2011年05月のアーカイブ

観光客が増えてきた

23年5月31日(火)
観光客が増えてきた

NHKの大河ドラマ「お江」が始まって、少しずつ観光客が増えてきた。柴田神社の参拝客が多い。宮司さんの話では前年比10倍以上とのこと。私達北ノ庄の者にとっても氏神様の人気は大変うれしいことである。「北ノ庄」という地酒を醸造している舟木酒造に依頼して1斗樽を6斗のこもかぶりを奉納し、柴田神社の繁栄と地元商店街の弥栄を祈念した。電車通りや北ノ庄通りを歩く観光客が今年に入って増えていたが、3.11以降少し少なくなってきた。最近ではまた夫婦連れの方々が多く見られるようになり、安心している。
外国からの観光客が激減しているとの報道もあるが、福井えきまえ周辺はあまり変化は見られない。外国への観光PRをやったらどうかという意見が多いが、日本人がぜひ行ってみたいと思えるような国内PRがまず望ましい。来て、見て、食べて、福井のよさに感動してもらえるような地域づくりを目指したい。

100年間の津波被害

23年5月30(月)
100年間の津波被害

過去百年間に亘り、大災害となった津波を引き起こした主な地震を調べてみた。1900年から現在まで
1.チリ 1960年M9.5 日本へも到達し3〜6mの津波を起こした。死者、行方不明者142人。
2.アメリカ アリューシャン海溝、プリンスウィリアム湾 1964年M9.2  アンカレッジなど3億ドル以上の被害が出た。
3.インドネシア スマトラ沖 2004年M9.1 死者28.3万人、この100年余りの間で津波による最大の死者を出した。インドネシア、インド、スリランカで大津波発生。
4.旧ソ連 カムチャッカ 1952年M9.0 死者2,300人。
5.エクアドル エクアドル沿岸 1906年M8.8。
6.アメリカ アリューシャン海溝、ラット諸島  1965年M8.7。
7.アメリカ アリューシャン海溝 アンドリアノフ諸島 1957年M8.6。
8.インドネシア スマトラ北部 2005年M8.6 僅か3ヶ月後に大地震 また死者1,313 人。
9.千島列島 1963年M8.5。
10.インドネシア バンダ海 1938年M8.5。
今回の東日本地震は2011年M9.0、死者行方不明者は2004年のスマトラ沖M9.1
の28.3万人に次ぐ2万数千人の方々である。
津波の発生のメカニズムの研究が進んでおり、今回の大災害は未然に防げるは
ずであったが、残念ながら想定外とのことである。今後は更に安全度を高めたものにしていく必要がある。100年間で最大のM9.5以上の大地震の発生を想定した対応策を早急に確立することが急務である。三陸沖の津波が日本では有名であるが、子孫の為に津波到達の石碑を建てておくことも望ましい。地震の巣があるのと同じ理屈で、津波も同じ地域をまた確実に襲ってくる。

数字を読む

23年5月27日(金)
数字を読む

「経営とは足し算と引き算である。そんなに難しいものではない。難しく考えるとダメだ。また掛け算や割り算だと考えると失敗する。」この言葉は私のロータリークラブ入会の推薦人永多外男氏(当時福井テレビ社長)からいただいた。
経営者の中には、この足し算と引き算すら出来ない人が多くいる。ついつい掛け算や割り算で夢を膨らませる夢想家も多い。「事業は三代にして成る」という有名な言葉もある。焦らず、休まず、怯まず、挑戦し続けることが大切である。59歳で創業した私にこの禁句であるはずの「焦り」がなかったといえばウソになる。しかし永年商社にいて、営業の第一線をかけ回り、数多くの子会社の設立からその育成を手掛けていただけに、経営の手法はいつか身についていたと思われる。その経営手法の最もたるものは「数字を読む」ことである。自社の数字だけでなく、ライバルの数字、業界の数字、日本経済の数字などを常に読む習慣をつけるのである。
数字は恐ろしい程に明確な明日を示してくれる。この術を見につければ経営は万全である。

