测过的竹炭热也成了现实。只是创造传统工艺和鄰结合的新领域还这一梦想还没有实现。要想把这一梦想变为现实还需要再多一点时间和资金。我在每天辛勤工作,期待着这一天的到来。
“火鸟研究会”后来内容刷新,改头换面成了“振兴都市中心市街的研究会”。而且活动已经进入第三个年头。这个月的新“火鸟研究会”是第26回。1月27日(星期六)在中心大楼3层举行。讲师是株式会社金泽商业振兴中心事业部科长高本泰辅氏。

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仏教王国ふくい

平成19年1月23日
○仏教王国ふくい

 北陸はかつて一向一揆の国であった。領主のいない国、一向宗の人々が領主の館や神社を焼き打ちし、自分達の国を作った歴史を持っている。鎌倉から室町そして戦国時代にかけて、仏教界には数々の傑僧、名僧があらわれ、新しい宗派が次々と生まれ、民衆に受入れられていった。

 ふくいは全国でも稀な仏教王国である。いや日本一の仏教王国なのである。福井県がどこなのかを正確に言える日本人は少ない。福井県を訪れた日本人も少ない。しかし永平寺は知っている。永平寺へは行ったことがあるという。誠に不思議な話であるが、それ程「ふくい」という名が日本人には知られていないのである。

 福井県には約1,850ヶ寺のお寺がある。最も多いのは浄土真宗本願寺派約400ヶ寺、続いて大本山永平寺を中心とする曹洞禅宗約300ヶ寺、そして真宗は真宗大谷派約280ヶ寺をはじめ、高田派、出雲路派、誠照寺派、三門徒派、山元派、佛光寺派、興正派などを含めると約600ヶ寺の最大勢力になる。約3分の1のお寺が真宗系である。その他、日蓮宗系が約200ヶ寺、天台宗系が約110ヶ寺、浄土宗系が約100ヶ寺、臨済禅宗が約80ヶ寺、真言宗が約60ヶ寺と続く。まさに「仏教王国ふくい」である。

 ふくいの結婚式とお葬式は盛大だといわれている。福井の人々は信心深く、粘り強い性格の持主が多い。社長輩出率ダントツの日本一を4分の1世紀も続けている。黙々と働き、蓄財に励み、派手な事を好まず、質実剛健な暮しぶりである。しかし冠婚葬祭は別だ。しかも表面だけのことではない。古きよき日本がそこにはある。心からのお祝いであり、お悔みである。強盗殺人などの凶悪犯罪が日本一少ないのもこの風土がもたらしたものであろう。

 「仏教王国ふくい」を象徴する平和のあかし、平和の祈りを表わすブツダミュゼアムのようなハードとソフトの融合体が福井に生まれるとすばらしいと考えている。原子力エネルギーの光の県「ふくい」が明日の地球の希望の県となる一つのキッカケになりそうに思えてくる。

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佛教王国福井


19年1月23日
佛教王国福井

北陆地区曾经发生过一向宗起义。一向宗的信徒们烧毁了领主的官邸和神社,造了所在国没有领主,自己自治国家的历史。从镰仓时代到室町时代甚而战国时代,佛教界高僧、名僧辈出,新宗派不断诞生,并逐渐被国民接受。
福井在全国来看也是为数不多的佛教王国。甚至可以说是日本第一佛教王国。据说能正确说出福井县在哪里的国人很少,到过福井县的国人也不多。但不可思议的是大家都知道永平寺,都说永平寺是去过的。可想而知福井的名字是如何地鲜为人知。
福井县大约有1,850个寺庙。其中最多的是净土真宗本愿寺派,大约有400个。接下来是以大本山永平寺为中心的曹洞宗,大约有300个。真宗以大谷派的280寺为首,加上高田派、出云路派、诚照寺派、三门徒派、山元派、佛光寺派、兴正派等形成共计600寺的最大势力。也就是说福井大约3分之1的寺庙属于真宗。其他的寺庙还有日莲宗约200寺、天台宗约110寺、净土宗约100寺、临济禅宗约80寺、真言宗约60寺。正可谓“佛教王国福井”。
大家都说福井的婚仪和葬仪都很盛大。福井人信仰虔诚,性格坚韧不屈。福井老板辈出,在4分之1 世纪以来一直是全国第一。福井人平时默默工作、积极积累财富、不爱张扬、作风求实朴素。但是婚丧嫁娶是另外一回事,而且并不是做做样子,他们的行为体现了日本古老的优秀传统,是发自内心的祝福和吊唁。福井的抢劫杀人事件在全国最少也是淳朴的风土人情所带来的结果。
我一直在想要是在福井能建一个象征“佛教王国福井”和平、融合硬件和软件于一体的祈祷和平的佛陀博物馆将是一件多么美好的事情。她会成为一个契机,即闪耀着原子能量之光的福井县成为地球明天的希望之县的契机。

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旅の人

平成19年1月19日
○旅の人

 人生を「旅」に譬える人もいるが、日本の歴史を紐解いてみると、生涯を旅に明け暮れた魅力的な人を数多く見つけることが出来る。旅は人を魅力的にするのか、あるいは、魅力的な人が旅することに執着するのかよく判らない。

 天皇家でも、即位1,500年を今年迎える継体天皇は地方豪族との深い関係を基盤に、当時としては珍しい騎馬軍団を持ち、河川、湖、海の水運を利用して広範な交流交易を行っていたようである。当然若年より近畿、中部、北陸は勿論、広範な行動半径を持っていたと考えられる。 

 昭和天皇も日本が敗戦の痛手で呻吟していた昭和22年頃から全国行脚を始められた。国民はみなその姿に親しくふれて、勇気付けられた。先頭に立って苦難を克服せんとする天皇の姿に老若男女(私は国民学校生時代)は、涙して再起に邁進したものである。その行動範囲は全国各地の隅々にまで行きわたった。

 私の尊敬する新島襄も旅の人であった。鉄道も船も不自由であった幕末から明治にかけて、世界をまわり、日本各地に数多くの足跡を残している。私の夢の一つに、新島襄の旅の跡を訪れて、その地に石碑を建て、長くその功績を讃えたいと考えている。同志社の総長にその話をしたことがあるが、まだその時間的な、資金的な余裕がないのが残念である。

 松尾芭蕉も旅の人だ。その人生は俳句と共にあった。全国各地におびただしい数の句碑が建てられた。そしてその土地その土地の人に、愛され、親しまれている。

 『徒然草』を書いた吉田兼好も、また西行法師も、絵師の葛飾北斎も、みな旅を旅した魅力あふれる人々である。

 商社時代を含めて、私も全世界をまわり、ありとあらゆる人々と商売をさせていただいた。また全国各地を歴訪してその土地に暮す人々と親しく交流を続けさせていただいている。今もなお私達の会社は小さいけれど全国に隈なく株主様がおられて、日々支援をいただいている。そして今年は、全国展開の、一応の完成の年と位置づけている。いよいよローカルからグローバルに、変身の時を迎えた。今年もまた「旅を旅する旅の人」を続けることになりそうである。

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人在旅途


19年1月19日
人生之旅

有的人把人生比作“旅行”。翻开日本历史可以发现很多终生痴迷于旅行的有着巨大人格魅力的人。是旅行甓知賛妖魅力,还是有魅力的人钟情于旅行。我们很难对此做出判断。
天皇家也有一位将迎来即位1500周年的继体天皇,他跟地方豪族有着深刻的联系,并以此为基础,拥有在当时举国罕见的骑兵团,同时利用江河,湖泊,海洋等水运交通与各地进行了广泛的交易交流。他从青年时代起就在近畿、中部、北陆地区活动,拥有相当广阔的活动半径。
昭和天皇也从昭和22年开始全国行脚,当时日本刚刚遭受战败的重创,还在痛苦呻吟之中。天皇亲切的身影,给国民带来了勇气;身先士卒克服苦难的态度使男女老少(我还是国民学校学生)流下了感动的泪水,重新豪情万丈,迈步向前。昭和天皇的足迹遍布全国角角落落。
我所尊敬的新岛襄也是一位不断旅行的人。他在铁道和船运都不发达的幕府末期至明治时期,环游世界、在日本各地也留下了众多的足迹。我的梦想之一就是追寻新岛襄的足迹,并建立石碑,使他的功绩能够长久流传于后世。我曾经跟同志社的校长提过这件事情,遗憾的是时间还有资金方面都还不够充裕。
松尾芭蕉也是一位爱好旅行的人。他的一生也是俳句创作的一生,全国各地建有大量的俳句碑。不仅如此,松尾芭蕉所到之处无不受到当地人的尊敬和爱戴。
著作《徒然草》的吉田兼好、西行法师、画师葛饰北斋,都是充满魅力的旅行人。
包括商社时代在内,我也曾走遍全世界,跟各种各样的人做生意。另外还到访过全国各地,在那里生活而且至今仍然同很多人保持着亲切的交流。现在我们的公司虽然很小,但股东全国各地都有股东,无时不刻在支持着我们。我们把今年定位为完成全国业务开展的一年,也终于迎来了从本地到全球转型的时刻。
今年我也会享受我的“人生之旅”,继续奋斗。

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大晦日の永平寺

平成19年1月9日
○大晦日の永平寺

 永平寺町に住んで3度目の大晦日を迎えた。長男一家と共に永平寺へ除夜の鐘を撞きにいった。
門前と染め抜いたハッピを着た里の人達に混じって若い僧達が鐘撞き堂へ案内してくれる。松明と燈籠の明かりに浮かび上った山々は、うっすらと雪化粧をしている。道は凍って滑り易い。一人ずつ献灯をして、一年の無事を感謝し、みんなでそれぞれ鐘を撞いた。鐘の音が山々にこだまし、荘厳な空気に身が引き締まる。今年は私達が一番最初の鐘を撞いた。来る年もまた良い年でありますよう念じながら帰路につく。

 永平寺は曹洞宗の本山で、道元禅師が開いた。修行の為、全国から若い僧が集り、日常生活の中で「作務」という名の修行を積んでいく。道元は種々のルールを作った。「典座教訓」という、日本料理には珍しいレシピを作っている。料理長は「典座(てんぞ)」、台所は二つ、「大庫院」と「小庫院」に分かれている。毎日の料理をここで作っている。料理を作るのも、たくあんを漬けるのも、お風呂に入るのも、お風呂を掃除するのも、トイレに入るのも、トイレの掃除もすべて修行である。料理は五法、五味、五色が重んじられている。五法とは、生、煮、焼、揚、蒸。五味とは、辛、酸、甘、苦、塩辛い。五色とは、食材の色のことで青、黄、赤、白、黒をいう。そしてかくし味は「料理にこめる心遣い」と説かれている。「材料の命を生かしきるのが料理」と定義付けられ、近隣で取れる季節ごとの素材を生かす工夫を重ね、その味と技術が受け継がれてきている。雲水たちの食事は質素である。ご飯、味噌汁、たくあんに一菜である。ごま豆腐も自分達で作る。水につけたごまをすり鉢とすりこぎですり、水に入れた吉野葛を加えて、とろ火で練って出来上り。健康食である。穀物と野菜(山菜)がすべて。永平寺の精進料理は、健康長寿世界一をめざす私達の日本料理の原型の一つである。

春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬 雪さえて すずしかりけり

 永平寺の冬の燈籠まつりが、2月9日から4日間夜6時から8時まで挙行される。山門をライトアップし、幻想の世界を味わえる楽しくも荘厳な時である。今から楽しみにしている。

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永平寺的除夕


19年1月9日
永平寺的除夕

在永平寺町迎来的第三个除夕,我们和长子一家去永平寺敲响新年的钟声。
年轻的僧侣们穿者印有“门前”的法衣夹杂在人群里引导人们去撞钟堂。浮现在松明和灯笼中的群山银装素裹,路上了冻有点滑。大家分别献灯,感激过去一年的平安无事,然后再去敲钟。钟声响彻群山,空气是那么的庄严肃穆,不由得人敛气凝神,悄然动容。今年我们是第一个敲了钟随后一边祈祷来年万事如意一边踏上归路。
永平寺是曹洞宗本山,由道元禅师开创。全国各地的年轻僧侣为了修行聚集于此,进行日程生活中叫做“作务”的修行。道元制定了很多规则,还制作了叫做“典座教训”的菜谱,在日本料理中也是独树一帜。料理长叫做“典座”,厨房分为“大库院”和“小库院”两个,每天全寺的饭菜都在这里做。做饭、腌咸菜、沐浴、打扫浴室、如厕、清洁厕所等等一切都是修行。料理重视五法,五味,五色。五法即生、煮、烧、炸、蒸。五味指辣、酸、甜、苦、咸。五色则讲的是素材的颜色青、黄、红、白、遏而最重要的另一味决定料理味道的调料就是“做饭人的心意”了。料理的定义是最大限度的发挥材料的特点。永平寺的料理就长年累月积累了很多发挥周围时鲜素材特点的功夫,传承着自古以来的味道和技术。而僧人们的饭菜是非常朴素的。就是米饭、汤、咸菜再加上一个菜。闻名遐迩的芝麻豆腐也是他们自己制做。将浸过水的芝麻磨碎再加上水和吉野葛,最后用小火炼结就成了。芝麻豆腐是很好的健康食品。谷物和野菜也全部都是。永平寺的精进料理是我们赖以赢得健康长寿世界第一的日本料理的原型。

春来樱花映,夏至子规啼。
月伴中秋明,冬寒素雪知。

永平寺冬天的灯笼祭从2月9号开始连续4天每天晚上6点到8点举行。届时山门会点起灯装饰起来,展现在眼前的将是如梦如幻,但同时又充满欢乐和庄严的世界。期待着这一天的到来。

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自画自讃

平成19年1月4日
○自画自讃

 自画自讃というのは「うぬぼれ」や「身びいき」の代名詞に使われることが多い。中国の掛軸を見ると、絵描きが絵を描いた後で有名人が「讃」を書いて「印」を押している。「讃」を書く人の地位が高ければ高い程、その絵の価値が高くなるそうである。

 芸術家は「自分が一番エライ」と考えている。本当にそう堅く信じているのだ。その思いが強ければ強い程、大成できるという。この事は一つ間違うと、大変なことになりそうだ。自信と過信は紙一重である。その境界は誰にもわからない。地位の高い人が見たという印に讃をかくのはこの絵の価値を目のこえた人が冷静な目で評価したという証拠になる。そこに自画自讃に陥らない為の工夫がある。

 画商の間では、絵描きの若い頃の作品は、若かきと言って評価が低くなる。作風が定まらないからという。しかしピカソの赤の時代や青の時代のように、晩年の抽象的なペン画と比較すると圧倒的な迫力を持った名作もある。

 私も若い頃に絵描きを目指して油絵を数十点かいた。描いている時は、誰の作品と比較しても自分の作品の方がよいと思っていた。自画自讃である。

 ビジネスの道に入ってからも、自分の仕事のやり方は、絶対人に負けないと自負していた。今でいうところのビジネスモデルである。しかしよくよく考えて見ると、私の小さな成功は、自分の能力やビジネスモデルが優れていたのではない。多くの有縁の方々の助けの賜物である。今頃気がつくのは、誠に遅きに失するが、これが事実だから仕方がない。これからは十分反省し、まず感謝から入っていくようにしていきたい。

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自画自赞(自吹自擂)


19年1月4日
自画自赞

自画自赞经常作为“自高自大”、“自我怜悯”的代名词使用。看中国的挂轴就会发现画家画好作品之后都要请名人写“赞”再盖上章。而且写“赞”的人地位越高这幅画的价值也就越高。
艺术家大都自命不凡认为自己最了不起并对此坚信不疑。据说这种信念越强烈就越会取得成功。但稍有差错则会非常危险,因为自信和自大相隔只有一层纸,之间的界限谁也不清楚。“赞”作为地位高的人看过这幅画的标志成为该画经过行家冷静评价过的证据,也不失为一种防止陷于自画自赞的手段。
画商们认为画家年轻时候的作品太幼稚,对之评价不高,理由是画风还没有确定。但像毕加索他的红色时代和蓝色时代跟晚年抽象的钢笔画相比很多作品就具有惊人的魄力。
我年轻时也曾经想当画家画了几十幅油画,画的时候当然认为自己的作品跟谁的作品相比都不逊色,典型的自画自赞。
经商之后也一直自负自己的工作方法绝对不亚于任何人,现在来讲就是商业模式了。但是再仔细想想就会发现自己之所以取得一点点成功并不是因为自己的能力还有商业模式有多出色,一切都是众多有缘人的帮助和恩赐。今天我才意识到这一点,实在失之太迟。但事实如此,不承认也没有办法。今后一定要好好反省,首先从感谢做起。

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永平寺に住む

平成18年12月21日
○永平寺に住む

 道元が都の喧騒を避けて、自らの信念に基づき新しい禅宗(曹洞宗)の修行のための殿堂を越前の地に求めたのは、今から800年近くを溯る鎌倉時代のことである。既に浄土宗の法然、臨済宗の栄西、浄土真宗の親鸞が出た、仏教興隆の時代の中であった。道元は都やその周辺では世俗にまみれて、真の仏教の理想境が作れないと考えた。そして、永平寺を開き、天下に曹洞禅の道場としての本山を創建した。仏教は宗派により考え方に多少の開きがある。大乗仏教、小乗仏教から、天台宗、真言宗そして前に記した鎌倉時代には、新宗派が次々と誕生している。私としては、禅宗の自力本願も、浄土宗、浄土真宗の他力本願も理解できるが、個人的な好みからいうと自力本願が好きだ。そして共感を持つところが多い。そして、縁あって永平寺町の山あいに寓居を構えることになった。永平寺を「永久平和の寺」と読み替えて日々感謝の生活を送っている。戦争嫌いの私は終戦を経て「永久平和」にこだわり続けた生涯を送っている。福井市の中心市街地を活性化する為の勉強会「フェニックス研究会」を手弁当 で始めて、早2年余りが過ぎた。その講師の一人の足立基浩助教授(和歌山大学)の曽祖父は、太平洋戦争を昭和天皇とともに終わらせた鈴木貫太郎首相(元連合艦隊司会長官、元侍従長、元海軍大将)である。その鈴木貫太郎氏の臨終の言葉は「永久平和、永久平和」の一言であった。すべての私財を戦災で焼かれ身一つで戦火の中から生還した彼が、日本を破滅の危険の中から昭和天皇と心を一つにして手にした「平和」である。その平和を見届けて、昭和23年春、「永久平和」の言葉を残して逝った。享年82才。正に大往生であった。平和の有難さを知らない人達に、私は鈴木貫太郎の生涯をたどることをすすめたい。

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身居永平寺


18年12月21日
身居永平寺

道元为了避开尘世的喧嚣,于越前寻求源于自己信仰的新禅宗(曹洞宗)的清修圣地,可以追溯到距今大约800年前的廉仓时代。当时净土宗出了法然,临济宗出了荣西,净土宗则有亲鸾出世,正是佛教兴隆的时代。但是道元认为都城及其附近被充满世俗,无法开拓佛教的理想之地。于是,他建立永平寺,开创了天下曹洞宗的大本山。
佛教因宗派不同理念也有所分歧。前边提到的廉仓时代从大乘佛教,小乘佛教,不断分化出天台宗、真言宗等新的佛教宗派。作为我,不管是禅宗的自力本愿,还是净土宗、净土真宗的他力本愿都可以理解,但个人喜好来讲还是喜欢自力本愿,而且同感颇多。更有缘于永平寺町的山谷间结庐寓居。内心一直将“永平寺”读作“永久和平之寺”,并怀着感恩的心情过着每一天。讨厌战争的我经历过战争结束的历史,“永久和平”乃是我毕生的追求。
为了复兴福井的中心市街我们开始了一个叫做“不死鸟研究会”的定期研讨会,这个研讨会从自带便当开始转眼已经坚持了两年有余。其中一位讲师是足立基浩教授(和歌山大学),他的的曾祖父是和昭和天皇携手结束太平洋战争的铃木大贯太郎首相(元联合舰队司令长官、元侍从长、元海军大将)。铃木大贯太郎氏的临终遗言是“永久和平、永久和平”。这是他在所有的财产被战火烧光,只剩自己两肩一口从战火中生还之后,和昭和天皇齐心协力拯救日本免于破灭的危险而得来的“和平”。遥望着这来之不易的“和平”他于昭和23年春天、留下“永久和平”的遗言离去了。享年82岁。正是名副其实的大往生。
尚不知和平的难能可贵的人们,不妨追寻一下铃木贯太郎一生的足迹。

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「私のブログを中国語で読んでください」

平成18年12月18日
○「私のブログを中国語で読んでください」

 中国では若者の間で日本語ブームが起きている。数多くの大学に日本語講座があり、日本語の検定試験は、大人気ですぐ満員になるという。

 私の会社に中国からの留学生が働いている。私は人種、国籍で格差を設けない主義なので、日本人と同じ待遇で働いてもらっている。一人は福井大学の大学院を卒業しワーキングビザで働いている。またパートで働く在校生もいる。勤勉で、日本語もよく理解してくれる。私がアナーバーのミシガン大学で学んでいた頃の語学力を比較すると誠に立派である。このブログも中国系の人達向に中国語で毎日発表している。英語版と合わせると三ヶ国語で書いていることになる。

 これからの時代は、中国語、英語、日本語が書けて、話せて、理解できる人が活躍する時代となる。若者達に常にそれを言い続けている。その上、IT関連の知識を習得すれば、役員就任間違いない。

 来春また中国人の新卒が入社してくる。若い人達がドンドン育っていって中国各地で新しい仕事に携わってくれる日が来るのを夢見ている。

 今中国の環境破壊は深刻だ。大気汚染のワースト都市ランキングに上海、天津、重慶、瀋陽等々が含まれている。世界で最も悪い。その理由は2ケタの経済成長によるエネルギーの爆発的な消費である。公害防止施設を持たない発電所、工場の新設が続き、自動車も急増している。高度経済成長の頃の日本の公害問題を、もっともっとスケールを大きくして各都市で公害が起きている。CO2削減や砂漠化防止の為、植林が中国各地で行われているが、エコロジー活動はまだまだこれからだ。

 みんなの地球を守る為に、みんなが知恵を出し、お互いに助け合っていきたいものだ。

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欢迎阅读我的博客汉语版


18年12月18日
欢迎用阅读我的博客汉语版

中国的年轻人之间兴起了一股“日语热”。听说很多大学都设有日语讲座,日语级别考试也很受欢迎,报考人数总是立即满员。
我的公司也有来自中国的留学生在工作。我一向没有人种和国籍差别,为他们提供跟日本人同等的工作待遇。其中一个是福井大学研究生毕业,现在拿着工作签证在工作。另外还有一个在大学就读的临时工。他们都很勤奋,日语也非常不错。跟我在密西根大学学习时的语言能力相比实在非常优秀。这个博客也针对中国人每天用汉语发表。再加上英语版就是用三国语言写的了。
我一直对年轻人讲今后的时代是会说、会写并能理解汉语、英语、日语的人的时代,如果能再掌握IT相关知识一定会担任公司要员。
明年春天将有新的中国人毕业生进公司。培养这些年轻人,希望他们有一天能够在中国各地开展新的工作。
现在中国的环境破坏现象非常严重。大气污染指数最差城市上海、天津、重庆、沈阳等榜上有名。在全世界来看也是最严重的。造成环境破环的理由就是两位数的经济成长对于能源的爆炸性消费。没有公害预防措施的发电所、工厂还在不断出现,汽车数量也在急速甓叩8害问题以远远大于日本高度经济成长期的规模在各个城市发生。虽然为了减少二氧化钛和防止沙漠化中国各地都在进行植树造林活动,但节能运动还是刚刚起步,任重道远。
为了我们的地球,我们应该动脑筋想办法齐心协力行动起来。

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福井は寒くない

平成18年12月7日
○福井は寒くない

 北陸のイメージは暗い。積雪が多いとか、裏日本という有難くない名前のせいでなお悪い。しかし本当にそうなのだろうか。もう少し冷静になって、悪いイメージを払拭する必要がある。

 「裏日本」という表現は最近されなくなったが、まだイメージとして残っている。これは積極的に環日本海諸国会議や環日本海首長会議等を頻繁に開催し、高い文化交流の長い歴史をひもとき、先進地域としての誇りを内外に示し、反対イメージを定着させる必要がある。富山県が発行する「大陸側から見た日本地図」を見ると、日本はあたかもユーラシア大陸にかかる帽子のようであり、日本海側が今迄もそうであったし、今後の可能性も大きい先進地域であることが理解できる。

 「積雪が多い」というのも完全な間違いである。年間積雪量は富山も金沢も福井も少ない。特に最近は温暖化のせいもあって少ない。私達の会社はコインパーキングを経営しているので、冬期の除雪が社員の負担になっているが、この十年間、毎年少しずつ楽になってきている。新潟や長野の山間部の豪雪のイメージが間違って伝えられているのだ。

 「寒い」というのも間違いで、北陸は寒くない。太平洋側の温暖といわれる房総、伊豆、紀伊、そして瀬戸内海と比較しても、冬期間の平均最低気温はさほど変らない。マイナスになることが殆んどない。東京、名古屋、京都、大阪、神戸と比較しても、最低気温は逆転する。これは放射冷却現象によって起きる。北陸の冬は実は暖かいのである。

