九重の天守閣

平成21年8月7日
九重の天守閣
福井市の中心市街地活性化の議論が年々高まりを見せてきた。全国一律の、特徴のない、顔の見えない小都会の街があちこちに出来ている現状を憂い、「福井らしさ」がはっきりわかるそんな街づくりを願っている。
歴史上で福井が脚光を浴びた時期が何度かある。そのような歴史の一ページを飾った時代の「遺跡や遺物」を捜して、その再現、復元などを検討してみるのも面白い。
例えば戦国時代から安土桃山時代にかけて、朝倉三代(五代でもよい)の栄華からその没落、そして柴田勝家の北ノ庄城の築城と勝家お市の方の最後と北ノ庄城爆破、三姉妹の救出とその後。そして福井城築城と結城秀康入城・・・。特に宣教師ルイス・フロイスが描写し、ローマへ報告した北ノ庄城の偉容(おそらく最も美しい城であったことと想像される)を再現することは意義ある事業であり、魅力的な事業であると思われる。この北ノ庄城を攻略した豊臣秀吉は、小早川隆景と毛利輝元に書状を送り「この北ノ庄城は、城中に矢蔵高く、天守九重に築く」と知らせている。信長の安土城の天守(五重七層)と比較しても優るとも劣らないものであった。
福井のまちづくりの事業を成功させる為に現存する全国の城の絵図面を集め、これをCGにおとして、「九重の天守閣」をCG上で再現してみたらどうであろうか。
また結城秀康を、1600年12月越前13郡68万石の大守として入城させ、北隣の加賀100万石に対峙させた徳川家康は、本丸と二の丸を自らが縄張りし、諸国大名の御手伝普請もあったといわれる城を築いた。工事は六年を要し、外観4重の天守は2段構成の天守台の上に立っていた。高さ37m余に及ぶ偉容は、徳川御家門筆頭の権威を象徴していた。この福井城の天守閣や本丸その他の復元図は既に作られている。
福井遺跡をそのままに保存することにも意義があるが、失われたものを再現し、かつての偉容を現代によみがえらせるのもこれまた魅力的な事業である。福井城は3つの橋の内、御廊下橋が復元された。隅櫓や残り2つの橋はまだこれからである。建物はすべてまだゼロ状態である。これから年月をかけ、議論を尽くしてすすめていくことになろうか?私は世界一美しい夢の城、「北ノ庄城」のCG化を夢見ている。

投稿者: jsb 日時: 2009年08月07日 09:56

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