メール法

23年5月26日(木)
メール法

戦前戦中の日本では尺貫法が主流であった。それがアメリカの進駐軍の主導でメートル法に統一され、今では尺貫法を知る人は少ない。しかし世界を歩いてみると、すべての国でメートル法が主流ではない。気温の表示をしている都市は多いが、アメリカでは摂氏でなく、華氏での表示である。ガソリンの販売はリッターでなくガロンであり、車のスピードはキロメーターでなくマイルである。電気の周波数が東京電力、東北電力、北海道電力が50サイクルで、中部電力以西はすべて60サイクルである。アメリカは南北とも60サイクル。韓国、台湾は60サイクル。しかし、中国、ヨーロッパは50サイクルである。
私は地球をネットワークする送電網(北韓36度線を中心として地球を一巡する主送電線とそこから南北に伸びる支線より成る)の建設を常に主張し、世界の電力不足を画期的に解決することを提案している。その為には50サイクルと60サイクルの周波数を55サイクルに統一することが必要となる。50サイクルを60サイクルに変換するには莫大な投資が必要になるが、55サイクルへの変換はそれ程難しくはない。
メートル法への統一は文化の違いがあり、長い年月を必要とするが、日本はそれも一夜にして成し遂げた経験がある。新しい55サイクル(仮称)の電気の誕生に期待している。いずれ近未来には易々と実現されていると思われるが、この36度線ネットワーク送電網の建設は、世界平和と、世界国家建設という人類の永遠の夢を実現する手段でもある。

遊行期

23年5月25日(水)
遊行期

古代のインドでは、人生を四期に分ける思想があった。この思想を現在の日本の年齢層に分けてみると次のようになる。そしてそれぞれの四期を中国風に呼び分けると、いかに人生を生きていくか、生き方が見えてくる。
 
古代インド 現在日本の年齢層 日本の呼び方 中国の呼び方 過し方
学生期  0歳〜25歳    青少年期    青春    身心を鍛え、学習する
家住期  25歳〜50歳    青年期     朱夏    一家を構え、子をつくる
林住期  50歳〜75歳    壮年期     白秋    社会に貢献、自分を見つめる
遊行期  75歳〜100歳    老年期     玄冬    死を悟り、幼に還る

この遊行期は五木寛之氏の本に詳細に論じられている。終戦の時朝鮮にいて困難な引揚げの中で母や妹を失くされたという悲惨な幼少年期をおくられている。私は少し年長であるが、共感を呼ぶ本が多い。遊行期に入る私達にとって、この本は一つの指針であり、多くの示唆をいただいた。
私の体験から考えると、75歳までは十分働ける体力も気力もある。定年を徐々に延長していけば老人医療問題も、年金問題も雨散霧消してしまう。共存共栄の社会とは、生涯現役であるべきだと確信している。温かい南の島で魚を釣ったり、ハンモックに寝そべっているのが理想の老後では決してない。遊行期までは現役を貫き、それ以後は「死を悟り、幼に還る日々」でありたい。

短歌と俳句

23年5月24日(火)
短歌と俳句

日本には短歌と俳句という極端に短い詩の伝統がある。韻はとても単調で、音の数あわせによる音数韻となっており、短歌は五七五七七の音の数から成っている。そして最後の七七を外して、五七五としたものが俳句である。大友家持によってまとめられた万葉集は、4500首の内、殆どが短歌である。
内容によって挽歌、相聞歌、雑歌に分類され更に問答、旅、四季、悲別、東歌などに分かれている。三十一文字(みそひともじ)という短い定形詩に、様々なものを表現しようとしたのである。万葉仮名という新しい文字を残してくれたこの短歌集は、表現のユニークさといい、内容のすばらしさといい、まさに世界に誇れる日本文化の華である。10世紀の初めから約500年の長い間に、天皇によって発行された勅撰和歌集が21集もある。20年毎に行われる伊勢神宮の遷宮式とよく似た間隔である。そして現代でも勅題によって、毎年宮中において歌会始が執り行われている。これは天皇が出される定題により、世界中の人々が三十一文字の定形詩を応募するもので、毎年選ばれた人々が、宮中に招かれ、古式にのっとって、歌会を行うのである。また天皇、皇后は折にふれて国民を慰問されるが、数多くの叙情詩を残されている。
短歌は日本国民と共にある、世界でも極めて稀な、持続性を持った文学である。私の母も「傘寿の祝い」として八十歳の時に、私や私の弟妹の寄金で短歌集を発行した。母の遺品であると同時にその生き様を伝えてくれる有難い私達への贈り物である。
俳句は更に短い。十七文字の五七五の短形詩である。短歌以上に日本人に広く親しまれている詩で、世界一短い詩として愛されている。