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福井不冷


18年12月7日
○福井不冷

北陆在很多人的印象里是阴暗,多雪。再加上一个“里日本”,这个毫不受欢迎的恶名北陆给人们的印象就更差了。但是事实是否真的如此呢?我们太有必要冷静下来将这一印象加以拂拭。
“里日本”这一说法最近是不太听到了,但印象依旧。我们实在有必要对内对外展示我们作为环日本海先进地区的一面,积极召开环日本海各国会议,环日本海首长会议,重新认识我们长期以来进行的高水平文化交流。看富山县发行的《从大陆看到的日本地图》,不难发现日本海地区恰如扣在欧亚大陆上的帽子。意识到这一点我们才可以更好地了解我们到今天为止的历史,以及今后作为先进地区发展的巨大可能性。
“多雪”这一印象,更是差之毫厘,谬以千里。富山、金泽、还有福井的年降雪量都不多,再加上近年来的温室效应就更少了。我们公司经营投币式自助停车场,每年冬天的扫雪工作成了员工们的负担。但10年间来,是一年比一年轻松了。福井“多雪”可能是新泻还有长野山区的豪雪印象给人们造成的错觉。
“严寒”这一印象也可以说是大错特错,北陆并不冷。整个冬天的平均气温跟房总、伊豆、纪伊以及濑户内海等太平洋地区的温暖地方相比不差上下。气温降到零下的时候几乎没有。跟东京、名古屋、京都、大阪、神户相比,最低气温还会发生逆转。这是放射冷却引起的现象。
北陆的冬天其实是温暖的。

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継体天皇について

18年12月6日
○継体天皇について

 越前、若狭といわれた福井県には継体天皇に関する事蹟や民話が数多く残されている。特に他の地域と異っているのは、越前は、継体天皇を祀る古い神社が多い。

 越前の国府は武生の府中に置かれた。紫式部も父の国守と共に武生に移り住んでいた。日野川のほとりに住んで、日野山を仰ぎ、都を思う和歌をいくつか残している。

 日野川と足羽川と九頭竜川の三大河川は三国港の手前で合流する。九頭竜の名の通り、数多くの源流を持った大河川である。継体天皇が、説話の通り、九頭竜川流域の中流、大古墳群が残る永平寺町から丸岡町にかけての地で育ったのであれば、河川改修の偉業も理解しやすい。交通手段として河川を使う方法は、明治初期まで実際に機能していた。越前地方全域に残る継体伝説を理解する為には、この交通手段を忘れてはならない。

 越前和紙の里、今立と越前漆器の里、河和田は隣村である。継体天皇の漆の冠の説話や、越前和紙の川上御前(和紙の祖といわれている)に関しても、天皇の即位前の事蹟として興味をそそられる。当時の越の国は地形的に敦賀から三国まで良港に恵まれている。そこへ大陸から次々と新しい文化や技術が流入し、地元との同化が進んでいた。敦賀港からのルート、越前海岸からのルート、三国港からのルート、古い道ながら通ってみると意外に近い。

 味真野に残る花筺(能にもなっている)については、白洲正子が継体との関わり合いを言っている。継体天皇が即位前に永平寺町にいたのか、丸岡町にいたのか、武生にいたのか、三国にいたのか諸説はあるが、そのいずれの地も想像以上に近い。来年は即位1500年を迎える。

 私は今、継体天皇のゆかりの地、北陸最大の前方後円墳群が連なる大古墳群のほとりに住んでいる。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国の武将の天下布武の遥か前に、古代日本の統一を成し遂げた継体天皇(オオドの王)の大ロマンに光を当てたいものである。

 愛知の熱田神宮、近江の多賀大社、敦賀の気比神宮、能登の気多大社、そして出雲の出雲大社、九州の宇佐八幡宮などの神社に拠る地方豪族が結束して推戴した継体天皇は、誠に雄大かつロマンに満ちた英雄像となろう。

 地方の時代といわれる昨今と、通信網、交通網の整備されていなかった1500年前の日本を比較してみるのも興味深い。そして史実の少ないのも、夢を膨らませるのに好都合である。戦国時代を溯ること更に1000年、朝鮮半島をも巻き込んだ大波乱の時代があったことを思い起こしている。

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关于继体天皇


18年12月6日
○关于继体天皇

有越前、若狭之称的福井县境内流传着许多关于继体天皇的事迹和民间传说。特别是越前地方还保留着很多供奉继体天皇的神社。
越前的国都设在武生地方。当年紫式部曾随作为国守的父亲移居武生。就住在日野河畔,日野山抬头可见,她在这里留下了多首思念故都的诗篇。
福井三大河日野河、足羽河和九头龙河在三国港前合流。九头龙河正如河的名字所示是拥有众多支流的大河。如果继体天皇成长于九头龙河的中流、也就是有大古坟群存在的永平寺町到丸冈町之间的说法属实的话,那么他治理河川的伟业也就很容易理解了。直到明治初期为止河流都作为重要的交通手段发挥着作用。要理解流传在整个越前地方的继体天皇传说,这一重要的交通手段不可忽视。
越前和纸之乡——今立和漆器之乡——河和田互相毗邻。有关继体天皇漆冠的故事和越前和纸的川上御前(传说中的和纸之祖)的诸多说法作为天皇即位前的事迹都给人以无限的遐想。当时的越前国就地形来看,敦贺到三国的优良渔港得天独厚,来自大陆的文化和技术源源不断涌入,并逐渐完成与本地的同化。敦贺港,越前海岸,三国港等不同路径,同为历史悠久的古道,但走一走会发现其实互相离得很近。
味真野地方流传的花筐故事(这一故事被改编成了能剧),白洲正子就认为和继体天皇有关。继体天皇即位之前是在永平寺町还是丸冈町还是武生或者三国,虽然众说纷纭,莫衷一是。虽然实际上这几个地方相互距离之近,哪一个都超过想象。明年是天皇即位1500周年。
我现在住在北陆地区最大的前方后圆古坟群附近,这里也跟继体天皇有着深厚的渊源。远在织田信长、丰臣秀吉、川家康等战国武将开始以武力征服天下之前,继体天皇(男大迹王)就完成了统一古代日本的伟业。我们有何理由不将目光投向他,关注他所创造的神话。
爱知的热天神宫,近江的多贺大社、敦贺的起比神宫、能登的气多大社、出云的出云大社、九州的宇佐八幡宫为据点的地方豪族集结起来一致推戴的继体天皇,是何等的意气风发和充满浪漫主义气息。
将如今的所谓的地方时代和1500年前通信网,交通网都极不发达的日本做一比较也是一件意味深长的事情。史实资料的缺乏可以更好地助长我们的想象力。从战国时代再上溯1000年,让我们记起我们还有过甚至将朝鲜半岛卷入其中的波澜壮阔的时代。

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友の死について

平成18年12月4日
○友の死について

 「芥川賞を取るのだ」と言って、学生時代に、小説の構想について語り明かした友が死んだ。享年70歳。銀閣寺を少し南へ入った大きな農家風の二階に下宿していた。哲学の道といわれる疎水べりの道を歩いたこともある。二人共京都大学に「入らず」「入れず」彼は龍谷大学へ、私は同志社大学に入っていた。僧になる運命の彼と、商社に入ることになる私との間に、接点があったとすれば、それは「人生」についての議論である。「何のために生きるか」を話し合った。「人生の目的とは何か」「何を目指して生きるのか」を語り合った。若かった私達はお金、恋愛、地位、名誉等、ないない尽くしの中にあって、そのことについて真剣に話し合った。昭和30年、まだ戦後が色濃く残っていた。

 それから50年余りがあっという間に過ぎた。彼は真宗の僧として人生を全うした。私は小さな会社を経営している。毎日朝礼で話をする。「生き方」についてである。あらゆる先輩達が言ったのは「人生とは苦しみの大海である」ということに尽きる。その「苦しみの大海」をどう乗り切っていくのか、明るく楽しく乗り切る方法は何かを話している。50年前に友人と交した話の内容とあまり変りはない。

 2600年前に釈迦は「人生は苦なり」といい、徳川家康は「重き荷を負うて・・・」と言った。「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と言った林芙美子、「働けど働けど暮し楽にならざる、じっと手を見る」と詠んだ啄木、法然も親鸞も、ニーチェもトルストイもみな同じように「苦しみの人生」を語っている。そしてそこから脱却する道は、との問いに答えんとした。

 「生き方」「考え方」「受け取り方」によって、人生は「苦しみの人生」から「喜びの人生」「幸せの人生」に変る。私は「十方よし」「利他の心」そして「感謝」から人生は変るのだといいたい。「有無同然」という釈迦の言葉に表わされるような、余り重要でない表層の現象や物事を、目的としてはならない。

 人生の究極の目的は「生き抜くこと」である。「生き抜いて、永遠の幸せを掴む」ことである。誠に稀有の確率の中から生まれた命、与えられた命の尊さを思うべきである。そこから「十方よし」の生き方ができる。そこから「利他の心」が生まれる。そして「感謝感謝」の生活がひとりでに始まる。「苦しみの人生」を乗り切る自信が生まれるはずだ。

 友の死にあたって貧しかったが、希望に燃えていた青春時代を思い起こしている。

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关于友人之死


18年12月4日
○关于友人之死

说过“我要拿芥川奖”的友人死了。从学生时代起就一遍一遍描绘自己小说构想的友人死了。他享年70岁。银阁寺稍稍向南一个很大的农家式院落的2楼,是他当年借宿的地方。我们也曾在被称之为哲学之路的排水沟畔留下足迹。当时我们都立志进京都大学,却都此路不通,入学无门。结果他去了龙谷大学,我则进了同志社大学。他是命中注定要做僧侣,我则要进入商社。如果说我们两人之间有交点存在,那就是“关于人生的议论”。我们曾一起讨论“人为什么而活着”,“人生的目的是什么”“我们该向何而生”。 年轻的我们在一无所有的时代认真地交换着对金钱,恋爱,地位,名誉的看法。时值昭和30年,日本依然保留着浓郁的战后色彩。
50多年一晃而过。友人完成了他作为僧侣的人生,而我在经营着一家小小的公司。我每天早晨都会在公司例会上发言,内容也都是有关“生存方式”的。几乎所有的前辈对人生的看法都不外乎“所谓人生就是苦难的大海”,大多在讲如何开心快乐地渡过这“苦海”。50多年前友人所讲的话也几乎与此毫无二致。
2600年前释迦牟尼说“人生即苦”。川家康亦有“人生如负重荷……”的名言。感叹“花命短且促,终朝唯苦多”的林芙美子,悲叹“辛劳复辛苦,人生不得乐,无语望吾手”的石川啄木,还有法然,尼采,托尔斯泰无一例外都在描述“苦难的人生”,并试图寻求答案,超脱这苦难的人生路。
其实人生完全可以因“生活方式”,“思考方式”“接受方式”的不同,变成“喜悦的人生”“幸福的人生”。“我为人人,人人为我”“利他之心”可以改变人生,这就是我想说的。正如释迦牟尼宣扬“有无同然”,人不能以毫不重要的表层现象和物事做为人生的目的。
人生的终极目的在于“勇敢活下去”,在于“勇敢活下去,抓住永远的幸福”。我们应该想到我们来到人间的可能性是如何地稀少,而上天赐与我们的生命是多么地尊贵。这样我们就会自然而然地选择“我为人人,人人为我”的生存方式。“利他之心”也会油然产生。也会顺理成章地开始“对一切感恩”的生活,树立超越“苦难人生”的自信。
友人的离去,使我想起了贫穷但胸中燃烧着熊熊希望之火的青春时代。

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「天の時」とは

平成18年11月24日
○「天の時」とは

 明智光秀が「時は今、天が下知る・・・」と詠んだ。「時」は、彼にとっては「天の時」であった。また同時に羽柴秀吉にとっても「天の時」であった。

 「幸運の女神には後ろ髪がない」といわれている。過ぎ去った後に、その髪を把えようとしてもダメだという事である。「天の時」をシッカリと自覚し、適切で、すばやい行動を取れば、幸運の女神を把えることが出来る。

 明治維新の時、薩長連合が結成された。その時どちらかというと薩摩の力の方が優勢であった。しかし西南戦争によって、実質的に薩摩は敗退し、長州がその後長く日本の政治を動かしてきた。その時三菱財閥が生まれている。

 昭和の敗戦の時、殆んどの企業はゼロからの出発を余儀なくされた。財閥は解体され、特権階級は、預金封鎖、新円発行、農地解放、不在地主、財産税と矢継ぎ早の進駐軍の施策により没落していった。斜陽族という美しくも哀しい名を残して。反面この時を「天の時」として大発展を遂げた者もいる。松下幸之助、本田宗一郎をはじめ現在巨大企業に成長したトヨタ、ソニー等を含む企業の創業者達がいる。彼等にとって敗戦こそが「天の時」であった。

 「天の時」とはいったい何なのであろうか。「天の時」とは、時代が音を立てて大きく変化している「時」をいう。変化している時を絶好の好機到来と把えて、勇気を持って、可能性に挑戦することが、成功の第一歩となる。その時こそ「天の時」である。

 団塊世代の大量定年時代を迎え、同時に団塊ジュニア世代が生涯での消費のピークの時を迎えようとしている。バブル後遺症も完全に治りつつある。日本経済がかつてない程のパワーを持っている現在、これから起きる大変化は、まさに「天の時」である。

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京都

平成18年11月17日
○京都

 京都に、京都大学コンソーシアムがある。京都の大学が集って、「京都」について学び、独自の「京都学」の確立を目指そうとするものである。開催場所はJR京都駅のすぐそば。建物は京都市が提供。運営は財団法人で行っている。今年で開設2年を迎えた。

 私は初年度から、これに興味を持ち、参加している。勿論講師としてではなく、一学徒としてである。初年度は「京都」について、各方面から分析し、研究し、京都をトコトン料理して、味わい尽くそうという趣旨であった。

 今年は趣向を変えて、「心」についての問題を、徹底的に解明しようとするテーマである。「心」や「精神の病い」については最近各方面より問題提起されており、京都という「学問の府」としては、願ってもないテーマといえよう。

 京都は平安京の頃から今日に至るまで、約1,000年を超える永い年月、独特の歴史や文化を伝えてきている。また文化のみならず、経済においても他の地域とは異なった企業を育ててきた。京の文化、大阪の経済と言われてきたが、京都に本社を置く中堅企業は誠にユニークであり、他の模範となっている。

 京セラ、ローム、村田製作所、オムロン、ワコール、日本電産、任天堂、島津製作所、村田機械、日本バルカー工業、松風、日本写真印刷、ニチコン、堀場製作所、日新電機、ジーエス・ユアサ、などどの企業も東京本社の企業と比べると大きな差を感ずる。それは京都という世界でも稀な特異な環境の中で育ってきたせいなのかも知れない。ノーベル賞受賞者が東京大学でなく京都大学に偏っているのと同根なのであろう。

 私は「京都学」を追求する「京都大学コンソーシアム」と同じく、福井にも、「福井学」を追求する「福井大学コンソーシアム」が一日も早く結成され、地域の発展に貢献してくれるのを待っている。京都が千年の都であれば、福井は越の国の都2,000年の歴史がある。継体天皇は福井から出たのを忘れてはなるまい。来年は継体天皇御即位1,500年記念の年である。

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敦賀

平成18年11月15日
○敦賀

 敦賀は歴史にも早くから登場する。近くは戦前、ロシア領事館が置かれていた。シベリア鉄道への発着駅というと信ずる人は少ない。国鉄の汽車で敦賀駅へ来た人が、出国手続をして船に乗り、ウラジオストックからシベリア鉄道経由でモスクワ、ヨーロッパへの旅に出ることが出来た。

 敦賀の町は戦災(焼夷弾爆撃や艦砲射撃)で壊滅したが、かつてはエキゾチックな洋風の家々があった。日本海を縦横に活躍した北前船の船主も多く、北海道で収穫した昆布は殆んどが敦賀港に荷揚げされ、加工された。そしてまた全国に出荷されていった。昆布の最大の消費地は、今も沖縄であることを考えると、その商途の壮大さと、商いの大きさが理解できよう。

 この10月にJRは敦賀駅まで直流化工事が完了、中京・関西から快速電車が開通した。特に京都からの観光客が期待できそうである。日本地図を横にして、大陸側に立っているつもりで日本列島を見ると、目の前に「敦賀」がある。非常に近い。海流の関係で、漂流物が敦賀湾に入ってくる確率が高いという。古代から続く大陸と「越」との交流も、この地理的条件を見れば、すぐ理解できる。

 敦賀は今、60有余年の眠りから覚めようとしている。原発の町敦賀、セメントの町敦賀から観光の町へ、交流の町へ、交易の町へと変ることだろう。

 私は私の生涯を通じて、敦賀セメント株式会社にお世話になった。三谷商事に入社以来、両社の創業者の三谷弥平さんの長男が三谷商事、次男が敦賀セメント、三男が三谷産業を継がれた関係の中で、ぞれぞれの会社との間で働かせていただいた。現在の会社を設立した時も株式を持ってあげようかとの温かいお言葉をいただいた弥平さんの孫 政敏さんもご逝去された。ご生前に、福井にある敦賀セメント本社事務所の一階が空いているので使わないかとのお誘いに、喜んで貸していただいた。今は地域の皆さんにヨガ教室、女性専用フィットネススタジオとして開放している。

 三谷商事は、敦賀セメントのセメント販売の業務を行っていた。関東への貸車輸送による高コストの負担に耐えられず、敦賀セメントが関東地区より撤退したいとの意向を受けて、三菱鉱業セメントのセメント販売をターゲットすることが出来た。更に関西の大阪以遠への出荷が難しいとの意向から、磐城セメントの販売が可能となった。敦賀セメントはセメント業界の再編の中で秩父セメントの傘下に入り、その後太平洋セメントとなった。磐城は住友大阪セメントとなった。セメント販売に注力し続けた三谷商事はセメント販売において、全国首位を走り続けている。敦賀セメントの逆境が三谷商事の商機を広げたと考えることが出来よう。その間セメント販売業界、生コン業界の中で働かせていただいた私の37年間は、何ものにも替え難い多くのご縁をいただいた。「敦賀」という今日の「ブログ」は、それに連なる方々への感謝の気持をこめて書いている。私も来年こそは、何とか敦賀の一画に、拠点を持ちたいと念じている。今静かに想を練っているところである。

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漢字研究の「白川文字学」

平成18年11月14日
○漢字研究の「白川文字学」

 福井出身で、漢字研究の第一人者、「白川静」さんのことを知る人は多くない。1910年生まれで、2006年10月に96歳で逝去された。日本と中国は、東アジアにおいて、文化的類型性を持った民族であるという前提の下、漢字研究を通して「白川文字学」といわれる独自の学説を確立。

 字統、字訓、字通の三部作をはじめ、数多くの著書がある。福井県立図書館は、その広大な敷地と、洗練されたデザインの建物、そして豊富な蔵書で、全国的に有名である。その一室に「白川文字学の室」がある。中国の古代文化の研究、とりわけ殷や周の甲骨文や金文についての研究は従来の漢字研究の常識を覆すものである。

 白川静さんが立命館大学で文学部の教授に就任された頃、私はすぐ近くの同志社大学に入学した。当時立命館大学は京都御所の東側に隣接。その立命館の更に東に京都大学が、そして京都大学の南側に京都府立医大があった。同志社大学は御所の北側に今でも本校がある。講義の空時間や突然の休講の時など、御所の林の中の砂利道や芝生を散歩していると立命館の学生や教授によく出会ったものである。安保闘争の始まる前、学園紛争が京都大学を拠点として始まろうとしていた頃である。

 白川静さんは直接の面識はないが、彼の生家は私の会社が所有するビルのすぐ近くにあった。福井は戦災で全焼し、震災でまたもう一度全焼し、古い由緒ある建物は殆んど現存しない。その焼土の中から、前後いち早く立ち直って奇跡の復興を成し遂げた福井市は、不死鳥の如く蘇った町というので「フェニックスシティ」と名付けられた。そして南北に通ずる旧8号線の国道を「フェニックス通り」と呼んでいる。私は白川静さんの生家のあった近くのビルを購入し、これを「フェニックスビル」と命名。福井市の活性化の為に微力を尽くす心意気を示したつもりだ。ともあれ白川静さんのご逝去に追悼の意を表したい。彼は福井出身者では珍しい「文化勲章の受章者」である。

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京都

平成18年11月9日
○京都

 長浜から京都まではJRの快速で1時間余りでいけるようになった。1955年私が同志社大学に入学した頃は、普通か急行しかなく約3時間(普通列車)もかかった。京都の各大学へ入学した友人達はすべて寮や下宿へ入った。

 父方の親戚は河原町松原で表具商を営んでいた。母方の親戚は三条堀川の藤木家(高校教師)、三条河原町の清水家、河原町今出川上賀茂と数多くあった。その内の一軒鳥丸今出川を下った所で下宿させていただいた。18歳になったばかりの春である。大学まで電車で5分。すぐ北側に大谷大学の塀があり、電停の近くの近畿予備校には浪人した予備校生が通ってきていた。住宅地としては最高の静かな環境で、広い2階をすべて使わせてくれた。

 外食券食堂があちこちにあり、1日3食すべて外食で済ました。突然の独り暮らしは憧れであり、不満は全くなかった。しかし、食料事情の悪い中で、毎日の食事のカロリー計算などの知識がなかった私は3ヶ月程でダウンした。急性の栄養失調である。周囲の勧めもあり、私の希望もあり、下鴨の下宿に移った。そこでは朝晩の食事をつけてくれた。

 下鴨は学生の町だ。沢山の学生が暮らしている。そこで多くの友人と知り合った。一緒に夜の繁華街へ電車で繰り出した。二級酒は高級品、25度や35度の焼酒や濁酒が出てきた。ビールも高級品。トリスのストレートがハイカラな頃だ。学生同士で飲んでいると、ついつい懐具合を考えず度が過ぎてしまう。全員の財布をはたいていも勘定が足りない。そんな時の親戚はありがたい。友人を人質に残して近くの親戚に駆け込んで、借りてくる。その内顔が効いて学生証でツケてくれるようになる。

 京都は学生の町だ。当時の京都の人は私達のことを「学生さん」と言った。東京へ遊びに行くと「学生」と言われる。何か軽蔑されたように感じたものだ。京都ではどこに行っても「学生さん」「学生ハン」で4年間大切に扱ってもらえた。イギリスのケンブリッジでは生徒や学生は子供の頃から紳士として、尊敬され乍ら教育を受けていると聞いていたが、京都でも、その風潮を強く感じた。「教育」というものの本質がそこにあるのであろう。同志社にもそれがあった。外人教師の自宅やゼミの教授の自宅へ招待されると紳士として迎えられる。礼儀を知らない田舎者の私はただ笑って顔を下げることしか出来なかった。未だに格式ばった挨拶は苦手である。

 京都は千年の都という。世界遺産に匹敵する町だ。そこで4年間の青春時代を過ごすことが出来た幸せを常に感謝している。同志社大学が新島襄によって明治8年、日本最初の英学校として京都で誕生。

 創立131周年を迎える。11月5日の記念式典に出席。久方ぶりに大谷實総長に会う。先般贈呈された本のお礼をいう。『新島襄への旅』である。私も同名の本を出したいと日頃考えていたので大変参考になった。八田英二学長の若々しい歓迎の言葉。新学部開設(生命医科学部・スポーツ健康科学部)の話には思わず拍手したくなった。教祖新島襄への思いを秋田まち子校友会長、野東真也理事長から伺って、母校への思いを益々深くした一日となった。皆さんに親しく挨拶出来たのも幸運である。一般公開中の京御所の中を散策しながら、50年前の学生時代に素直に帰ることが出来た。晩秋の天高い一日となった。

 同志社の「良心教育」はつとに有名であるが、その根底にある「自由」を忘れることは出来ない。「自由」を求め、固禁を犯して、函館より密出国し、1年がかりでアメリカに到着。日本人として初めて欧米の大学を正式に卒業。日本へ帰ってリベラルな思想、キリスト教主義に基づく英学校を開校。以来幾多の迫害の中を建学の精神を失わず今日に至っている。関西の、いや日本の私学の雄として今後の発展を期待したい。

 同志社ほど創立者、教祖について語る学校を私は知らない。あらゆる機会を捉え、あらゆる教師、OB達が切々と語るのを聞くことは、誠に稀有のことと言わねばならない。

 すばらしい町京都。1200年の歴史を持つ京都。今なお光り輝く京都。そしてその京都の中心、御所に隣接する同志社大学(広大な田辺キャンパスもある)。そこで学んだ4年間、そして卒業以来ずっと過している「同志社ライフ」私の生きる基本を作り上げてくれた京都、同志社に心からの感謝と賛辞を送りたい。

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霧の中

平成18年11月8日
○霧の中

 朝ふと窓に目をやると、一面の濃霧。目の前の数本の桜や松、少し離れた杉の大木は見える。あとは一面の濃い霧だ。いつもの城山やゲンジ山も乳白色の霧の中にある。何も見えない。

 あまりの濃い霧に驚いて、テラスに出て見る。テラスの木の床は、雨上がりのように濡れている。湿度は高い。鳥の声も、遠く走る車の音も聞こえない。すべてのものが霧の中で息を潜めているようだ。

 永平寺町に住んで、自然と親しむ時間が増えた。刻々と変る夜明け前のスペクタクルは、まさに圧巻。朝焼けの光の、雲の色の変化の早さは、目が離せない。また夕陽の残映も心に残る。

 しかし今朝の濃霧は、初めての経験である。軽井沢の朝、箱根の朝を思わせる濃い霧だ。しかも動かない。気が付いて30分以上も経つが、いつも動く霧や霞と違って、今日の霧は重く厚い。東京一極集中という世界でも稀有な現象が続く日本であるが、このように美しい自然の中で生活できる所が、福井にはどこにでもある。

 日本海まで車で30分、奥越の深山霊谷まで30分。福井市の中心部にある本社事務所まで15分。東京では考えられない自然の真っ只中にいる。

 何も見えない濃い霧の中で、私は今日も時代の先をじっと見ている。今、日本は大きく変ろうとしている。団塊の世代、団塊ジュニアの世代と共に、新しい日本を私達の手で築いていきたいものだ。自然の恩恵に感謝しながら。

