2012年10月のアーカイブ

黄金の国ジパング

10月31日
黄金の国ジパング
15世紀以降東南アジア海域に世界中の商人が集まった。マルコポーロは日本へは来なかったが東方見聞録で日本を「黄金の国ジパング」と紹介している。当時の日本は金や銀の産出量が多く、海外との取引の中心は金、銀と世界中の珍しい文物との交換が行われた。
珍しい記録がある。ドイツ人のケンベル(1651―1716)が1690年から92年の間の日本に来て「日本誌」を書いている。江戸時代であるが引用する。
日本人は習俗、道徳、技芸、立居振舞の点で、世界のどこの民よりも優れている。国内の交易も盛んで、田畑は肥沃。頑健な体と豪胆な精神を持っている。生活必需品は豊富で、国内は永い平和が続いている。世界でも稀に見る「幸福な民」である。鎖国をし、一切の交流を断ち乍ら、国民が幸福を満喫する時代は他に例を見ない。
また明治初期に世界中を歴訪したイギリスの女流探検家イザベラバード(1831―1904)の「日本奥地紀行」も面白いので引用する。
南方に繁栄する米沢の町がある。北方には湯治客の多い赤湯があり、全くのエデンの園である。田畑は鍬で耕したというより、鉛筆で描いたように美しい。米・綿・とうもろこし・煙草・麻・藍・大豆・茄子・くるみ・水瓜・きゅうり・柿・杏・ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディアである。自力で栄えるこの豊かな大地は、これを耕作している人々が所有する。
美しさ、勤勉さ、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても美しい。豊かな農村である。

海洋国日本

10月30日
海洋国日本
地球の7割以上が海である。陸地は3割もない。そして最大のユーラシア大陸の周辺にも数多くの島々が存在する。大陸といわれる土地も、地球全体から見ると大きな島にすぎない。特に日本は6800ケ以上の島々から成立っている島国である。有史以来日本から世界へ雄飛していった数多くの私達の祖先は、現在地球の各地に定着し、活躍をしている。
日本人はどこから来たかという論争が古くから行われてきた。北方から来た、或いは南方から来た、朝鮮半島からきた、季節風に乗り、大陸から直接来たと各論がある。ところが日本から世界の海へ乗り出していった研究は少ない。
北方民族が漢民族を征服し、元を建国し、ヨーロッパにまで覇権を広げていた時代がある。その頃東南アジアの島々は東西交流の拠点として栄えていた。その後ヨーロッパ勢が競いあって世界中の国々を奪いあう植民地時代を迎えた。東インド会社を設立した彼等は、中国各地を占拠し日本にまでやってきた。インド以東で独立国として残った国は日本とタイそして清だけである。
日本は二度に及ぶ元の大軍を迎えうち、二度共元を全滅させるという幸運に恵まれた。日本海の荒波のおかげである。その後のヨーロッパ勢の進出に対しは鎖国で応じ、独立を守った。
現在の戦争のパターンは戦略核弾頭によるおどしと、通常兵器による局地戦、そしてテロによる反攻である。この戦争が世界各地でおきている。戦争を地上から失くすことが可能だと思った時期がある。第2次世界大戦が終った時だ。その時点での独立国家は世界中で僅か70ケ国であった。その後アジア諸国が宋主国より独立し、更にアフリカ各国がそれに続いた。
現在では194ケ国(国連未加入2ケ国を含む)をこえつつある。
日本は有史以前より海へ出た。更に隋や唐との交流があり、南方貿易は盛んで中国南部からの華僑に互して、東南アジア各地に日本人村が建設されていった。江戸時代の鎖国とヨーロッパ勢の進出により、そのまかれた種は大きく失われたが、東南アジア諸国は日本と同じ海洋国家であり、海に生きる人々である。戦前戦後の交流の歴史をふまえて、更にそのパイプを太くしていく努力が必要である。
21世紀はアジアの時代である。アジアの民と仲良くしていくことが最も重要である。アジア47ケ国のほとんどは日本と同じ島しょ国家、海洋国家であることを忘れてはならぬ。