世界で一番清潔で安全で平和な町

23年5月23日(月)
世界で一番清潔で安全で平和な町

日本は同じ言語を話し、読み、書き、高い教育水準を保ち、みんなが基本的に平等だと感じ、同じ文化を共有してきたから、安全なまちとなった。日本は伝統の継承に注力し、本来の価値観を温存してきた。戦後急速に日本人に受け入れられてきた経済的合理性という考え方には、大きな問題点があるが、日本は日本の本質を見失ってはならない。世界は、それを期待しているのだ。
真面目で、静かで、礼儀正しく、威張らない日本人。自分のことよりチームワークを重視し、悪いことはしない。責任感が強い。自然とのすばらしい調和を作り上げ、勿体ない精神を色濃く残し、繊細な美を発見し、それを愛でる能力を持った日本人。自然との共生、自然エネルギーの利用を進める日本はきっと世界中にトップランナーとして受入れられていくだろう。歴史を紐解いてもう一度過去の日本を見直してみると、勇気が沸いてくる。
戦争の体験を語れる人がどんどん少なくなっていくのがとても心配だ。本や映像で戦争の悲惨さ、その復興の苦しみを残し、子孫が同じ過ちを犯さないことを祈りたい。
高見順(1907〜1965)の日記を読むと、東京大空襲の後、非難民でごった返す上野駅の情況と、中国で見た情況を比較して、彼は次のように言っている。「おとなしく、健気で、我慢強く、謙虚で沈着な日本人に、私の目に、いつか涙が沸いていた。私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った」
NYCに住むドナルド・キーンは、福島第一原発の事故で、日本を離れる外国人が多いのを見て、「私は今回高見と同じ気持」と新聞記者に語っている。キーンが「日本への永住を決めた」とのニュースほど私達を喜ばせたことは近来ない。高見順を尊敬する私は、キーンの本をもっともっと読みたいと思っている。

23年5月20日(金)
地酒百蔵

福井県に「ブランド大使」という制度がある。希望すれば誰でも「ブランド大使」になることができる。人口82万人の小さな福井県ではあるが、県民すべてが「ブランド大使」になると、福井県を日本中に、また世界中にPRすることができそうだ。そう思って「個人」「企業」それぞれ「ブランド大使」への就任をお勧めしている。
「ブランド大使」になって福井県の宝さがしの旅に出た。全県下の首長さんに直接お逢いして、その市や町の宝物を教えていただく旅である。そして各首長から、うちには老舗や二百年企業といえば「〇〇酒造さん」があるねと異口同音に名前が出てくる。そこで福井県の酒造組合に行き、調べたところ37蔵が現存しているという。そこで数軒の蔵元(代表者・社長)を尋ねて、話を聞き、地酒を買って帰って、飲んでみた。すべての蔵の地酒のおいしさに驚いた。今まで飲んでいた越の寒梅、上善如水や伏見、灘のお酒と比較して、私の好みにピッタリなのが福井の地酒だと気付かされた。
これ程すばらしい地酒を福井県民は勿論、観光客に知ってもらいたいと思い、福井駅前に「九頭龍・地酒百蔵」というPR拠点を創った。誰に頼まれたのでもない。自分で創って福井県の地酒のよさを広めたいと思ったからである。ハード面では店舗を作り、酒蔵の位置を示す地図(タテ1.8m×ヨコ3.6m)を作った。ソフト面では年数回の地酒巡りの旅を企画、実施している。また五百万石大名会という地酒の勉強会、地酒の応援団をつくり年4回開いている。来期(2011年7月〜2012年6月)には店舗の整備と共に、福井県の地酒を広く内外に紹介する「地酒百蔵」という本を出版したいと考えている。地酒ファンが増え、共に日本酒文化を楽しんで福井ライフを謳歌したいものである。


