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友の死について
平成18年12月4日
○友の死について
「芥川賞を取るのだ」と言って、学生時代に、小説の構想について語り明かした友が死んだ。享年70歳。銀閣寺を少し南へ入った大きな農家風の二階に下宿していた。哲学の道といわれる疎水べりの道を歩いたこともある。二人共京都大学に「入らず」「入れず」彼は龍谷大学へ、私は同志社大学に入っていた。僧になる運命の彼と、商社に入ることになる私との間に、接点があったとすれば、それは「人生」についての議論である。「何のために生きるか」を話し合った。「人生の目的とは何か」「何を目指して生きるのか」を語り合った。若かった私達はお金、恋愛、地位、名誉等、ないない尽くしの中にあって、そのことについて真剣に話し合った。昭和30年、まだ戦後が色濃く残っていた。
それから50年余りがあっという間に過ぎた。彼は真宗の僧として人生を全うした。私は小さな会社を経営している。毎日朝礼で話をする。「生き方」についてである。あらゆる先輩達が言ったのは「人生とは苦しみの大海である」ということに尽きる。その「苦しみの大海」をどう乗り切っていくのか、明るく楽しく乗り切る方法は何かを話している。50年前に友人と交した話の内容とあまり変りはない。
2600年前に釈迦は「人生は苦なり」といい、徳川家康は「重き荷を負うて・・・」と言った。「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と言った林芙美子、「働けど働けど暮し楽にならざる、じっと手を見る」と詠んだ啄木、法然も親鸞も、ニーチェもトルストイもみな同じように「苦しみの人生」を語っている。そしてそこから脱却する道は、との問いに答えんとした。
「生き方」「考え方」「受け取り方」によって、人生は「苦しみの人生」から「喜びの人生」「幸せの人生」に変る。私は「十方よし」「利他の心」そして「感謝」から人生は変るのだといいたい。「有無同然」という釈迦の言葉に表わされるような、余り重要でない表層の現象や物事を、目的としてはならない。
人生の究極の目的は「生き抜くこと」である。「生き抜いて、永遠の幸せを掴む」ことである。誠に稀有の確率の中から生まれた命、与えられた命の尊さを思うべきである。そこから「十方よし」の生き方ができる。そこから「利他の心」が生まれる。そして「感謝感謝」の生活がひとりでに始まる。「苦しみの人生」を乗り切る自信が生まれるはずだ。
友の死にあたって貧しかったが、希望に燃えていた青春時代を思い起こしている。
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