新島襄と福井県

3月29日
新島襄と福井県
幕末に函館から脱国した新島襄はアメリカのアーモスト大学を卒業後、岩倉使節団の通訳兼案内人として、アメリカを本格的に理解する為の支援を行った。脱国してから一転新政府の最重要官僚達の指南役になったのである。1873年キリシタン禁制高札撤去、1874年帰国後、明治8年(1875年)同志社英学校、同志社女学校設立。
その7年後の1882年同志社大学設立運動を開始している。第2次の大学設立運動を再開したのは1887年で、同志社病院と看護学院を設立したがまたも病に倒れ1890年日本初の私立大学設立の夢かなわず逝去。同志社と福井ゆかりの横井小楠との関係は深い。横井小楠と森有礼の二人は、キリスト教徒と目されて暗殺された。日本近代史上稀な人物となった。その後明治時代を通じて、キリスト教は、文明開化のかけ声と共に盛んになった。日本の上流階級の子女達が、アメリカ留学を果している。
同志社英学校設立の立役者は新島襄と妻の八重そしてその兄山本覚馬、アメリカンボードのディビスであるが、会津藩、熊本藩、福井藩などの果した役割も重い。特に熊本は熊本バンドといわれる熊本英学校の生徒35名が入学。横井小楠ゆかりの人々でありその後同志社の総長を何人もがつとめている。小楠の長男の時雄が3代目、長女の夫海老名弾正が
8代目総長をつとめている。小楠の高弟徳富一敬の子、徳富蘇峰と徳富蘆花は同志社に入学、その後東京開成学校(後の東京大学)へ転校したが横井時雄等3名が復学している。東京開成学校の知育偏重を嫌ったとのことである。小楠は甥2人(横井左平太、太平)をアメリカに留学させている。会津藩との関係は山本覚馬、八重兄妹の縁である。明治維新後に薩長から朝敵とされた会津藩は、新島襄と共に宮城英学校を創立。1887年開校、校長新島襄、副校長を同志社より出した。富田鉄之助日銀副総裁(新島の生涯の友、後に総裁)と知事、理事長松平正直が東華学校と改称したが、5年後廃校となった。富田は杉田玄白の子孫杉田成郷の娘縫と結婚。これまた福井人である。

投稿者: jsb 日時: 2013年03月30日 13:09

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