再び高見順

23年5月19日(木)
再び高見順

私が高見順の詩と出合ったのは、私の青春時代、今から50年も前のことだった。散文詩である。大学受験勉強の暇々に散文詩を作っていた私にとって、高見順の詩は光り輝いてみえた。戦中、戦後の激動の時代を生き抜いてきた彼の詩には、若者の魂を揺さぶる絶叫があった。その後出生のいきさつや福井県の三国町の生まれなどを知り、そして北鎌倉で本人と出合い、ますます興味を持つようになった。私は中学生時代から担任の中尾滋先生の影響を受け、文学に目覚めた。暇さえあれば本を読んだ。夏目漱石や島崎藤村、森鴎外など文学全集や岩波文庫がいつも身近にあった。太宰治や芥川龍之介も好きな作家であった。
最近の若者は高見順を知っているのだろうか。そう考えると不安になった。そして機会があれば若者に質問を始めた。「高見順知っている」「高見順の何が好き」「小説、詩、それともエッセイ」そして余り知られていないことに愕然とした。
高見順は、詩人であり、小説家であり、エッセイストであり、日本近代分学館の理事長(創設者)であり、第1回芥川賞候補の作家であり、文壇のリーダーでもあった。福井県ゆかりの作家の中でもダントツの作家である。その高見順を知らない人が福井に多いことは誠に残念だ。文学館や記念館は全国に数百あるといわれている。その殆どが赤字経営だという。しかしやり方次第で黒字転換することは不可能ではない。
高見順をはじめ、福井県には芥川賞、直木賞作家が多く輩出している。福井近代文化館を作り、長く顕彰していったらいかがであろうか。

タイムの花

23年5月18日
タイムの花

福井から大野に向うJR越美北線というローカル線がある。2005年の福井豪雨により、線路や鉄橋が流されて、堤防の決壊もあり、沿線に大きな被害を残した。その越美北線の復旧と地域の美化をかねて、地元の方々の協力により、線路の両側にハーブの一種である「タイム」が植えられた。そして毎年薄い紫系のピンクの花を咲かしている。
大野市の中荒井町と陽明町の間の約200mにわたって通行人の目を楽しませてくれる。ハーブは荒地に強い植物で、花は小さいがよくよく見るとそれぞれが美しい。花は小さいが群生しているので、全体としてとてもボリュームがあり、圧巻である。その花の上をわたる爽やかな風は、「タイム」の上品な香りをもたらし、春を十分に楽しませてくれる。
大野街道を走るとJRであれ、車であれ、必ず何かすばらしい発見がある。一度春の一日大野街道を走ることをおすすめしたい。

中古住宅流通が異常に低い

23年5月17日(火)
中古住宅流通が異常に低い

日本には「中古住宅流通」を促進する政策があるのだろうか。世界の中で日本だけが、「中古住宅流通」が異常に低い。全住宅流通(新築住宅+中古住宅)の中に中古住宅が占めるシェアは約14%しかない。アメリカは64%、イギリスは84%と高い。アメリカもイギリスも住宅市場とは、中古住宅市場を意味するのである。それに対して日本住宅市場とは、新築住宅市場を意味している。住宅の寿命の内外差も驚く程大きい。日本の住宅の平均寿命は27年である。先進国では最も短命である。ちなみにアメリカの住宅寿命は64年、イギリスは84年である。日本の2.4倍〜3.1倍も長い。
住宅は個人にとって最大の物的資産である。折角住宅取得しても27年の寿命しかないというのは誠に勿体ない。エネルギーの最大のムダ使いになっている。寿命が2倍に延長すれば、国内総固定資本の形成は今後大きく進展していくことになる。この指数も現在では日本は先進国中最低の14%(GOP比)にすぎない。フランスの32%、ドイツの29%、イギリスの21%、アメリカの19%に比べると日本の14%は余りに低い。
日本の住宅政策は敗戦後住宅不足が言われ続けてきて、新築住宅政策に偏りすぎてしまった。新築住宅中心の史上形成がはかられたのである。反面中古住宅市場は全く育成されようとしてこなかった。省エネ時代を迎えて、エネルギーの最大の消費をする新築住宅を、今まで通り作り続ける必要があるのだろうか。私は戦前の美風である修繕、改装を行ったり、新しく省エネ改善策等を行って新しい健全な中古住宅流通市場を育成することが急務だと考える。3.11以来のエネルギー危機を迎え、最も効率的で、最も資金を必要とせず、民活だけで行える。政策は新市場育成を誘導する施策だけでよい。