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相続が争族になる

平成18年11月7日
○相続が争族になる

 財産を先祖から預かり、それを子孫に引継いでいくことを「相続」という。毎年150万人余りの人が亡くなられているので、毎年その数だけ相続が発生していることになる。1947年に家督相続制度が廃止になった。それ迄は全財産は家督を相続した者が、すべて受け継いだ。ところが、それ以降は、相続人は原則平等になって相続時に相続人同士の争いが起きるようになった。両親の片方が亡くなった一次相続の時は、争いはまだ少ないが、残りの親が死亡した二次相続時に、争いが起きるケースが増えている。

 1996年には家庭裁判所へ持ち込まれる相談件数は約6.8万件であったものが、10年後の2005年には約11.7万件と1.7倍に増えている(司法統計年報より)。しかも年々確実に増えている。身内同士が争うのは誠に悲惨で、その後もお互いに深い傷跡を残すことになる。それを避ける方法は唯一つ、「遺言」を生前に残しておくことである。これですべてが解決する。しかるにこの遺言(公正証書遺言と自筆遺言がある)を残す人がまだ少ない。これは是非実行しておくことが必要である。

 私の仕事は地主様との接点が多い。それだけに相続税を心配されているケースによく出合う。そんな時、節税の相談や相続の相談に乗ることは、弁護士法や税理士法で禁じられている。私がアドバイスするのは、この遺言書を作れということである。この事で相続がどれ程スムーズに進むか、そして身内の争いがなくなるか、驚く程の効果がある。

 私は毎年「家訓」を書きかえている。それと同時に、少ない財産ではあるが「自筆の遺言書」を書いている。現在、公正証書遺言が作成されるのは約7万件、自筆遺言書の検認件数は約1.3万件。まだまだ醜い争族が続くのである。「遺言」は自からの意志の表明である。堂々と胸を張って残しておくべきものと思う。

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飲酒運転

平成18年11月1日
○飲酒運転

 私が初めて運転免許を取った昭和34年頃は、「飲酒運転」は禁じられていなかった。いくら泥酔していても警官は、「気をつけて帰って下さい」と親切に注意しただけだった。それだけ道路を走っている車が少なく、事故は殆んどなかった。事故とは車の故障のことで、道端で動かない車は見たことがある。

 その後「酔払い運転」を取締る法律が出来た。いわゆる「泥酔運転」である。これが少しずつ強化されてきた。「酔払い」の程度が明確になり、検査方法が確立された。

 そして「飲酒運転」禁止が施行された。「飲んだら乗るな、飲むなら乗るな」である。私のように長い間、車の厄介になってきた人間にとって、このように徐々に取締りが強化されてくるとその変化の過程を知っているだけに、飲んでからつい乗ってしまって、思わぬ事故に遭った人間の気持を想像することが出来る。

 取締りに当っている警察官や、民間に対して模範となるべき公務員が、悲惨な事故の加害者となっているケースなど、まさにこれに当る。気のゆるみである。

 「ストップ飲酒運転」の動きが、各方面で強くなってきた。飲酒運転は社会悪であり、犯罪なのだということをより強くアピールしていくことが何よりであろう。

 私は車のシートベルトが標準装備された頃、トヨタビスタ福井の代表を勤めさせていただいていた。そして死亡事故発生率を劇的に引下げるのが「シートベルト着用」であることを知った。早速シートベルト着用を促すスローガンを作り、社用車全車にそのシールを貼って、お客様にシートベルト着用を促した。お客様が希望されれば、そのシールを無料でさしあげた。その後シートベルト着用は、前席共に義務付けられ、交通安全に大きく貢献している。

 現在の道路交通法では、アルコールの影響で正常運転が出来ない恐れがある「酔払い運転」は免許取消及び3年以下の懲役又は50万円以下の罰金である。 「酒気帯び運転」は免許停止及び1年以下の懲役又は30万円以下の罰金である。飲酒の後の運転は、どんな理由があろうと許されないと肝に銘じて置かねばならない。

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和風のファッション「フロシキ」

平成18年10月31日
○和風のファッション「フロシキ」

 呉服業界が、全般的に困難な状況にあるのは、誠に寂しい限りである。その中にあって強い抵抗を示し、存在感を残しているのは「フロシキ」である。

 包装の過大が叫ばれ、使い捨てが問題視される中にあって、繰り返し使えて、携帯に便利な「フロシキ」が注目され出している。東京ふろしき振興会の発表によれば、1990年以降減少が続き、ピークの1990年842万枚の出荷量に対し、2006年は416万枚と半減。しかし今年はエコ意識の高まりを背景に、ファッション性も見直されて増加に転じる予定とのこと。

 和装は日本の正装である。民族衣裳である。文化である。これ程美しく、繊細で、長持ちする衣裳は世界中捜しても絶対にない。日本の宝なのである。その和装が今、苦境の真っただ中にある。金融機関の救済もほぼ終了した今、業界に対して何らかの新しい政策の実現を期待したい。

 「フロシキ」に話を戻そう。フロシキが復活し、元の姿に戻るためには新しいデザインが必要だ。和装に合ったかつてのフロシキから、洋装でも違和感のないデザインに変える必要がある。若手の新進デザイナーの活躍の場がある。更に復活に必要なのは、「フロシキ」の新しい使い方である。ラッピングにとどまらず、巻きスカート、大きめのスカーフ、小さめのスカーフ、急な雨の傘代わり等等。私の古い知己の小料理店のオカミは額装して店に飾っていた。時々季節にあわせて中身を変えて。なかなかに味わいのあるアイデアであった。

 年間に使われているレジ袋は300億枚といわれている。これをフロシキにかえると、エコロジー効果は莫大となる。知恵は生きているうちに使えといわれるが、エコの種はどこにでも転っている。やるかやらないかの違いだけである。

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期待される人間

平成18年10月26日
○期待される人間

 ノーベル賞作家とその息子の話を、当社の社外取締役の蜂屋良彦文学博士から聞いた。重い障害を持つ息子に対して、周囲の人達は、当然のように「何かをしてあげたい」と思い続けていた。逆に息子は、「何かをしてもらいたい」とは思わずに、「父親を助けたい」「父親に何かをしてあげたい」と思っているというのだ。

 人は、人に期待される人になりたいと思っている。ところがそれに気付く親も教師もあまりに少ないのは悲しい現実だ。教育の根本は、愛情を持って人を育てることだ。それは期待される人間を育てることだ。その為には「期待する」という一番大切なことを忘れてはならない。教育の根本は「期待する」ことに尽きる。

 生徒は先生に期待されることによって目の色が変ってくる。欠点を直すのは至難の技であり、成功の確率は限りなく低い。いかなる優秀な教師も、生徒の欠点を直すのは難しい。なぜなら、自分の欠点を知っているのは生徒自身である。一番よく知っている。その欠点を指摘されることによって逆効果が起きる。欠点を意識しすぎるのだ。そして反発につながる。 

 期待されると人は変る。欠点を見ず、よい点を捜しそれを褒め讃えることにより、良い点を伸ばすのだ。よい点が伸ばされてくると、まわりの見る目が変ってくる。生徒は自信を持つ。いつの間にか欠点は小さくなり、その内、消えてなくなってしまう。得意技に磨きをかけると勝てるといわれているのも、これと全く同じことである。

 期待される人間になりたいというのは、万人の持っている夢である。親は我が子に期待をかける。教師は生徒に期待をかける。上司は部下に期待をかける。これがすべての必要条件である。そして成長を促す為に「褒め言葉」を用意しなければならない。温かいまなざしと愛情を持って・・・。

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ほめられて

平成18年10月25日
ほめられて

 母は和裁塾を若い頃から始めていたので、私の家にはいつも若い女性達で一杯であった。母の教え方は厳しかったが、最後に必ず一言ほめるのを常とした。叱りっぱなしは人を育てないということをよく知っていたのだ。

 私は母によくほめられた。戦前の「長男」の地位は大変高く、みんなが大事にしたものだ。祖父にとっては、父母ともに養子養女であったので、尚のこと初孫の男子であった私を大事にした。戸主は男系相続で、全財産を長男が相続した。戦後の農地開放、戸主制度廃止、男女同権などの新法が決まり、世の中は根本からひっくり返ったような様相を呈することになった。しかし長男が家長という考え方はしばらく私の家にも残っていたようである。

 「ほめる」ということは「人を育てる」ことにつながる。「ほめる」為には、相手をよく観察し、その長所、美点を見つける必要がある。そこに愛のまなざしがある。

 「ほめられる」ということは、何をほめられても悪い気はしない。当然その結果、自信が持てる。勇気が湧いてくる。私のような凡人を、母は上手にほめあげて、少しずつ軌道修正をしてくれた。

 母の最後の言葉は「たのむよ、弦司さん」であった。私と妻の二人が枕頭で手を握って見送った。最後まで力の乏しい息子を勇気付けてくれた母であった。

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一隅を照す

平成18年10月20日
○一隅を照す

 夜明けと共に世界を照す太陽をあがめる「太陽神の信仰」は、太古の昔より深く人々に信じられてきた。我々人類の生きる目的を捜す旅を、旅する人々は、有史以来決して少なくない。哲学者、宗教家、芸術家、政治家など数多くの人々が「真に生きる目的」を求めてきた。

 私は幼い頃から宗教心を涵養するよい環境の中にいた。私の生家は八幡神社の森にほど近く、幼稚園は森の一隅にあった。また、大通寺という東本願寺別院もすぐ近くにあった。長浜のまちは神社、仏閣を中心とする祭りが年中行われており、子供心にも、神や仏への尊崇の念を感じていた。私の家の奥座敷には仏壇があり、浄土宗の浄国寺の和尚さんが毎月月参りに来宅され、その都度家にいる家族全員がお経を聞き、焼香した。また、床の間には神棚があり、これまた毎月、神主さんが月参りの祝言を上げに来宅された。一斉に拍手を打って神前にお参りをしていた。

 大学に入りキリスト教を知りたくて、SCAというクラブでクリスチャンの友人達と、チャペルアワーに参加したり、英語の聖書を読む集いに出席した。新島襄に強くひかれていったのもその頃である。小野高治教授(当時は助教授)のゼミで、「マックスウェーバー研究」をしたのも、近江商人が悩んだのと同じ悩みを、プロテスタントの商人達も悩んでいたからだった。

 神道、仏教、キリスト教が私の体内で何の抵抗もなく一つになっていくのは、生活の中に密接に重なりあって存在していたからであろうか。

 いずれの宗教からも、私は同じものを教えられた。それは「一隅を照す」ということに尽きる。生きる目的を私は常に数値化している。存在の証拠は付加価値であり、その極大化こそ、私の生きる目的である。己の為の付加価値など存在しない。そう信じている。

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霞たなびく

平成18年10月12日
○霞たなびく

 「かすみ」という言葉がある。雲や霧、そして霞というが、その霞である。私の住む永平寺の陋屋からは季節を問わず、この雲の変化、霧の誕生、そしてたなびく霞の饗宴を見ることが出来る。雲は東方の城山の上を、殆んど毎日北から南へ動いていく。雲は高い。霧は城山や私の名付けた「ゲンジ山」のまわりから沸き出てくる。杉木立から湧き出てくる霧は、何本も、何本もあり、少しずつ湧き上ってきて美しい。

 そして霞は、南から北へ、永平寺のある方向から谷伝いに九頭竜川に向ってゆっくりとたなびいている。霞が幾すじもの流れになり、少しずつまわりの風景を消していく。我が家の白く塗り直したテラスが、雨も降らないのに朝の陽光を浴びて光っている。彼岸を過ぎた今は、太陽が城山より顔を出すのが遅くなってきている。6時半やっと顔を出した。

 福井に日本最古の天守閣を持つ城がある。丸岡城という。かつて国宝であったが、福井大震災で壊れた後に修復された。修復された時の部材がごく一部新しいものを使ったという事で、戦後、国宝から除外されたという。国宝とは一体何だと疑問を抱く人は多い。この日本最古の美しい城の名を「霞ヶ城」という。織田信長の第一の臣といわれた柴田勝家が、その甥 柴田勝豊に作らせた。その後勝豊は近江長浜城に移り、安井家清に在番させた。関ケ原の役の後、結城秀康(徳川家康の次男、二代将軍秀忠の兄)が北ノ庄城へ入った時重臣の今川盛次を、そして次には本多成重を丸岡城へ入居。その後丸岡藩として独立。その後有馬清純が五万石の城主となり、明治まで続いた。霞ヶ城はここから数キロ北へ行った所にある。霞が出るとその中に埋没して、敵の目に見えず、攻められることがないという言い伝えがある。雲や霧、そして霞の美しい山里である。

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越前海岸

平成18年10月4日
○越前海岸

 今日は10月の第一水曜日、ロータリークラブの例会の日であるが、先日越前海岸をドライブした。久しぶりの快晴に恵まれ、三国から東尋坊への散歩道、荒磯の道を妻と歩いた。高見順の文学碑がある。何度読み返しても胸にくる詩だ。「黒い日本海」と彼がいう海は、今日は沖縄の海のように波静かで、青々としている。決して黒くない。また今日は秋なので「吹雪」でもない。高見順の心象風景と、目の前のすばらしい眺望とを比較しながら、私は彼の悩みの深さと、その反面、故里を思う心の切なさをしみじみと感じる。

 三国には戦中戦後の一時期三好達治が住んだ。彼を訪ねて、多くの文人が三国を訪れている。彼のかつての偶居で、今日は昼食を旧友を交えていただくこととなった。海岸の高台に建つ、ステーキハウス「三好楼」である。眺望のよいことは文句なし。三好達治が愛した「藤棚」が残っていて芝庭によくうつっている。

 三国は冬のエビや越前ガ二が有名で、毎年越前ガニを皇室に献上している。雪の降り出す頃、12月上旬から1月下旬までがカニの最もおいしい季節ということで、シーズン中はすべてのホテル、旅館、民宿が満員になる。

 三国生まれの薄幸の美人 森田愛子は、伊藤柏翠の紹介で高浜虚子に師事し、その三人の句碑が東尋坊の一隅に残っている。私の好きな愛子の句は、鎌倉から小諸の虚子を思う一句。

虹の上に立てば小諸も鎌倉も

 そして重病の床より電報で届けた最期の一句。

ニジ キエテスデ ニナケレド アルゴ トシ アイコ

 三十歳の、俳句一筋の生涯であった。高浜虚子の晩年の名作に小説「虹」がある。そして私の贔屓のうなぎ屋の箸袋に、俳誌「花鳥」を主宰していた伊藤柏翠の句が残されている。柏翠も生涯を通じて、俳句三昧の生活を送っていた人である。

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日本文明の謎を解く

平成18年9月29日
○日本文明の謎を解く

 日本のように類い稀な繁栄を続けている国は世界でも珍しい。豊かな水、そして緑、亜熱帯から温帯を経て亜寒帯に至る長く縦に伸びる国土。そこに住む豊かで礼儀正しい人々。この美しい国、日本。争いのない国、日本。この日本文明の存在の謎を解明してみよう。

 縄文時代より遥か以前、南方より黒潮に乗って渡来した南方系の人々、北方より親潮に乗って来た北方系の人々、大陸・半島から偏西風に乗って来た人々、それ等の人々はこの東西南北に弓状に細長く伸びた日本列島の中で、幾度となく混血を繰り返し、日本独特の平和を愛する国民性を育てていった。
しかも世界有数の火山列島であることで、常に肥沃な土壌が火山によって供給され、急峻な地形は、更に沃土を拡大し、高温多湿の気候は、動植物や農産物を育成した。

 人々は火山による恩恵、水による恩恵など自然との共生の中で世界有数の安定した生活を送ることが出来た。

 また度重なる水害を克服する為の治山治水の技術が早くから発達し、数多くの事蹟が語り継がれてきている。水田の水勾配を絶妙にコントロールする技術は、水稲栽培が始まった頃に確立されていた。それが氾濫を繰り返す河川の治山治水事業に生かされていったのだ。また火山列島であることは金の生成に直結し、「黄金の国ジパング」といわれた世界有数の産金国として、長い間世界的に有名であった。九州の菱刈金山は、現在でも世界一の純度の高い金を産出している。このように日本を取り巻く自然環境、とりわけ火山帯、モンスーン地帯等の影響を受けて、自然を克服するのではなく、自然との共生を目指した生活を通して、世界でも珍しい日本独自の文明が形成されてきた。この独特の自然条件と全く同じところは、地球上には存在しない。地球が宇宙の奇蹟といわれるのと同様に、われわれの住む日本は、地球上の奇蹟なのである。

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ものは取りよう、考えようで変る

平成18年9月21日
○ものは取りよう、考えようで変る

 宗教も、哲学も、心理学も同じことを言っている。それはあらゆる事象は、本人が好むと好まざるとにかかわらず、「結果は決っている」と考える人々が多いが、それは完全に間違っているというのだ。あらゆる物事は心の持ちよう、気の持ちようでどうにでも容易に変る。言葉を変えると「ものは取りようで変る」「ものは考えようで変る」というのだ。例えば同じものを見て、「白と思えば白」になり、「黒と思えば黒」になるということだ。

 「幸せの種、喜びの種をまこう」を、私は会社の社是の第一に掲げている。「幸せ」について考えてみよう。「幸せ」は誰にでも簡単に手に入る。これは信じるか信じないかで決まる。例えばボーナスを10万円もらって「10万円しかくれない」と考える人は100万円もらっても満足しない人だ。即ち「幸せ」を手に入れられない人になる。逆に「10万円もらって有難い」と考える人は、既に「幸せ」を手に入れている。
雨の日に空を見上げて「嫌な日だ」と思いがちである。しかし、庭の植物や畑の作物にとっては慈雨になっている。有難いなと考えられるようになると「幸せと喜びを具現できる人」になっている。

 夏の暑い日に「嫌な天気の日だ」と思いがちである。しかし海岸で泳いでいる人達は嬉しいだろうな。登山している人達も、ハイキングしている人達も、大いに汗をかいで楽しいだろうな。今夜のビールが楽しみだと考えると人生は変る。

 失敗をした時にその失敗に打ちひしがれる人と、その失敗から学ぶ人との差は大きい。失敗をしたら、クヨクヨする暇などない。原因は何だったのか。そしてその対策はと考えていくと自然にプラス思考に変っていく。失敗から学ぶ姿勢が大切なのだ。失敗を恐れず、失敗はチャンス到来と考えるのだ。そうするとひとりでに成功に近付いていける。

 古今東西から、宗教も、哲学も、心理学も同じことを言っている。「ものは取りよう、考えようで変る」と。しかし私達は、こんな簡単な真理でさえ、なかなか信じられない愚かな存在である。とりあえず、今日から、これを信じて、幸福の女神をしっかり把んで生きていこう。「この世は闇」いやいや「この世は極楽、極楽」、「ありがたい、ありがたい」。

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「今」を生きる

平成18年9月20日
○「今」を生きる

 過去にとらわれている人間は多い。過去に起きたこと、今となってはどうにもならないことにこだわっている人間である。過去にとらわれると人間は「とらわれ人」になってしまう。「過去という牢獄」の中でクヨクヨして年月を無駄に過してしまう。

 過去に起きたことは、すべて肯定することが肝要である。過去から逃げ出す方法は、唯一つ、「過去を肯定する」ことに尽きる。過去を肯定することは、自分の失敗や不幸や不運などあらゆることを認めることになる。それが自信につながる。

 あらゆるものに現在という時間即ち「今」は平等に与えられている。生まれたばかりの赤子も、死の床にいる人も、金持ちも、貧しい人も、地位や財産、年齢、性別、人種などに何の関係もなく、すべてに平等に与えられている。

 そしてこの「今」はこれから死の瞬間まで延々と続いていくのである。「今」何かをするか、或いはそれを先延しにするかで、決定的な差がついてしまう。大切なことは「何をするか」でなく、「どうするか」でなく「実行すること」なのである。

 「今」を生きるとは、このことを言っている。怖れるな、こわがるな、心配するな。完璧を期するな。失敗を恐れるな。

 「今」全力投球せずして、いつ全力を出すのか。「今」一歩を踏み出さずして、いつ歩き出すのか。明日は「今」から始まる。「今」という限られた時間に、自分の持つ全力を傾注すれば、明日の扉はおのずから開かれる。

 「今」こそという気概を持って、「今」に集中することこそ人生の指針とすべきであると考えている。一所懸命という言葉があるが、現在の職場、現在の仕事、現在の家庭、そして現在の地域の為に、命をかけた働きをすることが人の道である。

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「ことだま」について

平成18年9月15日
「ことだま」について

 言葉には魂があるといわれて久しい。福井が生んだ白川静博士は言葉の研究に生涯を捧げた。文字学の最高権威であった。

 文字に深い意味があるのと同様、言葉には人を支配する力がある。演説の上手な人は、人を誘導することに長けている。人は人の言葉によって支配されることが多い。小泉劇場といわれた小泉政権では、小泉首相の言葉に日本中が躍らされた。構造改革であったり、郵政改革であったり、刺客であったり、小泉チルドレンであったり。しかしその言葉は予想以上に効果を表わした。何度も何度も繰り返される同じ言葉に、国民は急速にその影響を受けていった。言葉の持つ力を小泉首相はよく知っていて、それを要所、要所で使ったのだ。名優の名演技,歌舞伎から取り入れた手法である。

 言葉には魂がある。信じている人から「ダメね」といわれると、人間は弱いから、本当にダメになる人が多い。その反対に、「スバラシイね」と褒められると益々力が湧いてくる。業績はうなぎ昇りに上っていく。「褒める言葉」を上手に使える上司や監督、相手に恵まれた人は幸せである。

 言葉には力がある。人を支配する力だ。会社に入って営業部門に配属になり、「私は営業が苦手だ」と言ってはならない。そんな言葉を使うと、知らず知らずのうちに営業マンとして失格する。「私は営業をやった事がない」というべきだ。そうすると「営業に精通する道」へ進むことが可能になる。言葉や文章で自から決意表明をすることは、すばらしい効果を生み出す。文章に書き、声に出して読むことで、益々効果が表われる。毎日繰り返せば直ちに目標が達成できる。それが言葉の持つ不思議な力である。

 一つの言葉で大きな影響を与えた人がいた。「少年よ大志を抱け」のクラーク博士。「板垣死すとも自由は死せず」の板垣退助。「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」の福沢諭吉。「稚心を去れ」の橋本左内。私達は数々の金言名言というすばらしい財産を持っている。そしてその言葉の持つ力を有効に使っていくことこそ大切である。

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面白いはなし

平成18年9月13日
○面白いはなし

 面白い話を一杯用意している人は人気がある。人は面白い話を聞きたがっているからだ。教えるということは人を育てることである。人を育てるのは、夢中にさせることだ。夢中にさせる為には興味を持たせ、ひきつけることから始めなくてはならない。その為に面白い話を一杯用意しておくことは有意義だ。
「億万長者に誰でもなれる」このテーマで人を魅了することも出来る。近江商人の永遠のテーマであり、この方法で成功した人は多い。今日はその方法を伝授しよう。

その1.入るをはかって出るを制する。
 どんなに収入が多かろうが少なかろうが給与、収入の2割を残し、8割で生活をする。ボーナス等の臨時収入は5割を残す。

その2.ダブルインカム。共稼ぎをすること。
 現代は男女差がなくなる時代。二人で稼げる相手を見付けて、二人でせっせと残すことを考えよう。

その3.健康で長寿。
 短命では億万長者にはなれない。ムダなタバコを止め、暴飲暴食を止め、規則正しい生活をする。タバコはお金を煙に変えるだけでなく、身体に悪く、他人に迷惑をかける。最大の罪は自分の貴重な時間と人生を煙にしてしまうことだ。1本5分、1日40本50年吸い続けると、短命による損失10年。ムダな時間による損失6万時間≒有効年10年。即ち20年をムダにしてしまっていることになる。20年間という貴重な稼ぐ時間を、放棄しているのだ。

 暴飲もダメだ。飲むとつい気が大きくなってムダな出費をしてしまう。暴食、過食も健康に一番悪い。私が言っているのではない。多くの医師の友人の言葉である。

その4.ギャンブルを止めよ。
 せっかくの億万長者への道を、一瞬にして失うのはギャンブルのせいだ。競輪、競馬、パチンコ、宝くじ。すべて成功の確率が極端に低い。買ったつもり、使ったつもりで残しておくと、いつの間にかその「つもり預金」が1億円を超えている。

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古民家解体リサイクル 森藤右衛門十代目(森正晴)邸の場合

平成18年9月12日
○古民家解体リサイクル
森藤右衛門十代目(森正晴)邸の場合

 福井県越前市(元武生市稲寄)の総庄屋、森邸の解体について相談を受けたのは今から約1年余り前のことであった。石森屋材木の社長 石森修一郎氏からである。私は「勿体ない哲学」を信奉するエコロジー運動家の一員である。古民家、それも由緒ある古民家が、訳もなく解体され、ゴミとして燃やされていくことに、強い憤りを感じてきた。そして古民家の収集、古材のリサイクルに取組む道を歩み始めたのは、今から約5年前。「エコフェスティバル」というエコロジー運動を行う為に、全国の知人友人に声をかけた時、日本民家リサイクル協会の金井氏と知り合った。早速出展の了解を取り、福井県のメンバーを紹介していただいたら、旧知の石森屋材木の名前があった。それ以来彼とは何軒かのリサイクル事業を共同で推進している。

 森家は、先代は福井県の総務部長。先々代は武生市長。その前は貴族院議員と名門中の名門である。屋敷は約700坪、周囲を小川が流れ、表門は長屋門、西側に裏門を持ち、棟押えに地元しゃく谷石が使われている。福井大学建築学部の福井先生の指導を仰ぎ、解体調査をはじめて約1年近く。やっと解体の最終段階に入った。残した部材は1000本を超えた。建築年は嘉永6年(1853年)ペリー来航の頃。赤瓦葺きの当時としては超モダンなものである。瓦には六つ葵紋があり、徳川家(越前松平家、本多家等)との関係も考えられよう。

