謡曲について

平成18年5月31日
○謡曲について

 京都で学生生活を送っていた1955年頃に、伯父が北船岡の高台に住み、伯母と二人で謡曲と鼓三昧の生活をしていた。戦前から京都三条河原町の角地で「清水楽器店」を経営していたが、戦争が激しくなり、京都の老舗も次々と閉店、疎開していってしまった。しかし二人はお店を閉めず頑張りとおした。

 そして、戦災にもあわず、店も焼けず敗戦の日を迎えたにもかかわらず、急に「清水楽器店」をたたんで隠棲してしまった。理由は「諸行無常」「一夜にして人の心がこんなに変るのが怖しい」とのこと。同業の「十字屋楽器店」が洋楽器を扱ってドンドン発展していくのを見るにつけ、私は子供のない「清水楽器店」を親戚の誰かが継いで、日本中に広めていくことを夢見ていたが、廃業してしまって未だに昔日の姿はない。とに角、謡曲との出会いはその時が最初であった。「教えてやる」とはいわなかったが、二人の楽しそうな謡と小鼓を聞かされるのは決して嫌ではなかった。

 その後就職し、数年後、岐阜へ赴任し、そこで岐阜青年会議所に入会。岐阜ロータリークラブ員になっている青年会議所の先輩達と謡曲の会「みなとも会」を結成。先輩が先生で、私達が生徒で、ハカマのはき方から親しく教えていただいた。長浜に住んでいた私の母も1960年代に同じく観世流の会に入会し、古橋師に教えを受けていた。その後アメリカ留学から帰国した1975年頃、福井で片山博太郎師について謡曲を習いはじめた。以来30年、仕事に忙殺されてゆっくり研鑽する事は出来ず、もっぱら鑑賞側にまわって「お能」を楽しむことが何よりとなった。片山師はその後「九郎右衛門」を襲名され、日本古典芸能の頂点に立ってご活躍中である。能をこよなく愛された白洲正子さんと並んで観世の能を見たのも大分以前のこととなってしまった。

 久方ぶりに九郎右衛門先生の直面(面をつけない素顔)の演能を見て、至芸に感涙した。喜寿での初演「高野物狂」である。ご長男片山 清司さんの後援会発足と同時に、特別会員になり、年々のご成長ぶりに感服している。「恋重荷」のシテ。老醜と恋、難しい役を、いよいよ熟年の佳境に入った清司さんが見事に演じきって下さった。緑風の爽やかな京都観世会館での一日であった。帰福する途中、琵琶湖西岸を車で走りながら、雨にけぶる新緑の中、茂山千作師の「萩大名」の名演も併せて思い出し、笑いの尊さに改めて感謝したことである。

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投稿者: jsb 日時: 2006年05月31日 14:57

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