2008年11月のアーカイブ

日本三山の内・白山

平成20年11月25日
日本三山の内・白山

 越中の立山、加賀の白山、駿河の富士を日本三霊山と称するが、白山は、越前で生まれ、越前で修行した泰澄が開山した。泰澄は麻生津で生まれ、14歳の折十一面観音を夢見て越知山の岩屋に篭り独力で修行、21歳の頃には「越の大徳」と呼ばれたとのことである。36歳の春に「天衣珱珞で身を飾った貴女のお告げ」を受けて、九頭竜川を渡り、平泉寺から白山へ登り、頂上(翠ヶ池ともいう)で千日の間山篭り修行の後、十一面観音を感得されたという。養老元年36歳の時の開山である。白山神は初め、美しい女神像(妙理大菩薩)として立たれ、次に九頭竜の形で現れ、十一面観音の玉体を示した。泰澄は臥、浄定の両行者と共に、養老元年から3年まで1千日の練行を修め、帰路その貴女の姿を木像に刻み、小原峠の北東、川上という地に堂宇を建て「川上御前」として安置。現在は平泉寺に鎮座し「川上御前」としてまつられている。

 継体天皇ゆかりの紙の里今立の岡太・大瀧神社の里宮へ迎えたといわれるのも「川上御前」である。古より川上すなわち深山に神が棲むと考えられ、その神から神の技を教えられて、人々が暮していたということであろうか。

 とにかく白山への登山道の本道といわれる越前禅定道の起点は平泉寺である。明治の初めまで白山を管理していた平泉寺は、多くの登山を目指す人々で賑わい、越前禅定道の沿道は白山信仰の人々を迎える宿が点在していた。今でも平泉寺には白山本道登拝口があり三之宮から上りはじめる。「是より白山道14里28丁」と白山全上記に記されている。約20分で金剣宮につく。金剣の峰を第一の宿とし、釈迦の原、法音、祓川、温川、伏拝、河上、秘密谷、一之瀬、桧之宿、尾平、弥陀之原と十二宿が続く。一之瀬から先のルートは現在の白山登山で最もポピュラーな登山道である。

 これ等のルートは荒廃しているが、泰澄大師ゆかりの地として幾多の伝説がある。越前でこれ程の先人がいたのである。「泰澄大師」顕彰のための努力をもっとする必要がある。泰澄さんにあえる旅を今少し追及していきたいと思う。
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賞味期限

平成20年11月21日
賞味期限

 20世紀は資源や素材、食料や原材料の価格が安かった。そしてハイテク製品や加工品の価格が高かった。日本は工業国として第2次産業に注力し、敗戦後60年にして世界トップクラスの外貨準備高や財産を持つ国になった。しかし今パラダイムシフトが起きている。根本的な仕組みが変っているのだ。

 21世紀は加工品やハイテク製品の価格はどんどん下がり、食料や原材料の価格は上がりつつある。世界的な資源や食料の獲得競争が始まっている。トウモロコシが上り、小麦が上り、原油が上り、鉄鉱石が上っている。特に食料と水不足は、21世紀を通して発展途上国だけでなく、輸入大国日本にとっても大きなテーマとなろう。

 日本ほど食べものを余らせている国はいない。食べられるのに捨てている家庭の食品は約4割という。食料を輸入していながら、それをすべて食べるのでなくその4割を廃棄しているという。世界中の批判の目が日本へ向けられつつあるのを感じるのは私だけであろうか。

 「食品をムダにするな」というべきところを「賞味期限切れ」を問題にしている社会の風潮はおかしいのではないのか。「○年○月○日という賞味期限」は一体誰がどのような根拠で決めたのであろうか。誠に非科学的でアイマイな規準である。私はこの賞味期限は無益というより有害だと思う。ある業界の自主規制によると、3分の2のルールを決めた廃棄システムを作っている。例えば1年間の賞味期限のものは8ヶ月たったら返品とする。4ヶ月過ぎたものは出荷しない」というのである。

 スーパーへ行くと殆どのお客が賞味期限をチェックして、少しでも長いものを選んで買っていく。「○年○月○日」という日付があたかも天が決めたかのように一人歩きし、日本を、世界を苦しめている。

 スーパーへ妻と買物にいくと、私は逆に意識して日付の古い、賞味期限切れに近いものを買う。味も品質も変わらない。価格は安い。夜遅くスーパーへ行くと生鮮食料品やお惣菜は2割引、3割引になっている。夜8時をすぎると殆ど半額になる。エンゲル係数は8時以降は半分に下るのである。給料が半減してもやっていける可能性がある。