 解体後の再建築の場所の選定と、その建物の利用方法について、熟慮中である。150年を経てきた由緒ある建物を、更に数百年残す方法を思案している。森家ではこの建物に関する本の出版を考えられており、私達の責任も重大である。

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火星が出ている

平成18年8月29日
○火星が出ている

 目が覚めて、ふと空を見上げると、オリオン星座が見える。目を転ずると、赤い火星が出ている。私達が子供の頃に習った太陽系は、1つの恒星と9つの惑星からなっていたのが今回、8つの惑星に変った。夜空に輝く数多くの星からは、太陽系とその他の区別すら殆んど不可能である。私にとって太陽系の星よりは、北斗七星やオリオン星座などの方が、より親しみを感ずる。

 真理と思ったことが、簡単に間違いだったと訂正されると、人は何を信じてよいのかわからなくなる。敗戦の時、大人達の考え方が大きく変った。価値観の180度の転換であった。道路は、ロードだ。男女7歳にして席を同じうせずでなく、男女共学だ。憲兵は恐い人でなく、犯罪人だ。東条英機は英雄でなく、戦犯だ。子供心に何が何だか訳が分からなくなったが、祖父母や父母の思想の混乱は、もっともっと大きかったようだ。殆んどの大人達は自信を喪失していた。その中で確固とした信念を持って、戦争中を生き延びた数少ない人々がいた。新しい女性達である。平塚らいてうや平林たい子、そして福井出身の奥むめおがいる。戦後大量の国会議員が突然生まれたのは一時の反動であったのだろうか。明治22年(1889年)に公布・制定された大日本帝国憲法と皇室典範は、約700年続いた武家政治を廃し、王制復古を宣言した。それから僅か60年たらず昭和21年(1946年)に敗戦を機に、日本国憲法が公布された。価値観がゴロゴロ変ったこの1〜2世紀を思う。

 あれかれ60年、やっと今、憲法論争が始まった。女性の稲田代議士から握手を求められ、激しい時流の変化に、しばし我を忘れた。

 火星が出ている。秋の気色を感じさせるが、今日もまた暑くなりそうだ。午前4時。

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「一日一滴」

平成18年8月11日
○「一日一滴」

 仕事の合い間をぬってブログを書いているが、気がつくともう一年近くが経過している。休みの日以外は、必ず書いている。テーマはまさに気の向くまま。一日一日のブログが自分の記憶の一ページだと思っている。

 「一日一滴」これが私のブログ観である。書くテーマによって長い文章になる日もある。また反対に、勢いこんで書き出しても、筆が進まぬ日もある。記憶の曖昧さから、正確を期す為に、もう一度書庫に戻って調べることが多い。調べている間に、ついつい他の事に興味が移ってしまうこともある。

 私は旅が好きだ。仕事の関係で、日本全国を飛び回っている。世界中を歩いていた時期もある。営業の仕事とは、数多くの人と出合い、その中からビジネスのニーズやシーズを拾い出していくことなのだ。

 常に積極的な姿勢を保ちつつ、しかし常に聞き役に徹し、日々変化する潮流を見極めるのだ。油断してはいけない。細心の注意を払いつつ、しかし大局観を持ちながら、人と対峙する事が大切である。これは真剣勝負である。

 仕事を終り、次の仕事へ向う移動の時間が、私のいう「旅」である。仕事をなし終えた満足感を胸一杯に、旅を満喫する。心を開放すると、見るもの、聞くもの、すべて感動の源である。寸暇を惜しんで「旅」を楽しむ。想像を働かせると「私の旅」は無限に広がる。そして大きな癒しの時をもたらしてくれる。
「一日一滴」をつづけていくと「私の旅」はどんどん大きくなっていくようだ。

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『京都の友』

平成18年8月10日
○『京都の友』

 滋賀県の湖北地方に生まれ、関西文化の中で育った私には京都を通じての友人が多い。勿論卒業したのが同志社大学であったことにもよる。仕事の中心は福井市(納税地であると同時に実質的な本社機能もある)と営業の中心である浦安市(首都圏の渋谷・さいたま・立川・神奈川・浦安支店を束ねている)の両本社である。

 しかし京都の友人は、他の地域の友人の数よりも遥かに多い。月に1〜2回は浦安や渋谷に行くが、京都も月1回は訪れる。京都には100ヶ所近い営業拠点があるが、ここ3年で3倍に増やそうと考えている。その為の投資も準備中である。

 クラマ画会という大学の絵画のクラブ活動を共にした先輩後輩が、卒業後鞍馬画会を結成し、毎年、木屋町御池の画廊を1週間借りて発表会を行っている。私は会社創立以来、残念乍ら絵筆をとる時間がなくなり、ここ数年は出展できずにいる。鞍馬の友は有難い。
近江商人は滋賀県で生まれ育って、京都、大阪、神戸で活躍していた人が多い。勿論東京の日本橋界隈では未だに関西弁が飛び交っている。しかし京都はまた格別に多い。私の会社の京都支店も、長浜出身の大先輩の長谷さんの第11長谷ビルにある。東京の森ビルのスケールには届かないが、京都の中心部で数多くの自社ビルをお持ちである。また私の会社の取締役、監査役も、京都で共に学生生活を送った友人である。

 無二の親友という言葉があるが、数人もの親友に助けられて仕事をさせてもらっている自分は、何と幸せ者かと感謝感謝の毎日である。

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「おみくじ」

平成18年8月7日
○「おみくじ」

 京都に天津神社がある。北野天満宮の広大な神域と桜で有名な平野神社との間に、ひっそりとたたずむ小さな神社である。この天津神社に有名な「おみくじ」がある。木の箱の中に竹の表裏に、神の言葉が書かれている。困った時、判断に迷った時、私はこのおみくじに答を求める。正解率100パーセントである。なぜなら、難問題に対する正解は、常に1つなのだ。そのおみくじの言葉は、すべてが「人間の生きざま」についての指針である。だから100パーセントの正解が常に用意されているのだ。「ものは取りよう、考えよう」によって変る。正解の中から、自分の悩み、問題との相関関係を考え、自分の進むべき方向を決めるのはさほど難しくはない。その作業を私は洛北から京都駅までのバスの中、あるいは京都駅から福井までの電車の中で行うのを常としている。楽しい思索の数時間である。

 福井に天津村がある。いや、あったという方が正しい。町村名が変って今はもうない。しかし、天津村の名は、地酒の名として残っている。その銘酒の名は天津神力という。その名に驚嘆した私は、酒蔵の主の奥さんに、その名の由来を尋ねた。天津村に「神力」という酒造りに適した酒米があったという。それを地元の人々の熱意で復活させたとのこと。天津神社と天津神力。おみくじのご縁である。

 この地酒は貴重なもので、誰でもいつでも味わえるものではない。酒米が限られ、酒の生産量が限られているからだ。しかし、文句なくおいしい。地元の黒龍や花垣と共に、私の最も愛する地酒の一つ、それが天津神力である。

 酒蔵の発展を願うと共に、「おみくじ」の神力に感謝し、毎月末、この天津神力を天津神社に奉納していただいている。

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人生は肯定か否定か

平成18年8月1日
○人生は肯定か否定か

 「ものは取りよう、考えようによって変る」といわれる。目の前を地獄と思えば地獄。逆に極楽と思えば極楽である。例えば自分の過去について考えてみよう。京都大学へ入りたかったが、入れず、入らず。同志社大学に入った。同志社に入って新島襄をより深く知ることが出来た。多くの知友そして大切な恩師に恵まれた。三菱商事へ入りたかったが、入れず、入らず。三谷商事へ入った。すばらしい先輩上司、そして仕事に恵まれた。京都大学や三菱商事に入れなかったこと、入らなかったことをクヨクヨ考える事は、私に何のプラスも与えてくれない。同志社大学や三谷商事へ入り、多くの出会いがあった。貴い縁につながる人々である。過去を否定することはたやすいが、否定から生まれるものは少ない。過去を素直に肯定し、その過去から何を汲み取るかである。

 「あるがままを受け入れる」という考え方がある。ムダな抵抗をするなということであろうか。それは過去や現状を肯定することでもある。

 「現状打破」という考え方がある。これは現状を否定し、上位指向のための努力をせよということである。

 肯定と否定がここで一緒になる。現状を肯定するも、否定するも一理ある。ここでも大切なのは肯定、或いは否定から何を把むかである。過去、現在、未来という時間軸の中で、自分を生かし切る生き方を考え、何を為すべきかを把むことである。「ケセラセラ、なるようになる」という言葉を、単に流されて安易に生きると取るか、変幻自在のすばらしい生き方と取るか、これも「ものは取りよう、考えようによって変る」のである。自分を叱咤激励するために現状を否定するのは、私のいつも使う手である。その結果にはとらわれないことが、私を自由にしてくれる。

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思いこみ(仮説)について

平成18年7月28日
○思いこみ(仮説)について

 私の書斎から東を見ると永平寺に連なる山々が見える。道元禅師の入山以前の遥かな昔からそこにある。東方の山の名は城山(標高474m)という。そして霧がかかると私の目の前に忽然として浮かび上がる山がある。標高178mの富士山の形をした、杉木立に覆われた山である。霧が晴れると山の形は消える。私達はこの山を「ゲンジフジ」と名付けた。勿論「ゲンジ」は私の名前であり、「フジ」は山容が富士山に似ているからである。発見者は私、発見者の名をとって「ゲンジフジ」と名付けた。永平寺は霧が深い。雪も深い。しかし、刻々と変化する自然の景観はまさに大スペクタクル。これを毎日見ることが出来る喜びは何ものにも替え難い。

 今日も白鷺が霧の中から数羽現われた。北から南の方向へ私の目の前を横切っていく。白鷺を見た日は「今日もよい事が待っているぞ」と強い期待を持つ。思いこみである。今日もよい事が待っていると思うことにより、プラス思考が生まれ、気持を明るくすることが出来る。奇跡はおきるものではない。奇跡はおこすものである。

 私はよく「風をつかめ」「嵐をよべ」という。自ら行動をおこすことによって、周囲の空気を変えることが出来る。その為には「仮説」を立て、それを強く思いこみ、その実現に向って全力を傾注していくのだ。
気が付くと霧はほとんど晴れ、「ゲンジフジ」の形が崩れ、元の山塊に帰りつつある。今、朝6時。今日も元気だ。感謝、感謝。

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野球について

平成18年7月27日
○野球について

 日本で最もポピュラーなスポーツは野球である。これはアメリカの影響が大きい。アメリカ、日本、韓国、台湾等ではナンバーワンのスポーツ選手は、野球へ行く。野球で有名になることが、少年の夢である。

 ところがアメリカは冬のスポーツが別にある。それはバスケットボールである。冬の間は毎日バスケットボールのニュースが新聞テレビを賑わす。日本、韓国、台湾は野球だけである。世界中の国々では野球はマイナーである。ナンバーワンのスポーツは「サッカー」。国民的なヒーローはサッカー選手である。テニスやゴルフもそれに続くが、サッカー熱には遠く及ばない。

 この理由は社会の仕組みにある。日本の野球の裾野は少年野球に遡る。そして春、夏の高校野球の大祭典。大学野球。ノンプロ野球。そして頂点のセパ両リーグのプロ野球。巨人軍の凋落ぶりを嘆く人が多いが、長島や王は不滅のヒーローである。長島が脳疾患、王が胃癌と、二人とも日本人の死亡原因といわれる二大疾患と戦っているのは、まさに奇縁である。二人の一日も早い復帰を祈っているのは私だけではあるまい。巨人、大鵬、玉子焼といわれた時代は、すべて過去のものとなったのであろうか。サッカーの台頭を感じさせる少年サッカーリーグが各地で興りつつある。私の孫も誕生日プレゼントに「サッカーボール」を希望する時代だ。

 私の会社のコマーシャルソングに「日本チャチャチャッ」を挿入することを検討している。子供達がもっともっと身体を鍛える為にも、スポーツの幅広い選択肢を用意してやりたいものだ。

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美術との出合い

平成18年7月14日
○美術との出合い

 同志社大学へ入学して一番楽しかったのは、クラブ活動であった。私はSCAとクラマ画会へ入会した。SCAはキリスト教主義に基づく教育を目指す新島襄が設立した同志社の根底を知るために入会した。また将来外国へいくための勉強と位置づけた。もう一つのクラマ画会は、学生会館の古びた部室にあった。

 絵描き然とした先輩から、油絵の理論・実技等親しく教えていただいた。当時は二科、独立、新制作といった在野諸団体が京都市美術館の広い大きな会場で競い合っていた。東郷青児の特徴のある大壁画が河原町三条上ルの朝日ホールの外壁を覆っていた。彼のモダニズムが一世を風靡していた頃だ。また河原町四条を上ったレストランスエヒロの壁には棟方志功の版画がかかっていて、とても気になったのを覚えている。先輩や後輩から次々とプロの絵描きがクラマ画会から巣立っていった。そんな中で「実存主義」などの美術論、芸術論を戦わせる研究会も毎月開催していた。週末にはスケッチブックを片手に嵯峨野や北山方面を歩いた。スケッチブックは単なる散歩の小道具だったのか、あまり風景画は残っていない。とに角、美術三昧の生活であった。

 今から振り返ってみると、誠に幸せな日々であったが、当時は真剣に悩んでいた。絵について、人生について。

 若い日に描いた夢は老年になると必ず実現するという。私は芥川賞をもらい、小説家になる夢。プロの絵描きになる夢。画商になる夢。商社マンになって世界を相手に貿易する夢。など異質な夢をいくつか持っていた。結果的には卒業と同時に商社マンになる道を選んで就職した。

 絵描きになる夢は、その後細々と描き続け、日曜画家の端くれになった。今は寸暇とてなく、絵筆を持つことはここ十年来殆んどない。「生涯現役」を提唱しているので、絵を描く機会を期待できないのが残念である。

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『時空を超えて』

平成18年7月7日
○『時空を超えて』

 「距離」とは、空間における二点間の長さを表わす言葉である。しかし最近では「時間距離」という言葉が使われ出した。空間における二点間の長さを、時間で表わすのである。例えば、富山と東京は「時間距離」で表わすとドアツードアでほぼ1時間半である。ところが距離的には富山とあまり変らない金沢や福井から、東京への「時間距離」は3時間余りである。これは交通手段や空港へのアクセスの利便性による差である。東京への「時間距離」を短縮する為に、道府県の知事をはじめ、多くの人々が懸命の努力を行ってきた。それが新幹線の誘致であり、空港の建設であった。半日かかった東京、軽井沢が僅か1時間半で結ばれ、能登半島の輪島と東京も2時間となった。輪島と東京の「時間距離」は能登空港の完成により、半日から2時間に短縮され、金沢東京間より近くなった。

 東京軽井沢は新幹線の延伸とノンストップ特急の運転によって実現された。私は現在福井に居住している。コインパーキング事業を全国で行っているので、この十年間は全国の主要都市へ出張して、地元の有力な方々との協力関係を緊密にしてきた。その時、ふとこの「時間距離」の遠さに気付いた。福井は全国のどの都市よりも東京からの時間距離が遠いことを。そして金沢も。東京からの「時間距離」が遠いことは、全国の主要都市への「時間距離」が遠いこととほぼ同意語である。バブル崩壊後までの敗戦後の60年間は、日本はこの「時間距離」を短縮する為に、あらゆる努力を傾注してきたのであろうか。

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飽食から過食の時代へ

平成18年7月5日
○飽食から過食の時代へ

 アメリカを初めて訪問した私の30歳代の頃、日本はまだ肥った人が少なかった。ところが初めて見たアメリカでは肥満が多かった。特に肥満した女性が多かった。自制心の欠如から、食物の取り過ぎとなり、それが肥満の原因だと聞かされた。

 今は日本でも肥満が多い。飽食の時代なのである。ところが最近、医学的な見地から、「飽食」というより、明らかに「過食」なのだという声が上ってきた。食べ過ぎによる、数々の問題点が飛び出してきている。食物はバランスよく、少量づつ、数多くのものを食べるのが、健康維持になる。これを信じていた私は、その通りを実行していたが、「少量づつ」の「少量」が問題となった。私の「少量」は多すぎるというのだ。それが中性脂肪の増加を促し、不必要な肥満の原因を作ってしまう。「過食」なのである。

 外食系の店や各家庭から、まだ食べられるものが大量に捨てられている。そして若者を中心に肥満度が上ってきている。食べ過ぎの結果である。食べものが乏しかった頃には夢想だにしなかった事が、今の日本では現実のこととなってきた。

 「過食の害」を防ぐのは、食べ過ぎない事である。食欲は人間最大の業といわれる。これを抑制する為の自制心こそが、人間の尊厳を守る唯一の道である。

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『理想の住居』

平成18年7月4日
○『理想の住居』

 自分勝手な考え方で、「理想の住居」について書いてきたが、人それぞれ思い入れは、またおのずと違うのは当然である。「コダワリの一つ」にしても私は憧れていた「暖炉」を上げたが、書斎や書庫を望む人、音響や映像ルームにこだわる人、ガーデニングを選ぶ人、キッチンとか風呂場に大金を費す人と選択の幅は広い。人さまざまである。

 福井の人は大抵、日照や陽当たりを求める人が多い。雨が多く、雪の降る北陸は、太陽の恵みがありがたい。そして福井大震災の、遠い惨禍の思い出が、福井の人々の脳裏にやきついていて、地震に強い住居を求める傾向が強い。耐震、制震、免震に対する潜在的なニーズは想像以上のものがある。また雪国の常として、冬の屋根雪おろしや玄関、道路の除雪の手間ひまは大変だ。雪に強い住居を求めるのも当然である。雪に強い住居とは、融雪装置が完備してあったり、屋根の雪をおろさなくてもよいような耐力の高い住居をいう。

 そして、最近顕著になってきたのが盗難等に対するセキュリティの確保である。安全な住居への欲求は、日ましに高まってきている。また火災を考えた耐火建築も過去とは比較にならないほどに普及してきている。私達の歴史をひもといても、江戸も京都も福井も金沢も、何十回とも数え切れない程、数多くの大火によって町が焼滅している。

 まとめて見ると福井では眺望、日照、風通し、防音、耐震、耐火、防犯等の要素にこだわった住居が理想の住居といえるのであろうか。しかし一番大切なのはそこに住居する人間である。住む人の愛である。愛のある住居こそ、最高の住居、理想の住居といえよう。

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理想の住居

平成18年7月3日
○理想の住居

 ヨーロッパやアメリカの古城を訪れると、壁にかけられた絵画、彫刻、じゅうたん等に圧倒される。その大きさといい、その数といい、日本のそれとは全然規模が違うことに驚く。個人のお宅に招かれても同じ経験をする。家は広く部屋は大きく、天井は高い。壁には絵が必ずかかっている。かつて日本でも座敷には床の間があり、掛軸がかかっていた。掛軸は今は物置にあり、床の間にかけることは滅多にない。

 建物と絵画との関係は、遠く歴史をさかのぼる事が出来る。やはり相性がよいのである。日本の住宅が洋風に変り、壁の白い空白が目立つようになると、自然にそこに絵画をかけるようになった。私の叔父が京都で表具商をやっていたが、「軸装の絵が売れなくなり、日本画でも額装にしてくれと言われて困る」とくどいていた。大森万松堂という名の店で、京都河原町松原を少し上ったところにあった。日本画家の名を関雪さん、栖鳳さんなどと呼んでいた京言葉がなつかしい。

 私と画家との出会いは斉藤静輝さんが最初である。彼の甲府の家を何度か訪れたことがある。芸大の秀才で色彩の使い方がうまい。青はピカソの青を思わせる。時々壁にかけて楽しませていただいている。二人目は石垣定哉君である。アメリカへ留学し、帰国後もお付合いが続いている。当時は彼の絵で、私の家はいっぱいであった。日動画廊の先代を、彼と訪問し、激励していただいたのは、遠い思い出となった。今も時々私の部屋の壁面を満たしてくれる。

 三人目が椿貞雄さんの絵である。岸田劉生と誰よりも親しかった椿貞雄さんの絵は「日本的な油絵」という不思議な魅力を持っている。ミレーニアの家は椿さんの絵で、全部の部屋を統一している。

 絵画と住居との関係は、お互いに影響し合う。季節によって、また私の気分によって、同じ絵でも全く違って見える。「色彩」の深さと「光」の陰影がその変化の原因である。3人の画家と私の住居との調和は、そこにある。3人の画家に共通するのは、色彩の深さと光への鋭敏な感性である。

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「月に叢雲、山の端の月」

平成18年6月30日
○「月に叢雲、山の端の月」

 古来より月は詩や和歌に、好んで選ばれてきた。永平寺町の城山を東方に臨み乍ら、朝夕月を賞ていると、この「月に叢雲」或いは「山の端の月」の意がよくわかるようになってきた。夜空に輝く月は勿論それだけでも美しいが、そこに叢雲が現われてくると風情は一変する。「刻々と移り変る月と雲の形」から生まれる「自然との共生の念」或いは「時の流れ」を感じ取り、月だけの姿と違って、より深い詩情を汲み取る事が出来る。ここに、日本人独特の自然に対する憧憬と、美意識の繊細さが感じ取れる。

 「山の端の月」の美しさも、その対比する山と月とによって山の端に顔を出した月の大きさ、そこから刻々と上昇を続ける月の姿を凝視することによる「月との一体感」は格別のものがある。朝日も山から昇るが、太陽はじっとその動きを見続ける事は不可能であるが、月は山の端から徐々に中天に近付くまで、じっくり楽しむことが出来る。

 「月」と「叢雲」との対比、「山の端」と「月」との対比から「月」そのものへの思いがより深まってくる。この対比の妙こそが、詩文の底知れぬ魅力なのである。私は今朝も城山にかかる霧の姿に、自然への畏敬の念を禁じ得ない。刻々と移り変る山の形を演出する「霧」は、私に無上の喜びを与えてくれる。

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「理想の住居」

平成18年6月29日
○「理想の住居」

 現代の住居は、どんどん洋風化している。和室が減り、障子やふすまがなくなってきた。畳からフローリングに、和室は洋室にと、その変化は著しい。20年あまり前に、車を売っていた頃、老舗の家具デパート「山口伊三郎家具(la136)」の経営者 山口伊三郎社長からの一言は私に大きな影響を与えた。「車は3年や5年で新しく乗り換えるのに何百万円も使うけれど、家具やじゅうたんは二代、三代も使えるのに何百万円も使う人がいない。」この言葉は未だに私の心から消えることはない。なぜなのだろうか。そう簡単に答えが出てこないのだ。でも思いきって高価なじゅうたんを一枚買ってみた。毎日見ていると、確かに価値はある。足の感触のよさである。夏は涼しく、冬は暖かい。好きな柄と色を選んだので、部屋全体が自分の好みに近付く。「わるくないな」という感じが増してくる。

 続いて家具を一点、少し高いがムリをして買ってみた。これも使っているとだんだん愛着が湧いてくる。「家具は一生ものですよ」と言った山口社長の声が忘れられない。日本の住宅は、衣食住の中で一番遅れているといわれている。いま私は「まちおこし」、「まちづくり」に力を入れているが、「まちなか」で美しい住居、理想の住居を見ることが少ない。郊外や山村には、すばらしい旧家が残っているが、都市には殆んど何もない。

 百年後、二百年後になっても残る、理想の住居をまた作りたいと考えている。永平寺の「西洋風の庵」がその理想に少し近付いたように思うのは早計か。外観と同時に、中身の充実を忘れてはならない。いや中身こそがもっと大切なのかも知れない。

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理想の住居

平成18年6月27日
○理想の住居

 私の青年時代、まだ日本が貧しかった頃、流行した言葉の一つに「一点豪華主義」がある。身につけているものの中で、唯一つ、人に負けない本物指向の何かを持つことを言った。それが若者のブランド指向になったり、バイクや車の発展につながっていった。私の「理想の住居」の定義の中で、未だにこの一点豪華主義が生きている。「三つ子の魂、百まで」であろうか。貧困と飢餓の中で育った私達には「質素倹約」が美徳なのである。しかし、「せめてこれだけは・・・」という願望もなかなか捨て切れない。それが唯一の贅沢の「一点豪華主義」になる。こだわりといってもよい。

 そのよい例がミサワのO型にあった。大黒柱であったり、家の中の物置であったり、地下室であったり、吹抜けであったり、これ等は私の家作りの原点ともなった。

 吹抜けはミレーニアの家でも採用した。玄関の扉を開けた時の開放感は、何ものにも変えがたい。吹抜けではないが、永平寺の家は、玄関を開けた時に、向いの山並みが目に飛びこんでくる仕掛けをした。

 小さな家は住み易い。学生時代の下宿の1部屋での生活の贅沢を知ってしまうと、大きな家に住むことの魅力は薄れてしまう。特に加齢と共に、除雪、除草、掃除などの手間ヒマが、勿体なくなってくる。小さな住まいは今日の「コンパクトシティ構想」と同じ思想である。こだわりの最後の一つは「暖炉」である。本物の薪を燃やす「暖炉」に憧れて久しい。西洋の小説や映画でしばしば見てきた「暖炉」。やっと永平寺で手に入れた。冬に、客を迎える前に、火を入れる。まさに茶席の準備の所作と同じ心である。

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理想の住居

平成18年6月23日
○理想の住居

 外観をイメージして家を建てるようになった。最初の家は間取り重視で、数十枚のプランの中から自分の理想の間取りのものを家族みんなで相談して決めた。知人の大工さんに建ててもらったが、完成してみると外観のイメージが少し違う。それからの家はまず「外観」から入ることにした。岐阜から福井へ転勤し、数年経過してまた家を建てることにした。岐阜の家は、病院の事務長さんご夫婦に借りていただいていた。少しの貯えも出来ていたからだ。その時ミサワホームの新商品O型が売り出された。すばらしい外観であった。太い丸い、丸太のような雨どいが、長く伸びていた。力強い家である。早速展示会場(富山市内)まで特急列車で、2時間近くかけていった。「すばらしい」。その時このO型の家を設計した加藤善也氏に出合った。

