阿呆と馬鹿

平成22年8月25日
阿呆と馬鹿

私は生まれも育ちも関西である。大学も京都、就職してからも任地は大阪と福井、30歳になるまでずっと関西で過した。
ところが高校まで一緒だった同級生で、東京の大学へ入った連中と、よく情報交換をした。一番印象に残っているのは言葉の壁である。関西人にとって「それでさあ、・・・でさあ」といわれるとなかなかついていくのは難しい。しかし私達は近江商人の末裔を自負しており、言葉の壁を乗り越えるのは早かった。
ただ一つ困ったことは「阿呆」と「馬鹿」の使い分けである。関西では「アホやなあ」とか「アホ」という言葉を連発する。それは相の手のようなもので「阿呆や馬鹿」とは無縁のものである。ところが関東では「バカ」という言葉が関西の「アホ」という言葉とほぼ同じ意味で使われるのである。
関西でアホの代りにバカを使うと完全なトラブルになる。同じように関東でバカの代りにアホを使うと大変だ。ニュアンスの違いは想像以上に大きい。私は「アホ」も「バカ」も意識して使わないことにしている。そのほうが無難である。
近江商人は言葉の壁を乗り越える天才といわれている。それは長い間、交通の要衝である琵琶湖の周辺で育ち、身内の殆どが、東京や京阪神で商売をしている環境の中にいると種々雑多な言葉を習得する機会があるのだ。
例えばスイスは小さな国であるが、テレビのチャンネルをまわすとフランス語、ドイツ語、イタリー語、ローマ語で話す放送局が出てくる。小さな国ではあるが、隣接するフランス、ドイツ、イタリーそして古いローマの言葉を、日常話しているのである。スイスなまりではあるが、完璧な会話ができる。だからスイス人は4ヶ国語を話せる人が多い。
音楽家の子供は、胎児の頃から、音楽を聞いているので、絶対音階を身につけて生まれてくるという。音楽家の子供は音楽家になる確率が高い。僧侶、能楽家などの場合も同様である。「言葉」とは、その意味で、誠に摩訶不思議なものであり、「言葉の力」の偉大さに驚くことが多い。

投稿者: jsb 日時: 2010年08月25日 10:54

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