2009年06月のアーカイブ

不景気と減税

平成21年6月30日
不景気と減税

アメリカのケネディ大統領は、アメリカ経済が不況に直面した時、国家財政が大幅な赤字であったにもかかわらず、法人税、個人所得税の3割カットという思い切った大型減税を打ち出した。その後不幸にして凶弾に倒れ、実際の減税措置はジョンソン大統領によって実行された。不景気の中での大減税という賢明な政策である。更にレーガン大統領もこのケネディ大統領の政策の成功を学び、反対を押し切って大減税を実施し、強いアメリカの復活をなし遂げたのである。
常識で考えると、国家財政が赤字の時は、増税をして少しでも赤字幅を縮小しようとする者が多い。またコストを切りつめて小さな政府を作って収支を償おうとする者が多い。しかし、実際にこのような政策をとると、経済はどんどん萎縮していく。経済活動が弱まって税収が減少し、逆に悪循環に陥ってしまう。
古代故事ではあるが、第16代仁徳天皇の例が、日本書紀に書かれている。即ち「高台に上って見渡すと民のかまどの煙が上っていない。これは百姓が貧しいからである。3年間課役(税金と用役)を免除しようといわれた。3年後、かまどの煙が立ち上っているのを見て、われ富めりといわれた。皇后は驚いて皇居がこれほど荒れ果てているのに、われ富めりとはと聞かれると、仁徳帝は、君主は百姓と共にある。百姓が富めば私も富む。百姓が貧しければ私も貧しい。更に3年経って課税を復活させたところ民は喜んで皇居の修復にあたった」という。仁徳帝はその名の通り史上有数の名帝といわれている。
不景気の時に、大型減税を断行するのは勇気が必要である。しかしこの減税が景気回復の特効薬であることは間違いない。大幅減税と先行投資型建設国債の発行を同時に実行すれば、景気対策は万全である。減税と国債の購買をうまくリンクさせる方法を考えれば経済政策は完成となる。今回の景気対策で最も有効なこの二つの政策を勇気出して実行していってほしいものである。
 

寂円禅師開祖の寺

平成21年6月29日
寂円禅師開祖の寺

中国から師の道元を慕って渡ってきた寂円が、道元の死後、永平寺を出て、銀杏峰の岩の上で坐禅をはじめた。そこで巡りあったのが伊自良氏である。美濃から越前にかけての領主であったと思われる。
そして建立されたのが宝慶寺である。永平寺も深山にあるが、宝慶寺は更に更に奥山である。まわりは人跡未踏の地と言った方がよい。寺を支える里の檀家からは、かなりの距離がある。そして寺は、修行の場である。数名の僧が住職の指導の下、道元禅師や寂円禅師の教えを守り、厳しい日々を送っている。
かつて衆議院の議長をつとめられた地元大野市出身の代議士福田一氏より、宝慶寺の維持管理について助言があった。観光客を呼ぶための施設を増やしたらどうかという助言であった。15億円の資金の提供を伴う助言であったという。宝慶寺の里は中世以来、宝慶寺の門前村として続いてきた。山村の常として、若者の流出が顕著で、豪雪の地を喜ばず、離村する家々も多い。今は無人の村となった。福田一氏の助言に檀家の人々は喜んだが、当時の住職の「宝慶寺は修行の寺です。観光客を呼んでは、修行の妨げになる」「宝慶寺は葬式寺でなく、祈祷寺でなく、観光寺でもない。一途に修行を以って立っていく寺である」この言葉により、観光寺への助言は消えた。そして宝慶寺が生き残るための茨の道がまたはじまったのである。坐禅と托鉢による生活、それが開祖寂円の教えである。しかし開山当時の宝慶寺は50戸余りの門前村があった。今は全村この地を離れ、大野、福井、名古屋そして遠く北海道へと散っていった。お寺だけがこの山中に孤立し、全く無援の状態である。冬は托鉢に出ようにも豪雪で出られない。最も近い人里へ6キロも隔たっている。雪の量は永平寺の三倍。冬は4ヶ月も続く。修行僧は裸足である。開祖寂円は坐禅巌に端坐18年に及んだ(禅宗の祖達磨大師は面壁9年?)。宝慶寺の由来は、永平寺開祖道元が宋の天童山の如浄禅師に参学したのが宋の宝慶元年である。そして道元の遺品の中に「宝慶記」が発見された。寺名の由来は、道元と寂円が共に過した宋の「宝慶年間」であったと思われる。宝慶寺14世建綱(永平寺13世)は永平寺在任中に「宝慶寺由緒記」を撰述している。
訪れるたびに心が洗われるように清々しい感動をいただける寺である。門前の古民家旧橋本家住宅は無人村の庄屋であった。国の重要文化財に指定され、大野市に寄贈されたものである。私の好きな丸岡町竹田の千古の家「坪川家」と双璧をなす古民家である。毎年5月から10月の日曜日と祝日には開放され、檀家の人々が火の番をしている。

トヨダグリーン

平成21年6月26日
トヨダグリーン

絵描きにとって、絵具は自己表現のための最高の道具である。日本画の大家といわれる人は生前、この絵具を集めることに、多大なエネルギーを使ったものである。最愛の弟子だけが、師の絵具を継ぐことが出来た。
油絵の場合も、日本で最初にはじめた人々は、油絵具を自分達で作ったとのことである。絵具とはそれ程大切なものなのである。
百歳の画伯といわれる豊田三郎氏を訪ねたのは、夏至の昼下りであった。例によって元気なお声で迎えていただいた。
「最近よく講演をたのまれる」との画伯の話である。百歳をこえたとも思われない迫力と声量、そして約1時間の講演中、立ち続けて、身振り手振りを交えての熱弁を聞いた人は、みな大きな感動をいただくことが出来る。忘れられない、 人間わざとは思えない情熱を、烈しい生命の躍動をいただける。私は訪問するたびに、30歳もの年齢差を感じたことは一度もない。逆にいつも元気をいただいて帰るのだ。
今回の訪問時に見せてもらったのが「トヨダグリーン」と名付けられた油絵具の3本セットである。「ディープ」「ミドル」「ライト」の三色調がある。私は驚いた。画伯の風景画は、神韻の世界にある。特に豊かなグリーンの使い方を、世界の人々は画伯の名をとって、「トヨダグリーン」と呼んでいる。それは知っていた。しかし古今東西、画家の名を付した絵具があろうとは、全然知らなかった。ピカソの青の時代は有名である。しかしピカソブルーという絵具は作られていない。
トヨダグリーンの話から、画伯の人生訓が始まった。「自分のものは一体何だろう」「自分のものは何一つない」「自分の身体も心も知恵も絵を描く力も、みな天からの授かりものである」「一時預かっているだけである」「財産も身体も親からもらったと思っているが、親も実際は何も知らない。わからない。ただ天から預ったものを受け継いだに過ぎない」「年齢ですら同じである。人の命は儚いが、与えられた寿命をせい一杯生きるのだ」
「酒はのまない」「60歳でタバコは止めた」「80歳でヒゲを伸ばしだした」「健康維持のため、毎日柔軟体操をやっている」「5時起床、自分で工夫した柔軟体操を寝床の中ではじめる、型は10種類、1種類を20回繰り返す」「はじめはゆっくり、20回目は力をこめて、身体の筋肉をすべて動かしてみる」「特に血液の流れが淀まないように気をつけている」「最後は足を上にあげて20秒以上そのままの姿勢を続けて終る」「これを毎日続けるのだ」
生涯現役が私の理想であるが、画伯の住いを訪れるたびに感動する。死ぬまで絵をかき続けたいとの強い思いが、100歳をこえてなお、この元気を保っておられるのであろうか。トヨダグリーンを試したとの新作をみせていただいた。今、出来上った風景画は「タイザンギョウシュウ」と題をつけたいといわれた。まだサインは入っていない。百歳の枯淡はない。生命力にあふれた神韻縹渺の世界が広がっている。今日もまた元気をいただいて帰ることになった。