 北陸では積雪の為、この雨どいやユニークなベランダは強度的に難しいとのこと。あきらめて帰ろうとしたら、加藤さんが福井で最初のO型ハウスになるので、「もしこのまま建ててくれるのであれば、積雪でダメになっても、保証します」との心強い言葉を賜った。わざわざ外観に惚れて富山まで来た私は直ちに即決、O型を購入した。大黒柱と3階(天井裏?)に物置のある家である。地下に車庫を特注した。その後このO型は、爆発的な成功をおさめられ、ミサワホームの地位確立に大いに貢献された。その後、専務取締役になられてからも種々とご配慮いただいた。

 北鎌倉の家とミレーニアの家は、鎌倉の第一住研に依頼した。外観にこだわった家だ。特に瓦の色にこった。6色の瓦を使ったのはミレーニアだ。100万岼幣紊諒盟饕呂涼罎如一番目立つ家になってしまった。明るい白い壁と白いテラスを特長としている。緑の山と森をバックに建てたので白がよく映える。永平寺の家も、瓦も、外壁も、白い大きなテラスも、すべて同じ「外観」をしている。

 すべてに共通しているのは、「小さな家」と「明るい外観」そして「白色」の魅力を追求していることである。

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理想の住居

平成18年6月21日
○理想の住居

 高温多湿の日本の気候の中で、住居が備えているべき事の一つが、「通風」である。「自然の風が、家の中を通り抜けていく」この単純明快なことがなかなか実現できない。私が生まれ育ったのは、長浜の八幡神宮の森の近くであった。家の前には、森を通り抜けてきた小川が流れていた。夏になると、家中が夏を迎える為に、すべてのしつらえを変えるのだ。まず畳の上敷を新しくし、戸や障子やふすまを夏用の「すのこ」と取り替える。ついたても風通しのよいものと取り替える。表の道路(通りといった)から中庭まで家の中が見えてしまうので、薄手のカーテンを各部屋に取り付ける。通りと中庭に打ち水をすると、蒸し暑い夏でも快適に過ごすことが出来た。生活の知恵である。

 私の設計した家々でも、通風を心がけてきた。二方向の窓か、開口部を作ることである。「風が通る道」を、家の中で作ってやることだった。自然の風が家の中を通り抜けていくのは、最高の贅沢なのかも知れない。

 最近の家は、強制換気装置をつけ、一日中家の中の空気の流れを、強中弱と任意にコントロールできるようになっている。理論的には「理想」の家ではあるが、一陣の爽風が家の中を吹き抜けていく醍醐味はない。

 「自然との共生」が私達日本人のDNAに深く入り込んでいるからであろうか。フランス人の女性が、日本に住んで「日本の家は、外と一緒です。寒い。」と言った。その言葉の中に、日本の理想の住居をイメージすることが出来る。暖房装置を云々するよりも自然との一体感を追い求める私達の理想がそこにあるのだ。

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理想の住居

平成18年6月19日
○理想の住居

 4軒目は永平寺町のけやき台に作った。ここを選んだ第一の理由は、他の3軒と全く同じである。「すばらしい眺望」だ。朝、夕、目の前の山から立ちのぼる霧の姿かたちに見惚れている。降ってよし、晴れてよし、朝日はまさに荘厳。生きていること、生かされていることに、思わず感謝。けやき台の家は、「西洋風の庵」とした。部屋を少なく、ピュアホワイトのテラスを広く、バリアフリーである。大変気に入っているが、唯一の思い違いは、冬の積雪対策を軽んじたことだ。

 ここに記した4軒の家のほかに、自分で建てたり、買って改造した家が、更に数軒ある。すべてに共通している点は、「自分で設計をすること」である。私の趣味は「絵をかくこと」。今は時間が不足して絵筆を持てないが、真白いキャンバスに自分で好きな対象物を、好きな描き方で描くという楽しみを知ってからは、そのトリコになった。住いづくりも同じである。庭づくりも全く同じこと。プロに頼むと、もはや手が入られない。自分で試行錯誤しながら、やり直し、作り直していくのが何より楽しい。

 仕事も、事業も、同じなのかも知れない。常に好奇心を持って、物事に取り組んでいると、熱中する。一心不乱になれる。努力を続けていると、いつの間にか、すばらしい住いが完成している。しかしまだまだ手が加えられる。来月になったらあそこを直そう。その次はテラスのペンキ塗りだ、と住まいづくりの楽しみは尽きることがない。

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理想の住居

平成18年6月16日
○理想の住居

 永平寺町内に住んで1年半が経過した。私の家に対する好みは、まず「眺望」を第一とする。生まれてはじめて自分で(親の援助も少しはあったが)建てた岐阜の家は織田信長の金華山城を頭上遥かに見る、前一色山の中腹にあった。前一色山の山頂まで歩いて5分。360度眺望が開けていた。2階の座敷からは夜目にも鮮やかに岐阜城が望めた。夕陽は西方、養老山脈に沈んだ。近所に住んでいた玄人はだしの庭作りの老人が、下呂温泉の近くの河原から運んでくれた川石や山石を丹念に積んでくれた。石畳みと石組みはまかせたが、庭と池はプロの庭師を頼んだ。

 北鎌倉の台峯の中腹、大船観音を遠望する地に、鎌倉の本宅を購入した。庭に真白なテラス(ピュアホワイトテラス)を作った。歩いて3分の北鎌倉女学院の運動場からは富士山が大きく目の前に浮かび上る。ここもテラスよりの眺望、富士山の姿、またとないすばらしい眺めだ。しかし玄関前に分譲住宅が建ち並んで近くの景観は今は大きく変ってしまった。

 三軒目は三井不動産のミレーニア別荘地を選んだ。毎年春秋の休日を利用して、妻と関東地区を中心に別荘地選びをし、購入した。軽井沢にこだわった私に対して、妻は温暖の地を希望した。外房は黒潮の通り道である。無霜地帯では花の路地栽培が盛んである。目の前に森と山が迫った、谷に隣接した土地で、隣の区画を買い増しして「森の中の家」を作った。ここにも広いピュアホワイトのテラスがある。時々猿の大群が来たり、大鹿を見たり、野兎、キョン、猪などの姿にはこと欠かない。裏庭の山道を降ると小川が流れている。蛍の幼虫を育ててみたが、なかなかうまくいかない。

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地酒の味

平成18年6月15日
○地酒の味

 新潟(越後)の地酒は、「越の寒梅」をはじめ有名な銘酒が多い。富山(越中)も「立山」を選ぶ友人がおり、霊峰立山を思わせるすばらしい味である。福井(越前)にも「黒龍」を先頭に、花垣、一本義、梵、白龍、天津神力など有力な地酒が目白押しである。加賀も「菊酒」といわれる老舗の蔵がある。

 米どころといわれる北陸地方は、水に恵まれ、酒米に恵まれている上に、銘酒づくりに欠かせない名杜氏がいる。そして最高の日本酒を引き立ててくれるのは、やはり日本料理である。酒の肴に恵まれている北陸なればこそ、銘酒が生まれ、育ったのであろう。

 最近日本酒を飲む機会を増やそうと、ウィスキーの水割りの理屈で、水を用意しておいて、口直しに水をあい間に飲むことをすすめられた。この水を「和らぎの水」という。

 私は「水」にコリ出して、既にもう数十年になる。日本国中の名水を飲み比べて、やっと辿り着いたのが鹿児島県の大隅半島にある温泉水である。超軟水といえるほど硬度が低く飲み易い。地酒を飲む前、間、後に少しずつ口直しに飲むと、地酒の滋味を見事に引き立ててくれる。

 日本酒は、酒づくりを含めて、私達の胃袋に入るまで、日本文化そのものである。これ程手間暇をかけて作られる酒は、地球上には他にない。そして酒蔵の一つ一つが独特の香り、味、喉越しを持ち、また飲む為のトックリ、ぐい呑み、マス、皿、わんに至るまで、その徹底したコリようは異常なほど深い。

 私の友人に陶芸家が多い。そして彼等の作ってくれたぐい呑みを、日替わりで使わせてもらって、地酒を楽しんでいる。

 緑がまぶしい季節であるが、吟醸酒1合の晩酌は、何よりの生きる幸せを与えてくれる。永平寺に住んで、永平寺の幸家のゴマ豆腐と日本海の刺身を肴に今宵もまた妻と一献といきたい。妻はワイン党なのが残念ではある。

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『世界を知る』

平成18年6月5日
○『世界を知る』

 外国へ旅行に出る人は、増え続けている。昨年は遂に外国人が日本を訪れる数と、日本人が外国へ出かける数の差が1000万人を超えた。もはや外国へ行ったことのない人は少なくなりつつある。ここまで多くの人が外国へ行くようになると、「外国へ何故行くのか」を考えてみる必要がある。

1.非日常を求める。
  毎日の生活の流れを変えてみたいという欲望を満たす為の手軽な方法である。

2.物価が安い。
  アメリカやヨーロッパでさえ、東京などの都会と比較すると、あらゆる物価が安い。まして東南アジアは更に安い。

3.エキゾチシズムを求める。
  日本の文化や生活と違う独自のものを見聞きし、体験することが出来る。また、風景、気候も大きく異なるケースが多い。

4.外国に住む友人、知人、家族を訪ねる。
  交流が盛んになり、知己が増え、家族が外国にいるケースも増えてきている。

 その他更に多くのケースが考えられるが、日本の観光地の窮状を見ていると、その対策
をもっと真剣に考える時が来ているといえよう。

 世界を知ることは、比較の上でより深く日本を知ることになる。外国へ行くと、日本のことをよく質問される。言葉に窮することが多い。日本に対する自分の知識の浅さを痛感させられる。帰国してから慌てて調べることが多い。

 外国へ行くことは、外国を見に行く為であると同時に、日本を外から見る為でもある。外国から日本を見ると、今まで全く気付かなかったいろいろな事がわかってくる。

 私たち日本人がどれ程「融通自在」の人種であることとか、反対に日本人としての過剰な自意識(自分達は他国の人とは違うという強烈な考え方)を持っているとか、安全ボケの国民であるとか、独特の文化を持っているとか・・・数え上げたらキリがない。

 世界を知ることで、日本を知り、本当のインターナショナルな人間になることが出来れば、外国へどんどん出かけていくことも肯定されるべきことと思わねばなるまい。

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友あり遠方より来る、また楽しからずや

平成18年6月1日
○友あり遠方より来る、また楽しからずや

 先週末に私の中学校の同級生が30人余り福井へ来てくれた。1泊2日の同窓会を、芦原温泉で開催したのだ。1950年〜1953年(昭和25年〜28年)の食料難、物資不足の中で、少年少女時代を過した私達が久しぶりに一夜を、温泉宿(ホテル八木)で共にすることが出来た。殆んどの者が現役を引退し、悠々自適の生活を送っている。話題は健康に関することが中心。お互いに今日までの人生で、数多くの方々に支えられ、導かれてきた事への感謝の言葉が多かった。

 翌日は大型バスで福井の私の会社を訪問していただいた。1階の11店のパン屋さんが集まっている「ベーカリープラザ」は改装中(現在はオープンしている)であったが、2階の「ギャラリーふくい工芸舎」での展覧会を観賞。日本画かと見まがうばかりの油絵の数々を、作者の「前寿則先生」の説明を聞いて感激。油絵具の下地の上に、金箔、銀箔等を重ねて更にその上に細密画の精緻な筆致で、草花、石などが描かれていて、沢山の来場者で賑わっていた。

 その後、永平寺を経由して、米原、長浜へと帰っていった。私は仕事の都合で最後までお付合いをする事はできなかったが、久しぶりに青春時代に帰って、楽しい二日間を過すことが出来た。幼少の友はまさに心の友である。生ある限り友情を大切にしていきたい。

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謡曲について

平成18年5月31日
○謡曲について

 京都で学生生活を送っていた1955年頃に、伯父が北船岡の高台に住み、伯母と二人で謡曲と鼓三昧の生活をしていた。戦前から京都三条河原町の角地で「清水楽器店」を経営していたが、戦争が激しくなり、京都の老舗も次々と閉店、疎開していってしまった。しかし二人はお店を閉めず頑張りとおした。

 そして、戦災にもあわず、店も焼けず敗戦の日を迎えたにもかかわらず、急に「清水楽器店」をたたんで隠棲してしまった。理由は「諸行無常」「一夜にして人の心がこんなに変るのが怖しい」とのこと。同業の「十字屋楽器店」が洋楽器を扱ってドンドン発展していくのを見るにつけ、私は子供のない「清水楽器店」を親戚の誰かが継いで、日本中に広めていくことを夢見ていたが、廃業してしまって未だに昔日の姿はない。とに角、謡曲との出会いはその時が最初であった。「教えてやる」とはいわなかったが、二人の楽しそうな謡と小鼓を聞かされるのは決して嫌ではなかった。

 その後就職し、数年後、岐阜へ赴任し、そこで岐阜青年会議所に入会。岐阜ロータリークラブ員になっている青年会議所の先輩達と謡曲の会「みなとも会」を結成。先輩が先生で、私達が生徒で、ハカマのはき方から親しく教えていただいた。長浜に住んでいた私の母も1960年代に同じく観世流の会に入会し、古橋師に教えを受けていた。その後アメリカ留学から帰国した1975年頃、福井で片山博太郎師について謡曲を習いはじめた。以来30年、仕事に忙殺されてゆっくり研鑽する事は出来ず、もっぱら鑑賞側にまわって「お能」を楽しむことが何よりとなった。片山師はその後「九郎右衛門」を襲名され、日本古典芸能の頂点に立ってご活躍中である。能をこよなく愛された白洲正子さんと並んで観世の能を見たのも大分以前のこととなってしまった。

 久方ぶりに九郎右衛門先生の直面(面をつけない素顔)の演能を見て、至芸に感涙した。喜寿での初演「高野物狂」である。ご長男片山 清司さんの後援会発足と同時に、特別会員になり、年々のご成長ぶりに感服している。「恋重荷」のシテ。老醜と恋、難しい役を、いよいよ熟年の佳境に入った清司さんが見事に演じきって下さった。緑風の爽やかな京都観世会館での一日であった。帰福する途中、琵琶湖西岸を車で走りながら、雨にけぶる新緑の中、茂山千作師の「萩大名」の名演も併せて思い出し、笑いの尊さに改めて感謝したことである。

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厳しさの伝承

平成18年5月22日
○厳しさの伝承

 山を背に、川のほとりに小学校が建っている。積雪が多いためか、鉄筋2階建、3階建の立派な校舎と広い運動場がある。春は校庭の桜が美しい。この大きな広い小学校の生徒数は全校で119名である。1学年20名。先生は校長、教頭、教務主任、養護、各担当併せて10名。他に事務1名、調理員2名、用務員1名、併せて14名の大人がいる。

 私は毎年学校教育の現場の先生方(幼保から小中高まで)を対象に、年数回の講演会の講師をつとめさせていただいている。テーマは殆んど同じ。「教育現場へ企業経営の感覚をいかに導入するか」に重点をおいている。しかし企業の実態と教育現場の差には驚くというより、思わず立ちすくんでしまう程の大差がある。

 教育とは、家庭内教育にはじまり、学校教育、社会教育、企業内教育といろいろあるが、根本は変るはずがない。教育の根本とは、「他人に対する優しさ、自分に対する厳しさ」を伝承していくことである。「いのちの教育」もその一環であり、「生命の尊さ」を教えることが求められているが、どう教えるかが問題だ。

 私の通った小学校の全校生徒数は3,000名。1クラス50名程であった。各学年10クラスもあり、休み時間になると学校中が、みんなの話す声で「ワーという大歓声」につつまれる。そこには当然のこと乍ら、子供同志の切磋琢磨があり、肌と肌のふれあいがあった。先生は1クラス50名もの子供を、厳しく指導してくれた。学ぶとはマネること。教えるとは相手のよい所を見つけてあげて、それを自覚させること。そして学び合うこと。これを毎日実地で身につけた。厳しかった。泣いた友も多かった。しかしみんなが見ていた。そして必ずあとで誰かがフォローしていた。

 厳しさを避けてはならない。優しさに溺れてはならない。教育とは元来厳しいものであり、その「厳しさの伝承」こそが、明日の健全な後継者を育てていくことになる。

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『継体天皇即位1500年祭が近づく』

平成18年5月19日
○『継体天皇即位1500年祭が近づく』

 ここは古墳群のまっただなかである。越前の古墳総数約4000基、前方後円墳81基、前方後方墳10基。その最大の手繰ヶ城山古墳は私の家の北方の山上にある。更に九頭竜川の北岸の六呂瀬山1号墳、3号墳がある。すべてAD400年以前の建造のもの。そして西北方には、古い年代別に見ていっても、泰遠寺山、石舟山、二本松山、鳥越山、三峰山と続く古墳がある。大規模な広域首長墳といわれる前方後円墳が、異状な程に密集している。その時代の越前では、それぞれが最大規模のものである。

 この古墳群の特長は、すべてが福井市足羽山産の笏谷石(凝灰岩)の刳抜式石棺を、墳丘主軸上の後円部に埋蔵している。そしてすべて小高い山頂に築かれている。埴輪、葺石、段築を持ち、数多くの優美な独特の副葬品が埋蔵されている。石棺は舟形石棺であり、時代が下ると棺床に排水溝(孔)が施されている。他の地方では全く見られない特長で、越前の文化の独自性を表わしている。この繁栄の理由は日本海を通じて、半島や北九州、山陰との交流を思わずにはいられない。

 現天皇家の直接の祖といわれる継体天皇の即位はAD507年といわれている。『日本書紀』、『古事記』その他の文献によれば、武烈天皇の死によって王統が絶え、応神天5世の孫、オオド王が河内国、現在の枚方市の樟葉宮(クズハノミヤ)にて即位している。そのオオド王を生んだ地が、ここ九頭竜川の岸、いくつもの山々に囲まれた古墳の地である。

 来年は2007年である。継体天皇即位1500年が各地で祝われることになろう。越前三河川(九頭竜川、日野川、足羽川)は三国港の手前で合流し、日本海へ注いでいる。この治水に大きな貢献をされ、尾張、近江、北陸そして淀川流域の勢力や物部氏、巨勢氏、秦氏、和珥氏等の支援の下、大伴金村の懇請に応じての即位であった。福井の伝統工芸といわれる和紙、漆器、陶磁器、鉄器の祖である継体天皇に、もう一度光をあてる絶好のチャンスが、来年に訪れる。

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人を結ぶ赤い糸

平成18年5月17日
○人を結ぶ赤い糸

 創業時4人の身内でスタートした会社が、10年たってふと気がつくと200人になっている。1ヶ月100万円にも満たない経費が、今は毎月1億円以上もかかる。売上も毎月300万円から、今は毎月4億円。売上総利益(私の会社では付加価値と呼ぶ)も、毎月100万円から1.2億円となった。毎月社員は増え続けている。

 私の好きな画家に、椿貞雄がいる。東北の出身であるが、岸田劉生に愛され、白樺派の一員として活躍、武者小路、高村光太郎、バーナードリーチ、柳宗悦、木村荘八、志賀直哉、長興善郎など文人、画家との交流の中で、名品を残している。慶応幼稚舎の絵の教師でもあり、草土舎、国画会の中心人物の一人。

 私は椿貞雄とは面識はないが、彼の娘さんお二人とは親しく交際をさせていただいた。長姉朝子さんは東珠樹(美術評論家)と結婚され、今なお健在である。その下の椿夏子さんは芹沢げ陲貌門され、染の世界に入られた。お二人と東珠樹さんとは生前親しい交際が続き、椿貞雄の作品も多数購入させていただいた。人を結ぶ「赤い糸」の言葉は、生涯独身を通された椿夏子さんから聞いた。

 人が人に出会うのは稀である。交通事故にあう確率よりも遥かに低い。まして同じ職場で、共に働く機会を持つのは、何らかの縁で結ばれていたとしかいいようがない。今200人の社員と共に働く喜びをかみしめている。お互いが赤い糸で結ばれている事を知り、現状を肯定し、明るい未来を築いていく為に力を尽くしていきたいものだ。

 私の自宅では椿貞雄の絵と共に、そのポートレートを飾り、「人を結ぶ赤い糸」を大切にしていくことを、日々誓っている。

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母校へのノスタルジア

平成18年5月10日
○母校へのノスタルジア

 新島襄の母校はアメリカのニューイングランドのアーモスト大学である。1864年に密航に成功し、日本を脱出した彼は、1870年に日本人として初めて西欧の大学を正式に卒業した。校友には札幌農学校の創立者W・S・クラークがいる。「少年よ大志を抱け」の一言は、戦後の若い私達にも大きな希望を与えてくれた。神田英学校の祖神田乃武、白洲正子の父樺山愛輔伯爵も後輩である。アーモスト大学は「自由」を標榜する、キリスト教の牧師としての古典的教育を授ける為の学校であった。ハーヴァードやイェールも同じボストン周辺地にあった。内村鑑三と新渡戸稲造は札幌農学校の二期生であるが、渡米している。特に内村鑑三は新島襄から多くのものを学んでいる。当時の留学生が頼るものとて全くないアメリカでお互いに支え合って、親愛と信頼、友情を深め合っていった。その源が「母校」である。

 早稲田大学の前身、東京専門学校の教員として、初期同志社出身者、新島襄の愛弟子が赴任し、大きな功績を残している。大西祝、岸本能武太、浮田和民、阿部磯雄である。また大隈重信は、福沢と新島が明治の二大教育者だと賞賛、新島なきあと同志社の社友として、京都を訪れるたびに同志社で講演を行っている。私の母校は同志社である。母校から学んだものは多い。しかし最も大きなものは母校へのノスタルジアである。幸い私の母校は現在も健在である。その気になればいつでも訪れることが出来る。心に浮かぶのは、赤いレンガの校舎、クラーク記念館、チャペル、図書館などと共に「良心碑」である。御所のクローバーの上で議論した友との思い出である。精神的な支柱を確立できたのと同時に、ネットワークにつながる人々とのご縁が出来た。まさにこれが「母校」のありがたさである。

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母校へのノスタルジア 

平成18年5月9日
○母校へのノスタルジア 

 「赤い月」という「なかにし礼」の書いた、満州から引揚げてくる苦難に満ち満ちた名著がある。舞台は牡丹江。昭和20年8月、広島長崎への原爆投下と時を同じくして、日ソ中立条約を破って、ソ満国境をこえたソ連戦車隊は、あっという間に満州を蹂躙した。「狭い日本に住み飽きた」と歌われた青少年達が大陸へと旅立っていったのは昭和恐慌の前後であった。満鉄の株式が、日本人の投資熱と愛国心をあおって急騰したのも一場の夢であった。

 同じ満州の中心地、奉天(現在の瀋陽)から留学生が来ている。私の会社にも勤務中である。奉天には当時、名門校の奉天中学があった。引揚げ者の中に、この奉天中学の生徒が数多く含まれていた。戦後数十年、奉天中学の生徒達は、「母校」の名の下に、兄弟以上の強い絆で結ばれ、お互いに助け合ってきた。財界の各所に奉天中学の出身者が多いのは決して偶然ではない。生死の一線を超えてきた原体験が、彼等に共通の愛情を育み、ひとりでにネットワークを作り、支え合い、励まし合ってきたに違いない。そこにあるのは「母校奉天中学」に対する限りない愛情である。またその「母校奉天中学」は今はもうない。だからなお更に大きなノスタルジアとなり、お互いの絆を深め合うこととなった。

 同じことは「陸軍士官学校」にもあてはまる。戦時下において「陸士」「海兵」は若者の憧れの的であった。しかし、これ等の学校も今はもう存在しない。なくなった母校への思いは想像にも余りある。陸士出身者の濃密な交際を、私は常に身近に感じてきた。敗戦後東大、京大等へ入り、卒業して財界で活躍された方々も多い。全国各地に陸士出身の経営者がおられ、種々ご指導をいただいた。私の媒酌人多田順四郎さん、その陸士の後輩で元三谷商事社長の野坂伊八さん、ご両者には、言葉に尽くせぬご恩とご教訓を賜わった。そしてその二人の名を口にするだけで、全国各地で初対面の経営者が、自分の弟と同然に私に接してくれる姿を見て、母校への愛とノスタルジアを感じないわけにはいかなかった。

 長州藩に吉田松陰の開いた「松下村塾」があった。塾が存在したのは僅か2年5ヶ月、野山嶽からの準備期間を入れても3年半でしかない。明治維新の元勲といわれた数々の人達の殆んどは、当時もう存在しなかった「松下村塾」の塾生達であった。失き母校、失き恩師への思いが、彼等を結束させ、お互いに切磋琢磨させ、回天の偉業を成就させたのである。

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長い連休あけの月曜日

平成18年5月8日
○長い連休あけの月曜日

 今日は長い連休あけの月曜日である。ふと窓の外を見ると一面の霧で、遠くの山並みはおろか、近くの山でさえ見えない。陽が山の端から顔を出すのは5時半過ぎであるが、今はまだ5時。永平寺町の家々は静かに霧の中に眠っている。永平寺は殺生禁断の地であり、永平寺に連る山々には未だに月ノ輪熊が数多く生息している。猿もチラホラ見かける事も多く、福井市の中心部にある私の会社から車で僅か20分の小宅であるが、自然一杯の住いといえよう。「永平寺」を私は勝手に「永久平和の寺」と解釈して、こよなく愛している。遂に永平寺川のほとり、越坂山の中腹に、西洋風の庵を建て、住むことになった。晴れた日、雨の日、雪の日そして今日のような霧の朝。刻々と移り変る自然の姿を身近に感じて、日々の平穏な生活に感謝しつつ、自然から毎日大きな「元気」いただいている。

