こしの国の都


平成21年4月6日
こしの国の都

越前に五山あり。日野山(越前富士)、越智山、文殊山、吉野が嶽、部子山である。日野山周辺にある日野神社は、すべて継体天皇を祀る神社である。中平吹、荒谷、向新保、常久にある。日野山の「日」の名は「日の御子」の「日」に通じ、同時に「火」に通じる。製鉄業が行われていたことと強いかかわりを表わすものであろう。百済から日本海(当時は北つ海といった)をこえて三国、河野、敦賀の津へ続く海の道を通って「製鉄の技術」が早くから伝えられていたと思われる。
継体天皇の御代にはまだ記録する文字が十分でなく、歴史の真実は、古墳の発掘を待たねばならない。ところが大和は早くから開発がすすみ、発見や発掘がすすんできていた。「こしの都」の越前は、北陸高速道の工事により、次々と貴重な発見があり、今後の発掘に大きな期待がかかる。今迄発見された古墳群の分布を見ても、越前三川を中心とした扇状地の高所に密集しており、巨大前方後円墳の数多くの存在は「こしの都」を十分証明するものである。更に学術的な発掘や探求がすすむことを期待したい。
古事記によれば、越の国を「遠々し高志の国」とよんでいる。万葉集には「科離る越」「み雪降る越」とうたわれている。律令時代には北陸道は、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡の七ヶ国を含み、越前の国司が、各管内国司の治績を調査監督指揮する権限を持ち、道内唯一の大国であった。
織田信長の祖先ゆかりの織田町剱神社には神護景雲5年(770年)の梵鐘がある。国宝である。その銘文に「剱御子寺」と書かれている。そして境内から瓦が出土した。神宮寺の遺跡である。日本最古の神宮寺は宇佐八幡宮の弥勒寺といわれていたが、剱御子寺の方が古い。また敦賀の気比神宮の伝承によれば藤原武智麻呂が715年に神宮寺を建てたとの伝記がある。これが事実とすればこれまた宇佐八幡宮の神宮寺よりも少し古い。いずれにしても北九州と越前は古代より、日本の先進地域であったので、その事実を伝える事蹟である。こしの国は、「匠の都」といわれるほど、中国や朝鮮半島よりの文物の交流、人との交流が長い期間続いた。これは、地の利、水利のせいである。大和の比ではない。
和紙、漆器、陶磁器、鉄器、木工、織物、染色など、匠の技といわれる産業が越の国に根付き、しかも脈々と受け継がれて、今日まで続いているのは、特筆すべき事実である。
最後に音曲についても、田楽や神楽が各地に残っている。越前万歳は、国指定重要無形民族文化財の指定を受けている。三河や尾張、伊勢、伊予、秋田万歳よりも古い歴史を持ち、これまた現在に伝承され、生活の中に生き続けている。

投稿者: jsb 日時: 2009年04月06日 12:06

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