 この日本の異常さは何であろうか。過度の潔癖症であろうか。全く困ったことである。規制が逆になり、食べ残しをしない。食料を大切にする方向へ誘導しなければならない。21世紀は食べものが地球全体で不足する。これは間違いない事実である。この大問題をしっかり見据えて、今から対処していくことが大切である。農林水産業への企業の進出と、諸規制の撤廃、そして新たなルールづくりが必要となってきた。ここにも新しいビジネスチャンスがある。
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まちと文化

平成20年11月20日
まちと文化

 「文化」とは学問・芸術などが進歩して、文明の時を迎えることをいう。人智が発達し、生活が便利になることをさす言葉である。一般的には運動部に対する文化部のように、身体の活動よりも精神の活動を主とすることが多い。

 最近では「まち」の魅力を「文化」に求める動きが、活発になってきている。その場合の「文化」はどちらかというと「芸術」に近い使われ方をしているようだ。まちを魅力的にする為に、地方の都市にも音楽ホールや美術館、博物館、図書館等が次々と作られる時代になってきた。しかしその内容が全国的に大差がないのは問題である。地方によって、まちによって、それぞれ個性のあるユニークな文化があるはずで
ある。それが素直に表に出てくるのが本当の文化である。

 例えば音楽祭をやっている都市は福井県下では越前市がある。すでに18回となり完全に定着している。仙台市のフェスティバルは3分の1自治体の助成で開かれているが、入場料1,000円と安いので人気がある。

 信州の夏のライブも有名だ。富山県の利賀村の演劇祭もユニークだ。福井には音楽ホール(大・小)があり、えきまえには響のホールがある。アオッサの1Fでもライブが行われている。音楽でえきまえを盛り上げることにより「文化の香り」豊かなまちづくりが出来そうである。
日本の古典音楽は世界でも独自の発達を遂げた。能や声明など福井ならではの貴重な宝がある。琴と尺八、三味線の合奏などは定期的に毎年、毎月行われるとまちおこしに直ちにつながるのではなかろうか。

 私達のベーカリープラザで毎週1回ランチタイムミュージックを昼休みの昼食時に開いている。そして土曜日の午後2時から飛入り大歓迎のライブを行っている。少しずつ知名度が上り、来場者が増えているが、参加者も演奏者も無料である。みんなで楽しむのがライブである。プロもアマも自由参加し大いに土曜の午後を楽しんでいる。 

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宇野重吉演劇祭

平成20年11月19日
宇野重吉演劇祭

 宇野重吉本人と初めて出会ったのは、私が同志社大学の学生の時である。今から50年前。場所は同志社栄光館。彼の訥訥と話すその語り口、そして人柄を示すその表情、その講演の内容よりも私は彼の風貌とその表情に強くひかれていた。当時の私はクラマ画会に所属し、人物画に熱中していたからだ。しかし残念乍ら宇野重吉氏を描いた私の油絵はない。描けなかったからだ。

 その後宇野重吉氏は演劇、映画等で一世を風靡した大活躍をされた。福井出身の彼は福井を大切にされ、福井を再々訪れていたという。長男の寺尾聡氏の話では「家庭はいつも『福井』がいっぱいであった。福井の上庄いも、越前そば、越前カニなどみんなで食べていた。福井への思い入れは人一倍強かったと思う」

 20年前の最後の公演の時には歩けないので座ったまま演技され、その言葉は死を迎える人とはとても思えない程鋭かったという。残念乍ら私はその舞台を見ていないが、ビデオに残されている。見ていると演劇に生涯をかけた気迫が胸に迫ってくる。鬼気迫る迫真の演技である。

 重吉氏は映画出演で稼いだ資金を、演劇活動につぎこんだとのことで、数多くの後進を育てている。今日の「劇団民藝」の生みの親、育ての親ともいえる存在である。臨終の病床に福井県から「名誉県民」の第1号が贈られた。日本の演劇界の巨星「宇野重吉」のその後の顕彰は決して十分とはいえない。没後20年にしてはじめて福井で「宇野重吉」の名を冠した演劇祭が開かれた。若い人達が演劇に目覚め、第二、第三の宇野重吉を目指して努力するキッカケになることを期待している。「宇野重吉演劇賞」の授与が毎年行われ、その対象が全国に世界に広がっていくことを願っている。
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吉田茂と麻生太郎