Shan-gri-La

10月29日
Shan-gri-La
理想郷、桃源郷を表わす言葉はいろいろあるが、Shan-gri-Laはヒルトンの小説の中の仮空の理想郷である。同様の意味のArca-diaがある。これは古代ギリシア奥地の景勝地、理想郷・桃源郷をさす。もっと古くはEdenがある。人類の祖アダムとイブが住んだエデンの園をさす。私はヒマラヤの秘境ブータン王国が古くから理想郷・桃源郷と呼ばれていることに興味を持っていた。それは私達の会社を設立する時に企業理念として「喜びの種、幸せの種を蒔こう」を決定したからである。小さくてもいい、ささやかでもよい理想郷・桃源郷を創ることを目標にしたのである。
企業の存続には、成長と利益が必要である。そしてそれを可能にするのが、社会からの支持である。また近江商人道の三方よしの思想を更に敷衍し、「十方よし」を企業理念に明記した。これまた同じ目標である。東日本大震災がおき、大津波や東京電力の福島原発事故に日本中が深い悲しみと苦しみの渊に沈んでいる時、第5代ブータン国王ご夫妻が日本を訪れ、しかも東北を慰問していただいた。アメリカをはじめほとんどの外国人が東京から逃げ出し、訪日予定をすべてキャンセルした後に、ブータン国王ご夫妻の暖かい慰問に日本中が感謝した。私はその姿を見て、ブータン王国が真の理想郷・桃源郷であろうと確信した。行動なくして人生の意義はない。早速妻と二人でブータン王国を訪れた。そして私の確信が正しかったことを知った。時を同じくして福井県が幸福度日本一との評価を受けた。そこで真の幸福とは何かを追求する施設「ブータンミュージアム」を創り、それを更に学問的に分析して、世界中に平和と幸福の種を蒔く「幸福学会」を設立する運動をはじめた。地方発の学会であり、学際学的な学会であり、行動する学会である。多くの方々の参加を待っている。

寺院における能楽の夕べ

10月26日
寺院における能楽の夕べ
今年もまた京都、大徳寺、瑞峯院で「寺院における能楽公演」が施行された。久しぶりにすぐ目の前で片山九郎右衛門の演ずる「井筒」を鑑賞した。能舞台と違って1mと離れない至近距離である。朗々と響くシテ、ワキ、アイそして地謡はやし方が揮然一体となって目の前にある。正に室町時代の能がはじまった観阿弥世阿弥の頃へと溯ったおもむきである。文化庁の地域伝統文化活性化事業と京都府の支援を受けて既に三年目、三回目の開催となった。キリシタン大名の大友宗麟が大徳寺の中に建立した瑞峯院の方丈で行われたが、この方丈は、477年前に建てられた由緒あるもので枯山水の庭と共に私の好きな空間である。福井にも先人達の努力によって福井市に能舞台がある。そこで観世流や加賀の宝生流の演能を見る機会が少くない。朝倉遺跡での薪能も悪くないが、文化庁や県の支援を受けて、寺院での観能会の開催を提案したい。福井は人口割では神社仏閣の数では日本一であり、演能の可能な古寺古社にことかかない。福井県版「社寺における能楽公演」を観世流・宝生流の竟演で毎年開催することにしてはいかがであろうか。十年・百年と続く福井県の伝統文化遺産を守る事業として、大切に育てていくことが期待できよう。

