1560年桶狭間の勝因は

平成18年3月8日
○『1560年桶狭間の勝因は』

 織田信長の命運を左右したのは、桶狭間での今川義元との合戦における大勝利といわれている。その勝因は「スピード」である。駿河、遠江、三河の太守今川義元は120万石の日本一の大大名。甲斐の武田、相模の北条とも婚姻による三国同盟が既に出来ていた。織田信長は尾張の20万石。今川義元の上洛軍は40,000人、迎え撃つ信長軍は2,500人。物量では大差がある。誰もが信長の敗北を確信していた。

 そこで信長は敵将一人を討ち取るスピード作戦を考案する。40,000人と2,500人を戦わせるのでなく、長く伸びた今川軍の隊列を横手から急襲し、500人対500人の戦いに持ち込んだ。敵の将軍が来る前に、今川義元の首をとった。戦いは僅か一刻(約2時間)で終わっている。織田信長の戦後の恩賞の第一は「今川義元の本陣が桶狭間山に向う、中島砦より攻めよう」との情報を提供し、進言した梁田政綱。次は今川義元に初太刀を入れた服部小平太、次は首級を上げた毛利新介。いかに信長が情報を重視し、今川義元一人に的を絞っていたかが分かる。

 その前に一つの前提がある。知多の村木砦を今川義元が築いて、織田方の水野信之の緒川城を孤立させた。桶狭間合戦の6年前のことである。1553年に信長が家督を継いだ翌年である。信長は兵力の劣勢を補う為に、隣国美濃より1,000人の将軍を義父斉藤道三に依頼し、居城を空にして全兵力を挙げて村木砦を急襲。僅か9時間の猛攻で勝利。翌日那古野へとって返した。そして美濃よりの将軍に戦勝報告し、すぐに美濃へ引き取らせている。その間、出陣より5日間の早業である。周囲が信長の留守を狙っていたが、誰も動くことが出来なかった。勝ち目少ない村木砦に辛勝した信長について「信長公記」は涙を流したと言っている。スピードによる勝利である。

 その次にもう一つの前提がある。桶狭間合戦の前年1559年のことである。今川義元出陣準備の進む中、信長は僅か80人の供を連れて上洛している。足利将軍義輝から尾張守護駐を授けられた。今川を迎え撃つ為の尾張内の統一を狙ったと考えられる。この時も80人という小勢ながら、半月余りも尾張を空にし、京を往復している。信長の最初の上洛であった。この行動の自由、スピード、実行力が桶狭間での勝利につながっている。電撃作戦が勝利につながるという確信を持ち続けた信長らしい戦略である。「時間を制する者が時代を制する」という新しい戦略に、私は非常な魅力を感じている。私の会社の社是にも「スピード」を重視することが、経営の真髄であると述べている。

↓ブログランキングへ応援お願いします。クリックお願いします。↓
blog


投稿者: jsb 日時: 2006年03月08日 09:11

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://119.245.185.34/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/559

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)