 少しづつ明るくなってきた。新緑が美しい。毎朝太陽に向って拍手を打って礼拝していた祖父は、太陽の恵みに常に感謝していた。「人間の営みは小さいけれど、不断の努力によって、大きな事業を成し遂げる事が出来る」というのが口癖であった。

 今日は全社朝礼の日である。IP電話とカメラを使って、全国の全拠点をネットワークで結び、毎週幹部が3人づつ、一言、抱負を述べる日である。今日の私のテーマは「学ぶということ、教えるということ」とする。新入社員が毎月入社してきてくれるが、「お互いに学ぶ、教える、学びあう」という姿勢が大事だと伝えたい。

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『桜について』

平成18年5月2日
○『桜について』

 桜は日本人の感性によくたとえられる。パッと咲いてパッと散るところがよいという。染井吉野が桜の代名詞となり、桜の開花を告げる、「桜前線」という独特の言葉も、一般化して、違和感がない。

 桜は春の到来を告げる花だ。そして心が浮き立つような淡いピンク色の花が一気に、一面に咲く。青い空をバックに、この花を見ていると、生きている喜びを感ずる。また夜桜を一人静かに見ているとあやしげな花の精を感ずる。特に雨の夜桜がよい。しとしとと降る雨の中、ライトアップした桜を見ていると「この世のものとも思われぬ美しさ」を感ずる。

 私はことの外「桜」が好きだ。春の花もよい。つぼみよし。二分咲、三分咲。五分咲きも風情がある。満開の桜はいうに及ばず、一陣の風に舞う、散りぎわの桜の美しさ。「おみなごに花びら流れ」の詩の一節から私の桜への恋心が芽生えた。

 私は絵を描くことが好きだ。油絵画家を夢見た時もあった。桜の美しさを知ったのもその頃である。花が散り、新緑の桜もよい。深い緑の夏の桜も美しい。紅葉もよい。そして葉を落とした裸木の美しさ。雨に濡れて黒く光るその枝の美事なこと。うっすらと雪化粧をした枝もまたよい。桜の花が風で散った後、地面にピンクのじゅうたんが出来るのも楽しい。

 一年中楽しませてくれる「桜」。こんなすばらしい木を、私たちは身近に、そしてたくさん持っている。何と豊かな生活であろうか。桜を守り、育てる、先人からの努力を、私たちも決して忘れてはならない。

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『芦原温泉の芸妓100人』

平成18年4月28日
○『芦原温泉の芸妓100人』

 大学を卒業と同時に、生まれてはじめて福井を訪れ就職したのは昭和34年。ナベ底景気が終ろうとしていた頃だ。皇太子が民間出身の女性と結婚されるという大トピックスに沸いた頃だ。

 福井の奥座敷といわれた芦原温泉には、芸達者の芸妓さんが100人もいた。東京や大阪からの大切なお客は、芦原温泉で接待するのが、最高のもてなしであった。有名な旅館には、長年つとめている女中さんがいて、会社によって担当が決まっていた。当時の一流旅館はすべてが和風建築で、数寄屋風の木造であった。建物はほっそりと繊細で、ぜいを尽くした庭との調和を重視していた。山もなく、川もない、平地に、温泉が湧き出してきた芦原は、自然の趣きを、人工的に、建物と庭の調和に求めた。「禅寺の庭」と思わせる完成度の高い庭が多かった。

 舞の名手は勿論、笛、太鼓、三味線、小唄の名とりも多く、芦原温泉は北陸の温泉地の中でも「芸どころ」として有名であった。昼間温泉町を通ると三味の音が流れていた。厳しいお稽古が行われていたのである。

 私は石炭の営業で、旅館組合や各旅館を訪問していたが、「おあんさん」という当主から、よく相談を持ちかけられた。「今は良いが、これからの旅館経営はどう進むべきか」という難問である。冷暖房設備の営業を、石炭の営業と兼ねて行い出した頃から、この相談が激しくなった。「一流旅館として、少ない部屋数で、一流のお客だけを相手にやっていくべきか」或いは「大型の鉄筋コンクリートの建物に建て替えて、より大衆向けに切り替えるべきか」悩んでいる方が多かった。

 栄枯盛衰の流れのままに、有名旅館も、大型化しつつ、大衆化しつつ生き続けている。最近では接待客が減って、年金暮らしの老夫婦やグループ、そして若いカップルが多いそうである。残念乍ら芸妓100人は夢のまた夢となった。今はコンパニオン全盛である。

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働くということ

平成18年4月24日
○働くということ

 働くというのは、「ハタ」を「楽」にする。即ち自分以外のまわりの人の為に尽くすことをいう。しかし時代の変化と共に、この「真理」も時としてかすんでしまう。今や働く目的を持たず、働く意欲を持たない若者が増えてきている。もう一度、働くことの意義を分析してみることが必要な時代になった。私の会社のキーワードは「喜びの種、幸せの種をまこう」である。「ハタ」を「楽」にすることを端的に表わした非常にシンプルで分かり易い言葉である。何の為に働くのかを考えてみた。次のように分析できる。

1.報酬(お金)を得る。短期的には給与、中期的には賞与、長期的にはストックオプションや退職金、年金など。
2.挑戦機会を得る。仕事の面白さ、刺激や挑戦の喜び。
3.自己実現。自分にしか出来ない仕事。自分の仕事として誇りが持てる。
4.社内的、社会的な評価を受け、立身出世の機会を把む。
5.プロとしての技術知識を取得する。
6.職場や顧客や地域社会での豊かな人間関係から精神的な満足を得る。
7.社会的な貢献をする。

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中小企業経営者の悲哀

平成18年4月20日
○中小企業経営者の悲哀

 数年で交替していく大企業の経営者や、官公庁の幹部と違って、中小企業の経営者は、全財産(僅かな金額かも知れないが…)と全生命をかけて、日夜努力している。

 私の習慣は、早朝4時起床、出勤までの約3時間、昨日の反省と今日の業務の段取りをつけ、そして余裕があれば、将来への展望に思いを馳せる。朝が早いかわりに、夜の就寝は早い。大体22時には床につく。その為、宴席の2次会は、どんなに重要な場合でも、顔だけ出して早々に消えさせて頂いている。健康管理というよりも、早朝の思索の時間を大切にしているからだ。若い頃は、深夜まで飲み歩いた事もある。酒で身を持ち崩す友や、身体をこわす友を見て、自重するようになったのは、40歳を超えた頃であろうか。今、私の子供達がその年齢に達している。

 私の友人の例であるが、事業に行き詰って自殺した。周りの人々は「なぜ死ぬ必要があったのか」とか、「死ぬ前に相談してほしかった」という。しかし相談されていても、何もしてやれなかったケースが多いのは一目瞭然である。また別の友人が新商品を開発し、国の補助を受けた。続いて次の新商品を開発して、これまた国の補助金を支給された。しかし借入金がたまっていて、研究開発にまわす資金を返済に充てた。当然、調査の結果、流用の証拠が上がって友人は起訴。会社は倒産。一家はバラバラ。誠にこの世の地獄を見る思いがする。

 福井県は、社長輩出率日本一を長年続けている。ベンチャースピリットが、最も旺盛なところである。しかし乍ら、中小企業創造法の認定を受け、新商品の開発に成功し、国の補助金を支給されており乍ら、倒産に至る不幸なケースが、あまりに多い。これは中小企業の経営者側にも問題はあろうが、補助金、助成金、支援システムそのものにも大きな問題が潜んでいるのではなかろうか。命がけで働いている中小企業経営者の真の味方になって、もっともっと考えてみる事が求められている。自殺者、年間3万人をなげく前に、今すぐ打てる手を打って、明るい健康な社会を築き上げていくことが大切である。

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福井藩は御三家の上位、そして松平家の筆頭の家柄

平成18年4月17日
○福井藩は御三家の上位、そして松平家の筆頭の家柄

 二代将軍秀忠の正室 於江与の方にとっては、福井は、母、お市の方の最期の地、そして織田家祖霊の地であり、結城秀康は夫の兄であった。織田一族は、越前の国、丹生郡織田町(現在は越前町織田)に興った。中心地に劔神社と呼ぶ古式ゆかしい宮がある。於江与は織田信長の妹、お市の方の三女。長姉は秀吉の妻 淀君である。

 家康の長男松平元康は武田家出身の母と共に、信長の命により自刃させられている。次男は秀吉に乞われて、その養子として育てられ、秀吉の「秀」、家康の「康」をとって「秀康」と名付けられ、名門 結城家を継がされている。家康は、三男 秀忠を跡継とした。

 結城秀康は徳川家康の次男として、越前福井68万石を領し、外様大名の雄、加賀前田家102万石の押さえとされた。越前福井の68万石は御三家の上位にある。制外の家として、江戸城への登城時には、二の丸を住居としていた。尾張徳川家61.9万石、紀州徳川家55.5万石、水戸徳川家35万石と比較しても、別格扱いが十分理解できる。福井城築城の絵図面は、徳川家康手づから描いたと言い伝えられている。

 広大な城跡は、明治、大正、昭和の時代に次々と埋立てられ、市街地となり、僅かに内堀と石垣を残すのみとなってしまった。この城域は現在の福井市中心街をすっぽりと包み込む規模で、その在りし日の姿は、福井市歴史博物館で見ることが出来る。私は出来れば、この在りし日の姿を町の角々に表示し、日本有数の福井城の偉容を福井県民は勿論、観光客にも、目に見える形で知らせることが出来ればと考えている。

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日本酒の復権と地酒ブーム

平成18年4月13日
○日本酒の復権と地酒ブーム

 ここ数年来の日本酒の生産量、販売量の落込みは、目をおおうばかりの激しさであった。料理店、レストラン等でのメニューも「焼酎」が上位にあり、銘柄数も大差がついている。「焼酎党」に何故日本酒を飲まないのかと聞くと、「身体によくない」「糖尿病によくない」「検査時の指数が悪くなる」等の言葉が返ってくる。そして必ず「味はうまくない、日本酒にはかなわないがね」と続く。要は醸造酒より、蒸留酒の方が、今流行の糖尿病には害が少ないという事であろうか。旨くないが、仕方なく焼酎に梅干を入れたり、レモンを入れて味をごまかして飲んでいるのである。

 私は日本酒党である。祖父や父が酒に強かったせいか、以前はよく飲んだ。世界中を歩き、名酒、銘酒を口にしたが、最後は日本酒を毎日一合程度たしなむことが最高の飲み方だと気がついた。酒は文化である。世界各地にその土地に合った酒がある。酒の作り方、酒の飲み方、酒の器、酒の席・・・。それぞれ千差万別である。

 父は酒の飲み方には結構一家言を持っていた。酒を飲むのに最も注意すべきことは「酒の席」であるという。酒を飲む店、その座敷、その庭、すべてを含む空間を重んじた。次に「酒の友」である。飲む相手によって酒の味が変わるという。「酒の友」は真の友という。死ぬまで1人の親友と毎年正月に楽しそうに飲んで騒いでいた姿が忘れられない。そして、三つ目が「酒の味」であるという。サラリとした薄味の酒を好んだ。これは最近流行の味である。

 酒は文化というのは、日本酒の作り方にも特長がある。酒作りの手間暇のかけ方が、世界の他の酒とは根本的に違うのである。これを理解するには「酒蔵」を訪ねてみるのが一番手っとり早い。「清酒」になってまだ400年程しかたっていないが、日本酒の作り方は世界ダントツの長い時間と多くの手間をかけて作られている。

 酒の器についても他のものは足元にも及ばない。神前の三宝カワラケから結婚式の三々九度、正月のお屠蘇用、晩酌用、グイ呑み・・・。また酒の器の材質も種々である。磁器あり、陶器あり、漆器あり、木工品、竹細工、ガラス、金杯、銀杯、錫・・・。日本人の感性の豊かさ、そしてそれ等の数々の道具や酒器を使い分ける教養と文化は、驚くべき程高い。

 この価値ある「日本酒」の復権と全国各地で営々と作り続けられている「地酒」を見直す運動が今はじまろうとしている。「地酒」は「地産地消」を何百年も続けてきた最たるものである。私は「地酒」をPRする為に、全国どこへ行っても、まず福井の酒を、続いて北陸の酒を注文することにしている。お世話になった方に「地酒」を送ることも心がけている。いつの日か地酒を楽しめる空間を作るコラボレーションをやりたいと考えている。

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なぜ美術館へ行くのか

平成18年4月12日
○なぜ美術館へ行くのか

 絵画や彫刻を鑑賞するために、美術館に行く。心の癒しを求めて行く。この目で本物を見てみたい。楽しいから行く。恋人や夫婦で行く。友人と行く。家族で行く。「美術館」は劇場や映画館などとよく似た感覚で行くところのようである。

 しかし、「美術館」で自分の作品を展示する側から見ると全く異なった側面があらわれる。「美術館」とは自己主張の場であり、その作者の命をかけた生涯の結果を見せてくれるところである。

 私は子供の頃に、習字を習った経験を持っている。字と一緒に墨絵も習った。夏休みの宿題で墨絵をかいていったところ「上手すぎる」と叱られたことがある。母親が手を入れたと思われたのだ。小学2年生の時、戦争画を描いて「ほめられた」。これは上手かったのではなく、友達が単発の飛行機を描いたのを、私は双発の新鋭機を描いたからだ。そしてその胴体に日の丸を描いた。小学5年と6年に図画の先生が担任となった。りんごの絵をほめられた。但し、先生の一筆が入っていた。

 大学では「クラマ画会」という可成りレベルの高い部活のクラブに入会した。プロの作家を輩出しているクラブだ。学生会館の中に部室を割当られている正式の自治会組織である。卒業生は「鞍馬画会」という同名ではあるが、カタカナから漢字にかえた名前の会を作り、毎年京都の画廊を一週間貸り切って小品展を開いている。私は59歳でベンチャー企業を創立し、多忙を理由にここ数年、出品できずにいる。誠に心苦しい。

 絵を描くことは、自己主張である。他人と同じように描くことに意義はない。自己実現といってもよい。自分にしか描けない絵を描きたい。そう思い続けてきた。今は絵を描く暇はないが、絵を描いているつもりで、事業を推進している。生涯現役を目指しているので、一生絵を描く機会はないのかも知れない。事業が私の絵になるのか。事業も、絵も、おろそかに出来ない同質のものである。

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「仏教王国 越の国」

平成18年4月10日
○「仏教王国 越の国」

 越の国は越前、越中、越後にわたる日本海に面した広大な地域を指す。古来より大陸や本島との交流が盛んで、日本の先進地域の北九州と並び称された文化を持っていた。沿岸各地に点在する白木神社や白木橋、そして継体天皇を生んだ文化と武力を育んだ豊かな地域であった。いよいよ来年には継体天皇即位1500年を祝う一大行事が、越の国の先進地「越前」において行われる。

 その後、道元が都の俗塵を嫌って、越前の山中に、禅の道場を作り、曹洞禅の総本山永平寺が建立され、今日では世界中から禅の奥儀にふれんとする人々が集まってくる。

 また同時代に興った浄土真宗は、北陸全域で隆盛を極め、金沢、福井では、真宗が国を治めるという史上稀に見る宗教王国が出現した。蓮如上人が、越前にあって布教にあたり、多くの信者を集めて真宗中興の祖といわれている。その影響もあって、越前には三門徒派といわれる真宗の本山が三つもあり、東西別院と併せて、人々の心の中に深く浸透している。

 更に曹洞宗と並び称される禅宗の総本山臨済宗妙心寺は京都にあって全国各地にある臨済禅の元締めとして永年隆盛を誇ってきたが、今から20年前、篤志家の多田清(元相互タクシー社長)の発願で建立された勝山市の大師山清大寺を譲り受けた。奇しくも道元が避けた臨済禅が数百年の歴史の後に、永平寺からほど遠からぬ大師山の麓に、突然大伽藍となってあらわれたのだ。泉下の道元もビックリしていることであろう。清大寺の寺域は大師山を背に広大で、その規模といい、諸伽藍の姿といい、どれ一つをとっても日本で現存する寺院の中では、トップクラスの偉容を誇っている。一見の価値は十二分にある。

 いずれにしても真宗王国であると同時に、禅宗でも曹洞、臨済の二大宗派の代表的な大伽藍の存在する越前は、京都や鎌倉、東京と比肩しても全く遜色のない仏教王国といえよう。

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「デジタル時代の到来」について

平成18年4月7日
○「デジタル時代の到来」について

 カメラを自分で作り、そのカメラで自分の選んだ被写体を撮ってそれを焼付けて、現像し、引伸しする。私が中学生から高校生の頃の体験である。作ったカメラは暗箱カメラ。フィルムでなくガラスを使った。シャッターも自分の感覚で露出を行った。レンズの前にガーゼの布をかぶせて、やわらかい雰囲気を演出したこともある。真っ暗な暗室の中で、小さな赤色灯の下で、冷たい定着液や現像液を使って、大版の写真を引伸していた頃がなつかしい。

 今はデジタルカメラの時代となった。携帯でも写真が撮れて、記憶させることが出来て、メールで送信できる。何とも便利な時代になったものである。しかし、このことは私達にとって、本当に幸せなのかどうかは、また別問題である。自分の手作りカメラの未熟さ、映像の不確かさ、画面の粗さ。どれひとつをとっても現代のデジタルカメラの敵ではない。しかし何ともいえない味がある。それと同時に一枚一枚の写真に大切な思い出が一杯つまっている。これは何ものにもかえがたい私の宝である。写真を現実に手にとらなくても、それ等の写真は、私の記憶の中に生き続けている。いつでも、それを思い起すことができる。更にその写真を撮った時、引伸した時、その前後の思い出も、記憶にある。

 デジタルカメラの場合は、そのデータの膨大さと、その撮影の手軽さ、そして自からの努力の不必要さから、一枚の写真への思い入れがなくなってきている。これは私達にとって重大な機会損失である。折角の大切な場面での思い出が、その記念となるべき思い出の写真が、安易なデジタルカメラによって、稀薄化されていってしまっている。

 何事にも努力をしてこそ、達成感を味わうことが出来る。そこから生れる喜びや感動を手にすることが出来る。努力せずして手に入れたものは、すぐ忘れてしまうのだ。
悪銭身につかずという。デートレーダーが、簡単に、安易に、手に入れたお金を失うのは、非常に早い。
デジタルカメラの流行を考えると、そこに将来の私達の子孫の幸せを憂うことが必要なのかもしれない。

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『教育』について

平成18年4月4日
○『教育』について

 教育の荒廃がいわれて久しいが、最近のニュースの内容があまりに非人間的な事件にあふれていて、改めて教育の見直しが必要になってきていると思われる。教育の基本は「躾」である。「躾」とは3歳児までの幼児に対して特に有効といわれている0、その両親や周囲の人々の、児童に対する教育のことをいう。

 「躾」の重要性については、歴史上さまざまな人々が、その重要性に言及している。最近ではソニーの井深大元会長が、声をからして、力説していたのを、私は忘れられない。「若いお母さん達に、あなたの愛児の躾について、もっともっと興味を持ってほしい。「三つ子の魂百まで」は科学的に正しい。どうか3歳児までのあなたの愛児の教育に、あなたの全精力を注いでください。」とうったえ続け、全国を行脚しておられたのを思い出す。

 私の幼い頃は、両親だけでなく、祖父母も口やかましく私の行動に口を出した。それ以上にうるさかったのは近所の隣組の人々である。私が琵琶湖の水泳場で泳いでいて、沖に行き、大波にのまれて溺れそうになった話を、さも自分で見てきたように、私の家へ告げに来た近所の友人の母親の口ぶりが忘れられない。「お宅の弦司さんが、琵琶湖で溺れそうになったのですよ。気をつけて下さい。」本人は悪気は全くない。しかしそれを聞く私の身にもなってほしい。私は家に帰って、一言もそれにふれていない。これが「近所の底力」といわれるものであろう。村落は運命共同体なのであった。今思うと子供を支える組織が有効に機能していたといっても過言ではない。

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『山中湖を訪ねて』

平成18年3月30日
○『山中湖を訪ねて』

 春陽に誘われて、富士山麓の山中湖を訪ねる旅に出た。桜に春の淡雪の舞う一日となった。

 日本人は富士を愛することでは、国歌や国旗以上の思い入れがあるようだ。戦後、引上げてきた軍人や軍属、そしてその家族達が、富士山を見て泣いたという話を、沢山の人々から聞いた。富士は日本の象徴である。また桜の花も同じように、国花としての地位を不動のものにしている。「桜」を愛することも、日本人が等しく認めるところである。

 今回の山中湖を訪ねる旅は、友人達との旧交を温める為の小旅行であったが、奇しくも日本人の最も愛してやまない富士を見、桜を見る旅となった。

 私も富士を愛し、桜を愛している。そして同時に私は日本の国歌「君が代」を愛し、国旗「日の丸」を愛している。近年、教育現場の混乱から、日本人の背骨ともいうべき国歌や国旗を無視する傾向があるのは誠に悲憤にたえない。一日も早く正しい道に戻す努力を、国民の一人一人がせねばならない。

 バスガイドから面白い話を聞いた。「富士山は日本一ですが、その標高は?」「それは3776mです。みななろう日本一に、と覚えてください。」

若い人達も大きな夢、高い志を持ち、日本一を目指して頑張ってほしいものである。

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鎌倉ハイキング倶楽部

平成18年3月16日
○『鎌倉ハイキング倶楽部』

 「風を把む」という言葉が好きだ。「風」を「夢」と見たててもよい。千葉県浦安市に住んでいた時のことである。緑に飢えていたことがある。浦安市はディズニーランドのある新しい町、埋立地の町である。山がなく、丘がなく、坂がなく、どこまでも平らな町である。緑はあるが、平面的な緑しかない。浦安に住む前に、北鎌倉に住んでいた私は、山の緑、垂直に立つ大きな緑に囲まれていた。まわりの人達にその話をすると、殆んど同じ思いを抱いておられた。そこで週末、有志数人が集まり、電車で、私と妻が案内役となり、鎌倉の緑を探す小さな旅を実行した。「まず実行」これが私の持論である。

 「風を把む」ための旅でもある。毎月1回鎌倉へのハイキングを続けていたところ、次々と同好の人々が集まり、散歩コース、ハイキングコースを手書きで作り、寺々、山々を訪ね歩いた。鎌倉の寺や山は、京都のそれと違って、すべてが小ぶりで、年配の者にとっても、足弱の者にとっても親しみ易い。雨天決行であるが、電車やバスを利用してのハイキングであるので、誰一人の落伍者もなく、怪我人もなく、楽しむことが出来た。1年12ヶ月。12のコースを作るのも、私達夫婦の楽しみであった。このコースは少し年配の人にはムリかな・・・・・・など、事前に歩いてみて確かめたり、鎌倉の歴史、文学などを調べておいて、ガイド役を務めさせていただいた。

 私が海浜幕張の勤務先から福井へ転勤するまでの約2年余りの期間、「鎌倉ハイキング倶楽部」の会長であった。新宿や、周辺の都市からの参加者も多く、年配の方々も多く、ボランティア活動とは言い乍ら、私達も十二分に楽しんだ2年間であった。目を閉じると、今も鎌倉の深々とした緑が昨日のようによみがえってくる。「鎌倉に行きたい」「鎌倉に住みたい」と考えている人々のいかに多いことか、そして、その理由をしみじみ実感できた2年間であった。

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「住友信託銀行 金沢支店開設60周年」

2006年3月14日
○「住友信託銀行 金沢支店開設60周年」

 ここ10年程の間に、住友信託銀行を除く、すべてのメジャーバンクの名称が変わり、多くの銀行が姿を消していった。唯一残った銀行というと、そこにその独自性が浮かび上がる。私のいう「自主自立」と同意語の「自主独立経営」である。金沢支店は戦後の混乱がまだ冷めやらぬ、終戦7ヵ月後に開設されたとのこと。戦後初の支店である。

 また、信託銀行の大合同を進めようとした、かつての方針が急遽変更された後の対応も鋭いものがあった。メジャーバンクの中では小粒ではあるが、ピリリと辛い強い体質を感じる。信託専業という特殊な環境の中で、不動産に強いという体質を生かしながら、個人資産コンサルティング業務、企業支援活動に、北陸3県担当という広範な担当エリアを生かして、進んでいっていただけるものと信じている。

 住友グループとのお付き合いは長く、ダイキン工業の山田稔元会長・井上礼之会長、住友不動産の安藤太郎元会長・高城申一郎会長、義弟がかつて専務をしていた住友大阪セメントの今川彦二元社長・立元正一元社長・濱田G圭元副社長、全生連の石松義明専務理事、日本電気の小林宏治元会長・関本忠弘元社長・江頭年男元副社長・小林亮元副社長等々と数多くの先輩諸兄にご指導いただいた思い出がある。縁につながる諸先輩方にお引立て賜った御恩を忘れることは出来ない。一期一会の気持ちで出会いを大事にして、この厳しい時代を全力投球で乗り越えていきたい。

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天正2年長浜城着工

平成18年3月9日
○『天正2年長浜城着工』

 天正2年(1574年)、近江の国、今浜において、日本初の都市作りがはじまった。織田信長から北近江12万石の大名に取り立てられた羽柴秀吉によって、平地に、人工的に作られた。日本一の琵琶湖岸に面し、町中を北国街道が通り、東山道にもほど近い。当時の水陸の交通の要衝である。

 都市作りの中心となった長浜城の外堀は、幅15間で、湖岸より船で乗入れが可能となっており、内堀は幅10間で、砂地を掘り下げて作られた。掘られた土砂は、地上に積み上げられ、平地を高くし、急峻な3丈の石垣の上に、3層の櫓で囲まれ、天守閣を持った城だ。

 西方は湖に面し、竹生島が眼前にかすみ、東面は峻麗な山容の伊吹山を望み、南面は船溜りを作り港とした。城の周辺には武家屋敷を配している。町並みは東側にひらけ、各町々は同業者がかたまって住み、それぞれ船町、呉服町、紺屋町などの職種別の名が付けられ、町年寄による自治が行われた。楽市楽座の信長の方針が忠実に実行され、長浜城完成と共に殷賑を極める町が誕生した。今浜は信長の一字をもらい「長浜」と改名。