うつ病

10月25日
うつ病
最近の風潮は世界中が不安にゆれている。問題の根は相互不信と我欲の追求、貧富差の拡大、失業問題、財政破綻など巾広い。宗教の違いや宗派の違いにからんで問題の解決が難しくなっているケースも多い。うつ病の原因はいろいろあり、自信喪失、失恋、目標や夢の消滅などが考えられる。私は「不安」を最大の原因と考えている。
では不安を解消する方法は何だろう。すぐに気付くのは家族の連帯であり、仲間の支援である。これ等連帯や支援があると、不安はひとりでに消えていく。そしてもう一つ、解消する方法がある。それは祈りである。神社やお寺へ参った経験は、すべての日本人が持っている。そして幼少の頃は神棚や仏壇の前で祖父母や両親、或いは神主や僧と共に手を合わせて神仏を拝んだ記憶がある筈だ。現代は「私は無宗教です」という日本のインテリ層が多いが、そんなことを外国でいうと馬鹿にされてしまう、無宗教者は人間として信じてもらえないのである。
「祈り」は不安解消に大いに役に立つ。私達が今日存在しているのは先祖のおかげである。目には見えないけれど先祖からのDNAは、私達の心身の中で生きている。その先祖あるいはその先の神仏への祈りが私達の不安を解消してくれる。うつ病は現代病である。個や孤の環境が生んだ現代病である。この解決策、治療法は「絆」を自覚させることに盡きる。

東嶋和子さん

10月24日
東嶋和子さん
ジャーナリストの肩書の名刺をもらった。才色兼備の和子さんの新養生訓の講話を聞いた。1時間半が長く感じられない。そして驚いたのは楚楚とした令人の博識とさわやかな弁説である。文芸春秋に新養生訓を連載していたとのことである。最近女性上位の時代が来たと感じることが多い。
IMF・世界銀行の総会が日本で先週開かれた。その世銀の元副総裁に西水三重子さんがいた。今も世界を舞台に大活躍中である。IMF専務理事のラガルドさんは白髪ではあるが年令を感じさせないパワーで諸問題の解決に努力している。女性の活躍が社会を変えていくのを予感させられる。
新養生訓では、人生を楽しくすごす7ケ条を教えられた。
禁煙、節酒、減塩、果物野菜の摂取、運動、適正体重保持、性交渉とのことである。貝原益軒の養生訓や、原始仏典のダンマパダの仏陀の教え「何事もほどほどに」、アランの「幸福論」まで言及された。最後は健康長寿の秘訣として、笑い、リラックス、温泉、身体を動かすことなどを教えられた。食物のよしあしの中で、日野原先生(100才現役)の主張と同様に、オリーブオイルの摂取をすすめられた。私も実は毎朝小さじ一杯のバージンオリーブオイルをカフェオーレに入れて飲んでいる。効用があると聞き、わが意を得たりと喜んだ。

中学生サミット

10月23日
中学生サミット
福井市内の公立中学校は全部で23校ある。大きい中学校は800人程の生徒がおり、小さいところは50人未満であり、その規模の落差の大きさにまず驚いた。朝9時半からはじまり、夕方の4時まで6時間半に及ぶ大イベントを私達のロータリークラブがサポートした。
参加中学生は各校の生徒会代表2名づつ、46名、そしてロータリアン20名、先生及市教育委員会30名など合計約100名が集まった。サミットのテーマはリニューアル中の「福井中央公園周辺の未来図」を描くことである。リーダーの心構えについてロータリアン3名から指導し、8グループにわかれて中央公園で弁当をとった。
みんなが成人した時に、この中央公園周辺がどのように変っていてほしいのかを頭におき乍ら現地を調査した。気持ちのよい秋の日ざしの中を6名の生徒と共に歩いてみて、その鋭い感性に驚いた。将来は人口減、少子高令社会の到来、北陸新幹線完成という背景を考え、種々なアイデアの提供があった。中心市街地活性化にとり組んでいる私にとって、このサミットは他人事ではない。中央公園周辺は旧福井城の遺構の中心部分である。出来る限りの復元を望んでいる。お堀と公園の間の道路の廃止、(同時に路上駐車場も廃止)、公園内の諸施設の充実、緑化の強化、市役所旧館の撤去などの意見も出た。理想パターンは県庁、市役所のよそへの移転と福井城跡公園の建設であろう。
今回のテーマの範囲に含まれなかった広大な順化小学校、旧日本専売公社敷地、福井城周辺の県、市関係の諸建物すべてを考慮に入れた新しい城跡公園を中心とした魅力あふれる県都デザインが望まれる。今回のイベントに参加し、自分の足で中学生と共に歩きまわり、多くの新しい発見があった。若い生徒達のすばらしい発想にも刺戦を受け、疲れを忘れる程の楽しい一日となった。

