2011年10月のアーカイブ

円高対策を急げ

10月31日
円高対策を急げ
10月27日NY外為市場で円相場は1ドル75円67銭の新高値をつけた。中堅、中小企業のみならず大企業にとっても影響は大きい。約8割の企業が円高による影響を受けると経産省より発表。深刻なのは、生産、研究開発の海外移転を行う予定の所が半分近くあり、海外よりの部品調達に踏み切る企業は半分を超えている。まさに空洞化が現実のものになりつつある。これは雇用に直接ひびいてくる。失業率は大幅に上昇するであろう。
円高の要因は、日本円が最も安全な通貨と見られている。更に日米金利差の縮小により、日本から米国への資金の流れが止まった。更に日本のデフレがある。デフレの時は物価が安くなり、輸出競争力も強くなる。そこへ国際投機筋といわれる連中がドル売ユーロ売、円買いを仕掛けてきている。
この円高への対応について経産省は政府へ「円売り介入」を求めているが、日本だけが世界を相手に円高是正に走ったとしても永続的な効果は期待できない。究極的な円高対策はまず円高差益の還元を奨励、指導することである。日本は食料の半分以上を輸入にたよっている。また資源の殆どを輸入にたよっている。円高メリットは非常に大きいはずである。
かっては輸出入のバランスは輸出が年間10兆円前後多かったが最近では輸入が増えてその差は1〜2兆円まで縮小してきている。また日本が海外に保有している対外純資産は2007年250兆円、現在では350兆円程度と予想されるのでこの資産からの収益分が年間20兆円程度である。その二つのトータルが円高の影響により、日本のマイナス勘定になる。1割の円高は(20+2兆円)×0.1=2.2兆円の受け取り分の減少になる。しかしその収益分は殆どが再投資に回っているのでそんなに深刻がる必要はない。要は円高還元を促して国内市場を活性化させることに尽きる。それと円高防止は一国の力では出来ない。TPPの加入を早め、仲間作りに尽力すべきであり、二国間自由貿易協定(FTA)を締結してどんどんサークルを広げていってもらいたい。円高還元対策もTPP、FTAへの加入も世界の常識である。

やる気、本気、根気

10月28日
やる気、本気、根気
仕事をする上で大切なこと。それは「やる気」があるかどうかである。「やる気」がすべての始まりである。
やる気の起きない時はあまりアクセクしない方がよい。やる気が出ない時はどうすればよいのだろうか。私は困った時は出来るだけ大きいメモ用紙を用意する。その白い紙に要因分析をしていくのである。メモだから何を書いてもよい。書いている内に考えがまとまってくる。少しづつ、やる気が出てくるのである。
物事を実行する時は「本気」を出す必要がある。「百獣の王ライオンはどんな獲物でも全力で当たる。」という。「簡単だ」と手抜きをすると後で大きな失敗につながっていく。正に真剣勝負の心構えを忘れないようにしたい。私はビジネスマンだ。背広は私の仕事着である。勝負時だと感じた時、脱いでいた背広を着て契約する。勝負をするのである。本気で取り組めばたとえ失敗に終わってもあまり気にならない。なぜなら全力投球をしたのだから悔いはないのだ。
私の人生で「根気」ほど大切な言葉はない。幼少の頃よく祖母に叱られた。「根気がない」と叱るのである。面白い事をしているといつまでも続けられる。好きな事も同じである。「根気がない」といわれたがその「根気」を人一倍持つことが出来たのは、仕事を好きになったからである。そうなると周りの人達が驚くほど根気が続くのである。

成長路線

10月27日
成長路線
民主党の掲げる成長路線とは何だったのか。まず医療分野、そして農業分野、再生可能エネルギー分野であった。すべて既得権でガチガチに守られた特殊な所である。そして強力な業界団体がいる。医師会や農協、電力業界、ガス業界などは、新規参入を絶対に許さない。それを成長分野にするというので、私達国民の一部が期待して民主党政権が生まれた。しかし数年が経過しているが、新しい政策は何一つ打ち出されていない。
農業の自由化、医療や介護への民間企業の進出の自由化、エネルギー分野での規制緩和など、やれば出来ることなのにそれが出来てこない。非効率なままである。
規制を緩和しなければならない。理想は規制の撤廃であるが、まずどんどん緩和していくことだ。そうすれば伸び続けている医療費は減少に転じることとなる。競争力がないといわれている農業は新規参入が盛んとなり、世界トップクラスの農業技術が更に強化され、自給自足体制も同時に整備されて行く。電力、ガスは論をまたない。自然エネルギーの買取価格を引き上げ、それを義務化するのである。既に作ってしまった原発を安易に止めてしまうだけではエネルギーコストを上昇させ、温暖化ガス削減を休止することになる。自殺行為である。
企業では体質強化のために直間比率を重視する。付加価値を高めるには間接部門の比率を下げなければならない。ギリシャや後進国では国家公務員の比率が異常に高い。これが国力を奪いその国の未来を消去してしまう。公務員給与の2割カットをマニフェストに掲げた民主党は、早々とその金看板を降ろし、公務員給与7.8%カットと言い出した。
国会議員の歳費を毎月50万円カットするとの自主返納は、9月で終了し、10月から、また満額支給である。
日本の未来に絶望した企業がどんどん海外へ避難していっている。
高コスト国家を見限った人々の逃避がはじまったのである。