兵は拙速を尊ぶ

平成21年6月25日
兵は拙速を尊ぶ

桶狭間の奇襲の古事は、有名であるが、中小企業が大企業の中にあって、生き残っていく為の一つの知恵にこの「兵は拙速を尊ぶ」がある。大企業が中小企業に唯一つ及ばないのが、この「スピード」なのである。
「スピード」は中小企業にとって最大の武器である。逆に大企業にとって最大のウィークポイントである。ところが中小企業である私達が、この「スピード」を忘れてしまうと、これは明らかに敗退を意味する。唯一最大の武器である「スピード」に、磨きをかけておく必要があるのである。
私達の会社では、社是の中にこの「スピード」を取り入れている。「より良い商品を、より早く、より安く提供します」というフレーズがある。そして私達の目指しているユニーク経営の根幹が、「スピード経営」にあると明言している。しかし、創業以来13年を経過し、この「スピード経営」のスピードが遅くなってきていることに私は不安を感じ出している。唯一最大の武器である「スピード」が遅くなれば、企業の将来に暗雲がのしかかってくる。エンジンを全開にして「スピード」を上げ、急加速することが必要である。
不況の時は、人間は当然慎重になる。投資は手控える。コスト削減に懸命の努力をする。すべての人間が同じ方向に走り出すと、社会全体の動きがスローになる。不況は広がっていくのである。
好況の時は、人間は当然積極的になる。投資がすすみ、人員が採用され、コストも積み上っていく。拡大する経済はインフレ傾向になり、社会全体が好況感を満喫し、経営のスピードは増していく。
今は不況のドン底である。私は既に底を打ったという実感を持っている。不況の底をすぎ、上昇段階にあるという認識を持てば、やるべき事が明確になる。株価は景気の先行指標といわれているが、世界の株価が反転のきざしを見せている。
環境、資源、エネルギーの分野での、APEC(アジア太平洋経済協力会議)のエネルギー担当相の国際会議が、来年夏に福井市で開催されることになった。福井県は世界一の原子力発電の立地県である。そして原子力エネルギー研究開発の拠点である必要がある。環境に優しい次世代エネルギーの原子力を、更に効率よく、更に維持して利用し、安全性を高める研究が望まれている。また他分野への原子力エネルギーの活用の道をさぐることも重要である。国際会議開発まで、後1年しか残っていないが、この対応もスピードを以って対処していくことが肝要である。

福井から日本を、そして世界を見る

平成21年6月24日
福井から日本を、そして世界を見る

先日東京からの講師を迎え、このテーマで講演をお願いした。東京から福井を見ると、或いはデータに基づいて福井を見ると、また多少違った見方が出来ることを教えられた。福井県は「理想的な日本の将来像」ともいえるとの結論であった。その理由は:1.豊かな大家族、2.健康長寿、3高い勤労意欲である。そして注意すべき点としては:1.人口減少傾向を止めること。2.急激に進んでいる高齢社会に対処すること。3.中国との熾烈な生産競争に直面している県産業を支援すること。(特に繊維・めがね等)との指摘を受けた。
福井県の人口減少は全国中位である。人口増加と県内総生産がリンクする傾向にあるので、人口増加をはかること、特に出生率を上げることが必要になる。高齢社会への対処は、生涯教育、リハビリ施設の充実をはかることは勿論であるが、生涯現役を貫ける場を作ることが大切である。また中国と競合しているのが県内主要製品(電力エネルギーを除く)の電機機械、化学、繊維、一般精密機械である。最近16年間の傾向は、1位の電機機械と2位の化学が大きく伸びているのに対し、繊維は半減、一般精密機械もマイナスである。
21世紀に入り発展途上国の成長は著しく、平均7%程度で推移している。先進国は2〜3%程度であり、日本は2%以下である。世界全体で4%であるので、日本の低さが目立っている。
中国、インドを含むアジア全体の成長は、世界でもトップレベルを維持してきた。又今後の見通しも明るい。2009年で成長するのはアジア以外ではアフリカと中東だけである。2010年のアジアの成長の見込みは5%をこえて世界のトップレベルとなりそうである。
福井県は、世界で最も高い成長を続けているアジアの中にある。すばらしい立地に恵まれている。アジア全体を一つの経済圏と考えることにより、日本の未来はばら色になる。アジア諸国を外国と考えず、広域経済圏と考えるのである。ヨーロッパのEUに対する、アジア諸国連合会を結成し、これ等諸国と日本が、経済的に一体化することにより、安定的な発展が可能となる。アジア諸国への投資を、「内需拡大への投資」と考えるのである。
アジア諸国は言語、宗教等で一体ではないが、人種的には近い。漢字文化圏であり、地理的にも近い。アジア経済共同体を結成し、日本がそのリーダーとして、資金、技術、ノウハウ特に公害防止、省エネ関連のものを提供していくならば、世界経済の安定と発展に大きく寄与できると信じている。

鮎解禁

平成21年6月23日
鮎解禁

福井県は越前ガニをはじめ海産物が有名である。南からの対馬海流と北からのリマン海流が流れ込む日本海の中央に位置しているので海の魚はとてもおいしい。嶺北といわれる北陸トンネル以北の河川は、八本の川が三国港近くですべて一本化し、九頭竜川となって日本海へ注ぎ込む。北陸トンネル以南の嶺南の六本の河川は、比較的に延長が短い。敦賀港に注ぐ三本の河川は、一本化しているが、残りの三河川はそれぞれ独立して日本海へ注いでいる。
川魚の中で最も人気の高い「鮎」が解禁になった。福井県下には十の河川漁業協同組合がある。それぞれの解禁日が異なると同時に、放流量にも大差がある。入漁料は年券と日券があり、これまた漁協ごとに大差がある。一番早く解禁になったのは、足羽川漁協と、九頭竜川中部漁協、それと嶺南の若狭河川漁協の6月13日である。一番遅く解禁になるのは奥越漁協で、7月11日である。
例えば私の住む永平寺町は、九頭竜川中部漁協に属し解禁日は6月13日、毛針釣りが7月14日、網が9月1日、素掛9月1日、鳴鹿大堰上流9月15日と決められている。休日ともなれば、両岸には数多くの釣天狗が長い竿を並べている。浅瀬にも点々と人影が並ぶ。九頭竜川中流域までに、この本流に流れ込む川は、遥か上流の真名川、清滝川、そして岐阜県境よりの九頭竜川、石徹白川、石川県境よりの滝波川がある。遥か下流で流入する竹田川も石川県境に端を発している。
緑陰の濃い山側や、早い浅瀬など、思い思いの釣場を求めて、この九頭竜川は全国から熱狂的なファンが集まってくる。特に永平寺町の鳴鹿大堰から勝山市にかけてが、最も有名である。一番高額の年券でさえ、1.2万円である。何匹釣れるかは、実力と運次第であるが、自然と一体となる一時を過す為の出費としては決して高くはない。70歳以上、女性、身障者、小中学生は半額である。現場売りは1千円高となる。海の越前ガニに対して、九頭竜川の鮎を、日野川の鮎を、足羽川の鮎をそして福井県の鮎を全国区にしたらいかがであろうか。その価値は十二分にある。川沿いの鮎料理店のフルコース5千円前後はお値打ちである。その味は天下一である。