黄砂

23年5月16日(月)
黄砂

私のマンションは15階建の上層階にある。洗濯物をベランダに出すと黄砂がついて洗濯した甲斐がなくなる。仕方がないので浴室の乾燥システムで乾かすことにしている。ところがベランダの植木鉢の花木がすぐ黄変する。葉が黄色く枯れるので、調べてみると黄砂の影響である。
 永平寺の山間に建てた西洋風の輸入住宅の屋根は面積が大きく角度も急斜面で、いつも雨樋の掃除が大変だった。雨樋の中にヘドロがすぐ溜まるのだ。
 黄砂の成分分析をする必要があるように思う。それ程最近の黄砂は異常である。今回の3.11大災害により、空気中や土中或いは植物の表面に付着する放射能に対する異常な心配でマスコミは大騒ぎしているが、黄砂の分析をしたことはあるのだろうか。おそらくSOXやNOXで激しい汚染されているように思う。杞憂であればよいのだが。鹿児島の櫻島の噴火の時、灰が降り注いだ事がある。その時ワイシャツを干していたら、シミがあちこちについてとれなくなった。その後そのシミは穴となってしまった経験がある。これはSOXが原因であった。一度雨樋から採取したヘドロと、ベランダの植木鉢の花木の葉についた黄砂の成分分析をしてみようと思う。

地酒 梵

23年5月13日(金)
地酒 梵

先日鯖江市の酒蔵加藤吉平商店の加藤吉平蔵元を訪ねた。五百万石大名会についての打ち合せのためである。そこで山田錦(酒造好適米)礼讃の話を聞いた。五百万石と山田錦との比較である。地酒の品質にこだわり続けているとやはり山田錦にいってしまうのだとのこと。地酒の世界一を目指す「梵」の蔵元加藤社長ならではの話だ。もう一つ、「醸造アルコール」についてである。梵では醸造アルコールを一切使用していないとのこと。この理由は今は言うまい。私も「醸造アルコール」については「地酒研究」を始めた時から、種々の疑問を持っていたが、未だに混入の正確な理由をお客様に説明できなくて困っている。
 もう一つ、加藤社長の夢は、現在の酒蔵周辺を一大観光地化し、「地酒の里」づくりをしたいとのこと。そしてつつじ祭の西山公園、越前陶芸村などを結ぶ観光ルートの中心点になるとのこと。まさにわが意を得たりと私も大賛成。日本酒を学び、味わい、買える酒蔵を中心に、日本酒文化の里となるよう祈りたい。
 更に今回の3.11大災害支援のため渡米し、サンフランシスコでのチャリティオークションに参加し、義援金8万5千ドルが集まったとのこと。日本ガンバレコールが沸き上がり感激したと加藤社長。その行動力には頭が下がる。

キャデラックを救った男

23年5月12日(木)
キャデラックを救った男

1930年代世界大恐慌の頃、GMのキャデラック事業部門は、存続の危機にあり、まさに生産中止の決定が下されようとしていた。その時ニコラス・ドレイシュタットは、事業部門消滅の会議に出席し、10分間のスピーチの時間をもらった。彼はアフターサービス部長だった。「一年半でキャデラック事業部を立て直す計画」を提案します。キャデラックは黒人に売らないことになっていますが、サービスを受けに来るお客は殆ど黒人です。黒人はキャデラックに乗ることがステータスなのです。白人名義でプレミアム付で黒人の富裕層が買っているのです。だから売り方を変えれば必ず売れます。第二にキャデラックは手作りで高いコストがかかっていますが、大量生産方式に切替えることでコストを大幅に下げられます。人件費に金をかけずに、開発費や設備投資に金をかけましょう」。この提案が認められ、ドレイシュタットはキャデラック事業部門長に就任し、1934年黒字転換、1937年には閉鎖しかかっていたキャデラックは、GM社内で最高の利益を稼ぐ部門に成長した。まさに奇跡を呼んだ男である。その後最大のシボレー事業部長に転じ、GM社長目前で咽喉癌のため逝去した。
 ドレイシュタットは南ドイツの出身で、1911年13歳の時メルセデスベンツのレーシングチームの最年少修理士としてアメリカへ来た。学歴のない彼はキャデラックに入り、約30年働いて、アフターサービス部長に就任したのであった。彼は「キャデラックを救った男」としてGMの社歴の中で異彩を放っている。温かい人柄、人を愛し、人に愛され、面倒見のよい彼を慕う社員は、GMの全盛期を支えた人達であった。