平成20年11月18日
吉田茂と麻生太郎

 日本の総理大臣の任期は世界一短い。目まぐるしく変るので日本という国を世界一分かりにくくしている。世界は日本を頼りにしている。信頼している。裏切らない国として、武力を放棄した国として信頼しているのである。しかし国の代表である総理大臣がしばしば変るのは理解できないようである。私達にとっても好ましいことではない。

 敗戦後、日本を背負って立たされた男が吉田茂である。鳩山一郎の突然のパージによって吉田茂が総理に就任。その後GHQのマッカーサー元帥との熾烈な駆け引きを白洲次郎と共に実行。日本の戦後体制を立て直していった。吉田茂を吉田茂たらしめたのは、養父吉田健三(福井出身の豪商)の富とそのイギリスとの商縁であった。外務省へ入った吉田茂は、戦前は中国で過している。主流派が欧米大使館勤務が多い中で、彼だけが外されている。妻の父牧野伸顕を通して最初で最後という猟官運動が功を奏し駐英大使となり、太平洋戦争回避の必死の努力を、娘の友人の夫白洲次郎としている。吉田茂を流れる思想、そしてその実行力は、中国での多年に亘る外交官生活とケンブリッジ大学に長く留学した白洲の知識と人脈が影響しているように思う。吉田茂総理の通算任期は最長ではないが、歴代中、困難な時代を日本国と共に生き、大きな成果を残したことは疑うべくもない。

 麻生太郎はその孫として生まれたが、母は吉田茂の娘であり、吉田茂の随身として公式の場に常に出ていた。父方も炭鉱主として有名である。安倍総理、福田総理と二代目、三代目の政治家が短命内閣で終ったのは、誠に残念である。麻生総理は前者の轍を踏まず、日本を、世界を金融恐慌から救う救
世主となってもらいたい。

 吉田茂も麻生太郎も、福井出身の豪商吉田健三の縁につながる福井ゆかりの人脈である。この困難な時にこそ、些細な雑音に煩わされず、福井人の中に脈々と流れる粘り強さ、不撓不屈の精神を発揮して、麻生太郎総理が正々堂々と信念を貫いていかれることを願っている。

 風雲急を告げる中、「まず実行」の旗印を掲げて、救国の業を吉田茂の遺影を胸に敢然と進まれることを祈りたい。
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日の丸エネルギー

平成20年11月17日
日の丸エネルギー

 2050年マイナス80のプロジェクト推進のために、私達はエコライフプラザ実行委員会を作り、4年前から地球を守る運動を続けている。そして研究の結果たどりついた。究極のエネルギーは、日本の国旗「日の丸」に示されている通り「太陽」である。私達は太古の昔より太陽の恵みによって生かされてきた。ところが産業革命の頃から、人間の増上慢が始まり、地球は危機的な状況に入りつつある。このあたりで原点に帰り、「太陽の恵みと共に生きる」ことを心がけていかなければならない。

 これからの世界のエネルギー需要はピークで年間130億kℓ(石油換算)になるといわれている。そして太陽エネルギーは年間130兆kℓ(石油換算)とのことである。太陽エネルギーの1万分の1が利用できれば化石燃料は不要である。

 太陽エネルギーは、太陽光、太陽熱、海流、風、水力など自然界で起きているものすべての根源である。ソーラーを含めた自然エネルギーが、これからのエネルギーの本道になる。太陽を除いたエネルギーは絶対に考えられない。太陽光エネルギーの利用は21世紀には格段の飛躍を遂げる。

 私達はコインパーキングの電子機器の製販管理を行っているが、早くからエコロパークという名で、太陽光と風力とを同時に利用するハイブリッド発電機を設置した駐車場を全国に作ってきた。これからは更にこのシステムを磨き上げより高効率の発電システムを作り上げていきたい。

 日の丸は日本の国旗である。太陽と共にあるのが日本である。世界に先駆けてやらなければならないのが太陽エネルギー活用である。今やアメリカやドイツだけでなく、中国も投資を始めたというニュースも入ってきている。世界中の人々に、分け隔てなく与えられている太陽エネルギーを子孫のために活用しようではないか。その最先端にいるのが日本である。
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耐震セミナー

