塩の道

平成21年8月19日
塩の道
越後の上杉謙信が甲斐の武田信玄の陣へ「塩を送った」故事が、「敵に塩を送る」という格言を生んだ。命をかけて戦い続け、生涯結着のつかなかった両雄の間に、武士として相手を尊敬し、「武士は相身たがい」の心で送ったのであろうか。武士道の鑑として高く評価された出来事である。そして日本海側から日本列島の中央部へ続く「塩の道」の存在を表わす一事でもある。
私は山梨県の南アルプス市に取引先があるので、福井から北陸自動車道にのり、上越自動車道、中央道を通りドライブをすることがある。約5時間ほどの快適なコースである。そして古来よりの「塩の道」を偲んで、感無量の思いを新たにする。
三国の塩は大野を経由して郡上八幡や高山へ運ばれた。九頭竜川を遡っていく川筋は、堰やダムのなかった時代には、山間部からの木材の運び出しに利用され、魚の下流への移動、又海からの溯上にも役立っていた。塩の道もこの川筋をたどる道であった。
若狭の塩は、「鯖街道」と呼ばれる道を通って、古くから京都や奈良へ送られた。鯖街道の由来は、「若狭の海で、夜漁火の下で鯖を釣る。これを塩でしめて、「小浜」から「九里半峠」を超え、「朽木谷」を抜け「途中」から「大原」「八瀬」を過ぎ、「出町柳」へ翌朝到る。そして都の台所といわれる「錦市場」で売りに出される。約100kmの道程である。海のない京都や近江の人々にとって塩や新鮮な海産物を運んでくれる命の道それが「塩の道 鯖街道」である。
また敦賀の塩も奈良、平安の昔より有名である。全国の塩の道が閉ざされた時、敦賀の塩の道だけが残っており、助かったといわれている。塩は直接、間接に摂取すると同時に、保存食用になくてはならないものであった。みそやしょうゆの調味料をはじめ、梅干、漬物など「塩」は生命の維持にどうしても欠かせないものであった。
私の子供の頃は「塩」は国の専売であった。近所の官許塩屋さんへ、ナベを持って、量り売りの塩を買いにいった記憶がある。かつて塩や砂糖は、食用油やお酒、お米と同様に、貴重品であった。僅か60年程前の日本のことである。

投稿者: jsb 日時: 2009年08月19日 09:05

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://119.245.185.34/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/1737

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)