幼稚園

23年5月11日(水)
幼稚園

かつて幼稚園を経営していたのはお寺が多かった。日曜学校はキリスト教会がやっていた。それがいつの間にか市営の幼稚園が増えてきた。そしてお寺が老人ホーム経営に乗り出してきた。少子高齢化時代をお寺が先取りしているようだ。巣鴨のとげぬき地蔵へ参ってみるとビックリする。場末であった巣鴨が高齢者の銀座になっている。観光バスもドンドン来ている。高齢化時代を先取りしている好例である。
 幼稚園の同年の友人が、小学、中学、高校と同じコースをたどり大学を出てからもずっと変らずに親しくおつきあいをしている。まさに竹馬の友である。そんな幼少からの友人が私の会社の役員に私を含めて5人いる。1人は最近遠方であることと健康上の理由で相談役になったが、残りの4人は取締役と監査役である。気心が知れていると甘えては許されない。みんなそうそうたるメンバーで、三菱化学副社長やカネボウ専務執行役、神戸大学教授、ベビーチャイルドボランタリーチェーン理事長などを歴任された日本財界のリーダーであった。毎月の取締役会で厳しい意見を吐露していただいており、友情に深く感謝している。
高齢化時代といわれているが、私達はすべてもう後期高齢者の仲間になりつつある。生涯現役を目指して一日一日を楽しく生き生きと働かせていただいている。

早起きは三文の得

23年5月10日(火)
早起きは三文の得

江戸時代に流行った言葉である。早起きをすることで三文を節約できるということで、あんどんの油代である。私は毎朝4時に起床し、読書をしたり、文章を書いたり、一日の予定を再確認したり約3時間を有効に使っている。前の夜の就寝が遅れると眠気を催し、中身の濃い時間にならない。
 毎日新聞の余録に「ベンジャミン・フランクリンが早寝早起きをパリ滞在中にパリ市民に推奨した」と紹介していた。その理由が江戸時代の油代と同じようにろうそく代の節約である。フランクリンは更に早起きが「健康、富、知恵」にプラスに働くと述べているそうである。一度彼の著書に確認してみよう。
 「健康」によいというのはすぐ肯定できる。夜遊びができなくなるからだ。夜の暴飲暴食は身体によくないのは誰でも知っている。「富」はどうだろう。一晩三文の得を一生続けるとかなりの金額になる。小銭をムダにしない人は大成するとよく言われている。私の会社は100円玉でビジネスを行っている。1日2,500万円の100円玉や1,000円札が集まってくる。年間100億円近い。100円を笑う人は100円に泣くはずである。社内では100円を笑う人間はいない。「知恵」はわかり難いが、実際に早起きをして昨日の難問題をもう一度考え直してみると、解決策が簡単に見つかることがある。朝は頭脳明晰というより、発想が前向きになる傾向があるのだ。
 首都圏の計画停電は困ったことではあるが、夜間電力料金は昼間の料金よりも遥かに安い。夜間料金の活用(早朝、深夜が安い)は真剣に議論する必要がある。

貝原益軒

23年5月9日(月)
貝原益軒

私達は健康長寿というと栄養や体力などをすぐ考えがちであるが、「養生訓」を書いた江戸中期の儒学者の貝原益軒は「欲を抑える」という精神面からの健康に言及している。四項、四寡、四要を述べている。四項とは四つの基本原則を指し、まず内欲を少なくする。外邪を防ぐ。ときどき勤労する。みだりに寝ない。四寡とは、思いを少なくし神を養う、欲を少なくして精を養う。飲食を少なくして胃腸を養う。嗜好を少なくすること。四要は暴怒を去る。思慮を少なくする。言葉を少なくする。嗜欲を少なくする。まさに予防医学の必要を説いている。
 現代医学でもこの予防活動に力を入れている。例えば長寿県として有名になってきた長野県は、1965年からこれに取組んでいる。減塩運動、一部屋暖房運動を県主導で注力し、保健指導員、食生活改善推進員などを増員し、医師だけでなく、医療前の指導する人を増やして全県的な運動を盛り上げてきたのだ。そして現在では男性長寿日本一、女性も上位を占めている。特に1当り医療費は大きく低下しており、永年の努力の賜物といえよう。
 医療費の際限ない上昇は、健康保険制度を危うくすると同時に、高齢者の急増により、高齢者医療負担増となって、重苦しい将来を予想させている。高齢者が被保護者として重荷になる社会でなく、65歳定年を過ぎ、年金を受け取る年齢になった時にも、働き続ける新しい社会の到来を信じている。貝原益軒の「養生訓」を読むと現代医学の方向性と全く同じなのに気付かざるを得ない。