赤字は罪悪

平成21年6月22日
赤字は罪悪

サラリーマン時代を含めると、営業の第一線に立っていたのは、約50年間である。その間、常に自分に戒めてきたのが「赤字は罪悪」ということである。個人の営業成績は勿論、チームの場合も、会社全体の場合も、「赤字」に対する強い拒否反応を持ってきた。
今回の世界同時不況、百年に一度という大不況の中で、赤字に対する罪悪感が希薄になっているようだ。これは何としても避けなければならない。一刻の猶予も出来ないことである。
「赤字」を出す、「赤字」が出るということは、事業や企業が存在する必要性を失うことなのである。私達は付加価値を追求して生きている。この作り出すべき付加価値が、コストに達しない時に、赤字が発生する。コストを切り下げるか、付加価値を上げるかである。経営とは足し算と引き算であるといわれるのが、この単純な計算根拠に基づいた考え方なのである。
「赤字」が数十年続いたサントリーのビール事業については。賛否両論というより、オーナー経営のゆえの事態であり、経営理論からいえば、信じられないことになる。
「健全なる赤字」という言葉もある。研究開発や次世代の為の投資を常に続けていくことの必要性を説いたものである。サントリーの場合はこれに当てはめることも可能である。トータルで赤字部門の赤字を吸収し、常に黒字決算を続けていける場合に、この「健全なる赤字」の可能性がある。
私達の会社は約2,700ヶ所をこえるコインパーキングの管理を行っている。その他数十棟のビルマンションの管理も併せて行っている。個々の採算の積み重ねが、全体の採算に直結することを忘れてはならない。平穏無事な時代ではない。常に時代の変化を注目し、即時に対応しなければならない危機の時である。その時の指標、唯一無二の指標が「赤字」である。赤字を注目しない経営は必ず破綻することを忘れてはならない。「赤字は罪悪」であることを強調しておきたい。

数学

平成21年6月19日
数学

数学はあらゆる科学の基本である。数学嫌いの人は多いが、それは数学の本質を理解していない為の誤解に過ぎない。数学を少し詳しく考えると、数学が私達の生活に密接にかかわっていることがよくわかる。「数学嫌い」「数学は苦手」という原因をさぐり、その考えを改めることが必要だと思うので、あえて「数学」を取り上げてみた。
まず数学の最大の特徴は、必ず正解があるということ、それも唯一無二の正解があることである。物事で正解がはっきりしないことの方が多い中にあって、「数学」の世界では、明確な「解」が必ずあるのである。この事はすべてをあいまいな中で、見過しがちな私達の安易な生き方に活を入れてくれる重要な役割を果してくれる。
次に「ゼロ」の発見が人類の発展に大きな貢献をしたといわれている。これは私達の原点を示す言葉であると同時に、新しい数学の世界を生み出す原動力となった。「空」「色即是空、空即是色」の「空」の観念にも一脈通じるものである。
次にコンピューター言語の「0」「1」「01」である。これもコンピューターというマシンを使って数学の世界を無限大に広げていくツールになっている。数学の世界は今や宇宙の起源を洞察したり、DNAの解読や人類の起源、更に生命の誕生の神秘を解きあかすところまでせまろうとしている。
掛け算の九九は小学校で覚えたものだ。かつては割り算の九九もあった。暗算という計算方法がある。珠算=ソロバンの課外塾がかつて町中に必ずあった。そこでは1級を目指してみんなが一斉にパチパチとソロバンをはじいて早さと正確さを競い合っていた。暗算の名人は、頭の中でソロバンをはじいているといわれている。日本人の頭脳の訓練に、ソロバンの果した役割は大きい。
インドの数学が注目を集めている。九九が二桁まで覚えられているとのこと。記憶力の訓練であり、暗算の訓練である。数学の面白さはやればやるほど効果が積み上ることである。必ず実績と効果と能力の向上をもたらすことである。これ程の魅力をもったものを他に見つけることは困難である。

世界トップクラスの富める国へ

平成21年6月18日
世界トップクラスの富める国へ

外需にたよりすぎた日本の産業構造は、バブル崩壊後、世界中で最も安く生産できる国を捜して、そこへ集中的な現地生産が進んだ。昨年度は巨額の海外からの金融差益が送金されている。しかし昨年秋よりの急激な輸出の落込みは、国内生産現場の混乱を招き、危機感が一気に吹き出した。そしてそれは消費低下を招き、資源安、原材料安の中、低価格競争がはじまった。人々は安くてよいものを捜し出しはじめたので、高級品や不要不急のものの売り行きに急ブレーキがかかっている。
消費の低迷は、世界中で起きており、特に自動車販売の落込みが大きい。住宅ローンの支払不能に続いて、自動車ローンが頭打ちとなっている。消費の二大要素である住宅と自動車の販売が落ちているのでその影響は深刻である。
世界経済の牽引車となっていたのはアメリカである。なぜアメリカが牽引車になれたのか。その理由は、アメリカが世界有数の豊かな国であったからである。豊かであるから内需拡大が可能になった。世界の資金を集めて、アメリカ人はその資金を再投資に使うのではなく、主に消費に振り向けた。富める国だからこそ出来た内需拡大であった。
しかし富の源泉は、信用度が最も高い通貨の米ドルであった。貿易赤字と財政赤字が積み上っているアメリカ経済の実態に、世界全体が不安を持ちつつある中で、昨秋リーマンブラザーズ倒産のショックが走った。雇用情勢が極度に悪化、消費にマイナス効果があらわれ、貿易の縮小を招き、アメリカの内需は一気に停滞したのである。
内需拡大に余力があるのは、日本である。現在景気対策が打ち出されて、少しずつ明るさが見え出している。日本が内需拡大を積極的に推し進めることで、世界同時不況は上昇のキッカケを掴むであろう。更に中国、インドをはじめとする成長率を維持している諸国の内需が期待できる。世界中からアメリカへ流れ、そして世界中へ還流していた資金の流れを、一部日本から世界へと変えていくことになろう。アメリカの復調には数年が必要である。その間日本の果すべき役割が内需拡大である。中長期的に見て、効果が継続していく投資が行われなければならない。今世界の視点がそこに集まっている。 