地域主権国家

10月22日
地域主権国家
民主党のマニフェストの一つが、明治以来続いてきた中央集権国家のシステムを変え、「地方分権へ移行しょう」というスローガンだった。地域主権国家の誕生である。国民は政官癒着や前例主義、事なかれ主義、難問題の先おくり体質などに怒りを感じていた。効率的で、目配りが十分に行きわたる地方分権を待ち望んでいたのである。残念乍ら実現の可能性は未だに小さく、国民の期待はうらぎられつつある。
地域の特徴を生かす道は残されていないのだろうか。
戦後の中央集権国家は全国一律の復興を実施してきた。地方の独特の資源、環境、歴史、文化は斟酌されず、どこへいっても同じ風景が広がることになってしまった。
国民が幸福を実感できる為の「国づくり」は、ムダを省き、プライマリーバランスをとり乍ら、地方分権への道を歩くことである。中央からこれを実現してくれるのを待つのでは、実現は不可能だ。地方から変えていくという発想こそ大切である。
現在は完全なネット社会である。不可能と思われることが、易々と実現できる時代となった。地方発の国づくりを期待して、私は日々微力を盡している。

旧暦

10月19日
旧暦
日本の暦は、明治5年までは、太陽暦と太陰暦を組みあわせ、太陰太陽暦が使われていた。現在の太陽暦が太陽のまわりを地球がまわる時間を1年とするのに対し、月が新月から次の新月になるまでを1ケ月とするのが太陰暦である。旧暦による日本人の生活は、季節の移ろいと共に濃密な自然とのかかわりの中にあった。そして一年を通して春夏秋冬の四季だけでなく、24の気がある。これを24節気という。そして更に72の候があり、これを72候という。
春には6つの節気があり、立春にはじまり穀雨におわる。夏も秋も冬も同じように立夏、立秋、立冬ではじまり、それぞれが6つの節気に分かれている。
72候は、24節気のそれぞれを3つの候にわけて作られている。初、次、末の3候に分かれている。そして72候は漢字でなく、文章で表されているのだ。春のはじめの立春の初候は「東風凍を解く」という。そして72候の最後、冬の大寒の末候は「鶏始めて乳す」でおわる。
この旧暦の72候と共に、季節の移ろいを楽しみ乍ら生活すると、今迄の何倍も楽しく、心がはずむ人生が待っている。人間の力で自然を克服するのではなく、自然の恩恵に感謝しながら、月との対話を通して花鳥風月との生活を謳歌したい。

ノーベル賞

10月18日
ノーベル賞
IPS細胞の研究により、京都大学の山中伸弥教授のノーベル賞受賞が決まった。前評判の高かった博士の受賞は、当然のことと誰もが祝福した。しかし医学も進歩したものだ。おそらく近未来に、IPS細胞から生まれるコピー人間の誕生が期待できるかも知れない。私は「幸福学」として、このIPS細胞を活用してほしいと熱望している。QOL(クオリティオブライフ)への医学的見地からのアプローチに大きな期待をかけているのだ。IPS細胞を活用して、人体の諸機能の欠落や減衰の補填を期待しているのである。補填による機能の回復は、測り知れない「幸福」の復活を生むと予測し、更なる期待をふくらませている。
湯川秀樹博士の受賞は、1949年私の中学入学の年であった。ノーベル賞の何たるかを知らずに、日本中がその受賞に沸いた。戦後復興の契機となった大事件であった。今回の受賞は社会を変革する意味で、更に大きな影響を私達にもたらしてくれることであろう。