平成20年11月14日
耐震セミナー

 今年は福井地震60年が経過する年にあたる。あの時、日本中から、世界中から救援の手がさしのべられた。63年前の焼夷弾による大空襲、60年前の大地震による大火、その後の九頭竜川の堤防決壊による大洪水と、福井を襲った大災害により福井のまちは完全に廃墟と化した。その時みんなにいわれたこと、みんなが思ったことは、これからは「地震に強い」「火災に強い」「水害に強い」防災のまちを作らなければならないということであった。

 果して現在の福井のまちはそうなっているのであろうか。原子力発電所は理想的な免震構造である。官公庁の建物も次々と耐震免震で建てられてきた。小中学校の校舎も耐震工事が進んでいる。しかし一番数が多い民間建築、特に住宅は殆ど進んでいない。

 神戸の地震でも、福井地震と同じように各地に火災が発生し被害を大きくした。福井も焼死、圧死で数多くの人々が犠牲となっている。地震に強い「防災都市」を作らねばならない。そんな強い決意で、いま福井市の開発地籍で75戸の分譲マンションを建設中である。地下に免震装置を設置した。北陸三県の分譲マンションでは珍しい大型免震装置である。

 病院は今後これ等の耐震構造が義務づけられてくるが、一般の住宅も災害に強いものにしなければならない。まちの中で一棟や二棟が残っても多くの人々を救うわけにはいかないからだ。まち全体を、少なくともまちの数分の一は耐震耐火構造にしなければならない。その啓蒙活動の一環として、手弁当のボランティア活動で耐震セミナーを開催した。関係者約200名余りの方々が集い、有意義なセミナーとなった。ボランティアとして支援いただいた方々に心から感謝している。完成間近のマンションの屋上から沈みゆく夕陽を眺めながら、福井のまちの再生を祈った。西の空は高く、夕陽に映る雲がたなびき、日本海がキラキラと輝いているように思えた感動の一瞬であった。私はあまりの美しさに茫然と立ち尽くしていた。
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まちなか美術館

平成20年11月13日
まちなか美術館

 長浜で楽市楽座の構想が生まれたのは1970年頃である。長浜城の建設、西友の進出、黒壁の誕生などとあわせて、中心市街地の活性化のため官公民が共に立ち上がった。その時「まちなか美術館」の構想が生まれた。えきまえの各商店のウィンドに絵画を飾ろうという運動である。家宝を持ち出して飾るお店もあれば、レンタルで借りるお店もある。また購入するお店もある。賛同して一斉に絵画が長浜のお店の店頭を飾った。長浜のまちは一夜にして美術館に変身したのである。私は長浜の生まれである。その趣旨に賛同して数十点の絵画を貸出したり、協力させていただいた。スタートは各商店の共存共栄であり、個々のお店の繁栄が基礎になる予定であった。今は「黒壁」を中心としたガラス館の多店舗化の方向に変りつつある。しかし、まちなか美術館のコンセプトは変っていない。個々のお店が美術館のような雰囲気を持ち乍ら自店の商いをしているのである。

 私はこのコンセプトを福井のえきまえに導入してはどうかと考え、まず「ふくい工芸舎」を作った。本社の各フロアに絵画を展示し、ベーカリープラザに工芸品を展示し、エコライフプラザの歴史のみちにも名作を館内に展示している。ショーウィンドは福井文化服装学園のデザイナーの発表の場である。

 これを更にえきまえ商店街全体に敷衍していこうと考えている。各大学の学生達にも壁面を開放したいと思い、意見交換をはじめた。「文化のまちづくり」を中心とした地域の活性化のための努力である。

 近い将来、福井のえきまえは音楽があふれ、絵画・彫刻など芸術や文化の香り高いところに生まれ変ることを願っている。その為の捨石としてまず行動をおこしたい。賛同する人が増えていくことを期待している。
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長寿と気圧

平成20年11月12日
長寿と気圧

 長寿県といわれる信州、長野県は男性の長寿日本一の県である。長寿と気圧が関係があるかというテーマで沖縄の琉球大学と新潟大学とが共同研究を行った。その資料を友人の平啓介琉球大学監事(現副学長)からいただいた。

 長野県は確かに高地である。そして世界を見渡しても長寿国といわれる地域は山間僻地が多い。気圧は低い。気圧が低いのが長寿の理由である。この三段論法は果して正しいのであろうか。私はまずこの三段論法の最初から疑いを持った。山間部は長寿者が多い――これは事実である。これは疑えない事実であるが、山間部に長寿者が多いのは、何か別の理由があるのではないのか――これが私の直感である。考えられることはいくつかある。それを検証してみよう。