十二本の桜

平成21年6月17日
十二本の桜

永平寺への道に「十二本の桜」がある。誰が植えたのであろうか。古木である。見事な染井吉野である。道の片側に、十二本の桜が一列に並んでいるのは、見事であると同時に少し寂しい。桜は並木がいい。両側から道にかぶさるような桜並木がいい。いつの日か、誰かが植えてくれるといいと思っている。その土地は、永平寺町の所有である。その小高い山を道路から少し上ったところに私の小宅がある。桜の好きな私は、その山に山桜が数本あるのを見付けた。早速庭師を呼んで、その近くに三本の染井吉野を植えた。大きい桜を持ってくるように頼んだ。桜の成長を待つには、私は既に十分に長く生きすぎているからだ。私が生きている内に、満開の桜を楽しみたいと思ったからだ。染井吉野を選んだのも、花の見事さと、木の生長の早さが原因だ。そのおかげで、毎年道路に十二本の桜の古木が満開の頃、私の庭でも、桜花を楽しむことが出来る。今は6月の中旬、目の前の庭は一面の緑に覆われている。その緑を通して城山やゲンジ山を朝な夕な眺めている。まさに至福の時である。
十二本の桜の古木も、しっかりと葉を繁らせている。大本山の永平寺への参道にあるが、注意していないとパスから見過ごしてしまう。じっくり観察すると、見事な古木である。
今年は福井県で全国植樹祭が開催された。第60回の節目の年である。天皇、皇后両陛下をお迎えして県民こぞってお祝いした。今年の植樹祭の「木」は「桜」である。県内各地でおそらく1万本を超える植樹が行われた。「平成天皇ゆかりの桜」といわれるように見事に育ってほしいものである。私達も孫と一緒に、足羽山の古墳公園で、桜の植樹に参加した。

グラミン銀行

平成21年6月16日        
グラミン銀行

ソーシャルビジネスという言葉が注目を集めている。資本主義や共産主義でない新しい社会形態を作り出す新機軸となる可能性を持ったビジネス形態である。そのスタートは最貧困といわれるバングラディッシュで始まった。モハマド・ユヌス(グラミン銀行代表)が個人のポケットマネー27$を、村人達に無担保で提供した。当時村人達は高利貸にそのお金を借りていた。そして働いても働いても生活は楽にならず、村も繁栄しない状態が続いた。彼はその時、新しいルールを決めた。5人ずつがお互いに保証しあうという保証制度である。借り手は殆どが女性。みんなが助けあって、知恵を出し合って、返済をしていった。事故率2%以下という。そしてグラミン銀行という正式の銀行が設立された。資金は出資金である。但し利息も配当もつかない。期限(5年間)が来ると全額返済される。再出資もOKとのこと。小さな好意によってスタートしたグラミン銀行であるが、今回の世界恐慌に、他の一流銀行が苦しんでいるのに対し、全く平穏無事な経営を行っている。正に奇跡の経営である。一般管理費等の諸経費はどうなっているのか判らないが、かつての「日本育英会」或いは各地に存在する「育英制度」やアメリカの「ビルゲイツ&メリンダ財団」等の運営と比較してみると、よく理解できるのかも知れない。
一つの村、一つの地域、或いは一つのグループに対して行われる貸付で大きくなっていった。そこには明確な夢があった。「貧困よりの脱出」である。しかも共同での脱出である。みんなが心を一つにして、お互いに助け合い、知恵を出し合って努力するので、返済はどんどん進んだ。それと同時に人々の暮らしは向上していったのである。お金が「利潤」の最大化、効率化に使われるのではなく、お金が「幸福」の最大化、効率化に使われたのである。
このグラミン銀行のもたらした現象は、人々の生活の安定、人心の平安、そして社会不安をしずめ、人々に生きる喜びと幸せを提供したのである。「利他の心」が作り出した理想境である。そしてこの理想を追求するモハマド・ユヌスの元に、世界中の有志から資金の提供の申し出があるという。借り手が百万人となれば、この百万人の人々を味方につけることになる。1億人とすれば、この1億人の味方を得るのである。私達の人生は有限である。私達は、生きているすべての人類は、いずれ死なねばならない。せめて生きている内に、モハマド・ユヌスに協力し、「利他の心」で生きたいものである。
いずれこのソーシャルビジネス(SBという)は、資本主義諸国に広がっていくことであろう。政府や国や企業をこえて、またはそれ等の既成集団の協力を得ながら、大きく発展していくであろう。そんな日の一日も早く来ることを願っている。
 

交通事故死と自殺者

平成21年6月15日
交通事故死と自殺者

交通事故の死者は、ここ数年減少し続けている。2008年の死者は、1953年以来54年ぶりに5千人台となった前年を更に下回り、5,155人(30日以内の死者を含むと6,000人)となった。各県警を競わせて、様々な対策を立て、自動車メーカーをも巻き込んだ運動が功を奏したものである。「シートベルト」の着用が死者の数を激的に減らした効果は、特に大きい。交通事故の撲滅に要しているエネルギーの膨大さを考えると、人間の努力と効果が比例することに気付かされる。交通安全教育を含め、この運動推進に携わる多くの警官たちに感謝しなければならない。
一方自殺者の数は、一向に減少しない。逆に社会不安や経済環境の悪化により、増加傾向にある。例えば1980年の自殺者20,542名、交通事故死者13,302名であった。約1.5倍である。2000年は自殺30,251名交通事故死9066名。3.3倍である。2008年は5,155名と3万余名約6倍となった。20年間に1.5倍から3.3倍に広がり、更に次の8年間に3.3倍から6倍にひろがってしまった。この事実に私達はもっと真剣に目を向ける必要がある。
対応策を徹底して推進し、全国上げてその撲滅に努力した交通事故死は減少し続けている。それに対して自殺者の数は毎年3万をこえたままである。その対策はどうなっているのであろうか。小さな交通事故を報道するマスコミの皆さんに、自殺者の悲惨さ、そのかげに隠されている社会悪の報道を是非お願いしたい。そして警察はもちろん、医療関係者、社会心理学者、政治家、行政、福祉関係者も含めてもっと真剣に、もっと継続的に、もっと緊密な連携を作り乍ら、自殺を食い止める手立てを実施していかねばならない。人を追い詰めるのでなく、人に救いの手を、愛の手をさしのべることに躊躇してはならない。協会の銀の燭台を盗んだジャンバルジャンに、残っていたもう一つの燭台も「これはあなたのものだ」といった神父の愛を、私は幼い頃から忘れたことがない。困窮に泣く人々への愛と行動を望みたい。今日も東尋坊の自殺の名所では、自殺しそうな人に声をかける運動を続けている人がいる。