 その後この長浜の城作り、町作りが、日本全国の模範となり、各地に平城を伴った同じような市街地が作られていった。その数は260にも及び、その間僅か50年間の出来事である。長浜城に次ぎ、信長は安土城を、秀吉は後に大坂城を、家康は江戸城を築き、城下町を整備したが、その原型は秀吉の作った長浜城を嚆矢とする。徳川時代に入り、長浜城は解体され、彦根城に移築され、井伊家歴代の居城となり、今日数少ない国宝の城となった。

 長浜の町民は秀吉の遺徳を偲び、町内に豊国神社を作り、十二基の豪華な曳山を作り、長浜祭を春秋に盛大に行っている。解体された長浜城は戦後長浜市民の熱い思いにより、再建され、楽市楽座の復元と共に、長浜市の観光の目玉となっている。

 一介の最下層の一市民から、天下人にまで登りつめた秀吉は、日本の歴史上稀有の存在であり、長浜市民の秀吉に対する身近な尊敬の念は消えることがない。秀吉の施した年貢免除の商人街への特典は、地域限定ではあるが、永く続き、近江商人発祥の源流となっていった。町民の町民による自治の風は、今なお長浜の町に色濃く残っている。

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経営理念の共有

平成18年3月7日
○『経営理念の共有』

 台湾の板橋市にある福井の日華化学の現地法人を表敬訪問した。グレーターチャイナ計画の中枢にある、キーカンパニーとのこと。福井経済同友会のメンバーとして訪問し、熱烈歓迎を受けたのだ。創業38周年になる。江守董事長の祖父の頃に、台湾人の企業に出資、その後、協力関係を深めていったとの説明を聞いた。

 私は学校を卒業して間もない1959年頃、福井の日華化学に石炭の営業に伺い、燃転(石炭から石油に燃料が変ること)までの数年間当時の江守清喜社長に石炭を買っていただいた。その後20年余りが経過し、福井北ロータリークラブに入会した時に、そのメンバーであった江守さんと再会した。温厚な人格に、常々敬意をはらっていたのを思い出す。台湾日華化学工業股莉ス有限公司では、創業の意志が経営理念として、今なお、全従業員が毎朝唱和されているという事実を知り、大きな感動を覚えた。

 日本人同士でも経営理念の徹底は難しい。私の会社は10年前に4人でスタートし、今200人になった。10年で、50倍である。あと10年で50倍になると1万人の大企業になるかも知れない。一番困っているのが、私達の初心を、新入社員達にいかに伝達していくかである。社是を作り、社訓を作り、業務十則を作り、毎日朝礼を行い、毎週全社朝礼を行い、毎日の私の朝の訓話を、全社員がホームページにアクセスして、生の声を聞けるようにしている。また、経営方針伝達会をIPテレビ会議で3ヶ月に1度行っている。

 しかし、私の思いの半分も、なかなか伝わり難い。私の不徳の致すところである。深く反省をしている。

 この困難な「経営理念の伝達」、そしてその共有が、この台湾の地で見事に花開いているのを見て、感嘆の声を上げた。僅か2人の日本人が、数多くの台湾人の中で、よくぞこの困難な集団の意志統一を実行し、創業の理念の継承と、現地の方々との理念の共有を実施できた事に、敬意を表わしたい。訪台の初日の、すばらしい経験である。江守グループの皆様の協力に、深く感謝を申し上げ、発展を祈りたい。

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青い地球

平成18年3月6日
○青い地球

 中部国際空港(セントレア)を10時20分出発。快晴の中、3時間45分をフライトで台北に到着。日本列島の上を飛び、空の青、海の青にも染まず飛んで、地球の青さを満喫。台湾と日本は隣国であり乍ら、政治的な理由で国交がなく、不幸な関係が続いている。

 台湾には日本人以上に日本人らしい台湾の人々が住んでいる。私の友人の何人かは台湾生まれである。同志社大学の台湾OB会も活発に活動しており、ミシガン大学でも台湾出身の日本人のクラスメートも何人かいた。僅か100年前に台湾が日本に併合され、私の子供の頃の世界地図や日本地図では台湾は赤色に塗られた大日本帝国の一部であった。台湾総督府や台湾帝大などにかかわった私の友人の父兄が多い。

 仕事で知りあった元日本兵の台湾の友から30年前にこんな苦情を聞いたのを私は忘れない。「台湾に住む、元日本人である私達の郵便貯金は敗戦後ゼロになり、何の保証もない。元日本兵であり乍ら、軍人恩給は支給されない。ぜひこの事を日本人に伝えてほしい。」

 ロータリークラブに入会して早や20年余の歳月が過ぎた。台湾と姉妹クラブとなっている2,650地区のクラブは多いが、その関係は端目でも親密である。台湾の人々の人情味あふれる誠意の賜物であろうか。

 沖縄の南西諸島から見る台湾は隣村である。那覇も鹿児島も、まして東京は遥かに遠い。しかし台北は隣村と思える程に近い。風景も人情も、文化すら日本との区別をするのが難しい。古き良き昔の日本、私達の子供の頃の日本がそのまま、台湾の田舎に残っている。もっともっと台湾をみることが求められている。

 21世紀は戦争の世紀にしてはならない。いかなる理由があろうと戦争を許してはならない。イラク攻撃を阻止する為に、ローマ法王が命がけで、ブッシュ大統領をいさめた尊い姿を、私は忘れられない。青い地球を守ること。戦争を起こさせないこと。これは私達の最大の任務である。

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『3月3日ひな祭り』について

18年3月3日
○『3月3日ひな祭り』について

 今年の冬は雪が早かった。12月初旬から大雪となり、観測史上初の12月の大雪の記録を作った。雪が早い年は春の訪れも早いと昔からいうが、3月に入る前から春の気配が濃くなってきた。そういえば虫が地下から地上へ這い出る「啓蟄」もいよいよ来週に迫り、今日は3月3日のひな祭りの日である。

 私の子供は二人共男なので、5月5日の端午の節句には、大きな鯉のぼりを、自宅の庭にかけたり、両親の住んでいた頃の長浜の寓居の庭に泳がせたりしたものだ。残念乍ら、ひな飾りは縁がなかった。

 ある時、京都の骨董人形を扱う人と知り合い、年代ものの御所人形を手に入れた。江戸時代に京へ上洛する大名達に皇室や公家から渡される京みやげだという。おそらく、それらの普及版として作られたものと思われる月替りのいずくら人形である。髪の毛はのしの形に描かれており、おみやげにふさわしいもので、手には月替りの飾りものを持った人形である。人形の価値は判らないが、古いものを数点づつ手に入れ、比較しているとだんだん特長がわかってくる。目の形や衣服の古さで年代が推測できる。西洋人形とはまた異なった、日本独特の文化を感じることができる。童謡のひな祭りの中に出てくるような大層なひな飾りには縁がなかったが、3月3日になるとそのいずくら人形を思い起す。今は地下の倉庫に、ゆっくり眠らせているからだ。

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幸せは身近にある

平成18年2月22日
○『幸せは身近にある』

 幸せの青い鳥を求めて、山のあなたの空遠くまでいくという歌がある。「幸せ捜しの旅に出よう」というキャッチコピーもある。幸せは身近にあるものではなく、どこか遠い見知らぬ土地にあるように思っている人が多い。本当に幸せは身近にはないのだろうか。

 事実は「幸せは身近にある」のである。しかも目の前にあるのである。あまりに近く、あまりに日々接しているので、それに気付く人が少ないだけなのである。

 「目の前を極楽と思えば極楽、地獄と思えば地獄」という有名な禅僧の言葉がある。ものの見方、考え方を変えるだけで人は幸せにもなれるし、不幸にもなれるのである。私達、昭和二桁の人間は敗戦後の5年間、食べもののない中で成長してきた。現在の飽食の時代は当時の私達にはまさに極楽である。一粒の米に感謝し、お百姓の八十八の手間をかけたお米を一粒も無駄にすることは出来ないという厳しい躾の中で育った私は、ご飯を残すことがどうしても出来ない。食べるものが殆んどない時代でも他人に感謝し、乏しいものを分けていただくという生活は決して地獄ではなかった。反対に、母が子を殺し、子が親を殺す現状は、まさに地獄である。

 「幸せは身近にある」「目の前にある」ことに早く気付かなければ、幸せな人生を送ることが出来なくなる。人間にとって一番大切なのは「目の前の人」である。それが夫であり、妻であり、親であり、兄弟姉妹であり、子や孫である。会社では同僚であり、上司であり、部下である。「目の前の人」を何より大切に思い、その人の為に何かをしてあげる事が、あなたを幸せにする。現状に感謝することが即幸せへの道である。「目の前の人」に感謝することが自分を幸せにする。私は日々妻に感謝し、心の中で手を合わせている。私の毎日はお蔭様で明るく、明日への希望に満ちている。

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人生の師

平成18年2月16日
○『人生の師』

 「尊縁」という色紙について以前書いたことがある。NHKののど自慢コンクールの名司会者 宮田テルさんにお願いして、作らせていただいた「色紙」である。トヨタビスタの代表者をしていた時のことであるから今から26年ほど前のことである。「縁を尊ぶ」という言葉は、私の人生を左右する言葉と考えている。禅宗で「一期一会」ということをよくいうが、「尊縁」はよりわかり易い。

 先日、大先輩の坪田昭さんから電話をいただいた。私の会社や私の経営について取材してくれた本を、お世話になった方々に順次謹呈しているのだ。「本を読んで感動した」との温かいお言葉を賜わった。
坪田昭さんは大学の大先輩であり、OB会の福井県支部長をおつとめの時、私も副支部長としてお手伝いをさせていただいた。ロータリークラブへの入会も手引をしてただき、坪田さんが会長の時には幹事をおおせつかった。その縁で、その後OB会の支部長もやり、ロータリークラブの会長も務めさせていただくこととなった。

 坪田さんは福井県下の名門企業の御曹司である。繊維関係の中では昔から絹織物のメーカーの地位が高く、業界のリーダーをつとめられる方々が多かった。敗戦後の繊維ブームの頃には「福井人絹取引所」が福井に開設され、戦後の一時期、福井から所得番付1位の加藤尚さんの名前が有名になった。松下幸之助さんより大分以前のことである。その繊維業界華やかなりし頃の福井の駅前通りの賑わいは大したものであった。大手商社が軒を並べ、足羽川畔の料亭はいんしんを極めた。今、私の本社ビルが立っている周辺がそのほぼ中心に当る。

 坪田さんは押し出しが立派で、声がよく透り、人をそらさない気使いの人である。私は坪田さんほどに「男の中の男」を感じる人はいない。教えていただいた事は数限りないが、その「男っぽさ」だけは人に備った風格であろうか、どうしても私などの身につくはずもない。本当に魅力的な男である。坪田さんに出会えたことは「尊縁」という言葉によって導かれた私の幸運である。

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トンネルを抜けるとそこは雪国だった

2006年2月14日
○『トンネルを抜けるとそこは雪国だった』

 有名な川端康成の小説「雪国」の書き出しである。私は永平寺町で2回目の冬を過している。福井市内の本宅は殆ど空家になっている。「越坂」という永平寺へお参りする旧道にあたる山がある。昼なお暗い、原生林を思わせる曲がりくねった道で、冬は雪のために閉鎖になる。

 この「越坂」を越えて、数百年の長い間、永平寺を目指して全国から曹洞禅の信者が集まってきた。「越坂」はその旅の最後の難関である。不思議なことに永平寺へ入る山道は、「越坂」の他に、東から入る道、南から入る道もあるが、雪が深い。道元禅師がこの雪深い所を敢えて選んで御堂を建てた、その心が想像できる。

 現在はこの「越坂」に越坂トンネルが開通している。近い将来、東海北陸自動車道が開通し、福井市の玄関口となる運命の道路である。大雪の中、今も工事が進められている。トンネルの東側の永平寺町と西側の福井市とでは気温の差が約2℃ある。雪の量も倍増する。
雪を楽しみ、自然が豊かな環境に暮らす喜びを満喫するゆとりを持ちながら、今日もまた玄関先の雪をかいている。ここは正に「雪国」なのだ。

 雪国の人は肌が美しく、忍耐強い。そして春を待つ心が人一倍強い。あと一ヶ月ほどで春を迎える。

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カラーとデザインについて

2006年2月13日
○カラーとデザインについて

 カラーには暖色と寒色がある。またパステルカラーがあったり、メタリックカラーがあったり、ブリリアントカラーがあったり、いろいろである。コンピューターグラフィクスでは数限りない色の種類がある。カラーサンプルを見ても殆ど見分けがつかないものも含まれている。

 日本人は色彩感覚に優れており、日本独自の色の表現が巧みである。色を表す漢字のあまりの多さに驚きを禁じ得ない。例えば錦繍の秋は日本にしかない。

 世界中どこへ行っても日本の秋ほど色とりどりに美しい紅葉は見ることが出来ない。カナダの秋を絶賛する人は多いが、その見事さは、スケールの大きさと、イエローなり茶色なりの、殆ど一色に塗りつぶされたキャンバスを見る感じである。キメ細やかな感動を呼ぶ力は少ない。

 ものづくりの中で、重要度がどんどん増してきているものに、商品のデザインがある。デザインの良し悪しで、ものの売行きが変わるということだ。

 私の会社もデザイナーを採用するようになって、デザインが大きく変わってきた。ホームページや会社カタログ・チラシ・広告・POPなどあらゆる所でデザイナーの力が加わって訴求力が増してきた。中途採用のホームページを見て、就職を希望するデザイナー達である。

 中途採用は毎月行っており、門戸は常に大きく開いている。優れたデザイン力を持ち、暖色の心を持ち、寒色の知性に輝くデザイナーの為に、扉を開けて待っている。トヨタのレクサスのデザインのように、感動を呼ぶ商品の開発の為に、新しい境地を共に切り開いていきたいと考えているからだ。

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昭和という時代について

2006年2月7日
○『昭和という時代』について

 小学校の上に高等科というクラスがあった。小学校は戦時下ということで、国民学校と改名されていた。アメリカ軍の空襲があると、私達国民学校の低学年生は、高等科のお兄さんに手を引かれたり、おんぶされたりして、近くの防空壕(地面に穴を掘り、上屋をかけ、その上に土砂をかぶせた粗末な穴倉)に避難した。頻繁に空襲があり、夜も寝られない日が続いていた頃、毎月全校朝礼が行われ、高い段の上に高等科のお兄さん達がたすきをかけて立った。満蒙開拓義勇隊の出発である。どのように選ばれたのか志願したのか、幼い私には何もわからなかったが、戦況敗色濃く、遠い満州蒙古の地も守るのに大変だろうと想像はついた。お兄さん達の年齢は13歳前後である。いかに傷々しい姿か想像できよう。お兄さん達のその後は行方知れずである。昨日、元日銀副総裁の藤原作弥氏の「私の昭和史」について講演を聞いた。ソ連との国境近くから約一年半かけて日本へ脱出した苦難の旅の思い出であった。丁度私と同年の彼が、そんな苦しい前半生をあの敗戦の前後過したのかと思うと同情を禁じ得ない。以前、なかにし礼氏の講演を聞き、彼の「赤い月」という満州を舞台にした自伝的小説を紹介され、夢中で読んだ。私の叔父はシベリアへ抑留され、1948年にガリガリにやせて半死半生で帰国した。その後、京表具組合の役員を務めるまでに成功したが、抑留時代の話はついぞしたことがなかった。よほどつらい、耐え難い生活だったと思われる。藤原作弥氏やなかにし礼氏の話から、日本が太平洋戦争に誘い込まれ、敗戦の辛酸をなめた事を追体験させていただいたことを喜びたい。そして現代に生きる喜び、その有難さを痛感している。誰かの為に、何かをすることが必要だという事を切に考える今日である。

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新島襄を訪ねる旅 その1

平成18年2月1日
○新島襄を訪ねる旅 その1

 新島襄を訪ねる旅に出ようと思ったのはいつの頃であったか。同志社大学に入学し、そして最も保守的で、排他的なキリスト教精神に基づいた教育を日本で、京都で実行したその新島襄に少しずつ魅かれていく自分を発見した頃であったろうか。

 私はこの前の休日を三井不動産の経営する外房の勝浦、ミレーニアという別荘地で過した。時の人、竹中平蔵大臣の別荘もある、広大な南斜面の温暖な別荘地である。この地を選んだ重要なファクターが新島襄である。彼は幕末の風雲急を告げる時期、黒船襲来、安政大獄で日本中が揺れている中、国禁を犯して函館から脱国し、アメリカへ旅立ったのである。東京から(当時江戸)函館までの旅行記が残されている。彼の乗った船はまっすぐ無事に函館へ行ったのではなく、嵐をさけて逃げこんだ最初の港が興津港(別荘地のすぐ目の前の漁港、JR上総興津駅 歩3分)でここで座礁し、破船しかかったのである。この時、もし嵐の中で、転覆していたら今日の日本の教育の方向は大きく変っていたかもしれない。そう思うと人の運命の恐さを痛感する。そして嵐の弱まるのを待って磯伝いにすぐ隣の守谷海岸で風待ちをし、上陸して、近くの勝浦の町まで歩いて出かけていっている。この守谷海岸も勝浦市も私が別荘で過す間の行動範囲である。彼はこの函館旅行記の中で若いけれども国を思い次世代を思う赤心を披露している。この外房の美しい海岸線は、黒潮が沖を流れ、サンゴ礁が見られ、白砂青松で都心から僅か1時間半で行ける「別世界」となっている。勝浦の朝市は有名であるが、関東で最も早く黄色い菜の花が咲くところという外房では、露地栽培の色とりどりの花が真冬でも楽しめる。JR上総興津駅の駅前にロータリークラブの石碑「4つのテスト」が建てられている。興津港に「新島襄海難碑」を建てるのも、いまだかなわぬ私の夢である。

 このミレーニア別荘地を選んだのは新島襄海難のゆかりの地だったことが大きな要素なのである。

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南カリフォルニア大学にいる甥への便り

18年1月23日

○南カリフォルニア大学にいる甥への便り

 賀状先日受け取りました。インターネットの時代には、エアメールやテレックスの全盛期を過ぎことを、実感させられます。とに角おめでとうございます。焦らず、めげず、あきらめず頑張りましょう。

 年末に鹿児島市へ、暮から正月にかけて沖縄の那覇市へ行ってきました。勿論仕事がらみです。数年ぶりに市内をレンタカーで駆けまわり、その変貌ぶりに驚きました。どんどん発展しています。地方都市は回復が遅いと、福井、金沢、富山を見て、判断しておりましたが、南の2都市は際立って異なっています。また、東京との航空便数も羽田――那覇間は1日50便。羽田――小松間は1日10便。と大きな差がついています。アクセス数の違いは2都市間の交流の大差を示して余りあります。

 日本システムバンクは毎月福井市で定例取締役会を開催し、県外の滋賀県長浜市から2名、富山県永見市から1名、埼玉県さいたま市から1名、千葉県浦安市から1名、茨城県取手市から1名の役員を迎えております。福井県在住の役員は5名ですから11名中6名は県外の方々です。

 一昨日は中部、関西方面より、支店長を集めて、新商品の販売戦略会議を開きました。名古屋、京都、大阪、神戸から集まってきました。また、昨日は、当社ビル3階の会議室へ、地元政界、経済界の方々が集まり、町おこしの為の研究会(フェニックス研究会)を開催しました。約20名余りの方々が出席し、フェニックス都市、不死鳥の都市といわれる福井市の中心市街地活性化について熱い議論をたたかわせました。

 よその都市との交流を通じて、福井市が少しでもよい影響を受けられたらと考えて、諸々の手を打っているのです。

 ぜひ君もロスアンゼルスに在住して長い年月が経過しているのですから「カリフォルニア便り癸押廚鯏社のエコロパークニュース紙へ投稿して下さい。別便にて『夢への挑戦』という当社を紹介した小冊子をエアメールで送付します。1時間で読了できるように編集してもらいました。また読後感を聞かせて下さい。

 ではまた。ごきげんよろしく。         

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日本人の美意識について

平成18年1月19日
○日本人の美意識について

 西洋の美意識の特徴は、簡潔、剛直、繰り返し、シンメトリックであり、直線・垂直の多用である。それに対する日本独特の美意識は花鳥風月に表わされる繊細、複雑、左右非対称であり、円や曲線の多用である。

 日本料理とフランス料理、中華料理の器を比較してみるとその美が一目瞭然である。まず、日本料理の皿は、すべて色、型、素材等が一枚一枚異なっている。大きさ、重ね方法、材質と質感、季節によっての使い方などキメ細かな配慮が隅々にまで行き届いている。それに反して、西洋も、中華も、すべて同じ色、型、材質を使っている。殆んど無雑作に使われている。

 彼らの意見を聞いてみると、「料理は食べるものであって、器を鑑賞するものではない」という。「味、香、量、色などは重要であるが、器はそれとは全く違う」というのだ。私はそこに日本人の感性が宿っていると主張するのだが、半分も賛成してくれない。

 庭園の美もハッキリとしている。日本庭園は、枯山水にしても、回遊式築山庭園にしても、自然の里山や池を、人工的にルールに則って、再現しているものである。借景などのように自然との調和を尊重するのが特徴である。西洋はまわりを塀で囲み、左右対称のガチガチの庭が多い。

 新しいビルを建築する時に、この日本人の美意識を生かしたデザインを取り入れる方法を考えている。

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恩師よりの賀状

18年1月11日
○恩師よりの賀状

 国民学校に入り、小学校に名前が変り、卒業した時は、学校制度が大きく変った頃であった。小学校5年6年と2年間担任していただいた図画の柴田惣典先生が中学校の先生になるという。「お前らについていってやるのだ」とのこと。驚いたり、喜んだり。入学した中学校は長浜第一中学校即ち「一中」。校舎は前の長浜農学校の校舎を使用するとのことで、私達新入生は北校舎という、墓地の隣の飛地の校舎をあてがわれた。その後この校舎は、授産所として転用された。ところが戦後の平等主義の中で、一中、二中、三中、四中という名前は差別だという事になり、「一中」は「西中」に変った。また入学する予定の長浜高等学校は「長浜北高等学校」となった。

 中学の恩師は杉江仁先生、数学の担任で、私の一生を左右することになった恩師である。数学嫌いの私が、数学の授業中に、かくれて文学の文庫本を読んでいるのを見つかり、厳しく叱責された。「放課後職員室へ来い」とのこと。「さて退学なら大変だ」とおそるおそる行ってみると、「今日から数学の特訓をやるので、毎日残れ」とのこと。何名かの他のクラスの数学の得意な生徒の中に入って、数学嫌いの私が特別課外授業に参加した。「代数」という粗末な紙質の、部厚い教科書を1年をかけて教えていただくとのこと。いやいや始めた課外授業だったが、数学は結果がはっきり出る。正解は一つしかない。文学好きの私は、この数学の魅力にとりつかれていった。気がついたら学年で常に1位か、2位を競うまでに成績が上っていた。恩師というに誠にふさわしいが、もう十数年前に他界された。国語の中尾滋先生、体育の西川茂先生も卒業後もずっとご指導をいただいた大切な恩師である。

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東に伊吹、西に琵琶

18年1月10日 
○東に伊吹、西に琵琶

 私の故郷は滋賀県長浜市。近江の国、湖北地方といわれる小さな町である。豊臣秀吉が初めて城持大名になった地ということで有名で、「長浜」という名も彼の命名による。石田三成をはじめ、秀吉の臣下に長浜出身者が多い。十二台の豪華絢爛たる曳山屋台の上で奉納される子供歌舞伎は、長浜祭の圧巻であり、近隣の湖北三郡の町村をはじめ、遠く離れた地にいる縁者も集まってくる、賑やかな行事である。秀頼の誕生を祝った町民に対して、秀吉が下賜した砂金を元に、曳山を作ったのがこの祭りのスタートとのこと。今は曳山会館が完成し、その中でいつでも誰でも、すべての曳山をじっくり見学することができる。私の子供の頃は、毎年4台ずつの曳山しか出演せず、あとは山蔵といわれる曳山を収納する独特の、高く、細長い建物の前で、蔵の扉を開いて、見せるだけの状態であった。

 秀吉の出世城といわれる長浜城は、江戸時代に入り、完全に取り壊され、その殆んどが国宝彦根城の各城門や石垣に利用され、一部が長浜各地の寺などに保存されているのみで、城址は「豊公園」となり、石垣の一部が面影をとどめるだけであった。その後有志の方々の熱心な運動が効を奏し、市民の寄付と篤志家長谷氏をはじめとする方々の大口寄付により、長浜城が豊公園の中に復元された。近くには豊国神社もある。JR長浜駅前には秀吉に茶を献じた石田三成の故事「三ぷくの茶」を表わす銅像が立てられている。

 東に霊峰伊吹山を朝な夕なに拝し、西には母なる湖、琵琶湖にいだかれた交通の要衝の地である。中仙道と北国街道の起点に近く、近江商人の里としても有名で、今でも東京の日本橋や京都の室町には長浜出身者が多い。私の育った長浜八幡宮の境内に松尾芭蕉の立派な句碑が建っている。「をりをりに伊吹を見てや冬籠」長逗留の旅の気分がよく出ている名句である。

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スイスへの旅

12月9日
○スイスへの旅

 「夢のような」という表現がピッタリの街、それがスイスのルツェルンである。チューリッヒから車で約1時間たらず、ヨーロッパの王侯貴族が、幾世代に亘って、別荘地として訪れていた、小さな湖畔の町、ルツェルン。「木の橋」や「傷ついたライオン像」「ピラトス山」など話題にはことかかないが、日本を愛するピアニスト アシケナーゼの家が湖岸の斜面に建てられている。その庭には地下道を通っていく焼肉コーナーが作られていて、私の友人スピンドラー氏(元サッカー選手)が管理しているぜいたくな別荘である。そんな有名無名の世界中の富豪がヒッソリ別荘を建てている町である。

