こしの国の都 

平成21年4月3日
こしの国の都 

京都は千年の都といわれ、約1200年前に平安京が造られた。奈良は1300年前の都であった。ところが若狭から越前にかけて「こしのくに」があり、その都が九頭竜川、足羽川、日野川の三大河川を含む現在の福井市周辺から越前市にかけての広大な領域にあった。今から遡ること約1500年以上前である。継体天皇を育んだ「越のくに」である。神代には「高志の国」といった。その後「道の口の国」と呼ばれ、更にくだって西暦691年に「越前の国」となった。約1300年前ごろである。越前の国から、718年に能登の国が分かれ、更に824年に加賀の国が分かれた。日本海側では越前の国のみが大国といわれていた。
こしの都千五百年物語を聞く機会があった。福井のキラリ会の3月例会のスピーカーに「こしの都文化事業実行委員会会長の三田村紘二氏」を迎えて、歓談の一夕を持ったのである。そこで「こしの国の都」がいかにすばらしいかを再認識することが出来た。資料から抜粋してみよう。
弥生時代から日本海沿岸は、日本文化の先進地帯であった。中国は前漢、新、後漢の時代があったが、その新の時代の王莽が作った銅貨(貨泉)は日本海沿岸各地で見つかっている。すでに弥生時代に中国と日本海沿岸地帯は交流が存在していたのである。また各地に鉄をつくる鍛冶炉跡や多くの鉄製品が見つか
っている。鉄の文化は日本海沿岸から始まっているのである。日本書紀の垂仁天皇二年の条に書かれているのは、「崇神天皇の代に意富加羅国(おほからのくに)の王子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が日本海をこえて、敦賀にきた」と伝えている。おお加羅国と
は、大邱市から釜山にかけての地域の中の一番大きい国である。その王子の名が「敦賀」の名となり、その子孫は今も福井に住んでおられる。
継体天皇母、振媛は、越前すなわち三国(坂井市)の出身である。日本書紀に登場する女性の中で、この振媛の美貌が最高位に賞でられている程の美人であった。三国の地は越の国の都を縦横に結ぶ三大河川の扇のかなめの地であり、かつては大きな潟を形成していたと思われる。九頭竜川を遡ると数多くの前方後円墳がある古墳群に達する。そこに二本松山古墳がある。私の住む山である。ここから銀製の冠、金銅製の冠が出土した。この山はまだ十分な調査が行われていないが、重大な発見が期待される山だと私は予測している。若狭町の十善の森古墳や、継体天皇の父、彦主人王ゆかりの滋賀県高島市の鴨稲荷山古墳からも冠が出土している。大和ではこの時代冠の出土はなく、6世紀後半の藤の木古墳の出土の金銅冠を最後とする。
朝鮮半島から、こしの国、そして大和へと続く「冠の道」を思わせる数百年にわたっての交流の証が、出土されてくる「冠」である。

投稿者: jsb 日時: 2009年04月03日 09:46

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://119.245.185.34/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1614

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)