規制緩和とグローバリゼーション

平成21年6月12日
規制緩和とグローバリゼーション

失われた十年といわれたバブル崩壊後の日本において、日本のとるべき道は何かが大いに議論された。そしてアメリカのいう「規制緩和」と「国際標準(グローバリゼーション)」の二つの行動が示唆された。失われた十年余り、をこの二つの指標をもとに、日本改造が行われたのである。
アメリカのいう「グローバリゼーション」は真の世界標準ではなく、アメリカの示す、アメリカ流の規準である。詳細に調べてみると欺瞞にみちたスタンダードであった。特に金融において、金融工学において、標準を決める基本のところで、根幹のところで問題があった。アメリカ政府も「規制緩和」のせいで「自由放任」しすぎたと反省しだしているが、今となってはもう遅すぎる。この傷を癒すためには、多くの努力が求められることになる。
失われた十年の前、バブルといわれた1980年代は日本の時代であった。日本は数多くの分野でアメリカに追いつき、追い越して、経済力では世界一になった十年であった。その日本をアメリカがまた追い越していったのは、金融工学といわれる金融操作によるものであった。この金融操作に世界中が躍らされたのが、今回の世界恐慌につながりかねない大波乱である。
私達はもう一度「失われた十年」といわれる、この1990年からはじまるバブル崩壊後の日本の姿を見直してみる必要がある。繁栄を謳歌するアメリカに対して、バブル崩壊で苦しむ日本という表の姿と真の姿、裏の姿を比較することが必要なのである。
日本の雇用形態が終身雇用から、アメリカ流に変わりつつあるが、これは果たして正常なのかどうか、私達にとって幸福なのかどうか。疑問である。アメリカの労働者の50%はパートタイマーである。1973年11.2ドルの時給が1996年には10.2ドルとなり、現在は10ドルを割っている。日本の最低時給は760円であるが、殆ど1,000円前後支払われている。そして日本のパートタイマーは勿論50%もいない。GDPの比較でも日本の1987年の国民1当りのGDPと1997年を比較すると約5割以上増えている。アメリカは1987年も1997年も1人当りでは日本に及ばない。そして重要なことはアメリカのトップ20%の人々が国富の42%をにぎっているが、日本では32%にも満たない。どちらの国民が幸福かは歴然としている。規制緩和についてもIMF、GATT、WTOなど国連を中心に規制緩和が呼びかけられているが、これ等機関を動かしているのはアメリカであることを認識しなければならない。中国が今回IMF債を500億ドル買うという。ロシアも100億ドルの購入を決めた。
これはアメリカのグローバリゼーションへの抵抗といえよう。ドルをIMF債にかえるというのはドルから日本円、ユーロ、英ポンド、そしてドルの合成通貨へ乗り換えることなのである。まだ中国、ロシアの動きは、6兆円規模に過ぎないが、今後注目していなければならない。合成通貨の時代を予感させる出来事である。
◎2000年と2007年の外貨準備高(金保有を含まない)を調べてみると途上国といわれる国々の大飛躍に驚かされる。
ロシア約19倍 GDPは約5倍
中国約9倍  GDPは約3倍
インド約7倍 GDPは約2倍
ブラジル約6倍 GDPは約2倍
南アフリカ約5倍 GDPは約2倍   
そして仮にドルが95円の現状から、1995年の80円や、もっと円高の70円などと下落していけば、ドルの信任を維持するのは困難である。IMF債のSDRが次の世界通貨への道を示している。そこへの中国やロシア・インド・ブラジル等の参加が当然考えられる時代がきそうである。
 
 
 

沖縄の魅力、福井の魅力

平成20年6月11日
沖縄の魅力、福井の魅力

転勤族の方々と、福井県の魅力を発掘し、これを県外に宣伝し、お互いの情報交換と親睦をはかるということで「キラリ会」を結成した。福井自慢をしていただくスピーカーに各界の識者をお招きして研鑽を積んでいる。私の印象では、転勤族の方々は2年毎の転勤の会社では一生涯に約20回、3年毎で約13回、5年毎で約10回の転勤をされている。私も何度も転勤の経験があるが、赴任先によって生活が大きく変ることがある。札幌と博多は「夜の世界」が有名であった。京都は観光ガイド役(大使館員もよく似ている)といわれる。沖縄から転勤してきたメンバーから貴重な体験を聞いたので記しておこう。
沖縄はかつて異国であった。その為転勤族は異分子であるので最初から敬遠される。これを乗り越える努力が大変だという。私達の会社も那覇支店を開設した時、同様の苦しみを味わった。トヨタや三越出身の役員や顧問に頼んで、人脈をたどって、次々と紹介をしていってもらったものである。そして親しくなってから、やっと仕事の話が始まるのである。それまでは取り付くしまがない。親しくなると、もう家族同然で次々と仕事が入ってくる。その為沖縄を去ってからも、沖縄を忘れない人が多いという。沖縄と何らかのつながりや関わりを持ち続けたい人が多いという。
沖縄の食は、その文化と共に、独特のものがある。好き嫌いは別にして、とに角変っている。支店開設前の市場調査で、約1週間、沖縄本島にとどまり、レンタカーですみずみまで走り回ったことがある。その時、毎日3度の食事が、福井の食事とは全く違うのに驚いた。食材が違うのと、味付けが違う。魚貝類も福井とは全く違うのである。僅か1週間の旅行から帰った福井の刺身のおいしさは忘れられない。それ程の差がある。
沖縄の夏は暑い。風はあるので木陰に入ると涼しいが、一歩出ると、ジリジリと太陽が照りつける。服装が福井と違うのは、この気温の差が原因である。福井はかつて雪国であった。ところが最近、温暖化の影響で雪が積もらない。降ってもすぐとけてしまう。平均気温は0度を下回ることはない。沖縄の夏の暑さは倍加され、福井の冬の積雪が解消されると福井の魅力は相対的に大きくなる。
人情を忘れてはならない。沖縄の人々の純朴さ、福井の人々の信仰心の深さは双璧をなす。人に優しいまちが最も魅力がある。人に優しい笑顔で、優しい言葉で、明るい生活に終始したい。

ポジティブな生き方

平成21年6月10日
ポジティブな生き方

福井県鯖江商工会議所で厚生年金受給者の方々を対象とした「壽大学」が開催され、その講師として招かれた。約120名を前に「自今生涯――いきいき元気で」をテーマに話をさせていただいた。鯖江市の方々を対象に講演をさせていただくのは、今回で4度目になる。以前に、鯖江ロータリークラブ、鯖江染色団地組合、税理士法人川中経営会の皆さん方を前に話をしたことがある。
今回は高齢者に限った聴衆であり、テーマを「夢」「悩み」「幸福」「信仰心」それぞれに分け、時間は「今」、空間は「此処」が大切だと話をした。ポジティブな生き方をすすめたのである。その為に必要な勇気、愛、信仰心、感動を持ち続けること、心の平安は感謝、満足によって得られること、生涯現役を貫くことこそ理想の人生だと申し上げた。「喜びの種、幸せの種を蒔こう」は私達の会社の基本姿勢である。「十方よし」「お客様のために働く」は私達の会社の日々の日課である。このことを説明させていただいた。
今回の講師は、前知事の栗田幸雄氏をはじめ、天谷調理学校長天谷祥子先生、フリージャーナリスト坪川常春氏などのお歴々の方々であり、私もその中に入れてもらったので、準備に時間を費した。
聴衆の皆さんは年配の方々ばかりであったが、熱心に聞かれていた。最近の高齢者の若いのには驚かされた。精神年齢のことである。何でも好奇心を持ち続けることが、「心の若さ」につながり、それがまた「身体の若さ」をもたらすのだという。まさにその通りである。
福井県年金受給者協会鯖江支部のメンバーは約3,750名であるという。支部長斉藤正純氏は亡妻の父、土田祐義(通伯)と鯖江商工会議所で長く一緒に働いたとのことである。お互いに旧知の間柄の如く、懐旧談に花が咲いた。人の世の縁の不思議をしみじみと感じた一日となった。参加者の健康長寿を祈りつつ、残された人生を、立派な後継者を育てる仕事に、命がけでとり組まれるよう、お願いをした次第である。

