『継体天皇即位1500年祭が近づく』

平成18年5月19日
○『継体天皇即位1500年祭が近づく』

 ここは古墳群のまっただなかである。越前の古墳総数約4000基、前方後円墳81基、前方後方墳10基。その最大の手繰ヶ城山古墳は私の家の北方の山上にある。更に九頭竜川の北岸の六呂瀬山1号墳、3号墳がある。すべてAD400年以前の建造のもの。そして西北方には、古い年代別に見ていっても、泰遠寺山、石舟山、二本松山、鳥越山、三峰山と続く古墳がある。大規模な広域首長墳といわれる前方後円墳が、異状な程に密集している。その時代の越前では、それぞれが最大規模のものである。

 この古墳群の特長は、すべてが福井市足羽山産の笏谷石(凝灰岩)の刳抜式石棺を、墳丘主軸上の後円部に埋蔵している。そしてすべて小高い山頂に築かれている。埴輪、葺石、段築を持ち、数多くの優美な独特の副葬品が埋蔵されている。石棺は舟形石棺であり、時代が下ると棺床に排水溝(孔)が施されている。他の地方では全く見られない特長で、越前の文化の独自性を表わしている。この繁栄の理由は日本海を通じて、半島や北九州、山陰との交流を思わずにはいられない。

 現天皇家の直接の祖といわれる継体天皇の即位はAD507年といわれている。『日本書紀』、『古事記』その他の文献によれば、武烈天皇の死によって王統が絶え、応神天5世の孫、オオド王が河内国、現在の枚方市の樟葉宮(クズハノミヤ)にて即位している。そのオオド王を生んだ地が、ここ九頭竜川の岸、いくつもの山々に囲まれた古墳の地である。

 来年は2007年である。継体天皇即位1500年が各地で祝われることになろう。越前三河川(九頭竜川、日野川、足羽川)は三国港の手前で合流し、日本海へ注いでいる。この治水に大きな貢献をされ、尾張、近江、北陸そして淀川流域の勢力や物部氏、巨勢氏、秦氏、和珥氏等の支援の下、大伴金村の懇請に応じての即位であった。福井の伝統工芸といわれる和紙、漆器、陶磁器、鉄器の祖である継体天皇に、もう一度光をあてる絶好のチャンスが、来年に訪れる。

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投稿者: jsb 日時: 2006年05月19日 17:34

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