天正2年長浜城着工

平成18年3月9日
○『天正2年長浜城着工』

 天正2年(1574年)、近江の国、今浜において、日本初の都市作りがはじまった。織田信長から北近江12万石の大名に取り立てられた羽柴秀吉によって、平地に、人工的に作られた。日本一の琵琶湖岸に面し、町中を北国街道が通り、東山道にもほど近い。当時の水陸の交通の要衝である。

 都市作りの中心となった長浜城の外堀は、幅15間で、湖岸より船で乗入れが可能となっており、内堀は幅10間で、砂地を掘り下げて作られた。掘られた土砂は、地上に積み上げられ、平地を高くし、急峻な3丈の石垣の上に、3層の櫓で囲まれ、天守閣を持った城だ。

 西方は湖に面し、竹生島が眼前にかすみ、東面は峻麗な山容の伊吹山を望み、南面は船溜りを作り港とした。城の周辺には武家屋敷を配している。町並みは東側にひらけ、各町々は同業者がかたまって住み、それぞれ船町、呉服町、紺屋町などの職種別の名が付けられ、町年寄による自治が行われた。楽市楽座の信長の方針が忠実に実行され、長浜城完成と共に殷賑を極める町が誕生した。今浜は信長の一字をもらい「長浜」と改名。

 その後この長浜の城作り、町作りが、日本全国の模範となり、各地に平城を伴った同じような市街地が作られていった。その数は260にも及び、その間僅か50年間の出来事である。長浜城に次ぎ、信長は安土城を、秀吉は後に大坂城を、家康は江戸城を築き、城下町を整備したが、その原型は秀吉の作った長浜城を嚆矢とする。徳川時代に入り、長浜城は解体され、彦根城に移築され、井伊家歴代の居城となり、今日数少ない国宝の城となった。

 長浜の町民は秀吉の遺徳を偲び、町内に豊国神社を作り、十二基の豪華な曳山を作り、長浜祭を春秋に盛大に行っている。解体された長浜城は戦後長浜市民の熱い思いにより、再建され、楽市楽座の復元と共に、長浜市の観光の目玉となっている。

 一介の最下層の一市民から、天下人にまで登りつめた秀吉は、日本の歴史上稀有の存在であり、長浜市民の秀吉に対する身近な尊敬の念は消えることがない。秀吉の施した年貢免除の商人街への特典は、地域限定ではあるが、永く続き、近江商人発祥の源流となっていった。町民の町民による自治の風は、今なお長浜の町に色濃く残っている。

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投稿者: jsb 日時: 2006年03月09日 19:33

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