権力

10月26日
権力
権力を握った者は、それを他人の為に使わなければならない。自分や、自分をとりまくグループの為に使ってはならない。護送船団方式といわれた時代がある。権力にすり寄って、自分達の団体への優遇措置を要求し、その特権を擁護しようとしたのである。
金融機関や鉄鋼業界などがその典型といわれていたが、グローバル時代に突入して、護送船団方式では企業を護れないことが判明し、規制が次と緩和されていった。
権力は天からの預かり物である。常に自戒し、自省する必要がある。日本の最高権力者は首相である。それがコロコロ変るというのは正に異常である。最近裏の権力者がいるという話題が出てくるようになった。暴露記事である。いずれにしても権力を預けられた人間は、そのパワーを自分達の保身に使ってはならない。それを国民全体のため、人類全体の為に使う義務がある。権力を欲しいままにした者は歴史が裁いてくれる。最近では民衆が裁く例が出だしている。

原発ナシで大丈夫?

10月25日
原発ナシで大丈夫?
年々地球の気温は上昇を続けている。石炭や石油の燃焼による発電でなく、原子力発電を稼動することにより、二酸化炭素の発生を押さえる発電方法が新興国で採用される動きが出てきた。しかし乍ら福島原発事故以来、原発アレルギーが日本中や世界中に伝播しだした。原発の安全性を高めて、太陽光熱発電や風力発電の高効率化を達成するまでの中継役という大切な役目を担うのが原発であった筈だ。
それが千年に一度という大津波の影響で原発が崩壊した。原発が自分で爆破したのではない。大津波の対策が甘かったのである。それが失敗の原因である。津波対策で防波堤をより高く、より強固にする彌縫策がとられているが、より根本的な「クローズド原発」への転換が必要であろう。
また放射能に対する知識が不足している。小、中、高、大学での授業の充実と同時に、大人に対しても「常識」の中身があまりに乏しいので教育が必要である。私達の地球上の生物はすべてのものが放射能をあびつづけているのである。銀河宇宙線をはじめ、太陽風や太陽フレアのもたらす高エネルギー粒子やバンアレン帯から落ちてくるものなどがある。また人工的に胸のX線写真(0.05ミリシーベルト/回)や胃カメラ透視(0.6ミリシーベルト/回)もある。
一般人線量限度は1〜5ミリシーベルト/年だがCTスキャンは6.9ミリシーベルト/回もある。東京〜NYC往復では0.19ミリシーベルトであるが、一人当たりの自然放射線の世界平均は年間2.4ミリシーベルトである。食物から0.3、宇宙から0.4、大地から0.5、吸入により1.2もある。ブラジルのガラパリの放射能は10ミリシーベルトもある。放射能は私達の体を常に通過している。もちろん痛くもかゆくもない。銀河系宇宙線は太古の昔から降り注いでおり、その条件下で生まれた地球上の生物は心配はない。但し航空会社のパイロットは1万m以上の高度で常時飛行しているので、年間1〜6ミリシーベルトの範囲内での勤務としている。但しこれは太陽の活動により、大きく変動することを知らねばならない。宇宙飛行士はあこがれの的であるが、大量の放射能を浴び続けており、非常に危険な仕事である。宇宙遊泳は特に危険で、即死の可能性すらある。NASAの基準では宇宙飛行士の許容量は1ヶ月250ミリシーベルト、年間500ミリシーベルトとしている。地上の基準は1ヶ月30、1年50ミリシーベルトと予測されている。現在の福島でのニュースの中で、あまりに小さい放射能の値について議論が起きているのは誤解のせいである。火祭りの木についた放射能賛否の報道は少し行き過ぎの感じがしてならない。