 元シーベルへグナーの日本法人のマネージャをしていたエルニ氏の紹介で、チバガイギのゼネラルマネージャを引退したストラウブ博士を社長に、スピンドラー氏を専務に、このルツェルンに本社を置いてミタニヨーロッパという現地法人を設立したのは1975年のことである。このルツェルンを拠点に、スピンドラー氏とエルニ氏と私と交互に全ヨーロッパ(自由圏)を歩いて、福井のメガネを売る仕事をはじめた。

 ヨーロッパはメガネの本場である。イギリスは古典的なメガネ、フランスはファッション、ドイツは堅牢なメガネ、イタリアはデザイナーブランド、それぞれ妍をきそっていた。フランスのシルモ展、ドイツのオプチカ展、イタリーのミラノ展と各地で毎年開かれる華やかな展覧会に出展を続けていた。日本からはHOYA社と私達だけの出展が多かった(時にニコンも)。ヨーロッパ各地の旅から帰る私を温かく迎えてくれるのは、ピラトス山であり、小さな湖岸のホテルであった。展示会で知りあったバイヤーやメーカー、そして小売チェーン店主らを尋ね歩く行商の旅である。そこですぐ気がついたのは、世界一のメガネ産地は、ドイツやフランスやイタリーではなく日本なのだ、福井なのだという事であった。勿論、台湾、韓国ではない。サバエ産地を世界に売り出す時期がきている。それは1975年のことであった。その頃から東京や福井で世界中のバイヤー(まだ日本人が中心)を相手とする日本眼鏡展が開かれるようになった。

 スイスは私の幼少の頃からのあこがれの国であった。永久平和を宣言し、それを世界が認めた唯一の国スイス。しかしそこは国民皆兵の国でもあった。各住居の地下室には核シェルターがあり、銃が置かれていた。自衛の国でもあった。

 ドイツ語圏、フランス語圏、イタリー語圏、古代ローマ語圏の4つの方言が日常使われている、不思議な国スイス。そしてそのすべてがスイスなまりの方言である。テレビのチャンネルをまわすと、このすべての言語のテレビ局を、スイスのどこからでも聞くことができる。その為スイス人は英語は勿論、ドイツ語、フランス語、イタリー語に堪能な人が多く、有能なビジネスマンとして全世界で活躍している。風景は正に絶景。一度訪れたら、私達日本人には忘れられない国となる。小さな国、小さな町スイスのルツェルン。

 私は妻にゆっくりとこのルツェルンで1ヶ月くらいを共に過すことを約束した。この約束を果せるのはいつの日だろうか。

 「約束は必ず実行する」。これが私の「有言実行」をモットーとする信念である。しかし、今しばらくの時が必要のようである。

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ものはとりよう、考えようで、どうにでもとれる

12月7日
○『ものはとりよう、考えようで、どうにでもとれる』

 「吉凶は、あざなえる縄の如し」ということわざ諺がある。吉と凶が次々とその姿を現わすということである。「吉と凶」を「黒と白」に置きかえてみるとよくわかる。黒のわらの束を左手に持ち、白いわらの束を右手に持って縄を作っていくと、出来上った縄は黒と白のまだら紋様になる。黒の次は白、その次は黒と、黒と白が交互に出てくる。「地獄と極楽」に置きかえてもよい。目の前におきている現象を見て「これは地獄だ」と思えば地獄、「いやこれは極楽なのだ」と思えば極楽。すべての物事は自分の見方、自分の考え方で、どうにでもとれる。吉事に浮かれず、凶事にひるまず、常に前向きに動けば、恐れるものは何もない。

 マッカッサーはかつて日本軍に攻撃され一時退く時に「アイシャルリターン」と言った。「転進」という言葉もある。決して敗退とか退去とはいわない。敗けいくさのしんがり軍は、殆んど全滅するといわれている。ところが、関ケ原で西軍であった島津軍は、敗色濃い中を「敵中突破」という強烈な作戦をとり、全員が一丸となって敵の中へ入り、まっすぐ突き進んで、そのまま全員が九州へ帰ったという。前へ出る勢いは強く、後へさがる時の勢いは、極端に弱くなる。

 積極的に前に出る時の私の心は、夏の炎暑のように熱く燃え上り、秋の青空のように澄んだ判断を下すことが出来る。ところがそれに反して、私がまよったり、弱気になって、退去しようとする時には、私の気持ちは萎え、不自然にも恐怖すら覚えて、判断力も鈍ってしまう。

 世の中ではいろんな事がおきる。予想できない事象が、不幸が、ある日突然、何の前ぶれもなく襲ってくることがある。その時が大事である。これを「さあ大変」と慌てふためいてはならない。「さあ待っていたぞ」と覚悟を決めて、この状況をブレークスルーする道、閉塞状態を敵中突破する方法を考えることだ。その時3つの方策を常に私は用意する。第1の策がうまくいかない時の為に、第2、第3の案を事前に用意しておく。この用意周到さが、私の心に安定感を与え、第1の策を自信を持って実行する事に、何のためらいもなく、全力投球することが出来る。

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「思い出の分譲マンション事業」について

11月30日
○「思い出の分譲マンション事業」について

 第一次オイルショックは1973年10月に突然発生した。原油の価格がアレヨアレヨという間にはね上り、物価は狂乱物価といわれ、インフレの急激な波が世界をおおった。オペックは生産調整を行い、原油は4倍に暴騰した。サラリーマンの給与は年2回も3回も大幅上昇し、それでも苦しい生活が続いた。
その頃、岐阜に住んでいた私は、名古屋の熱田神宮のすぐ近くで分譲マンションを建設中であった。当時分譲マンションはまだ誕生したばかりで、「大京観光」という小さな会社が分譲マンション事業に乗り出していた。現在の大京である。この事業の将来性を信じ、全くの新規事業に私の会社も、私を信じて、乗り出してくれた。

 しかし着工時から不幸が襲った。建設に着手し、旧建物を解体して更地にし、地鎮祭を行ったのが前年の新盆前、現場に重桟を入れて穴を掘り出した所、8月15日に建築基準法が改正になった。事前に入念に施工業者と打合せを行い、8月15日迄の着工という事を確約していたにもかかわらず、愛知県はこれを着工と認めなかった。施工業者はK建設の名古屋支店であった。愛知県は工事中止命令を出し、地元との調整を要求。それから苦難の日々が始まった。

 「夜うち朝がけ」という言葉の、本当の意味を知って使ったのは、この時からである。早朝に名鉄の特急で岐阜駅を出て、熱田神宮駅へ着き、その足で反対者の家々をまわった。相手はまだ眠っている。それを一戸一戸起こして説得を続けた。また朝7時半の特急で岐阜に帰り、朝礼をして、仕事を通常通りにこなして、夕方、終業と同時に、もう一度熱田にとって返す。この毎日の私の姿を見ていた社員が、全員協力を申し出てくれた。それから毎朝、毎晩約半年近くグループ分けをして、2名1チーム、全4チームが、マンションの着工地の周辺の家々30軒程度を説得して歩いた。正にお互いに眠ることの出来ないツバゼリアイであった。この事で地元の要求をのみ、階高を下げ、地下階をなくし、前面、後面を斜線で削られたマンションになってしまった。約30%のカットである。地元の各家々と町内会と合意に達したのは年の瀬せまる師走に入らんとする頃であった。寝静まった家々の間を通り、熱田神宮の暗く深い闇の中で、何度涙をのんだ事か。

 いよいよ30%を削られたマンションを再度建て出した所へ、今度はオイルショックが襲ってきた。建設資材の暴騰である。通常請負契約は「いかなる事が起きようとも、その契約を遂行し、完成させる」という契約であるが、あまりに大きい資材の値上りに、建設省も特令を出し、資材の値上り分を施主に分担せよとの事態に至った。正に泣きっ面に蜂の例えの通りとなった。あれ程綿密に計画を立て、実行に移した分譲マンション事業計画書は、根底から崩れさった。そしてオイルショック後の不況が更に行手を阻んで待っていた。完成までに売り切るはずのマンションが売れないこととなった。

 「もはや万事休すか」と思われたその時、救いの手がさしのべられてきた。社員であったり、親戚であったり、取引先であったり、殆んどが身近の人達であった。私は「尊縁」という事をいつも言っているが、この時ほどこの言葉を身にしみて思ったことはない。まさに縁につながる人々からの温かい救いの手であった。大京観光も苦戦しており、お互いに1室ずつ紹介しあって助け合う一幕もあった。
この大失敗にこりる私ではなかった。名鉄岐阜駅前、名古屋地下鉄ターミナル駅周辺で第2、第3の計画を練っていたが、会社はそれを許さず、本社への転勤命令が来た。オイルショックでまだ世界が揺れている1974年の春、反対しつづけた地元民を交えた竣工式の祝賀パーテイの中での発表であった。反対側のリーダーであった熱田神宮写場主(プロカメラマン)の一言は、その後の私の人生の支えになった。「なぜあんなに強硬に反対したのかわからない。最初のプラン通り賛成していたら、私達の町はもっと発展していただろう。」

 私は青春時代の思い出に1室をローンで買った。もうそろそろ払い終わろうとしている。織田信長が涌狭間へ出陣をする折に、戦勝祈願したあの熱田神宮である。私も信長の決死の覚悟を身近に感じて、熱田神宮の社前にぬかづき必勝を期して、任地へ向った。満38歳になろうとしていた。あれから30年、今また新しい分譲マンションの計画を練っている。スモールコンパクトシティ実現のために。


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鎌倉ハイキング倶楽部

11月29日
○鎌倉ハイキング倶楽部

 先日、高等学校の同窓会があり、旧友が集まった。場所は東に伊吹山、西に琵琶湖と謳われた琵琶湖岸、湖北町の尾上にある尾上温泉。学生時代の思い出は尽きないが、長浜北高等学校を卒業して親しかった友人と、東京組と京都組に分かれて昭和30年春にそれぞれの希望の大学へ入学した。最初の夏休みに、東京組を京都へ招いて賀茂川の川床で歓待した。その後、京都組は東京へ招待されて、東京見物で数日過した。その時宿泊させていただいたのが、北鎌倉(友人は「キタカマ」とこの駅やこの地を呼んだのがカッコよく、印象に残った。)駅近くの友人の叔母の家である。その前の家が私の好きな詩人、高見順の家であった。そこに滞在した数日間、私は高見順の姿を近々と、親しく見ることが出来た。整った顔立の長髪、長身の姿が、夏の強い陽射しの中にスラリと立っていた。高見順は福井県三国港の生まれである。縁あって福井に住んで早や半世紀近くとなるが、彼の詩を刻んだ文学碑が東尋坊にほど近い巌頭に立っている。私の散歩コースの一つである。この僅か数日の北鎌倉滞在が、私に「鎌倉」という土地を強く印象づけた。それから約10年、私は鎌倉の家へ年賀状を送りつづけた。
北鎌倉女学院の裏山に、自分の別荘を持てたのは、それから30年を経た昭和60年のことである。もう高見順逝去後20年がたっていた。鎌倉は緑が豊富で、北鎌倉駅から私の家までは、急な坂道を上っていくが、見渡す限りまわりは山々である。天気のよい日には、富士山が大きく目の前に浮び、絶景である。その後ディズニーランドのある浦安市に寓居を構えたが、鎌倉と比較すべくもない緑の少ない町である。そこで浦安市に居住した3年間、中高年の愛好家を引きつれて毎月一度、鎌倉を訪れるハイキング倶楽部を結成した。大好きな鎌倉をトコトン味わう為の鎌倉ハイキング倶楽部である。谷戸を探り、おいしい料理店を毎月楽しむのに大いに役立った。目を閉じると今でも鎌倉のハイキングの道々、寺々そして山々の姿がハッキリと浮んでくる。青春時代から続く、鎌倉への熱い思いがそうさせるのか。

 鎌倉近代文学館も私の好きなスポットである。旧前田侯爵邸であったが、高見順をはじめ数多くの文人達の息吹を感じられる数少ない場所である。福井にはこのような福井近代文学館がないのは誠に寂しい限りである。福井の芥川賞、直木賞作家は人口割にすると日本一だそうである。文学のふるさと福井県を今後共続けていくには、若い人達を啓蒙する為、そして福井県をアピールする為の文学館を福井の中心部に作りたいものである。緑の濃さでも、福井は鎌倉以上に自然に恵まれているが、文学の歴史でも源氏物語の紫式部以来数々の作家を生んできた。すばらしい作品の数々とその生前の姿を青少年や観光客に見せる為の近い代文学館の出現を期待している。


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倉敷の町作りに一生涯をかけた大原孫三郎

11月25日
◎倉敷の町作りに一生涯をかけた大原孫三郎

 NHKのテレビで、大原美術館を人生最大の危機の時に開設した、大原孫三郎の生涯をふり返るドラマがあった。大原孫三郎は昭和18年、62歳で世を去ったが、その間に家業の倉敷紡績をはじめ、数多くの事業に従事した。孤児院(最高1500人収容)や、病院、銀行、労働問題研究所、美術館などであるが、どれ1つとっても、全くユニークな発想による「創業」である。しかもその殆んどが、今なお何らかの形で、受け継がれている事に、私は不思議な感動を覚える。意義のある社会貢献は、いかなる時代をも乗り超えて存続するのである。特に日本の奇跡といわれる大原美術館の大原コレクションは、こんな名画がなぜここにあるのかと思わせる、まさに奇跡としかいいようがない。その事業の底にあるのは、倉敷を愛する一事業家の強く堅い信念に基づいた郷土愛と、事業を共に興した相手への揺らぐ事のない信頼である。そして「私には十年先が見える」という時代の流れを見通す、確かな先見性を学びたいものである。「世の為、人の為に、自分の全財産を使い切る」とまでいわしめた彼の使命感が、何度私を倉敷の地へ呼び戻したことか。私は過去何度も、つらい時、苦しい時、くじけそうな時、倉敷を訪れ、景観地区を歩いたり、アイビースクエアの葛に見とれ、大原コレクションの名画を鑑賞してきた。一人の偉人の姿を偲び、自分を励ます、自分捜しの旅だったような気がしている。彼が死の直前に揮毫した絶筆「生涯一片青山」は、私のモットーである「生涯現役」と完全に一致する。倉敷市の中央の小高い山の上に眠る、大原孫三郎の最後の言葉にふさわしい。

日本版ノーベル賞の創設について

11月22日
◎日本版ノーベル賞の創設について

 私はボランティア団体のロータリークラブに入会し、活動をはじめてから早や22年余りが経過した。日本のロータリークラブ活動の功労者は米山梅吉氏である。彼は一生をボランティア活動に捧げ、死後彼の功績を讃えて米山奨学基金が日本で創設され、東南アジアからの留学生を支援する日本最大の奨学金制度となった。この恩恵を受けた留学生は累計12,863名となり、毎年800名ずつ増加中である。京セラの稲盛和夫氏が私財を投じて創設した京都賞は、日本のノーベル賞ともいえるもので、外国人の研究者を対象としている。このような先輩の崇高な行為に対して、心から賛辞を送りたい。

 ノーベル賞は戦後初めて湯川秀樹博士が受賞され、暗い世相の中で、私達に希望と勇気を与えてくれた出来事であった。すべての日本人がわが事のように喜び、心から祝福したのを忘れることは出来ない。その後彼の兄、貝塚博士も候補にのぼったが、私はその頃に、娘さんの貝塚淳子嬢と同じゼミに所属していたのは、奇縁であった。

 今や日本は、世界有数の経済大国となり、世界がグローバル化する中で、米山氏や稲盛氏のように、他国の人々に対して、その努力を顕彰する基金を創設するくらいの度量を持った偉人のあらわれることを待望している。国連は、ロータリークラブの先人達の陰に陽にの支援で誕生した。常任理事国入りに夢中になるのもよいが、まだまだやるべき事が多い。学校を建てる支援活動、飲料水の為のポンプを設置する運動、植樹の為の運動、災害支援など貴い支援活動を行っている人々がいる事を忘れてはならない。

 日本版ノーベル賞の創設を、日本の21世紀の課題にしたらどうかと思う今日この頃である。

21世紀はセキュリティー時代です。

17年11月7日
 警察白書によれば、窃盗犯は侵入後、20分以内で犯行を終えてしまいます。
 結果としてですが、従来の警備会社による対応では、警察への報告のためにセキュリティシステムを構築することになります。

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 私のセキュリティの考え方は大きく分けて、「予防」・「警告」・「監視」の3つの要素から成り立ちます。<

 【予防】 ★予防効果を最大限に引き出す。



・防犯で、最も重要なポイントは、まず防犯対象にならない環境作りをすることです。

・狙われる場所にはそれなりの理由があります。

・侵入者にとってみても進入しにくい場所を選ぶことはありません。



 【警告】 ★未然に犯罪を防ぐシステム。



・万が一狙われた場合は、音と光による威嚇と撃退で犯罪を未然に防ぎ、被害を最小限に抑えます。

・センサーによる早期発見、早期対策が被害を最小限に食い止めます。

・犯人の心理を捉えたシステムとなっています。



 【監視】 ★用途に併せたカメラシステム。



・夜間、犯人に狙われた場合でも監視システムがあなたの目となり、映像を記憶します。

・いつでも状況が確認できます。

・犯罪者を捕獲し、犯罪のリピートを防ぐツールとしても役立ちます。


 セキュリティは自分自身が行動をおこして、自衛することが大切です。何より大事な財産や生命を守る為に、みんなが知恵を出し、行動をおこしましょう。

ランドオーナー様への提言 その3

17年11月6日
ランドオーナー様への提言 その3
投資効率をお考え下さい

◎アパートを建てるケースでは、銀行借入にて全額まかなうとしますと、その投資効率は
★コスト
   借入金 金利  3300万×3%=99万 
   税金 及 修理費 ・・・・・・ 100万
   減価償却費 (30年とすると) 110万     計309万/年

   (収入)489万 −(コスト)309万 = 180万 ・・・ 利益

  180÷3300=5.4% ・・・ 金利上昇をカバーするギリギリの線

◎コインパーキングのケースでは、必要資金はリースなので必要ないが、リースでなく借入でまかなうとすると600万の投資となる。

   (収入)594万−(支出)金利他(18+50+40)108万 = 486万 ・・・ 利益

486÷600=81% ・・・ これ以上の投資効率を他で求めるのは困難

ランドオーナー様への提言 その2

17年11月5日
ランドオーナー様への提言 その2
キャッシュフロー経営に帰れ

キャッシュフロー経営が注目されてきましたが、私は創業以来常にキャッシュフローを最重要視した事業を行っております。今ディズニーランドやディズニーシー、イクスピアリ等で世界の注目を集め地価も東京都中心部と同様に反転したといわれている浦安市(新浦安駅周辺)の事例を研究してみましょう。この地区は東京湾の埋立地ですから基礎工事に莫大なコストがかかるので高い建物か木造アパートかのいずれかしか採算にあいません。

◎木造2階建アパートのケースを検証してみましょう。

間口10m、奥行28mの土地に8.5万/月の家賃のアパートを建てるとしますと、 新婚向2DK×6戸  建設費3300万  支払利息 年3%  20年返済。 キャッシュフローを概算で出しますと以下の通りです。

  キャッシュ支 出  借入金返済元利均等払 年間 ・・・ 225万
              税金 及 修繕費     年間 ・・・・100万    
              =計325万/年
  キャッシュ収 入  8.5万×6戸×12ヶ月=612万 80%稼働   
              =計489万/年

(収入)489万 −(コスト)325万 = 164万/年

◎この土地をコインパーキングで運用する場合(運用台数を11台と仮定)

  キャッシュ支 出  リース料10万×12ヶ月 ・・・・ 120万
              税金 及 修繕費 年間 ・・・・・  50万
              メンテナンス料0.3万×11台×12ヶ月≒40万  
              =計210万/年
  キャッシュ収 入  4.5万×11台×12ヶ月=594万          
              =計594万/年

(収入)594万 −(コスト)210万 = 384万/年

 アパートを建てるかコインパーキングにするか、そのキャッシュフローの差は384−164=220万/年で、コインパーキングが圧倒的に有利です。

ランドオーナー様への提言 その1

17年11月4日
ランドオーナー様への提言 その1
土地を死なすことなかれ

地価が年々下落し、先祖伝来の土地をお持ちの方々、バブル時代前後に投資をした方々、これから投資しようとする方々に是非聞いていただきたいことがあります。ご承知の通り、土地は上物を建てることにより収益が生まれます。更地では高い固定資産税をとられるだけです。月極駐車場では固定資産税を払うのが精一杯ですね。そこで私はコインパーキングを導入し、月極駐車場を月貸しから、日貸し、時間貸しの無人駐車場に置きかえる「駐車場革命」を全国に亘って行っております。ビルやマンションを建てることも悪くはありません。しかしビルやマンションを建てたら最後、もう取り返しはききません。あなたの一生涯、いや場合によってはあなたの子孫にまで、そのツケがまわります。十分慎重に投資するかどうかの判断を行ってください。その点

コインパーキングは情勢の変化に応じて、いつでも最適の用途変更が可能です。今は激動の変化の時代です。もう少し慎重に需要の動向を見極めるまでコインパーキングをご利用になるのがベストの判断といえそうです。

福井の女性は世界一。働く女性は美しい。

福井の女性は世界一。働く女性は美しい。

――――福井県は世界一すばらしいところ

 福井の女性は目鼻立ちがハッキリし、色白で、肌の美しい女性が多く、遠方から来るお客様がいつも「美人が多いね」と驚かれます。着飾った女性は勿論美しいけれど、働いている女性の姿は魅力的です。活き活きと元気に働いている女性の姿ほど美しいものはありません。福井は女性の就労率が日本一高いのです。福井の女性はみんな働き者です。その為家庭サービス型産業が育っています。
「嫁をもらうなら福井の女性を」とは名古屋、岐阜や京阪神の方々がよく云っています。「定年になったら、住み易い福井へ行きたい」という方々も多くなってきています。福井の女性を連れて行くか、福井へ来て福井の女性に介護してもらうか、人生いろいろです。住み易さも実感できます。粗暴犯の発生は日本一少なく、火災も少なく、住宅も広いのが特徴です。重厚な美男子も勿論多いですよ。高見順、水上勉、宇野重吉、数え上げたらキリのないほどです。

 縄文、弥生、古墳時代から越の国も若狭の国も文化や産業の発達した先進の歴史を持っています。「働くことの尊さ」を先人からずっと受け継いできたDNAを持っているのです。

大金持ちの世界一は福井県民です。

大金持ちの世界一は福井県民です。

 ―――福井県世界一すばらしいところ

 「黄金の国ジパング」は13世紀から16世紀にかけて日本が世界一の黄金の産出国だった頃、ヨーロッパの宣教師達が日本を訪れたり、東南アジア諸国の風聞を集めて日本の繁栄を伝えたものです。日本は歴史上ずっと貧富の差が少ない平等社会であり、人口も常に右肩上がりで増加し、中国や欧州のように人口激減の経験がなく、安定した平和で豊かな社会であります。
 日本の国民1人当りのGDPは、ヨーロッパの一、二の小国の例外を除くと世界一です。また国民1人当りの貯蓄残高でも世界一です。その1人当りの貯蓄残高の日本一は福井県です。ということは福井県民は世界一の大金持ちなのです。
 「アリ」と「キリギリス」の話ではありませんが、福井の男性も女性も勤勉です。努力家です。いつもは質素な生活をしていますが、冠婚葬祭や建前(新築普請)など、ここぞという時には思い切って散財します。それが出来る底力を持っているのが福井の人達です。
 大金持ちですが、人情味豊かな福井県民の中で、ゆったりとあなたの人生を送ってみませんか。

母の和裁塾から学んだこと

幼少の頃から、わが家は日曜日以外、毎日たくさんの女性達であふれかえっていました。母が和裁塾を自宅で開いていたのです。母屋の6間は殆んど満室で、塾生の少ない時だけ奥の間が私達の居場所となるだけで、通常は隠居という離れの2間で生活しておりました。祖父母は死ぬまで農業を営み、父は若い時は銀行員、戦争が激しくなって軍需工場に転職し、私と妹と弟は家事の手伝い以外は祖父母の農業の手伝いに追われていたものです。でも、戸外での遊びが、近所の子供達との遊びが、生活の中心だったかもしれません。
 年と共に、毎日通ってくる塾生達を、少しずつ意識するようになり、母の天職としての和裁に目がいくようになりました。当時は嫁入り修業として和裁を身につける人が多く、お見合いも私の家でよく行われておりました。朝は一人一人正座して母に向って「先生おはようございます。」と丁寧に挨拶をし、夕方帰る時にも同様に「ありがとうございました。帰らせていただきます。」と全員が挨拶をされていました。行儀作法も裁縫の道と母の考えだったように思います。死の直前まで和裁塾を閉じることに同意せず、私達子供3人も母の説得が出来ず、思い通りの生涯現役をつらぬきました。和服への思いは強く、私の妻にも「着物をきなはれ」と言い続けておりました。呉服業界の低迷を思う時、母の和裁塾から学んだ事のあまりの多さに気付くと同時に、世界に誇れる民族衣装を、何とか昔日の光りと輝きを取り戻す為にも、何かを為すべきではないかを考える毎日です。京都市では、着物を着て買物をすると割引があるとか、長浜市では「着物デー」に全国から若い女性が着物を着て集まるとか、工夫をされているようです。私はいつの日か、和裁博物館を作り、思い出の作品を集めて展示し、広く沢山の方々に和服に対する興味を持っていただくと同時に、自分達のルーツである和服をもう一度見直すキッカケにしてほしいと、夢を夢見ております。