 山間僻地では老人が多い。若者は都会に出てしまう。死亡率が多い乳幼児、自殺が多い若年層、中年層が少ない。これが長寿の原因の一つではなかろうか。

 山間僻地の老人はよく働く。死ぬまで現役が多い。働くことでひとりでに生甲斐を見つけている。これが原因ではなかろうか。

 山間僻地の老人は足腰が丈夫だ。毎日傾斜地を歩くことで足の裏(第二の心臓という)を常にマッサージする効果がある。また農村作業は手や指をよく使う。足や手先をよく使うことにより血液の循環をよくしている。これが原因ではかろうか。

 山間僻地の老人は、毎日自然の中にいる。美しい空気、豊かな緑にかこまれ快適な環境である。過度のストレスを感じない。これが原因ではなかろうか。

 山間僻地の老人は、毎日山菜、野菜をよく食べる。穀物の摂取も多い。動物性蛋白や脂肪の摂取が少ない。これもまた長寿の原因ではなかろうか。

 以上のように「長寿と気圧」の関係について考えると、気圧と長寿に直接の因果関係があると指摘するよりも、他の要素の方が多いように思われてくる。

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円高還元

20年11月11日
円高還元

 ドルやユーロの下落が続いている。いまフロートしている通貨の中で、価値が下っていないのは日本の円だけといってもよい。それだけにアメリカをはじめ各国から、日銀や日本政府に対して、円高に対する速やかな対応を求めてきている。

 商品別の輸入品のランキングを調べてみた。(2007年調査)
 
商品名 輸入額 全輸入額に占めるシェア 備考
・原油 12.28兆円 16.8
LNG 3.14兆円 4.3
半導体電子部品 2.85兆円 3.9
・衣料 2.80兆円 3.8
事務用機械 2.78兆円 3.8 コンピューターを含む
石油製品 1.98兆円 2.7
精密機械 1.88兆円 2.6
石炭 1.74兆円 2.4
・魚介類 1.50兆円 2.1
有機化合物 1.46兆円 2.0
音響映像装置 1.46兆円 2.0
銅・鉱 1.28兆円 1.7
・医薬品 1.08兆円 1.5
綿花 1.04兆円 1.4
・肉類 1.03兆円 1.4
アルミニウム 1.01兆円 1.4
金属製品 1.00兆円 1.4
・LPG 0.99兆円 1.4
鉄鋼 0.98兆円 1.3
・自動車 0.93兆円 1.3

 原油はドル換算(2007年は1$≒115円)で平均69$CIF・バレルであったそれが一時140$まで急上昇したが、現在また60$に急落した。逆に円高(1$=90円)となり、約2割の円高である。上記のすべての商品は常識的に考えると円高還元をすべきものとなる。投機資金によって急騰した物価は、今賢明な消費者の自己防衛、自助努力による買い控えにより、急落する場面を迎えている。特に生活に直結する・印をつけたものは早晩値引合戦の時を迎えよう。世界経済全体が先行きに不安を持っている現在、これは避けて通れないものである。規制や談合による価格操作が行わない限り、2007年の価格以下に物価は下るであろう。

 輸入品の中身を調べてみて気がついたことがある。食料自給率40%(カロリーベース)といわれる食料の輸入金額が思っていたより遥かに少ないことがわかった。そしてエネルギー源(原油、LNG、石炭、LPG)が輸入総額の25%を占めていることである。これを見れば、新エネルギー開発を国家プロジェクトの第一とする必要があることは正に自明の理である。そしてまた円高還元を第一にする必要があるのは、このエネルギー部門であることを忘れてはならない。

 スーパーマーケットで円高還元セールが華やかである。大いに円高をエンジョイしたいものである。円高は輸出メーカーにとっては試練であるが、市民にとっては決してマイナスではない。但し海外投資をしている人は先行きの円高について十分注意をする必要がある。
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「マイナス80バイ50」――分散型エネルギ―――

平成20年11月10日
「マイナス80バイ50」
――分散型エネルギー――

 分散型エネルギーとは、大規模発電所で発電した電力を、遠方の消費地へ送電するのでなく、消費する所で発電しようという考え方である。太陽光発電が最初に普及していったのは、離島や僻地である。小規模、完結型である。エネルギーの地産地消である。