無縁社会

10月17日
無縁社会
家族や友人や地域から孤立してしまう人がふえている。「地縁、血縁社会」だった日本は、今や単身家族が標準家族となってしまった。夫婦に子供二人が標準家族といわれていた十年前、二十年前でも、私の頭の中の家族像は、祖父母、父母、そして弟妹と私との七人家族だった。それが急に単身家族が最も多くなったというのである。何かが間違っている。どこで間違えてしまったのか。間違えたのは確かだ。人は支えあうことで人となる。共同で生きるから人間なのだ。孤の生活はストレスの魂をつくる。自分を生かすのではなく、自分を否定し、自信を失くさせ、殺してしまうことになりかねない。
無縁社会を作らないよう、小さなことを積み上げている。
作っては壊し、積んでは壊れる小さな行為に過ぎないが、出来る限りのことはやっておきたい。私の身のまわりの小さなことに過ぎないが、支えあう心だけは大切にしたい。

借家住い

10月16日
借家住い
私の幼年時代、借家住いをしている老婆がいた。1人暮しである。小さな石臼で残米をすりつぶし、のりを作っていた。当時の女性はすべて和服(着物)を着ていたので、汚れると糸を切り、元の布地にして、洗い、それをのりで上塗りして、乾すのである。そののりを1人で作って売っていた。そののりづくりを見ていて、よく生きていけるなと感じたものだ。上品な女性で、近所の観音堂や八幡神社へよくお参りをしていた。何をおがんでいるのか、長く時間をかけて祈る姿が、不思議に印象深かった。
終戦で外地から帰国した人達が借家に住んでいた。結核にかかり寝たきりになった帰還兵もいた。みんな貧しかったが向う三軒両隣りの仲間意識が強く、お互いに連帯感をしっかり持っていた。
拍子木をたたき金棒を引いて「火の用心、戸締り用心」と連呼して町内を夜8時頃に一巡するのである。その後「空の用心」がつけ加えられ、「火の用心、戸締り用心、空の用心」と呼ぶようになった。
今考えると、貧しかった頃の方が、みんなが連帯感を持ち、笑い声のたえない世の中だったような気がする。病気に苦しむ人の家へ、夕食を運ぶ隣人の姿が、決して少くはなかった時代であった。

悪しき個人主義

10月15日
悪しき個人主義
「我利我利亡者になるな」といったのは私の祖父だった。食糧難の戦後、畑から野菜を収穫し、それを自宅の前の川でよく洗わせられた。その野菜を近所の家々へ持っていけというのである。あの家は子だくさんだから倍の数をもらってもらへ。あそこは年寄り1人だから少しでよい。とれたての野菜を近所に一軒づつ配って歩いた。勿論タダである。いや「あげるのではなく、もらってもらえ」と教えられた。その数少い野菜が、どれ程の効果があったのかは、私は知らない。しかし祖父から学んだのは「世の為、人の為に生きよ」という素朴な教えである。町内のみんなが家族という思いである。乏しい物を共に分けあう麗しい隣人愛である。豊かになった今、私達に残っている礼節や慈愛の乏しさに悲しくなる。「くれくれもっとくれ」と叫ぶ人々を見ると悲しくなる。権利を主張する前に、まず義務を果しているの?とついつぶやいてしまう昨今である。

うつ病

10月12日
うつ病
うつ病の特徴を分析してみよう。
1. すべてのことが悲観的に見えてくる。
2. 過去にとらわれすぎる。
3. 視野が狭くなり、正しい認知が出来ない。
4. イエスかノーかのいずれかをはっきりしたがり、その中間の選択が出来ない。
5. 被害妄想のとりこになっていく。
6. 他人を信じられなくなる。
7. 自分のことだけを考える傾向が強くなる。
8. 広い視野の中での自分の相対化が困難になる。
現代病のうつ病が日本の社会で広がっているという。学校でも、職場でも、政治の世界でも、行政の世界でも、うつ病がまんえんしつつある。
うつ病は個人レベルでも広がると同時に、うつ病は国家レベルで広がっている。この特効薬を発見しなければ日本人も日本の国家も亡びてしまう。
特効薬は人と人とのつながりを信じること。直接対話を通して、暖かい人間関係を築き上げること。三世代同居の知恵を生かすこと。父性、母性を鮮明にし、家族愛を基礎とすること。世界は一つという理想の実現に努力すること。特効薬は目の前にある。その特効薬をみつけて、それを広く衆知徹底するために、NPO幸福の国を設立した。