EUの影響

10月24日
EUの影響
ギリシャのデフォルトの危険からベルギー、フランス系のデクシア銀行の破綻が起きた。約10年前のアルゼンチンの債務不履行によるペソ暴落、激しいインフレ、銀行閉鎖、路上生活者急増を思い起こさせる。ギリシャに続いて危機が叫ばれているポルトガル、アイルランドや、油断できないスペインやイタリアなどの心配もある。
現代はグローバル時代となって世界中で起きることが、直ちに私達の生活に影響を与えてしまうのである。日本にいながら誰に聞いても「先が心配です、いい話が全然ありません。」と憂慮している。日本の財政の赤字は今年度末に約1,000兆円になる。GDPの約2倍、国家予算(一般会計、特別会計共)の約3.3倍の規模である。これを大きすぎて危険だと財務省は言っているが、国債を購入しているのは日本の金融機関が大半であるから急激なデフォルトの危険はない。外国の投資グループが保有している日本国債は外国政府系を合わせても10%にはとても及ばない。
ギリシャがEUから迫られているのは赤字削減であり、その為の公務員の大量カットである。EUの支援がなければ成立たないギリシャは財政支出を引き下げる約束をしているので失業した公務員のデモが激しくなっている。
短絡的な危機を叫ぶつもりはないが、日本も財政再建への確かな歩みを始めなければならない。それは波及効果の大きい財政出動であり、ムダな経費のカットである。民間の場合は3kのカットや人件費のカットが常識である。レイオフも行われるようになり、生涯雇用制度は崩壊し、退職金制度、企業健保、企業年金すら消滅の危機にある。公務員制度もまた問題になって来る日は近い。

人為的なミス

10月21日
人為的なミス
北極に大きなオゾンホールが出来ているとの報道があった。9カ国の共同研究チームが、今春北極に出来たというのである。北極でのオゾンホールの発見は初めてのことだ。今年は成層圏の異常低温が続き、そのため広範囲でオゾンが失われたという。成層圏は上空約15kmから50kmの間を指し、この中にオゾン層がある。失われたオゾンは約80%にも達したというのだ。紫外線をはじめ生物に悪影響を及ぼす放射能が地上に到達する。特に北半球のオゾンホールは人口密集地帯が近いだけに心配である。
このオゾンホールの出現を温室効果ガスの影響と見る人もいる。どんどん増え続ける二酸化炭素に対する規制を世界的なレベルで早急に行う必要がある。
原発アレルギーによって日本各地の原発は次々と運転休止に追い込まれているが、その理由があまりに稚拙である。原発を止めて火力発電に切り換えたり、分散型発電というので各工場などの非常用発電を稼動させることによって、二酸化炭素の発生が異常な勢いで増えている。北極のオゾンホールの原因追求を進めると同時に、二酸化炭素の増加を抑える努力を忘れてはならない。さもないと本当に「人為的なミス」によって、人類滅亡の引き金を引くことになりかねない。

能楽と京舞の片山家

10月20日
能楽と京舞の片山家
室町時代に観阿弥、世阿弥によって大成した能は、武士のたしなみとして普及した。徳川幕府が江戸に作られた時、能楽師は武士に準ずる地位を与えられ、家元は江戸詰を命じられた。片山家はそれ以来、京都の観世屋敷を含め関西の観世流の能楽師の取り締まりや演能の差配を任せられていた。天皇は京都におられたので「禁裏御能」と呼ばれる天皇主催の能への奉仕も片山家の仕事であった。
片山家から観世家へ養子に入った観世元滋(左近)は観世家の24世となった。左近は10世片山九郎右衛門の祖父の兄弟である。
京都には伝統の京舞がある。井上流と呼ぶ。六世片山九郎右衛門の妻が、三世井上八千代。八世片山九郎右衛門の妻が、四世井上八千代(井上愛子)。片山幽雪(九世九郎右衛門)の長女が五世八千代と、片山家は一つの家であり乍ら「能楽」「京舞」という二つの伝統芸能を受け継いでいる。私は片山幽雪の謡曲の手ほどきを受けたお陰で、四世井上八千代(人間国宝)の生前の京舞の踊りを親しく拝見する機会に恵まれた。同時にその孫の五世八千代の力強い京舞を見て、その差に圧倒された。その際である。十世九郎右衛門(当時は片山清司)の演能を同じ舞台で見て、能と舞のテーマの重複を知り、その成立過程に興味をそそられた。歌舞伎の世界も同じようにテーマの重複するものがある。江戸時代に、江戸と京都という二つの都市に集められたそれぞれの芸術家達が互いに影響して、よく似たテーマによる作品が生まれた結果であったのかと想像を逞しくしている。
私の身体の中にも古来の日本の伝統音楽のリズムが常に流れている。それは突然歩いている時に聞こえたり、能、舞、歌舞伎を鑑賞している時に同調したり、我が身と一体であることに気付く。演能を楽しんだ帰り道、天を仰ぐと今夜も十五夜の明月が美しい。

