大樹

平成21年3月17日
大樹

巨木といわれる程の大きな樹は、近づくと一種独特の雰囲気を感じさせる。常緑樹の大木もいいが、私は落葉樹が好きだ。楢、栗、ブナ、栃、モミジ、カエデ・・・。
人間の一生は長くて100年程度であるが、巨木は500年、1000年を生きているものがある。しかし、落葉樹の葉は、年々歳々芽を出し、葉を出し、実を育て、枯れて、散っていく。一生が一年である。同じ木の枝に毎年異なった芽が同じような葉を作り、同じように育ちそして枯れていく。しかもそれが500年、1000年と同じやり方で続いていく。
人間についての一生を考えてみると、私達の誕生から死までのプロセスが、巨木に宿る芽、葉、実などのプロセスと酷似しているのに気付かされる。私達は自分の力で、自分の努力で、自分の人生を歩んでいるつもりでいるが、果してそうであろうか。よく考えてみると人間は一枚の葉に過ぎないのかもしれない。人間も精子と卵子の結合の時からDNAに刻み込まれたブログラム通りに成長し、やがて死を迎えるのかも知れない。
鶏の受精卵からヒヨコが生まれ、そして育っていくプロセスを見ていると、私達が母親の体内で胎児として育ち、そして誕生して成長していくのと酷似している。巨木の葉も、ヒヨコも、人間も、その体内に固有のDNAを持ち、そのDNAの命ずるままに成長しそして次世代にバトンタッチをしていくようである。
葉にとって、巨木は生命の母である。ヒヨコにとって、鶏は生命の母である。私達の生命の母は母親である。ただ巨木の生命力と鶏や母親の生命力(時間軸上のもの)には大差がある。そこに巨木といわれる大樹の神秘性が宿っている。巨木の森といわれる屋久島の縄文杉は7000年を生きているという。伊勢神宮内宮の森や、各地の鎮守の森を歩いても、白神山地を歩いても、吉野の大台ヶ原を歩いても、霊気を感ずるのは何故であろうか。何百年、何千年をいき続ける大樹の持つ生命力が私達を圧倒するのであろうか。大樹の発するフィトンチッドが私達に力を与えてくれるという人がいる。森林のマイナスイオンが精神にプラスの作用を与えてくれるという人もいる。私達日本人の祖先は、山岳信仰即ち森林信仰からスタートした民であった。そこに大樹への畏敬の念がおのずと生まれてくるのかも知れない。大樹は見るだけでもよい。そばへ寄ると更によい。木肌に触れると生命力をもらえるように思うのは私だけであろうか。 

投稿者: jsb 日時: 2009年03月17日 10:21

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