高齢者マーケット 

平成21年6月9日
高齢者マーケット   

65歳以上の高齢者と15歳未満の少年少女の数は、1960年では高齢者500万人、少年少女2,800万人と大きな差があった。それが年を追うごとに近付き、2000年には1,900万人と同数となり、遂に追いついた。そして2007年には高齢者2,750万人、少年少女1,730万人と大きく逆転し、差は広がりつつある。
高齢者マーケットの特長は、いかなるマーケットと比較しても、それ等をはるかに凌駕する巨大市場だというところにある。
そしてこの市場の人々は、年齢的には65歳〜100歳と幅広く、体力的にも、知力的にも大きな差がある。健康、脳力、財力、知識、経験が多様であり、一概に論ずるのが難しい。
そして財力の点では他の年齢層に比較して、相対的に豊かであり、不動産、動産共に多くを所有している。経済力があるということは、消費する力を最も多く持っていることになる。
更に使ってもよい余暇の時間が最も多い人々である。時間があるので、消費の形態が他の年齢層とは大きく異なるものとなろう。時間を多く必要とする消費、例えば長期間の旅行、ガーデンニング、芸術・芸能、スポーツ、健康保持など多様な形が考えられる。
そして高齢者は、自らが意志決定できる「純消費者」である。その為、多様な意見を持っている。そしてどんなグループにも所属しない。だから強い自我を持っている。独特な市場であることに気付かざるを得ない。
高齢者市場はこれ等5つのきわだった特徴を持っている。この市場を攻略するのは、至難の技であるが、やり甲斐のある仕事である。この市場を攻略するには、「新しいツール」が必要となる。それは「IT戦略」である。一筋縄ではいかない市場を詳細に分析し、その消費動向に従って商品やサービスを提供するには、「IT戦略」を駆使しなければならない。
働ける年齢は最近どんどん上昇してきている。後期高齢者という言葉が生まれ、75歳以上が老人の分類のようになりつつある。しかし実際のデータを調べてみると、1960年の平均寿命68歳から、2007年82歳と大きく伸びている。ところが65歳以上高齢者就職率は1960年43%から2007年20%と大きく下がってしまっている。かつては農業人口の比率が高く、高齢労働が残っていたが、サラリーマン社会の定年制、年金の普及により、働ける能力も体力もあるが、遊んでいる人が急増しつつあることがよくわかる。
高齢者市場を分析し、それを適確に攻略し、見事な成果を上げ、人々を幸せに出来る秘密が、このあたりにある。
即ち「遊び」をテーマとすることが出来るのである。高齢者市場の可能性の第一は「遊び」の分野である。
スポーツ  DIY(リフォーム、ガーデンニング)
音楽 イベント 芸術芸能 手芸
第二の分野は「学ぶ・習う」である。
宗教、哲学等も含む習い事。一般向け大学講座、オープンカレッジ。
第三の分野は「教える・導く」である
語り部(歴史文化) 大学講師。
「学ぶ・習う」の先生役
スポーツ少年団の世話役
第四の分野は「社会貢献」である。
農林水産業  ガーデンニング(花壇づくり)
介護業    リフォーム業 ボランティア 
前記4つの分野は独立したものではない。相互にからみあって、一つの新しい商品やサービスを提供できる。「遊び」は「学ぶ・習う」に通じ、「教える・導く」は立場が逆になるだけで同じことである。またライフスタイルそのものを変革する程の新機軸が誕生する可能性すら秘めている。考えれば考えるほど、高齢者市場は面白い。キーワードは直・近・触といわれている。「直」とは、ダイレクトのアプローチ。「近」とは近づかないとみえない。「触」は更に密着するとわかる。

般若心経

平成21年6月8日
般若心経

1970年(昭和45年)頃のこと、私は岐阜にいた。勤めていた商社の岐阜の責任者として、忙しい毎日を送っていた。岐阜青年会議所の一員としての活動にも精を出していた。ある日、薬師寺管長高田好胤師の説法を、JCの会合の中で聞いた。440年余り前に戦火で灰燼に帰した薬師寺(東塔だけが焼け残っていた白鳳時代の伽藍)の復興を祈願されての説法であった。ただ単に伽藍復興を願うのではなく、百万人の方々のご芳志を受けるための旅とのこと、その方法が般若心経の写経勧進をすることである。一巻写経し、これを再建される金堂におさめて先祖供養をし、願いごとをしようということであった。
両親も弟妹も、二人の子供も、妻も元気であった頃である。私も般若心経を写経し、奉納させていただいた。一巻につき千円、四人家族で四巻を納めた。
その説法は、迫力に満ち満ちた、すばらしいものであった。440年もの長い間、歴代の住職が夢に見ながら為し得なかった伽藍の再建に取組む好胤師の熱弁に、若い私達JCメンバーの多くが賛同して、写経を申し込んだ。JCとは30歳台の青年の集団である。
そして6年後の1976年に金堂が完成、落慶法要が営まれた。448年ぶりの、正に快挙といえる好胤師ならではの成果であった。そしてまた5年後の1981年には、西塔が完成した。般若心経の写経が日本中を席捲し、戦後の苦悩の中から生まれた美しい、清々しい日本人の心の反映といえよう。
説法はまず合掌から始まった。大きな声、明るい声で呼びかけられた。「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろくひろく、もっとひろく、これが般若心経、空の心なり」岐阜JCで、数多くの講演を聞いたがこんな型破りな話は初めてで、みんな驚いた。そして感動した。「一巻につき千円の納経料を納めていただきますと、田中塊堂先生のお手本とお写経用紙が届きます。用紙は越前五箇の岩野平三郎氏の紙漉き工場で手漉きされた、天平時代と同じ和紙です」福井ゆかりの私にとってこの話はとても身近に感じ、早速友人達と競いあうように四巻を申し込んだ。生家の長浜へ帰った時、父母に納経を奨めたところ、両親はすでに納経をすませており、好胤管長の納経勧進の旅が広く、広くすすんでいることに気付いた。
その後、禅宗の古刹を訪れた時、般若心経を本堂で写経している若者達を見て、思わず合掌した。宝慶寺。夕暮れ時の森閑と静まりかえった本堂で四人の若い女性等が黙々と写経に励んでいた。
永平寺第一教区のお坊様達が毎月3人ずつ、私達がおまつりしている生き生き地蔵尊へ、読経においで下さっている。その時のお経の最初がその「般若心経」である。また、母が生前仏壇の前で毎朝、毎晩灯明をともして、この「般若心経」をあげていたのを思い出す。おそらくお経の中でも最も短く、最も人々に親しまれているお経であろう。今でも目を閉じると、高田好胤管長の若々しいお姿が生き生きと浮かび上がってくる。合掌。