大徳寺瑞峯院

10月19日
大徳寺瑞峯院
大徳寺は京都御所の北にあり、茶道をはじめ伝統芸能との関係が深い。その寺域の中には数多くの塔頭があり、それぞれ行事がある。私が訪ねたのは塔頭の一つ、瑞峯院である。駒札に書かれた文章を読むと、ここは1535年(約480年前)九州の戦国大名大友宗麟によって建立された。開祖は徹岫宗九で、宗麟夫妻の菩提寺である。方丈、唐門表門は創建当時のもので重要文化財。方丈には後奈良天皇宸筆の「瑞峯院」の寺額がかかっている。内部の襖絵は見事な作品である。瑞峯の院名にちなんで朝鮮の金剛山を写した大作。庭園は独坐庭(方丈南庭)、茶庭(中庭)、閑眠庭(方丈北庭)の三面がある。枯山水の白砂が目に眩しい名園となっている。
この方丈で行われる演能を前に、しばし庭を見る時間を持つことが出来た。秋風が心地よい。おうすの接待もあり大いに楽しんだ。京都の文化遺産を活かした観光振興、地域活性化事業とのことであった。地域活性化に真剣に取り組んでいる私にとって、この寺院の方丈で体験する「観庭」「喫茶」「観能」は大変示唆に富んだものとなった。福井でも能舞台での演能はしばしば行われるが、寺院での開催はあまり経験したことがない。朝倉遺跡の唐門前での薪能は、天候に恵まれると圧巻であるが、雨になると全くダメになってしまう。福井には多くの有名な寺院があり、この瑞峯院に十分匹敵するところも多い。わざわざ高価な新しい能舞台を無理して作らなくても、寺院の方丈での演能の方がより身近な親しみを感じることが出来る。これは私にとって新しい発見であった。

通盛(能にみる平家物語)

10月18日
通盛(能にみる平家物語)
秋の一日京都大徳寺瑞峯院で演じられた能を見せていただいた。平通盛とその妻小宰相の局の最期の物語である。シテは今年はじめに片山九郎右衛門を襲名したばかりの片山清司さん。襲名後のシテ役を見るのは2回目であった。能舞台は通常正面席と舞台に向かって左側にある脇正面の席だけであるが、神社とか寺院で挙行される場合は三方に開けているケースが多い。大徳寺瑞峯院の主庭を望む舞台は畳敷きの両サイドだけで正面席は石庭への縁側である。私は通常では見られない角度である舞台に向かって右側の地謡の後方の席についた。目の前がワキ、ワキツレの席である。地謡方も手の届きそうな近さである。正式の能舞台と違ってより身近で、より迫力に富んだ能を楽しむことが出来た。薄暮に始まったので照明の暗さが幽玄の物語をなお更引き立ててくれた。特に九郎右衛門の熱演は頼もしく、父の幽雪師の風格にどんどん近付いてくるような気配を思わせてくれた。
私は30年余り前に幽雪師が片山博太郎と名乗っておられた頃、直接地謡の指導を受けたことがある。かって京都の三条河原町角の清水楽器店を経営していた母方の伯父から謡曲や能の面白さを聞かされた。私が岐阜青年会議所のメンバーの頃のことだ。岐阜ロータリークラブの先輩から観世流謡曲の指導を受けた。会の名を「みなもと会」と名付け、山中温泉のよしのや依緑園の能舞台を借りて楽しんだことがなつかしく思い出される。その後片山幽雪師の福井での出稽古の折、毎月手直しをして下さったが、仕事が忙しくなりもっぱら見物する側になってしまっている。岐阜の金華山の麓にある稲葉神社の社殿の中に「みなもと会」の奉納額がかかっておりそこに私の名も並べていただいている。
夜空にこだまする笛、小鼓、おおかわ、太鼓の響きと、地謡のリズムそしてシテの素晴らしい演技に酔いしれてしばし比世の憂さを忘れることが出来た。