 太陽光発電がモンゴルの大平原で暮らす遊牧民のパオで始まった話は感動的でさえある。それはNEDOのモンゴルプロジェクトである。1992年にスタートし、携帯型太陽光発電システム(京セラ製)を200戸設置し、データの収集分析を行うというもの。モンゴルには約20万世帯が遊牧生活を営んでおり、ニーズは高いものと思われる。電気のない所でテレビや電灯がついた時のモンゴルの人達の感動は、想像を絶するものがある。

 フィリピンで戦死した日本兵は数多いが、遺骨捜しに出かけた遺族の方々が、現地の山奥の人々の求めに応じて、小川の流れを利用した小型発電機を寄付されたと聞いた。

 アフリカでも小型水力発電、小型風力発電、太陽光パネル発電、バイオマス発電などを国連工業開発機構が援助している。エナジーキオスと呼んでいる(日経コラムより)。そこでは携帯やパソコンへの充電を1回20円で行っているという。村はずれの赤い屋根の小屋周辺に設置しているそうである。

 エネルギーの移動ロス、即ち電力の場合の送電ロスは大きい。そして発電した電力が使われない場合は、その電力は全くのムダになってしまう。食料の食べ残しの廃棄が問題になっている。日本では食べ残しが多すぎるというのである。「勿体無い」という考えが高まり、食べ残しの全廃に動きはじめたようだ。

 電力の食べ残し、使い残しにはあまり触れられていない。しかしこのロスは予想以上に大きい。夏場の午後の電力消費量はピークに達する。このピークカットが電力業界の悩みの種である。電力会社同士で融通しあっているが、時差のない日本列島ではこの方法では効果は薄い。分散型エネルギー供給方式を取り入れることにより、送電ロスを防ぎ、発電ロスをカットすることが可能になる。これを世界中で実施していくと、現在のエネルギーロスのかなりの部分を節約することが可能となる。エネルギーは地産地消するものとするのである。そして不必要なエネルギーは作らないということになる。蓄電技術、発電技術の改良改善と相まって進めていく必要がある。
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21世紀は何の時代か

平成20年11月7日
21世紀は何の時代か

 20世紀を終わって、その100年間を振り返ってみると「石油」というキーワードが浮かび上ってくる。私が学校を出て最初に手がけた仕事は「石炭」であった。1959年春のことである。その時代既に石炭は斜陽であった。三井鉱山、三菱鉱山、住友石炭鉱業、高島炭鉱、杵島炭鉱、日本炭鉱、北海道炭鉱などの超一流企業が先行きに不安をかかえていた。20世紀初頭から活躍しだ出した蒸気機関車は石炭、そして自動車は石油を使い、それが20世紀の花型となりつつあった。燃料転換というかけ声と共に、あっという間にエネルギーの主力の座は、石炭から石油に変わっていった。石油を制したアメリカ資本が、世界を制覇していったのである。アメリカの生活様式が世界中に伝播し、それがまた石油消費を増大させる要因になっていった。

 21世紀は「環境の時代」だという。なぜなら20世紀に汚染された地球環境を放置することは許されない。人類の人口爆発は続いている。エネルギーの消費はもちろん、食料や水の消費も急増しつつある。その需要に追いつく供給は可能であろうか。

 20世紀初頭(1900年)の地球全体の人口は17億人、それが現在は67億人になった。人口爆発といわれる人口の急増がおきたのである。100年間で世界の人口は4倍になった。GDPは数十倍と激増した。過去何万年もこれ程までに単一種が地上や海中に増殖した例は他に考えられない。まさに地球の持つ能力、持続力が、今限界を超えようとしている。

 エネルギーも、食料も、水もすべて限界を超えつつある。21世紀が「環境の時代」だという意味がこれで理解できる。民族自決や人種問題、東西問題、南北問題すべて枝葉末梢のことになりつつある。人類の生存に欠くことの出来ないのが「環境」なのである。

 「21世紀は環境の時代」であるという明確な位置付けを行なった上で、これからの100年の設計を作り上げていかなければならない。その前半の目標を、私は「2050マイナス80」においている。そしてその実現に2050年までの年月をかけることは許されない。ここ2、3年の間にこの「マイナス80」にはっきりとした到達への自信をか勝ちとらなければならないと考えている。そしてそれは十分可能だと信じている。