上と下

21年6月5日
上と下

2009年度予算の補正予算が成立した。約14兆円の補正は過去最高であり、年度早々の補正も前例がないように思う。まさに異常事態である。福祉関係の予算や、派遣切りされている失業者対策の予算が注目される。その中でも母子家庭への支援条件の変更があったという。内容の詳細はとに角として、弱者への配慮が欠けるケースが多いのは残念である。「弱者切捨て」は社会全体を不幸にする。「安心安全な日本の伝統」を守るために、政治も、行政も、企業も、家庭も、学校も努力しなければならない。社会不安は、国民全体の生活を脅かすことにつながりかねない。
「上を見てうらやましがるのでなく、下を見て暮せ」とよく祖父からいわれたことを思い出す。自分より厳しくつらい生活をしている人々を見ていると、自分の現状に満足し、感謝するようになるという。自分より上の豊かな生活をしている人を見ていると、自分の現状に不平不満をいい、感謝する心など到底持てないことになるという。
最近はアメリカ経済ではあたりまえであったレイオフが、日本でもどんどん採用されるようになってきた。派遣社員の激増がその一因でもあるが、景気の動向により失業者が増えるのは、まことに困ったことである。失業者対策は当然必要であるが、もっと根本的な問題解決をはかることがより重要である。アルバイトは学生のもの、パートは専業主婦のものといった過去の常識が、現在では通用しなくなってしまった。全労働者の何割もの人々が、不安定な雇用形態で働いている。この現状を打開し、正常な雇用を創造しなければなるまい。真の弱者救済の道がそこにある。
下層社会といわれるものが、私達の日本にあってはならない。そんな人々を救うための予算でなければならない。そんな人々に生き生きと働ける場を提供する政治を望みたい。「上を見て精を出し、下を見て感謝して暮せ」といった祖父の言葉を、しみじみとかみしめている。

神社仏閣情報

平成21年6月4日
神社仏閣情報

福井、滋賀、京都、奈良は、国際ロータリークラブの第2650地区を構成している。この地域の特長は、神社、仏閣がきわだって多いことである。平城京、平安京や志賀の都、越の国の都と、古くから歴史と伝統のある土地柄である。また神社、仏閣を長く伝えてきたのは信仰心の篤いことの証左である。
神社仏閣では毎年年中行事が行われている。この年中行事が地域社会を形成していく。お宮やお寺を中心としたネットワークがつくられたのである。地方の小さな町へ行くと、どの町にもお宮(村社といわれた)とお寺が一、二ある。各々の氏子、檀家である家々には、神棚と仏壇が必ずある。「月参り」と称して、神官や僧が各家を訪問し、祝言を上げ、経を読む。そこでは濃密な会話が交され、人々は信仰の世界に安住する。これ等の信仰は、核家族化の進展と共に、少しずつ薄れつつあるのは、誠に残念至極である。
先祖をまつるお祭りも、お宮では5年祭、10年祭、20年祭となっているが、お寺では3回忌、7回忌、13回忌、17回忌(数え年でいうので満では2、6、12、16年祭のこと)が行われる。神と佛を交互に拝む生活の知恵は、誰が、いつ考えたのであろうか。
神社の創建はかなり古い。自然崇拝に発し、その後神話の神や天皇をお祀りする神社が多い。また死後に神となって祀られている秀吉、家康をはじめ大名も多い
古来からの神道の信仰を中心として、天皇制が確立した1,500年前の頃、仏教が伝来し、日本人の生活の中へ浸透していったのである。それ等神社仏閣の全国情報を集め、その研究をすることも意義深いと思われる。その研究拠点の立地としては、特に福井県は最適と言っても過言ではないであろう。
福井県民は信仰深い。質素倹約の風習が残り、また暴力的な凶悪犯罪が少ない。エゴイズムを排し、利他の心を持った人々が多いのである。現代の殺伐とした時代に、信仰に関する祖先の足跡をたどり、神社仏閣情報を集め、次世代にこれを生かす道を考えてはいかがであろうか。福井県下に、その神社仏閣情報に関する研究拠点を設置することを真剣に考えたらいかがであろうか。

尊縁

平成21年6月3日
尊縁

多くの人々に支えられ、助けられて一日、一日を生きている。そんな切実な実感を持つ今日この頃である。新しく赴任されてきた方と名刺を交換する時、「やあお久しぶりです」と挨拶を交すこともある。「十年ぶりにまた福井へ来ました」といわれることもある。道を歩いていてすれ違いざまに「お元気ですか」と声をかけられる事もある。お互いに年をとって、うっかりすると見違えかねない。
初対面の方と名刺交換をする時に私は二、三の質問をさせてもらうことにしている。出身地と出身校についてと、景気の先行きについてと、地球温暖化についての質問をする。なぜそんな質問をするのかは自明の理であるが、お互いの「縁」をさぐりあうのである。出身地を聞くことにより、その土地での私の記憶を呼び起こし、共通の話題が生まれる。出身校も同様である。同志社大学を出た私は、京都の大学すべてに親近感を持っている。今でも年に数回は必ず京都を訪れている。青春時代の思い出が鮮烈に残っているからである。
景気の先行きについて質問すると、お互いの考え方の差異がすぐわかる。未来を考えるのは簡単なようで難しい。しかしいつも考えている必要がある。異なった意見は参考になり、同じ傾向の意見を聞くと自信がわく。
地球温暖化の質問は、相手の興味をたしかめるためのものだ。みんなが知っている問題ではあるが、本当に興味を持っているのかどうかを確認する質問である。私の名刺は「地球」をデザインしたイラストを使っている。温暖化防止のためのアイデアを聞き、それをまた次の人に伝える「伝道師」の役割をつとめているのだ。そこでまた「縁」がひろがっていく。
ある日突然に十年前に助けられた方におあいした。そしてその時の共通の友人の話に花が咲いた。「人生は捨てたものではない」そんな気持にさせてもらった楽しい一日となった。
「縁」につながる私達凡人は、その「縁」を大切にしながら、また新しい出会いを求めて、せいいっぱいの一歩を踏み出していくのである。

