防災都市ふくい

平成21年1月30日
防災都市ふくい

私は福井市の生まれではない。縁あって今から50年前に福井市に本社がある商事会社の入社試験を受けにきた。生まれて初めて福井市の土を踏んだ。それ以来50年がたつ。福井生まれではないが、福井への執着心が人一倍強い。50年も深い関係が続いているとそれも当然である。福井を離れていた期間は、大阪に半年、岐阜に十年、東京周辺に5年、貿易部長として外国を歩いていた期間(留学を含めて)5年である。その間20年程であるが、毎月数回は福井本社への出張の打合せがあり、片時も福井を忘れたことがない。いやそれ以上に外部から福井を見る目を養うことができた。これは貴重な経験であった。
福井は63年前に戦災で焦土と化した。そして60年前また福井地震により2度目の壊滅の時を迎えた。更にその後の九頭竜川の洪水で全財産を消失した市民が多かった。その3重苦の中から立ち直り、復興に努力した先輩達の苦労は並大抵のものではなかったであろう。私が初めて福井を訪れた50年前はそんな復興が進んでいた頃である。熊谷太三郎市長の頃である。私は社内報の編集をまかされ、福井市中心部のビルの紹介を書いた記憶がある。福井人絹会館、福井放送会館、三谷商事ビル、国鉄福井駅ビル(民衆駅といわれた)だるまや百貨店、三上百貨店をはじめ、徐々にビルが立ち並びだした頃である。
その頃、冷暖房設備の販売施工の仕事を会社でスタートさせており、建築事務所をはじめ、建設関連の方々と話し合ったのは、火事や地震に強い防災都市の建設であった。ビルのオーナー(建設予定の方々)に強くすすめたのはこの「防災建築」の一点であった。あれから50年近く経過した今日、私達の夢はどの程度達成されたのであろうか。現状をつぶさに見てみると、残念乍ら夢とは程遠いことがわかる。
坂川前市長(県議当時から)の賛同も得て福井のまちを考える会「フェニックス研究会」を設立したのはもう4年以上前のことである。その研究会で、世界中の事例、日本中の事例を何度も何度も学習した。現地へも訪問した。そこから体験者も招待した。そして今えきまえを中心に福井市を防災都市に作りかえるお手伝いの仕事を始めている。
まず最初の事業は空地の活用であった。えきまえから片町周辺にかけて数十ヶ所の空地が低利用の状況におかれていた。この活性化に取り組んだ。「片町は面白い」というテーマを掲げて先頭に立って地主の方々の説得にあたった。
2年間の努力のあと、これを福井のえきまえにまで広げて「えきまえは面白い」というスローガンを掲げて各種のイベントを企画したり、ビルの改修、あるいは解体整備等を実施している。「アオッサ」の駐車場や「県営地下駐車場(愛称チカチュー)」を活用したえきまえ活性化の仕事である。
私達の小さな一歩と共に、福井駅前商店街の方々の活性化への取組が徐々に進んでいるように思われる。アーケードが斬新になり、路面が色舗装された。オブジェが置かれ、所々に長椅子がある。よく見ると少しずつ理想に近づいている。
再開発の事業、新幹線の工事が少しずつ進みつつあるのは誠に有難いことである。これからはいよいよ本番の当初の夢であった「防災都市」への回帰を始める必要がある。地震や火災にビクともしない安全安心都市の建設である。
今年こそ期待していたこれ等の永年の福井市民の夢が実現に近づくよう祈りたい。

投稿者: jsb 日時: 2009年01月30日 19:41

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