同志社人の集い

10月17日
同志社人の集い
トヨタ自動車が、全国的に第5番目の販売チャンネルを募集すると発表したのは昭和53年、1978年のことだった。私は三谷商事の企画部長、商品本部長時代だった。そして福井県のトヨタビスタ店の候補となり新会社を設立、代表取締役専務となり、実質的な企業トップとして約5年間創業時の地盤作りを行った。車を売るのは人脈である。私は、岐阜時代(約10年間トップを勤めた)と同様に人脈を新しく築く為に同志社大学福井OB会の再興に努力した。再興後10年間は副支部長として先輩を支えた。当時福井県知事の夫人栗田英子さんが私と同年だったので大学と女子大学のOB,OGの合体を提案し、「同志社人の集い」を開催した。その時突然福井県の支部長になれと後輩達に押し上げられ、4年間の任期を勤め上げた。
「同志社人の集い」は好評で、大学からの総長、学長、女子大学長、校友会長等も驚かれる程活発な活動が出来た。その活動の頂点はオール同志社対オール明治のラグビー大会を福井で開催できたことだ。若いOB、OGの支援で1万5千人の観客を集め大成功であった。
トヨタ自動車販売の社長に豊田章一郎氏が就任され、製販合体があっという間に行われ、そして新会社トヨタ自動車の社長となられた。人脈作りに忙しかった私はトヨタディーラーの全国のオーナーを調べて、同志社卒を探した。そして多くの先輩がおられることを発見し、種々と指導をいただいた。今なおご指導を戴いている。
同志社英学校が京都の地に出来た時はまだ京都大学はなく卒業生は東京大学をめざした人もいる。早稲田の教授になった人もいる。1875年のことである。今年で創立136年となった。新島襄先生は福井へ何度も来られている。衆議院議長杉田定一(号鶉山)に大学設立の要旨を説いたり、募金への協力を依頼したり、信者宅での説教を行ったりと身体の休まる暇が無い程、精力的に歩き回っておられる。まだ汽車のない時代に全国を行脚された。その力の源泉を思うと、私は安逸な日々を送るわけにはいかなくなる。
同志社人の集いが全国に広がり、同志社グループの発展を見るにつけ、同志社に学んだことを誇りに思う。同志社大学の総合格付けは東京大学に続いて第2位で早稲田大学と同じだという。国際化、グローバル化の21世紀に最も発展する可能性を秘めているのが同志社人達である。世界を歩けば世界各地で活躍する同志社人達に会える。ブラボー同志社。創立200周年に向けて若い力の結集を期待したい。

同志社大学キャンパスフェスタ

10月14日
同志社大学キャンパスフェスタ
去る10月8日福井パレスホテルにおいて、同志社大学のキャンパスフェスタが開催された。八田英二学長をはじめ松岡敬副学長その他各学部長、主任教授など数多くの先生方を迎、盛大に挙行された。福井県など地元からは大学、女子大学OBや在学生、父母が出席し、入学希望者は北陸3県から集まった。地元企業のOBを代表して、私に講演をという話になり、「私の同志社」というテーマで講演をさせていただいた。
同志社大学での最高の思い出は、すばらしい「出会いの連続」である。入学してすぐ入会した「SCA」。キリスト教についてクリスチャンの友人達から多くのことを学ばしていただいた。その後「クラマ画会」に入会し、画家の卵達と芸術論、人生論を戦わせた。女子大学の「こぶし画会」の女性と結婚した友人が多い。そして最大の教えを受けたのは後に経済学部長や高崎市の新島学園長になられた小野高治教授である。卒業後も「おのが会」という先生と小野ゼミの先輩後輩をタテにつなぐ会を結成していただいた。この会は先生の死後も続いている。「おのが会は不滅です」という先生との約束を守って今でも残された
奥様や子供達との関係が続いている。
就職したのは福井市に本社がある三谷商事。貿易商社ということで入社したが、当時はバーター貿易の商社で国内セメント、石炭の販売が主力、社員100名余りの中小企業であった。小野高治先生がイエール大学へ留学される時いただいたのが「三通の就職用の推薦書と最初に就職した所を神が与えた天職と思って努力せよとの言葉、そして汽車は出て行く煙は残るの歌」であった。37年勤務して、三谷商事は売上、自己資本、社員数殆どすべての部門で福井県トップクラスの企業に成長した。同志社へ入る前に京都大学の魅力、また就職時に三菱商事への執着等があったが、それを乗り越えて自分の人生を歩んでこれたことに喜びを禁じ得ない。それは幕末に国禁を犯して脱国され、10年間アメリカで勉強し、帰国後は日本全国をまわって同志社大学設立運動を展開された校祖新島襄先生のおかげである。同志社の紳士的で、自由で、国際的な校風を全身に吸収し、「他人の為に生きることを無上の喜びとせよ」と教えていただき感謝は尽きない。

