明治維新 その一

平成21年8月5日
明治維新 その一

幕末から明治にかけて、「明治維新」といわれる約30年程の期間、日本は大きな変革の渦中にあった。その渦中にあって、福井県の果した役割は、非常に大きなものがあった。福井がキラリと輝いた30年である。ところが日本の歴史の中で、福井県の果した役割は、正しく評価されていない。その理由は、薩長閥、特に長州から嫌われていたのが一因である。熊本藩細川家に強力に頼み込んで、福井へ招き、福井の改革の指南役を勤めた横井小楠は、この時期を通して、松平春嶽の活躍を支えた。
熊本での横井小楠の評価と、福井での彼に対する評価は大きく違っている。私はこの評価の違いと、その落差の大きさに疑問を抱えながら横井小楠という人物を追い続けてきた。熊本での小楠は藩学とは相容れず常に自己の信ずる所を主張し、藩論と対立していた。請われて越前藩に招かれた後は、信ずる所を周囲に理解され、尊敬されたのである。そして小楠は、熊本では相手の意見を聞くよりも、自己を主張するのに急であったが、越前では、他人の意見を十分に聞いた上で、判断をしている。まるで別人の観があるほどである。
松平春嶽は幕末の政治の中心にいた。1862年一橋慶喜将軍補佐、春嶽政事総裁職につき、小楠を政治顧問とした。大目付岡部長常と懸命に幕政改革を推進。島津斎彬薩摩藩主とかつてはかった通り、公武合体がすすみ、1863年京都無血クーデター七卿落ちとなった。1864年京都守護職、その後朝廷より参預に任命された。更に征長軍総督におされたが辞退。その養子茂昭が副総督となり長州征伐。1866年一橋慶喜将軍に。大政奉還を、春嶽と山内容堂の提案で実現。王政復古実現。摂政、関白をはじめ幕府の政治組織解体、新たに三職が任命された。総裁に有栖川親王、議定に春嶽はじめ五藩主と朝廷側近三名、参与に岩倉具視と五藩より各3名ずつ、福井からは中根雪江、酒井十之丞、毛受洪、更に由利公正が就任。翌1868年江戸は東京となり、明治天皇即位、福井より青山貞、横井小楠が参与に就任。
春嶽の正妻は熊本の細川 斎護の娘であった。11代将軍家斎は伯父、12代将軍家慶はいとこ、長兄斎荘は尾張家12代藩主、次兄斎位は一橋家を継ぎ、兄慶寿も同じく一橋家を継いだ。弟慶頼は田安家を継ぎ将軍家茂の後見役、末弟慶蔵は尾張家13代藩主と徳川幕府の中心人物ばかりである。
また春嶽の子孫を見てみると、五女節子は養子茂昭の長男康荘夫人、六女里子は徳川慶喜の子徳川厚夫人、七女正子は長州毛利五郎夫人、八女千代子は三条実美の長男公美夫人、三男慶民は式部長官、宮内大臣、戦後宮内府長官、四男徳川義親は尾張家を継いだ。
1869年の官制改革で、福井藩は明治政府より一掃された。版籍奉還により、261名の大名は太政官から藩知事、福井は茂昭が就任、横井小楠暗殺、大名の中で春嶽1人が、ただ1人残り、民部卿、大蔵卿などを歴任した。
橋本左内(景岳)は藩医であったが、鈴木主税に引き立てられた。安政地震で死亡した水戸藩の藤田東湖が「天下の豪傑といえるのは鈴木主税と西郷隆盛だけ」といった程の人物であった。1848年に家老本多修理、中根雪江、鈴木主税が春嶽を輔け、その後橋本左内や横井小楠が登用された。左内は明道館学監心得となり、その後を村田氏寿(巳三郎、後の福井県の長官)が継いだ。

投稿者: jsb 日時: 2009年08月05日 10:01

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