ものの見方

平成22年4月19日
ものの見方

比較経済学が私の専門であるが、年と共に、日本の真の姿を究めたいという、身の程を知らぬ、大きな目標が気になるようになってきた。いわゆる「日本学」という前代未聞の領域が、私を誘惑するのである。日本人はどこからきたか、日本語の起源、日本人の知恵、日本文化の粋、日本の仏教、神仏習合、三十一文字、俳諧文化などなど。「日本」と表題のついた本をデータベース化すると、その数は大変大きなものになってしまう。そして「日本」の意味が、その本のテーマ、内容等の諸条件によって大きく変ってしまうことの分析も必要である。要は「日本学」とは未完の分野であり、その範囲は広大なのである。
白川静博士が70歳を過ぎてから生涯の大三部作の執筆にとりかかり、見事に完成され、90歳を過ぎてから文化勲章を受章されたことを思えば、日本学の一分野の一端を担う勇気を絞り出すのもあながち無謀ではあるまい。
日本人の「ものの見方」には、大きな特徴がある。まず第一の特徴は微視的で、細部にこだわるのである。この「見方」が、日本民族の集中力を生み、勤勉さを期せずして作り上げてきたのであろうか。外国人の巨視的で、全体をまず把えようとする見方とは正反対である。二つ目は自然との関係である。自然に溶け込む見方が強い。自然がまるで母のふところのように、自然に甘え、自然と共生する見方である。外国人の見る自然は克服すべきもの、戦う相手であるという見方と大きく異なっている。三つ目は日本人の島国根性といわれるもので、外国人のように巨大な大陸に住む人々の見方とは全く違った環境から生まれてくる見方である。個人の視点よりも、全体の見方を優先するのである。これは個人の意見を主張すること急な外国人とは違ってくる。その見方の根源は、日本人は法律よりも宗教的なものに拠っているが、外国人は法律や契約にこだわっている。感情的、叙情的な日本の見方に対して、外国は理知的、理論的な見方をする。
こんなに異なった見方をする日本人である。世界の端にいて、世界史の中では、あまり目立たなかった日本が、20世紀初頭には、列強の一員となり、軍部の独走によって周辺諸国に多大な被害を与えてしまった。これは日本人らしからぬ誤謬である。そして20世紀の後半は奇跡の復興を遂げた。この段階では日本人のものの見方が、日本人本来のものに戻ってきたのである。そして21世紀となった。私達はこれから世界のために何ができるのであろうか。その為にも、もう一度原点に帰って「日本」を深く掘り下げてみたいと思っている。

投稿者: jsb 日時: 2010年04月19日 11:20

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