女性パワー

10月13日
なでしこジャパンがW杯優勝という快挙を成し遂げた。意外にも優勝してしまったという感もあったが、それだけになお受けた感動も大きかった。女性の海外進出が盛んである。私は25年前YFUというアメリカと日本の若者達の交換留学制度の世話役としてアメリカ人学生のホームステーを引き受けたり、日本人学生の選考にたずさわったことがある。
丁度10年間その大役を引き受けていたが、その頃から既に日本人学生は男子の希望者が少なく女子が圧倒的に多かった。
最近はその傾向がますます強くなっている。海外協力隊の女性比率は80%だ。海外旅行も女性比率が70%近いという。医師になる女性比率は30%をこえ、司法試験に合格する女性も30%になりつつある。私達の会社でも産休をとってまた会社へ復帰して活躍する女性が100%である。女性を暖かく受け入れる雰囲気が時代の風潮を敏感に先取りできたことを嬉しく思っている。中途採用の女性と、定時採用の女性と、パートとして入社した女性と、入社の動機や時機は異なるけれど、常に公平に活躍の場を用意している。それは女性パワーを信じているからである。

失敗の人生

10月12日
失敗の人生
多くの偉人伝を読んだ。全国各地の記念館を訪問した。そして多くの先輩達の人生航路の軌跡をたどってみた。そこで気がついた事がある。偉人とか理想の人物とかいわれている方は、殆ど失敗を重ねていることだ。失意の内に死亡しているケースすらある。死後かなり経過して評価された例も多い。それと夭逝も多い。短い人生でよくあれ程の大事業を成し遂げることが出来たものだと驚嘆させられる。
そんな経験の中からある真理をつかんだ気がする。それは「失敗を恐れる必要はない」ということだ。いやそれ以上に「失敗したら逆に喜べ」といってもよい。失敗は成功の一過程である。あきらめずに努力し続ければ必ず成功の扉にたどり着く。扉は自ら開くはずである。今度、東北大震災により、多くの方々の上に悲劇が訪れた。この苦悩に打ちひしがれてしまうのではなく、苦しみの中、悲しみの中から立ち上がって欲しい。
東北を歩き、多くの方々が元気を取り戻して努力しておられる姿を見て嬉しくなった。感動した。「艱難汝を玉にす」という言葉がある。私達もリーマンショックや東北大震災で大きな影響を受けているが、互いに連帯し、この苦難の時を乗り切っていかねばならない。  

常套語

10月11日
常套語
自然災害が起きる度に繰り返される言葉に「二度とこの様な災害が起きないように、、、」がある。しかしその言葉が終わるか終わらない後に、また同じような事故が起きる。また「二度とこういう事のないように、、、、」という言葉である。どう善意に解釈しても一時逃れの弥縫索にしか思えない。そして今回の3.11の時には新しい表現が生まれた。今度は「想定外」という言葉である。私は営業の第一線で働いているが、「断り」を湾曲に云う時に「考えておきます」を使われる事が多い。政治家は「善処します」と言うそうだ。その言葉を真に受けていると大変な思い違いをする。「わかりました」と言われた時でさえ、その表現で了承し前進できるのかどうか確認が必要である。「日本語は難しい」と外人の友人はよくいう。イエスかノーかがはっきりしないのである。このあたりに日本外交の弱さがひそんでいるのかも知れない。外交も営業も本質的には人と人との交渉である。1対1の格闘である。そこではあらゆる駆け引きが行われるのは当然である。対米外交、対中外交、対ロ外交、対北朝鮮外交、どれをとってみても私達から見ても物足りない事が多い。事なかれ主義、問題の先送り主義が通る時代でないことをしっかり認識すべき時である。常套語を使って逃げるのでなく主張すべきを大いに主張し、主導権を握った交渉を望みたい。