 このプロセスにおいて数多くのビジネスチャンスが生まれる。そして日本の活躍の場が用意されている。まず勇気を出して第一歩を踏み出そうではないか。それをアジアが待っている。世界が待っているのだ。
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できるできるできる

平成20年11月6日
できるできるできる

 「2050マイナス80」とは、あと40年ほどの間に、先進国といわれるエネルギー過消費国は、現在のエネルギー消費の80%をカットせよという目標である。 即ち現在の5分の1のエネルギーで生活せよということになる。果してそれが「できる」であろうか。

 私は目標を設定するとき、常に少し高目の目標を設定することにしている。そしてその少し高い目標に向って努力を続ける。悪戦苦闘の連続であることが多い。その時私の口をついて出る言葉が「できる、できる、できる」である。可能性を信じ、目標達成のために、自らを鼓舞する言葉である。どんな困難に直面しても決してたじろがないで粛々と進めていく時の言葉である。

 人類生存のための最低条件が「2050マイナス80」とすれば、その方向付けだけはしっかりやっておく必要がある。そう考えてこのテーマ「2050マイナス80」を選んだ。そしてそれが「できる、できる、できる」ことをある程度証明する必要がある。

 テーマ別にその具体的な方法と手段を大まかに示し、誰でも理解し、実現に向って協力してもらえるよう工夫を凝らした。テーマの数は少しずつ増えていくことと思われるが、その理由は毎日考えているうちに天からの啓示を受けたり、友人からの情報を得たり、書籍から教示をいただいたおかげである。

 今世界は基軸通貨であるドルの信認が問われている。100年続いたアメリカのグローバルゼーションの危機を迎えている。世界一のエネルギー過消費国アメリカの苦悩である。世界の景気をひっぱってきたアメリカの大量消費が今止まりつつある。その後に来るのは「2050マイナス80」を標榜する新世界、新生活であることを忘れてはならない。

 ここに大きなビジネスチャンスがある。挑戦の機会がある。
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遥かな寂円

平成20年11月5日
遥かな寂円

 1200年生まれの道元を追いかけていた数年前から、その道元に陰のようにつきまとう一人の僧が気になってしょうがなかった。その僧の名は寂円。1207年に中国の洛陽で生まれている。幼い頃に天童山で剃髪受戒、如浄禅師の教えを受けた寂円。そこへ24歳にて入宋した道元が1225年5月1日26歳になって、如浄禅師の下へ参学、二人は運命の出会いをした。その時寂円19歳。彼は道元を師とすることに決めた。その理由は道元の人柄と学識に引かれたという。1225年は宋の宝慶元年にあたる。宝慶3年日本からの留学僧である道元は、如浄の許しを得て帰国の途についた。天童山の後継をと頼まれた道元は、「異国人が法灯を継ぐのは天童山にとって好ましくない」といって固辞したという。如浄の教えは「只管打坐」といって、「座禅」をもって修行の真髄に迫るものである。そのため「焼香、礼拝、念仏、修懺、看経を用いず、只管打坐あるのみ」宝慶記(道元が天童山で記した手控え)より、といって永平寺と宝慶寺に今も受け継がれている。

 帰国する道元を明州の港まで送ってきた寂円に、如浄禅師の最後をみとるよう天童山へ戻した道元は27歳で京都建仁寺へ入る。翌年如浄遷化、寂円は来日、その時21歳。

 1231年道元深草に閑居、寂円随身。その後、興聖宝林禅寺を開創。そして1243年道元44歳、寂円37歳越前国志比庄地頭波多野義重の招きに応じ、まず吉峰寺に入る。翌年大仏寺建立、その後永平寺と改名。

 1253年道元示寂、54歳。懐奘が永平寺二世となる。1261年寂円54歳で永平寺を去り、これより18年の苦行に入った。永平寺から大野市木ノ本の奥、銀杏峰のふもと、座禅岩に座った。この姿を見た伊自良氏(寂円の戒を受けて真空沙弥となる)が一宇を建立し寂円を開山と仰いだ。これが宝慶寺の始まりである。道元の示寂後、永平寺は懐奘、義介、義演と相続されたが、約60年の間、激しい動揺が続き、三代争論にあけくれ衰微していった。宝慶寺は寂円禅師を慕って若い義雲、曇希などが参禅し如浄以来の厳しい座禅を中心とする修行が行われた。標高500mの山中にある宝慶寺の雪の多さ、寒さは想像を絶するものがある。そこで誰の助けも借りず、座禅にあけくれ、作務にいそしむ、食べ物がなくなれば托鉢をする。