国家財政危機

10月11日
国家財政危機
個人の家計も企業の会計も国家財政も基本は同じである。「入るをはかりて、出るを制する」である。日本の財政は一般会計を見ると、国債費(償還・利払を含む)は37%、社会保障費(医療・年金を含む)は34%と非常に大きいウエイトを占める。残りは僅かに29%しかない。特に問題が大きいのが高齢者関係費は一般会計の24%を占めている。そして年々これが急増していくのである。
この対策は早急に必要だ。まず出血(赤字国債)を止めること。その為の増税はやむを得まい。消費税の段階的な引上げは当然である。また巷間いわれている議員定数削減、参議院改革、公務員給与の引下げも当然行われるべきであろう。聖域などある筈はない。特定の人々に特例を認めるべきではない。江戸時代の武士や大名は率先して給与カットに甘んじ民の生命を守っていた事に気付いてもらいたい。
また年金をもらう人を少くし、年金負担金を払う人を多くする必要がある。65才支給を70才支給まで引上げていくのは無理だろうか。また年金負担金を払う人を多くするには、若者や女性の正規雇用促進だ。これは直ちに実現可能である。
また高齢者医療費をふやさない為の施設即ち病人を減らし、安価な薬品使用奨励である。また高齢者の生甲斐づくりが求められよう。
更に70才まで勤務できる職場を作る必要がある。これは正規雇用でなくともよい。たとえ僅かづつでも高齢者自身の努力が収入の道をつくり、社会貢献をつづけることで、自らの生甲斐を感じる道を歩いてもらいたい。要求する高齢者でなく、足るを知り、世の為人の為に役立つ人生を歩きたいと願っている高齢者を私は数多く知っている。
そんな高齢者を活用する日本社会を築き上げ、ジャパンモデルとして、今後先進国で次々と進む高齢化時代の範となりたいものである。危機がふくらんでいるEUの財政危機への範を示すことにもなろう。

表彰式を終えて

10月10日
表彰式を終えて
「みんなで幸福をかこう」というイベントをブータンミュージアムのプレイベントとして8月1日より開催した。そして応募者は400名以上の出展となり、9月30日に審査の結果、団体賞9組、個人賞は24人となり、表彰式を行った。台風前の雨の中を多数の入賞者の方々の出席をいただき賑やかに挙行できた。入賞者の方々には賞状と共に、福井駅前の有名店より協賛のお食事券を出していただいた。大変好評で新聞社の取材にも皆さんニコニコ顔で応待されていた。
書や絵をはじめ幅広い作品が集まり、「幸福」そのものの字や楽しい友達の顔をかいた絵など入賞作品はユニークなものが多かった。
日本墨書会西山隆産先生と、大本山永平寺宋清志先生との特別出品が会場に花を添えていただいたことは誠に有難かった。集まった人々に「幸福をつかむ秘訣」をご参考に配布させていただいたが、ブータンミュージアムへの来場者に幸福の切符としてさし上げたいと考えている。
ブータン王国へ入賞作品の一部を送ることに同意した方は「国際交流にお役立ち」いただくことになり、重ねて感謝したい。
11/17(土)18(日)に正式にオープンするまでは準備期間に入ることになる。このイベントは夏休みの好例行事として来年以降も継続していきたい。