世界大恐慌

10月7日 世界大恐慌 1929年10月ニューヨーク証券取引所で株の暴落がはじまった。世界大恐慌の号砲であった。最近ではリーマンショックを引き起こしたアメリカのサブプライムローン問題が世界中に信用不安の嵐をもたらしたと私は考えている。それ以来世界景気は非常に不安定な状態となった。「恐慌」といわれる程の大きな経済の停滞は、まず、先行指数の株式暴落にはじまる。そして失業率の大きな上昇。それが信用不安を引き起こし、倒産激増、金融機関の経営ゆき詰まり、国家財政の破綻までいくのである。今回のギリシャ危機の各国の対応を見ていると、ギリシャの破綻の可能性が完全に払拭されたわけではない。来月にかけてこの1ヶ月の間にギリシャの命運が決まるのであろう。 そこで大切になってくるのが、世界大恐慌が起きてもビクともしないように準備をしっかりしておくことだ。企業はその為の手持ち資金を厚くしている。コストを削り、スリム化している。成長より安定安全に方向転換している。私達もとりあえず嵐に備えるための準備はしっかりしておく必要がある。1ドル50円とか、1ユーロ70円とか桁外れの円高が待っているという人もいる。

東北の旅

10月6日
東北の旅
福島県は3.11の大震災と大津波そして原発事故に見舞われた。自分達のための電力だけでなく、他の地域の人々の為の発電所が福島の人々の住む家も、土地も、仕事も奪ってしまった。東北3県をまわって福島県の惨状が印象に残った。私達と同じ原発県であり、県名のはじめに「福」の字がつくので、以前から親近感を持っていたのである。
野口英世が生まれたのは明治9年、猪苗代町である。教科書にも載った医学者であり、世界的な細菌学者であった。アメリカやデンマークで学び、ロックフェラー研究所の所員としてアフリカへの赴任の途中で病死。ノーベル賞候補に3回もなった経歴をもっており命を長らえておれば確実に、日本人初のノーベル賞学者だった。いわき市生まれの星一(星グループの創業者)は野口の親友で、若い頃から交流があった。
高村光太郎の妻となった智恵子は明治19年福島市の清酒花霞をつくる長沼酒造の長女として生まれた。日本女子大を出て青鞜社に入り、雑誌青鞜の初刊号などの表紙絵を描いている。高村光太郎と大正3年相思相愛の結婚をした。入籍は昭和7年智恵子発病の後である。貧困、周囲の無理解、中傷の中を必死に生き抜いた二人の最後の作品群、それは切り絵であった。ほぼ3年に亘ってつくられている。そして昭和13年光太郎に看取られながら肺結核で52年の生涯を閉じた。「智恵子抄」という日本を代表する青春の愛の詩集が発表されたのはずっと後のことである。
山川惣治は郡山市出身の漫画家である。無学であるが、紙芝居から漫画家の道に入り、戦後の少年少女を魅了する漫画で一躍有名になった。少年ケニアなど現在のアニメ時代の幕を開けた人物で、東京横浜で生活し、波乱の人生を送っている。みずみずしい原画は今でも十分ヤング達を夢中にするであろう。東北人の気質を研究してきたが、調べた人々の大半が「反権力」の側にいたこと、そして東北の生地から飛び出して広い世界で孤独な戦いをしたこと、そして2,3の例外を除くと赤貧といえる程の貧しさを克服して日本の歴史に残る偉業をなし遂げたのに気づかされた。肺結核が多くの有為の人々の命を縮めたことに驚かされると共に、短命にしてなおこれ程の功績を残された東北の人々に心から敬意を表したい。

東北を訪ねて

23年10月5日(水)
東北を訪ねて

東北を旅して感じるのは、土着でなく、遠くの別世界への飛躍である。これは私のDNA近江商人の末裔の血と似ている。だから気になる。戦後も東京へ集団就職する生徒や出稼ぎの大人達の集団があふれ上野駅は東北弁が飛び交う所であった。そして陸続きの東京よりも更に遠い北海道、樺太、朝鮮、満州そして南方の沖縄、台湾、アメリカまで広範囲の別世界へ飛躍していった東北人が多い。千葉卓三郎は宮城県栗原市出身で自由民権運動に挺身した。ギリシア正教に入信、各地を歴訪、結核で31歳で死亡したが彼の残した「五日市憲法草案」は戦後の「日本国憲法」にあまりによく似ていると驚嘆させられる先見性を持っていた。仙台市出身の岩崎卓爾は天文学者として東北大に進んだが中退後北海道気象台技手、そして東京へ上京、中央気象台技手となった。沖縄の八重山諸島へ渡り石垣気象台長となり、台風研究に一生を捧げている。同じく仙台出身の相馬黒光は新宿中村屋の芸術家サロンを開いた女傑である。明治女学校を出てクリスチャンとなり、エロシェンコを支援したり、インドの亡命者ラスビハリ・ボースを匿い、娘と結婚させた。インド独立運動を支援したのである。彼女の周りには数多くの芸術家が集い特に彫刻家萩原守衛に崇拝された。彫像がいまだに人々の感動を呼んでいる。東北の女性の強さと優しさを、あらわしているようだ。石巻市の出身の弁護士布施辰治は一生を弱者救済に捧げた人権弁護士である。戦前多く発生した入会権裁判では常に弱い者の味方となり数多くの入会権裁判の弁護を引き受けている。朝鮮の裁判でも現地の人々の味方をして強権に立ち向かい、戦後韓国から勲章をもらった数少ない功績者である。戦後は三鷹、松川事件の弁護を引き受け国家権力と相対した。明治大を出た骨太の人権弁護士で、官憲に反抗して入獄の経歴を持った偉人である。

