長浜八幡宮

平成21年3月10日
長浜八幡宮 

旧長浜市の中心部にある長浜八幡宮は1069年(延久1年)源義家が、後三条天皇の勅願を受け、石清水八幡宮の分霊を迎えて祀ったといわれている。檜皮葺きの屋根の頂きに千木鰹木を備えた神明造りは、伊勢神宮に似ており、伊勢神宮の御饌殿(外宮にあり、毎日朝夕二回、天照大御神をはじめ内宮、外宮、別宮のすべての神々に調理した御神饌を奉る神事を行うところ)を譲り受けたとの伝がある。皇室や武将の尊崇篤く、足利義政、浅井長政、豊臣秀吉等から社殿、社宝の寄進を受けている。社域は町中にしては割合広く、東隣に弘法大師の開いた真言宗の寺、舎那院がある。明治まで別当寺として務めていたが、神域との境は殆んどないに等しく、同一敷地のように見える。社域全体が森の中にあり、その中を米川が流れている。
私の生まれた家はこの宮前町にあり、家の前をこの米川が流れている。八幡宮の森は少年時代の遊び場で、幼稚園もこの社域の中にあった。かつては私達の町内そのものが社域の中に含まれていたのであろう。未だにこのまわりの土地は八幡宮の所有である。
長浜と豊臣秀吉との因縁は浅からぬものがある。秀吉が生まれてはじめて城持ちになったのが長浜城であった。この城は徳川時代に壊され彦根城となったが、山城から平城それも水利を活用した城づくりの嚆矢となったものである。
秀吉は男子の誕生を喜び砂金を町民に与えて八幡宮の曳山祭を誕生させた。十二両の曳山(山車)は金、銀、ゴブラン織などの豪華な飾りを持ち、重文に指定されている。この祭りは日本三大曳山祭の一つで、重要無形民族文化財の指定を受けている。曳山の上で12歳未満の男子が演ずる子供歌舞伎が有名である。滋賀県は人口割でみると神社仏閣の数が日本一(福井県はその次)と多いが、戦乱の巷でなかったからであろうか。
八幡宮の社域の中にはいくつかの神社があり、稲荷社も作られた。この稲荷社は私の子供の頃にはなかったものだ。能舞台も拝殿の東側にあり、小学生の頃、全員で能や狂言を見学にきた記憶がある。曳山祭の浄瑠璃や能の謡曲を幼少の頃より聞いていたのが、記憶のどこかに残り、それが私の能や謡曲への興味につながっているのかも知れない。私の幼い頃の記憶は、太平洋戦争の思い出を含めて、長浜八幡宮をめぐるこの神域にかかわっているのである。主神は息長氏の祖、息長足姫尊と誉田別尊、そして足仲彦尊の三柱である。創建以来一千年が経過しようとしている。

投稿者: jsb 日時: 2009年03月10日 19:47

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