日本の発電機は2種類

10月9日
日本の発電機は2種類
発電機は水力、火力、原子力に続いて風力や太陽光があるが、すべての発電機は2つの周波数に分かれている。二種類の発電機がこの狭い日本の国土の中に存在する。こんな国は日本だけだ。アメリカは60ヘルツ、ヨーロッパは50ヘルツ、日本だけが、60ヘルツと50ヘルツが混在している。1895年東京電灯(現東京電力)がドイツのAEG社より50ヘルツの交流発電機を輸入した。1897年大阪電灯(現関西電力)がアメリカGE社より60ヘルツの交流発電機を輸入し、日本海の糸魚川から太平洋の富士川まで、周波数の壁が完成してしまった。喜劇である。その為に東西での電力の融通が難しく、同じ国内で、片や電力不足、片や電力余剰となっても泣き笑いの状態がつづくことになる。こんな理不尽な現状は早急に解消する必要があると主張するのだが、莫大なコストが必要だと専門家はいう。世界は60ヘルツと50ヘルツの両方に分かれている。これを一本化する必要がある。その先鞢をつけるのは日本である。世界中が55ヘルツ発電に変れば世界のエネルギーは半分でこと足りる。電力の地球規模の融通が可能になるからだ。21世紀のエネルギー危機はこれで解消できる。
そして世界各地でおきている小っぽけな国粋主義や地域紛争やエネルギー争奪戦は影をひそめ、お互いの互恵関係を尊ぶ世界連邦の誕生につながっていく。電力の55ヘルツ発電への移行と、世界を結ぶ電力のネットワークの建設は日本からスタートしてはいかがであろうか。

ジャズでまちおこし

10月5日
ジャズでまちおこし
昭和の初期に日本へジャズが入ってきた。藤山一郎が日本語で戦前にジャズを歌っていたのを信じる人は少ない。戦後育ちの私達はアメリカ風に染め上げられて、ルイアームストロングのトランペットとつぶれを声で歌うジャズに酔いしれた。そのなつかしいジャズが、大阪の道頓堀に流れているとのこと。川船の上のジャズライブである。2011年からミナミジャズウォークとして定着。船上で40分間5曲のジャズの演奏が毎週行われている。客足は上々。近くのレストランが、自分の店でもジャズライブをやって盛り上げている。
福井の駅前アオッサの8階の吹抜け空間を利用して、ジャズの演奏会が行われ大変な人気を呼んだ。私の住むマンションのコミュニティルームで年1回のジャズコンサートを開いている。人気のイベントである。まちなかのどこかで、ジャズを開く機会があると、飛んでいくが、まだまだ少ない。ジャズバンドマンは福井に多い。金沢や岐阜からも呼べる。ジャズでまちおこしを真剣に考えてみる必要がありそうだ。そして成功の可能性が非常に高い。

3.11の日本人の為に祈るブータン人

10月4日
3.11の日本人の為に祈るブータン人
神社やお寺で私達は何を祈っているのか。ほとんどの人は自分に関することを祈るのが多い。合格祈願や健康長寿、事業の成功などが多い。家族のこと、自分の会社のこともあるであろう。しかし国家のこと、或いは全くの他人の為に祈る人は少ない。
ブータンを訪れて驚いたのは、自分の為に祈る人はいないと教えられた。そして昨年の3.11の日本の災害の復興の為に、ブータンの人々が東方の日本の方向に向かって被災者のために祈るというのである。そのことをさりげなくいったブータン人が私には神か仏に見えた。
ブータンの人々は信仰深い。仏教が国教として定着し、生活に深く入りこんでいる。観光スポットは山と川、森を除くとすべてが仏教施設である。仏と共に生きていると信じられている。来世を信じ、転回輪廻を信じて明るく生きているブータンの人々が、幸福だと考えているのに何の不思議があろうか。