東北三県を行く

23年10月4日(火)
東北三県を行く

大震災により大きなダメージを受けた東北三県を車でまわり各地を見て歩いた。歴史的に見ると東北は古くは縄文時代の繁栄が続いたが、その後大和朝廷からは域外の地としての差別を受け、長い間の抑圧の歴史を持っている。そして幕末には無理矢理に薩長閥によって朝敵にされ、明治時代は反薩長閥の気運が強かった。キリスト教の布教が進んだのもそんな歴史上の差別に対する反発のせいであったのかも知れない。
福井市からまっすぐ車で約9時間余り岩手県の北部へ入った。岩手の奥州市出身の後藤新平は関東大震災の復興院総裁を勤めた人物である。
復興院は関東大震災の26日後に設置され、5ヶ月で役割を果たして廃止されている。この処置の早さは政治の活力の差なのであろうか。
東北大震災の今、その彼の生地を訪れているのに不思議な縁を感じた。彼は医師であり、政治家であり、台湾の民生長官として台湾の開発や南満州の国土建設に大きな足跡を残している。奥州市の後藤新平記念館には東京の「帝都復興計画の見取図」が展示されている。そのスケールの大きさそして殆ど現在の東京の姿を描き切っている見取図には大変驚いた。
彼の信念は「自治」と「公共」の精神だといわれている。
東北人としての金田一京助は東大を出る前からアイヌ民族の叙事詩ユーカラに興味を抱き、アイヌ文化研究の先駆者となった。東北人は蝦夷即ちアイヌであると説きつづけたのは金田一が初めてである。北海道から樺太のすみずみまでアイヌ文化を追い続け、東大教授になったのは退官一年前というから、国文学者としては割合不遇だったといえよう。詩人の石川啄木は盛岡中学の後輩である。二人はお互いを許しあった生涯の友であったが金田一の妻は啄木のことを好かなかったという。赤貧の中で詩歌の世界を生き、結核によって啄木の一家はすべての人が死んでいった。
その上での金田一京助と石川啄木の友情が美しい。啄木のローマ字日記は圧巻である。
宮沢賢治(詩人)もまた岩手県人である。クリスチャンで盛岡中学から現岩手大学農学部を出た。教師をしながら詩を作った。独自の世界を作ったが彼もまた結核により若い生涯を閉じた。新渡戸稲造も政治家であり教育者であり、クリスチャンである。アメリカで活躍し、日本の教育界に多大な功績を残している。東北を歩くと震災の爪跡の大きさに圧倒されるがその復興を支える偉人達の姿が浮かぶのである。

またまた日本一

23年10月3日(月)
またまた日本一

福井県の小学生、中学生の学力は、常に全国でも上位をキープし、最近は男女共1位が多い。そのせいであろうか、県立図書館へ行くと生徒達が熱心に勉強している。私は会長に就任して以来1日1冊の読書を心がけている。文学書というよりは仕事柄経済に関するものや、哲学に関するものが多い。時には物理や化学、農学に関するものも読んでいる。専門外のものは殆ど県立図書館や市立図書館の蔵書を読ませてもらっている。そんな初秋を迎えた日に県立図書館に関するデータが図書館協会から発表された。福井県立図書館の入館者が全国第1位だという。しかも2003年度以降ずっと1位を続けているというのである。貸し出し冊数は昨年度2位だったが今年度はこれまた第1位になったとの事である。本を読む若者が減ってきたとなげく人が多いが、福井県人は読書好きが多い。親や先輩が読書をしておれば、子や孫、後輩達は必ず読書好きになるであろう。よい習慣を続けたいものだ。