 道元の教えは「道は貧なるべし」という。道元歿後8年、永平寺を去った寂円禅師の心にあったのはこの言葉であろう。宝慶寺を訪れてみるとよくわかる。今なおこの宝慶寺界隈は全山緑につつまれ、寂円と同心同行、同修同参の雰囲気に満ちている。

 おのれには猛烈修行の座禅三昧、人には大慈悲行、寂円は宝慶寺に入山以来一度も山を離れず遂に死後に「洛陽」に帰ると遺言している。寒苦、貧苦の中で、座禅と作務そして托鉢に命をかける寂円のすごさが身にしみてくる。

 寂円の開いた宝慶寺からは二世義雲が波多野氏の要請により永平寺五世を継いだ。その後江戸時代中期まで、38世厳柳まで、ずっと寂円派が永平寺の法灯を守り続けた。

 寂円は中国僧である。その彼が日本から宋へ来た道元に会い、その人格と識見に打たれて生涯を共にし、その思想を受け継ぎ、その法灯を伝えたのである。

 寂円の生涯は謎が多い。遺言も「ああ大宋国へ帰りたい」と一言、そのまま遷化した、93歳とあるが、「100歳を超えていた」という説もある。「ああ帰りたい」と言ったというよりも、「いよいよ故郷へ帰る」といったように私には思える。義雲というすばらしい弟子を得、伊自良氏という熱心な支援者に恵まれておりながら、あまりに孤独な一途な求道者の姿が浮び上ってくる。

 宋や元から蘭渓道隆、無学祖元などの渡来僧が渡ってきた時代であるが、寂円ほどの大きな影響を残した人物は珍しい。しかもその姿が未だに定かではない。1243年に道元と共に初めて越前の地を踏み、そのまま1299年示寂の時まで福井で過した寂円、その間56年に及ぶ。道元の生涯は54歳まで、福井滞在は僅かに10年である。いかに寂円と福井との関係が密であるかがよくわかる。そして寂円は宝慶寺で没している。700年も昔に、これほどの偉人が福井にいたことを私達は忘れている。「遥かな寂円」を、「あまりに遥かな寂円」を思う。
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企業文化

平成20年11月4日
企業文化

 13年前私が59歳で創業した理由の第一は、生涯現役で働ける受皿を自分の力で築こうとしたことである。どこかに再就職しても「生涯現役」は難しい。そこで理想の実現のために起業したのである。理由の第二は企業文化である。ユニークな企業文化を持った会社を作りたいと考えた。私の夢を実現する為の「夢への挑戦」であった。

 CSR活動と銘打って種々の文化活動、ボランティア活動、啓蒙活動を行っている。監査法人にいわせると「何をしている会社かよくわからない」ということになる。主力は90%以上はコインパーキングという電子機器の製販と管理業務である。しかし、残りの10%は多彩な事業に見えるらしい。根本に流れるのは「勿体無い思想」に裏打ちされた資産の有効活用である。それに文化的ないろどりをつけると多彩に見えるのであろうか。工芸、絵画、書道、音楽、彫刻等私達をとりまく作家、芸術家は多い。そして諸先生方は殆んど地元福井在住の方々である。それは地域のために働くという私の夢の大切な部分をなしている。

 北陸で中古物件の駅前周辺の空ビルが売りに出た。ここ4、5年の間にこれ等を購入し、リニューアルし、テナントを募集し、地域の賑わいを取り戻す地道な努力をしている。地元の商店街の皆さんの協力をいただきながら行っている。

 企業の目的は雇用創出、利益確保による納税そして地域貢献である。それと同時に、企業文化を作り出し、それが地域に根ざした新しい文化の創造につながればこれ程うれしいことはない。福井のえきまえで「デジタル地球大学」や「フェニックス研究会」を開催して早や3、4年になる。毎月開催し無料で公開している。近々中これをインターネットで映像で世界に供給しようと考えている。そして地元の各大学の学生達とえきまえサテライト教室やホール、展示場を作っていきたい。世界情勢は誠に厳しいものがあるが、こんな時こそなお明るい夢、明日への希望を高く掲げて努力するところに喜びがあると信ずる。

 企業の中の遺伝子のようなもの、企業の中に組み込まれた企業文化、それは私達のスローガン「喜びの種、幸せの種を蒔こう」に相通じるものなのである。
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