戦争体験

平成19年11月8日
戦争体験

 1945年8月15日昭和天皇の玉音放送を聞いた。その時の日本人の殆んどすべては「戦争が終った」と感じた。「敗けた」と感じた人よりも「終った」と感じた人のほうが遥かに多かった。その後「敗戦」ではなく、「終戦」という呼び名が日本では定着していった。

 後になってよく考えてみるとポツダム宣言受諾、無条件降伏ということは間違いなく「敗戦」である。以来私は「敗戦」を使うことに決めている。

 1937年3月生まれの私は、敗戦の時、小学校3年生(当時は国民学校といった)であった。幼い記憶の中に、戦中、戦後の混乱の日々は生々しく残っている。

 華々しい大本営発表の戦果(校内放送で毎日聞かされる。日本軍の勝利を誇大にラジオで放送していた)の終るか終らないかの後で、敵機襲来(アメリカ軍の飛行機の襲撃)の警戒警報が鳴り出す。すぐ続いて空襲警報が鳴り出す。私達低学年生は、高等科のお兄さん達に手をひかれて防空壕まで命がけで走って逃げた。幸い私の住んでいた町は、不発弾が落ちただけで、被害は少なかった。しかしカネボウの監視塔にいた人が、機銃掃射で死んだ。その時、父は出張する為に長浜駅にいて、待合室のベンチの下にもぐりこんだという。祖父は、父を心配して布団を頭からかぶって出ていこうとして、母に必死で止められていた。真昼の惨事であった。

 来る日も、来る日も、昼となく夜となく、空襲におびえる日々が続いた。睡眠不足で精神的にも肉体的にもまいっていた。そのあげくの玉音放送であった。大人は全員泣いていた。私は「ああ、これで今夜からゆっくり眠れる」と思った。「敗戦」というものの実態を知らない子供の実感である。

 長ずるにつれて、戦記ものや引揚げ者の手記が次々と出版されだした。戦争の惨めさ、悲惨さを知るにつけ、私は「不戦の誓い」の思いを深めていった。「平和の尊さ」を子孫に伝えていくことが、戦争体験者の義務であり、責任である。私の蔵書の中に、戦争に関するものが多いのはそのせいである。命のある限り、「不戦」の旗を振り続けていく覚悟である。

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投稿者: jsb 日時: 2007年11月08日 09:00

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