文化遺産でまちおこし

10月3日
文化遺産でまちおこし
小浜市長と懇談した時ハッと気がついた。小浜は海の奈良といわれ、日本海に面した小さな市であり乍ら古い歴史と豊富な文化財をコンパクトに守り続けてきた。これ程魅力がギッシリつまった町は珍しい。しかも手あかのつかない状態で残っている。若狭自動車がいよいよ来年に完成すると、京都、大阪、神戸がますます近くなる。長浜、福井、金沢も近くなる。まちおこしのチャンスがやって来た。私は昨年から小浜の中心市街地で空地になっている「椿回廊跡」の再開発を提案している。まちなかに何を造ればよいのか。ニーズは何なのか。100年先は勿論のこと、1000年先までを見据えたプランが必要だ。

ブータンの森

10月2日
ブータンの森
ブータンはインド側の南の方は海抜200mの低い所から1000〜2000mの割合低い所までいろいろな地形であるが王立国営公園の他にワイルドライフサンクチュアウの指定を受けている熱帯ジャングル地帯が4ケ所ある。この植生は見ていないが、想像しただけで多くの樹種におおわれていることと思われる。
チベット側の北の方は標高6000m級のブータンヒマラヤ連邦がそびえ立ち、4000m以上のところは樹木はない。ヤクを主とする放牧地帯が広がっている。
私は首都ティンプーから、古都プナカまで急峻な曲りくねった山道を車で走った時、山一面の松林が山火事で焼けてしまっているのを見た。少年達のキャンプの火の不始末だろうという。
ブータンは松林が多い。松ポックリのとても大きい独特の松だ。特大の松ボックリは薪木になるので、昔から落ちた松ボックリ拾いが生活の一風景として定着しているようだ。この全山もえてしまった松林の再生のメドは立っているのかと質問してみたが確たる答はかえってこない。
今年の6月に古都プナカに近いワンデュポタン・ゾンが焼失した。ヤフーのニュースでその燃えている現場が全世界に流れ、非力な私ではあるが再建の手助けをせねばと思っている。そして同時に地震で大きなひびわれを起して立入禁止となっているパロ博物館の改修が気になっている。
国土の70%以上の森林率を維持することを国是としたブータンではあるが、急速に進む都市化、車両の激増、都市廃水の処理問題など難問をかかえているだけに森の維持がとても気になっている。
日本では植林に生命をかけている宮脇昭氏(国際生態学センター長、植物生態学者)は84才の今日までに、世界中で44万本以上の木を植えてきたとのことである。
常緑広葉樹のカシやクスノキが火災に強く根が深い。これ等の樹種がブータンの風土にあうかどうか自信はないが、新しい森の再生にぜひ取り組んでほしいと願っている。

次世代に残す

10月1日
次世代に残す
満70才を迎えた時、59才で創業した事業を、長男と次男に譲ることにした。その時私の胸に去来したのは、亡き祖父や父の姿であった。祖父から孫へ、親から子へと伝えてくれた血のつながりを次の世代へ渡せることの喜びと同時に、言葉にならぬ一抹の悲哀をも感じなかったといえばウソになる。今から5年前、その時の業続は絶好調、税引後の純利益も、目標の5億円に近付いていた。
翌年8月のサブプライムローン問題の予兆を感じ、早目のバトンタッチを決断したのだ。息子達の試練は続いた。サブプライムローンから更に1年後リーマンショックが襲い、円高とあいまって日本経済は残念乍ら沈滞してしまった。更に今はヨーロッパの全融危機が世界を暗くしている。
私は次世代に残すものは何が最も大切なのかをずっと考えつづけてきた。結論は金でなく、土地でなく、株券や証券でないことに気がついた。私が引継いだ財産は、三世代同居がもたらした信念であり、自信であり、自主自立の精神である。
「世の為、人の為」と口ぐせのように言われつづけた人間としての心の持ちようである。そして創業以来の私達の社是の第一は、「喜びの種、幸せの種を蒔こう」となった。ブータン王国の為政者たちが掲げている理想に非常に近いのを感じている。
幸福の追求が心の豊かさ、ゆとりを生み、世界平和につらなっていくことを信じている。地球環境の保全と諸民族融和をうながす「心の時代」を作り上げることを生涯の仕事と覚悟を決めている。