森の記憶

23年5月6日(金)
森の記憶

幼少時代鎮守の森が私の遊び場であった。幼稚園から小学校、中学校そして高校もこの森を中心にした所にあった。B29の飛びかう中を森に作った防空壕に逃げこんだことが何度もあった。しかし森の中を流れる小川は、我が家の庭のようなものであり、広場は草野球など私達の遊び場であった。小高い山から竹スキーで雪の斜面をすべったこともある。芭蕉の句碑や石碑のまわりで鬼ごっこをしたことも昨日のように思い出す。嵐の日は森の中は恐ろしい。ごうごうと木がうなり出す。森には独特の香りがあり、心を癒してくれる。遊具などはなかったが、グローバーの上で祖母と弁当箱を広げていた幼い頃の思い出がよみがえる。
 それが原因だろうか、私がその後自分で住んだ住居はすべて森の中や森のすぐそばである。初めて自分の力で建てた岐阜の家は前一色山の中腹にあり、2階の窓からは、斉藤道三や織田信長の住んだ岐阜城が見えた。夜間照明を受けて金華山上に建つ岐阜城は心の支えであり、困難を乗り越えるよすがとなった。
北鎌倉の台峰の最上部にある家はある芥川賞作家の母が建てたものを購入した。ここは当時山中と言った感じの別荘であった。風が吹くと家のまわりの草木が風に靡いて押し寄せてくる感じが面白かった。屋敷に桜が数本あり、昔から近所の方々が花見に来るほど見事な桜だった。
外房に建てた三井不動産の別荘地ミレーニアの家は視界のすべてが森と山である。海岸の近くにあるので、台風などでは塩害で花木を傷めつけられるが、森の家で暮している幹事であった。
永平寺町のケヤキ台の家はこれまた高台にあり、町有地の斜面に接しているので、染井吉野をはじめ十数本の樹木を追加して植林し、森の中の家という雰囲気にした。
今は市内のマンションの上層階に住んで遠くの山々を眺めながら毎日を楽しんでいる。ベランダがさびしいと、石組や手洗鉢を入れ大きな植木鉢をたくさん並べて森の雰囲気をと思うが、これは何年かかっても無理なようで、毎週足羽山の原生林や越前海岸そして周辺の林道をドライブして満足している次第である。すぐそばに大自然があり、森の生活が出来るのがとてもうれしく気に入っている。

ケヤキ通り

23年5月2日(月)
ケヤキ通り

桜通りや足羽川堤そして足羽山の桜の季節がすぎた。今年の桜の開花は例年より遅く、例年より早く散った。三寒四温の日々の間隔が二寒二温の感じとなり、桜を楽しむ余裕がないうちに散ってしまった。
 東日本の災害のニュースに間に知暗く思い気持が続き、日本中が元気を失くしてしまったようだ。そして気がつくと目前にゴールデンウィークが近付いている。
 福井の中心部にはフェニックス通りのケヤキ並木がある。新緑が目にうれしく、爽やかな清々しい雰囲気を醸し出している。
 またJR福井駅東口にも道路の中央分離帯にケヤキがある。熊本の道路に植えられているケヤキは大木揃いであるが、福井のケヤキはまだ若木なので、それ程大きくはないが、樹勢はケヤキ独特の力強さを持っており、見ているだけで楽しくなる。
 都市の緑は貴重である。公園の緑、街路樹、邸宅の庭、そして神社や寺院の森は私達に自然の恵み、癒しを与えてくれる。
 マンションの窓から遠方を見ると、山々の緑が美しい。そしてあちこちの公園や大邸宅の木々が美しい。マンションのガーデンニングも早速活動を開始したようで、マンション全体が花園に囲まれているようで、楽しい気分にしてくれる。シンボルツリーのケヤキの元気が今一つなのが心配である。今年の夏は早く、そして暑いとの長期予測である。大木に育ったケヤキの下の緑陰で、暑さを凌げるのはいつの日であろうか。