同志社大学と私

平成20年8月20日
同志社大学と私

 1955年4月同志社大学に入学した私は、親元を離れて京都という大都会に1人で住むということに大きな喜びを見出していた。まだ食料統制の時代で、外食券がなければ食堂に入ってもご飯が食べられない頃であった。急に義務教育になった中学校時代から先生をはじめまわりに京都大学出身の親戚が多く、大学は必ず京都大学しかないと教え込まれていった。転機は突然来た。同志社大学と同志社女子大学への推薦入学の誘いである。放送部にいた私と友人の女性と二人で、先生の熱心なすすめもあり応募。一次試験無条件でパス。あとは面接試験だけとなった。新島襄の伝記を読み感激。面接試験時に不用意に「あなたは他大学を受けますか」の質問にハイと答えた。ご丁寧にも「もしそこが受かればそこへ行きますか」の質問にもハイと答えた。結果は不合格。しかし教員室の黒板には麗々しく合格第1号、第2号と私達2人の名前が既に書かれていた。そして不合格の通知と共に、私の名だけ消されたのは当然である。そして私の脳裏に浮かんだのは学園紛争で荒れた京大のキャンパス、それに反して私を拒否した同志社の雰囲気。御所に隣接し、女子大に隣接し、キリスト教主義ということでエキゾチックな魅力を感じた同志社。何か因縁めいたものを感じた私は京大の受験と同時に同志社の二期試験を受けた。幸か不幸か、京大へ行かず、因縁を感じた同志社へ入った。

 新島襄にあこがれたのは彼の「無私の心」、「利他の心」である。その象徴に「自責の杖」がある。「良心の碑」がある。新島襄の生涯は「旅」の一言に尽きる。病弱の身であり乍ら、国禁を破って幕末に単身で脱国、アメリカへ渡った。神学校、アーモスト大学を卒業。日本よりの教育使節団の通訳を引受け、数々の便宜をはかり、同志社設立の時にその縁が生きることになる。その後日本へ帰国。同志社英学校設立。資金の確保の為日本全国はおろか、アメリカ、ヨーロッパまで行脚。日記を読むと、その精神力にはほとほと感服する。開校当時は授業はすべて英語でやったとある通り、私の在校時にも数多くの外人教師がおられ、独特の雰囲気の中で学生生活を送ることが出来た。仏教と神道しか知らなかった私は「SCA」というクリスチャンの集いに参加し、友人達や先生達から暖かい指導を受けた。下手な英語でも話せるようになれたのも同志社のお蔭である。それが後年のミシガン大学への留学の縁につながっていった。

 今度、同志社東京校友会から「校友訪問」という栄誉ある申出をいただき感激している。私の福井での校友会(OB会)活動は福井県副支部長、支部長、顧問と数十年が経過。若いOB達との交流を楽しんでいる。
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投稿者: jsb 日時: 2008年08月20日 09:00

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