私の履歴書

平成19年2月28日
○私の履歴書

 日本経済新聞に「私の履歴書」というコラムがある。有名な経済人、文化人など外国人も含めて連載で発表される「履歴書」である。もう数十年も続く大ヒット企画である。私は興味を持った人物に会いたい時は、この「私の履歴書」に書かれたものをまず捜す。本人の自作のものが殆んどなので、非常に親しみを感ずることが出来る。同時に、隠れたエピソードも豊富である。

 今ダイキン工業の井上礼之会長の履歴が連載中である。私と同窓である。一年先輩であるが、SCAというクラブ活動を行っていた私は学校の校内で、クラブの部室でしばしば逢っていたのを覚えている。
卒業と同時に私は三谷商事という商社に入り、石炭部へ配属になった。昭和34年1959年。もう石炭は斜陽産業といわれていた。工場のエネルギーは次々と石油に変っていった。「燃転」といわれる燃料転換が急速に進んでいたのである。暖房用の石炭需要は、国策もあり、まだ残っていたので冬場は忙しい。

 しかし夏場に仕事がない。そこで夏の仕事は何かないかと捜した。系列に福井製氷という関係会社があった。氷は売れないか。その時ひらめいたのは、当時最先端の冷房装置である。アメリカのGE製のウインドークーラー。それを大阪金属工業(現在のダイキン工業)で扱っていた。ダイキンの本職はエアコンといわれる5馬力〜10馬力の冷房装置が主力であった。この代理店を取った。ダイキンで1週間に亘る缶詰研修を受け、冷暖房設計士の認定証をもらい石炭と冷暖房の二足のワラジを履いた。

 ダイキンは創業家の山田稔社長の決断で住友金属工業の出資を受けられた。それから30年ほどの年月を経て三谷商事の専務取締役を退任、三谷設備の代表取締役になった。かつて石炭部時代に育てた冷暖房機課の後の姿である。そこで山田稔社長と再会、蓼科の別荘へ夫婦で招待していただいた。

 冬場の蓼科は誠に寒かった。しかしよい思い出をいただいた。社長交代で出会ったのが井上礼之現会長である。当時の井上礼之社長はその後関西経済同友会の代表幹事となられて同友会の会合でも何度か旧交を温めた。私がパーキングビジネスをやっているのを知って、ダイキンもパーキングに関係していると紹介を受けたが、まだ接点はない。

 山田会長、井上社長就任パーティの席上、山田会長と写した写真はよく取れている。その時山田会長は井上新社長を「気配りの人、誠心誠意の人」と評価されたのが印象に残っている。
日経新聞のコラムを読むと、自分の青春時代を思い起し感無量である。

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投稿者: jsb 日時: 2007年02月28日 09:00

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