麦秋

21年6月2日
麦秋

麦の穂が黄金色に輝く季節となった。初夏の風が吹いている。隣の水田には水が満々とはられて、早苗が日に日に育っている。のどかな、平和な田園風景である。しみじみとこの平和な日本に住んでいることに幸せを感ずると共に、この平和をもたらしてくれた先輩達に感謝する気持がわいてくる。
天皇、皇后両陛下をお迎えして、6月6日から3日間、福井県は歓迎ムード一色になる。第60回全国植樹祭が、福井市の一乗谷朝倉遺跡をメイン会場として開催されるのだ。道路も整備され、あとはご到着を待つばかりである。
日本は古来より「芦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の国」といわれる。この言葉は『日本書紀』の天照大神が孫の火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)にいわれたと記されている。米作りの原点にある言葉として、長い間日本の農業、米作りを支えてきたものである。
宮中にて天皇陛下は毎年5月29日に、みずから田植をされる。秋には稲刈りもされる。10月5日前後である。この行事は神代以来、連綿と伝えられてきた宮中行事である。そして秋には、伊勢神宮において覆奏(かえりごともうし)といって10月15日〜17日「神嘗祭」が挙行される。神前に豊作のお礼をするのである。更に宮中において11月23日に共食の儀、「新嘗祭」が行われる。これは天皇が、天照大神、八百万神に給仕をされ、共に新米を召し上るお祭りである。
思えば天皇と日本国民との間には、稲作という日本の土地にあった穀物を尊び、その生産を通して、国の安定をはかってきた深い濃密な関係がある。米の反収に比べると、麦では半分の人しか養えないといわれている。牛では10分の1しか養えない。将来の人類の主食は「米」にならざるをえないというのが栄養学の常識だという。
日本人は二千年の昔からこのことを気付き、稲作を実行し続けてきたのである。減反政策に批判が集まっているが、米の生産高を調べてみると、終戦の1945年を底として、それ以来急速に回復し、ここ数年は高原状態が続いている。過去最高の生産高をほぼ維持しているのである。農業従事者の高齢化が恐ろしい勢いですすんでいるが、高齢者の方々の努力に感謝すると同時に、日本の将来、お米の将来に、今一度、思いをめぐらさなければなるまい。

日本の起源

平成21年6月1日
日本の起源

地形から考えてみても、日本のユーラシア大陸との関係は長い歴史をもった濃いものであることに異論はない。満州や朝鮮北部から南下して日本へ入った北方系文化を持つ人々、そして南朝鮮から或いは直接九州へ入った江南系文化の人々など、古代からの交流のあとは容易に発見することが出来る。江南系は、苗族の故郷といわれる河南の先史遺跡から発見された稲作が「イネ」の語と共に江南へ移り、そして日本へ来たと思われる。白川静博士の説によれば、そこに「銅鼓の文化」があり、日本の「銅鐸文化」とつながるものと指摘されている。鋳造方法が似ている。農耕儀式に使われる。季節的に土中に埋められていたらしい等と、類似点が多い。江南系は、稲作の技術、儀式、器具の他、鵜飼や潜水漁法、文身、頭衣、鉢巻、褌や住居等相似性が多い。母権的な農耕文化と大地を母神とする信仰を持つ出雲系文化との融合が想像できる。筑紫、日向系の南方系の文化と江南系の文化とは無縁とは考えられない。
北方系といわれる大陸北部からの流入した文化は、父権的な遊牧民族の文化と天上の神を信仰する天孫系の信仰と近い。
日本の起源は、前2500年頃の縄文時代にはじまり、その後東アジアからの絶え間のない影響を受けて、発展してきた。稲作は前3世紀末、板付遺跡に痕跡をとどめ、その後弥生文化の流入、銅剣、銅鉾、銅鐸が入ってきた。3世紀初、魏へ女王の使者が行き、古墳の壮大さから見ても日本において各地に有力王族がいたものと思われる。そして7世紀はじめ「天皇記」や「国記」が完成、その後「古事記」「日本書紀」が選録された。稲作文化の流入から数えて900年が経過している。正史といわれる「日本書紀」より前に書かれた「肥前国風土記」にヤマトタケルノミコトを「日本武尊」と記している。「日本」は聖徳太子以前から使われていたものと思われる。紀元前の孔子の言葉に「いっそ東方の九夷に住もうか」「帝は震の卦に出る。・・・万物は震に出る。震は東方である」と東方の日本にあこがれるような言葉を残している。秦の始皇帝(前259〜前210)は方士の徐福を「不死の薬を求める旅」に出した。日本は不死の国と思われていた。徐福伝説は日本各地数十ヶ所にある。徐福の見つけた不死の漢方薬は、青森のアイヌネギ、八丈島のアシタバ、京都のヨモギ、九節のショウブ、和歌山新宮の天台烏薬、佐賀のフロフキ等があり、今なお漢方薬として珍重されている。
聖徳太子は髄の皇帝煬帝に国書を送った。「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。つつがなきや・・・」この文書は煬帝を怒らせたようであるが、既に聖徳太子は周辺諸国の高句麗等とネットワークを構築し強力な国力を背景にこの書を送っている。隋はこのあと僅かに10年で滅亡している。聖徳太子は仏教の注釈書「三経義疏」をかいている。当時の中国でもこれ程の注釈書はない。
玄奘三蔵(三蔵法師664年没)の唯一の日本人弟子、道昭(629〜700)は遣唐使として入唐、三蔵の弟子となった。日本霊異記によると、三蔵は「道昭は日本へ帰り、多くの人を教化しようとしている。軽んじるな」と弟子達に言ったという。帰国に際し、仏舎利と経典を授けている。この道昭の弟子が東大寺建立の行基上人(668〜749)である。
「日本」という国名が使われたのは、大宝律令(701年施行)が初めてである。そして日本からの留学生井真成が36歳で734年に中国で死亡。国葬で送られ、官位を追贈、石碑がある。「姓は井、字は真成、国は日本と号す」と墓碑にある。数々の望郷の思いが記された碑である。
遣唐使として有名な阿倍仲麻呂は、717年に入唐。玄宗皇帝の秘書監、安南都護などをつとめ、死後従二品を追贈されている。李白や王維と親交厚く、752年帰国の途につくが、難破してそのまま中国へ引き返し、中国で永眠している。中国人に最も親しまれた日本人といわれている。
続日本紀に記されている大伴古麻呂(日本よりの使者)の753年の事件を記しておきたい。中国皇帝の前での席順についてである。東側に新羅、ペルシア、西側にチベット、日本と日本が末席であったのに反撥し、新羅と日本の席次を入替えさせた事件である。その当時新羅は属国、日本は遠方ではあるが、独立国で、ペルシア、チベットとも交流があった。当時既に日本には強力な国力が温存されていたのである。
遣唐使最澄と空海についても記しておきたい。最澄(767〜822)が天台宗国清寺の座守行満を訪れると、「待っていた。昔、智者大師が、私の死後200年、東国で天台宗が盛んになると遺言された。待っていたのだ。すべてを伝授しよう」
空海(774〜853)、青龍寺の恵果は、「待っていた、あなたの来るのを知っていた、後継者に任命する」そして「遍照金剛」の号をもらった。密教の本家が日本となった瞬間である。恵果は更に「私は死後、日本に生まれ、あなたの弟子になる」といったという。中国の貴重な仏典、仏具、仏画等は遣唐使やその後の日明貿易により、日本へもたらされ、仏教研究のメッカも日本へ移っていった。日本の黎明期には、多くの日本人が中国との交流を通して、独自の文化を構築していったのである。そのバックボーンが神道であり、仏教であり、儒教であり、農耕文化である。